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「70年目のサイバネティックス」から学ぶこと:ウィーナーの自伝は預言書だ!   

みなさん、こんにちは。

いや〜〜やはり古い本あるいは古い時代の人を研究しないとだめなようである。

ウィーナーの伝記:
情報時代の見えないヒーロー
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レジェンド:ノーバート・ウィーナーの父がハーバード大ユダヤ人教授第一号だった!
ノーバート・ウィーナー「情報時代の見えないヒーロー」:彼はAIの未来を見通していた!?
1935年ノーバート・ウィーナーは我が国に来ていた!:ウィーナー「東大より阪大の方がいいね!」
・リアル・グッド・ウィル・ハンティングが存在した!:ピッツ君、静かに歴史を作り静かに死す!?
「ピッツ君が引きこもったわけ」:もしマーガレットがアスペじゃなかったら?世界は変わっただろう!?
ウィーナー「情報時代の見えないヒーロー」にみる南京大虐殺:ユダヤ人て何も知らないんですナ!?
「70年目のサイバネティックス」:いまこそウィーナー研究を復活させるべき時だ!
「70年目のサイバネティックス」裏話:ウィーナーは生まれ変わりを信じていた!

これは本当にウィーナーの人生とサイバネティックスの顛末を知る上では素晴らしい本である。

一方、
「サイバネティックスはいかにして生まれたか」(1956
年)
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は、ウィーナーの自伝の成人時代版、研究人生版という意味で、これは科学者必読だろう。

しかしながら、自民党の下村元文科大臣以来、大学は古い本の除籍運動にハマっているため、こんなサイバネティクスもウィーナーの本も、のきなみ出版年数だけみて除籍処分されてしまうのである。今の大学図書館はまったく内容を見ないし、判断しないらしい。

まあ、下村は叩き上げの大学入試の受験塾講師出身の政治家だ。アカデミズムの何たるかを理解出来るはずがない。

とはいっても、どうも下村以前の民主党時代にまで大学図書の除籍化運動は遡りそうである。おそらく民主党(現民進党)が密かにやり始めたものだろうと思う。

だれが開始したにせよ、大学図書館の本は税金で買ったものだ。ゆえに、勝手に図書館の本を除籍することはできない。それをしたとすれば、税金の無駄、あるいは、古本屋協会への利益供与にあたる。

この辺は警察権力が捜査すべき案件でしょうナア。


さて、大分前置きが逸れたが、上の二冊目の「サイバネティックスはいかにして生まれたか」あるいはその前書にあたる
「神童から俗人へ」
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は実に良い本である。

これは単にウィーナー個人がどのように成長して、いかなる数学及び科学上の成果を上げたか、という問題以上に価値ある内容が記載されているからである。

私の個人的見解では、つまり、なぜ私がこのウィーナーの自伝を読んでいるかというと、
(あ)ウィーナーの数学上の概念の起点を見つけること
(い)ウィーナーの数学上の成果がどこに公表されたかを知ること
(う)ウィーナーの数学上の概念を理解すること
(え)ウィーナーの時代背景を知ること
(お)ウィーナーの戦争体験を知ること
などのためである。

その中でも自伝を読み始めて痛切に感じるようになったことは、
ウィーナーが記録した当時の戦争体験はこれこそ歴史的遺産ではないか
ということである。

なぜなら、ウィーナーは第1次世界大戦と第2次世界大戦の両方を実体験した。

第一次世界大戦は若い時代に米軍に従軍して軍隊に入隊したし、第二次世界大戦ではMIT教授として軍産複合体に電算機開発で協力した。

しかしこれはあくまでかなりアカデミズムに関連する方向からの話にすぎない。

実は、ユダヤ人には放浪グセが遺伝的に仕込まれているというように、ユダヤ人は何年かするとしきりに旅したくなるらしい。まあ、そうやってセックスして現地人に自分のDNAを振りまくためだろうが、このウィーナーにもそういう特質があった。

だから、英独留学からアメリカに帰国後もしばしば欧米を行き来した。

面白いのは、まあ欧米人の、特に欧米のユダヤ人の自伝というものでは、いつも実名がそのままでるということである。

だれそれはこんな人物だったとか、あいつは左翼だったとか、あいつはナチスにかぶれていたとか、そういう書き方がされているのである。

ここは我が国のいわゆる「情緒」や「他人への配慮」や「恐れ」を考慮して、A君はこうだったとか、B氏はへまをしたとか、Cさんは病死したとか、こういうふうな婉曲的、匿名的に書く自伝とは違う。

その点、ユダヤ系のノーバート・ウィーナーの自伝にはそっくりそのままの形で数多くの科学者や数学者や人物たちの実名で記されているのである。

ここが歴史的価値のあるという理由である。


そうすると、よく読んでいくとわかってくるのだが、かつて欧州にいたユダヤ人にはカテゴリーとしては2種類いたことがわかった。

つまり、(1)裕福なユダヤ人と(2)普通のユダヤ人の二種類である。

言い換えれば、ユダヤ人全員が差別されていたわけではなかったのである。そういうことが分かる。

(1)の裕福なユダヤ人の代表が、英国ではロスチャイルド家であり、欧州ではフォン・ノイマン家であり、フランスのランダウ家である。

それに対して第一次世界大戦後のチャップリン映画や第二次世界大戦後の米ハリウッド映画で描かれたような(2)の貧乏なユダヤ人、あるいは普通のユダヤ人がいた。

面白いことは、今でもそうだが、
裕福なユダヤ人にはろくなやつがいなかった
ということだ。たいていが横柄で傲慢であった。だから、一般の経験なカソリック教徒のドイツ人の反感を買ったのである。

一方、貧乏なユダヤ人はいつも
自分たちは差別されている
という不満たらたらの生活を送っていたのである。つまり、自分たちは優秀なユダヤ人なのになぜ活躍できないんだという不満を持っていたのである。


さて、ここでレッスン。

この状況はどこかで見る風景に似ていないか?

そう、我が国の今である。

戦後の我が国では、戦前戦中戦後に我が国に移住したたくさんの朝鮮人が住んでいた。そして戦後の朝鮮戦争後にさらにたくさんの朝鮮人が移民した。

終戦後、我が国はどん底を経験した。

そんな時、我が国にいた朝鮮人には二種類いた。

(a)すでにかなり裕福になっている朝鮮人と(b)貧乏な朝鮮人である。

日本社会で裕福な朝鮮人はマイノリティーながら大多数の日本人とある程度協調せざるを得ず、それでも豊かな生活をしていた。

一方、貧乏な朝鮮人は犯罪スレスレの生活か犯罪を起こすような生活を行っていた。しかし、心の中ではいつも自分たちは日本人から差別されているから成功できないのだと考えて暮らした。そして今もそういう教育を行っている。

というように、第1次世界大戦前の欧州、第2次世界大戦前の欧米と、第2次世界大戦前の日本と戦後の今の日本が実によく似ているのである。

だから、私はウィーナーの自伝を読むと、かなりの正確さで今後の我が国や世界の未来を知ることができるのではないかと思うのである。

第一次世界大戦および第二次世界大戦前の欧米の貧乏なユダヤ人はどうしたか?

というと、共産主義に走ったのである。つまり反体制派になったのである。

つまり、今の差別された現実よりはマルクスの唱えた共産主義の方がマシだと考えたのである。

その矛先に古くはフランス王朝の伝統、ドイツ王朝やワイマールの伝統、ロシア王朝の伝統、など、こういったものがなった。

まあ、実際、欧州の王族貴族は奴隷制を敷いたくらいだからやたらと厳しい圧政の伝統があり、欧州の封建主義は我が国の封建主義とはまったく別次元の厳しさだったようである。

欧州には江戸時代はなかったのだ。

ここが小名木善行さんのいうところの「ウシハク国」と「シラス国」の違いである。

さて、そこに欧州の裕福なユダヤ人が目をつけた。

彼らは大半が裕福な銀行家であった。

これまた戦後の我が国とちょうど対応する状況である。

戦後の我が国でサラ金、パチンコ、アダルト、芸能界、ラブホテル、売春宿、こういった脱法的ビジネスで金銭力をつけたのが在日朝鮮人(南北朝鮮は区別しない)であった。

いま現代フォーブス長者番付に日本人として出てくる日本の長者は、9割が在日朝鮮人である。他1割は日本人だが北朝鮮人ソンテチャクが終戦後に乗っ取った創価学会系信者である。

ウィーナーの自伝を読むと、どうやら第一次世界大戦前の欧州がまさにそういう状況だったということがわかるのである。

数学の超天才のドイツ人のデービッド・ヒルベルトはかなりの貧民家系出身であった。努力と天才性と成果で名をあげたのである。そのせいか、ヒルベルトは実に素朴で控えめな人だったらしい。

一方、裕福な銀行家の師弟だったランダウ(数学者の方)は、やたらと傲慢で高慢ちきの天才だったらしい。

こういうことがちゃんと実名で書かれているのだ!

まさにいま現在我が国の芸能界やマスコミを牛耳る電通のエリートの師弟そっくりである。

問題は、この後何が起こったか?

こういうことである。

まあ、陰謀論を知っている人はよくわかっているだろうが、そういうことが実際に起こったのだった。


つまり、欧州の裕福なユダヤ人たちが、貧乏なユダヤ人たちに開放宣言させて、社会運動して表社会に出ていくようにバックアップしたのである。その1人がロスチャイルド家だった。

つまり、左翼思想にかぶれた貧乏ユダヤ人を社会で運動させて、ドイツ社会を大混乱に落としれたわけである。

こうやってさらにドイツ人のライバルを蹴散らそうとしたわけだ。


こうなると、保守層と左翼運動家との間で戦いが始まる。


こうした結果、保守層からナチスが誕生し、最初は大したことはなかったが、それが第一世界大戦後にどんどん勢力を増してくるわけである。

まあ、陰謀論を知っているものであれば、そのナチスのボスになったヒトラーは遺伝的にはユダヤ人だったのであるから、実際にはある種の偽旗作戦の一種だったことが分かるはずである。


レッスン2。これはどこかで見覚えはないだろうか?

