頑張れニッポン!:「塩谷司選手徳島の星、日本の星となる!?」持ってるな!   

みなさん、こんにちは。

我が地球に朝鮮族と支那族、我々が言う「特ア」がいる以上、地球の滅亡は100%の可能性が高い。地球のウィルスミンジョク。いかにこれらを駆逐するか。これは地球人類の残された課題である。さもなくば、本当に悪夢に化す。まあ、天罰は神様にお任せし、サッカーのことをメモしておこう。

さて、2004年の暮れ〜2006年の春、主に2005年を中心に私はここ徳島の阿南高専サッカー部のコーチをしていた。2005年夏には高専四国大会を10年ぶりで制し、全国高専大会(群馬)に出場し、初戦突破し全国べスト8になった。

とはいっても、そこはフリーで正規職員でもなく、単なるサッカー部外部コーチでしかなかったこの俺は、四国大会も本大会も出張費はおろか、旅費もなにもなく、春夏冬休みも含めてほぼ1年中練習や試合に行ったにもかかわらず、1年間の謝礼として、たったの

5万円

をもらっただけだった。それでも出血大サービスで毎夕阿南高専サッカー部でサッカーの何たるかを指導したのだった。

そう、金の問題ではないのだ!サッカーが好きかどうか、の魂の問題なのだヨ!

サッカーをしたい子供がいれば、それに答える。ただそれだけだ!

これが日本男子の心意気だ。

聞いてるか朝鮮こねずみのだますぞえ要一さんヨ!

高専大会では、サッカー出身ではないサッカー素人の理系学者が監督(名義)になってくれていたのだが、実質上のサッカー部監督でありコーチだった私の代わりに、顧問として文系の教官が、高専四国大会および群馬の全国大会に行ったのだった。

しかも飛行機で。

俺は、徳島空港(いまの阿波おどり空港の前)まで奥さんといっしょに見送りに行き、チェックインの際に、一人ひとりに「いつもどおりやれ」って激励に行ったものだ。おまけに、まったくサッカーには関心がなかった女子マネージャー2人の分まで高専から旅費が出た。

どういうわけか、女子マネージャー2人までほぼ全員が、空港のチェックインでライター没収。およそ20個ほどのライターが没収された。
いったいライター何のために持っていくつもりだったんだ!
って大笑いしたものである。


どうでもいい昔話を長話にしてしまったが、ちょうどこの時期に徳島商業でサッカーをしていたのが、塩谷司選手であった。

だから、当時徳島最強だったのがオレンジカラーの徳島商業であり、そのレギュラーの中に塩谷司選手がいたわけだ。私の遠い記憶のどこかに塩谷のプレーも入っているはずである。あまり思い出せないが。

その
塩谷司選手
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が、リオ五輪のU23のオーバーエージ枠で出場が決まったという。これである。
藤春と塩谷がリオ五輪のOA選手に内定…手倉森監督「伸びしろがすごくある選手」

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 日本サッカー協会(JFA)は14日、リオデジャネイロ五輪に出場するU-23日本代表のオーバーエイジ選手が、ガンバ大阪のDF藤春廣輝と、サンフレッチェ広島のDF塩谷司に内定したことを発表した。

 92年バルセロナ五輪から男子サッカー競技では、23歳以下とする年齢制限が設けられた。その上で96年アトランタ五輪から、登録18人の中に最大3人まで24歳以上の選手を登録できるようになった。これがオーバーエイジ枠と呼ばれている。

 JFAを通じて手倉森誠監督は「リオデジャネイロ五輪では、タフさが求められます。そういう意味で2人ともタフですし、藤春選手はアップダウンの活動量、塩谷選手は対人の強さと高さを兼ね備えており、最終ラインの守備力と攻撃力を高めてくれることを期待しています。2人は間違いなくU-23年代の選手より経験があります。SAMURAI BLUE(日本代表)にはまだ定着しきれていませんが、これからの伸びしろがすごくある選手たちです。U-23日本代表のレベルを引き上げてくれると共に、2018年のロシアを見据えているこのチームで、彼らも成長する可能性があると思います」とコメントした。
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塩谷(小松島出身)リオ代表決定 サッカー男子で県人初 2016/6/15 10:37

 日本サッカー協会は14日、原則23歳以下で争うリオデジャネイロ五輪に出場する男子の日本代表で、3人まで認められる24歳以上のオーバーエージ(OA)枠に、小松島市出身でサンフレッチェ広島の塩谷司選手(27)=徳島商高-国士舘大出=が決まったと発表した。県人選手のサッカーでの五輪出場は初めて。

