カテゴリ:真実の歴史( 3 )   

真珠湾攻撃総司令官淵田美津雄、マッカーサー、アイゼンハワー、トルーマン、ニミッツと会う   

みなさん、こんにちは。

今日は久しぶりに日光が差し込んできて、早朝から鶯も鳴く。そういう清々しい気分のさなか、例の淵田美津雄さんの本のことをまたいくつかメモしておこうと思う。

「忖度」の正しい意味と使用法とは?:なんと死んだ人の気持ちを思うことだった!

a0348309_850750.jpg

の中で、編者の中田繁一さんの「あとがきにかえて」の文章に、「忖度(そんたく)」を使った文章を見つけたが、この忖度するとは、詮索するとどことなく似ているが、
「生前の心持ちを忖度する」
というように使用するものであった。

一方の「詮索する」はまさにいま民進党が捏造情報やヤラセやありとあらゆる悪手と使って、「相手の立場を詮索する」というような場合に使う。

さて、この淵田大佐の終戦後は、軍事訓練の最中に燃料がなくなり、もはや基地に戻れず太平洋に墜落して死ぬしかないという時に、どこからともなく「高度を上げよ」という声が聞こえた。
その時であった。
突如、私の胸の中で誰かが「高度を上げよ、高度を上げよ」と囁くように思えるのであった。

高度を上げてどうなるものはないが、他にやりようがないからとにかくそれに従うことにした。

その結果、グライダーで滑空する時間がましたことにより、なんとかギリギリで基地に戻ることができたのだというのである。

琵琶湖の鳥人大会でもそうだが、水面ギリギリを飛行するより、元気なときには出来る限り高く富んだほうが最終飛距離を伸ばせるわけだ。

これと同じ原理をだれかが淵田大佐に囁いたのだった。

淵田大佐はその後真珠湾攻撃の成功、さらにはミッドウェー海戦の時に盲腸となって空爆に行けず、空母赤城の甲板で指揮している時、敵機の魚雷を受けてその爆風で吹っ飛び負傷した、にも関わらず生きていた。

後に終戦後、こうした度重なる奇跡的な運のよさを考えた時、
「これはイエス・キリスト様のご加護、お導きがあったからではないか」
と考えてキリスト教の洗礼を受ける。

そうして、戦後何年かの後に渡米して布教活動に行く。

ところが、その先々で先の大戦の真珠湾攻撃の総司令官だったという噂が広がり、アメリカの要人と会っていく。

そんな中で、ミッドウェー海戦の敵将、ニミッツ将軍と出会う。むろん、トルーマン、アイゼンハワーやマッカーサーとも面会した。

その時の彼らのことばが非常に興味深いので、それをメモしておきたいというわけである。

トルーマンの助言
a0348309_11584623.jpg


トルーマンは現れた。
なかなか元気そうであった。
先ずサックスが紹介されて、サックスが私を紹介した。
例によってサックスが長々とスカイ・パイロットを披露する。
15分間の会見の約束だから、私は気が気でない。
トルーマンはフム、フムと聞いてはいたが、トルーマンの興味は私にあるらしいのである。
宣教師さんたちによって、お茶が出される。
空気は和やかであった。

やがてトルーマンは私に話しかけた。
「ねえ、キャプテン、わたしは陸軍大佐だったんですよ。あなたは海軍大佐だったから、今日は軍人同志の話でいきましょう」
と前置きして、イエス・キリストさまの話は一時あずかりとばかり、サックスの口を封じた。
やがて真珠湾が話題に出た。
いろいろと当時の模様を話し合っていたとき、トルーマン前大統領は笑いながら、
「キャプテン、真珠湾はね、ボス・ギュルチイ(両者有罪)だよ」
と言った。私は
「そりゃ神の前にはボス・ギュルチイでしょうけど。。。」
といい及ぼうとしたら、トルーマンは遮って
「いいや、神の前ばかりでなく、人間の前にも、いまに史実としてボス・ギュルチイが明らかになるだろう」
と言った。
そんなことから、戦犯釈放問題にも触れ、嘆願署名簿を携えてきていることを話したら、
「キャプテン、心配せんでいい、もうまもなく戦犯問題は打ち切られるよ」と話してくれた。
あたたかい雰囲気であった。


アイゼンハワーとの面会
a0348309_11503926.jpg


どうやらこれは現職の大統領閣下だから、大忙しのさなかで、面会までには行かなかったようだが、キリスト教会で聖歌隊といっしょに大統領が聖歌を歌う機会に同席することができたらしい。

ところが、アイゼンハワー大統領は忙しいが、健康づくりにゴルフをやっている。

こういう場合には、もし淵田大佐がゴルフができれば、ごいっしょにどうかという誘いを受けた。しかし淵田はゴルフができないので断ったところ、教会のミサに参加するからその機会にどうぞということになったのだという。

このように、欧米人、特に英米人の場合にはゴルフは必須科目の一つである。これが一種の社交の場でもあるのだが、政治談義や商売談義の場ともなる。実に重要な機会なのである。

翻って、安倍首相がトランプ米大統領と同じゴルフの趣味があったということは、実は非常に大事なことなのである。
1ラウンド18ホール。何時間かいっしょの時間を取れるわけだ。
ラウンドしながら歩く最中にさまざまの話ができる。

これを民進党のような連中は、たんなる娯楽とか遊びとしたみない。実に無粋な人種である。

もし淵田大佐がゴルフをできたとしたら、おそらくアイゼンハワー大統領といっしょにラウンドして、もっといろいろなことが聞けたはずである。それはかなり残念だったのではないだろうか。