そう、これが今のアラブの状況である。そしてアラブのイスラム教徒が大量に欧州に移民しつつある今の状況である。

要するに、イスラム解放同盟のようなものが立ち上がると、それに対する保守層が出てきて、保守層か開放同盟かいずれからまたもっと過激なイスラムのヒトラーが生まれてくるということである。

あるいは、欧州人からそういうヒトラー二世が生まれてくる可能性もある。


翻って、我が国をみれば分かるように、ソフトバンクの孫正義のような裕福な朝鮮人(=在日朝鮮人=帰化人)が潤沢な金を使って、左翼思想に凝り固まった貧乏朝鮮人の活動家を援助する可能性がある。

そうなると、貧乏朝鮮人が社会解放同盟を生み出して騒ぐ結果、保守層から東条英機が登場するわけである。


日本は世界の雛形である。

あるいは、

欧州は日本の雛形である。

のいずれが本当かどうかわからないが、現実は両者が非常によく似ているのである。


もしこうしたレッスンを学ばず、同じことを繰り返せば、おそらくやはり第三次世界大戦に行き着くだろうことは必至である。


とまあ、ノーバート・ウィーナーの自伝からこういうことが分かるわけですナ。そういう意味ではいまこそ読まなければならない必読書なのである。



いやはや、世も末ですナ。



おまけ:
考えてみれば、我が国の江戸時代末期もかなり似た状況だったといえるかもナ。士農工商の最下層の商人には大富豪がいたわけだ。大富豪と最下層の貧乏人。大富豪が貧乏商人や貧乏武士をそそのかして裏で資金援助し、徳川幕府を打倒した。



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by kikidoblog2 | 2017-05-17 15:12 | 真実の歴史

ウィーナー「情報時代の見えないヒーロー」にみる南京大虐殺:ユダヤ人て何も知らないんですナ!?   

みなさん、こんにちは。

いや〜〜やはり古い本あるいは古い時代の人を研究しないとだめなようである。

ここ最近少しずつ便学(=大便する間に本を読む)している例のウィーナーの伝記:
情報時代の見えないヒーロー
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レジェンド:ノーバート・ウィーナーの父がハーバード大ユダヤ人教授第一号だった!
ノーバート・ウィーナー「情報時代の見えないヒーロー」:彼はAIの未来を見通していた!?
1935年ノーバート・ウィーナーは我が国に来ていた!:ウィーナー「東大より阪大の方がいいね!」
・リアル・グッド・ウィル・ハンティングが存在した!:ピッツ君、静かに歴史を作り静かに死す!?
「ピッツ君が引きこもったわけ」:もしマーガレットがアスペじゃなかったら?世界は変わっただろう!?
という分厚い本を昨日やっとのことで読み終わった。

私が読むと、本は全部黄色いラインマーカーで真っ黄色になってしまう。だから、中古本としてはアマゾンとかで売ることができない。きっと私が死んだらいっしょに燃やされるだろう。

これからしばらくは
「サイバネティックスはいかにして生まれたか」(1956
年)
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の方に進む予定である。すでにコピーして手元にある。

さて、見えないヒーローという本は、なんと最後の謝辞に
本書は書いて本にするのに8年かかり、企画にはさらに10年余りかかっている。
とある。

つまり、18年以上はかけて出来上がった本らしい。

伝記、それも20世紀最大の貢献者の1人の本である。論文や著作に目を通すだけでもそのくらいの時間がかかるはずである。

まあ、こういう本を書かせてもらえるという点では、やはりアメリカは素晴らしい。もっとも米人ウィーナーだから、米国以外にはあり得ない。

しかるに杉田元宜博士は日本人だから、それをやるのは日本人しかいない。

さて、ウィーナーは米人、それもロシア系ユダヤ人経由の米人であった。だから、やはりユダヤ人経由の出版ということになるだろう。

したがって、我が国の在日朝鮮人と非常に立場が似ている。

在日南北朝鮮人が基本反日であるのと同様に、在米ユダヤ人は基本反ナチである。反ドイツではない。

ここを間違ってはならない。

反ナチズムは反ドイツではないのである。

その証拠に、ノーバート・ウィーナーの父親レオ・ウィーナーは、
ドイツ思想、ユダヤの知性、アメリカ精神の信奉者
だったとある。

ところが、我が国にいる朝鮮人および南北朝鮮人は、そこが糞味噌になる。これが彼らの特徴である。

反旧日本軍→反戦前日本政府→反戦前日本人→反戦後日本政府→反日本人→反日

となるのである。

彼ら朝鮮人の場合、レオ・ウィーナーのような形で、
朝鮮文化、東洋の知性、日本精神の信奉者
というようには昇華しないのである。

さて、見えないヒーローの中にはわずかにしか東洋のことが出てこない。世界人口の2/3が東洋であるにもかかわらずである。要するに、いま世界を席巻しているユダヤ人はまったく東洋のことを知らないのである。

この見えないヒーローの面白いところは、ちゃんと今のユダヤ人が約100年前のメンデルスゾーンの時代に開闢期を迎えたのである。そう書いてある。

ちょうど我が国が明治維新を迎える江戸末期、欧州ではゲットーに幽閉されていたユダヤ人が欧州の表舞台に出ていくべきだという決断を計った。それで、一に教育、二に教育、三四がなくて五に教育という形で、しゃにむに子供に学歴をつけて社会進出させる。そういう時代だった。

むろん、欧州は階級制度がのこる。いまだ大学教授になるには、貴族の娘と結婚するか、あるいは、自分が貴族の血筋でなければなれない。

だから、アメリカに渡ったのである。

ウィーナーの父親もそういう1人だった。

レオ・ウィーナーのいう「アメリア精神」とは、かつて我が国の星一(ほしはじめ)が渡米したときのように、「古き良きアメリカ」のことである。啓蒙主義的であり、クリスチャニズムであり、働くことに意義を見出し、人に親切で真面目で、自由の国アメリカを信じている。こういう精神のことである。

見えないヒーローによれば、どうやらこれが第1次世界大戦、第2次世界大戦を挟んで大きく変わったという。

結果から言うと、レオ・ウィーナーの時代にアメリカに渡ったユダヤ人の子孫の中から、

一部のユダヤ人が事大し、新たなるアメリカの貴族階級になった

ということである。

ユダヤ人にも、
(あ)アインシュタイン、ノーバート・ウィーナーのように、科学技術のハイテクは人類に普遍的に享受されるべきだと考えるもの
と、反対に
(い)フォン・ノイマンやエドワード・テラーのように、自分たち知性の高いものがハイテクを所有し、愚民にはやるな、
と考える2タイプがいるということである。

そして科学技術が大きく進歩した結果、それを考え出したり生み出した方のアインシュタインやウィーナーのようなものが、押し出され、それを得た方のフォン・ノイマンやテラーの方が支配者になった。あるいは、支配者側についた。

ちょうど真田丸で真田家がこれから戦争する徳川家と豊臣家の両方に息子を分配して、どっちが勝っても子孫が生き残る道を考えたように、ユダヤ人は双方に残ったと見ることもできる。

支配者側、被支配者側のどっちに主流が転んでもどちらのサイドにもユダヤ人学者が入ればそれでいいという道を取ったのである。

この点、いつも主流の方にくっつこうとする我が国の学者とはかなり傾向が異なる。


さて、そんなユダヤ人だから、欧州はともかくアジアのことはまったく知らないし、分からなかったのである。ましてやアメリカにしか住んでいないユダヤ人にはまったくアジアの戦争のことがわからない。

というわけで、
我が国がどういう事情で大東亜戦争に至ったか?
についてはこう書かれただけだった。

枢軸国は世界を二極に引き離そうとしていた。
ウィーナーが中国を離れた直後、日本の侵略は、アジア本土の全面戦争になった。
南京では30万の地元民が殺され、黄河周辺の戦闘と洪水で、さらに100万人が死んだ。
日本の侵略を防ぐために、1940年5月、ルーズベルト大統領は、アメリカ太平洋艦隊を、抑止力としてハワイへ派遣した。


たったのこれだけだ。

計18年もかけて作った本の割には、アジアの戦争はあっさり過ぎませんかネ。コンウェイさん、ジーゲルマンさんヨ。

ツッコミどころ満載だ。

まず日本は今の中東のPKOと同じように、中国間の紛争を解決するために多国籍軍の一員として中国に軍隊を満州に住む日本人の護衛として送っていたにすぎない。

そこに国民党自称する蒋介石軍が軍隊ではなく、民間人をいきなり大虐殺し、さらに駐留日本軍の将校まで大虐殺したから、つまり今でいうテロ行為を行ったから、いま米軍がアフガンやシリアのISISに攻撃したのとまったく同じような立場で爆撃したのである。

そして、国民軍が南京城に籠城し、南京市民から搾取レイプ強盗していた南京市を掌握するために、多国籍軍の中で一番軍人数が多かった日本軍が代表として南京奪還作戦として南京城で戦闘を行ったのである。

そして一瞬にして蒋介石の国民党軍を追い払った。そして南京城入場し、南京市民に平穏が戻ったのである。

それから、20万人いた南京市民の人口は一気に二倍にまで増えたのである。

一方、南京戦で負けた蒋介石は逃げるときに軍人だと分かれば殺されると恐れて、民間人の姿恰好に変えてその一方で武装して周りの市民を恐怖のあまりに殺しながら逃げたのである。この犠牲者および市民になりすました国民軍の犠牲者の死体をもって、戦後の支那政府が、「南京のレイプ」と言いふらしたのである。それに尾ひれがついて、東京裁判の時期に支那人作家が「南京の虐殺」という小説を書き、それがいまでは「南京大虐殺」と事大したのである。

だから、南京を救った日本人の方が、南京大虐殺の張本人かのように本で書かれて、それが英語のうまい新人作家だったために、何も世界のことは知らない、学問のことくらいしかご存じなかった、ユダヤ人が騙されてしまったのである。

そして、そういう捏造されたストーリーが独り歩きしていき、なんとウィーナーの伝記の中ですら、さも南京で大虐殺があったかのような記述が残る。

おい、日本政府、岸田出番だよ!何してるんだ、俺の時間を潰さないでくれ!

