カテゴリ:真実の歴史( 9 )   

サッカーの元祖久保選手:マメ科植物のレグヘモグロビンの発見者はサッカーマン久保秀雄博士だった!   

レグヘモグロビンの発見者:久保秀雄博士
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みなさん、こんにちは。

さて今回はまったく趣きの違う話をメモしておこう。普通の人にはどうでもいいことだから、スルーを。

最近ではNHKのサッカー解説員として大きな顔でコメントしている福西だが、かつてジュビロ磐田に闘将ドゥンガが来た頃は、さんざんドゥンガから一から注文つけられて成長した部類に入る。

また最近知ったところでは、ジーコ監督時代のドイツW杯のときには、よく中田英寿とか中村俊輔などから、バスの中でゲームしていてちっとも一枚岩にならない選手がいるという話があったが、そういう選手の1人がこの福西だったらしい。

そんなチームの雰囲気を乱し、好き勝手にやり、チーム内で腐ったりんごだったやつが、早々引退したら反日捏造ニュースの捏造放送協会ことNHKのサッカー解説員になるとか、世の中間違ってんじゃないの?

ゲス解説者福西っていわれるぞ!

まずは自分が昔は何してたか反省し、改心してからの話ではないか?


おっと失敬。どうでも良い話を前置きにしてしまったが、実はつい最近、あの杉田元宜先生といっしょに我が国に生物物理学会発足のために尽力した、台湾で言えば、八田與一先生のような人物、それが久保秀雄博士だったのだが、この先生は私同様、大のサッカーファンだった。

旧制八高のサッカー部出身。

この八高がサッカーで快進撃を続ける様を見て、絶対に八高に入学するぞといって入学し、それから東大の生物に行き、農学部で、根粒細菌を研究する。

そして、戦前世界初で植物の中にヘモグロビンがあることを発見して名を残した。

これが
レグヘモグロビン

【空中窒素固定】より

…好気性細菌では環境のO2分圧が上がると,O2消費を著しく増大させ細胞内のO2濃度を下げる。マメ科植物の根粒にはレグヘモグロビンleghemoglobinと呼ばれるO2と可逆的に結合する色素タンパク質があり,これが根粒菌の呼吸に必要なO2を運ぶ役割と,根粒内のO2濃度を下げる役割の両方を担っている。窒素固定ラン藻の多くは,ヘテロシストheterocyst(異質細胞)と呼ばれる特殊な細胞で窒素固定を行うといわれているが,この細胞には光合成の光化学系IIが存在しないので光合成によるO2発生がなく,窒素固定酵素に好条件となっている。…

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という代物であるという。

久保秀雄先生が、まだ東大の大学院生
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のときの発見らしい。

これはマメ科の植物一般の根粒細菌とマメ科植物の共生によって生まれる物質らしい。

根粒菌と酸素

 マメ科植物が、根粒菌感染細胞内で大量に生産するヘムタンパク質であるレグヘモグロビンについての質問で、このタンパク質が窒素固定酵素であるニトロゲナーゼを本当に保護しているのか? 保護しきれなければ却ってニトロゲナーゼに害を与えているのではないか? という疑問だと解釈されます。このような疑問は、レグヘモグロビンは酸素を吸着し続けることによりニトロゲナーゼを保護する、つまり、浸入してくる酸素を受動的に結合して放さないことにより解毒作用を発揮するとの理解に基づくものと思われます。
 確かに、レグヘモグロビンは酸素に対する親和性が極めて高く、酸素を吸着して濃度を低いレベル(20 nM以下)に保つ緩衝機能を果たしていますが、酸素を消費する能力はありません。微小電極を用いた根粒内酸素濃度の測定結果などから、根粒の皮層領域に(レグヘモグロビンの存在する)根粒菌感染領域への酸素の拡散を妨げるバリヤー機能があると考えられています。このバリヤーの実体は不明ですが、酸素濃度が低いのはレグヘモグロビン以外の働きによると考えられているわけです。窒素固定酵素であるニトロゲナーゼの反応には還元力とATPが必要で、根粒菌は低酸素濃度に適応した呼吸系によりATPを生産しています。レグヘモグロビンの機能は単純な酸素の吸着ではなく、むしろ必要かつ十分な量の酸素を効率的に供給するため酸素の吸着と放出を繰り返す動的なものであると考えられます。

なお、植物は、根粒菌の感染によって特異的なタンパク質群(いわゆるノジュリン)を発現させます。上記のヘムタンパク質(レグヘモグロビン)はこれらのタンパク質の一つです。根粒菌は(植物の根の皮層細胞が分裂し肥大してできる組織である根粒の)植物細胞質内に共生し、共生する以前に比べ肥大化や異形化してバクテロイドと呼ばれる状態になります。バクテロイドは、植物の細胞質膜由来のペリバクテロイド膜が包まれ、シンビオソームと呼ばれる細胞内器官(ミトコンドリアや葉緑体に似ていますね)に似たかたちで機能します。根粒菌は酸素呼吸を行う為の酵素系(呼吸鎖電子伝達系)として、酸素濃度が高い環境用のものと低い環境用のものを複数持っていますが、バクテロイドでは極めて低い酸素濃度に対応したものを使っています。


ところが、である。

上のウィキの解説だったり、植物生理学会の解説でも分かるように、いったい誰が発見したのかについての記述がない。

というのは、それは無知だからである。

だれが発見したのか知らないのだ。

自国の久保秀雄博士が発見して戦前のドイツ誌にドイツ語で発表したが、その後終戦後になり英語圏の世界へと変わっていくうちに、日本人がドイツ語で公表した偉大な研究内容は英米社会で忘れられたのである。

まさに杉田元宜博士の場合と良くにている。


そんな久保秀雄博士の研究および人生を紹介する解説を見つけたので、一応ここにメモしておこう。以下のものである。
熊沢喜久雄著
レグヘモグロビンの発見と久保秀雄
レグヘモグロビンの発見と久保秀雄



この久保秀雄博士は、終戦後、理化学研究所がいったん進駐軍によって解体され、存亡の危機になった時代、研究費獲得のために、仁科芳雄博士から命じられて行った大事業があった。

それがストレプトマイシンの工業生産である。

見事これに成功し、解体され民間企業になった理研こと、科学研究所(科研、駒込)は息を吹き返し、再び理化学研究所(会社)となる。
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結核は戦前には不治の病だったが、それは抗生物質が生産できなかったからだ。

アメリカから高額で買う他なかった。だから金持ちしか抗生物質を飲めなかった。

しかし久保秀雄博士が抗生物質を生産できるようにしてくれたお陰でたくさんの人命が救われたはずである。


そして、生物物理学会も立ち上げた。


まあ、理研の人は久保秀雄博士の墓参りしないといけないでしょうナア。

久保秀雄博士がいなければ、仁科芳雄博士だけでは理研は潰れただろう。


最後に上の熊沢喜久雄博士の解説に久保秀雄博士のサッカー談が書いている。それをメモして終わりにしよう。以下のものである。
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「。。。私は東京女子師範の附属小学校にいたころボールをけることを覚え、毎年開かれるインターハイで旧制第八高等学校が壮烈にゲームを勝ち抜いて行くのを見つづけた結果、八高を志望しました。サッカーをするために八高に入ったようなものです。 。。。

近ごろはボールもクツも使い捨ての時代、ずいぶん便利になりました。便利ということは安直と背中合わせのような気がします。 。。。

ボールをけることがほんとに好きなら、練習の積み上げこそ大切にすべきなのだと思います。ちょっと技術がうまいだけで天狗(てんぐ)になるーそのような安直な“ええかっこうしい”の心が、必ずやその人の人生を誤らせるもとだと思います。 。。。

当世の風潮をみていると、勝手気ままが最高のように見えることもあります。自己本位の権利主張のみが目立つことも少なくありません。このような中で、チームの一員として、チームの戦力を強めるために何をすべきかということこそ、サッカープレイヤーの忘れてはならない第一歩です。審判の判定に従う心、謙虚さはその人の別の人生においても大切なことです。。。。」
中日新聞、昭和49年3月31日朝刊5ページ(1974)


昔のサッカー選手は、高校サッカーをやめたら、東大に入って、ノーベル賞級の生物学者になったんですヨ。


やはり昔は良かったんですナ。


いやはや、世も末ですナ。


おまけ:
第2章 「科学主義工業」と 「理研コンツェルン」の形成



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by kikidoblog2 | 2017-09-08 21:47 | 真実の歴史

池原止戈夫の「アメリカ学生生活」:日教組は米NEAの真似だったのか!?   

