池原止戈夫の「アメリカ学生生活」:今の我が国の公立高校は昔のアメリカの公立高校の真似だった!?   

海外の反応 外国人留学生が紹介する高校生活に世界から感動の声!「日本の学校へ行きたい」

(日本の高校は昔のアメリカの高校のコピーなんだけどナ。
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みなさん、こんにちは。

さて、ちょっと間が空いてしまったが、例の池原止戈夫博士の「アメリカ学生生活」の話の続きをメモしておこう。

ラットガースの大学準備のための高校を卒業し、英語にもアメリカ生活にも大分慣れて来た頃、シカゴに行って、MIT入学に必要な単位で、ラットガースでは不合格になってしまったものを独学でパスしようと頑張っていたという話をメモしておいた。

最初にシカゴで借りた下宿は、シカゴ名物のナンキン虫にやられ、すぐに別の場所を探す。静かで勉強に適した場所はないかとシカゴの新聞に「静かな下宿求む」の個人広告を出したところ、1通の手紙が来て、それがメイウッド市からのものだった。

そこでメイウッドに行って、その下宿を探すと、そこは鉄道のすぐ横でうるさく、勉強には適さない。そこで、市内を歩き回り自分で下宿を探したところ、ちょっと良い場所があった。それで、そこを新しい勉強の拠点にしたのである。

ところが、後で気付くと、目と鼻の先に地元の高校があった。

そこは金髪碧眼の若人のエネルギーの降り注ぐ市立の公立高校で、日本から来た池原止戈夫にはあまりのまぶしさに近寄り難かった。

自分で独学して準備するより、いっそのことその高校に入学し、そのカリキュラムを通じてMITのための関門科目を取得した方がやりやすい。

だが、日本から来た池原には敷居が高かった。

楽しそうで、ぜひ入ってみたい。

しかし、あまりにアメリカ的快活な楽園の高校であり、自分には不向きかも。

こうして、行くべきか、行かざるべきかで悩む。しかし、一向に独学が進まず、映画やコンサートばかりに行ってしまった。

そうこうしているうちに月日はあっという間に1ヶ月、2ヶ月と経つ。


そこで、思い切ってその高校に出向いて行って事情を話すと、校長が仮装舞踏会の談義から戻り、会うなり、

君何歳?どこに住んでいるの?

の2つの質問だけで、OK。明日にも来なさいといわれて、翌日から高校生になった。


とまあ、そこまでメモしたんだが、今回はそのメイウッドの高校の当時のアメリカの公立高校の学生生活の様子をメモしておこう。

結論からいうと、驚くべきことに、最近我が国に海外から高校生として交換留学しにきた外国人の高校生が、我が国の高校に対して持つ印象と実に似ている、ということである。

言い換えれば、
100年前のアメリカの公立高校は、21世紀の今の日本の公立高校と同じようなものだった

ということなのである。

100年前〜90年前の1920年代のアメリカの高校は、公立高校の方が私立の有名高校よりレベルが高かった
のである。

ラットガース高校では、学生数がたったの90人程度。

それに対して、メイウッドの市立高校は、学生数が1300人。我が国のマンモス校とほぼ同じである。

この高校こそ、Proviso Township High Schoolだった。

これまた結果からメモすると、池原止戈夫さんが、こうして入学したのが、途中入学の1924年2月。そして6月にあっという間に卒業したというから、正味たったの4ヶ月の高校生生活だった。


ラットガースでは英語の先生がたったの1人だったが、大人数のメイウッドの高校にはたくさんの英語の先生がいた。だから、英語の授業で出される課題もいろいろだったという。

英語Iは、英語の授業はほとんど作文。テーマについて書いてこいという感じでエッセイが義務づけられる。

そして、本=名作を読まされて、それについて書け、というスタイルらしい。


エドガー・アラン・ポー
ホーソーン
ブレット・ハート・オ・ヘンリー
エンリー・ジェームズ
モーパッサン
コッペイ
バルザック
ドウデー
アナトール・フランス
トルストイ
ツルゲーネフ
ビヨルンセン

