カテゴリ:真実の歴史( 2 )

 

「昔は良かった」:天地真理の「水色の恋の謎」→ルーツは欧州スペインにあった!?

天地真理
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みなさん、こんにちは。

さて、昨日の暴風雨のさなかにメモした、天地真理さんの「水色の恋」の話。これが実は非常に興味深い歴史があったということを見つけたので、一応ここにもメモしておこう。

我が国内では、天地真理さんの芸能界デビュー曲が「水色の恋」ということになっている。そして、この曲に出会ったのは、ヤマハの音楽フェスタ、たぶん後につま恋音楽界とかポプコンとかいうものに発展する音楽祭の初期の大会でのことであるという。これである。

天地真理デビュー前 「水色の恋」原曲 幻の「ちいさな私」を歌う


つまり、田上(たのうえ)姉妹の作詞作曲の曲「ちいさな私」というタイトルの曲をその大会で見つけた天地真理さんがそれを歌いたいということで、新しいタイトル「水色の恋」に変えてデビューしたということらしい。これである。

「水色の恋」の作詞・作曲者

 天地真理のデビュー曲「水色の恋」の作詞・作曲者の田上えりさん、田上みどりさんについては知らない人が多いようです。プロの人ではないので当時も業界関係者にさえ謎だったようですが、『週間明星』1972年1月23日号に「天地真理のヒット曲の陰に謎の美人姉妹」というタイトルでお二人と真理さんとの対面の様子が載っています。

 周知のように「水色の恋」は1970年11月5日行なわれた第2回ヤマハ作曲コンクール(第4回から「ヤマハポピューラーソングコンテスト」と改名)の予選通過曲の中にあった「小さな私」という曲(このときは藤田とし子さんが歌った)を、このコンクールにほかの曲(OTHERWISE)を歌って参加していた真理さんがその曲集から見い出し、やがて自分のデビュー曲となったのですが、真理さん自身もこのお二人についてはまったく知らなかったようで、テレビ局で“田上えりさんの友達”という人に話しかけられて、「田上」が「タノウエ」と読むこともはじめて知ったようです。そしてそれをきっかけに(この記事によれば)週間明星の記者がお二人を探し当てて初めての対面ということになったのです。

 作詞の田上えりさんは横浜に実家がある3人姉妹の末っ子で、このとき聖心女子短大2年の20歳。高校時代から同人誌に散文詩を発表していたそうです。作曲の田上みどりさんは長女で芸大の楽理科を卒業し前年結婚したばかりの23歳。在学中からヤマハミュージックスクールの講師を務めていて、第2回ヤマハ作曲コンクールに応募する際、えりさんの詩のひとつを使って作曲したのが「小さな私」だったということです。

その創作過程について姉妹はこう語っています。(記事のまま)
「小さなわたし」は趣味的につくったものなので、その後2人でかなり手を入れました。2番はあとから書き足したものですし、“水色に残された影・・・”というところは、別れのイメージはクールな感じにしたかったから・・・。天地さんは‘白雪姫みたいな心’という言葉にひかれたとおっしゃいましたけど、あれは童話の‘白雪姫’と関係なく、ただフィーリングで可愛いムードを出したかったの。でも私たちのつくった歌がこんなにヒットするなんて、想像もしませんでした。やっぱり、真理さんの歌い方に魅力があったんじゃないでしょうか」

 「白雪姫」にあまり意味はなかったというのは、ちょっと意外かもしれませんが、実際の作者ならではの話ですね。お二人と真理さんの対面は1月9日、青山の喫茶店で行なわれたそうですが、たちまち意気投合して楽しいものになったようです。真理さんが中学、高校時代をすごしたのは横浜の隣といっていい座間ですし、音大付属高校から大学へ進学する道もあったわけですが、その場合は楽理科を考えていたとか、高校在学中から、そして卒業後ヤマハミュージックスクールで学んでいたなど、お二人と接点も多くとても身近に感じたのではないでしょうか。ちなみに3人姉妹の次女の方が偶然にも「まりさん」で、お二人と真理さんが並んで歩く姿は本当の姉妹のように見えますね。