海外の反応 外国人留学生が紹介する高校生活に世界から感動の声!「日本の学校へ行きたい」

(日本の高校は昔のアメリカの高校のコピーなんだけどナ。
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みなさん、こんにちは。

また間が空いてしまったが、例の池原止戈夫博士の本「アメリカ学生生活」よりメモしておこう。

池原止戈夫の「アメリカ学生生活」:今の我が国の公立高校は昔のアメリカの公立高校の真似だった!?


すでに池原先生は当時のアメリカの高校を2つ途中入学で卒業した。1つはラットガース大学の付属の高校。もう1つがメイウッド市内にある公立高校。Proviso Township High School。

あまりに当時のアメリカの高校生活が楽しかったと見えて、昨今我が国の高校に交換留学でやってきた欧米の高校生が、その思い出をあとでYouTubeに残すように、まさにそれとそっくりに池原先生も、その高校生活を回想していた。

それが、「中等教育随想」という節であった。

中等教育というのは、中学高校までの教育のことを意味し、当時の大正末期の我が国では、つまり1922〜1924年の日本では、中学高校を「中等教育」と呼んでいた。一方、いまの大学教育以上の教育を「高等教育」と呼んでいた。つまり、大学と大学院の教育を高等と呼んでいたわけだ。

ひょっとしたら、今のように第二次世界大戦後のアメリカから押し付けられた、6334制の小中高大(小学校6年、中学校3年、高等校3年、大学4年、大学院修士2年、博士3年)という区分よりも、戦前の666制の小中高大(初等学校6年、中等学校6年、高等学校6年、大学3年)という区分の方が良かったのかもしれない。

中等学校で、中学と高校の6年の一貫教育を行い、高等学校で、大学と大学院修士の6年を学ぶ。この方がすっきりしている感がある。


さて、池原先生の話に戻ると、池原先生は次のように書いて回想している。
「郊外に静かな部屋を求む」という私の新聞広告に対して、たった一通の返事があったが、この手紙ははじめてメイウッドの名を私に教え、その町のハイスクールに入学する機会を作ってくれた。

わずか4ヶ月の在学ではあるが、そこで習った英文学や、米文学を通じて、アメリカを愛するものとなった。

最初は、自分の世界とはまったくかけ離れていると思い込んでいたがアメリカの学生生活にも、触れることができて、かれらの明るくうるわしい友情の中に身を置けたことは、生涯の喜びであり、一日本人として感謝するゆえんである。

若く、熱情にあふれているかれらは、建国以来200年たらずの国を背負って立つにふさわしいものであった。


この随想というか、感想は、まさに最近我が国のアニメをみてから、日本の高校に憧れてやって来る諸外国人の感想の生き写しである。

それほどまでに建国200年の当時のアメリカの公立高校はすばらしかったのである。

どうしてこうなっちゃったのかいな?

というのが、私個人の率直な疑問である。

今現在のアメリカでは、こういう雰囲気を残す高校は、各州にわずかにあるその州の最高の私立の高校くらいのものだろうか。

我が国の望月新一博士の卒業されたエクスター高校とか、そういう名門高校には、池原先生が経験したのと同じような雰囲気が残っている。


それから池原先生は、
アメリカ建国の1つの縮図として、1910年に創立されたこの学校の歴史を振り返ってみよう。
こういって、実に立派にその時代のアメリカのデータを調べて残していた。つまり、メイウッドの公立高校の歴史である。

まあ、まとめるとこんな感じか。

メイウッドの市立高校の歴史

1910年創立

1911年 生徒数=241人、卒業生=22人

1937年 生徒数=3700人、卒業生=713人

この大発展に対して池原先生はこう書いている。
。。。に増えていることは、この小都市のすさまじい発展を示し、それにつれて、教育機関をひろげてアメリカ市民としての楽しい生活を教授させる努力は我々が学びたいものである。単なるカレッジ入学準備の役目を乗り越えて、ハイスクール教育だけで、幸福な国民を創り上げていることは、教育の大きな成功である。

アメリカの現在の中等教育の教育方針は、すべてのアメリカの若人を尊敬するに値する人間にしたいとの理想に向っている。


この後、アメリカの中等教育の実施のデータをまとめている。


1870年(明治3年)生徒数8万人/全高校数200

1947年(昭和22年)生徒数700万人/全高校数28120

1870年には、アメリカの富裕層の子弟だけが高校に行き、その上のカレッジに入る準備としてラテン語、ギリシャ語、古典および数学を学んだのだったが、1947年では、大半の8割が高卒で終了する。

おかげで教師の給料が少なくなり、適任者が減ったとハーバード大の教育調査報告は述べているという。

ハイスクールの生徒がそれぞれ自己の権利を知り、他人を理解する責任ある市民となるために、ハーバード大学の提案は、
学科を2つの部門に分けて、すべての生徒のための一般教育と別に特殊教育を持つことにある
というものだったという。

より具体的には、当時のハーバード大学の提案とは、こんなものらしい。

大学進学組→一般教育半分、特殊教育(専門教育)半分
高卒組→一般教育2/3、特殊教育1/3

ここでいう一般教育および特殊教育の中身は以下の3部門だとか。

(1)世界の文学、音楽、絵画、および、英語の理解に役立つ外国を含む英文学
(2)賢明であって、責任ある市民を作るための、歴史と社会科学を含む社会学。過去の歴史の流れをくんで、今日の世界がどのように動いているかを、知らせることにある。
(3)科学と数学。+語学、思想、科学の概観。
(3’)専門専攻分野
たとえば、
医学専攻→生物、化学、数学
秘書志望→タイプ、速記術、商業英語


この方法によれば、大学進学組と高卒組との差を最小限度にとどめ、両方に共通の人生への準備と経験を与えるだろうと言われているという。

これが、当時のハーバード大学の報告の方針だった。

ところで、アメリカには我が国のような文部省がない。1995年以降の我が国では文科省(文部科学省)に統合されたが、アメリカではハーバード大学が文科省の役を果たしているようである。だから、教育方針は米政府から委託を受けたハーバード大学が報告を行うというわけだ。

ところが、面白いことに、戦後の我が国と同様に、つまり、文部省あるいは文科省の方針に対していつも教員組合である日教組が反対するように、当時のアメリカでも、ハーバード大の答申に対して、全国教育協会(National Education Association=NEA)というものが反対したらしい。

その反対理由まで池原先生は書いていた。

全国教育協会(National Education Association)の反対理由

(あ)昔の教育方針
(い)教育課程は、生徒のみのまわりからはじめるべきだ。
(う)NEAの方針の骨子=共通学科=経済、家庭、生活、市民権、文学
これらのコースは、「この場所で現在では」ではじまり、「あの場所で過去では」と、広がる方法で教えられる。

例)経済のコース

家庭の収入と支出から、話をはじめ、基礎的な経済原則を樹立して、それが、いかに生徒の生活に関連しているかを知らしめる。

社会学および歴史学のコース

現在に始まって、過去へとさかのぼっていく。
米国史なら、現在のアメリカの正解における役目をまず教え、今日の英米関係を頭に入れて社会問題を一番最初に取り上げる。


とまあ、こんな先生たちの方針だったという。

つまり、どうしてアメリカの高校では、過去から現在に教えるのではなく、現在から過去を教えるのか?

そのこころは?

