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祝「ぼっちゃん高校」120年目で甲子園出場!:ここ阿南の富岡西が120年目の甲子園!   

みなさん、こんにちは。

今回はここ徳島阿南の話をメモしておこう。というのも、地元の公立高校の富岡西高校の野球部がなんと

120年目の甲子園

120年めにして初の甲子園出場を決めた!からである。

富岡西(徳島)初の甲子園 
創部120年 センバツ21世紀枠

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この富岡西高校は徳島で二番目にできた旧制中学校で、最初が徳島尋常中学校第一分校(後の脇町中学、現高校)、その次が徳島尋常中学校第ニ分校(後の富岡西中学、現高校)であった。

その古さは、あの夏目漱石の坊っちゃんの時代、夏目漱石の「坊っちゃん」のモデルになった教師がこの富岡西高へ赴任したことからわかる。

その当時からその「坊っちゃん」先生のモデルが好んだうどんが、阿南の「ぼっちゃんうどん」である。
坊っちゃんが「坊っちゃんそば」を食べる!:坊っちゃんのモデル弘中又一が通った福助

では、そのモデルはいたのか?

というと、それが、弘中又一という、漱石の親友であった。この人である。

弘中又一
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【略歴を説明しよう】・・・

1873年(明治6年)  夜市(やじ)川の上流に広がるのどかな湯野温泉・山口県都濃郡湯野村第287番地で、
父・弘中伊亮、母・タメの長男として生まれる。
萩藩の重臣・堅田 就政 の旧家臣の家に生まれ、地元の湯野小学校に入学する。
高学年になると、桜田小学校(現在の 戸田小学校)の中等科を卒業。
1890年(明治23年) 京都の同志社普通学校(現在の同志社大学)に入学。
私塾時代の漢文の先生が京都に住居を構えたことから、 慕って京都の学校へ進学した、という説がある。
1894年(明治27年) 同志社普通学校を卒業。柳井小学校代用教員となる。
1895年(明治28年) 5月に、愛媛県松山尋常中学校の英語の教師に赴任する。
そこで、夏目金之助、後の夏目漱石と職場を共にする。
1896年(明治29年) 愛媛尋常中学校東予分校に転任し、その年に徳島県尋常中学校第二分校に転任する。
1900年(明治33年) 埼玉県尋常中学校第二分校(旧制熊谷中学時代)に着任する。
1912年(明治45年) 同志社中学校に転任する。
1932年(昭和7年)  同志社中学校を退職する。
1938年(昭和13年) 8月6日、京都に住んで数学などの研究をされていましたが、死去する。


というのも、この弘中の赴任は、その徳島県下で二個目にできたばかりの尋常中学校の新任として学校の立ち上げに貢献することだったのである。

時は、1896年。

以来幾多の戦争を超えて、県下の俊雄、秀才たちがこの尋常中学校に集まった。

その後、戦前の富岡西中学、そして戦後の富岡西高校へと変化した。

今現在徳島の中高年のリーダーの大半はこの富西出身である。

しかしながら、県下随一の進学校であったがゆえに、甲子園どころか、サッカーの選手権の出場もなかったのである。

ところが、高度成長期のあたりに阿南にもう一つの進学校が登場した。

富岡東高である。

ここは最初は男子校の富西、女子校の富東として誕生した学校だったが、どういうわけか、徳島県教育委員会と阿南市教育委員会がことごとく伝統の富西を弱体化させ、新興の富東に肩入れし、後発の富東が進学校の地位を奪い取った。

数年前、それに業を煮やした富西は中高一環教育への舵をとったが、その最初の発案者の富西が後から名乗りを上げた富東にその計画を乗っ取られてしまったのである。

以来、富東こと富岡東高が中高一環のナンバーワンの進学校になり、伝統の富岡西がナンバー2の辛酸をなめてきた。いまや逆に女子が多いのが富西になり、いまでは女子学生の方が男子学生より多くなる始末である。つまり、女子高化していると聞く。

ところが、女子高化するということは、ある意味では、商業高校化するというようなものだから、男子の場合も勉強よりスポーツが得意というものが増える傾向にあるわけだ。

どうやらそれが幸いし、野球の上手な選手が増えたようである。


また、10年ほど前に新市長が誕生し、その市長さん、サッカーより野球が大好きで、とにかく野球に力を入れ、それまでは、青色発光ダイオードの街「ひかりの阿南」だったものが、いつの間にかトップレベルの野球場までつくり、合宿所やトレーニンルームまで完備させ、いまや「野球の街阿南」に唯我独尊してしまったのである。

だから、いまや市内のいたるところでキャッチボールはしている子供はみるが、ボールを蹴る子どもたちは見なくなってしまったのである。

この市長ができる前、我が家は私が自分の息子たちを幼稚園時代からすこしずつサッカーボールを蹴らせて、いつの日かここ阿南で県優勝を目指して、

県南サッカーに革命を!

のスローガンでやってきて、コーチとして阿南高専、息子たちのサッカー部の父兄として、阿南中学、富岡西、富岡東のサッカー部と関わり、ついに

阿南高専初の全国高専大会ベスト8

富西戦後初のベスト8

富東戦後初の準優勝


までこぎつけ、なんとか県南サッカーの灯火を灯したのだった。

が、それもついにこの市長により消し飛んだのであった。

富西、富東ともに出ると負けの一回戦ボーイになった。


が、しかし逆に野球は盛り返したというわけだ。


まあ、日本全国で唯一いまだ公立高校しか、甲子園出場とサッカーの選手権に出場のない県というのがここ徳島県である。私立高校より、公立高校の方が強い県。

最後の砦である。


言い換えれば、いまだに地元の子どもたちが普通に学区で通い、そこで鍛え、学び、そこで強くなる。たいした環境でもないのに、創意工夫で頑張る。こういう高校が甲子園に出るのは意味がある。

大阪桐蔭とか、青森山田とか、東福岡とか、こういう高校とは正反対の純日本的スタイルのごく普通の高校である。


だから、言い換えれば、

地産地消

の高校である。

地産地消でも努力すれば全国に行ける。進学校でも、公立校でも甲子園に出られる。


こういう例はすばらしい。


頑張れ、富西。


俺も息子のサッカーの練習試合のときには何度も富西のグランドに行ったものだ。

ちなみに、我妻も富西出身。デフテックのシェンの義理の母も富西出身。私の息子の長男も富西、次男が富東。

まさに地産地消である。

まあ、トレンドとしては最高の学校へ行くというも一つの方法だろうが、地方が衰退しないためには、やはり地産地消で発展させるということが大事であろう。さもなくば、ゆくゆくは地方が外人師弟だらけになる。あるいは、廃校になる。

ちなみに「ブラック学校」なんていうのはまやかしである。「生徒が多すぎて〜〜〜」というのは都市部の話であって、地方はどんどん廃校か合併である。

この富西、富東も奥さんの時代の半分の生徒数しかない。だから、教室が空く。

なぜ先生が忙しくなったか?これについてはまたいつか?


おめでとう、富西野球部!

まずは甲子園1勝初戦突破を目指せ!

頑張れ、富西野球部!

ちなみに、富岡西の学校カラーは早稲田色=ベージュ=茶色である。







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by kikidoblog2 | 2019-01-28 10:35 | 阿南&徳島

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