杉田元宜著「物理学史」:「ファラデーが我が国に生まれたら番頭にビンタされたネ」   

みなさん、こんにちは。

最近、私がここで「杉田元宜博士の写真がないか?」と試しにメモして以来、たくさん杉田博士の古書を送ってくれたお寺さんが現れた。どうもありがとうございました。

その中の一つに
「物理学史」(杉田元宜著、昭和18年1943年山雅房)
というものがあった。もちろん、アマゾンにもない。

これは杉田元宜博士が、単に熱学の研究者だったばかりではなく、物理学全体に通じた知識を持ち、世界の物理学の歴史も本に書いていたことを示している。しかも戦時中にである。

私もこの本の存在はインターネットでも見たことも聞いたこともなかったから、まったく知らなかった。

この本の中で、マイケル・ファラデーのことが書かれていた。

それが実に面白い表現だから、一応ここにもメモしておこう。以下のものである。
8. 科学と個性

ファラデーがもし日本に生まれていたとすると番頭さんからひっぱたかれる位が関の山だったかもしれない。さすがは大英帝国くさっても鯛という所だが、当時は鯛は鯛でもピンピンしていた。もっとも我が国でも橋本雲斎のように傘張り職人から一世の電気学者になった人もある。しかし今日不幸にして良家に生まれ高等教育が受けられたとしたらどうだったろう。唯の秀才に終わったか悪くすると学校から変な目で見られたかもしれない。中学校に入ると小学校時代芽生えかけた科学への興味は無味乾燥な学科で抑えられる。上級になって実験ばかり夢中になって高等学校の入学試験には落第するというようなことも考えられる。皮肉をいえば満足な教育がうけられなかった事は彼のために幸せだったといえる。


ここでいう橋本雲斎とは、橋本宗吉のことらしい。
橋本宗吉

略歴[編集]
阿波に生まれる(一説には大坂の生まれ)。大坂で傘職人をしていたが、京都の蘭方医小石元俊と天文学者間重富に才能を見出され、ふたりの紹介と経済的支援を得て27歳で江戸に遊学する。江戸滞在はわずかな期間であったが、大槻玄沢の芝蘭堂に学び、わずか4ヶ月で4万語のオランダ語を習得したといわれ、玄沢四天王(芝蘭堂四天王)に数えられたという。
大坂へ戻ると小石らのため蘭書を翻訳し、医院と学塾を兼ねた私塾である絲漢堂を開き診療と教育活動に務める。また、エレキテルの研究も行っている。文政10年(1827年)大塩平八郎による大坂切支丹一件が発生すると弟子の藤田顕藏が逮捕されたため、宗吉も過酷な取調べを受けることになり、絲漢堂も閉鎖に追い込まれた。その後、無実が証明され釈放されたが、シーボルト事件の影響で蘭学者への風当たりが強まると宗吉は一時広島県竹原に隠棲した。後に帰阪し私塾を再開する。天保3年(1832年)天保の大飢饉が発生すると事態打開を図り奔走するがその最中、病の床に就く。一時は回復をみせるも天保6年(1835年)3月26日、看病を続けてくれた1番弟子中天游が突如この世を去り、自身も天保7年(1836年)5月1日死去。享年74。
大阪市天王寺区上本町の念仏寺に墓が再建され置かれている。


a0348309_167636.jpg


a0348309_1653840.jpg


我が国の電気工学の祖の1人である。

一ヶ月で1万語のオランダ語を覚えたという。

南方熊楠が大英帝国の図書館のブリタニカ百科だったか全部記憶して帰ってきたというエピソードにもあるように、この時代の日本の学者の頭脳は並外れたものだった。

だから、明治維新ができたのである。

今のように適当に言葉だけ付けて「平成維新」とか、「〜〜維新の会」とか、そういうふうなことをして喜んでいるような知的レベルではおよそ明治維新など達成不可能だったはずである。だから、言葉遊びにすぎず、維新などできようはずがないのだ。言葉より頭を刷新せよ。

日に1000語覚えるような猛者たちがいたからこその歴史だったようですナ。まちがっても1年で1000語ではない。

いかに今の教育が「ゆとり」過ぎたか分かる。


さて、その杉田博士の分析はいまもまったくもって言えることではなかろうか?