というと、大半が卒業しないからだってヨ。

途中下車してしまうから、乗った最初に今の話をしておこうっていう魂胆だった。

英米語というか、欧米の言語は、動詞が先に来る。また、結論から先に話す。

なぜなら、大半が人の話を最後まで聞かないからだ。

とまあ、そんな言語の性質がのきなみ学校にも現れたかのようなお話である。


まあ、一長一短はあるが、我が国では、学校は入学者全員なんとか卒業までたどり着くという精神で運営されて来た。

実はこれがすべての前提の基本になっているということである。

入学したもの全員が全部同じような教育を受ける。そして入学時の同級生はみないっしょに卒業する。

だから、入学式があり、学園祭があり、体育祭があり、修学旅行があり、卒業式がある。

つまり、我が国の高校生活の文化伝統を育む。


しかし、アメリカの場合は、初期の富裕層だけが高校に入り、みな大学へ進学するという時代はともかく、高校が大衆化されるにつれて、さまざまの生徒が入って来て、その大半が途中下車してしまう。

こうなると、学校行事、学校の催しというものは意味をなさない。ましてや過去から順番に現代に至るまでじっくり教えるということができなくなる。

だから、とにかく最初に身の回りのことを教え、実利をとれという精神になった。

そして、それを教える方の高校の先生たちが支持したというのである。

面白いことは、池原先生の時代では、つまり大正13年頃では、この2つの方針の違いによる結果がまだそれほど差が出るほどには現れていなかった。

まだ、どっちもどっち。我が道を行け。

そういう段階だったようだ。

この豊かなアメリカの高校生活やそのシステムを見た池原止戈夫先生は、当時の日本、すなわち、大正デモクラシーの時代ではあったが、軍拡で貧しく、社会の若者に等しく学校教育がほどこされていなかった我が国に対しては、かなり手厳しいことを言っている。

日本の現状に目を向けるならば、学校は社会の人が自分の税金によって建てたものであることに気がついていないのである。

概して、入学が容易なのは、日本は私立の学校であって、当事者の教育理想の低級さと、世間の,無関心さは、私立学校の自由な教育可能性を抹殺している。

教育機関は、大学に至るまで、私立が自由な立場で、独自の目標をかかげて進む英才の集まる社会機構になることが望ましいのである。

税金による官公立はだれしも教育する義務があることを頭に入れて、発展策を考えるのが、太平洋の片隅にある「四島国」の向上の第一歩であると考える。

しかし、希望者をことごとく官公立に収容することは不可能であり、無理に行えばこの結果、ますます私学を弱小化する恐れがあるから、戦後の国民運動として、私学振興のため、基金を募集することを提唱したい。

すべて世の中のことは、例外を認める寛大さが必要であるから、アメリカにおいても、男女別々の公立ハイスクールや、私立中学校があって、中には「貴族的」な感じを受けるものもあるけれども、それぞれ確信をもって進んでいる。

最後に、日本と大差のある点は、各人の能力にしたがって、自由に進級できることで、4年の課程を3年で終えるものもいる。


という感じの回想である。


そして、この回想=随想の後、池原止戈夫先生は、シカゴからボストンへ行って、念願のMITに入学していくというわけである。


それにしても、当時のアメリカの中等教育、すなわち、高校教育は非常にすばらしかったようである。この伝統はきっと今も残っているはずだから、そのまま進めば良いわけだ。

どうしてわざわざ我が国に来たがるのだろうか?

ある意味迷惑千万な話である。


やはり大量の移民で成り立ったアメリカの場合は、入学する学生もさまざまな背景を持っている。すでに年取っている場合もあれば、すでに自国の大学を卒業している場合もある。だから、すでにある程度以上の教育を身につけているものもある。

だから、年で計れないし、学年で計れないし、その個人個人を見る他はない。

だから、4年を3年ですますものもあれば、池原先生のように、4ヶ月で高卒になるものもいる。

こういう自由がアメリカの特徴と言えば、特徴だが、そうならざるを得ない面もあるわけだ。


その点我が国のやり方は、昔からの文化伝統、学業、学童方式。

いっしょに桜の花を見て入学し、いっしょに桜の花を見て卒業する。


ドライなアメリカのやり方とウェットな日本のやり方と2つあり、見比べてどっちがいいと言えるようなものではない。


が、昨今の諸外国の高校生たちは、日本のアニメマンガなどの影響からか、ウェットな日本式を好むようになったということだろうか?

謎である。


それにしても、我が国の日教組はアメリカのNEAを真似していたのだろうか?

もしそうなら、

いやはや、世も末ですナ。






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by kikidoblog2 | 2017-08-10 10:03 | 真実の歴史

池原止戈夫の「アメリカ学生生活」:今の我が国の公立高校は昔のアメリカの公立高校の真似だった!?   

海外の反応 外国人留学生が紹介する高校生活に世界から感動の声!「日本の学校へ行きたい」

(日本の高校は昔のアメリカの高校のコピーなんだけどナ。
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みなさん、こんにちは。

さて、ちょっと間が空いてしまったが、例の池原止戈夫博士の「アメリカ学生生活」の話の続きをメモしておこう。

ラットガースの大学準備のための高校を卒業し、英語にもアメリカ生活にも大分慣れて来た頃、シカゴに行って、MIT入学に必要な単位で、ラットガースでは不合格になってしまったものを独学でパスしようと頑張っていたという話をメモしておいた。

最初にシカゴで借りた下宿は、シカゴ名物のナンキン虫にやられ、すぐに別の場所を探す。静かで勉強に適した場所はないかとシカゴの新聞に「静かな下宿求む」の個人広告を出したところ、1通の手紙が来て、それがメイウッド市からのものだった。

そこでメイウッドに行って、その下宿を探すと、そこは鉄道のすぐ横でうるさく、勉強には適さない。そこで、市内を歩き回り自分で下宿を探したところ、ちょっと良い場所があった。それで、そこを新しい勉強の拠点にしたのである。

ところが、後で気付くと、目と鼻の先に地元の高校があった。

そこは金髪碧眼の若人のエネルギーの降り注ぐ市立の公立高校で、日本から来た池原止戈夫にはあまりのまぶしさに近寄り難かった。

自分で独学して準備するより、いっそのことその高校に入学し、そのカリキュラムを通じてMITのための関門科目を取得した方がやりやすい。

だが、日本から来た池原には敷居が高かった。

楽しそうで、ぜひ入ってみたい。

しかし、あまりにアメリカ的快活な楽園の高校であり、自分には不向きかも。

こうして、行くべきか、行かざるべきかで悩む。しかし、一向に独学が進まず、映画やコンサートばかりに行ってしまった。

そうこうしているうちに月日はあっという間に1ヶ月、2ヶ月と経つ。


そこで、思い切ってその高校に出向いて行って事情を話すと、校長が仮装舞踏会の談義から戻り、会うなり、

君何歳?どこに住んでいるの?

の2つの質問だけで、OK。明日にも来なさいといわれて、翌日から高校生になった。


とまあ、そこまでメモしたんだが、今回はそのメイウッドの高校の当時のアメリカの公立高校の学生生活の様子をメモしておこう。

結論からいうと、驚くべきことに、最近我が国に海外から高校生として交換留学しにきた外国人の高校生が、我が国の高校に対して持つ印象と実に似ている、ということである。

言い換えれば、
100年前のアメリカの公立高校は、21世紀の今の日本の公立高校と同じようなものだった

ということなのである。

100年前〜90年前の1920年代のアメリカの高校は、公立高校の方が私立の有名高校よりレベルが高かった
のである。

ラットガース高校では、学生数がたったの90人程度。

それに対して、メイウッドの市立高校は、学生数が1300人。我が国のマンモス校とほぼ同じである。

この高校こそ、Proviso Township High Schoolだった。

これまた結果からメモすると、池原止戈夫さんが、こうして入学したのが、途中入学の1924年2月。そして6月にあっという間に卒業したというから、正味たったの4ヶ月の高校生生活だった。


ラットガースでは英語の先生がたったの1人だったが、大人数のメイウッドの高校にはたくさんの英語の先生がいた。だから、英語の授業で出される課題もいろいろだったという。