ニミッツ提督の体験談

a0348309_11493474.jpg

太平洋戦争が終わって、彼は日本から帰国して、太平洋艦隊司令官を退職した時、アメリカ国会は彼に元帥のパーマネント称号を贈った。
かくてニミッツ元帥は、請われるままに、全米各地に講演旅行をつづけていた。

一日、彼は東部のある大学に講演に赴いたとき、小さなチャーチ・ベルが廊下にぶら下げてあるのを見て、近づいてみると、日本字が刻んである。
問ねてみると、GIであった学生が、日本からスーベニアー(土産)として持ち帰ったものだという。
元帥は怒った。
「アメリカというキリスト教国民が、日本のキリスト教会のチャーチ・ベルをスーベニアーとして持ち帰るとは何事だ」

といったわけで、このベルを、日本のもとの教会へ返還することになり、日本占領軍司令部に当ってみると、そのベルに教会の名が刻んであったので、すぐに分かって、福岡市近郊の海岸にある小さな教会へ送り返された。

すると暫くして、その教会の子どもたちから、ニミッツ元帥にあてて感謝の手紙がとどいたという。
その手紙を元帥は大事に保存していて、私にそれを見せてくれた。
あどけない文字と文章との日本語で綴ってあった。

それによると、この教会の子供たちは、話に聞いている教会のベルというのがほしかった。
村に鍛冶屋のおじさんがいて、作ってやるから、福岡市内の空襲の焼け跡へ行って、銅やしんちゅうの屑を拾い集めてこいと言った。
そこで子供たちは、毎日毎日、みんなで出かけて行って、どっさりと屑拾いをやって集めたので、やがてベルが出来あがった。

みんなで喜んでいると、ある日、進駐軍の兵隊たちが海岸に遊びに来て、教会で一休みしていたが、一人がベルをみつけて、それが福岡市内に落ちていた爆弾や焼夷弾の屑を拾い集めて作って貰ったのだと子供たちが片言の英語と日本語交じりで自慢そうに語るのを聞いて、それならもとはアメリカのものだと強引に持ち帰ったのだという。

それをいまニミッツ元帥のおかげで、戻って来たのでとても嬉しいとある。
そして
「ニミッツのおじさま、どうもありがとう」
と結んであった。

私は笑いながら、その旨を通訳すると、彼も受け取った当時、知り合いの日本人に通訳してもらって分かっていたのだが、スーベニアーといえば、学生たちだけではない、私も持って帰っていると、愕然とした面持ちであった。

それは日本海軍司令長官兼連合艦隊司令官(終戦時は軍令部総長)であった豊田副竹海軍大将
a0348309_12205892.png

の軍刀を、ニミッツは贈られて持ち帰ったのであるが、これは自分の私すべきものではないから、これを豊田大将へお返ししたいと言った。
そして私が日本へ帰るとき持ち帰ってくれとの頼みであったが、私はまだ二ヶ月滞米の予定だからと、日本大使館に返還の手配を頼んだ。
そのようなことで、軍刀は豊田大将のもとへ戻ったはずである。
このようにニミッツ元帥も神をも慴れる人であった。


このニミッツ元帥が憧れ目標にした人物、それが我が国の東郷平八郎元帥であったという。
a0348309_10205973.jpg

若い頃はこれ。
a0348309_1021130.jpg


昔の帝国海軍士官はみないまでいうところのイケメンだったんですナ。

佐藤浩市さんの祖父、三國連太郎さんの父はだれだったのか?

秋山真之
a0348309_10231970.jpg


井上成美(しげよし)海軍大将
a0348309_10234183.jpg


ところで、当時の日本海軍の大佐は、メイド(家政婦)を雇うことが許された。ドイツ海軍の真似らしいが、帝国海軍の家の家政婦になることは、当時の女性にとっては花形の職業だったらしい。逆に言えば、当時の海軍大将は、つねに命がけだから、家に戻れば、「は〜〜いご主人様」といって待ち受けてくれるメイドさんもいたし、奥方もいたわけだ。そういう時代だったようである。

ここでこの本を読んで私個人の意見では、どうも山本五十六元帥は指揮官の器ではなかった。むしろ、戦艦とか空母とか潜水艦とか、兵器開発におけるアイデアに抜きん出いていた。

だから、兵器開発のトップになるべきで、実際の戦闘における作戦や実施には、淵田美津雄大佐の方がすぐれていたように思う。

一人の司令官が戦闘作戦立案し、現場監督し、兵器立案するというのはちと荷が重い。分業してれば、日本が勝ったのではないかと思う。

ところで、上の井上成美(しげよし)海軍大将は、この淵田美津雄総司令官同様に、戦時中にあって、大艦隊主義の誤りを指摘し、航空母艦主義を唱えた極めて優秀な大将だった。

戦争末期には、いかに有利に戦争を終えるかを研究し、良さそうなところでうまく敗戦する道を模索したという。

だから、もしこの井上成美大将のプランが実現しておれば、広島長崎もなかったはずなのである。

喧嘩して負けそうになったら、大怪我しないうちに頃合いを見て適当に負ける。

これもまた軍人の知恵である。

再起不能になれば、ご臨終に等しい。

この井上成美大将は戦後ひっそりと田舎で貧しく暮らしたという。それもそのはずで、海軍将校の年金がGHQおよび米進駐軍の指令で全額カット、ゼロとなったからである。

だから、この淵田司令官もそうだったように、実家の田舎に戻って、住む家から全部自分で建てなければならなかったのである。

淵田の本にはこうある。
そのころの井上は、妻に先立たれており、貧窮のなかにたったひとりの愛娘の葬式さえままならなかった。
肺結核を患った娘の亡骸を運ぶお棺さえも、近くの竹やぶから切り出した竹を工夫して自分でつくったという。

