今日は「本能寺の変」の日:謎の本能寺の変、信長も光秀も生きていた説!?

みなさん、こんにちは。

いやはや、ねずさんの今日「6月2日」のお話は実に興味深い。一応ここにもメモさせてもらおう。以下のものである。
6月2日は本能寺の変
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昨今の我が国では、日本海を隔てたお隣韓国のバカウリナラファンタジーの悪影響をもろに受けたダマスゴミが繰り出す、ウリストリアが幅を利かせている。

それが史実に基づき、史実に隠れた「穴」を埋めるためにファンタジーを入れるというのであればまだしも理解できるが、史実とはまったく別世界の妄想や願望や希望的観測から繰り出されるのだからたまったものではない。

支那が3千年前からごく最近まで「人食い人種」だったことは伏せられ、いまの朝鮮人が高句麗、3韓時代(新羅、百済、任那)の民族とはまったく異なり、後から侵入した支那モンゴロイドでしかないことも伏せられて、捏造した妄想歴史が小中高の歴史教科書として採用されている始末である。

高句麗はどちらかと言えば、古代イスラエル失われた10支族の北方ルートにあたり、西のウイグルから東方のキルギス経由で樺太、北海道までに連なる北方系アジア人の民族である。

一方、百済は古代支那系の仏教国家であり、後の唐と新羅によって滅ぼされる。その時に我が国がの天皇家が手助けに行ったのが白村江の戦いであり、敗走した百済の王を我が国で住まわせた。しかし、「助けてもらった恩を仇で返し」、天皇家を崩壊乗っ取り、我が国の王になろうとした。我が国に仏教と漢字を伝え、それらを主導権の道具にして我が国の天皇家を滅ぼしかかったのが、百済の仏教徒である。この時の百済人が奈良の仏教徒の祖先である。しかし、天皇家の反撃を受け、京が京都に移った。これが武田日恵さんの研究結果である。

新羅は創始の段階から我が国の日本海側の人間が歴代の王になった国家で、その象徴が山梨から石川あたりにしかでない翡翠(ひすい)の勾玉で表されている。翡翠の勾玉は1万年以上前から我が国山梨あたりでは遺跡として発掘されるものである。したがって、新羅は倭の王が支配した国である。今のイギリスに一番近い形態だったと言えるだろう。

任那は九州沖縄のいわゆる縄文系倭人の倭国の一部だった。おそらく、魏志倭人伝で言われた卑弥呼は倭国の巫女ということだが、それはウソで実際には任那にいた倭人の巫女を見て、それを外挿して日本の巫女と想像して書いたものにすぎない。だから、日本国内にははっきりした痕跡が見つからない。が、いずれにせよ、韓半島の南半分は新羅、任那と別れるずっと前の5000年前には倭国の一部だったのである。事実、その頃の地層には倭人の人骨や前方後円墳がみつかる。というより、おそらく後にいわゆる縄文人となる民族が長らく世界に広く広がっていて、その後北南米や韓半島の南半分に追いやられ、そこを統治していたが、それから九州に一部が引っ越し、さらに後に我が国本土に移ったというのが本当のところだろう。

というわけで、実際の考古学的、あるいは、分子生物学的遺伝子ハプロタイプの研究などからも、明白に韓半島の現朝鮮人は、ずっと後の新しい時代に支那から侵入侵略した人食い人種の一種だったにすぎないのである。

ところで、現代までインドネシアやパプアニューギニアなどには人喰いの風習がある。パプアニューギニア人によれば、人間の中で一番うまいのが我々日本人で、鶏肉のようにあっさりとうまい。しかし、西洋人はサメのように臭くてうまくないという話である。

このインドネシアやパプアニューギニアの土人の人喰いの風習、古代支那の水滸伝などの記述からも支那人も人喰いの風習があった。このことからも、古代スンダランドという地域には人食い人種がいた可能性が高く、それが南アジアの一部に残っていた。そしてそれが支那人の侵入に伴って極東にも伝播したのであると見ることができる。この極悪非道の人種の末裔が現代の朝鮮人である。