冗談はよしこさん。

その証拠がこれ。

今日は私の誕生日:「清王朝崩壊」から「日本軍南京入城」までの歴史!これが真実!

映画 南京の真実 記録映画編(上海~南京陥落)


これが真実、南京入城だ!


我が国の外務省には、こうした戦前の従軍カメラマンによる記録映画がきちんと保管されている。国会図書館にもあるはずだ。

コンウェイさんやジーゲルマンさんもぜひ我が国に来てちゃんと見てみたらどうでしょうか?

一方、大洪水の方は、日本軍に怖気づいて怖くなって逃げる方の支那国民軍が大洪水を人為的に爆弾で破壊して起こして支那の民間人がその犠牲になったのであって、日本のせいではない。

さらには、当時は中国大陸はあっても「中国」という国家はなかったのである。

いま中東で「イスラム国」とか、「ISIS」とか、自分でここが自分の国だと主張しあう集団がいくつもあるように、当時の支那大陸では国民党、共産党、パルチザン、および多国籍軍の間でそれぞれの国境があって混乱していたのである。いまのアラブのシリアのように、西側が国民党を承認したとしても、西側がアサド政権を認めないというように、西側は日本軍の統治を認めなかったのである。だから、「中国を侵略した」という言い方はまったく意味をなさないのである。

いまのアラブ情勢がまさに第二次世界大戦前の支那朝鮮の状況瓜二つだから、世界知らず、アジア知らずのユダヤ人はよく考えるべきだと俺は思う。


やはりユダヤネットワークだけでは世間知らず、アジア知らず、世界知らずの感が否めない。

ちなみに、今の台湾の初代総統が国民党の蒋介石。蒋介石は支那共産党軍との戦いに負けて支那を追い出されたわけだ。その蒋介石が戦前は日本だった台湾に逃げてきたから問題がこじれたわけだ。

南京大虐殺を行った張本人は支那共産党の前身であったパルチザン(いまの中東のISISに相当する)と国民党軍だったわけだ。その一派が台湾政府となった。本土に残った犯罪者が支那共産党幹部になった。

歴史というものは、いつも表が裏、裏が表になる。大半が今知っていることの正反対になるものなのである。

この南京の問題は、ちょうど今の中東の問題と実によく似ている。だから、日本が第二次世界大戦にいかにして引きずり込まれたか?を研究すれば、これから世界がいかにして第三次世界大戦に引きずり込まれるか?をある程度予想できるわけである。

第二次世界大戦のアジアの戦争は、朝鮮が発端であった。日露戦争の時は、日清戦争は清海軍が発端だった。南京戦は支那国民党軍が発端だった。

いずれも宣戦布告なしでいきなり攻めてきたのである。

支那朝鮮の「宣戦布告なしのいきなり攻撃」、これが特徴である。

だから、金正恩もおそらく「いきなり攻撃」を加えるはずである。日本人拉致問題がそういうものである。


見えないヒーローにはまだ面白い話が多々あってメモしたいことが残るが、長くなったので、今回はここで止めておこう。


いやはや、世も末ですナ。


おまけ:
ニイタカヤマノボレ
の暗号で開戦した真珠湾攻撃。これが起こったのが1941年12月8日。

これより前の1940年5月にルーズベルト大統領が米太平洋艦隊をハワイ真珠湾に送り出したってあるが、これってどうみても罠だよな。

いまの米空母ロナルド・レーガンが横須賀から硫黄島に退避したように、ハワイに行ったはずの太平洋艦隊の主力は真珠湾にはいなかった。かなり沖合で退避していたのである。

アメリカ海軍の伝統芸は、先に犠牲者を出して、報復するという手口である。

一方、真珠湾攻撃の総司令官だった山本五十六がスパイ説があるのは、その真珠湾攻撃でハワイを奪取しなかったことである。戦わずして、あるいは最小限でハートランドを死守する。これが日本軍の伝統だった。

しかし、山本五十六はちょっと攻撃して終わりだった。むしろ、米海軍の犠牲を最小にする作戦だった。

要するに、米軍に日本への報復戦を促す作戦に見える。

もし真珠湾を東南アジアシンガポール戦のときのようにして、日本がハワイを統治していれば、逆に日本海軍は太平洋全体に睨みを効かせることができたのである。

山本五十六がそんなことが分からなかったはずがない。

だから山本五十六はあっちのスパイだったという説が出るのである。





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by kikidoblog2 | 2017-05-12 10:04 | 真実の歴史

「ピッツ君が引きこもったわけ」:もしマーガレットがアスペじゃなかったら?世界は変わっただろう!?   

みなさん、こんにちは。

いや〜〜やはり古い本あるいは古い時代の人を研究しないとだめなようである。

ここ最近少しずつ便学(=大便する間に本を読む)している例のウィーナーの伝記:
情報時代の見えないヒーロー
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レジェンド:ノーバート・ウィーナーの父がハーバード大ユダヤ人教授第一号だった!
ノーバート・ウィーナー「情報時代の見えないヒーロー」:彼はAIの未来を見通していた!?
1935年ノーバート・ウィーナーは我が国に来ていた!:ウィーナー「東大より阪大の方がいいね!」
・リアル・グッド・ウィル・ハンティングが存在した!:ピッツ君、静かに歴史を作り静かに死す!?
の中で、独特の役割を果たしたピッツ君の話をメモしておいた。

その中で次のようにメモしていた。
・リアル・グッド・ウィル・ハンティングが存在した!:ピッツ君、静かに歴史を作り静かに死す!?

ウォルター・ピッツ
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しかしながら、良かったのはこの時代までだったようだ。

その後、徐々にピッツ博士は幼少期のトラウマに苛まれて精神的に落ち込み、人嫌いになり、孤立化していく。

そして最終的には、アル中になり、肝硬変になって吐血して静かにこの世を去る。

享年46歳。


こうして今言うところの脳科学の基礎理論を生み出した天才浮浪児がこの世を去ったのである。

48年前の今頃の時期である。ご冥福をお祈りいたします。


この理由がなんとなく後を読んでわかったので、それもメモしておこう。


特に、そのピッツ君はリアル・グッド・ウィル・ハンティングのマット・デーモンの役の数学少年のようだったとメモしたように、ピッツ君がマット・デーモンだとすれば、ウィーナーこそ最近お亡くなりになったロビン・ウィリアムズにあたるといえるだろう。

しかしながら、何事においても

現実はSFより奇なり!現実は小説より奇なり!

実際には、ロビン・ウィリアムズが演じた教師が離婚経験者の辛い人生の持ち主であり、実際のロビン・ウィリアムズもまたアル中で薬中の更生者であったように、ノーバート・ウィーナーもまた強度の躁鬱病を患っていたし、ピッツ君も幼少期の家庭環境から来るトラウマを抱えていたのである。

こうしたことが、現実の歴史ドラマを大きく歪めてしまったようだ。

さらに悪い事にウィーナーの奥さんがこれまた今で言う「アスペルガー症候群」にかかっていたようで、まったく人心を掌握できなかった。

サイバネティックスを全世界に広げてノーバート・ウィーナーの名が有名になるまでは良かったが、それはひとたび全世界に知られて有名になると、今度はウィーナーの奥さんが「西太后」のような振る舞いをするようになったのだとか。
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まあ、我々東洋の世界の著名人で言えばそういうことになる。

清王朝の西太后かあるいは朝鮮王朝の閔妃(みんび)。

ちなみに、その本の中では、ポーリング・クック博士がウィーナー夫人をマクベス夫人に見立てている。マカロック博士をスコットランド王に見立てた。


幼少期のスパルタ教育の傷跡がウィーナーの精神を蝕み、徐々に躁鬱病がひどくなる。

奥さんは、徐々にノーバート・ウィーナーがその躁鬱病の鬱状態にある心理的隙間を狙って、ある種の洗脳をしていく。ウィーナー博士の心理を手玉に取って、かつての同僚たちをことごとく仲違いさせて、ついには自分が生み出したMITの研究仲間とその研究部門と敵対してしまうのである。

板挟みになったピッツ君。父のように慕っていたウィーナー博士からいわれなき攻撃や怒涛の叱責にあって、かつての幼少期のアル中暴力父の記憶が目覚めてしまったのか、以後一切MITに出てくることがなかった。

いま我が国で言う、「引きこもり」である。


なんと、哀れなピッツ君。自宅に完全に引きこもり、アル中になってしまったのだ。


そして、ついにその当時時代を数十年は先を行っていた最高級の研究論文、それも博士論文用にすでに2〜300ページは完成して後は公表を待つばかりとなっていた一世一代の大論文。

焼き捨てた!

1952年のことだ。


いや〜〜、痛い。実に残念。


私が読んだ印象では、ピッツ君はまさに学校教育のシステム上に必要な「博士論文」をまとめなければ卒業できなかった。実際には、博士以上の歴史的研究を行っていたわけだ。

浮浪児だったピッツ君。浮浪者生活が好きだった。

研究の合間に時間を見ては浮浪者生活に戻ったらしい。音信不通。だれも居場所がわからない。

いまならスマホで呼び出せるが、なにせこのピッツ君の理論のおかげで電子計算機、パソコンが生まれたのである。だから、当時は電話しかない。電話は家にあるもの。人の手にはない。ポケットにもない。

研究は遅れに遅れ、いつしかウィーナー博士の逆鱗に触れる。

悪いことに、ウィーナーは有名になったストレスと、「世界的に有名になった学者の奥さん」ということでこれまた変な意味でストレスを持ったウィーナー夫人の異常行動によって、かつての天才たちの学友グループが崩壊してしまったのである。そのストレスがもろに何の関係もないピッツ君に降り注いだ。

そうでなくてもDV父親から逃げて浮浪児になったピッツ君。もうMITはおじさんたちの喧嘩や怒鳴り声だらけで、いてもたってもいられなくなった。

「すべてはこの俺の論文のせいだ!ちくしょう、こんなもの燃してしまえ!」

とまあ、おそらくこんな感じだったのではあるまいか?


