“釈然としない”ノーベル物理学賞41番目の席:甲元「TKNNの顛末には釈然としない思いがある」
2017年 10月 18日
41番目の椅子=アカデミー・フランセーズ
定員40人制を堅持しているため、いわゆる「41番目の椅子」で待ったまま、会員になれず死去した著名人も数多い。このような人物として、デカルト、パスカル、モリエール、ルソー、プルーストなどが挙げられる。
みなさん、こんにちは。
昨年のノーベル物理学賞は、コスタリッツとサウレス、およびハルデーン
私はハルデーン
またサウレスにはあったことはないが、世界初で量子ーホール効果を発見した日本の川路 紳治博士
サイエンスインタビュー第1回 半導体の中の「2次元の宇宙」川路 紳治 名誉教授にもあったことがあるし、その理論づけを最初に行った東大の安藤恒也博士
にもあったことがある。
また、安藤先生が主催した、2次元半導体国際会議のときには、後に最初に量子ホール効果でノーベル賞をとることになるフォン・クリッティング
にも、その後の分数量子ホール効果でノーベル賞をとることになるラフリン
にも、ハルペリン
にもあった。
当時若気の至りで、その新進気鋭で強面のラフリンに
「あんたの理論のゴールは何だよ」
って聞いたんだよな。
すると、ラフリンは答えた。
「そんなの知らね〜よ。お前がそれに答えたら、また日本人のノーベル学者が増えるぞ」
ところで、京都で開催されたその国際学会では、たしか舞妓さんが2人祝賀会にやってきた。
当時俺も若かったから、近くにお酌に来た舞妓さんに話しかけたんだが、なんて話したかは忘れてしまった。
たぶん、「きみは何歳?」
って聞いたんじゃなかったか。
とにかく楽しい国際学会だったし、きっとすぐにノーベル賞をとるはずだという大方の予想があり、その時の意気軒昂な安藤先生と川路先生のお姿が眼に焼き付いている。
あれから、何十年か経ち、ご存知のように、本当なら、川路ーフォン・クリッティング・でノーベル賞をもらうべきだったが、実験の精度がなんたらといちゃもんつけられて、クリッティングだけでノーベル賞をとった。
そして川路先生は41番目の席の人になった。
同じく、ひょっとしたらクリッティングと安藤先生でノーベル賞とも言われたように、安藤先生は理論家だからといういちゃもんをつけられて、41番目の席の人になった。
次のチャンスは分数量子ホール効果のときだったが、この時は、整数量子ホール効果の最初の説明を加えた理論で、甲元眞人先生も話題に出た。
(右は田崎晴明氏)
実はちょうどこの写真が取られた時代、私は甲元先生の助けでユタ大に留学していて、この同じ席で同じようにして話をしたことがあったのである。
しかし、私はまだ何者でもなく、田崎氏のように東大同胞でもなかったから、甲元先生はもっとしかめっ面をしていた気がするが、その前にその家からその家に戻るまでいっしょにジョギングしたのだった。若い俺の方が大分早かったが、爽快に走ることができた。
そして奥さんの手料理を満喫させていただいたのである。確かケイコさんだったかな。当時娘さんが2人いた。
後に甲元先生がユタ大から東大物性研に転職されたので、私は、最初はクレッグ・テイラー先生
の下でアモルファスの実験をすることになり、テイラーの学生になった。
すると、すぐにイスラエルから光実験でポリアセチレンのソリトンの研究をしていたヴァーディーニー
というユダヤ人が来てその人の学生になれといわれて、彼の弟子になったのだ。
ところが、ある日それまで甲元先生の下で1次元準周期系の研究をしていた俺は、とある理論を思いついて、彼から作れと言われていた電源回路を作らずに、その理論を見せた。
すると、
「な〜〜お前。俺を悲しませるなよ。俺には同じような悲しい経験がある。長年手塩にして育てた優秀な実験の弟子がいたんだ。そいつがよりにもよってその期に及んで理論に走ったんだぞ。俺はお前にそうしてほしくない。お前は実験をとるのか、理論をとるのかどっちなんだ。もし理論をしたいのなら、お前は首だ。You are fired!いいか、わかったか!」
とまあ、それで俺は
「じゃあ、ソリトン実験は興味あったが、これまでずっと理論やってきたし、理論を取ります」
といってクビになった。
すると、暫くしてビル・サザーランドの研究室の前を通過中、突然ドアが開き、ビルがこっちをみて、
「カズモト、もし良かったら俺と仕事しないか?俺で良ければ指導教官になってやるぞ」
と声をかけられた、それで俺は
