みなさん、こんにちは。
さて若き池原止戈夫先生、ついに2年の生活を終えて、ラットガース大学を卒業し、1924年にシカゴに移動することになった。
(あ)アメリカの大学のフラターニティ
その池原先生がアメリカのフラターニティのことをやはり述べていた。拙著「三セクター分立の概念」にももちろん私も書いたことがある。
アメリカの大学というと、フラターニティ(Fraternity)を無視できない。というほど、アメリカの大学特有のシステムである。
ちょうど我国で言えば、大学のサークルの運営に近いが、それを寮生活に変えた物だと思って欲しい。
我国では、大学にはさまざまな部活(体育会系)やサークル(文化系)があり、その運営は学生自治会に任される。
これと同じように、アメリカの大学の場合は、大学の近郊に学生が自治するサークルのような寝食をともにする寮が存在するのである。それぞれの寮には掟があり、独自の宗教思想目的がある。入寮の儀式(イニシエーション)もあれば、入会金のような高額のお金もかかるものもある。
それ以外に、大学が経営する大学寮(Dormitry)がある。が、こっちは私のような留学生や一般の学生が入寮する。だいたい2人部屋である。
一方のフラターニティは大学創立の時代からある伝統のある古いものがあり、そういうものには、たいていギリシャ文字の3語の名前がつく。
ΑΒΓ(アルファ、ベータ、ガンマ)とかそんなふうな名前がついているわけだ。
各大学には伝統のフラターニティがあり、歴代の大統領が入ったというものまであり、政界とのつながりやら、財界とのつながりのある、有名なフラターニティがある。
ちょうど我国で言えば、筑波大サッカー部に入れば、先輩には日本サッカー協会会長がいるというような感じであろう。
またわが国のサークルにかつてオウム真理教の麻原彰晃が教祖となったヨガサークルがあったが、いまもさまざまの新興宗教の隠れサークルのような物が存在して、そこに迷い込んだ子羊をアムウェイとか、オウム真理教とか、カルト宗教とか、そういう世界へのフロントの役割を果たすものがあるように、フラターニティにもそういう闇の世界のフロントとしての面もある。
これで一番有名なのは、イェール大学のスカル&ボーンズである。これもまたフラターニティの一種である。
だから、日本ではサークル、アメリカではフラターニティをちゃんと選ばないと、変なサークルや変なフラターニティにはいるとトンデモナイことになるというのは共通事項である。
そうは言っても大半は普通に素晴らしいもので、日本のサークル活動やアメリカのフラターニティ活動で青春を謳歌し、叱咤激励しながら、友情を深め、大人に成長して行くのである。
ところで、ノーバート・ウィーナーのようなProdidyの場合は、早熟の天才すぎて、頭は大学生でも身体も精神も子供だったから、こういう組織に入れなかった。そういうつらさがあったと自伝に書いている。こういう意味では、やはり心身同等の発達が理想的といえるだろう。
ところで、我国の大学にもアメリカのフラターニティに近いものがある。
四国で有名なのは、高知大学の南溟寮である。私の長男もここに3年在籍したが、まったくの学生の自治である。入寮の儀式もあるし、さまざまの義務もある。入寮する時、即座に先輩100人の名前をたった1日で覚えてこい。さもなくば入寮を許可しないなんていうのもあった。
東大の駒場寮とか、京大の吉田寮だったかな。こうしたものも有名だよネ。
神戸大には、白鴎寮がある。我が家の次男はここに4年いた。ここにはかつての海軍学校の名残があって、結構厳しい海軍式の入寮式があったようである。
たぶん、戦前からの伝統だろうが、やはりアメリカのフラターニティの影響だったのかもしれないナア。どことなく似ているところがある。
(い)シカゴの生活
池原先生は1924年にラットガース大のプレップスクールを2年で卒業し、シカゴにあるこれまた高校に入り、MITの入学試験にパスする準備に入った。
そんな池原先生がシカゴに移動し、下宿探しのためにホテルで宿泊し、よくわからない土地で最初に入った下宿先でのこと。まず1週間分を前払いしたという。
その初日の夜。名案もないまま一つの家に入った。6月下旬のことで暑いのはどこも同じであるから、一部屋を借りることにして、一週間前払いした。
夜、床の中で、暑い暑いと、ひとりごとしながら、うつらうつらしていると、何か顔の上をはうものがある。どうも、かゆいので変だと思って、電灯をつけると、さっさと逃げる虫が1匹、2匹、3匹といる。