というわけで、スチュアート・カウフマンに先んじること20年。

「3次元ランダムネット計算機の理論」
「複雑ネットワーク適応脳理論」

これが燃えた。


そうでなくても、電子計算機の理論では、ジョン・フォン・ノイマンに出し抜かれ、情報理論では細々と教えてやったクロード・シャノンに出し抜かれた。

ところで、ここでいう「出し抜かれた」という意味は「独立に先にやられた」という意味ではなく、「いろいろと自分のアイデアを教えてやり共著者になるものと思っていたら、勝手に単独で公表されてしまった」という意味である。ユダヤ系によくみる手口ですナ。俺も経験がある。


その痛手がウィーナーの鬱病を悪化させたようである。


ノイマンの計算機理論もシャノンの情報理論ももともとはウィーナーが提案したものである。それがサイバネティックスであった。

ところが、ウィーナー夫人、なんとノーバート・ウィーナーに

「マカロックとピッツのような手下たちが、今度はあなたのサイバネティックスも盗もうとしているわよ!」

とそそのかしてしまった。


いや〜〜、痛い。


とまあ、そんなこんなでピッツ君は引きこもりになり、ウィーナーは自宅静養となって、天才ウィーナーを失ったマカロックのMITは意気消沈。

サイバネティックスの火が消えてしまったのだとか。


かたや我が国では、九州大学の数学者北川敏男博士が日本学術会議を率いてサイバネティックス研究会を開催し始めた。

1953年、1954年のことだ。

「温故知新」から文科省の「温新知古」の時代へ:「サイバネティックスの時代」は良かった!?

サイバネティックス―境界領域としての考察 (1953年) (現代科学叢書〈第1〉) サイバネティックス〈続(自動制御と通信理論)〉 (1954年) (現代科学叢書) - – 古書, 1954


おそらくこの日本学術会議主催のサイバネティックス会議が、アメリカのメイシー会議の役割を果たし、戦後の日本社会に一気に電化製品、オートメーション、ハイテクへの道を突き進むきっかけになったのである。


さて、
「ブール代数ネットワーク理論」
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というものは、1969年に
スチュアート・カウフマン博士
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がアメリカでできたばかりの大型汎用計算機を使って初めて計算したものである。

これによって、たくさんのアトラクターが存在し、アトラクターの分布がある種の相転移を起こすということが発見された。それにより、カウフマンは通称「天才賞」ことマッカーサー賞を得た。

それに先立つこと20年。

1940年代にピッツ君、なんと手で(つまり頭脳と紙と鉛筆だけで)計算していたんだとか。


ウィーナー夫人、マーガレットの変な介入さえなければ、世界は変わったんちゃうか?

女性が歴史を駄目にした典型ですナ。

やはり女性は表に出ないほうがよろしい場合が多い。聞いてるかR4こと二重国籍国際犯罪者の蓮舫よ。

冗談はよしこさん。


まあ、俺が読んだ印象では、どうしてウィーナー夫人がこういうことをしたかというと、

ウィーナー夫人のマーガレットはユダヤ人が大嫌いだった!


これですナ。


ウィーナー夫人は生粋のドイツ人。それも家族全員はナチス党員になったほどだ。そして自分もアメリカで
ヒトラー総統の「我が闘争」
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を読んで暗唱したいたほど。

ウィーナーはユダヤ系だったが、ユダヤ人であることはあまり好きではなかったという。だから、そんな夫人でも結婚したわけだ。たぶん父親が反面教師になった。

ところが、ウィーナーの周りに世界中から集ってきたのはみなユダヤ系の学者ばかり。それがMITに集まった。そのリーダーがマカロック博士だった。

マカロック博士の考え方、一挙手一投足、ボヘミアンスタイルが気に入らなかった。

そこへボヘミアン風のユダヤ系の若手学者が集まり、よりによって自分の娘と仲良く話すようになってしまった。恋愛感情も性交渉もなんの問題もなかったらしいが、とにかくマーガレットはMITのサイバネティックスの学者たちが嫌いになった。

とまあ、そんなわけで、

ばらばらに引き裂いた

わけですナ。


女の執念は怖い。



いやはや、世も末ですナ。






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by kikidoblog2 | 2017-05-09 18:01 | 真実の歴史

リアル・グッド・ウィル・ハンティングが存在した!:ピッツ君、静かに歴史を作り静かに死す!?   

Good Will Hunting - A bittersweet ending


みなさん、こんにちは。

いや〜〜やはり古い本あるいは古い時代の人を研究しないとだめなようである。

ここ最近少しずつ便学(=大便する間に本を読む)している例のウィーナーの伝記:
情報時代の見えないヒーロー
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レジェンド:ノーバート・ウィーナーの父がハーバード大ユダヤ人教授第一号だった!
ノーバート・ウィーナー「情報時代の見えないヒーロー」:彼はAIの未来を見通していた!?
1935年ノーバート・ウィーナーは我が国に来ていた!:ウィーナー「東大より阪大の方がいいね!」


この本の中に実に面白い人物が登場する。

まさにマット・デーモンが演じた「グッド・ウィル・ハンティング」の天才数学少年のような数学者が実在したのである。

それが、ウォルター・ピッツ博士だったという。

ウォルター・ピッツ
Walter Pitts
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(右側の人)

ウォルター・ピッツ(Walter J. Pitts, 1923年4月23日 - 1969年5月14日)は、論理学者・数学者。
ミシガン州・デトロイト生まれ。シカゴ大学で論理学を学び、ジェローム・レトビンやウォーレン・マカロックに出会う。マサチューセッツ工科大学に勤務。
1943年、神経生理学者・外科医のウォーレン・マカロックと共に、形式ニューロンというモデルを考えた。


私はいわゆる脳科学の「脳理論」「脳モデル」「脳の数学モデル」という意味で非常に有名な「マカロック=ピッツ理論」というのは知っていたから、このピッツ博士はきっとMITを出た優秀な天才科学者だったのではないか、と思っていた。

しかしながら、どうやら現実はマット・デーモンの役よりずっと悲惨な人生だったらしい。

貧困のどツボ。学校に行く金もない。
父親はアル中で家庭内暴力。
家から逃げ出さいないと殺されてしまいかねない。

どうやらそんな家庭だった。

そしてついに13歳で家出。浮浪者になる。

身体も小さく、見るからに貧相で、恰好のいじめっ子の餌食。
毎日学校帰りの悪童共に追い回される日々。

そんな矢先のある日のこと、必死で逃げ延びた場所。

それが町の図書館だった。

それも数学や哲学の場所で、誰も来そうにない場所だった。

そこで隠れていると、目の前にあった本、それが

ラッセルとホワイトヘッドという2人の英国の天才哲学者が書いた
プリンキピア・マテマティカ
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だったらしい。

いつしか逃げ込む度にそこでその本を読む。そして内容にハマっていき、ついに1週間ほどで大作の3巻全部読みこなす。

「全部読みこなす」

この意味は、「全部記憶する」という意味である。

ピッツ君、いじめっ子に見つかって逃げ隠れては原論を読んで、それをいつしか頭の中におさめてしまったのだ。

ところが、13歳のピッツ君、その本の中にある重大なる間違いを発見。なんと著者の

バートランド・ラッセルに批評の手紙を書いた。


この時代、欧米の有名教授には世界中から手紙で論文やらアイデアやらが届く時代。ラマヌジャンはハーディーに手紙を送ったし、ボーズはアインシュタインに自分のボーズ凝縮のアイデアの手紙を送った。

だから、ラッセル教授も丁重にピッツ君に返事を書き、今度アメリカのシカゴ大学で講演するからぜひ聞きに来てと返事を書いたとか。

そして、ラッセル教授の講演を聞きにいくピッツ君。

ラッセル教授が自己紹介すると、なんと相手のピッツ君はまだ10台の子供だった。

天才はノーバート・ウィーナーだけかと思っていたら、また新たなる天才児の登場。

聞けば、14歳。

そこで、カルナップの下で勉強しろとラッセル教授がアドバイスする。

ところが、高校も出ていないし、行く金もない。中学すらろくに出ていない。なにせ浮浪児である。

ウィーナーのように早熟ですべての学校を飛び級で卒業したのでもない。

結局、適当に講義に出たり出なかったりの日々。

ピッツ君、ラッセルの弟子の秀才カルナップ教授の出たばかりの本に批評を書き込んで持っていった。そして、会うなりいきなり著者のカルナップ博士の言説に批判を加える。

そうこうしているうちに、同じ頃欧州から米国に渡米した
ラシェフスキー博士(Nicolas Rashevsky)
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の数理生物学に惹かれていく。


ところで、このラシェフスキー博士。たぶん今時はだれも知らないはずである。

ちょうど我が国の杉田元宜博士といっしょである。

我が国で杉田博士が終戦後に「生物物理学学会」を発足させ、その中に「生物理論」、すなわち「数理生物学」というものを生み出したのだが、いまや誰もそんなことは知らないというように、当時ヨーロッパから欧州の最新のアイデアを米国に持ち込み、欧州のベルタランフィ博士の「一般システム論」の創始に刺激され、それを生物理論というかたちで、数理生物学という分野があるはずだと一生懸命研究室を立ち上げたばかりの頃だった。

まさに飛ぶ鳥をも撃ち落とさんばかりの勢力の時だった。

いまでは、我が国は九州大学の巌佐庸博士がその筋のトップランナーであるが、そもそも巌佐博士がアメリカで学んだ先生が、みなこのラシェフスキーの育てた弟子たちだったというわけだ。

ラシェフスキーがアメリカに行くまでまだアメリカには「数理生物学」は存在しなかったのである。

しかし、今では欧米の研究者ですらそんなことも知らないし、ラシェフスキーの研究すら知らないのである。

さて、ピッツ君そのラシェフスキーの生物理論に興味を持つ。

そんなとき、科学概論の期末試験での伝説を作る。

◯✕式のテストが始まると、ピッツ君一番真ん前でいきなり硬貨でコイントスを始め、全部コイントスで結果を書いたふりをして、一番初めにテストの答案用紙を提出。そしてかっこよく退室。

ところが、成績はダントツでトップのほとんど満点だったという。

もちろん、これは演技だったが、全部記憶し理解していたのである。

ちなみに、ろくに中学高校も出ていない浮浪児ピッツ君に大学の履修計画を作成し、どの授業を受けたらいいか、それを作ったのがノーバート・ウィーナーだった。


そろそろとてつもない子がいるという噂が広まり、今のMITの脳科学部門の長になっている利根川進博士のように、MITの脳科学部門のトップに君臨し、自分の有名な論文もある
マカロック博士
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がその噂を知る。

ところが、ある日道でばったりマカロック教授がピッツ君と出会ってしまう。

立ち話しているうちに、マカロック教授はすぐに浮浪児のピッツ君の天才に気づく。

自分の家に住まないか?