英語Iは、英語の授業はほとんど作文。テーマについて書いてこいという感じでエッセイが義務づけられる。

そして、本=名作を読まされて、それについて書け、というスタイルらしい。


エドガー・アラン・ポー
ホーソーン
ブレット・ハート・オ・ヘンリー
エンリー・ジェームズ
モーパッサン
コッペイ
バルザック
ドウデー
アナトール・フランス
トルストイ
ツルゲーネフ
ビヨルンセン

さらには、3000字の短編を書け、というものまであったとか。


英語IIは、ほとんどディスカッション。討論である。

本を読まされてそれについてみなで討論する形式だったという。まだろくにヒアリングのできない池原止戈夫さんは冷や汗ものだったとか。

シェークスピアのハムレット
サッカアリーのヘンリー・エズモンド
ディッケンズのDavid Copperfield
Pickmik
Oliver Twist
NIcholas Nickleby
Jane Eyre
テニッソン
ロバート・ブラウニング
マコーリーの「ジョンソン博士伝」
カーライル
ラスキン
Edmund Burkeの議会演説「アメリカとの和解」
ダーウィンの進化論
ミルトンの詩
サックソンヌの詩
チョウサーの詩

などなど。がんがん読まされては討論させられたというのである。

というわけで、当時のアメリカの母国語教育の洗礼を受けた池原止戈夫さんは、我が国の国語教育もこういうふうにやるべきだと考えた。

当時のアメリカは破竹の勢いであった。

理想主義に基づき、次世代建設のためにより一層の高いレベルに国民を引き上げようとしている最中だったというのである。

池原止戈夫さんは、そういうアメリカの時代=古き良きアメリカ時代の生き証人となったのだった。

我が国(1947年当時の)のインテリに対して、池原止戈夫博士はこう書いた。

使い古しの言葉ではあるが、文化的素養がそなわっていてこそ、社会人の一人として、学問が生きるので、日本が本質的に進化しない原因はこの点を見逃していることにあると、信じている。


21世紀になったいまでも我が国にはこのことを理解しない人がいるから面白い。最近でも、池田信夫だったかな、大学の教養課程がいらないとか、文系はいらないから廃止しろ、なんて言っている始末である。

我々人たるものは文系の一般的素養があってはじめて人生をエンジョイできるのであって、科学技術はそれができて後のことなのだヨ。

哲学とは人生の道しるべ。

哲学のない韓国では、人になれずいまだにヒトモドキから脱することができずにいる。池田信夫っていうやつも朝鮮系かもナ。


20世紀の革命児のノーバート・ウィーナーは、もともと哲学で博士になった。そこから論理学を学ぶうちに、数理論理学へと進み、そこから微積分を学び、微分方程式論と進み、自分の哲学「この世のすべては不確かだ」というものを実現する数学を探すうちに「ウィーナー過程」というランダム現象を扱う数学的古典を生み出したのである。

つまり、何事も哲学が先なのだ。

最近では、理系の人よりも、文系の人の方が、プログラミングでも面白い発想を生み出すことが知られている。理系の堅物になると、使い物にならなくなるわけだ。


さて、池原止戈夫先生の高校生活の続き。

上にも書いたように、当時のアメリカの公立高校の生活は大変素晴らしく、楽しいものだったという。

いまの我が国の高校のように、学校行事がたくさんあり、次から次へと面白い行事てんこもりだったらしい。

ちょっとどんなことがあるかを池原先生が紹介していたので、ここにメモしておこう。池原止戈夫さんは、本来なら9月か10月に始まる学年を数ヶ月遅れて、2月に入学した。

2月末  
身体検査

これがまた面白い。当時のアメリカの高校生の身体検査は

全裸

でやるという。下着姿はNG。

なぜか?

要するに、

性病検査=おちんちんの検査

を兼ねているからだと。しかし、思春期の高校生が相手だ。

おい、お前のちんこみせろ

といって、高校生の性器を触って調べるのはさすがに高校生も嫌がる。

そこで、苦肉の策で誰かが考えた。生徒全員を全裸で身長体重検査、目の検査をさせ、しかるべき医者がその隙にチンコを観察し、それを記録する。

これが当時のアメリカの身体検査だったという話である。実に面白い。

我が国でもいまは若者の性病が蔓延中。

全裸の身体検査をして、その隙に性器Checkする、なんてどうでしょうか?


無事性病にかかっていなかった生徒には次の行事が待っていた。

3月  
英国の劇作家シェリダンのThe Rivalsの演劇がある。
運動では、バスケットボール大会
月末 ダンスパーティー

このダンスパーティーは、上級生は下級生を誘い、相手が見つからない場合は、学校の先生が他校の女生徒を探してくれるんだと。

まあ、ダンスのパートナーを探すだけで、それ以上の意味は無いのだが、実に親切。


21世紀になって、オタクっぽい若者ばかりになった我が国でも、月末はダンスパーティーで異性と語り合うという機会を作るというのも、そろそろ文科省も考えるべきかもナ。少子化対策のためにもネ。


4月
バスケットボール
卒業生は、卒業式の準備に入る。

ここで、アメリカ独特の伝統のことを述べる。

要するに、アメリカでは卒業(Graduation)の式典のことを、commencement(始業式)と呼ぶ習わしがあるのである。

今の学校の卒業式は、次の学校への始業式だ、という考え方である。

これは、どことなく、サッカーのデッドマール・クラマーコーチの有名な言葉:
試合終了のホイッスルは、次の試合の始まりのホイッスルである
に似ている。


この準備で、日本でいう総代となったものは、卒業式告別演説(Valedictory)を書かなければならない。

次点者は、開会挨拶演説を行う。

クラスの歴史を記録するもの。
滑稽な遺言状を作るもの。
各生徒の未来について預言を試みるもの。

こういう者が推薦されるというのだ。

このあたりをこう書いている。

1年生(フレッシュマン)の中でも、良くできる者は、特別に取り扱われ、2年、すなわち、ソフォモア(Sophomore)に学力が近いから、両者の名称をとって、Fushmoreと名付けて、2年生が歓待され、ダンスで終わる。


4月末には、日本でいう父兄参観のような「父子会」の宴会がある。


5月

5月1日 父兄会。

卒業生の女子は、シカゴ大学のお茶会に招かれる。

5月8日 最大のダンスパーティー開催。

5月16日 「5月の女王」選び。
これは我が国のキャンパスクウィーンのようなもので、この女王を中心に野外劇をする。

陸上競技会。我が国の体育祭のようなもの。

学校のパイプオルガンの修理費稼ぎに、男子音楽祭開催。オペラクラブは小歌劇を開催。

6月

4月のハイスクールで若いながらも社会の一員としての素養を得て、人生の道を行く「始業の週」(commencement week)が、日曜は礼拝、月曜は「クラスの行事」として、音楽会、なか一日二日で、「卒業式」。

その間にダンス会、先生との送別会。

日本のような、祝辞の代読というようなものはなく、名士を招いての興味ある話(Class Adress)が開催。


とまあ、当時のアメリカの公立高校の生活とはこんな感じだったんだと。


ところで、当時のアメリカの公立高校は、戦後の日本のクラブ活動のように、課外活動が盛んだった。

そんなクラブにはこんなものがあったらしい。今は知らないが。

音楽→オーケストラ、バンド、合唱隊

科学→カメラクラブ、科学クラブ、自然科学者クラブ、数学クラブ、ラジオクラブ

「公論と討論」部→いまでいうディベートクラブのようなもの。優勝すると全国大会まであった。

外国人向けクラブ→ドイツクラブ、イタリアクラブ、スペインクラブ、フランスクラブ、万国クラブなど。

もちろんこれら以外にバスケットボールとかアメリカンフットボールとかのスポーツクラブもあった。


1937年当時で、このメイウッドの高校には、40数カ国の外国人がいたという。


最後に、この当時、つまり1922年〜1924年当時のアメリカで流行っていたらしいものとは、Coueの自己暗示法というものであった。

「自分は毎日毎日、あらゆる点でよくなりつつある」
"Day by day in very way I am getting better and better"

という文句を20回静かに口ずさむことだという。


池原止戈夫さんはなんとか無事メイウッドの高校を約半年で卒業し、MITへの関門科目も全部パスした後、一人近くの森を感傷に浸りながら歩いていると、友人のカップルに出会った。

すると、彼らは驚いてこう言った。

「まあ、よく独りで歩けますね」



いやはや、アメリカ人は100年前もアメリカ人だった。まったく変わっていなかった。


いずれにせよ、最近のYouTubeの時代になり、我が国の高校生の生活を見て、自分の国の高校は?とため息つく他国の高校生、中には欧米の高校生もいるのだが、どうみても我が国の高校はこの時代のアメリカの高校を真似しただけにしか見えないんだが。

自国の歴史をもうちょっと調べてみたらどうでしょうナア。


いやはや、世も末ですナ。




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by kikidoblog2 | 2017-08-03 18:33 | 真実の歴史

池原止戈夫の「アメリカ学生生活」:池原先生メイウッドの高校生活へ移る!   