「きた〜〜、お願いしま〜〜す」
という感じでビルに弟子入りしたわけだった。
このビル
もすでに何度かノーベル賞候補になっている。たぶん、いつの日かとるのではないかナ。もしテーマが量子可積分系に来たときにはナ。
この時代、甲元先生がショー・チャン・ザンを招いて、ノーベル賞のシュリーファーといっしょにやっている高温超伝導の講演をした。その夕、いっしょに飯でもどうと甲元先生に誘われて、ソルトレーク郊外にある寿司店でいっしょに寿司を食いながら、いろいろ話すことができた。
この彼の師匠のシュリーファーは後に交通事故を起こして人を殺してしまい、刑務所入りしてしまうのだが、このショー・チャン・ザン博士
は、いまではトポロジカル絶縁体でノーベル賞候補No.1になっている。
ところで、この頃のユタ大の物理の教授研究室の配置は、ビル・サザーランド、甲元、ヨン-シー・ウー(Yong-Shi Wu)
と隣接していた。
俺はこのあたりをいつもうろついていたんだが、今思えば、ノーベル賞空間だったかもしれない。それほど最先端の研究をやっていたんだヨ。
おれは見えない幽霊のようなもので、まったくまだ仕事らしい仕事がなかったから、そういうものだ。
そうそう、たった一つだけ、ユタに行って最初のサンクスギビングの日に思いついた甲元ーカダノフータンの理論を光学系に使うという問題である。これはアメリカに行くずっと前に日本で失業している頃、気晴らしに行っていたプールの水面を見ていて気がついたものだった。
それを最初すぐに甲元先生に話に行くと、留守だったから、隣の部屋のビル・サザーランドにまだ英語もろくに話せない俺が、
「こんなアイデアを思いついたんですが、」
というと、
「じゃ、そのホワイトボード使って話してみろよ」
ってサザーランドが聞いてくれたのだった。そして、
「ふ〜〜ん、これは面白い」
ということになり、
「じゃあ、後でマヒートーに話しておくからネ、ば〜〜い」
という按配だった。
翌週、サンクスギビングデイが終わって物理の廊下を歩いていると、
「井口さん、あのアイデア面白いよ。僕やっていい??」
「じゃあ、どうぞ。ぜひやってください」
って追いう感じで、しばらく俺はすっかり忘れていると、甲元先生からプレプリを渡されたんだ。
これが俺の名前がついた最初のPhys Rev Lettの論文だった。それがこれだった。
Localization of optics: Quasiperiodic media
Mahito Kohmoto, Bill Sutherland, and K. Iguchi
Phys. Rev. Lett. 58, 2436 – Published 8 June 1987
今思えば、K. Iguchiではなく、Kazumoto Iguchiですと訂正しておけばよかったかなと思っている。これを見た人の大半は別のK. Iguchi(Kei Iguchi)さんと間違えるからだ。
これは光が局在化する話だから、甲元先生はまだノーベル賞のチャンスはあるのだ。
「光の局在化」という現象を最初に発見した論文の1つであるからだ。
さて、こうして甲元先生は東大に去るそのちょっと直前のたしか1988年の春のある時、数学インテリというアメリカの数学雑誌の記事をビルが俺にくれた。キャロライン・シリーズという女性数学者の論文だったが、これが実に俺にはお面白かった。
というのは、無理数をいかに分類するかという数学の問題をある種の数学的方法を使ってやるのだが、その数学が甲元先生のトレース・マップとそっくりだったからだ。
これを初夏頃まで俺は隣にある数学部の図書室の虫、ゴキブリとなって、連日そこで文献を調べ尽くした。すると、この手の数学はかのドイツの大帝と呼ばれた大数学者フェリックス・クラインまで遡ることを見つけたのだ。
そして、夏前にはいろいろ細かい手計算を続けて、毎日毎日、
AがABに変わって、BがAに変わる。A→AB, B→Aというようなシンボル計算と、分数や無理数との関係を構築しようとしたわけだ。
そしてついに初夏の頃、その一般化を確信してビル・サザーランドの所へ持っていった。
「インプレッシブ、これ論文にしていいよ」
ってPhDのゴーサインが出た。
それから、すぐに論文にしてPhys Rev Lettに投稿するわけだ。が、この後の顛末がこれだった。
In My Memory of Leo Kadanoff:私の記憶のレオ・カダノフ→ユダヤ人を垣間見た!?