失意の日々、自宅で英語塾をひらき、近所のちいさな子供たちに英語を教え、テキストはコンニャク版で刷って自分でつくった。
ときには手作りのクッキーで子供たちををもてなした。
海軍式のテーブルマナーを教えながらさまざまな人間教育も行ったのである。
しかしわずかな謝礼も頑として断った。
見かねた親たちは、コメや野菜をもちよってひとり暮しの井上の日々のくらしを陰で支えていたのである。

海軍兵学校時代の教え子たちも見るに見かねていた。
井上の晩年、嫌がるのを説き伏せて、生活の援助をするかわりに彼らがその土地と屋敷を買い取って、家賃はただで住まわせることで井上との妥協をはかった。


米海軍が戦死者やその遺族にいわゆる退役軍人の年金を与えるのと比べて、日本海軍の場合は、マッカーサーの指令通達のせいで、ほとんど無一文で一生を過ごしたのである。

キリスト者になって教会から資金を得られた淵田はまだ幸せ者だった。

それでも、誰ひとりとして、日本の軍人さんたちは文句言わなかったのである。

ここが支那朝鮮人とはまったく人種が違うと言われる所以である。

これが、「帝国海軍、何も語らず」ということである。


パール判事の言葉

淵田は東京裁判におけるインド人のパール判事の主張も残した。

a0348309_11515363.png

「日本の子弟たちが、日本は犯罪を犯したのだとか、日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだとか、教えられて、ゆがめられた罪悪感を背負って、卑屈頻廃に流れていくのを、私は平然と見過ごすわけにはいかない。
あやまられた勝者の戦争宣伝の欺瞞は払拭されねばならないし、あやまられた歴史は書き換えられねばならない。
日本の子弟たちよ、満州事件から、大東亜戦争勃発に至る真実の歴史を、私の判決文を通して十分に研究して戴きたい」


これから72年。

いま、これをいわゆるその当時の子弟であった、団塊の世代、いまの中高年、この人達が疎かにしてきたツケを払わされているわけである。


マッカーサーの言葉

さて最後にマッカーサーの話。

1953年3月8日日曜日、淵田はマッカーサー元帥から夕食に招かれた。その時のマッカーサーの言葉である。

おそらく、戦後72年経ち、いままさに憲法改正が議論されているさなか、戦後憲法を1週間程度の突貫工事で作成したマッカーサー元帥はどう考えていたか。これが見事に語られていたのである。

しかし彼は依然として日本に対する関心は深かった。
以下は食事中、彼が私に語ったところを継ぎ合わせたのである。

彼は言った。

a0348309_11483844.jpg


「占領軍最高司令官としてやったことは、すべてが良かったとは思っていない。
恨まれることもあろう。が、自分は日本をよくしたい気持ちをいつも念頭において、ワシントンをふりかえりつつ占領政策の遂行に当ってきたつもりである。

昨年(1952年)のメーデー事件は、共産主義者の扇動が背景をなしていた以外に、青年たちの反米感情も働いていたとされている。
占領政策の反動として、反米的な流れが起こったとすれば、自分は非常に不本意である。
日本へ行ってなんとかしたい衝動に駆られる。

日本憲法に戦争放棄条項を付加させたことは、今にして考えれば、時期尚早であった。
当時自分は、原子爆弾の出現によって、将来の戦争は勝敗がつかないだろうと考えた。
敵も味方もともに滅亡する。
まったく人類の破滅でしかない。
そのような見地から、世界は戦争放棄の段階に近づきつつあるとの感を抱いていた。

日本を軍事的に無力化する連合国の方針もあったし、また日本をして率先、世界に戦争放棄の範を垂れさせようとの意図もあった。

ところがその後の世界の客観情勢は戦争放棄どころか、力に対するには力のバランスで、やっと平和を保っている。
かくて日本も自衛力が必要だというふうに、自分は再考を余儀なくせしめられたのであった

以上が、日本占領の最高司令官を会食せしめられて、丸腰となった往年のマッカーサーの元帥の述懐であった。


まあ、ここが、私が「バッカーサー元帥」と揶揄する所以ですナ。

まったく世界情勢どころか、まったくアジア人の何たるかを知らなかった。
特に支那朝鮮人の悪質な部分に無知だった。

そのせいで、いまアメリカが支那、朝鮮の企業の横暴ぶりでアメリカ人が疲弊しているのである。

欧米人はユダヤ人についてはよく知っていたかもしれないが、アジアのニダヤ人についてはまったく無知だったのである。

この無知のせいで、結局戦後の世界はまったく世界平和を望んでいなかったことがいまになって分かってきたわけだ。

ゆえに、

憲法改正は必須。憲法9条など論外である。

即刻、世界平和の実現には、自衛の日本海軍、空軍を立て直さなければならないというわけである。


ところで、上の井上成美大将は、山本五十六同様に、開戦反対者だった。また、いわゆる小日本構想を推奨し、大陸への進軍にも反対だったという。要するに、支那朝鮮モンゴルと関わっても何も利益はないから、自国だけを海軍を整備して、空母主義にして、母国を守ることこそ日本の本道であると説いたのである。また、今でいうところの「集団的自衛権」、これも井上は反対したらしい。なぜなら、集団的自衛権を持つと、無関係の場所まで護衛に行かなければならないからである。