田上姉妹と天地真理さん
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 なお、この記事の冒頭にはこの年、渡辺プロに届いた年賀状が一番多かったのは森進一でも小柳ルミ子でもなく天地真理で、全盛期のタイガースに匹敵すると書かれています。歌手デビュー後わずか3ヶ月という時期を考えると驚異的な人気沸騰だということがわかります。


ところが、世の中には結構執念深い人や曲には詳しいという人がいるようで、この田上姉妹の曲にはモデルとなった原曲があることを見つけた人がいた。以下のものである。

★ デビュー曲 『♪水色の恋 』 の原曲 『♪Gran Hotel Victoria 』 ★
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この 『♪水色の恋 』 っていう曲、
原曲は 『♪小さな私 』 っていうことは、
あまりにも有名ですよね。
作詞は田上えり さん、
作曲は田上みどり さんです。
 
YouTube にデビュー前の真理さんが、
ギター弾き語りで歌っている 『♪小さな私 』 が
ありましたので、お借りしました。
1970(昭和45)年、TBSテレビの
「 ヤング720 」 っていう番組に、
アマチュア歌手として出演して、
この 『♪小さな私 』 を歌った時のもの、
みたいです。
 
このビデオは 『♪小さな私 』 に続いて、
『♪水色の恋 』 もワン・コーラス入っていますから、
比較できますよ~
まずは聴いてネ
ビデオ制作は amhikokigumo さんです。


プレミアム・ボックスの解説から引用しますけど、
真理さんがデビューする前の、
1970(昭和45)年に、
三重県の合歓の郷(ねむのさと)で開催された、
「’70作曲コンクール」(後のポプコン)に、
真理さんは出場
しています。
そのとき、
他の出場者が歌った 『♪小さな私 』 が
すごく気に入ったみたいです。
その後、デビューすることになって、
デビュー曲を何にするか話し合ったとき、
真理さんは、この 『♪小さな私 』 を、
強く希望して実現したらしいですネ


問題はその後の話。実はこの田上姉妹の「小さな私」にさらに原曲があったのである。

さてさて~
この 『♪小さな私 』 にも原曲があるの。
知ってましたかぁ~
コアなファンでしたら、とっくにご存知ですよね。
じつは、私、不思議に思っていたことがあるんです。
それはね、作詞者と作曲者のことなの。
 
真理さんデビュー当時の、
たとえば上のシングルでは、
作詞:田上えり
作曲:田上みどり
補作曲:森岡賢一郎
ってなっていますケド、
 
2006(平成18)年10月1日発売の、
プレミアム・ボックス(CD)では、
作詞:田上えり、Carlos Pesce
作曲:田上みどり、Feliciano Latasa
ってなっているんです。
途中から作詞者さんと作曲者さん、
増えてますよね~
 
それと、日本音楽著作権協会(JASRAC)での
登録上は 「 外国作品 」 扱いなんだって。
もしかして、もともとは外国の曲を、
それなりにアレンジしちゃったのかも・・・
って思って、調べたら、やっぱりありましたぁ~
 
Feliciano Latasa(フェリシアーノ・ラタサ)
さんが作曲したタンゴの名曲、
『♪Gran Hotel Victoria 』
(グラン・ホテル・ヴィクトリア)です。
この曲に、
Carlos Pesce(カルロス・ペシェ)さんが、
歌詞をつけたんだと思います。
 
とりあえず演奏だけですけど、聴いてみてね~
Orquesta Juan D'Arienzo(ファン・ダリエンソ楽団)
の演奏で 『♪GRAN HOTEL VICTORIA 』 です。
『♪水色の恋 』 っぽいメロディが出てくるのは、
0:44 あたりからです。
その後もくりかえして出てきますよ~
ビデオ制作は DE TODO UN POCO さんです。