さらには、3000字の短編を書け、というものまであったとか。


英語IIは、ほとんどディスカッション。討論である。

本を読まされてそれについてみなで討論する形式だったという。まだろくにヒアリングのできない池原止戈夫さんは冷や汗ものだったとか。

シェークスピアのハムレット
サッカアリーのヘンリー・エズモンド
ディッケンズのDavid Copperfield
Pickmik
Oliver Twist
NIcholas Nickleby
Jane Eyre
テニッソン
ロバート・ブラウニング
マコーリーの「ジョンソン博士伝」
カーライル
ラスキン
Edmund Burkeの議会演説「アメリカとの和解」
ダーウィンの進化論
ミルトンの詩
サックソンヌの詩
チョウサーの詩

などなど。がんがん読まされては討論させられたというのである。

というわけで、当時のアメリカの母国語教育の洗礼を受けた池原止戈夫さんは、我が国の国語教育もこういうふうにやるべきだと考えた。

当時のアメリカは破竹の勢いであった。

理想主義に基づき、次世代建設のためにより一層の高いレベルに国民を引き上げようとしている最中だったというのである。

池原止戈夫さんは、そういうアメリカの時代=古き良きアメリカ時代の生き証人となったのだった。

我が国(1947年当時の)のインテリに対して、池原止戈夫博士はこう書いた。

使い古しの言葉ではあるが、文化的素養がそなわっていてこそ、社会人の一人として、学問が生きるので、日本が本質的に進化しない原因はこの点を見逃していることにあると、信じている。


21世紀になったいまでも我が国にはこのことを理解しない人がいるから面白い。最近でも、池田信夫だったかな、大学の教養課程がいらないとか、文系はいらないから廃止しろ、なんて言っている始末である。

我々人たるものは文系の一般的素養があってはじめて人生をエンジョイできるのであって、科学技術はそれができて後のことなのだヨ。

哲学とは人生の道しるべ。

哲学のない韓国では、人になれずいまだにヒトモドキから脱することができずにいる。池田信夫っていうやつも朝鮮系かもナ。


20世紀の革命児のノーバート・ウィーナーは、もともと哲学で博士になった。そこから論理学を学ぶうちに、数理論理学へと進み、そこから微積分を学び、微分方程式論と進み、自分の哲学「この世のすべては不確かだ」というものを実現する数学を探すうちに「ウィーナー過程」というランダム現象を扱う数学的古典を生み出したのである。

つまり、何事も哲学が先なのだ。

最近では、理系の人よりも、文系の人の方が、プログラミングでも面白い発想を生み出すことが知られている。理系の堅物になると、使い物にならなくなるわけだ。


さて、池原止戈夫先生の高校生活の続き。

上にも書いたように、当時のアメリカの公立高校の生活は大変素晴らしく、楽しいものだったという。

いまの我が国の高校のように、学校行事がたくさんあり、次から次へと面白い行事てんこもりだったらしい。

ちょっとどんなことがあるかを池原先生が紹介していたので、ここにメモしておこう。池原止戈夫さんは、本来なら9月か10月に始まる学年を数ヶ月遅れて、2月に入学した。

2月末  
身体検査

これがまた面白い。当時のアメリカの高校生の身体検査は

全裸

でやるという。下着姿はNG。

なぜか?

要するに、

性病検査=おちんちんの検査

を兼ねているからだと。しかし、思春期の高校生が相手だ。

おい、お前のちんこみせろ

といって、高校生の性器を触って調べるのはさすがに高校生も嫌がる。

そこで、苦肉の策で誰かが考えた。生徒全員を全裸で身長体重検査、目の検査をさせ、しかるべき医者がその隙にチンコを観察し、それを記録する。

これが当時のアメリカの身体検査だったという話である。実に面白い。

我が国でもいまは若者の性病が蔓延中。

全裸の身体検査をして、その隙に性器Checkする、なんてどうでしょうか?


