「新一の『心の一票』」:「心壁論」と、論理構造の解明・組合せ論的整理術を「心の基軸」 とすること2   

(つづき)

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の私的ブログ
新一の「心の一票」
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子供の頃(=5歳~10歳=初めて米国に渡って間もない頃)の私は、上記のような「難しい言葉」では上手く表現できなくても、上記のような状況を子供なりに、「空気的」に、直観的に完全に理解していましたし、「一神教の人間ではない」、つまり学校等でよく耳にした、より素朴な表現で言うと、「お前は神を信じるのか、信じないのか」というような形で問い詰められたりして遭遇した苦しい社会的な状況もあって、言語だけでなく、

      古代ギリシャやローマの
     (「日本と同じ」)多神教

に大変強い関心を持っていました。実際には、ヨーロッパでは、古代ギリシャやローマだけでなく、ケルト民族やドイツ民族、更にはロシア民族には、キリスト教が普及する前に長らく続いた多神教の伝統があったのです。

一つの決まった「心の基軸」と言えば、戦後日本の場合、様々な分野における

  「対米(あるいは場合によっては対欧米)
  従属の文化」

という(私に言わせれば)日本のみならず、米国あるいは欧米を含めた人類全体にとって非常に残念な文化的傾向・「心の基軸」があります。またその対米従属の文化と切っても切れない関係にあるのが、在日米軍基地の問題です。在日米軍基地は本当は日本国民(特に沖縄県民)のみならず、選挙期間中のトランプ氏の様々な発言や、どんなに厳しい批判を向けられても犯罪行為(=当事者による一種の「悲鳴」ともとれる)が後を絶たない在日米軍基地の関係者の実態からも窺えるように、米国側にとっても大変に頭の痛い負担となっています。在日米軍基地の存在そのものについては、将来的には、技術の進歩や様々な工夫によって更なる整理・縮小を(一国民として)期待したいという漠然とした思いはあるものの、日本を取り巻く厳しい軍事的な状況や、自分はそもそも軍事の専門家ではないことを考えると、強い主張等は特にありません。

私の場合、子供の頃から問題にしたいと強く感じているのは、むしろ在日米軍基地関連の問題を含めた「対米従属の文化」全般、あるいは別を言い方をすれば、

    「日本人の心の中の米軍基地」

とも言える、残念な精神構造・「心の基軸」です。

この文脈でいつも思い出すものの一つは、1990年頃の日米貿易摩擦の時代に、(ソニーの会長だった)盛田昭夫氏と政治家の石原慎太郎氏によって共同執筆された「ノーと言える日本」という本です。当時プリンストン大学の大学院生だった私がこの本をどこで購入したかは覚えていませんが、何とか購入して興味深く読み、自分も「ノー」と言うべきときには

      「ノーと言える人間」

になりたいなと強く思ったことを覚えています。

ここのところの(=2017-10-19付けおよび2017-11-14付け)記事では、数学とは何か、あるいは数学と芸術等との関係について様々な考察を述べていますが、上記のような文脈で見ると、

   数学=人類の認識の仕組みの論理構造
   の解明はまさに、「ノー」と言うべき
   ときに断固たる「ノー」を突き付ける
   ための、一種の究極的な技術・手段

であるように思います。残念ながら、今日の日本の文化では、

   (過去あるいは現在の)欧米の数学界
   のエリートに対して、憧れの念を極める
   =諸手を挙げて究極的な「イエス」を
   発信することこそが「数学」である

かのような解説がなされることが多いような印象がありますが、私が強調したいのは、むしろ

  そのようなエリートのような相手に対して
  は、「ノー」と言うべきときに断固たる
  「ノー」を、数学を通して突き付けること
  こそが、数学の本来の精神であり、数学が
  果たすべき役割である

ということです。

また何度も繰り返しますが、様々な形態の「対欧米従属の文化」や「心の中の米軍基地」に対して、謙虚な姿勢で論理構造の解明・研究を遂行することによって「ノー」を突き付けることは、「拳を振り上げる」=「盾を突く」ような好戦的な姿勢として誤解されることもありますが、本当はそのようにすることは

   長期的には、日本のみならず、欧米を
   含めた人類全体にとって最も健全で
   建設的な道

になると、(様々な経験を踏まえて)強く感じています。

最後に、ここのところ報道等でよく話題に上る北朝鮮の核兵器の問題ですが、このような報道を見るといつも(改めて!)痛感しますが、

  人類にとって最も究極的な「武器」は
  やはり核兵器や化学・生物兵器等では
  なく、物事や仕組みの本質的な論理構造
  を研究し、明らかにすること、つまり、
  一種の広い意味での「数学」


ではないでしょうか。私は軍事の専門家でも、朝鮮半島情勢の専門家でもありませんが、北朝鮮の核兵器の問題を見ても、一見すると「核兵器」が問題の本質のように見えても、本当は「核兵器」も、今我々が生きている時代の様々な「非本質的な技術的な要因」によって偶々浮上した一種の「小道具」に過ぎず、「小国」の北朝鮮が世界の大国を手玉に取る「外交術大国」としての地位を固めることができたのは、「偶々浮上した小道具」の「核兵器」を利用する場面があっても、本質的には(核兵器そのものとは全くの別物である!)