JUAN D ARIENZO EL GRAN HOTEL VICTORIA


これを聞くとたしかに44秒目から「水色の恋」の曲があらわれる。しかし、タンゴ化されたものであり、日本で言えば、演歌の中のワンフレーズ、ツーフレーズという感じである。

Gran Hotel Victoria -tango- (F. Latasa - C. Pesce) por Analía Rego


Gran Hotel Victoria


さてさらにこの「グランド・ホテル・ヴィクトリア」という曲は、ある旅行客がイタリアのホテル・ヴィクトリアをみてたいそうびっくりこいた結果できた曲だということがわかった。以下のものである。

Gran Hotel Victoria - “Gran Hotel Victoria”, an anonymous tango
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このヴィクトリアホテルというのはどうも欧州の老舗ホテルであり、超高級ホテルのようである。昔の作りはこんな感じだったらしい。

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今はこんな感じ。
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王族が宿泊できるような超高級ホテルのようである。

ここで演奏しに来たスペインのサンセバスチャン生まれのピアニストでバイオリニストのラタサという人が、このGran Hotel Victoriaを作ったが、この人は36歳の若さで死んだというのである。この部分である。

We shall present a short biography of the composer or, maybe rather, alleged composer of the piece. Pianist and violinist, Latasa was born in San Sebastián —Guipúzcoa, Spain— on September 25, 1870 and settled in the city of Rosario, province of Santa Fe, at the dawn of the twentieth century. At that city he led the orchestra of the Sociedad España and the Orfeón Gallego.

When in Córdoba he appeared at the Club Democrático España and at the Roma and Victoria hotels leading his orchestra lined up by José Ferreras and Cristóbal Boday (violins), José Aguilar (flute), José Guisado (clarinet), Ernesto Di Blasi (trombone) and J. Macia Granja (bass). He composed the tango “Gran Hotel Victoria” (Hotel Victoria), the chotis “Carmencita”, the zarzuelas “Risas y lágrimas” and “Celeste”, and, according to Vicente Gesualdo, numerous dancehall pieces, chotis, mazurcas, polkas, waltzes, pas de quatre, etc. He died in Córdoba on September 18, 1906 when he was nearing age 36.



そしていつしかヨーロッパにおいてはアノニマス(=作成者不明)のまま、非常に馴染みのある曲として流通していったようである。

特にスペインタンゴでは昔からある有名な民謡のように作者不明の曲として演奏されるようになった。

とまあ、そんな感じである。

さてそこで、ここからが私個人の妄想、あるいは、推測だが、この「Gran Hotel Victoria」はその後、チャーリー・チャップリンによって編曲されて、あの有名なライムライトの曲になったような気がする訳である。

Limelight / Terry's theme ライムライト / テリーのテーマ

ライムライト チャップリン「街の灯」<癒しの30弁オルゴール>


そのスペイン人の記事の後半に天地真理さんと田上姉妹のこともちゃんと出ていたからすばらしい。以下の部分である。

Much later —Bischoff told us—, the same sheet music «was copied by two Japanese composers, Midori Tagami and his niece Eri, for their song “Mizuiro No Koi” that the female singer Amachi made into a smash hit in the seventies».


ここには、3姉妹の末っ子のえりさんがみどりさんの姪となっているが、それはどうやら間違いである。作詞が末っ子の田上えりさんで、作曲が長女のみどりさんということである。

また、田上が「たがみ(Tagami)」となっているが、それも間違いで、正しくは「たのうえ(Tanoue)」である。

というわけで、欧州のスペインでも本当はだれが作曲者なのかあまり良くわからない作者不明の作品だったわけで、そういうよく知られた曲をアレンジして一曲の作品を新たに作ったわけで、田上姉妹は大手を振って「自分たちの曲だ」と言ってよろしいのである。だから、だれともわからない西洋人の名前をつける必要はない!