みなさん、こんにちは。

さて若き池原止戈夫先生、ついに2年の生活を終えて、ラットガース大学を卒業し、1924年にシカゴに移動することになった。


(あ)アメリカの大学のフラターニティ
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その池原先生がアメリカのフラターニティのことをやはり述べていた。拙著「三セクター分立の概念」にももちろん私も書いたことがある。

アメリカの大学というと、フラターニティ(Fraternity)を無視できない。というほど、アメリカの大学特有のシステムである。

ちょうど我国で言えば、大学のサークルの運営に近いが、それを寮生活に変えた物だと思って欲しい。

我国では、大学にはさまざまな部活(体育会系)やサークル(文化系)があり、その運営は学生自治会に任される。

これと同じように、アメリカの大学の場合は、大学の近郊に学生が自治するサークルのような寝食をともにする寮が存在するのである。それぞれの寮には掟があり、独自の宗教思想目的がある。入寮の儀式(イニシエーション)もあれば、入会金のような高額のお金もかかるものもある。

それ以外に、大学が経営する大学寮(Dormitry)がある。が、こっちは私のような留学生や一般の学生が入寮する。だいたい2人部屋である。

一方のフラターニティは大学創立の時代からある伝統のある古いものがあり、そういうものには、たいていギリシャ文字の3語の名前がつく。

ΑΒΓ(アルファ、ベータ、ガンマ)とかそんなふうな名前がついているわけだ。

各大学には伝統のフラターニティがあり、歴代の大統領が入ったというものまであり、政界とのつながりやら、財界とのつながりのある、有名なフラターニティがある。

ちょうど我国で言えば、筑波大サッカー部に入れば、先輩には日本サッカー協会会長がいるというような感じであろう。

またわが国のサークルにかつてオウム真理教の麻原彰晃が教祖となったヨガサークルがあったが、いまもさまざまの新興宗教の隠れサークルのような物が存在して、そこに迷い込んだ子羊をアムウェイとか、オウム真理教とか、カルト宗教とか、そういう世界へのフロントの役割を果たすものがあるように、フラターニティにもそういう闇の世界のフロントとしての面もある。

これで一番有名なのは、イェール大学のスカル&ボーンズである。これもまたフラターニティの一種である。

だから、日本ではサークル、アメリカではフラターニティをちゃんと選ばないと、変なサークルや変なフラターニティにはいるとトンデモナイことになるというのは共通事項である。

そうは言っても大半は普通に素晴らしいもので、日本のサークル活動やアメリカのフラターニティ活動で青春を謳歌し、叱咤激励しながら、友情を深め、大人に成長して行くのである。

ところで、ノーバート・ウィーナーのようなProdidyの場合は、早熟の天才すぎて、頭は大学生でも身体も精神も子供だったから、こういう組織に入れなかった。そういうつらさがあったと自伝に書いている。こういう意味では、やはり心身同等の発達が理想的といえるだろう。

ところで、我国の大学にもアメリカのフラターニティに近いものがある。

四国で有名なのは、高知大学の南溟寮である。私の長男もここに3年在籍したが、まったくの学生の自治である。入寮の儀式もあるし、さまざまの義務もある。入寮する時、即座に先輩100人の名前をたった1日で覚えてこい。さもなくば入寮を許可しないなんていうのもあった。

東大の駒場寮とか、京大の吉田寮だったかな。こうしたものも有名だよネ。

神戸大には、白鴎寮がある。我が家の次男はここに4年いた。ここにはかつての海軍学校の名残があって、結構厳しい海軍式の入寮式があったようである。

たぶん、戦前からの伝統だろうが、やはりアメリカのフラターニティの影響だったのかもしれないナア。どことなく似ているところがある。



(い)シカゴの生活

池原先生は1924年にラットガース大のプレップスクールを2年で卒業し、シカゴにあるこれまた高校に入り、MITの入学試験にパスする準備に入った。

そんな池原先生がシカゴに移動し、下宿探しのためにホテルで宿泊し、よくわからない土地で最初に入った下宿先でのこと。まず1週間分を前払いしたという。

その初日の夜。名案もないまま一つの家に入った。6月下旬のことで暑いのはどこも同じであるから、一部屋を借りることにして、一週間前払いした。
夜、床の中で、暑い暑いと、ひとりごとしながら、うつらうつらしていると、何か顔の上をはうものがある。どうも、かゆいので変だと思って、電灯をつけると、さっさと逃げる虫が1匹、2匹、3匹といる。
これが、かねてから聞いていたシカゴのナンキン虫であると思ったので、早速、家主にナンキン虫がいると、抗議を申し込もうと思ったが、英語で何と言うのか解らない。
鞄の中から、和英辞典を取り出して調べて、不平を言うと
「君が持って来たのだろう」
とすましている。
「自分等は、そんなものに悩まされたことがない」
と、付け加えた。
朝になるのを待って、下宿探しに出かけた。今度は小さな講演に面した所に、三階建てのこぎれいな家を見つけて、下宿のバアさんに、ナンキン虫のことをたずねると、いないという。確かそうな口ぶりであったので、住まいを早速うつして生活の計画を立て、暑い間、電気学校に籍を置いた。1年間の厳格な寄宿舎生活から放たれたので、朝起きてみると、授業に間に合わないことも多く、映画を見る方がたのしくなった。


たしか私がユタにいた頃、当時の日本人留学生の友人がいて、その人の話とそっくりで驚く。

その人の場合は、自分の先住の人間が中国人だったらしいが、それとは知らずにその部屋を借りた。

すると、ある晩、口の中に何かが入って来た。気付かずにいると、顔の上に別のやつがはう。

それで、うわ、なんだっこれは?と電気をつけてみると、なんとゴキブリだった。それで天井を見上げると、そこには無数のゴキブリがはいつくばっていた。

あまりの恐ろしさに、すぐにその部屋から別に移ったという話だった。そして私に教訓その1を垂れてくれた。決して中国人の後に入るなと。

新しい下宿先や部屋を見つける時には、先客が中国人ではないか、ゴキブリやナンキン虫やダニがいないかCheckする。これが世界の常識である。


(う)1923年関東大震災が起こった。

さて、池原先生、無事に良い下宿先を見つけて、シカゴ大学生活をスタートさせる。

そんな矢先の8月。まずアメリカの大統領のハーディングが突然死した。代わりにクーリッジ大統領が誕生したという。

その次の9月に東京震災、いまいうところの「関東大震災」の一報を知らされたというのである。

神戸にいた家族は無事だったというので安心し、池原先生は映画三昧。

要するに、映画を見て英語のヒアリングを強化し、アメリカ文化に接したわけである。

しかし、MITの準備をするつもりでシカゴ生活し始めたのだが、映画三昧でまったく仏語と英語と物理のまだパスしていない教科の勉強が進まない。

そこでまた下宿先をもっと田舎の閑静な場所に変えようと思い至る。そのために、池原先生当時呼んでいたシカゴデイリーニュースという新聞紙に「静かな部屋求む」という広告を出す。