これで俺は相当にがっくり来て、それならということで、1年かけてじっくり数値計算もしてもっとしっかりした論文にしようと頑張る結果になったわけだ。
この遅れで、PhD Thesisの方が引用論文より先に出来上がる結果になった。普通とは後先になったのだ。これがアメリカで職を得る際の不便になった。
結局、ポスドクを得ることなく帰国したのである。
ところで、この頃、ちょうど今の奥さんと初めてユタで出会ったのである。当時旅行者だった。
たまたま姉妹で旅行しているとき、なにせ当時はバブル全盛期、世界のどこにも日本の女の子たちが闊歩した時代である。ユタも例外ではない。
「これからジョギングに行くけど、いっしょにどうですか?」
「いいよ」
それでソルトレークのシュガーハウス公園で三人でジョギングして、それからデートするようになったわけだ。
その時私が物理の話をすると、「AがAB、BがA〜〜」って言っていたからそれが「エビがエビが。。。」と聞こえたらしい。
とまあ、1988年は私にとって実に実り多き年だった。
ユタの出会い-1988年
ユタの再々会-1990年
その頃の論文がこれ。
Kazumoto Iguchi, "Theory of Quasiperiodic Lattices I: The Scaling Transformation for a Quasiperiodic Lattice" Phys. Rev. B43, 5915-5918 ( 1991).(公表は大分遅れることになった)
Kazumoto Iguchi, "Theory of Quasiperiodic Lattices II: The Generic Trace Map and Invariant Surface" Phys. Rev. B43, 5919-5923 (1991).
Kazumoto Iguchi, "Exact Wave Functions of an Electron on a Quasiperiodic Lattice: Definition of an Infinite-Dimensional Riemann Theta Function", J. Math. Phys. 33, 3938-3947 (1992).
Kazumoto Iguchi, "Optical Property of a Quasiperiodic Multilayer", Mater. Sci. Eng. B15, L13-L17 (1992)
あれからほぼ30年。
ノーベル賞は確実だと俺が思っていた甲元先生もまた、41番目の席に座らされてしまった。
これはかなりアンフェアであると思うヨ。
大分前置きが長くなってしまったが、この辺のことをかつて1989年に甲元先生自らが語った言葉がある。以下のものである。
物性研に着任して 甲元眞人
その当時、よく外からKadanoffをたづねて来た人に会って話をしてましたが、 私自身Chicagoを離れた事なく、アメリカでの物理界の様子や自分に対する評価は余りわかりませんでした。 ですから、Washington大学にいたThoulessがPostdocの「職を作って読んでくれた時は、非常に嬉しかった事を憶えています。 ですから、Washington大学にいたThouless
と一緒に仕事をする事は(少なくとも当時の私にとっては) 非常に難しい事でした。 最初は二次元周期系に磁場がかかった時の電子スペクトルが奇妙になり、cantor集合になるとい うような事に関連する問題を始めました。 しばらくやっているうちに、当時のもっとも話題になっていた量子ホール効果と関連づけする事ができると 思い、そのアイディアを彼に話しました。
ところが「そんなことはtrivialだ」と言われ、すっかりやる気をなくしました。 後になってこのアイディアはTKNNとかThouless et al.とかよばれる論文になるのですが、この間の 事情は今でも釈然としない思いがあります。 そんな訳で、一年足らずのうちに、Ilinois大学移りました。