いずれにせよ、チャップリンもそうだが、昔の欧州のバイオリニストやピアニストや作曲家≒ユダヤ人だったわけで、チャップリンもイギリスのユダヤ人。きっとラタサという無名の作曲家もユダヤ人だったに違いない(むろん、当時は有名。だから、ヴィクトリアホテルで演奏したわけだ)。だから、欧州の演歌、欧州の民謡のようなものに、この曲の雰囲気はよく登場してきたはずなのである。

日本で言えば、演歌の曲想みたいな、ちゃちゃんちゃちゃっちゃ、ちゃ〜〜〜、ちゃちゃんちゃちゃっちゃ、ちゃ〜〜、た〜〜ららら〜ら〜〜、みたいなものと捉えたほうが良いと思う。


というわけで、これにて一件落着。めでて〜〜ナ!


おまけ:
こんな掲示板もあるようだ。
天地真理~さくら貝




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  by kikidoblog2 | 2017-04-18 09:41 | 真実の歴史

真実の歴史:「白丁って何だ?」「陸軍のシンドラー樋口季一郎少将もいた!」

みなさん、こんにちは。

今回は他人のサイトでなかなか興味深い論説を見つけたので2つほどそんなものをメモしておこう。以下のものである。というのも、そういうサイトでは日本語でしか読めないが、ここではすぐに翻訳ツールで各国の言葉に直せるからである。ここは世界中の人が読んでいるので、世界の人たちにも本当の歴史的事実とはどういうものであるかを知っていただきたいからである。


(あ)白丁(pekuchun=ペクチュン)って何だ?

まずはこれ。「中韓を知りすぎた男」こと辻本貴一氏のブログから。

在日朝鮮人の反日は白丁の出身を隠すため    10月26日(水)

「国は内部から滅びる」とよく言われます。テレビ、新聞、政治家、役人その他多くの影響力を与える部署に在日が入り込んで日本を非常におかしくしてきました。

その結果牙を抜かれ、去勢された日本国家は今、内部に多くのがん細胞を抱えながら、前門の虎と後門の狼に睨まれ、在日に支配されたメディアは日本人を覚醒させぬよう洗脳、謀略、歴史を捏造してきました。そして在日たちは戦後永く日本人の生き血を吸い続けてきました。しかし多くの日本人はネットのお陰でやっと長い眠りから目覚めました。

いまや在日韓国朝鮮人は少し古いが2005年の統計によると
•特別永住者資格を持つ在日韓国・朝鮮人515,570人
•日本国籍を取得した韓国・朝鮮人284,840人
•長期滞在の韓国・朝鮮人82,666人
•留学生18,208人

それ以外に、密入出国をしたまま登録をしていない朝鮮人がかなりいると見られているが、警視庁は約20万人~30万ともいわれ、実際どのくらいいるのか分からないそうです。

在日については、朝鮮大学校の教員だった朴慶植氏が1965年に書いた「朝鮮人強制連行の記録」などによって戦時中に日本に強制連行されてきた「被害者の子孫」という大嘘のイメージが定着してしまいました。
その結果「強制連行」という嘘が独り歩きし、在日の二世や三世は被害者というひねくれた感情に支配され、日本人を憎むようになっていきました。

しかし実際は「戦時徴用」のことで徴用は日本人も韓国人も同様です。戦後日本に残って「在日」になったのは外務省によれば245人だけでした。それ以外は白丁(ペクチョン)と言われて極端な差別から逃れてきた多くの人たちと貧しい韓国から脱出し、経済的なチャンスを求めて日本に渡ってきた少数の人たちです。

それにもかかわらず強制連行という負のイメージを利用して、外国籍を維持しながら、日本人と同等のあるいはそれ以上の権利を求める運動を展開してきました。いまや在日は日本人以上の権利と社会権を持つに至っています。

戦後日本にやってきた朝鮮人の多くは済州島の白丁(ペクチョン)と言われている人たちです。白丁(ペクチョン)とは朝鮮で最下位に位置する被差別民で 白丁は人間ではないとされていました。朝鮮では日本よりずっと身分への差別がすさまじいのです。現在でも続いています。

