池原止戈夫の「アメリカ学生生活」:ウィナーの弟子池原止戈夫はブッシュの弟子でもあった!   

みなさん、こんにちは。

さて、話は変わり、例の20世紀最大のユダヤ人数学者ノーバート・ウィーナーの話で登場する日本人の池原止戈夫(しかお)博士。

このあまり知られていなかった数学者の本があったが、その多くはウィーナーの英語本を日本語訳したものである。だから、池原博士はそうした本の翻訳者としてしか名が知られていない。

ところが、たった一冊だけ池原博士の自伝が存在したのである。それが、

アメリカ学生生活(小峰書店、1947年、昭和22年刊)
という本だった。

タイトルは今現在からすればいたって平凡でありふれたものだから、目立たない。

が、なにせ池原さんがアメリカへ留学したのは大正時代末期のことだから、しかもあのウィーナーのいたMITへの留学だから、これは一応は目を通しておこうかと読んでみることにしたわけだ。

ところが、本があまりに古く、Amazonでは8000円もの値がつき、たった一冊しかない。

そこで、検索して調べるとなんと西日本でここ徳島に一番近い図書館では、岡山県立図書館で所蔵の一冊があった。

それで、阿南図書館経由で岡山から取り寄せたものが、昨日やっと届いたのである。

それですぐにマルナカの5円コピーでコピーして本を返却したわけだ。昨日やっと梅雨開けでいい天気になったから、本を借りに行けたのである。


さて、そんな池原止戈夫さんのアメリカ留学の本をひも解くと、実に興味深いものであることがわかった。

私はこの池原先生は、ウィーナーのいたMITにウィーナーに師事して留学したのかと思っていたのだが、実際はまったく違っていたのである。

また、ウィーナーの自伝2「サイバネティックスはいかにして生まれたか?」では、なんとなくアメリカで職がない悲劇の日本人のような書き方だったから、気の毒な人かと思っていたのだが、そんなこともまったくなかった。

なんとこの池原先生、

神戸一中

を卒業後、そのままアメリカに船で渡り、ホノルル経由でサンフランシスコに行き、最初は

ラトガース・カレッジ(いまのラトガース大学)

に入り、それから、東海岸のハーバード大のの対岸にあるMITに入るべく、

メイウッドの高校

に入り直して、英語会話の語学を履修し、それからハーバードの対岸にあるMITの入学のための条件となる、

物理、フランス語、英語、ドイツ語、

を履修し、それらに見事合格し、

MIT

に入学したのだった。

最近の我国で言えば、今京都大学にいる、望月新一博士に似ていると言えるかもしれない。望月博士は、名門エクスター高校からプリンストン大学に入学されたようである。

まだ池原先生の自伝は読み始めで、始めの方しか読んでいないが、アメリカの2つの中高を出たから、もっともその時代の我国の中学とは今の高校に対応し、その時代の高校がいまの大学教養課程に対応するわけだが、アメリカの高校、短大と出て、MITの学部に入り、それからMITの大学院に入ったというわけだ。

だから、結局池原先生は、大正末期の

大正11年(1922年)

にアメリカに渡り、昭和初期の大東亜戦争前夜の

昭和9年(1934年)

に帰国し、大阪帝国大学に職を得たのだった。


つまり、日米開戦前のアメリカで都合12年もの長きにわたる青春時代を過ごされた博士だった。また、その学位論文が、「リーマンの素数定理の証明」だったのだ。


いや〜〜、面白い。


さらに面白いのは、ウィーナーの自伝2によれば、池原先生は単なる素数定理の証明を行った純粋数学者だというイメージの記述しかなかったのだが、実際の池原先生は、最初に物理を履修したように、理論物理や工学に非常に関心が高い若者だった。

だから、博士号Ph. D.を取得後、物理や化学の学部で今でいえば,ポスドクとして生活していたらしい。

ちなみに,池原先生はなんとMITの大学院でたったの2年で博士になった。また学部と合わせてもMITの大学大学院をたったの4年で卒業したというのである。

いかにすぐれた知能の持ち主だったか明白だろう。しかもたったの2年で高校でドイツ語、フランス語、英語をパスしたのである。

そして、ハイスクール時代にアメリカの高校生活を満喫したようだ。ダンパ=ダンスパーティー、スポーツクラブ、などなど、エンジョイしたようだ。

このあたりの記述にはたくさんのエピソードか書かれていて実に興味深い話がある。

中でも、いまやアメリカのスポーツの定番というと、アメリカンフットボールだが、まだ池原先生が留学した時代のアメリカではアイビーリーグの大学のほんのわずかの場所しかなかった。

アメリカで一番最初のアメリカンフットボールの試合のことが書かれていた。

アメリカで最初のアメリカンフットボールの試合は、明治2年1868年、ラトガース大の広場で、ラトガース対プリンストン大の試合だったという。相手を殺す以外のことは何でもやったという恐怖のスポーツだったらしい。

1877年にルールが改正されて、ラトガースはニューヨークシティーカレッジ(今のCUNY)と対戦、120−0の大敗を喫したという。

当時スタンフォード大にはアメリカンフットボールのチームがなく、アメリカンフットボールをしたくて入った若者が隣のカリフォルニア大のフットボール選手からバカにされた。畜生とばかり、この若者は自分でチームを作り、練習を始め、自分がマネージャー兼コーチになり、ついにそのバカにしたカリフォルニア大のチームと対戦するところまで行った。そしてなんとスタンフォード大のはじめての試合で、勝利したのだとか。その若者が、後の第31代アメリカ大統領のハーバート・フーヴァーだったというのである。
第31代アメリカ大統領
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こういう感じで、高校生活、大学生生活、大学院生活などが記録やカリキュラムなどを合わせて良く調べて書かれているのである。