いまマイケル・ファラデーが生まれたらどうなるか?

今で言えば、バイト君である。

そんなバイト君が、本の配送しながら中身を見て勉強したわけだ。

「お前〜〜、何しとる!首だ〜〜。お前のバイトの代わりなんてそこら中にいるんだぞ」

こういう感じだろう。

丁稚奉公の流行っていた時代では、NHKの朝ドラではないが、本屋の番頭さんから

「お前何している。勝手に商品開けるな。バチン」

とビンタ一発。

杉田博士はこんな感じだったろうと言う。

また同様に当時の我が国にアルバート・アインシュタインやトーマス・エジソンがいたとしたら、大学へも入れなかっただろう。

ところが、あの時代の大英帝国やドイツやアメリカはかなり良かったのである。

余裕があった。

杉田博士の頃にはもう違っていたのである。当然、今は全く違う。


ところで、なぜこういう杉田博士の「物理学史」をメモしたかというと、最近痛切に感じることなのだが、一般人は自分の街の歴史を知らないし、同様に科学者は自分の専門の歴史をよく知らない。

自分の街や村のことより、長崎広島の事のほうをよく知っている。自分の国の専門の歴史のことより、他国の歴史の方をよく知っている。こういう感じのことが多すぎると思うようになったからである。

物理学者もそうだが、これから出版される論文や本のほうが気になり、昔の本や論文のことはあまり読まず知らないのである。

下手をすれば、自分の専門分野はだれの手によって構築されたかすら知らないのだ。

せいぜい名前くらいしか知らない。

まさに「明治維新知らずの維新詠み」である。


最近これはまずいんちゃうか?

とよく考えるのである。

そこで、やはり大学の専門分野の学習内容に、「物理学史」のようなものを必修科目にすべきではないかと思うわけだ。

自分の専門が生物学科なら「生物学史」。こういうものをちゃんと学ぶ。

小中学校なら、自分の地方の歴史社会はやはり必須だろう。

広島長崎だけが被爆したわけではない。

原爆ではないが、空襲によって日本全国の主要都市は無差別爆撃で破壊されたのである。

こういう歴史的事実もまたちゃんと教えるべきだろう。

別にリベンジポルノや韓国の従軍慰安婦捏造のような意味の復讐のためではない。

歴史は歴史。事実は事実として、戦後の出発点やら、学問の出発点を教えるべきなのである。

さもなくば、同じ過ちを起こす。

ちなみに、ジョークのような話に、むかしスイスだったかポーランドだったかその市民がフランスのナポレオンの進軍に対してその損害賠償請求を行ったところ、当時のジスカールデスタン大統領だったか、だれだったか忘れたが、
ナポレオンのお墓を教えるから、当事者のナポレオンに請求しろ
と言ったという話があった。

これが西洋人の感性だが、まさにその通りなのである。今生きているものには何も責任はないし、今生きているものが請求する権利もない。当事者じゃないからだ。

最後に、

この杉田の「物理学史」のような戦前の名著がことごとく空襲で消失したのである。当時の英語の邦訳本の名著も大半が失われたのである。

だから、我が国には、戦前と戦後との間に学問上の断絶ができてしまったのである。

ゆえに、我が国もそれなりの科学者がいたのだが、せいぜい湯川秀樹、朝永振一郎ぐらいしか知られなかったのである。

まあ、そういうことも自分で古書を読んでみないと分からないことなんですナ。


いやはや、世も末ですナ。




e0171614_11282166.gif

[PR]

by kikidoblog2 | 2016-05-16 16:41 | 普通のサイエンス

<< ついに「5月17日」到来!:い... またまた「ブーメラン炸裂」:舛... >>