まあ、こういう悲惨で哀れな歴史がかなり現実の歴史だから、嘘偽りの捏造をしなければ、まあ生きて入られないのだろうヨ。

さて、話が大分逸れたが、ねずさんの「本能寺の変」の話に戻ると、大まかに2つの話がある。
(あ)織田信長は生きていた
(い)明智光秀も生きていた
である。

(あ)「織田信長は生きていた」説
昨今では、
明智光秀
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現存した説はかなり知られているが、さすがに信長現存説はあまり知られてはいない。
人生50年〜〜〜
と舞を舞って切腹したという話が時代劇でさんざん描かれてきたからである。

ところが、ねずさんの話では、なんと
織田信長はスペイン本国へ移住し、後のジョルダノ・ブルーノになった

ジョルダーノ・ブルーノ(左)と織田信長(右)
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というのである。実に面白い。確かに似た顔をしている。

しかし、このジョルダーノ・ブルーノもまた異端の罪で「火炙りの刑」になったのではなかったか。

切腹を免れて異国に渡ったのはいいが、異教徒異端の罪で火炙りに処せられたのでは溜まったものではなかったのかもしれませんナ。

織田信長、ジョルダノ・ブルーノ説は今後も注目しておこう。

いずれにせよ、我が国は、チンギスハンの源義経説もある。

まあ、それほど我が国は古く、歴史があるという証明である。

(い)「光秀は生きていた」説
これについてはいろいろ最近になって出てきてるようだが、まだまだ真実からは程遠い。

光秀の末裔が語った本当の説というものも、その末裔がたくさんいるわけだから、たくさんの説が生まれてしまう。やはり歴史の流れや史実との照合や有力な証拠が欲しいところである。

一つの明智光秀の末裔の話はすでに本になっているようだ。
明智光秀の末裔が主張「本能寺の変の標的は家康のはずだった」


この説では、
明智光秀→天海僧正
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である。

ところで、私がとある末裔の方に聞いた話では、また別のストーリーであった。

最初の「本能寺の変の標的は家康のはずだった」は一致している。がしかし、その後がだいぶ異なる。その人の調査では、こうだった。
明智光秀→千利休→天海僧正(初代)

その人は、明智光秀の直筆、千利休の直筆、天海僧正の直筆を見比べて、同一人物だったと判明したというものである。

要するに、織田信長はいわゆる「南蛮人」、ポルトガル人やスペイン人のカソリックイエズス会宣教師の悪影響を受けすぎた。このままでは日本が宗教的に乗っ取られる。信長は東の雄徳川家康掃討のために、呼び寄せて暗殺を謀ったその時に、逆に、明智光秀と徳川家康とで陰謀の裏をかいて、信長を滅ぼし、逆賊としての汚名を来た明智光秀は自分の部下であった豊臣秀吉に殺されることにする。そして自分は千利休と名を変えて秀吉を影から支えた。

この陰謀では、明智光秀、豊臣秀吉、徳川家康の三者の間で、(あ)豊臣秀吉は百姓出身のため子を作らない約束だった。(い)そして天寿を全うしたらそのまま徳川家康にバトンタッチする。(う)光秀の子孫を徳川幕府の将軍に据える。等々の密約があったという。

ところが、秀吉が色気を出して家康掃討を計略したり、子を作ったために、光秀である千利休や徳川家康の反感を買い、関ヶ原の戦に発展した。結果的に徳川家康が天下人になった際に、千利休は天海上人と名を変えて今度は徳川幕府の指南役となった。そして、約束通りに明智光秀の子孫を徳川秀忠や徳川家光とした。だから、二人の名前には、光秀が付くというような話であった。