すると、メイウッドから1通の連絡が来る。

そこで、メイウッドにその下宿先を見に行くが、そこは線路沿いでうるさそうだから、歩いて別の家を見回る。そして一軒の家をみつけてそこにしたというのである。


(え)メイウッドのハイスクール

閑静な土地で一人でMITに入学するための一種の浪人生活をはじめたが、相変わらず集中できないので、いっそのこと高校に入ることにしたというのである。

たまたま偶然にもメイウッド生活の下宿先の数分の場所に地元の高校があった。それでそこに入学してMITの準備をすることにしたというのである。

ところが、そのハイスクールは今でいえば、地元の白人校。

あまりの白人米人の明るさと快活さとエネルギーに圧倒され、池原先生はなんと一ヶ月もどうしたら入学できるか、行くべきか、行かざるべきかとハムレットの心境になってしまったらしい。あっと言う間に1週間、2週間と過ぎ、一ヶ月過ぎてしまった。

しかし意を決してついに校長先生に会いに行く。

すると、校長先生は最上級生の仮装舞踏会の相談に出向いていて秘書が対応してくれた。それが良かったのか、二時間ほどの間に秘書が用件を理解して、戻って来た校長先生に話してくれた。

すると、その校長先生は
「どこに住んでいるか」
「年はいくつか」
と聞いてすぐに
「よろしい」
と入学を許可してくれたんだと。何の書類もいらないし、秘書が明日から来なさいと言ってくれ、すぐに高校生活が始まった。

その高校が、市立のProviso Township High Schoolだったという。

そこで、英語を3科目、フランス語(2年次)と物理を履修することにしたというのである。

ラットガースは私立のこじんまりした高校だったが、ここはかなり大きな公立の高校だった。

しかしここから池原先生のアメリカの当時の本当の高校生活を知ることになったのである。

ここから先はまた今度。


それにしても大正時代のアメリカの公立高校ってすばらしかったんですナ。金色に輝いていたんですナ。

100年後の今は公立高校と言えば、最悪のイメージしかないのだが。

どうしてこんなことになってしまったのか?



いやはや、世も末ですナ。


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by kikidoblog2 | 2017-07-25 10:18 | 真実の歴史

池原止戈夫の「アメリカ学生生活」:池原先生がアメリカの高校生活から学んだこと!   

みなさん、こんにちは。

人は進化している様に思うがまったく進化していない。同様に社会も進化しているようでまったく進化していない。どうもそんな感じがする今日この頃である。

例のノーバート・ウィーナーのところに留学にいった池原止戈夫先生の1947年の自伝を読んで行くと、所々に現代では忘れられたが、実に重要であったり、興味深い記述があった。

今回はそうしたものをいくつかメモしておこう。

(あ)池原止戈夫先生は1922年大正11年にアメリカ留学した。

この1922年に神戸一中を卒業後、横浜港からハワイホノルル経由で米サンフランシスコに行き、そこからアメリカ大陸横断鉄道でシカゴに行き、そこから当時世界最速鉄道でニューヨークへ行った。

いまでこそ我国の新幹線が世界では一番有名だったが、まだジェット飛行機のなかった大正末期には、アメリカの横断鉄道こそ世界最速の新幹線だったのである。第二次世界大戦後、我国はそれを真似た。

池原先生はそんな時代のアメリカの鉄道旅行をしたのである。


(い)ニューヨークは退屈な街だった。

いまでこそ、ニューヨークは世界最高峰の文化芸術の街だが、大正時代はまだところどころがそうなっていっただけで、池原先生がニューヨークに到着した頃は、まだかなり田舎の雰囲気が残っていたんだとか。

それでもニューヨークには映画館やコンサートホールがあり、そういう場所では良い映画をやっていたらしい。

しかしニューヨークのマンハッタンの金融の中心ウォールズ街には大正11年の段階ですでに51階のビルが建っていた。Woolworth buildingであり、エレベーターで登ったという。


(う)日本にとってラットガースは重要な学校だった。

池原先生はニューヨークで在米の日本人の知人に案内してもらった後は、汽車でニュージャージー州のニューブラウンズウックにあるラットガース大学に行った。

池原止戈夫先生が入学したのは、そのプレップスクール、いまでいえばコミュニティーカレッジのようなもので、大学に入学するための準備校のようなものである。

ラットガース大学の創立は、アメリカ独立宣言の年、1776年のことだという。

そして1922年大正11年の池原止戈夫先生の留学の時代以前に、すでに数十人の日本人が留学していたというのである。

付近にはラットガース大学卒業生の日本人の墓地まであったというのだ。たぶん今でもあるかもしれない。

この大学はいまもあまり知られていないが、大正時代でもあまり知られておらず、池原止戈夫先生も知らなかったらしいが、日米通商条約が締結されてから、ラットガース大を卒業したアメリカ人60数人が我国に来たというのだ。

その中で有名な人はこんな人がいたという。

聖書翻訳者のブラウン博士、
東京帝大南高教授のフルベッキ博士、
東山学院の創立者スタウト博士、
福井藩校の教授となったグリフィス博士、
日本の教育制度を作ったモルレイ博士(たぶんモーレー博士)、
だという。

このフルベッキ博士こそ、例の若き維新の志士たちといっしょに写真に写った「フルベッキ写真」
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で有名なあのフルベッキである。彼はラットガース大の卒業生だった。

このラットガース大から名誉博士号を受けた日本人には、植村正久という人がいたという。日本キリスト教会の長老である。

池原先生の本には、ここで当時ラットガース大学の創立150周年記念があり、その時に東京帝大から祝辞が送られたのだが、その全文があり、それがラットガース大学の図書館に日本美術本といっしょに陳列されていたというのである。

この本にはその全文が記録されている。

つまり、我国の明治時代の大学および教育(特に義務教育や子女教育)の基本は、ラットガース大出身のキリスト教徒の学者さんたちが作ったのだった。


(え)英語教育がすばらしい。

当時は我国はドイツ語が第一外国語だった。だから、日本の教育ではドイツ語は勉強したが、英語は第二外国語だった。戦後と逆である。

というわけで、池原先生はMITに入学するには英語が必要で、まずは英語をマスターしなければならなかった。これに相当苦戦したようだ。

さて当時大正11年1922年でアメリカ人がMITに入るためには何をパスしなければならなかったか?

なんと以下の教科で全部70点/100点以上取らなければならなかったらしい。

代数、平面幾何、立体幾何、三角関数、物理、英語、ドイツ語あるいはフランス語、
化学、歴史

それでも、池原止戈夫先生は英語だけに苦労したようで、他のは我国の中学の方がレベルが高いから、楽勝だったという。

全部受けて理数は楽勝、問題は英語だったと。フランス語は2年分を1年で記憶したというのだ。

そこで何より池原先生が感心したのは、母国語教育の充実だという。英語は米人にとって母国語である。その教育がすばらしい。しかし我国の母国語教育のダメさはなんとかならんのか?これが池原先生の印象だった。

これは戦後の日本も、私が留学した1980年代も、21世紀の今もまったく同じというわけだ。

つまり、日本はこの100年間まったく変わっていなかった、のである。アメリカもそうである。


(お)アメリカの高校教育は何を教えるか?→人生は楽しいと教える。

高校を卒業してみて池原先生がアメリカの高校の特徴、特に私立高校の特徴は何かというと、それは、「詰め込まれない」が、人生を楽しむことを教えられるということだという。

その一つが、高校生も「筆記をしない」。つまり、我国で言う、いわゆる「板書」=「黒板写し」をしないということだという。

なぜか?