済州島は朝鮮における流刑地であり 最下層の地域で白丁が大量に住んでいました。 朝鮮人を指すチョンという言葉が ありますが、これも白丁からきています。

在日朝鮮人は本国の朝鮮人からも酷く呼ばれ差別されています。本国の朝鮮人は奴隷であった白丁である在日朝鮮人と一緒にされるのを嫌がります。それ故 彼らは帰ることが出来ません。 韓国の大学でも在日は白丁が移民したの だと教えられています。

白丁階級制度が廃止されたのは1950年代なので 在日1世は朝鮮で奴隷を経験した人が多い。 だから差別の少ない日本に移住したのです。 彼らが在日特権を持ち、さらに日本という国で恩恵を受けながら 反日活動を行うなどとても許されるものではありません。

朝鮮半島で白丁が受けた身分差別は、以下のようなものです。
1.族譜を持つことの禁止。
2.屠畜、食肉商、皮革業、骨細工、柳細工(編笠、行李など)以外の職業に
 就くことの禁止。
3.常民との通婚の禁止。
4.日当たりのいい場所や高地に住むことの禁止。
5.瓦屋根を持つ家に住むことの禁止。
6.文字を知ること、学校へ行くことの禁止。
7.他の身分の者に敬語以外の言葉を使うことの禁止。
8.名前に仁、義、禮、智、信、忠、君の字を使うことの禁止。
9.姓を持つことの禁止。
10.公共の場に出入りすることの禁止。
11.葬式で棺桶を使うことの禁止。
12.結婚式で桶を使うことの禁止。
13.墓を常民より高い場所や日当たりの良い場所に作ることの禁止。
14.墓碑を建てることの禁止。
15.一般民の前で胸を張って歩くことの禁止。

(Wikipediaより抜粋)

1948年〜1954年、朝鮮半島の済州島では、朝鮮人による朝鮮人の虐殺が横行した(済州島四・三事件) 島民の6万人が殺害され、村々の70%が焼き尽くされた。このとき虐殺を逃れて日本に密航した難民つまり白丁(ペクチョン)が在日となったのです。

日本に逃れてきた白丁は、二世たちに最下層の身分である白丁を隠すために、日本に「強制連行」されたと言わないことには何故自分たちが日本に居る正当な理由がない。そこで二世たちに「日本人は朝鮮で多くの人を虐殺した」という作り話を繰り返し聞かして育てました。

そして自分たちは強制連行を受け、戦後は日本国籍からほり出された被害者であり、平等な権利を求めるのは当たり前だと主張して、被害者としての特権意識を持ち、外国籍でありながら日本人と同等、あるいはそれ以上の権利を求める運動をしてきました。

結果在日は日本人と全く変わらない社会権を持っているにもかかわらずさらなる権利を主張するのは、日本社会の破壊にさえつながる運動です。

おそらく在日の二世や三世たちは自分の親が韓国では人間扱いされなかった最下層の白丁の出身だとは知らされていないと思います。また在日は二世に白丁の出身を隠すために、あるいは韓国での奴隷状態で人間扱いされなかった怨念を晴らすために、より以上の反日活動をして、プライドをとりもどしていったのではないかと思われます。

現在でも韓国内では在日は白丁とみなされ白い目で見られています。それなのに在日は 同胞からも見捨てられているにもかかわらず、韓国政府の代弁者のごとく反日姿勢を取り続けるのは、自分は本国の反日韓国人と同等だと二世や三世に見せつけるためだと思われます。

つまり在日朝鮮人は朝鮮半島の同胞から、同胞だとはみなされず、すさましい差別から逃れるために日本にきた。それが何年たっても彼らが帰国しなかった本当の理由です。



(い)日本のシンドラーは杉原千畝だけではなかった。陸軍の樋口季一郎少将もいた!