と誘い、マカロック博士は子供を寝かしつけては、その後にピッツ君と研究の議論をする。

数週間すると、マカロック博士が何十年も解決できずにいた部分をピッツ君が解決。

そしてついに2人の共著の論文が誕生した。

それが冒頭にメモした「マカロック=ピッツ理論」だったのだと。
A logical calculus of the ideas immanent in nervous activity
(いまでは13746もの引用がある。)

What the Frog's Eye Tells the Frog's Brain

Anatomy and physiology of vision in the frog (Rana pipiens)


その頃のピッツ博士の姿がこれ。
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しかしながら、良かったのはこの時代までだったようだ。

その後、徐々にピッツ博士は幼少期のトラウマに苛まれて精神的に落ち込み、人嫌いになり、孤立化していく。

そして最終的には、アル中になり、肝硬変になって吐血して静かにこの世を去る。

享年46歳。


こうして今言うところの脳科学の基礎理論を生み出した天才浮浪児がこの世を去ったのである。

48年前の今頃の時期である。ご冥福をお祈りいたします。


ところで、今ではコンピュータを勉強した学生が、脳も電子計算機に似ているよね、というような感想を持つ。

実はそれは逆なのである。

フォン・ノイマンが脳理論のマカロック=ピッツ理論を勉強して、電子計算機のフォン・ノイマン型の原理にまとめたのである。


それにしてもこのピッツ博士の頭蓋骨。でかいですナ。目から頭頂までが高い。実はこれが知能の高さの証明である。

私はこのピッツ君の顔を見た瞬間、我が国のある人物の顔を思い出した。

そう。
大村益次郎
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である。我が国で最初に蒸気機関車を独自に作り出した天才。日本海軍を生み出した男である。

どう、東大や京大の人、この頭の大きさや頭の形を入試に加えるっていうのはどうでしょうか?

この大村益次郎もオランダ語、英語堪能だったとか。


頭に余裕がなければ、大学に入っても新知識が入る余地がない。


単純なイデオロギーに染まったら修正利かない。これでは困る。



いやはや、世も末ですナ。




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by kikidoblog2 | 2017-05-04 14:57 | 真実の歴史

1935年ノーバート・ウィーナーは我が国に来ていた!:ウィーナー「東大より阪大の方がいいね!」   

みなさん、こんにちは。

いや〜〜やはり古い本あるいは古い時代の人を研究しないとだめなようである。

ここ最近少しずつ便学(=大便する間に本を読む)している例のウィーナーの伝記:
情報時代の見えないヒーロー
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レジェンド:ノーバート・ウィーナーの父がハーバード大ユダヤ人教授第一号だった!
ノーバート・ウィーナー「情報時代の見えないヒーロー」:彼はAIの未来を見通していた!?
は実に興味深い。

中でも、1930年代にはすでにノーバート・ウィーナーは、

(あ)光計算機=光速で多数の微積分方程式を計算可能な装置
(い)電子計算機=電気の力で多数の微積分方程式を計算可能な装置
(う)機械的計算機=メカニカルに多数の微積分方程式を計算可能な装置


を構想していたらしい。

この中で、(う)の機械的なアナログ計算機、これから発展して電気を使った電気計算機、これをヴァンネヴァー・ブッシュ博士が開発し、後のフォン・ノイマン型の電子計算機の開発につながる。

第一次世界大戦の時にはすでに米国では電子計算機の研究が開始されていたのだという。この最初の段階から、
ヴァンネヴァー・ブッシュ博士
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とともに計算機開発に密かに取り組んだのが、ノーバート・ウィーナー博士だった。第二次世界大戦中にフォン・ノイマンが行うはるかに前のことであるというのだ。

(あ)の光を使った計算機については、当時はまだレーザーもできていなかったために、光計算機はアイデア倒れのまま実現はしなかった。しかしながら、ウィーナーはすでにそういう計算機を考案し設計していたらしい。

ところで、このヴァンネヴァー・ブッシュ博士、この人はその人格からすぐに米政府の科学顧問として政治家になっていく。

そして、このヴァンネヴァー・ブッシュ博士が、第二次世界大戦の米国勝利を決定づけたのだというのである。

どういうことかというと、第一次世界大戦の時代には、科学者も参戦した。つまり、科学者という身分は戦争では何の効力もなく、博士でも教授でも戦地に出ていった。だから、多くの優秀な科学者もまた戦死したのである。

このいちばん有名な例がマイケルソン=モーレーの実験のモーレーである。天才物理学者のイギリス人のモーレーは第一次世界大戦の戦場で戦死したのである。

また、第一次世界大戦の時には、学者の住むアカデミズムと政治家の住む世界とが分離し、政治家はあまり科学の力を信じていなかった。むしろ、邪魔としか考えていなかった。

この状況を一変させたのが、このヴァンネヴァー・ブッシュ博士だったようだ。

ヴァンネヴァー・ブッシュ博士は、アメリカの戦争形態をいわゆる「科学戦争」の形に変えたのである。

これからの戦争は科学兵器で勝つ。科学力で相手を打ち負かす。そのためには、科学者と政治家と軍人の協同路線および協力が必要だ。

こういう考え方を実施し、いわゆるいま陰謀論でよく出てくるところの「軍産複合体」というものを創始したのである。


これに対して、同じ仲間のノーバート・ウィーナーは孤高だった。むしろ、アカデミックな研究内容を突き詰めた。

もっともウィーナーには子供の頃のトラウマおよびそのユダヤ系独特の遺伝的性質から、躁鬱症の傾向があり、あまり安定した人格ではなかった。だから、政治家としては排除されたのかもしれない。

ウィーナーは単に数学者というだけではなく、応用数学の先駆者として幾多の発明のアイデアを提供したのである。


さて、今回知ったのは、このウィーナーには2人のアジア人の博士号取得者がいたということだ。

1人は中国人のYuk Wing Lee博士。
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もう一人は、日本人の池原止戈夫博士。

ノーバート・ウィーナーの下でMITで正式の博士号を取得したのは、アジア人ではこの2人だけのようである。

私はこの池原止戈夫博士の名前は、ウィーナーのサイバネティックスを日本語訳した共著者の1人位にしか見ていなかったが、どうもそれはまったくの間違いだった。まさにウィーナーが世界に名を轟き始めた全盛期にMITで博士になったのだった。

それも、かの純粋数学の「素数定理」の別証明を与えたのである。これは「ウィーナー−池原の定理」と呼ばれているらしいですナ。

面白いのは、この2人のアジア人博士は、これほどまで優秀で、かつ歴史的研究を行ったにもかかわらず、第二次世界大戦前のアメリカ社会では、大学教授になれなかったのである。

つまり、人種差別が残り、アジア人は白人ではないから、せいぜいユダヤ人までしか大学教授になれなかったのである。ノーバート・ウィーナーの父、レオ・ウィーナーですら大学教授になるのは難しく、ハーバード大学ユダヤ人教授の第一号にすぎなかった。

ちょうどいまから100年前の1917年のことである。

だから、それから10数年程度経っただけでは、アメリカはまだまだ人種差別が残っていたのである。

ところで、ここで言うときの「人種差別」というのは、法律レベルの人種差別のことを言っている。もちろん、個人レベルの人種差別の問題もあるが、そんなものではなく、黒人や日本人やアジア人が土地所有できないとか、白人と日本人は結婚できないとか、黒人は大学に入れないとか、黒人は白人のトイレを使えないとか、そういった社会規範として法律で定められた人種差別のことを言っている。

この意味でいえば、今の我が国には何の人種差別も存在しない。→むしろ「在日朝鮮人特権」や「治外法権」という日本に対する逆差別が存在する。


さて、さらに面白いのは、1935年にノーバート・ウィーナーが、比較的精神的に安定した時期に、アジア旅行をしたのだが、そのときにこの2人はウィーナーをそれぞれの母国である日本と中国に招いたのである。

つまり、1935年(=第二次世界大戦前)の日本に、ウィーナーが来ていたのである。

流石に知らなかった。

ウィーナーは池原の招きで、東京と大阪に来て、東大と阪大で講演したらしい。

ウィーナーは権威主義的な東大の雰囲気を嫌い、阪大の自由闊達な雰囲気が好きだったようだ。

また、当時我が国は日中戦争、大東亜戦争に入る前で、かなり緊張した空気が張り詰め、外国人であるウィーナーにはその監視の目を光らす官憲が張り付いたという感じで、あまり我が国の雰囲気は好きではなかったらしい。

むしろ、中国のほうが自由闊達でよかったという。

残念ながら、今のところ、この池原止戈夫博士の写真が見つからない。


ところで、ついでにメモしておくと、14歳でハーバード大に入り、18歳でハーバード大哲学のPh. D.を取り、18歳でイギリスのケンブリッジ大学のバートランド・ラッセルの下で研究者(ポスドク)になり、その翌年にはドイツのデービッド・ヒルベルトのポスドクになったのだが、人文哲学の博士がどうして数年のうちに、どころか2年のうちに純粋数学者になったのか?