簡単にいえば、

元祖、日本不沈空母構想である。

御意。私もこれに大賛成である。

他国への侵攻というような野暮なことはしない。

しかし、反日国へは国交断絶する。

もし攻撃したら倍返しにする。以下この繰り返し。

まあ、鎌倉武士と同じ発想が正解ということになる。

このためには、本当なら、憲法改正し、平和憲法から武装憲法に変え、あくまで集団的自衛権を破棄して、個別の自衛権だけ主張する。

これができるときはじめて、日本不沈空母となる。

日本列島が戦艦大和、というより、空母赤城になるわけだ。

他国へは攻め入らないが、日本を攻撃するものには反撃する。

これを念頭におく新憲法を作るべきですナ。→俺の構想

いずれにせよ、同じ本を読んでも俺と武田鉄矢は受け取る部分が異なる。それが人それぞれの感性の違いということになる。

武田鉄矢は日本が他国に迷惑をかけたと感じるが、俺は日本が他国から迷惑を受けたと感じるわけだヨ。

支那朝鮮人のために、何百万もの日本人の侍やら軍人やらが命かける価値もない。犬死だ。

とまあ、そう俺は感じるわけですナ。

いやはや、迷走中の日本政治、これもすべてバッカーサーの呪いですナ。

いやはや、世も末ですナ。



e0171614_11282166.gif

[PR]

by kikidoblog2 | 2017-06-23 12:29 | 真実の歴史

「昔は良かった」:天地真理の「水色の恋の謎」→ルーツは欧州スペインにあった!?   

天地真理
a0348309_12575912.jpg



みなさん、こんにちは。

さて、昨日の暴風雨のさなかにメモした、天地真理さんの「水色の恋」の話。これが実は非常に興味深い歴史があったということを見つけたので、一応ここにもメモしておこう。

我が国内では、天地真理さんの芸能界デビュー曲が「水色の恋」ということになっている。そして、この曲に出会ったのは、ヤマハの音楽フェスタ、たぶん後につま恋音楽界とかポプコンとかいうものに発展する音楽祭の初期の大会でのことであるという。これである。

天地真理デビュー前 「水色の恋」原曲 幻の「ちいさな私」を歌う


つまり、田上(たのうえ)姉妹の作詞作曲の曲「ちいさな私」というタイトルの曲をその大会で見つけた天地真理さんがそれを歌いたいということで、新しいタイトル「水色の恋」に変えてデビューしたということらしい。これである。

「水色の恋」の作詞・作曲者

 天地真理のデビュー曲「水色の恋」の作詞・作曲者の田上えりさん、田上みどりさんについては知らない人が多いようです。プロの人ではないので当時も業界関係者にさえ謎だったようですが、『週間明星』1972年1月23日号に「天地真理のヒット曲の陰に謎の美人姉妹」というタイトルでお二人と真理さんとの対面の様子が載っています。

 周知のように「水色の恋」は1970年11月5日行なわれた第2回ヤマハ作曲コンクール(第4回から「ヤマハポピューラーソングコンテスト」と改名)の予選通過曲の中にあった「小さな私」という曲(このときは藤田とし子さんが歌った)を、このコンクールにほかの曲(OTHERWISE)を歌って参加していた真理さんがその曲集から見い出し、やがて自分のデビュー曲となったのですが、真理さん自身もこのお二人についてはまったく知らなかったようで、テレビ局で“田上えりさんの友達”という人に話しかけられて、「田上」が「タノウエ」と読むこともはじめて知ったようです。そしてそれをきっかけに(この記事によれば)週間明星の記者がお二人を探し当てて初めての対面ということになったのです。

 作詞の田上えりさんは横浜に実家がある3人姉妹の末っ子で、このとき聖心女子短大2年の20歳。高校時代から同人誌に散文詩を発表していたそうです。作曲の田上みどりさんは長女で芸大の楽理科を卒業し前年結婚したばかりの23歳。在学中からヤマハミュージックスクールの講師を務めていて、第2回ヤマハ作曲コンクールに応募する際、えりさんの詩のひとつを使って作曲したのが「小さな私」だったということです。

その創作過程について姉妹はこう語っています。(記事のまま)
「小さなわたし」は趣味的につくったものなので、その後2人でかなり手を入れました。2番はあとから書き足したものですし、“水色に残された影・・・”というところは、別れのイメージはクールな感じにしたかったから・・・。天地さんは‘白雪姫みたいな心’という言葉にひかれたとおっしゃいましたけど、あれは童話の‘白雪姫’と関係なく、ただフィーリングで可愛いムードを出したかったの。でも私たちのつくった歌がこんなにヒットするなんて、想像もしませんでした。やっぱり、真理さんの歌い方に魅力があったんじゃないでしょうか」

 「白雪姫」にあまり意味はなかったというのは、ちょっと意外かもしれませんが、実際の作者ならではの話ですね。お二人と真理さんの対面は1月9日、青山の喫茶店で行なわれたそうですが、たちまち意気投合して楽しいものになったようです。真理さんが中学、高校時代をすごしたのは横浜の隣といっていい座間ですし、音大付属高校から大学へ進学する道もあったわけですが、その場合は楽理科を考えていたとか、高校在学中から、そして卒業後ヤマハミュージックスクールで学んでいたなど、お二人と接点も多くとても身近に感じたのではないでしょうか。ちなみに3人姉妹の次女の方が偶然にも「まりさん」で、お二人と真理さんが並んで歩く姿は本当の姉妹のように見えますね。

田上姉妹と天地真理さん
a0348309_9213650.jpg

a0348309_9213168.jpg


 なお、この記事の冒頭にはこの年、渡辺プロに届いた年賀状が一番多かったのは森進一でも小柳ルミ子でもなく天地真理で、全盛期のタイガースに匹敵すると書かれています。歌手デビュー後わずか3ヶ月という時期を考えると驚異的な人気沸騰だということがわかります。