これがずっと後にこの光秀の血筋を引く水戸黄門こと徳川水戸光圀公まで光の字が残った理由なのだとか。

(う)「本能寺の変」→「武装仏教僧たちを非武装化する作戦」
これに対して、ねずさんの話では、武装仏教僧たちを掃討非武装化する作戦のために、「本能寺の変」を起こしたのだという考え方である。

もともと我が国の仏教は百済の時代のものである。だから、当時の倭人と縁戚関係にあった百済との交流が深い。戦前の大韓帝国と大日本帝国の縁戚関係に似ていると言えば似ている。天皇家の一部と婚姻関係にあるのである。

そこが唐帝国に滅ぼされて、百済王が我が国に渡ってきた。しかも仏教と漢字を持ってやってきた。さらにそれまでの我が国の上層階級で用いられた神代文字を葬り去ろうと画策した。それが藤原氏や蘇我氏の時代、聖徳太子の時代前のことである。ここに神代文字から漢字に移行した。カタカナは神代文字の1つであって、ずっと以前から用いられたが、それが漢字時代に入り、それをもじって復古してできたものが、カタカナからひらがなへの変化であったと考えられる。

実際、カタカナは古代ヘブル語のアルファベットとほぼ同一である。このカタカナを使った民族が大和朝廷の民族であり、古代イスラエルの失われた10支族のガド族、エフライム族、マナセ族だと考えられている。このガド族がミガド(御門=帝=天皇)となった。

(え)種子島の鉄砲伝来時代はスペイン帝国の時代
この時代もう一つの無視できないものは、すでに東南アジアはフィリピンを軍事拠点にしたスペイン帝国が東アジアも占領し植民地化しようとしていた時代のまっただ中にあったということである。

種子島の鉄砲伝来の「南蛮人が難破した時に鉄砲を持っていた」ということになっているエピソードも実際にはそうではなかった。実際、重い鉄砲を持って泳ぐことは不可能である。途中で海中に沈むのが常識である。

事実は、メンデス・ピントというマラーノ(カソリックに見かけ上改宗した振りをしたユダヤ教徒およびユダヤ人)が、当時の支那のジャンク船を使って福岡に行くつもりが、風に流されて種子島へ到着してしまったのである。

その時、種子島の主君であった北条直時が、ジャンク船に乗り込んで、渡航の目的を問いただし、その理由がわかると、上陸を許可して滞在させたのである。その時にピントの仲間であるスペイン人が鉄砲の名手であり、その鉄砲の威力に直時がいたく感動して、ジャンク船が渡航する際にお土産の記念品として、譲り受けたものである。そして、種子島の優秀な鍛冶職人たちにすぐに鉄砲の作製を命じたのである。この経験が福岡と大坂境に伝来し、そこが鉄砲職人のメッカとなったのである。

これはメンデス・ピントの自叙伝にちゃんと書かれた史実である。
トケイヤーの「ユダヤ製国家日本」2:いま蘇る鉄砲伝来の真実!

メンデス・ピント(ユダヤ人マラーノ)
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東洋遍歴記
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ところで、このメンデス・ピントご一行さまは、我が国の種子島に来る前にはどこで何をしていたかというと、実は支那で牢屋に入っていたのである。

無断で寄港した罪で上海あたりで捕まり、遠く北京まで鎖と重りにつながれたまま歩いて行進させられ、北京の大裁判所でまるで閻魔さまの裁判のような弾劾裁判を受けた。そこでピント一行が若い支那人を味方にする作戦を練って、自分たちは単なる商用渡航者であってたまたま寄港しただけで、商売も軍隊も関係ないと証明して、無罪放免になった。

そこで、スペインポルトガルの船は没収されてしまったために、支那人漁師の持つジャンク船(当時支那と台湾、沖縄、九州あたりまではこのジャンク船で交流があった)で、日本の九州長崎か福岡に行こうとしたのである。そうすれば、日本と交流出来ているオランダ船に乗ってちゃんと本国に帰国できる。