   世界の大国の権力構造を支えている
   論理構造を正確に解明し、その盲点を
   突く技術が非常に高度に発達している


ことにこそ、主たる要因があるのではないでしょうか。


赤字や太字は私がつけたもの。気にしないでほしい。望月先生のサイトで読んでほしい。


(い)さて、面白い内容なので、いろいろメモしたいことがあるが、これはまたにして、

最初の英語で日本のことを表現しようとすると全部へんてこな色眼鏡のかかった濁った世界に代わる、という話、実に思い当たる。

私もユタにいた最初のうち、簡単なこと単純なことほどどういえばいいのか迷ったものである。

この手の話の一番最初は、やはり

発音上のrとlの区別のことだろう。

日本人はこれができないから劣っているとみなされがちである。

しかし、私のブログ1で「シッチン」、あるいは、「rとlの区別」で検索すれば、この話が出てくるはずだが、

シッチン博士が研究したように、古代シュメール語の世界まで遡れば、rとlの区別はまったくなくなるのである。

blood(血)とbright(明るい=聡明)は現代英語ではまったく違った意味の単語にみえるが、その意味の語源のルーツまで遡れば、ほとんど同じことになるわけだ。

なぜなら、金髪碧眼だったアーリア人の祖先であるシュメールの神々=ニビルの神々の血のことやその明るさをそういうふうに表現したにすぎず、br、blともに、後のインドのブラフマンや、ブリティッシュのブラとかブリと同じ意味だからである。

要するに、アーリア人の血がブラッドであり、アーリア人の見た目と頭脳がブライトなのである。


(う)英語にはこういうふうな人種的な優先順位が音の響きに込められているが、我々日本人にはそういうことは理解できない。

たとえば、日本をJapanと書いた場合、日本人を意味するJapaneseという英語には、「人」を表すのに使われる英語の4つのやり方の1つだけが使われている。

Japan+ese =Japanese

Japan+ish= Japanish

Japan+a=Japana or Japanica

Japan+ian=Japanian or Japanan

この違いが見てくれの違いだとわかるだろうか?

Japanese→日本に住む黄色いやつら

Japanish→日本に住む俺らと同じやつら

Japana→日本に住む黒い奴ら

Japanian→日本に住む何かわからないやつら(ヒトモドキ=亜人種)

我が国にいるハーフタレントは真ん中の意識をもって過ごす。だから、非公式のハーフ会を開き、そこでいつも日本人の悪口をいったり、バカにして過ごしている。

同様に

Chinese→支那に住む黄色い奴ら

Korean→朝鮮に住む何かわからないやつら(ヒトモドキ=亜人種)

語頭と語尾でそうやってイメージを伝えるわけである。


こんなふうなことが英語には入っているために、英語で表現すると、軒並みあらゆることにバイアスがかかってしまうのである。

単に音としてみれば、一見無意味になるが、西洋白人種にだけはそのイメージが正確に伝達されるような仕組みになっている。

こういう歴史的な異物が英語世界には縦横無尽に入り込むために、こういうことに我慢ならない精密な思考をもつ人間は英語を嫌うわけである。西洋人でもそうだ。

だから、西洋人でも日本語好きもいる。


こういう流れが分からない、村上春樹とか、イシグロのような人がノーベル賞にもてはやされる。あるいは、映画では北野武がカンヌ映画祭でもてはやされるわけだ。

彼らからすれば、日本人が日本人を小馬鹿にしている様がおもしろい、痛快なわけだ。


さて、そんなわけで、

欧米の白人種が英語を子供の頃からごく普通レベルの成人として身につければ、それは

英国の1700年の歴史+その英国人子孫の人生=1700+80年=1780年

ということになる。つまり、白人が英語を話せば、英国の伝統的人間に育つ。

そこへ、日本人が英語を身につける場合は、

英国の1700年の歴史+その日本人子孫の人生=移民新参者の人生=80年

ということになる。つまり、我々日本人の子供がいつ英語を学んだとしても、その時のニューカマーとしてしかならないのである。

ところが、もし日本の子供が日本語を身につけると、それは

日本の2700年の歴史+その日本人子孫の人生=2700+80年=2780年

になる。つまり、自分では当たり前のごく普通の日本人にすぎないと思ったとしても、海外の人間には、2700年の世界最古の国の国民と見えるわけである。

英語には英語の歴史がひそんでいるように、我が国の日本語には、ここ数千年のアジアの歴史が込められている。

単に日本語は、日本だけの話ではないのである。


ところが、こういうことをまったく考えない、あるいは、考えると発狂する在日系の入った文科省の役人たちは、むりやり英語の早期教育に走ったというわけである。

我が国の教育システムは、

戦前の素読教育→戦後詰め込み教育→ゆとり教育→英語早期教育→

とますます日本語軽視に走ってきたが、この流れの意味は、

外人優遇教育=自虐史観育成

にあったわけである。


というわけで、やはり望月新一博士は厳密な思考を基盤にする数学者である。岡潔と同じで、非常に物事を精密に理解する事のできる人らしい。

実にすばらしい。

今後の活躍を期待したい。

望月先生はまだ独身で、新垣結衣さんが好きらしい。いろんなテレビ番組からも出演依頼が来ているらしいから、ぜひ新垣結衣さんが出るはずの紅白の審査員とか、そういうものは拒絶しないで御出になられた方がいいのではないだろうか?

俺個人的には、ぜひかつてのイギリスのケインズのように、新垣結衣さんにプロポーズなんていいと思うがナア。


いやはや、世も末ですナ。





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by kikidoblog2 | 2017-12-21 10:11 | 望月新一・心の「一票」

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