ところが、世の中には結構執念深い人や曲には詳しいという人がいるようで、この田上姉妹の曲にはモデルとなった原曲があることを見つけた人がいた。以下のものである。

★ デビュー曲 『♪水色の恋 』 の原曲 『♪Gran Hotel Victoria 』 ★
a0348309_8431378.jpg


この 『♪水色の恋 』 っていう曲、
原曲は 『♪小さな私 』 っていうことは、
あまりにも有名ですよね。
作詞は田上えり さん、
作曲は田上みどり さんです。
 
YouTube にデビュー前の真理さんが、
ギター弾き語りで歌っている 『♪小さな私 』 が
ありましたので、お借りしました。
1970(昭和45)年、TBSテレビの
「 ヤング720 」 っていう番組に、
アマチュア歌手として出演して、
この 『♪小さな私 』 を歌った時のもの、
みたいです。
 
このビデオは 『♪小さな私 』 に続いて、
『♪水色の恋 』 もワン・コーラス入っていますから、
比較できますよ~
まずは聴いてネ
ビデオ制作は amhikokigumo さんです。


プレミアム・ボックスの解説から引用しますけど、
真理さんがデビューする前の、
1970(昭和45)年に、
三重県の合歓の郷(ねむのさと)で開催された、
「’70作曲コンクール」(後のポプコン)に、
真理さんは出場
しています。
そのとき、
他の出場者が歌った 『♪小さな私 』 が
すごく気に入ったみたいです。
その後、デビューすることになって、
デビュー曲を何にするか話し合ったとき、
真理さんは、この 『♪小さな私 』 を、
強く希望して実現したらしいですネ


問題はその後の話。実はこの田上姉妹の「小さな私」にさらに原曲があったのである。

さてさて~
この 『♪小さな私 』 にも原曲があるの。
知ってましたかぁ~
コアなファンでしたら、とっくにご存知ですよね。
じつは、私、不思議に思っていたことがあるんです。
それはね、作詞者と作曲者のことなの。
 
真理さんデビュー当時の、
たとえば上のシングルでは、
作詞:田上えり
作曲:田上みどり
補作曲:森岡賢一郎
ってなっていますケド、
 
2006(平成18)年10月1日発売の、
プレミアム・ボックス(CD)では、
作詞:田上えり、Carlos Pesce
作曲:田上みどり、Feliciano Latasa
ってなっているんです。
途中から作詞者さんと作曲者さん、
増えてますよね~
 
それと、日本音楽著作権協会(JASRAC)での
登録上は 「 外国作品 」 扱いなんだって。
もしかして、もともとは外国の曲を、
それなりにアレンジしちゃったのかも・・・
って思って、調べたら、やっぱりありましたぁ~
 
Feliciano Latasa(フェリシアーノ・ラタサ)
さんが作曲したタンゴの名曲、
『♪Gran Hotel Victoria 』
(グラン・ホテル・ヴィクトリア)です。
この曲に、
Carlos Pesce(カルロス・ペシェ)さんが、
歌詞をつけたんだと思います。
 
とりあえず演奏だけですけど、聴いてみてね~
Orquesta Juan D'Arienzo(ファン・ダリエンソ楽団)
の演奏で 『♪GRAN HOTEL VICTORIA 』 です。
『♪水色の恋 』 っぽいメロディが出てくるのは、
0:44 あたりからです。
その後もくりかえして出てきますよ~
ビデオ制作は DE TODO UN POCO さんです。

JUAN D ARIENZO EL GRAN HOTEL VICTORIA


これを聞くとたしかに44秒目から「水色の恋」の曲があらわれる。しかし、タンゴ化されたものであり、日本で言えば、演歌の中のワンフレーズ、ツーフレーズという感じである。

Gran Hotel Victoria -tango- (F. Latasa - C. Pesce) por Analía Rego


Gran Hotel Victoria


さてさらにこの「グランド・ホテル・ヴィクトリア」という曲は、ある旅行客がイタリアのホテル・ヴィクトリアをみてたいそうびっくりこいた結果できた曲だということがわかった。以下のものである。

Gran Hotel Victoria - “Gran Hotel Victoria”, an anonymous tango
a0348309_8555775.jpg



このヴィクトリアホテルというのはどうも欧州の老舗ホテルであり、超高級ホテルのようである。昔の作りはこんな感じだったらしい。

a0348309_8583333.jpg


今はこんな感じ。
a0348309_904327.jpg

a0348309_904040.jpg
a0348309_924335.png


王族が宿泊できるような超高級ホテルのようである。

ここで演奏しに来たスペインのサンセバスチャン生まれのピアニストでバイオリニストのラタサという人が、このGran Hotel Victoriaを作ったが、この人は36歳の若さで死んだというのである。この部分である。

We shall present a short biography of the composer or, maybe rather, alleged composer of the piece. Pianist and violinist, Latasa was born in San Sebastián —Guipúzcoa, Spain— on September 25, 1870 and settled in the city of Rosario, province of Santa Fe, at the dawn of the twentieth century. At that city he led the orchestra of the Sociedad España and the Orfeón Gallego.

When in Córdoba he appeared at the Club Democrático España and at the Roma and Victoria hotels leading his orchestra lined up by José Ferreras and Cristóbal Boday (violins), José Aguilar (flute), José Guisado (clarinet), Ernesto Di Blasi (trombone) and J. Macia Granja (bass). He composed the tango “Gran Hotel Victoria” (Hotel Victoria), the chotis “Carmencita”, the zarzuelas “Risas y lágrimas” and “Celeste”, and, according to Vicente Gesualdo, numerous dancehall pieces, chotis, mazurcas, polkas, waltzes, pas de quatre, etc. He died in Córdoba on September 18, 1906 when he was nearing age 36.