つまり、最初から鉄砲商人としてやってきたのであって、難破したわけではなかったのである。

この鉄砲商人がわざわざ我が国を狙ってやって来ようとしていたことからも、我が国に最初に上陸したイエズス会(いまでは悪魔教と考えられている)が手引したのであって、それは日本を植民地化する前の民族間紛争を起こして国家弱体化させる作戦を起こすためのツールとして鉄砲を売りさばきに来たわけである。

各大名に天下統一の夢を描かせ、民族間紛争を起こす。それによって鉄砲で優秀な武装兵力がお互いに殺戮で減る。こうして勝負が決まり、だれかが統治者になったところで、スペイン本国の大艦隊部隊がやってきて、一気に滅ぼして植民地化する。その拠点がフィリピンであり、ハワイであった。ハワイも最初はスペイン領であった。

このポルトガル・スペイン帝国の恩恵を受けたのが織田信長であった。そしてその部下の豊臣秀吉である。カソリックイエズス会パワーで天下人になったわけである。だから、本能寺の真横に南蛮寺ことスペインカソリック教会が建っていた。

スペインは後に秀吉にスペイン帝国の属国となれとさんざん使者を遣わした。しかし、その都度秀吉は勇猛に拒絶した。秀吉は逆に当時全ヨーロッパを帝国化していた大スペイン帝国に対して、日本の属国になれと使者に返したのである。

このことからしていま「真田丸」で描かれている臆病者秀吉像はまったくのナンセンスであって韓HKのウリナラファンタジーでしかなく、ウリストリアでしかない。

秀吉はスペインの使者の首をはねているのである。フィリピンにスペイン艦隊、いわゆる無敵艦隊、いまでいえば、ハワイにある米太平洋艦隊のような最高レベルの軍隊に対して、日本の属国になれと言ったというようなものである。だれがヒラリークリントンやトランプに「日本の属国になれ」と言えるだろうか?これが臆病者ができることかいな?NHKさんヨ!

その秀吉の強行な反応に対して理解不能となったスペインは、スペインと日本で支那韓半島のアジア一帯を植民地にしないかとまるで戦前のイギリスのようなことを言ってきたわけだ。それに対して秀吉は否。これも反対した。なぜなら、我が国はいまでいう特ア、支那朝鮮人の質の低さは何千年にもわたってよく知っているからである。

するとアジア知らずの白人国家スペイン帝国は、今度は支那を滅ぼして韓半島を植民地化し、最後に日本を植民地化する作戦に出た。スペインの手下となった支那が韓半島に来られてはまずい。

これが秀吉の時代のアジア極東の政治情勢だったという。したがって、韓半島に進入するスペイン支那連合軍を阻止するために、秀吉の朝鮮出兵が行われたのである。

これは戦前ロシア革命でソ連共産主義が起こり、アジアの共産化を阻止するために、明治政府が極東へ出兵し統治したというのと実に似た状況だったのである。だれが好き好んで、当時7つの海を支配した大英帝国の植民地となっていた支那に出兵する理由はなかったのである。

大事なことは、世界情勢が我が国の歴史に深く関わっているということである。韓半島は元々日本と陸続きだったわけだから、日本海は日本の「一部」の日本湖だったわけである。そこへ南アジア人や西アジア人のハプロタイプO3が侵入してきたのである。こうしていくうちに、韓半島と日本九州が離れて今の形になった。かなり比較的最近まで陸続きだったはずである。たぶん5000年前〜3000年前までは陸続きだったのであると見る。


まあ、大分長くなってしまったが、真実はいかに?


歴史の闇はこのように散在する貴重な文献を読み照らして立体的に歴史を構築すべきであろう。
表面的、一方的な側面から見たものでは、「〜〜史観」にしかならない。

いずれにせよ、NHKの「ウリナラ史観」の時代劇は百害あって一利なしである。


いやはや、世も末ですナ。



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  by kikidoblog2 | 2016-06-02 10:17 | 個人メモ

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