いずれにせよ、当時のアメリカ人が理想に燃え、実にすばらしい若人の国家だったことはまずまちがいない。


さてここら辺で、その本の目次をメモしておこう。

目次
第一篇 渡米
横浜出航
ホノルル
サンフランシスコ
横断旅行


第二篇 アメリカ生活第一年
ニューヨーク
ラットガース
シカゴの生活


第三篇 メイウッドの生活
ハイスクール
生徒の活動
中学校教育随想
シカゴよりボストンへ


第四篇 M. I. T.
まえがき
組織と運営
 評議員
 運営の役員
 教職員
学生生活(一)
暑中休暇
学生生活(二)
大学院
物理教室
化学教室


第五篇 ボストンの思い出
コウナント総長
ブッシュ博士
クーゼヴィッキイ

とまあ、こんな目次である。


面白いのは、ノーバート・ウィーナーの学生だったはずなのだが、ウィーナーのことがほとんど書かれていないということである。

むしろ、池原止戈夫先生にとっての一番の恩師は、なんとあのバネヴァー・ブッシュ博士だった。
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微分計算機の発明者。のちに電子計算機、コンピュータ文明の創始者のブッシュである。

だから、池原先生は物理も好きで、しばしば物理学部の物理講演会には出向いて聞いていたらしい。

また、池原先生、博士取得の後、日本に戻っても職がないから、化学学部で職を得て仕事をしていたのである。

ある時、MITの新総長に物理学者のコンプトン博士が選ばれ、新総長の就任式が行われたという。コンプトン散乱のコンプトンである。

その時の写真があるが、今でいえば、大統領就任式のように盛大なものだった。イギリスから、ウィリアム・ブラック卿が来賓、ハーヴァードの総長、各大学の総長が全部やってきて行進したという盛大なものだったようだ。

昨今の我国の国立大学の、君が代も国旗掲揚もない式典や入学式や卒業式とはえらい違いですナ。

大東亜戦争開戦の前年1934年、MITで10年、アメリカに渡って都合12年のアメリカ生活の後、池原止戈夫はブッシュ教授のもとへ最後のお別れに行った。
1934年の6月に、十年間お世話になったM.I.T.に別れを告げることになったので、まず第一に尊敬して居るブッシュ先生にお別れにいった。副総長室へ入ると、
「何しに来た」
というので、
「今度、大阪帝国大学に行きますので」
と、お別れに来たことを伝えると、
「そんなところは聞いたことがない」
「いずれ、お耳にお入れします」
と、約束して帰ったのである。帰朝後も、ブッシュのことはいつも心にあったが、先生の偉大な指導力はアメリカを世界一の文化圏にするために深い影響を及ぼしているが、詳しいことは時が経つにつれて明らかになることであろう。

こうして池原止戈夫博士は日本に帰国した。

その後、1935年に支那事変から大東亜戦争になり、真珠湾攻撃から太平洋戦争が始まり、アメリカと日本が敵国になる。

こうして、池原の尊敬するブッシュはアメリカの軍産複合体の科学部門の長となり、アメリカ軍の科学化、近代化を押し進め、ついには電子計算機を開発し、原爆を設計して完成させる。

まさに歴史は池原止戈夫の予想通りに展開し、ヴァネヴァー・ブッシュはアメリカの世紀、パックスアメリカーナの駆動力となったのである。

というわけで、なぜこの池原止戈夫先生を日本軍人はもっと大事にしなかったのか?

これが私の個人的な疑問なのである。

相手の国のボスと師と弟子の関係にあった若者が日本にいたのである。

もし日本軍や日本政府が、池原止戈夫を軍の科学部門の長にして、相手の情報を仕入れていれば、不必要な戦争はしなかっただろうし、うまいところで戦争を切り上げ、結果的には広島長崎の原爆投下はなかったかも知れないのである。

M.I.T.はアメリカがハーヴァード大ではできない軍事研究を行う大学として誕生したのである。

そこに池原止戈夫博士は10年もいたのである。


こういうところに、我国の政府官僚の伝統的な無能無策振り、というか、変な癖があるようですナ。

孫氏曰く、「敵を知り己を知れば100戦危うからず」

自国に敵をよく知る者があれば、行って良く話を聞き、

という宮沢賢治の詩のような熱意と努力をしなければ、大きな犠牲者を出すに違いないのである。

まあ、変な癖というのは、サッカーではブラジルのドゥンガのいう「日本人特有のメンタリティー」というものだが、それは、過信、慢心、油断、すぐに良い気になる、有頂天になるというような性質のことである。

池原止戈夫さんの見たブッシュと、ノーバート・ウィーナーの見たブッシュと、これらもかなり違うからここも実に興味深い。

やはり物事はいろんな角度から見てみないといけないわけですナ。


こんな良本もまたまったく知られていないとは???


いやはや、世も末ですナ。



おまけ:
唯一池原止戈夫博士の写真を掲載するサイトがあった。以下のものである。

1981年当時の池原先生
この市野学博士は池原止戈夫教授のお弟子さんだったようだ。




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by kikidoblog2 | 2017-07-20 09:56 | 真実の歴史

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