というと、どうもバートランド・ラッセルの力ではなく、それを行ったのが、かのラマヌジャンと共同研究した、
ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディー
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だったようだ。つまり、数論の大家のハーディー教授自ら天才児ノーバート・ウィーナーに数学の手ほどきをしたのである。

つまり、ハーディーはラマヌジャンとウィーナーの2人の天才を育成したのである。この意味では、やはりハーディーは偉大な人物だったと言えるだろう。

さらにおもしろいのは、この1935年に日本から中国と行って、印度経由でポーランドへ行き、そしてドイツ、イギリスというように、西周りでアメリカに戻るわけだが、その東欧のポーランドであるユダヤ系数学者に合う。

それが、ショレム・マンデルブロー博士である。

この人こそ、ベノワ・マンデルブローの叔父にあたり、彼に数学者への道を進ませるきっかけになった人物である。

もしポーランドでウィーナーがショレム・マンデルブローに会わなかったらどうなったか?

フラクタルも分数次元もカオスもまだなかったかもしれないというわけだ。

その取っ掛かりが日本だった。もし池原とLeeがウィーナーを世界ツアーに誘い出さなかったとしたら、果たして今の科学や数学はかなり違ったのかもしれない。

そしてこの世界旅行から帰って、というより、この世界ツアーの間に、どうやらノーバート・ウィーナ−は

サイバネティックス

という概念を確信する。(サイバネティックスがサイバー空間の語源)

そして、帰国後から本格的にサイバネティックス的な研究を開始するのである。

しかしまだそれを記述する言葉はない。


1935年。

我が国が日中戦争に入る1937年の2年前。第二次世界大戦終了の1945年のちょうど10年前。


この年こそ、世界の数学および科学技術の転換点だったのである。


さて、そこからヴァンネヴァー・ブッシュ博士は政治家になっていって、結局我が国に原爆を落とすことになる。


まあ、私の個人的意見としては、やはり西洋の方が、一回戦争を余分に経験した結果、第2次世界大戦の時には、第一次世界大戦の経験が生きた分、結果的には有利に働いていたということだろうと思う。

つまり、我が国が大東亜戦争、太平洋戦争に進んだときの我が国の科学技術と軍事とのあり方と比べると、欧米、特にアメリカの方が一歩先を行っていたわけである。

我が国では、欧米の第一次世界大戦のときの状況のままの姿で第二次世界大戦も戦った。だから、学徒動員で科学者の卵も戦地に送られたし、軍人は科学者の力や科学を信じていなかった。

そして、敗戦という形になったが、その状況はいまだに同じで、いまもって科学者と政治家および軍人との間に分断が残るのである。

我が国の学術会議は、自国の政府も自国の自衛隊もまったくもって敵対視し、非協力的である。欧米の第一次世界大戦前、あるいは第二次世界大戦前の形態のままなのである。

電子計算機は軍事研究の成果として生まれてきたものである。

その小型化したものが、パソコンであり、その最新バージョンがスマートフォンである。

同様に、欧米ではAIは軍事研究の産物である。


軍事を特別視し、冷遇する、学術会議を持つ我が国に未来はあるか?

たぶん、あんまりないんちゃうか?


いずれにせよ、これほどまでに世界に影響与えたノーバート・ウィーナーのような人物でも、ちょうど人の一生ほどの年月が経てば、世界から忘れ去られるという事実である。

やはり地球人には何か大きな問題があるようである。



いやはや、世も末ですナ。




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by kikidoblog2 | 2017-05-01 08:45 | 真実の歴史

「昔は良かった」:天地真理の「水色の恋の謎」→ルーツは欧州スペインにあった!?   

天地真理
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みなさん、こんにちは。

さて、昨日の暴風雨のさなかにメモした、天地真理さんの「水色の恋」の話。これが実は非常に興味深い歴史があったということを見つけたので、一応ここにもメモしておこう。

我が国内では、天地真理さんの芸能界デビュー曲が「水色の恋」ということになっている。そして、この曲に出会ったのは、ヤマハの音楽フェスタ、たぶん後につま恋音楽界とかポプコンとかいうものに発展する音楽祭の初期の大会でのことであるという。これである。

天地真理デビュー前 「水色の恋」原曲 幻の「ちいさな私」を歌う


つまり、田上(たのうえ)姉妹の作詞作曲の曲「ちいさな私」というタイトルの曲をその大会で見つけた天地真理さんがそれを歌いたいということで、新しいタイトル「水色の恋」に変えてデビューしたということらしい。これである。

「水色の恋」の作詞・作曲者

 天地真理のデビュー曲「水色の恋」の作詞・作曲者の田上えりさん、田上みどりさんについては知らない人が多いようです。プロの人ではないので当時も業界関係者にさえ謎だったようですが、『週間明星』1972年1月23日号に「天地真理のヒット曲の陰に謎の美人姉妹」というタイトルでお二人と真理さんとの対面の様子が載っています。

 周知のように「水色の恋」は1970年11月5日行なわれた第2回ヤマハ作曲コンクール(第4回から「ヤマハポピューラーソングコンテスト」と改名)の予選通過曲の中にあった「小さな私」という曲(このときは藤田とし子さんが歌った)を、このコンクールにほかの曲(OTHERWISE)を歌って参加していた真理さんがその曲集から見い出し、やがて自分のデビュー曲となったのですが、真理さん自身もこのお二人についてはまったく知らなかったようで、テレビ局で“田上えりさんの友達”という人に話しかけられて、「田上」が「タノウエ」と読むこともはじめて知ったようです。そしてそれをきっかけに(この記事によれば)週間明星の記者がお二人を探し当てて初めての対面ということになったのです。

 作詞の田上えりさんは横浜に実家がある3人姉妹の末っ子で、このとき聖心女子短大2年の20歳。高校時代から同人誌に散文詩を発表していたそうです。作曲の田上みどりさんは長女で芸大の楽理科を卒業し前年結婚したばかりの23歳。在学中からヤマハミュージックスクールの講師を務めていて、第2回ヤマハ作曲コンクールに応募する際、えりさんの詩のひとつを使って作曲したのが「小さな私」だったということです。

その創作過程について姉妹はこう語っています。(記事のまま)
「小さなわたし」は趣味的につくったものなので、その後2人でかなり手を入れました。2番はあとから書き足したものですし、“水色に残された影・・・”というところは、別れのイメージはクールな感じにしたかったから・・・。天地さんは‘白雪姫みたいな心’という言葉にひかれたとおっしゃいましたけど、あれは童話の‘白雪姫’と関係なく、ただフィーリングで可愛いムードを出したかったの。でも私たちのつくった歌がこんなにヒットするなんて、想像もしませんでした。やっぱり、真理さんの歌い方に魅力があったんじゃないでしょうか」

 「白雪姫」にあまり意味はなかったというのは、ちょっと意外かもしれませんが、実際の作者ならではの話ですね。お二人と真理さんの対面は1月9日、青山の喫茶店で行なわれたそうですが、たちまち意気投合して楽しいものになったようです。真理さんが中学、高校時代をすごしたのは横浜の隣といっていい座間ですし、音大付属高校から大学へ進学する道もあったわけですが、その場合は楽理科を考えていたとか、高校在学中から、そして卒業後ヤマハミュージックスクールで学んでいたなど、お二人と接点も多くとても身近に感じたのではないでしょうか。ちなみに3人姉妹の次女の方が偶然にも「まりさん」で、お二人と真理さんが並んで歩く姿は本当の姉妹のように見えますね。

田上姉妹と天地真理さん
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 なお、この記事の冒頭にはこの年、渡辺プロに届いた年賀状が一番多かったのは森進一でも小柳ルミ子でもなく天地真理で、全盛期のタイガースに匹敵すると書かれています。歌手デビュー後わずか3ヶ月という時期を考えると驚異的な人気沸騰だということがわかります。


ところが、世の中には結構執念深い人や曲には詳しいという人がいるようで、この田上姉妹の曲にはモデルとなった原曲があることを見つけた人がいた。以下のものである。

★ デビュー曲 『♪水色の恋 』 の原曲 『♪Gran Hotel Victoria 』 ★
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この 『♪水色の恋 』 っていう曲、
原曲は 『♪小さな私 』 っていうことは、
あまりにも有名ですよね。
作詞は田上えり さん、
作曲は田上みどり さんです。
 
YouTube にデビュー前の真理さんが、
ギター弾き語りで歌っている 『♪小さな私 』 が
ありましたので、お借りしました。
1970(昭和45)年、TBSテレビの
「 ヤング720 」 っていう番組に、
アマチュア歌手として出演して、
この 『♪小さな私 』 を歌った時のもの、
みたいです。
 
このビデオは 『♪小さな私 』 に続いて、
『♪水色の恋 』 もワン・コーラス入っていますから、
比較できますよ~
まずは聴いてネ
ビデオ制作は amhikokigumo さんです。


プレミアム・ボックスの解説から引用しますけど、
真理さんがデビューする前の、
1970(昭和45)年に、
三重県の合歓の郷(ねむのさと)で開催された、
「’70作曲コンクール」(後のポプコン)に、
真理さんは出場
しています。
そのとき、
他の出場者が歌った 『♪小さな私 』 が
すごく気に入ったみたいです。
その後、デビューすることになって、
デビュー曲を何にするか話し合ったとき、
真理さんは、この 『♪小さな私 』 を、
強く希望して実現したらしいですネ


問題はその後の話。実はこの田上姉妹の「小さな私」にさらに原曲があったのである。

さてさて~
この 『♪小さな私 』 にも原曲があるの。
知ってましたかぁ~
コアなファンでしたら、とっくにご存知ですよね。
じつは、私、不思議に思っていたことがあるんです。
それはね、作詞者と作曲者のことなの。
 
真理さんデビュー当時の、
たとえば上のシングルでは、
作詞:田上えり
作曲:田上みどり
補作曲:森岡賢一郎
ってなっていますケド、
 
2006(平成18)年10月1日発売の、
プレミアム・ボックス(CD)では、
作詞:田上えり、Carlos Pesce
作曲:田上みどり、Feliciano Latasa
ってなっているんです。
途中から作詞者さんと作曲者さん、
増えてますよね~
 
それと、日本音楽著作権協会(JASRAC)での
登録上は 「 外国作品 」 扱いなんだって。
もしかして、もともとは外国の曲を、
それなりにアレンジしちゃったのかも・・・
って思って、調べたら、やっぱりありましたぁ~
 