というと、教科書が素晴らしいからだという。

実はこれは基本的にこの100年アメリカの学校教育の伝統であり、いまもまったく同じである。アメリカの中高生の教科書は分厚く、懇切丁寧で、板書を必要としない。

大学も同じようなスタイルである。

高校では予習が基本であり、次回の授業までにここまで読んでこいといって、授業ではその内容のディスカッションになる。

だから、英語がわからないとついて行けないのである。

どうやら当時はそれをレッシテイション(recitation)と呼んでいたらしい。復習という意味だという。

アメリカでは、授業が復習であって、宿題が予習なのである。

その復習の場である授業で、分からなかったことを先生から教えてもらうという方式だった。


ここで池原先生は面白いことを書いているのでそこをメモしておこう。

アメリカ人は「頭が悪いそうですね」という人が、よくあるので、その理由を聞くと、日本人の方が学校の成績が良いと聞いていると答える。もしもそれほどまでに、日本人が「頭が良い」のならば、日本は今日までに、もう楽しい、住み良い国になっているはずである。その上、成績の良かった「優等生」は、アメリカ人よりも、文化的に貢献していなければならない。成績のよい日本人が、社会人として、世の中で役だっていないのは日本人の勉強法や学校の成績が、社会人としての良さの尺度とならない証拠である。
もう一つの大きな問題は、アメリカの「良き教育」を受けても、それを社会的に活用したり発展させる能力に欠けているのではないかという疑いをいだかしめることである。日本人が学校で学ぶのは、「受験技術」であって、教育の目的をないがしろにしている。このような状態になったのは日本の学校教育において第一に教える教師の教養の低いことである。第二に良い教科書がないことである。第三には生徒の努力が足らぬことである。かくして考えてみると、先生の再教育をして、日本人の文化程度をあげることは、実は大事業であり、そのためには長い年月がかかることを認めなければならない。
アメリカの教育の特徴は、教える立場の先生が、真に教え得る能力をもっていることである。生徒の質問に答えるには、生徒のもっているよき教科書以上の理解が必要である。先生も努力している以上、生徒も努力することを求められるから、怠け者は、私立学校でも、どしどし退学させる。私がラットガースに入学したときに、シニアの生徒は24人もいたが、卒業したのは、わずかに14人であった。日本人は入学した学校は、卒業さしてもらうのが、当たり前に考えているが、私立学校においても、不適格な者は退学さすだけの権威を保っている。

とまあ、こんなふうに卓見を書いておられたのである。

いやはや、1922年の留学体験から、1947年にはこんなことを書いていたわけだ。

かつて私が留学を終えた1990年に「三セクター分立の概念」という本を書いたが、その中のアメリカの大学教育の説明もほぼ同じ観点論点で書いているから正直驚く。それより半世紀近く前に池原先生が同じことを書いていたのである。

おそらく21世紀の今現在もほとんど同じ情況が日米の間には存在するわけである。

かたやアメリカには文部省がなく、かたや我国には明治時代から文部省があり、1995年に文科省となっていまにいたるが、その構造は日米それぞれの文化伝統を作って来た。

高校までは日本の方が勉強できるが、大学大学院社会人となるにつれて、逆転現象が起き、アメリカは相変わらず世界のリーダーを育てるが、我国からは一向にリーダーが育たない。こうした傾向は100年前からまったく変わっていないのである。

さて、この後には当時のラットガース大学の4年間のカリキュラムのプログラムが記録されているが、それははしょり、池原先生のアメリカの高校生活の話はここで終わりにしておこう。

別の高校、さらにMITの話はまた今度にしておこう。


この100年間は一体なんだったのか?

結局、この池原先生の見いだした情況が、大東亜戦争を生んで行った。そして、当時すでにたくさんの日本人がアメリカに移り住んで頑張っていたが、戦争時に強制収容所に入れられて、全財産を失い、大変な情況になったのである。

もし我国のバカ政府が、韓国の従軍慰安婦に謝罪するなら、その前に、まずはアメリカに行った日本人に謝罪すべきでしょうナア。大半がキリスト教徒の日本人だったようである。

ところで、後先になったが、1922年に池原先生が渡米した年の1年前、大正末期の当時の世界最高のテニスの大会は何だったと思うか?

実はそれが今言うデ杯こと、デヴィスカップだった。当時イギリスのウィンブルドンはまだなかった。国際大会ではなかったらしい。

そして1921年のデ杯の決勝戦は、なんとアメリカ対日本だった。その時の日本代表が、熊谷選手と清水選手であった。
国際化への道、熊谷、清水が拓く
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この清水選手があの
柔らかなボール
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のテニス選手である。(1980年代のビヨルン・ボルグより60年以上前にトップスピンを使っていたのである。

この1921年にはじめて我国で硬式テニスが普及し始めたのであるという。それまでは我国には軟式テニスしかなかったのである。

いまの錦織圭選手の活躍がテニスブームをもたらしたように、1921年の熊谷、清水の大活躍で、日本に硬式テニスブームが起こったのである。

それを大東亜戦争がぶちこわし、世界最高レベルから一気に最低レベルに落ちてしまったのである。

おもしろいのは、池原止戈夫先生がラットガース時代に最初に住んだ時は、私人の井上玄一さんの家の下宿を借りたそうだが、そこに熊谷選手が前年の1921年に宿泊していたのだとか。

あれから96年。

今や誰もそんなことは知らないで、テニスをしておられる。


いやはや、世も末ですナ。








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by kikidoblog2 | 2017-07-24 18:12 | 真実の歴史

池原止戈夫の「アメリカ学生生活」:ウィナーの弟子池原止戈夫はブッシュの弟子でもあった!   

みなさん、こんにちは。

さて、話は変わり、例の20世紀最大のユダヤ人数学者ノーバート・ウィーナーの話で登場する日本人の池原止戈夫(しかお)博士。

このあまり知られていなかった数学者の本があったが、その多くはウィーナーの英語本を日本語訳したものである。だから、池原博士はそうした本の翻訳者としてしか名が知られていない。

ところが、たった一冊だけ池原博士の自伝が存在したのである。それが、

アメリカ学生生活(小峰書店、1947年、昭和22年刊)
という本だった。

タイトルは今現在からすればいたって平凡でありふれたものだから、目立たない。

が、なにせ池原さんがアメリカへ留学したのは大正時代末期のことだから、しかもあのウィーナーのいたMITへの留学だから、これは一応は目を通しておこうかと読んでみることにしたわけだ。

ところが、本があまりに古く、Amazonでは8000円もの値がつき、たった一冊しかない。

そこで、検索して調べるとなんと西日本でここ徳島に一番近い図書館では、岡山県立図書館で所蔵の一冊があった。

それで、阿南図書館経由で岡山から取り寄せたものが、昨日やっと届いたのである。

それですぐにマルナカの5円コピーでコピーして本を返却したわけだ。昨日やっと梅雨開けでいい天気になったから、本を借りに行けたのである。


さて、そんな池原止戈夫さんのアメリカ留学の本をひも解くと、実に興味深いものであることがわかった。

私はこの池原先生は、ウィーナーのいたMITにウィーナーに師事して留学したのかと思っていたのだが、実際はまったく違っていたのである。

また、ウィーナーの自伝2「サイバネティックスはいかにして生まれたか?」では、なんとなくアメリカで職がない悲劇の日本人のような書き方だったから、気の毒な人かと思っていたのだが、そんなこともまったくなかった。

なんとこの池原先生、

神戸一中

を卒業後、そのままアメリカに船で渡り、ホノルル経由でサンフランシスコに行き、最初は

ラトガース・カレッジ(いまのラトガース大学)

に入り、それから、東海岸のハーバード大のの対岸にあるMITに入るべく、

メイウッドの高校

に入り直して、英語会話の語学を履修し、それからハーバードの対岸にあるMITの入学のための条件となる、

物理、フランス語、英語、ドイツ語、

を履修し、それらに見事合格し、

MIT

に入学したのだった。

最近の我国で言えば、今京都大学にいる、望月新一博士に似ていると言えるかもしれない。望月博士は、名門エクスター高校からプリンストン大学に入学されたようである。

まだ池原先生の自伝は読み始めで、始めの方しか読んでいないが、アメリカの2つの中高を出たから、もっともその時代の我国の中学とは今の高校に対応し、その時代の高校がいまの大学教養課程に対応するわけだが、アメリカの高校、短大と出て、MITの学部に入り、それからMITの大学院に入ったというわけだ。

だから、結局池原先生は、大正末期の

大正11年(1922年)

にアメリカに渡り、昭和初期の大東亜戦争前夜の

昭和9年(1934年)