これが、かねてから聞いていたシカゴのナンキン虫であると思ったので、早速、家主にナンキン虫がいると、抗議を申し込もうと思ったが、英語で何と言うのか解らない。
鞄の中から、和英辞典を取り出して調べて、不平を言うと
「君が持って来たのだろう」
とすましている。
「自分等は、そんなものに悩まされたことがない」
と、付け加えた。
朝になるのを待って、下宿探しに出かけた。今度は小さな講演に面した所に、三階建てのこぎれいな家を見つけて、下宿のバアさんに、ナンキン虫のことをたずねると、いないという。確かそうな口ぶりであったので、住まいを早速うつして生活の計画を立て、暑い間、電気学校に籍を置いた。1年間の厳格な寄宿舎生活から放たれたので、朝起きてみると、授業に間に合わないことも多く、映画を見る方がたのしくなった。
たしか私がユタにいた頃、当時の日本人留学生の友人がいて、その人の話とそっくりで驚く。
その人の場合は、自分の先住の人間が中国人だったらしいが、それとは知らずにその部屋を借りた。
すると、ある晩、口の中に何かが入って来た。気付かずにいると、顔の上に別のやつがはう。
それで、うわ、なんだっこれは?と電気をつけてみると、なんとゴキブリだった。それで天井を見上げると、そこには無数のゴキブリがはいつくばっていた。
あまりの恐ろしさに、すぐにその部屋から別に移ったという話だった。そして私に教訓その1を垂れてくれた。決して中国人の後に入るなと。
新しい下宿先や部屋を見つける時には、先客が中国人ではないか、ゴキブリやナンキン虫やダニがいないかCheckする。これが世界の常識である。
(う)1923年関東大震災が起こった。
さて、池原先生、無事に良い下宿先を見つけて、シカゴ大学生活をスタートさせる。
そんな矢先の8月。まずアメリカの大統領のハーディングが突然死した。代わりにクーリッジ大統領が誕生したという。
その次の9月に東京震災、いまいうところの「関東大震災」の一報を知らされたというのである。
神戸にいた家族は無事だったというので安心し、池原先生は映画三昧。
要するに、映画を見て英語のヒアリングを強化し、アメリカ文化に接したわけである。
しかし、MITの準備をするつもりでシカゴ生活し始めたのだが、映画三昧でまったく仏語と英語と物理のまだパスしていない教科の勉強が進まない。
そこでまた下宿先をもっと田舎の閑静な場所に変えようと思い至る。そのために、池原先生当時呼んでいたシカゴデイリーニュースという新聞紙に「静かな部屋求む」という広告を出す。
すると、メイウッドから1通の連絡が来る。
そこで、メイウッドにその下宿先を見に行くが、そこは線路沿いでうるさそうだから、歩いて別の家を見回る。そして一軒の家をみつけてそこにしたというのである。
(え)メイウッドのハイスクール
閑静な土地で一人でMITに入学するための一種の浪人生活をはじめたが、相変わらず集中できないので、いっそのこと高校に入ることにしたというのである。
たまたま偶然にもメイウッド生活の下宿先の数分の場所に地元の高校があった。それでそこに入学してMITの準備をすることにしたというのである。
ところが、そのハイスクールは今でいえば、地元の白人校。
あまりの白人米人の明るさと快活さとエネルギーに圧倒され、池原先生はなんと一ヶ月もどうしたら入学できるか、行くべきか、行かざるべきかとハムレットの心境になってしまったらしい。あっと言う間に1週間、2週間と過ぎ、一ヶ月過ぎてしまった。
しかし意を決してついに校長先生に会いに行く。
すると、校長先生は最上級生の仮装舞踏会の相談に出向いていて秘書が対応してくれた。それが良かったのか、二時間ほどの間に秘書が用件を理解して、戻って来た校長先生に話してくれた。
すると、その校長先生は
「どこに住んでいるか」
「年はいくつか」
と聞いてすぐに
「よろしい」
と入学を許可してくれたんだと。何の書類もいらないし、秘書が明日から来なさいと言ってくれ、すぐに高校生活が始まった。
その高校が、市立のProviso Township High Schoolだったという。
そこで、英語を3科目、フランス語(2年次)と物理を履修することにしたというのである。
ラットガースは私立のこじんまりした高校だったが、ここはかなり大きな公立の高校だった。
しかしここから池原先生のアメリカの当時の本当の高校生活を知ることになったのである。
ここから先はまた今度。
それにしても大正時代のアメリカの公立高校ってすばらしかったんですナ。金色に輝いていたんですナ。
100年後の今は公立高校と言えば、最悪のイメージしかないのだが。
どうしてこんなことになってしまったのか?
いやはや、世も末ですナ。