Feliciano Latasa(フェリシアーノ・ラタサ)
さんが作曲したタンゴの名曲、
『♪Gran Hotel Victoria 』
(グラン・ホテル・ヴィクトリア)です。
この曲に、
Carlos Pesce(カルロス・ペシェ)さんが、
歌詞をつけたんだと思います。
 
とりあえず演奏だけですけど、聴いてみてね~
Orquesta Juan D'Arienzo(ファン・ダリエンソ楽団)
の演奏で 『♪GRAN HOTEL VICTORIA 』 です。
『♪水色の恋 』 っぽいメロディが出てくるのは、
0:44 あたりからです。
その後もくりかえして出てきますよ~
ビデオ制作は DE TODO UN POCO さんです。

JUAN D ARIENZO EL GRAN HOTEL VICTORIA


これを聞くとたしかに44秒目から「水色の恋」の曲があらわれる。しかし、タンゴ化されたものであり、日本で言えば、演歌の中のワンフレーズ、ツーフレーズという感じである。

Gran Hotel Victoria -tango- (F. Latasa - C. Pesce) por Analía Rego


Gran Hotel Victoria


さてさらにこの「グランド・ホテル・ヴィクトリア」という曲は、ある旅行客がイタリアのホテル・ヴィクトリアをみてたいそうびっくりこいた結果できた曲だということがわかった。以下のものである。

Gran Hotel Victoria - “Gran Hotel Victoria”, an anonymous tango
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このヴィクトリアホテルというのはどうも欧州の老舗ホテルであり、超高級ホテルのようである。昔の作りはこんな感じだったらしい。

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今はこんな感じ。
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王族が宿泊できるような超高級ホテルのようである。

ここで演奏しに来たスペインのサンセバスチャン生まれのピアニストでバイオリニストのラタサという人が、このGran Hotel Victoriaを作ったが、この人は36歳の若さで死んだというのである。この部分である。

We shall present a short biography of the composer or, maybe rather, alleged composer of the piece. Pianist and violinist, Latasa was born in San Sebastián —Guipúzcoa, Spain— on September 25, 1870 and settled in the city of Rosario, province of Santa Fe, at the dawn of the twentieth century. At that city he led the orchestra of the Sociedad España and the Orfeón Gallego.

When in Córdoba he appeared at the Club Democrático España and at the Roma and Victoria hotels leading his orchestra lined up by José Ferreras and Cristóbal Boday (violins), José Aguilar (flute), José Guisado (clarinet), Ernesto Di Blasi (trombone) and J. Macia Granja (bass). He composed the tango “Gran Hotel Victoria” (Hotel Victoria), the chotis “Carmencita”, the zarzuelas “Risas y lágrimas” and “Celeste”, and, according to Vicente Gesualdo, numerous dancehall pieces, chotis, mazurcas, polkas, waltzes, pas de quatre, etc. He died in Córdoba on September 18, 1906 when he was nearing age 36.



そしていつしかヨーロッパにおいてはアノニマス(=作成者不明)のまま、非常に馴染みのある曲として流通していったようである。

特にスペインタンゴでは昔からある有名な民謡のように作者不明の曲として演奏されるようになった。

とまあ、そんな感じである。

さてそこで、ここからが私個人の妄想、あるいは、推測だが、この「Gran Hotel Victoria」はその後、チャーリー・チャップリンによって編曲されて、あの有名なライムライトの曲になったような気がする訳である。

Limelight / Terry's theme ライムライト / テリーのテーマ

ライムライト チャップリン「街の灯」<癒しの30弁オルゴール>


そのスペイン人の記事の後半に天地真理さんと田上姉妹のこともちゃんと出ていたからすばらしい。以下の部分である。

Much later —Bischoff told us—, the same sheet music «was copied by two Japanese composers, Midori Tagami and his niece Eri, for their song “Mizuiro No Koi” that the female singer Amachi made into a smash hit in the seventies».


ここには、3姉妹の末っ子のえりさんがみどりさんの姪となっているが、それはどうやら間違いである。作詞が末っ子の田上えりさんで、作曲が長女のみどりさんということである。

また、田上が「たがみ(Tagami)」となっているが、それも間違いで、正しくは「たのうえ(Tanoue)」である。

というわけで、欧州のスペインでも本当はだれが作曲者なのかあまり良くわからない作者不明の作品だったわけで、そういうよく知られた曲をアレンジして一曲の作品を新たに作ったわけで、田上姉妹は大手を振って「自分たちの曲だ」と言ってよろしいのである。だから、だれともわからない西洋人の名前をつける必要はない!


いずれにせよ、チャップリンもそうだが、昔の欧州のバイオリニストやピアニストや作曲家≒ユダヤ人だったわけで、チャップリンもイギリスのユダヤ人。きっとラタサという無名の作曲家もユダヤ人だったに違いない(むろん、当時は有名。だから、ヴィクトリアホテルで演奏したわけだ)。だから、欧州の演歌、欧州の民謡のようなものに、この曲の雰囲気はよく登場してきたはずなのである。

日本で言えば、演歌の曲想みたいな、ちゃちゃんちゃちゃっちゃ、ちゃ〜〜〜、ちゃちゃんちゃちゃっちゃ、ちゃ〜〜、た〜〜ららら〜ら〜〜、みたいなものと捉えたほうが良いと思う。


というわけで、これにて一件落着。めでて〜〜ナ!


おまけ:
こんな掲示板もあるようだ。
天地真理~さくら貝




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by kikidoblog2 | 2017-04-18 09:41 | 真実の歴史

真実の歴史:「白丁って何だ?」「陸軍のシンドラー樋口季一郎少将もいた!」   

みなさん、こんにちは。

今回は他人のサイトでなかなか興味深い論説を見つけたので2つほどそんなものをメモしておこう。以下のものである。というのも、そういうサイトでは日本語でしか読めないが、ここではすぐに翻訳ツールで各国の言葉に直せるからである。ここは世界中の人が読んでいるので、世界の人たちにも本当の歴史的事実とはどういうものであるかを知っていただきたいからである。


(あ)白丁(pekuchun=ペクチュン)って何だ?

まずはこれ。「中韓を知りすぎた男」こと辻本貴一氏のブログから。

在日朝鮮人の反日は白丁の出身を隠すため    10月26日(水)

「国は内部から滅びる」とよく言われます。テレビ、新聞、政治家、役人その他多くの影響力を与える部署に在日が入り込んで日本を非常におかしくしてきました。

その結果牙を抜かれ、去勢された日本国家は今、内部に多くのがん細胞を抱えながら、前門の虎と後門の狼に睨まれ、在日に支配されたメディアは日本人を覚醒させぬよう洗脳、謀略、歴史を捏造してきました。そして在日たちは戦後永く日本人の生き血を吸い続けてきました。しかし多くの日本人はネットのお陰でやっと長い眠りから目覚めました。

いまや在日韓国朝鮮人は少し古いが2005年の統計によると
•特別永住者資格を持つ在日韓国・朝鮮人515,570人
•日本国籍を取得した韓国・朝鮮人284,840人
•長期滞在の韓国・朝鮮人82,666人
•留学生18,208人

それ以外に、密入出国をしたまま登録をしていない朝鮮人がかなりいると見られているが、警視庁は約20万人~30万ともいわれ、実際どのくらいいるのか分からないそうです。

在日については、朝鮮大学校の教員だった朴慶植氏が1965年に書いた「朝鮮人強制連行の記録」などによって戦時中に日本に強制連行されてきた「被害者の子孫」という大嘘のイメージが定着してしまいました。
その結果「強制連行」という嘘が独り歩きし、在日の二世や三世は被害者というひねくれた感情に支配され、日本人を憎むようになっていきました。

しかし実際は「戦時徴用」のことで徴用は日本人も韓国人も同様です。戦後日本に残って「在日」になったのは外務省によれば245人だけでした。それ以外は白丁(ペクチョン)と言われて極端な差別から逃れてきた多くの人たちと貧しい韓国から脱出し、経済的なチャンスを求めて日本に渡ってきた少数の人たちです。

それにもかかわらず強制連行という負のイメージを利用して、外国籍を維持しながら、日本人と同等のあるいはそれ以上の権利を求める運動を展開してきました。いまや在日は日本人以上の権利と社会権を持つに至っています。

戦後日本にやってきた朝鮮人の多くは済州島の白丁(ペクチョン)と言われている人たちです。白丁(ペクチョン)とは朝鮮で最下位に位置する被差別民で 白丁は人間ではないとされていました。朝鮮では日本よりずっと身分への差別がすさまじいのです。現在でも続いています。

済州島は朝鮮における流刑地であり 最下層の地域で白丁が大量に住んでいました。 朝鮮人を指すチョンという言葉が ありますが、これも白丁からきています。

在日朝鮮人は本国の朝鮮人からも酷く呼ばれ差別されています。本国の朝鮮人は奴隷であった白丁である在日朝鮮人と一緒にされるのを嫌がります。それ故 彼らは帰ることが出来ません。 韓国の大学でも在日は白丁が移民したの だと教えられています。

白丁階級制度が廃止されたのは1950年代なので 在日1世は朝鮮で奴隷を経験した人が多い。 だから差別の少ない日本に移住したのです。 彼らが在日特権を持ち、さらに日本という国で恩恵を受けながら 反日活動を行うなどとても許されるものではありません。

朝鮮半島で白丁が受けた身分差別は、以下のようなものです。
1.族譜を持つことの禁止。
2.屠畜、食肉商、皮革業、骨細工、柳細工(編笠、行李など)以外の職業に
 就くことの禁止。
3.常民との通婚の禁止。
4.日当たりのいい場所や高地に住むことの禁止。
5.瓦屋根を持つ家に住むことの禁止。
6.文字を知ること、学校へ行くことの禁止。
7.他の身分の者に敬語以外の言葉を使うことの禁止。
8.名前に仁、義、禮、智、信、忠、君の字を使うことの禁止。
9.姓を持つことの禁止。
10.公共の場に出入りすることの禁止。
11.葬式で棺桶を使うことの禁止。
12.結婚式で桶を使うことの禁止。
13.墓を常民より高い場所や日当たりの良い場所に作ることの禁止。
14.墓碑を建てることの禁止。
15.一般民の前で胸を張って歩くことの禁止。

