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池原止戈夫の「アメリカ学生生活」:池原先生がアメリカの高校生活から学んだこと!   

みなさん、こんにちは。

人は進化している様に思うがまったく進化していない。同様に社会も進化しているようでまったく進化していない。どうもそんな感じがする今日この頃である。

例のノーバート・ウィーナーのところに留学にいった池原止戈夫先生の1947年の自伝を読んで行くと、所々に現代では忘れられたが、実に重要であったり、興味深い記述があった。

今回はそうしたものをいくつかメモしておこう。

(あ)池原止戈夫先生は1922年大正11年にアメリカ留学した。

この1922年に神戸一中を卒業後、横浜港からハワイホノルル経由で米サンフランシスコに行き、そこからアメリカ大陸横断鉄道でシカゴに行き、そこから当時世界最速鉄道でニューヨークへ行った。

いまでこそ我国の新幹線が世界では一番有名だったが、まだジェット飛行機のなかった大正末期には、アメリカの横断鉄道こそ世界最速の新幹線だったのである。第二次世界大戦後、我国はそれを真似た。

池原先生はそんな時代のアメリカの鉄道旅行をしたのである。


(い)ニューヨークは退屈な街だった。

いまでこそ、ニューヨークは世界最高峰の文化芸術の街だが、大正時代はまだところどころがそうなっていっただけで、池原先生がニューヨークに到着した頃は、まだかなり田舎の雰囲気が残っていたんだとか。

それでもニューヨークには映画館やコンサートホールがあり、そういう場所では良い映画をやっていたらしい。

しかしニューヨークのマンハッタンの金融の中心ウォールズ街には大正11年の段階ですでに51階のビルが建っていた。Woolworth buildingであり、エレベーターで登ったという。


(う)日本にとってラットガースは重要な学校だった。

池原先生はニューヨークで在米の日本人の知人に案内してもらった後は、汽車でニュージャージー州のニューブラウンズウックにあるラットガース大学に行った。

池原止戈夫先生が入学したのは、そのプレップスクール、いまでいえばコミュニティーカレッジのようなもので、大学に入学するための準備校のようなものである。

ラットガース大学の創立は、アメリカ独立宣言の年、1776年のことだという。

そして1922年大正11年の池原止戈夫先生の留学の時代以前に、すでに数十人の日本人が留学していたというのである。

付近にはラットガース大学卒業生の日本人の墓地まであったというのだ。たぶん今でもあるかもしれない。

この大学はいまもあまり知られていないが、大正時代でもあまり知られておらず、池原止戈夫先生も知らなかったらしいが、日米通商条約が締結されてから、ラットガース大を卒業したアメリカ人60数人が我国に来たというのだ。

その中で有名な人はこんな人がいたという。

聖書翻訳者のブラウン博士、
東京帝大南高教授のフルベッキ博士、
東山学院の創立者スタウト博士、
福井藩校の教授となったグリフィス博士、
日本の教育制度を作ったモルレイ博士(たぶんモーレー博士)、
だという。

このフルベッキ博士こそ、例の若き維新の志士たちといっしょに写真に写った「フルベッキ写真」
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で有名なあのフルベッキである。彼はラットガース大の卒業生だった。

このラットガース大から名誉博士号を受けた日本人には、植村正久という人がいたという。日本キリスト教会の長老である。

池原先生の本には、ここで当時ラットガース大学の創立150周年記念があり、その時に東京帝大から祝辞が送られたのだが、その全文があり、それがラットガース大学の図書館に日本美術本といっしょに陳列されていたというのである。

この本にはその全文が記録されている。

つまり、我国の明治時代の大学および教育(特に義務教育や子女教育)の基本は、ラットガース大出身のキリスト教徒の学者さんたちが作ったのだった。


(え)英語教育がすばらしい。

当時は我国はドイツ語が第一外国語だった。だから、日本の教育ではドイツ語は勉強したが、英語は第二外国語だった。戦後と逆である。

というわけで、池原先生はMITに入学するには英語が必要で、まずは英語をマスターしなければならなかった。これに相当苦戦したようだ。

さて当時大正11年1922年でアメリカ人がMITに入るためには何をパスしなければならなかったか?

なんと以下の教科で全部70点/100点以上取らなければならなかったらしい。

代数、平面幾何、立体幾何、三角関数、物理、英語、ドイツ語あるいはフランス語、
化学、歴史

それでも、池原止戈夫先生は英語だけに苦労したようで、他のは我国の中学の方がレベルが高いから、楽勝だったという。

全部受けて理数は楽勝、問題は英語だったと。フランス語は2年分を1年で記憶したというのだ。

そこで何より池原先生が感心したのは、母国語教育の充実だという。英語は米人にとって母国語である。その教育がすばらしい。しかし我国の母国語教育のダメさはなんとかならんのか?これが池原先生の印象だった。

これは戦後の日本も、私が留学した1980年代も、21世紀の今もまったく同じというわけだ。

つまり、日本はこの100年間まったく変わっていなかった、のである。アメリカもそうである。


(お)アメリカの高校教育は何を教えるか?→人生は楽しいと教える。

高校を卒業してみて池原先生がアメリカの高校の特徴、特に私立高校の特徴は何かというと、それは、「詰め込まれない」が、人生を楽しむことを教えられるということだという。

その一つが、高校生も「筆記をしない」。つまり、我国で言う、いわゆる「板書」=「黒板写し」をしないということだという。

なぜか?