ところが、それ以降の私の研究の多くはWashington大学時代に考えていた事に基づいています。 Thoulessとは短い期間にしか一緒にいませんでしたし、それほど密接に議論した訳ではないのに、非常に大きな影響を受けたのには自分でも、不思議に思います。Ilinois大学に移ってからは、 Chicagoが近かったので、またよくKadanoffの所へ行きました。私は準周期系の電子状態に興味を持っており、また彼も準周期軌道からのカオスの発生に関する仕事をしてましたので、議論の中から、繰り込み群的な考えを電子状態の問題へ導入するアイディアが出てきました。 その他Illinoisでは、周期系の量子ホール効果がトポロジカルな不変量として現わせる事をきちんと示しました。
実はこの話は、ユタ大のカフェや甲元先生の家に招かれたとき、私も聞いたことのある話だった。
要するに、一言で言えば、サウレスは最初甲元先生のトポロジーの話を理解できなかった。斬新過ぎたのだ。
ちなみに、コスタリッツーサウレスの相転移の話は、甲元先生のトポロジーの話とはかなり違い、同じ二次元系でも結晶の中の転位とか欠陥とか、そういう物質に見える幾何学的トポロジーの熱力学の問題であって、一方の甲元先生の方は、量子力学的な波動関数に関わる量子的トポロジーの問題なのである。
2次元の統計力学は1次元の量子力学と等価にできるから、もちろん数学上は両者は関係付けられる。しかし、本質的にはまったく違うのである。
それを、サウレスは「自明だ」といって、拒絶した。にもかかわらず、サウレスが少しずつ問題の中身がわかってきて、いっしょに論文に書いたが、その第一著者になった。
それがThouless et alとなって、結局サウレスだけがノーベル賞。
かなりおかしい話ですナ。It's funny business!っていうやつだナ。
ちまたの噂話では、何十年も前からこのサウレスはノーベル賞委員会に手紙を送って、
「あいつがノーベル賞なら俺のほうが先だろう。なんで俺にノーベル賞が来ないんだ」ってな調子で頑張っていたというのだ。
押しの強いやつが生き延びる。声のでかい奴の意見が通る。
とまあ、科学の世界でも外人の声の大きさに日本人は負ける。
きっと釈然としないTKNN論文でサウレスがノーベル賞をとって、ますます甲元先生は釈然としないにちがいない。
それにしてもあとからノーベル賞を評価した解説を書く人、今回は押川君だが、こういう人はもういつも同じパターンにハマる。
つまり、ノーベル賞委員会の選考理由を正当化する方に働くのである。(左から大栗、ハルデン、押川)
2016年ノーベル物理学賞「トポロジカル相転移と、物質のトポロジカル相の発見」(自分の師匠がノーベル賞取り損なったのをクレームつけずに、敵を讃えてどうする?恩知らずか?)
しかし、評価はフェアで厳しくしないといけない。
量子ホール効果に関しては何であれ、一番最初にそういう実験をしたのは学習院大学の川路先生だ。そして、それに最初に久保公式を見事に使って理論化に成功したのは安藤先生だ。同様に最初に量子ホール効果をトポロジー効果だと考えたのは甲元先生だ。ちなみに、最初に量子ホール効果の理論に組紐群のブレイド群を持ち込んだのも甲元先生とWu先生だ。
この事実を無視してはならない。
ノーベル賞はある時は先駆者を拾い、ある時は完成者を拾い、またある時は、発展者を拾い、要するに一貫性がないのだ。第一発見者なら第一発見者。物事の完成者なら完成者。しっかり定義しないとフェアではない結果になる。
高温超電導のミュラーとベッドノーツは単に最初に作っただけで、それが高温超電導だと最初に示したのは、日本の氷上先生とアメリカのチュー博士だ。だが、この時は、作っただけの2人に行った。おまけに作っただけの2人に実験で高温超電導だと示したのは、そこで働いていた高成さんだったか、日本人だった。
整数量子ホール効果では、第一発見者で世界にこの現象を広めた川路先生が無視され、それを精密測定しただけのフォン・クリッティングだけが受賞した。
ようするに、ノーベル賞はダブル・スタンダード、トリプル・スタンダードなんですナ。いい加減なんだ。ご都合主義なんだ。
まあ、サウレスは俺が職くれてやったんだから、その成果は俺のものだっていう調子だったんだろうナア。
いやはや、世も末ですナ。
by kikidoblog2 | 2017-10-18 12:55 | 個人メモ