次はねずさんこと小名木善行さんの記事。

オトポール事件
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昭和13(1938)年3月、ナチスの迫害から逃れてきたユダヤ人、満洲に入国できずにソ連のオトポール駅で立ち往生となっていました。
駅舎からあふれた人々は、吹雪の中で野宿同然の状況となっていました。
身の回りの物だけを持ってようやくたどりついた難民たちです。
オトポールの3月の気温は、夜にはマイナス30度の極寒になります。
食糧もすでに尽きており、飢えと寒さで凍死者が出はじめていました。

満洲国は、日本の同盟国でした。
その日本はドイツと同盟関係にありました。
「もしユダヤ難民を受け入れれば、ドイツ側から抗議を受ることになる」
満洲の役人たちは、そのことを心配してユダヤ難民の受け入れを拒否していたのです。

オトポール駅は、ヨーロッパとつながるシベリア鉄道のアジア側の終点です。
次々とやってくるユダヤ難民たちは、ついにその数、2万人に達するものとなっていました。

満州のハルビン市で特務機関長をしていた陸軍の樋口季一郎(ひぐちきいちろう)少将のもとにハルビンユダヤ人協会会長で医師のカウフマン博士がやってきました。
そして樋口少将に、ユダヤ難民の救出を依頼してきました。
しばらく考えていた樋口少将は答えました。
「わかりました。
 すべての責任は私が負います。
 博士は難民の受け入れ準備に取りかかってください」
この言葉を聞いたとき、カウフマン博士は滂沱の涙を抑えることができなかったそうです。

樋口少将は、すぐ満鉄の松岡洋右(ようすけ)総裁に特別列車の手配を依頼しました。
オトポールのユダヤ人たちは、すでに多くが満足に歩けない状態となっていました。
駅から満洲の国境までは、わずか数百メートルです。
そこには満鉄の日本人職員が待ち構えていました。
けれど、ユダヤ人たちはすでに息も絶え絶えの状況でした。
待ち構える日本の職員たちは、
「頑張れ、もう一息だ!」と叫びました。
ようやく国境にたどり着いたユダヤ人たちを、職員たちが背負って列車まで連れて行きました。
こうして、すべてのユダヤ人が救出されました。

特別列車は、二日かけて、ハルビン駅に到着しました。
列車が停車すると、救護班の医者がまっさきに車内にとびこみました。
病人や凍傷で歩けなくなった人たちがつぎつぎにタンカで運び出されました。
やつれた幼い子供たちには、暖かなミルクが振る舞われました。
子供も大人も、そのそのビンを見ただけで泣き出しました。

数時間後、樋ロ少将はオトポールの難民すべてが収容されたという報告をうけました。
十数名の凍死者、および病人と凍傷患者二十数名を除き、すべてのユダヤ人が無事に保護されました。
もし救援があと一日遅れていたら、この程度の犠牲者ではすまなかっただろうと医師たちは言いました。

ユダヤ難民たちは、日本やアメリカへ渡り、残りの人たちはこのハルピンの開拓農民として生活していくことになりました。
日本に着いたユダヤ人たちは、在日ユダヤ人会と協力して、神戸に受け入れ施設を作られました。
日本の警察も、乏しい食糧事情の中で、トラック何台ものジャガイモをユダヤ人に贈りました。

こうして事件が落着した2週間後、日本国政府に対してドイツ政府から強硬な抗議文が送られてきました。
関東軍の司令部の東条英機参謀長は、樋口少将を呼び出しました。
樋口少将は、東条英機参謀長に答えました。
「ドイツは日本の同盟国です。
 しかしドイツのやり方が
 ユダヤ人を死に追いやるものであるならば、
 それは人道上の敵です。
 私は日本とドイツの友好を希望します。
 しかし日本はドイツの属国ではありません。」
そして参謀長の顔を正面から見据えて言いました。
「参謀長!
 ヒトラーのお先棒をかついで、
 弱い者いじめをすることを、
 正しいとお思いになりますか」