そしていつしかヨーロッパにおいてはアノニマス(=作成者不明)のまま、非常に馴染みのある曲として流通していったようである。

特にスペインタンゴでは昔からある有名な民謡のように作者不明の曲として演奏されるようになった。

とまあ、そんな感じである。

さてそこで、ここからが私個人の妄想、あるいは、推測だが、この「Gran Hotel Victoria」はその後、チャーリー・チャップリンによって編曲されて、あの有名なライムライトの曲になったような気がする訳である。

Limelight / Terry's theme ライムライト / テリーのテーマ

ライムライト チャップリン「街の灯」<癒しの30弁オルゴール>


そのスペイン人の記事の後半に天地真理さんと田上姉妹のこともちゃんと出ていたからすばらしい。以下の部分である。

Much later —Bischoff told us—, the same sheet music «was copied by two Japanese composers, Midori Tagami and his niece Eri, for their song “Mizuiro No Koi” that the female singer Amachi made into a smash hit in the seventies».


ここには、3姉妹の末っ子のえりさんがみどりさんの姪となっているが、それはどうやら間違いである。作詞が末っ子の田上えりさんで、作曲が長女のみどりさんということである。

また、田上が「たがみ(Tagami)」となっているが、それも間違いで、正しくは「たのうえ(Tanoue)」である。

というわけで、欧州のスペインでも本当はだれが作曲者なのかあまり良くわからない作者不明の作品だったわけで、そういうよく知られた曲をアレンジして一曲の作品を新たに作ったわけで、田上姉妹は大手を振って「自分たちの曲だ」と言ってよろしいのである。だから、だれともわからない西洋人の名前をつける必要はない!


いずれにせよ、チャップリンもそうだが、昔の欧州のバイオリニストやピアニストや作曲家≒ユダヤ人だったわけで、チャップリンもイギリスのユダヤ人。きっとラタサという無名の作曲家もユダヤ人だったに違いない(むろん、当時は有名。だから、ヴィクトリアホテルで演奏したわけだ)。だから、欧州の演歌、欧州の民謡のようなものに、この曲の雰囲気はよく登場してきたはずなのである。

日本で言えば、演歌の曲想みたいな、ちゃちゃんちゃちゃっちゃ、ちゃ〜〜〜、ちゃちゃんちゃちゃっちゃ、ちゃ〜〜、た〜〜ららら〜ら〜〜、みたいなものと捉えたほうが良いと思う。


というわけで、これにて一件落着。めでて〜〜ナ!


おまけ:
こんな掲示板もあるようだ。
天地真理~さくら貝




e0171614_11282166.gif

[PR]

by kikidoblog2 | 2017-04-18 09:41 | 真実の歴史

真実の歴史:「白丁って何だ?」「陸軍のシンドラー樋口季一郎少将もいた!」   

みなさん、こんにちは。

今回は他人のサイトでなかなか興味深い論説を見つけたので2つほどそんなものをメモしておこう。以下のものである。というのも、そういうサイトでは日本語でしか読めないが、ここではすぐに翻訳ツールで各国の言葉に直せるからである。ここは世界中の人が読んでいるので、世界の人たちにも本当の歴史的事実とはどういうものであるかを知っていただきたいからである。


(あ)白丁(pekuchun=ペクチュン)って何だ?

まずはこれ。「中韓を知りすぎた男」こと辻本貴一氏のブログから。

在日朝鮮人の反日は白丁の出身を隠すため    10月26日(水)

「国は内部から滅びる」とよく言われます。テレビ、新聞、政治家、役人その他多くの影響力を与える部署に在日が入り込んで日本を非常におかしくしてきました。

その結果牙を抜かれ、去勢された日本国家は今、内部に多くのがん細胞を抱えながら、前門の虎と後門の狼に睨まれ、在日に支配されたメディアは日本人を覚醒させぬよう洗脳、謀略、歴史を捏造してきました。そして在日たちは戦後永く日本人の生き血を吸い続けてきました。しかし多くの日本人はネットのお陰でやっと長い眠りから目覚めました。

いまや在日韓国朝鮮人は少し古いが2005年の統計によると
•特別永住者資格を持つ在日韓国・朝鮮人515,570人
•日本国籍を取得した韓国・朝鮮人284,840人
•長期滞在の韓国・朝鮮人82,666人
•留学生18,208人

それ以外に、密入出国をしたまま登録をしていない朝鮮人がかなりいると見られているが、警視庁は約20万人~30万ともいわれ、実際どのくらいいるのか分からないそうです。

在日については、朝鮮大学校の教員だった朴慶植氏が1965年に書いた「朝鮮人強制連行の記録」などによって戦時中に日本に強制連行されてきた「被害者の子孫」という大嘘のイメージが定着してしまいました。
その結果「強制連行」という嘘が独り歩きし、在日の二世や三世は被害者というひねくれた感情に支配され、日本人を憎むようになっていきました。

しかし実際は「戦時徴用」のことで徴用は日本人も韓国人も同様です。戦後日本に残って「在日」になったのは外務省によれば245人だけでした。それ以外は白丁(ペクチョン)と言われて極端な差別から逃れてきた多くの人たちと貧しい韓国から脱出し、経済的なチャンスを求めて日本に渡ってきた少数の人たちです。

それにもかかわらず強制連行という負のイメージを利用して、外国籍を維持しながら、日本人と同等のあるいはそれ以上の権利を求める運動を展開してきました。いまや在日は日本人以上の権利と社会権を持つに至っています。

戦後日本にやってきた朝鮮人の多くは済州島の白丁(ペクチョン)と言われている人たちです。白丁(ペクチョン)とは朝鮮で最下位に位置する被差別民で 白丁は人間ではないとされていました。朝鮮では日本よりずっと身分への差別がすさまじいのです。現在でも続いています。

済州島は朝鮮における流刑地であり 最下層の地域で白丁が大量に住んでいました。 朝鮮人を指すチョンという言葉が ありますが、これも白丁からきています。

在日朝鮮人は本国の朝鮮人からも酷く呼ばれ差別されています。本国の朝鮮人は奴隷であった白丁である在日朝鮮人と一緒にされるのを嫌がります。それ故 彼らは帰ることが出来ません。 韓国の大学でも在日は白丁が移民したの だと教えられています。

