「スフィンクスの侍」は「第二次幕末・遣欧使節団の池田隊」だった!   

みなさん、こんにちは。

これも面白いからついでにメモしておこう。以下のものである。
「これは凄すぎる」 日本の侍がスフィンクスの前で記念撮影していた事実に外国人驚愕 【海外騒然】

引用:https://redd.it/4cl1wj https://redd.it/ygwcq

スレッド「1864年にエジプトのスフィンクスの前で記念撮影する侍のグループ」より。幕末期、ヨーロッパを訪問した外交奉行の池田筑後守長発ら一行が途中エジプトを経由し、ギザのピラミッドを訪れた時の写真が海外で話題を集めていたので反応をまとめました。

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(海外の反応)

1No infomation万国アノニマスさん
1864年にエジプトのスフィンクスの前で記念撮影する侍のグループをご覧ください

2No infomation万国アノニマスさん
自分でも理由は分からないけど
これは今まで見た中で最もクールな写真かもしれない

↑Unknown万国アノニマスさん
SFに分類されないことは分かってるけど
それでもSF世界みたいな雰囲気があるよな

3No infomation万国アノニマスさん
歴史的に見るとサムライがスフィンクスの上に登ってるのに
俺らが同じことしたら不法侵入とか酔っぱらい扱いされる
まったく、何て時代なんだ

以下省略。

ちなみに現在のスフィンクスはこんな感じ。
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(足まで出ている)


どうやらこのサムライたちは、「第二次・幕末遣欧使節団」この時の人たちだった。以下のサイトにその時のエピソードがあった。
2008年2月23日 (土)
第二次・幕末遣欧使節団の珍道中~スフィンクスと侍

元治元年(1864年)2月23日、第二次幕末・遣欧使節団の池田隊が、エジプト国王を訪問しました。

・・・・・・・・・・・・・・

先日、幕末にヨーロッパに渡った「第一次遣欧使節団・竹内隊の珍道中」(1月22日参照>>)を書かせていただきましたが、その三年後に派遣された池田筑後守長発(ながおき)を団長とする、この第二次使節団も、第一次に負けず劣らずの珍道中をやらかしてくれています。

まずは、出発前から、この使節団の派遣自体に、賛否両論の嵐が吹き荒れます。

なんせ、この使節団の一番の目的は、「一旦開港した横浜港を、もう一度閉鎖する」という事をヨーロッパ諸国に認めてもらうための直談判という物・・・一度進み始めた情勢を、無理やり後戻りさせる話し合いで、しかも、もう、それは、ほぼ不可能である事を幕府も重々承知した上の格好だけの交渉なのです。

攘夷論(外国排除)をかかげていた幕府が、外国の勢力に押されて、すんなり開港してしまって、ちょっとかっこわるいところを見せてしまったのを拭い去り、「ちょっとは抵抗したんだゾ」的なポーズを見せておくためだけの、はなから不成功覚悟の派遣でした。

・・・とは言え、団長の池田は、まだまだ血気盛んな27歳・・・ある意味幕府の名誉を背負っての出国でした。

文久三年(1863年)12月、江戸を出発した池田長発以下34名は、上海・香港・セイロンなどを経由して、一路ヨーロッパに向かうのですが、この時の随行員の一人である青木梅蔵が、詳細な日記を記していて、その内容がとてもおもしろいのです。

彼らが乗った船がフランスの船だったため、当然の事ながら、食事はすべてフランス料理・・・彼らは、初めての洋食をなかなか受け入れる事ができません。

乗船して2~3日たった頃、池田が家臣も連れず、たった一人で青木の所に突然現れました。

この梅蔵という人は、理髪師だったという事なので、本来なら、お殿様には、直接話す事すらしてもらえないような低い身分の立場・・・そんな、自分の所へ供も連れずの訪問にも驚きますが、彼が驚いたのは、その見た目の変貌ぶりです。

「顔色は青ざめ、ひょろひょろと歩き、まるで死人のようだった」と書き残しています。

そんな池田が・・・
「せめて、お粥でも・・・と思うのだけど、家来たちまで、まるで死人のようで役に立たない・・・何とかしてくれへんか」
と、悲痛な叫び。

「こんな雲の上の人が自分を頼ってくれている・・・」
そう思うと、うれしくなって・・
「喜んで!」
とばかりに、日本から持ってきたお米を取り出しますが、肝心の水がない・・・