(Wikipediaより抜粋)

1948年〜1954年、朝鮮半島の済州島では、朝鮮人による朝鮮人の虐殺が横行した(済州島四・三事件) 島民の6万人が殺害され、村々の70%が焼き尽くされた。このとき虐殺を逃れて日本に密航した難民つまり白丁(ペクチョン)が在日となったのです。

日本に逃れてきた白丁は、二世たちに最下層の身分である白丁を隠すために、日本に「強制連行」されたと言わないことには何故自分たちが日本に居る正当な理由がない。そこで二世たちに「日本人は朝鮮で多くの人を虐殺した」という作り話を繰り返し聞かして育てました。

そして自分たちは強制連行を受け、戦後は日本国籍からほり出された被害者であり、平等な権利を求めるのは当たり前だと主張して、被害者としての特権意識を持ち、外国籍でありながら日本人と同等、あるいはそれ以上の権利を求める運動をしてきました。

結果在日は日本人と全く変わらない社会権を持っているにもかかわらずさらなる権利を主張するのは、日本社会の破壊にさえつながる運動です。

おそらく在日の二世や三世たちは自分の親が韓国では人間扱いされなかった最下層の白丁の出身だとは知らされていないと思います。また在日は二世に白丁の出身を隠すために、あるいは韓国での奴隷状態で人間扱いされなかった怨念を晴らすために、より以上の反日活動をして、プライドをとりもどしていったのではないかと思われます。

現在でも韓国内では在日は白丁とみなされ白い目で見られています。それなのに在日は 同胞からも見捨てられているにもかかわらず、韓国政府の代弁者のごとく反日姿勢を取り続けるのは、自分は本国の反日韓国人と同等だと二世や三世に見せつけるためだと思われます。

つまり在日朝鮮人は朝鮮半島の同胞から、同胞だとはみなされず、すさましい差別から逃れるために日本にきた。それが何年たっても彼らが帰国しなかった本当の理由です。



(い)日本のシンドラーは杉原千畝だけではなかった。陸軍の樋口季一郎少将もいた!

次はねずさんこと小名木善行さんの記事。

オトポール事件
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昭和13(1938)年3月、ナチスの迫害から逃れてきたユダヤ人、満洲に入国できずにソ連のオトポール駅で立ち往生となっていました。
駅舎からあふれた人々は、吹雪の中で野宿同然の状況となっていました。
身の回りの物だけを持ってようやくたどりついた難民たちです。
オトポールの3月の気温は、夜にはマイナス30度の極寒になります。
食糧もすでに尽きており、飢えと寒さで凍死者が出はじめていました。

満洲国は、日本の同盟国でした。
その日本はドイツと同盟関係にありました。
「もしユダヤ難民を受け入れれば、ドイツ側から抗議を受ることになる」
満洲の役人たちは、そのことを心配してユダヤ難民の受け入れを拒否していたのです。

オトポール駅は、ヨーロッパとつながるシベリア鉄道のアジア側の終点です。
次々とやってくるユダヤ難民たちは、ついにその数、2万人に達するものとなっていました。

満州のハルビン市で特務機関長をしていた陸軍の樋口季一郎(ひぐちきいちろう)少将のもとにハルビンユダヤ人協会会長で医師のカウフマン博士がやってきました。
そして樋口少将に、ユダヤ難民の救出を依頼してきました。
しばらく考えていた樋口少将は答えました。
「わかりました。
 すべての責任は私が負います。
 博士は難民の受け入れ準備に取りかかってください」
この言葉を聞いたとき、カウフマン博士は滂沱の涙を抑えることができなかったそうです。

樋口少将は、すぐ満鉄の松岡洋右(ようすけ)総裁に特別列車の手配を依頼しました。
オトポールのユダヤ人たちは、すでに多くが満足に歩けない状態となっていました。
駅から満洲の国境までは、わずか数百メートルです。
そこには満鉄の日本人職員が待ち構えていました。
けれど、ユダヤ人たちはすでに息も絶え絶えの状況でした。
待ち構える日本の職員たちは、
「頑張れ、もう一息だ!」と叫びました。
ようやく国境にたどり着いたユダヤ人たちを、職員たちが背負って列車まで連れて行きました。
こうして、すべてのユダヤ人が救出されました。

特別列車は、二日かけて、ハルビン駅に到着しました。
列車が停車すると、救護班の医者がまっさきに車内にとびこみました。
病人や凍傷で歩けなくなった人たちがつぎつぎにタンカで運び出されました。
やつれた幼い子供たちには、暖かなミルクが振る舞われました。
子供も大人も、そのそのビンを見ただけで泣き出しました。

数時間後、樋ロ少将はオトポールの難民すべてが収容されたという報告をうけました。
十数名の凍死者、および病人と凍傷患者二十数名を除き、すべてのユダヤ人が無事に保護されました。
もし救援があと一日遅れていたら、この程度の犠牲者ではすまなかっただろうと医師たちは言いました。

ユダヤ難民たちは、日本やアメリカへ渡り、残りの人たちはこのハルピンの開拓農民として生活していくことになりました。
日本に着いたユダヤ人たちは、在日ユダヤ人会と協力して、神戸に受け入れ施設を作られました。
日本の警察も、乏しい食糧事情の中で、トラック何台ものジャガイモをユダヤ人に贈りました。

こうして事件が落着した2週間後、日本国政府に対してドイツ政府から強硬な抗議文が送られてきました。
関東軍の司令部の東条英機参謀長は、樋口少将を呼び出しました。
樋口少将は、東条英機参謀長に答えました。
「ドイツは日本の同盟国です。
 しかしドイツのやり方が
 ユダヤ人を死に追いやるものであるならば、
 それは人道上の敵です。
 私は日本とドイツの友好を希望します。
 しかし日本はドイツの属国ではありません。」
そして参謀長の顔を正面から見据えて言いました。
「参謀長!
 ヒトラーのお先棒をかついで、
 弱い者いじめをすることを、
 正しいとお思いになりますか」

東条は天井を仰いで言いました。  
「樋口君、よく言ってくれた。
 君の主張は筋が通っている。
 私からも中央に、
 この問題は不問に付すように伝えておこう」

そして日本国政府は、ドイツの抗議を、
「当然なる人道上の配慮」
として一蹴しました。

数年後、転勤で樋口少将がハルピンを去る日、駅には二千人近い群衆が集まりました。
遠く数十キロの奥地から馬車をとばして駆けつけたユダヤ人もいました。
それは樋口少将が土地や住居を世話したユダヤ難民たちでした。
樋口少将の乗った列車が動き出すと、群衆はホームになだれ込み、
「ヒグチ!」「ヒグチ!」「ヒグチ! バンザイ!」の声がいつまでも響きました。

オトポール事件から約七年後、大東亜戦争の末期に突如侵攻してきたソ連軍を撃退した樋口少将は、ソ連に恨まれて、終戦後に戦争犯罪人として裁判にかけられそうになりました。
このとき樋口少将を救ったのはユダヤ人たちでした。
「命の恩人ヒグチを救え!」
「ヒグチに恩を返すのは今しかない!」
世界ユダヤ協会は、世界中のユダヤ人に連絡してアメリカ政府に働きかけ、樋口を救いました。

かつての満洲は、いまは中共の東北省と、ロシア領に分断統治されています。
そこには、かつてのロシア帝国の元貴族たちや、こうして樋口季一郎に助けられた多くのユダヤ人たちも平和に暮らしていました。
日本が戦争に敗れたとき、満洲には、支那共産党軍とソ連軍がなだれ込み、満洲国はなくなりました。
そして、そこにいたロシア帝国の元貴族やユダヤ人たちは、いまでは誰も残っていません。

運の良いものは、難を逃れてアメリカやヨーロッパに亡命することができました。
けれど、それをすることができたのは、1000人にひとりもいなかったといわれています。
国を失うということが、そこに住む人々に何をもたらすのか。
そして責任ある将官と、その将官に率いられた軍の存在こそ、人々の安全を護るものであるということを、私たちはいまいちど考えてみる必要があると思うのです。

日本における軍は、上古の昔の神倭伊波礼毘古命に率いられた御軍の時代から現代の自衛隊に至るまで、常に公正無私、人々の生活の安全と安心を護る軍でした。
ですから日本人にとって、軍人といえば、それはいまの自衛官や機動隊員と同様、常に正義の味方です。

ところがこのことは、日本人の常識であっても、諸外国の常識ではありません。
大陸や半島においては、自国の軍は常に暴徒であったしヤクザ者であったし、ギャングの手先で有り続けました。
西洋においては、軍といえば傭兵で、傭兵は常に食いはぐれた愚連隊の集合体でした。
そしてその軍を動かすものが支配者でした。
ですから支配者=収奪者であったし、だからこそ、そこからの自由のために民衆が軍と戦ったという歴史を持つのが西洋釈迦であり、その収奪者から逃れて、自由のために新大陸を目指したのがアメリカです。
日本とは国の成り立ちが違うのです。

その、国の成り立ちが違う人達が、日本の軍のあまりの強さを見て恐怖して、戦後70年間、必死になって行ったことが、「日本の軍は怖い存在」というイメージです。
ところが、70年もかけながら、現実には、「日本の軍は怖い存在」というイメージは、ただの言葉遊びにしかならず、これを政争の道具にすればするほど、それをする野党は、日本の世間から見放されてきました。
また、これを教育よって日本人に刷り込もうとすればするほど、自衛隊への入隊希望者が増えています。

日本には日本の歴史があります。
私たちは、戦後に教わってきたことが、本当に、正しい歴史であったのか。
いまいちど、冷静に考え直してみるべきときにきていると思います。

お読みいただき、ありがとうございました。

◆参考文献
服部剛著『教室の感動を実況中継! 先生、日本ってすごいね』
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by kikidoblog2 | 2016-10-27 09:11 | 真実の歴史