 塩谷選手は攻撃力のあるDFで、日本代表では通算2試合出場している。徳島商高、国士舘大を経て2011年にJ2水戸に入団し、12年8月にJ1広島に移籍した。

 OA枠には藤春広輝選手(G大阪)も選ばれた。

 リオ五輪の県関係選手はライフル射撃の山下敏和選手(39)=自衛隊、小松島高-中大出=と女子マラソンの伊藤舞選手(32)=大塚製薬=、バドミントン女子ダブルスの松友美佐紀選手(24)=日本ユニシス、徳島中-聖ウルスラ学院英智高出=が出場を決めている。

 しおたに・つかさ 1988年、小松島市生まれ。徳島商高時代に全国選手権に2度出場し、国士舘大では4年時の全日本大学トーナメントで3位。2011年にJ2水戸に入団し、12年8月にJ1広島に移籍した。13年はリーグ全34試合に先発し2連覇に貢献。14年10月のジャマイカ戦で国際Aマッチにデビューを果たした。182センチ、80キロ。
【写真説明】塩谷司選手


おめでとう、塩谷司選手!

昨日の徳島新聞は大フィーバーだった。
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私が新聞記事などで知っていたのは、国士舘大でくすぶっていたが、引退して監督免許を取り監督業に心機一転していた柱谷が国士舘のコーチに来た時にその才能を見出されてプロサッカーへのチャンス(水戸行き)を掴んだ。それからまさにかつての中澤選手のように、大事な試合で活躍して、その都度上にスカウトされ(広島行き)、また大事な試合で活躍してまたその上のチャンス(日本代表入り)を摑んだ。

こういう感じの選手だったということである。

今回は、U23のDF人が大半が「全治3ヶ月重症」を負うというアクシデントに見舞われて、DFには2人くらいしか世界大会レベルで活躍できそうなものが残っていなくなった。
U23手倉森監督「悪夢復活」!?:また全財産を喪失する危機か!?チーム消滅!?
これが幸いした。

徳島新聞によれば、「遅咲きの苦労人」という意味は、

父親が45歳で早世し、主婦だった母と下に兄弟2人がいて、家計のやりくりが大変だった時期になんとかしてプロ選手として一家を支えたいという苦労のことだったという。

舛添要一とは180度異なる日本人の姿がそこにある。
家族や他人のために頑張る

この精神がこういうタイムラインを生んだわけですナ。

ところで、この塩谷司選手がいた頃の徳島商業は徳島で一番強かった。その時の監督さんが、河野監督。
全国高校サッカー選手権大会に3年連続出場の徳島商高監督 2005/11/14 15:37

河野 博幸さん
(かわの・ひろゆき)
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 三連覇を成し遂げた瞬間も、淡々としたいつもの表情を変えなかった。「選手はよくやった。ただ、まだやり残したことがありますから」

 チームを率いて三年目。毎年、冬の全国選手権に導いたことになる。しかし一年目、二年目ともに0−2で初戦敗退。「個々の局面で勝負できる力がなかったことを思い知らされた。攻守の切り替えを素早くし、全員でボールを動かすこと。それができなければ全国では勝てない」

 今夏、全国総体出場を逃しはしたが「いつかは成果となる。冬に結果を出すため、信じたことをやり抜こう」と選手を鍛え上げた。ロングボールを多用することを避け、全国で勝つために何が大切なのかという信念を崩さなかった。その場しのぎが嫌いな性格だ。夏場は、国見(長崎)や広島皆実などの強豪校に胸を借り「高いポジションでボールをキープする、点の取れるサッカー」を追求した。

 徳島市立高出身。一九九一年の全日本ユース大会で優勝、九二年の全国高校総体を制覇するなど、サイドバック、センターバックとして同校の黄金期を支えた。部訓だった「継続は力なり」をいまでもモットーとしている。

 決勝で対戦した阿波の逢坂利夫監督は高校時代の恩師。試合後、その逢坂監督から「全国で暴れてこい。敗れ去っていったチームのためにも、な」と激励を受けた。若い指導者に刺激を与えるためにも頑張りたい、と闘志をむき出しにしてきた師の思いも感じ取っていた。「まだまだ、越えることができません」と謙遜(けんそん)しながら「結果を残してきます。それが恩返しです」と、ひときわ鋭いまなざしで言い切った。

 徳島市北矢三町一で妻と二人の息子の四人暮らし。三十一歳。

徳島新聞はよくこの古い記事をサーバーに残していたナア。

この時のチームにこの塩谷司選手がいたのである。

この河野監督自身、その15年ほど前に、徳島市立(水色カラー)の逢坂(おおさか)利夫監督時代に高校総体で徳島県勢初優勝のレギュ−メンバーだった人である。このメンバーにプロになった吉成浩司さんがいて、今は鳴門渦潮高校の女子サッカー部の監督をしている。