身体に命綱をくくりつけ、船べりから吊るされ、必死の思いで、海水を汲み上げ、なんとかその海水にてご飯を焚きます。

できあがったご飯は、普段なら、とてもじゃないが食べられるようなシロモノではなかったそうですが、何日も食べ物を口にしていない彼らにとっては、それこそ、待ちに待った米のメシ・・・、皆、大いに喜んで、飢えをしのいだという事です。

青木の日記は、まだまだ続きます。

ようやく、洋食にも慣れてきて、ナイフとフォークのあつかいもサマになってきた頃・・・ある日の食事の席で、通訳の塩田三郎が、隣に座った武士のミョウな臭いに気づきます。

その武士本人も、何やら、自分の手から変な臭いがする・・・これは何の臭いだろう?と不安げです。

はたと気づいた塩田・・・
「ひょっとして、君、今さっきトイレ行けへんかった?」
「ああ・・・今行ってきたとこや」
「・・・で、どこで手を洗った?」
「ちゃんと、手水場(ちょうずば)で洗ったで」
「手水場ぁ~?」

そう、以前このブログの「トイレの歴史」(11月10日参照>>)で書かせていただいたように、日本では、かなり古い時代からトイレの後には、手を洗う習慣があり、トイレの横には、必ず手を洗う場所=手水(ちょうず)がセットになっていたのです。

しかし、外国のトイレに手水は無いはず・・・

「いや、手水が無いなぁ~と思いながら、ふと見ると、棚の上にキレイな壷があったんで、中を覗くと、なんか濁った水が入っていて・・・けど、ほかに手水らしきモンは見当たらないし、みんながここで手を洗うから濁ってるのかなぁ・・・なんて思いながら、その水で洗ってきた」
と・・・。

・・・で、塩田は納得。
「外国では、その壷に小水を溜めてから捨てるんや」
と、その武士に教えてやると、その場にいた全員がガ~ン!

実は、日本人の全員が、今まで、「何かおかしい」と思いつつも、その壷を手水だと思って、そこで手を洗い続けていたのです。

もちろん、かの殿様も、日記を書いている青木自身も・・・

そんなこんなでスッタモンダした船旅も、やがて船はスエズ港に到着。

未だスエズ運河が建設中であったので、アデンの港から上陸し、今度は、汽車に乗って、一路エジプトはカイロへと向かうのですが、このカイロ行きの汽車の中でも、またまた下ネタの騒動が持ち上がります。

当時は、列車にトイレはついていませんから、途中途中で、ころあいを見計らっての停車=トイレ休憩が設けられていたのですが、当然、その事を知らない武士たち・・・。

その中の一人が、やにわに、大をもよおしてきてしまいます。
「カイロまで、どのくらいかかる?」
と聞いたところ、とてもじゃないが我慢できる時間では無かった・・・。

・・・で、青木の日記によると・・・
「車中にて、大便を山盛りに致せし人あり」
との事・・・山盛り(^o^;)・・・

しかし、考えようによっちゃぁ、山盛りできるほど、その時は食欲があったって事ですから、初めの頃のような食事の心配は無くなっていたという事で、ある意味安心しました~・・・ってそんな問題じゃぁないな。

まさか、外国の人に、日本人はトイレに行かず、そのへんで致す習慣がある・・・なんて思われてないでしょうね。

・・・と、心配を残しつつも、やっとの事でカイロに到着した池田隊長以下遣欧使節団ご一行様、元治元年(1864年)の2月23日、めでたく、エジプト国王と会見します。

そして、この5日後の2月28日、ご一行はピラミッドを見物するのです。

その時、撮影されたのが、この有名な『スフィンクスと侍』の写真。
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この中に、「車中で山盛り致せし人」がいるかと思うと、感慨もひとしおです。

いや、出物腫れ物ところ嫌わず・・・私も他人の事は言えません。
むしろ、「マーキングしてきたった・・・もう、かの地は俺のテリトリー」くらいの気持ちでいきましょうよ。

そして、この後、無事、パリに到着した池田隊の面々・・・ヨーロッパの文化を目の当たりにした団長・長発は、すっかり開国派になってしまうのですが、そのお話は、3月20日【池田団長が日本人で始めてした事は?】でどうぞ>>。


つまり、最初の写真の侍たちこそ、
元治元年(1864年)2月23日、第二次幕末・遣欧使節団の池田隊
だったのである。


いや〜、実に面白い。



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by kikidoblog2 | 2016-04-09 15:55 | アイラブとてつもない日本

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