白丁階級制度が廃止されたのは1950年代なので 在日1世は朝鮮で奴隷を経験した人が多い。 だから差別の少ない日本に移住したのです。 彼らが在日特権を持ち、さらに日本という国で恩恵を受けながら 反日活動を行うなどとても許されるものではありません。

朝鮮半島で白丁が受けた身分差別は、以下のようなものです。
1.族譜を持つことの禁止。
2.屠畜、食肉商、皮革業、骨細工、柳細工(編笠、行李など)以外の職業に
 就くことの禁止。
3.常民との通婚の禁止。
4.日当たりのいい場所や高地に住むことの禁止。
5.瓦屋根を持つ家に住むことの禁止。
6.文字を知ること、学校へ行くことの禁止。
7.他の身分の者に敬語以外の言葉を使うことの禁止。
8.名前に仁、義、禮、智、信、忠、君の字を使うことの禁止。
9.姓を持つことの禁止。
10.公共の場に出入りすることの禁止。
11.葬式で棺桶を使うことの禁止。
12.結婚式で桶を使うことの禁止。
13.墓を常民より高い場所や日当たりの良い場所に作ることの禁止。
14.墓碑を建てることの禁止。
15.一般民の前で胸を張って歩くことの禁止。

(Wikipediaより抜粋)

1948年〜1954年、朝鮮半島の済州島では、朝鮮人による朝鮮人の虐殺が横行した(済州島四・三事件) 島民の6万人が殺害され、村々の70%が焼き尽くされた。このとき虐殺を逃れて日本に密航した難民つまり白丁(ペクチョン)が在日となったのです。

日本に逃れてきた白丁は、二世たちに最下層の身分である白丁を隠すために、日本に「強制連行」されたと言わないことには何故自分たちが日本に居る正当な理由がない。そこで二世たちに「日本人は朝鮮で多くの人を虐殺した」という作り話を繰り返し聞かして育てました。

そして自分たちは強制連行を受け、戦後は日本国籍からほり出された被害者であり、平等な権利を求めるのは当たり前だと主張して、被害者としての特権意識を持ち、外国籍でありながら日本人と同等、あるいはそれ以上の権利を求める運動をしてきました。

結果在日は日本人と全く変わらない社会権を持っているにもかかわらずさらなる権利を主張するのは、日本社会の破壊にさえつながる運動です。

おそらく在日の二世や三世たちは自分の親が韓国では人間扱いされなかった最下層の白丁の出身だとは知らされていないと思います。また在日は二世に白丁の出身を隠すために、あるいは韓国での奴隷状態で人間扱いされなかった怨念を晴らすために、より以上の反日活動をして、プライドをとりもどしていったのではないかと思われます。

現在でも韓国内では在日は白丁とみなされ白い目で見られています。それなのに在日は 同胞からも見捨てられているにもかかわらず、韓国政府の代弁者のごとく反日姿勢を取り続けるのは、自分は本国の反日韓国人と同等だと二世や三世に見せつけるためだと思われます。

つまり在日朝鮮人は朝鮮半島の同胞から、同胞だとはみなされず、すさましい差別から逃れるために日本にきた。それが何年たっても彼らが帰国しなかった本当の理由です。



(い)日本のシンドラーは杉原千畝だけではなかった。陸軍の樋口季一郎少将もいた!

次はねずさんこと小名木善行さんの記事。

オトポール事件
a0348309_922432.jpg

昭和13(1938)年3月、ナチスの迫害から逃れてきたユダヤ人、満洲に入国できずにソ連のオトポール駅で立ち往生となっていました。
駅舎からあふれた人々は、吹雪の中で野宿同然の状況となっていました。
身の回りの物だけを持ってようやくたどりついた難民たちです。
オトポールの3月の気温は、夜にはマイナス30度の極寒になります。
食糧もすでに尽きており、飢えと寒さで凍死者が出はじめていました。

満洲国は、日本の同盟国でした。
その日本はドイツと同盟関係にありました。
「もしユダヤ難民を受け入れれば、ドイツ側から抗議を受ることになる」
満洲の役人たちは、そのことを心配してユダヤ難民の受け入れを拒否していたのです。

オトポール駅は、ヨーロッパとつながるシベリア鉄道のアジア側の終点です。
次々とやってくるユダヤ難民たちは、ついにその数、2万人に達するものとなっていました。

満州のハルビン市で特務機関長をしていた陸軍の樋口季一郎(ひぐちきいちろう)少将のもとにハルビンユダヤ人協会会長で医師のカウフマン博士がやってきました。
そして樋口少将に、ユダヤ難民の救出を依頼してきました。
しばらく考えていた樋口少将は答えました。
「わかりました。
 すべての責任は私が負います。
 博士は難民の受け入れ準備に取りかかってください」
この言葉を聞いたとき、カウフマン博士は滂沱の涙を抑えることができなかったそうです。

樋口少将は、すぐ満鉄の松岡洋右(ようすけ)総裁に特別列車の手配を依頼しました。
オトポールのユダヤ人たちは、すでに多くが満足に歩けない状態となっていました。
駅から満洲の国境までは、わずか数百メートルです。
そこには満鉄の日本人職員が待ち構えていました。
けれど、ユダヤ人たちはすでに息も絶え絶えの状況でした。
待ち構える日本の職員たちは、
「頑張れ、もう一息だ!」と叫びました。
ようやく国境にたどり着いたユダヤ人たちを、職員たちが背負って列車まで連れて行きました。
こうして、すべてのユダヤ人が救出されました。