無事性病にかかっていなかった生徒には次の行事が待っていた。

3月  
英国の劇作家シェリダンのThe Rivalsの演劇がある。
運動では、バスケットボール大会
月末 ダンスパーティー

このダンスパーティーは、上級生は下級生を誘い、相手が見つからない場合は、学校の先生が他校の女生徒を探してくれるんだと。

まあ、ダンスのパートナーを探すだけで、それ以上の意味は無いのだが、実に親切。


21世紀になって、オタクっぽい若者ばかりになった我が国でも、月末はダンスパーティーで異性と語り合うという機会を作るというのも、そろそろ文科省も考えるべきかもナ。少子化対策のためにもネ。


4月
バスケットボール
卒業生は、卒業式の準備に入る。

ここで、アメリカ独特の伝統のことを述べる。

要するに、アメリカでは卒業(Graduation)の式典のことを、commencement(始業式)と呼ぶ習わしがあるのである。

今の学校の卒業式は、次の学校への始業式だ、という考え方である。

これは、どことなく、サッカーのデッドマール・クラマーコーチの有名な言葉:
試合終了のホイッスルは、次の試合の始まりのホイッスルである
に似ている。


この準備で、日本でいう総代となったものは、卒業式告別演説(Valedictory)を書かなければならない。

次点者は、開会挨拶演説を行う。

クラスの歴史を記録するもの。
滑稽な遺言状を作るもの。
各生徒の未来について預言を試みるもの。

こういう者が推薦されるというのだ。

このあたりをこう書いている。

1年生(フレッシュマン)の中でも、良くできる者は、特別に取り扱われ、2年、すなわち、ソフォモア(Sophomore)に学力が近いから、両者の名称をとって、Fushmoreと名付けて、2年生が歓待され、ダンスで終わる。


4月末には、日本でいう父兄参観のような「父子会」の宴会がある。


5月

5月1日 父兄会。

卒業生の女子は、シカゴ大学のお茶会に招かれる。

5月8日 最大のダンスパーティー開催。

5月16日 「5月の女王」選び。
これは我が国のキャンパスクウィーンのようなもので、この女王を中心に野外劇をする。

陸上競技会。我が国の体育祭のようなもの。

学校のパイプオルガンの修理費稼ぎに、男子音楽祭開催。オペラクラブは小歌劇を開催。

6月

4月のハイスクールで若いながらも社会の一員としての素養を得て、人生の道を行く「始業の週」(commencement week)が、日曜は礼拝、月曜は「クラスの行事」として、音楽会、なか一日二日で、「卒業式」。

その間にダンス会、先生との送別会。

日本のような、祝辞の代読というようなものはなく、名士を招いての興味ある話(Class Adress)が開催。


とまあ、当時のアメリカの公立高校の生活とはこんな感じだったんだと。


ところで、当時のアメリカの公立高校は、戦後の日本のクラブ活動のように、課外活動が盛んだった。

そんなクラブにはこんなものがあったらしい。今は知らないが。

音楽→オーケストラ、バンド、合唱隊

科学→カメラクラブ、科学クラブ、自然科学者クラブ、数学クラブ、ラジオクラブ

「公論と討論」部→いまでいうディベートクラブのようなもの。優勝すると全国大会まであった。

外国人向けクラブ→ドイツクラブ、イタリアクラブ、スペインクラブ、フランスクラブ、万国クラブなど。

もちろんこれら以外にバスケットボールとかアメリカンフットボールとかのスポーツクラブもあった。


1937年当時で、このメイウッドの高校には、40数カ国の外国人がいたという。


最後に、この当時、つまり1922年〜1924年当時のアメリカで流行っていたらしいものとは、Coueの自己暗示法というものであった。

「自分は毎日毎日、あらゆる点でよくなりつつある」
"Day by day in very way I am getting better and better"

という文句を20回静かに口ずさむことだという。


池原止戈夫さんはなんとか無事メイウッドの高校を約半年で卒業し、MITへの関門科目も全部パスした後、一人近くの森を感傷に浸りながら歩いていると、友人のカップルに出会った。

すると、彼らは驚いてこう言った。

「まあ、よく独りで歩けますね」



いやはや、アメリカ人は100年前もアメリカ人だった。まったく変わっていなかった。


いずれにせよ、最近のYouTubeの時代になり、我が国の高校生の生活を見て、自分の国の高校は?とため息つく他国の高校生、中には欧米の高校生もいるのだが、どうみても我が国の高校はこの時代のアメリカの高校を真似しただけにしか見えないんだが。

自国の歴史をもうちょっと調べてみたらどうでしょうナア。


いやはや、世も末ですナ。




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by kikidoblog2 | 2017-08-03 18:33 | 真実の歴史

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