というと、教科書が素晴らしいからだという。

実はこれは基本的にこの100年アメリカの学校教育の伝統であり、いまもまったく同じである。アメリカの中高生の教科書は分厚く、懇切丁寧で、板書を必要としない。

大学も同じようなスタイルである。

高校では予習が基本であり、次回の授業までにここまで読んでこいといって、授業ではその内容のディスカッションになる。

だから、英語がわからないとついて行けないのである。

どうやら当時はそれをレッシテイション(recitation)と呼んでいたらしい。復習という意味だという。

アメリカでは、授業が復習であって、宿題が予習なのである。

その復習の場である授業で、分からなかったことを先生から教えてもらうという方式だった。


ここで池原先生は面白いことを書いているのでそこをメモしておこう。

アメリカ人は「頭が悪いそうですね」という人が、よくあるので、その理由を聞くと、日本人の方が学校の成績が良いと聞いていると答える。もしもそれほどまでに、日本人が「頭が良い」のならば、日本は今日までに、もう楽しい、住み良い国になっているはずである。その上、成績の良かった「優等生」は、アメリカ人よりも、文化的に貢献していなければならない。成績のよい日本人が、社会人として、世の中で役だっていないのは日本人の勉強法や学校の成績が、社会人としての良さの尺度とならない証拠である。
もう一つの大きな問題は、アメリカの「良き教育」を受けても、それを社会的に活用したり発展させる能力に欠けているのではないかという疑いをいだかしめることである。日本人が学校で学ぶのは、「受験技術」であって、教育の目的をないがしろにしている。このような状態になったのは日本の学校教育において第一に教える教師の教養の低いことである。第二に良い教科書がないことである。第三には生徒の努力が足らぬことである。かくして考えてみると、先生の再教育をして、日本人の文化程度をあげることは、実は大事業であり、そのためには長い年月がかかることを認めなければならない。
アメリカの教育の特徴は、教える立場の先生が、真に教え得る能力をもっていることである。生徒の質問に答えるには、生徒のもっているよき教科書以上の理解が必要である。先生も努力している以上、生徒も努力することを求められるから、怠け者は、私立学校でも、どしどし退学させる。私がラットガースに入学したときに、シニアの生徒は24人もいたが、卒業したのは、わずかに14人であった。日本人は入学した学校は、卒業さしてもらうのが、当たり前に考えているが、私立学校においても、不適格な者は退学さすだけの権威を保っている。

とまあ、こんなふうに卓見を書いておられたのである。

いやはや、1922年の留学体験から、1947年にはこんなことを書いていたわけだ。

かつて私が留学を終えた1990年に「三セクター分立の概念」という本を書いたが、その中のアメリカの大学教育の説明もほぼ同じ観点論点で書いているから正直驚く。それより半世紀近く前に池原先生が同じことを書いていたのである。

おそらく21世紀の今現在もほとんど同じ情況が日米の間には存在するわけである。

かたやアメリカには文部省がなく、かたや我国には明治時代から文部省があり、1995年に文科省となっていまにいたるが、その構造は日米それぞれの文化伝統を作って来た。

高校までは日本の方が勉強できるが、大学大学院社会人となるにつれて、逆転現象が起き、アメリカは相変わらず世界のリーダーを育てるが、我国からは一向にリーダーが育たない。こうした傾向は100年前からまったく変わっていないのである。

さて、この後には当時のラットガース大学の4年間のカリキュラムのプログラムが記録されているが、それははしょり、池原先生のアメリカの高校生活の話はここで終わりにしておこう。

別の高校、さらにMITの話はまた今度にしておこう。


この100年間は一体なんだったのか?

結局、この池原先生の見いだした情況が、大東亜戦争を生んで行った。そして、当時すでにたくさんの日本人がアメリカに移り住んで頑張っていたが、戦争時に強制収容所に入れられて、全財産を失い、大変な情況になったのである。

もし我国のバカ政府が、韓国の従軍慰安婦に謝罪するなら、その前に、まずはアメリカに行った日本人に謝罪すべきでしょうナア。大半がキリスト教徒の日本人だったようである。

ところで、後先になったが、1922年に池原先生が渡米した年の1年前、大正末期の当時の世界最高のテニスの大会は何だったと思うか?

実はそれが今言うデ杯こと、デヴィスカップだった。当時イギリスのウィンブルドンはまだなかった。国際大会ではなかったらしい。

そして1921年のデ杯の決勝戦は、なんとアメリカ対日本だった。その時の日本代表が、熊谷選手と清水選手であった。
国際化への道、熊谷、清水が拓く
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この清水選手があの
柔らかなボール
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のテニス選手である。(1980年代のビヨルン・ボルグより60年以上前にトップスピンを使っていたのである。

この1921年にはじめて我国で硬式テニスが普及し始めたのであるという。それまでは我国には軟式テニスしかなかったのである。

いまの錦織圭選手の活躍がテニスブームをもたらしたように、1921年の熊谷、清水の大活躍で、日本に硬式テニスブームが起こったのである。

それを大東亜戦争がぶちこわし、世界最高レベルから一気に最低レベルに落ちてしまったのである。

おもしろいのは、池原止戈夫先生がラットガース時代に最初に住んだ時は、私人の井上玄一さんの家の下宿を借りたそうだが、そこに熊谷選手が前年の1921年に宿泊していたのだとか。

あれから96年。

今や誰もそんなことは知らないで、テニスをしておられる。


いやはや、世も末ですナ。








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by kikidoblog2 | 2017-07-24 18:12 | 真実の歴史

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