特別列車は、二日かけて、ハルビン駅に到着しました。
列車が停車すると、救護班の医者がまっさきに車内にとびこみました。
病人や凍傷で歩けなくなった人たちがつぎつぎにタンカで運び出されました。
やつれた幼い子供たちには、暖かなミルクが振る舞われました。
子供も大人も、そのそのビンを見ただけで泣き出しました。

数時間後、樋ロ少将はオトポールの難民すべてが収容されたという報告をうけました。
十数名の凍死者、および病人と凍傷患者二十数名を除き、すべてのユダヤ人が無事に保護されました。
もし救援があと一日遅れていたら、この程度の犠牲者ではすまなかっただろうと医師たちは言いました。

ユダヤ難民たちは、日本やアメリカへ渡り、残りの人たちはこのハルピンの開拓農民として生活していくことになりました。
日本に着いたユダヤ人たちは、在日ユダヤ人会と協力して、神戸に受け入れ施設を作られました。
日本の警察も、乏しい食糧事情の中で、トラック何台ものジャガイモをユダヤ人に贈りました。

こうして事件が落着した2週間後、日本国政府に対してドイツ政府から強硬な抗議文が送られてきました。
関東軍の司令部の東条英機参謀長は、樋口少将を呼び出しました。
樋口少将は、東条英機参謀長に答えました。
「ドイツは日本の同盟国です。
 しかしドイツのやり方が
 ユダヤ人を死に追いやるものであるならば、
 それは人道上の敵です。
 私は日本とドイツの友好を希望します。
 しかし日本はドイツの属国ではありません。」
そして参謀長の顔を正面から見据えて言いました。
「参謀長!
 ヒトラーのお先棒をかついで、
 弱い者いじめをすることを、
 正しいとお思いになりますか」

東条は天井を仰いで言いました。  
「樋口君、よく言ってくれた。
 君の主張は筋が通っている。
 私からも中央に、
 この問題は不問に付すように伝えておこう」

そして日本国政府は、ドイツの抗議を、
「当然なる人道上の配慮」
として一蹴しました。

数年後、転勤で樋口少将がハルピンを去る日、駅には二千人近い群衆が集まりました。
遠く数十キロの奥地から馬車をとばして駆けつけたユダヤ人もいました。
それは樋口少将が土地や住居を世話したユダヤ難民たちでした。
樋口少将の乗った列車が動き出すと、群衆はホームになだれ込み、
「ヒグチ!」「ヒグチ!」「ヒグチ! バンザイ!」の声がいつまでも響きました。

オトポール事件から約七年後、大東亜戦争の末期に突如侵攻してきたソ連軍を撃退した樋口少将は、ソ連に恨まれて、終戦後に戦争犯罪人として裁判にかけられそうになりました。
このとき樋口少将を救ったのはユダヤ人たちでした。
「命の恩人ヒグチを救え!」
「ヒグチに恩を返すのは今しかない!」
世界ユダヤ協会は、世界中のユダヤ人に連絡してアメリカ政府に働きかけ、樋口を救いました。

かつての満洲は、いまは中共の東北省と、ロシア領に分断統治されています。
そこには、かつてのロシア帝国の元貴族たちや、こうして樋口季一郎に助けられた多くのユダヤ人たちも平和に暮らしていました。
日本が戦争に敗れたとき、満洲には、支那共産党軍とソ連軍がなだれ込み、満洲国はなくなりました。
そして、そこにいたロシア帝国の元貴族やユダヤ人たちは、いまでは誰も残っていません。

運の良いものは、難を逃れてアメリカやヨーロッパに亡命することができました。
けれど、それをすることができたのは、1000人にひとりもいなかったといわれています。
国を失うということが、そこに住む人々に何をもたらすのか。
そして責任ある将官と、その将官に率いられた軍の存在こそ、人々の安全を護るものであるということを、私たちはいまいちど考えてみる必要があると思うのです。

日本における軍は、上古の昔の神倭伊波礼毘古命に率いられた御軍の時代から現代の自衛隊に至るまで、常に公正無私、人々の生活の安全と安心を護る軍でした。
ですから日本人にとって、軍人といえば、それはいまの自衛官や機動隊員と同様、常に正義の味方です。

ところがこのことは、日本人の常識であっても、諸外国の常識ではありません。
大陸や半島においては、自国の軍は常に暴徒であったしヤクザ者であったし、ギャングの手先で有り続けました。
西洋においては、軍といえば傭兵で、傭兵は常に食いはぐれた愚連隊の集合体でした。
そしてその軍を動かすものが支配者でした。
ですから支配者=収奪者であったし、だからこそ、そこからの自由のために民衆が軍と戦ったという歴史を持つのが西洋釈迦であり、その収奪者から逃れて、自由のために新大陸を目指したのがアメリカです。
日本とは国の成り立ちが違うのです。

その、国の成り立ちが違う人達が、日本の軍のあまりの強さを見て恐怖して、戦後70年間、必死になって行ったことが、「日本の軍は怖い存在」というイメージです。
ところが、70年もかけながら、現実には、「日本の軍は怖い存在」というイメージは、ただの言葉遊びにしかならず、これを政争の道具にすればするほど、それをする野党は、日本の世間から見放されてきました。
また、これを教育よって日本人に刷り込もうとすればするほど、自衛隊への入隊希望者が増えています。

日本には日本の歴史があります。
私たちは、戦後に教わってきたことが、本当に、正しい歴史であったのか。
いまいちど、冷静に考え直してみるべきときにきていると思います。

お読みいただき、ありがとうございました。

◆参考文献
服部剛著『教室の感動を実況中継! 先生、日本ってすごいね』
a0348309_94849.jpg




e0171614_11282166.gif

[PR]

by kikidoblog2 | 2016-10-27 09:11 | 真実の歴史