東条は天井を仰いで言いました。  
「樋口君、よく言ってくれた。
 君の主張は筋が通っている。
 私からも中央に、
 この問題は不問に付すように伝えておこう」

そして日本国政府は、ドイツの抗議を、
「当然なる人道上の配慮」
として一蹴しました。

数年後、転勤で樋口少将がハルピンを去る日、駅には二千人近い群衆が集まりました。
遠く数十キロの奥地から馬車をとばして駆けつけたユダヤ人もいました。
それは樋口少将が土地や住居を世話したユダヤ難民たちでした。
樋口少将の乗った列車が動き出すと、群衆はホームになだれ込み、
「ヒグチ!」「ヒグチ!」「ヒグチ! バンザイ!」の声がいつまでも響きました。

オトポール事件から約七年後、大東亜戦争の末期に突如侵攻してきたソ連軍を撃退した樋口少将は、ソ連に恨まれて、終戦後に戦争犯罪人として裁判にかけられそうになりました。
このとき樋口少将を救ったのはユダヤ人たちでした。
「命の恩人ヒグチを救え!」
「ヒグチに恩を返すのは今しかない!」
世界ユダヤ協会は、世界中のユダヤ人に連絡してアメリカ政府に働きかけ、樋口を救いました。

かつての満洲は、いまは中共の東北省と、ロシア領に分断統治されています。
そこには、かつてのロシア帝国の元貴族たちや、こうして樋口季一郎に助けられた多くのユダヤ人たちも平和に暮らしていました。
日本が戦争に敗れたとき、満洲には、支那共産党軍とソ連軍がなだれ込み、満洲国はなくなりました。
そして、そこにいたロシア帝国の元貴族やユダヤ人たちは、いまでは誰も残っていません。

運の良いものは、難を逃れてアメリカやヨーロッパに亡命することができました。
けれど、それをすることができたのは、1000人にひとりもいなかったといわれています。
国を失うということが、そこに住む人々に何をもたらすのか。
そして責任ある将官と、その将官に率いられた軍の存在こそ、人々の安全を護るものであるということを、私たちはいまいちど考えてみる必要があると思うのです。

日本における軍は、上古の昔の神倭伊波礼毘古命に率いられた御軍の時代から現代の自衛隊に至るまで、常に公正無私、人々の生活の安全と安心を護る軍でした。
ですから日本人にとって、軍人といえば、それはいまの自衛官や機動隊員と同様、常に正義の味方です。

ところがこのことは、日本人の常識であっても、諸外国の常識ではありません。
大陸や半島においては、自国の軍は常に暴徒であったしヤクザ者であったし、ギャングの手先で有り続けました。
西洋においては、軍といえば傭兵で、傭兵は常に食いはぐれた愚連隊の集合体でした。
そしてその軍を動かすものが支配者でした。
ですから支配者=収奪者であったし、だからこそ、そこからの自由のために民衆が軍と戦ったという歴史を持つのが西洋釈迦であり、その収奪者から逃れて、自由のために新大陸を目指したのがアメリカです。
日本とは国の成り立ちが違うのです。

その、国の成り立ちが違う人達が、日本の軍のあまりの強さを見て恐怖して、戦後70年間、必死になって行ったことが、「日本の軍は怖い存在」というイメージです。
ところが、70年もかけながら、現実には、「日本の軍は怖い存在」というイメージは、ただの言葉遊びにしかならず、これを政争の道具にすればするほど、それをする野党は、日本の世間から見放されてきました。
また、これを教育よって日本人に刷り込もうとすればするほど、自衛隊への入隊希望者が増えています。

日本には日本の歴史があります。
私たちは、戦後に教わってきたことが、本当に、正しい歴史であったのか。
いまいちど、冷静に考え直してみるべきときにきていると思います。

お読みいただき、ありがとうございました。

◆参考文献
服部剛著『教室の感動を実況中継! 先生、日本ってすごいね』
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  by kikidoblog2 | 2016-10-27 09:11 | 真実の歴史

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