私が指導した阿南高専も、私の息子たちが所属した富岡西も富岡東も、この河野監督率いた徳島商業や吉成監督率いた小松島高と何度も対戦したものである。

その後、徳島商業の選手に不遜な不届き者が入るようになり、集団万引き事件を起こし、その責任をとらされて河野監督はいったん追放され浪人となった。

その間、徳商は天国から地獄に堕ち、弱小チームの仲間入りになってしまった。やっとここ最近になってある程度復活したが、昔の面影はない。まったく別のサッカーのチームとなった。

方や、2年ほどの浪人の後、河野監督は出身の徳島市立サッカー部の監督になった。ここから徳島市立のグランドの人工芝化とあいまって、破竹の快進撃が行われ、ここ最近ではあらゆる大会で徳島市立が優勝するほどの屈指の強豪に返り咲いた。

いまや県下随一のチームである。

これに挑戦するチャレンジャーが鳴門高校(藍色カラー)である。
長らく香留和雄監督が努めた。最近引退。
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さて、おそらく県外の人や四国外の人は知らないはずだから、ついでにメモしておくと、この河野監督がどうしてこれほどの監督になれたか?

というと、その指導者こそ、高知大学のサッカー部監督である
野地監督
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のおかげである。

この高知大サッカー部こそ全国有数の国立大サッカー部で全国準優勝を遂げた大学の1つである。関東では筑波大、西日本では高知大。

この高知大の野地監督の弟子になったのが、岡田監督である。

我が家の息子も幸運にして高知大サッカー部に入部できたものの、徳島の富岡西のエースストライカーですら、4年間でついに一度もAチームに入ることができなかった。最高でBとCの中間である。

というのも、部員100人以上の大所帯である。この中から11人に入るのは至難の業ではないようである。

だから、大半の選手は指導者になる道を選ぶ。

実はそれこそ野地監督の専門だったのである。

私が知る限り、全国津津浦浦探したって、「サッカー指導法」がご専門の大学教授は我が国ではこの野地先生以外に存在しないのである。だから、かつて退官前にあった大学HPには、野地教授の研究業績というのは、
大学選手権準優勝
大学選手権3位
大学選手権ベスト8
というような感じだったのである。

河野監督もこんな高知大学で何かを得た。それが仮に野地先生とは違うものであったにしろ、大学の4年間のサッカー部生活で、指導者としての何かを叩きこまれたはずなのである。

この高知大サッカー部からはすでに何人かのプロサッカー選手が育っている。その代表が、フロンターレからアビスパ福岡に移籍したらしい
實藤友紀(さねとう・ゆうき)選手
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である。

この実藤選手もちょうど私が阿南高専のコーチをしている時代の徳島市の進学校城南高校の選手であり、私も一度対戦し、5−0で負けた(記憶があるが、定かではなくなってきた。昔の記憶がどんどん薄れる今日このごろですナ)。当時城南が最強となり、全国に行った時代の選手である。

無限の基礎体力を持つ選手である。

どういうわけか、ポジションも右サイドバックで、塩谷司選手と重なっている。

この1988年〜1989年生まれ、ちょうど私が米国ユタ大に留学中に生まれた子どもたちが今の塩谷司、實藤友紀世代である。

いまや徳島の星となった。

ちなみに、高知大サッカー部には独特の雰囲気がある。今時芝生でない土のグランドで練習して、いい意味で暴飲暴食自由。20歳すぎれば酒飲もうがお構いなし(おれはダメだと思うが)。

ここ〜〜は〜〜土佐の〜こう〜〜ち〜〜の〜〜播磨屋〜〜ば〜〜し〜〜で〜〜

の文化伝統がある。

タフネスを鍛えるなら高知大サッカー部ですナ。


ぜひ塩谷司選手の大活躍で、リオデジャネイロ五輪で上位入賞を実現してもらいたい!


頑張れ、ニッポン!


おまけ:
やはり私は塩谷司選手出場の選手権の試合を見ていた。
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要するに、徳島商業の選手たちは後半終盤になると足がつって動けなくなって失点してまったのである。走りこみが足りなかった。まあ、今も同じだが。だいたい一回20kmくらい走る経験がないと、2試合連続でも足がつらないという感じにはならないのである。一回10kmではちょっと厳しいな。




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by kikidoblog2 | 2016-06-16 10:13 | アイラブとてつもない日本

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