に帰国し、大阪帝国大学に職を得たのだった。


つまり、日米開戦前のアメリカで都合12年もの長きにわたる青春時代を過ごされた博士だった。また、その学位論文が、「リーマンの素数定理の証明」だったのだ。


いや〜〜、面白い。


さらに面白いのは、ウィーナーの自伝2によれば、池原先生は単なる素数定理の証明を行った純粋数学者だというイメージの記述しかなかったのだが、実際の池原先生は、最初に物理を履修したように、理論物理や工学に非常に関心が高い若者だった。

だから、博士号Ph. D.を取得後、物理や化学の学部で今でいえば,ポスドクとして生活していたらしい。

ちなみに,池原先生はなんとMITの大学院でたったの2年で博士になった。また学部と合わせてもMITの大学大学院をたったの4年で卒業したというのである。

いかにすぐれた知能の持ち主だったか明白だろう。しかもたったの2年で高校でドイツ語、フランス語、英語をパスしたのである。

そして、ハイスクール時代にアメリカの高校生活を満喫したようだ。ダンパ=ダンスパーティー、スポーツクラブ、などなど、エンジョイしたようだ。

このあたりの記述にはたくさんのエピソードか書かれていて実に興味深い話がある。

中でも、いまやアメリカのスポーツの定番というと、アメリカンフットボールだが、まだ池原先生が留学した時代のアメリカではアイビーリーグの大学のほんのわずかの場所しかなかった。

アメリカで一番最初のアメリカンフットボールの試合のことが書かれていた。

アメリカで最初のアメリカンフットボールの試合は、明治2年1868年、ラトガース大の広場で、ラトガース対プリンストン大の試合だったという。相手を殺す以外のことは何でもやったという恐怖のスポーツだったらしい。

1877年にルールが改正されて、ラトガースはニューヨークシティーカレッジ(今のCUNY)と対戦、120−0の大敗を喫したという。

当時スタンフォード大にはアメリカンフットボールのチームがなく、アメリカンフットボールをしたくて入った若者が隣のカリフォルニア大のフットボール選手からバカにされた。畜生とばかり、この若者は自分でチームを作り、練習を始め、自分がマネージャー兼コーチになり、ついにそのバカにしたカリフォルニア大のチームと対戦するところまで行った。そしてなんとスタンフォード大のはじめての試合で、勝利したのだとか。その若者が、後の第31代アメリカ大統領のハーバート・フーヴァーだったというのである。
第31代アメリカ大統領
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こういう感じで、高校生活、大学生生活、大学院生活などが記録やカリキュラムなどを合わせて良く調べて書かれているのである。

いずれにせよ、当時のアメリカ人が理想に燃え、実にすばらしい若人の国家だったことはまずまちがいない。


さてここら辺で、その本の目次をメモしておこう。

目次
第一篇 渡米
横浜出航
ホノルル
サンフランシスコ
横断旅行


第二篇 アメリカ生活第一年
ニューヨーク
ラットガース
シカゴの生活


第三篇 メイウッドの生活
ハイスクール
生徒の活動
中学校教育随想
シカゴよりボストンへ


第四篇 M. I. T.
まえがき
組織と運営
 評議員
 運営の役員
 教職員
学生生活(一)
暑中休暇
学生生活(二)
大学院
物理教室
化学教室


第五篇 ボストンの思い出
コウナント総長
ブッシュ博士
クーゼヴィッキイ

とまあ、こんな目次である。


面白いのは、ノーバート・ウィーナーの学生だったはずなのだが、ウィーナーのことがほとんど書かれていないということである。

むしろ、池原止戈夫先生にとっての一番の恩師は、なんとあのバネヴァー・ブッシュ博士だった。
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微分計算機の発明者。のちに電子計算機、コンピュータ文明の創始者のブッシュである。

だから、池原先生は物理も好きで、しばしば物理学部の物理講演会には出向いて聞いていたらしい。

また、池原先生、博士取得の後、日本に戻っても職がないから、化学学部で職を得て仕事をしていたのである。

ある時、MITの新総長に物理学者のコンプトン博士が選ばれ、新総長の就任式が行われたという。コンプトン散乱のコンプトンである。

その時の写真があるが、今でいえば、大統領就任式のように盛大なものだった。イギリスから、ウィリアム・ブラック卿が来賓、ハーヴァードの総長、各大学の総長が全部やってきて行進したという盛大なものだったようだ。

昨今の我国の国立大学の、君が代も国旗掲揚もない式典や入学式や卒業式とはえらい違いですナ。

大東亜戦争開戦の前年1934年、MITで10年、アメリカに渡って都合12年のアメリカ生活の後、池原止戈夫はブッシュ教授のもとへ最後のお別れに行った。
1934年の6月に、十年間お世話になったM.I.T.に別れを告げることになったので、まず第一に尊敬して居るブッシュ先生にお別れにいった。副総長室へ入ると、
「何しに来た」
というので、
「今度、大阪帝国大学に行きますので」
と、お別れに来たことを伝えると、
「そんなところは聞いたことがない」
「いずれ、お耳にお入れします」
と、約束して帰ったのである。帰朝後も、ブッシュのことはいつも心にあったが、先生の偉大な指導力はアメリカを世界一の文化圏にするために深い影響を及ぼしているが、詳しいことは時が経つにつれて明らかになることであろう。

こうして池原止戈夫博士は日本に帰国した。

その後、1935年に支那事変から大東亜戦争になり、真珠湾攻撃から太平洋戦争が始まり、アメリカと日本が敵国になる。

こうして、池原の尊敬するブッシュはアメリカの軍産複合体の科学部門の長となり、アメリカ軍の科学化、近代化を押し進め、ついには電子計算機を開発し、原爆を設計して完成させる。

まさに歴史は池原止戈夫の予想通りに展開し、ヴァネヴァー・ブッシュはアメリカの世紀、パックスアメリカーナの駆動力となったのである。

というわけで、なぜこの池原止戈夫先生を日本軍人はもっと大事にしなかったのか?

これが私の個人的な疑問なのである。

相手の国のボスと師と弟子の関係にあった若者が日本にいたのである。

もし日本軍や日本政府が、池原止戈夫を軍の科学部門の長にして、相手の情報を仕入れていれば、不必要な戦争はしなかっただろうし、うまいところで戦争を切り上げ、結果的には広島長崎の原爆投下はなかったかも知れないのである。

M.I.T.はアメリカがハーヴァード大ではできない軍事研究を行う大学として誕生したのである。

そこに池原止戈夫博士は10年もいたのである。


こういうところに、我国の政府官僚の伝統的な無能無策振り、というか、変な癖があるようですナ。

孫氏曰く、「敵を知り己を知れば100戦危うからず」

自国に敵をよく知る者があれば、行って良く話を聞き、

という宮沢賢治の詩のような熱意と努力をしなければ、大きな犠牲者を出すに違いないのである。

まあ、変な癖というのは、サッカーではブラジルのドゥンガのいう「日本人特有のメンタリティー」というものだが、それは、過信、慢心、油断、すぐに良い気になる、有頂天になるというような性質のことである。

池原止戈夫さんの見たブッシュと、ノーバート・ウィーナーの見たブッシュと、これらもかなり違うからここも実に興味深い。

やはり物事はいろんな角度から見てみないといけないわけですナ。


こんな良本もまたまったく知られていないとは???


いやはや、世も末ですナ。



おまけ:
唯一池原止戈夫博士の写真を掲載するサイトがあった。以下のものである。

1981年当時の池原先生
この市野学博士は池原止戈夫教授のお弟子さんだったようだ。




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by kikidoblog2 | 2017-07-20 09:56 | 真実の歴史

真珠湾攻撃総司令官淵田美津雄、マッカーサー、アイゼンハワー、トルーマン、ニミッツと会う   

みなさん、こんにちは。

今日は久しぶりに日光が差し込んできて、早朝から鶯も鳴く。そういう清々しい気分のさなか、例の淵田美津雄さんの本のことをまたいくつかメモしておこうと思う。

「忖度」の正しい意味と使用法とは?:なんと死んだ人の気持ちを思うことだった!

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の中で、編者の中田繁一さんの「あとがきにかえて」の文章に、「忖度(そんたく)」を使った文章を見つけたが、この忖度するとは、詮索するとどことなく似ているが、
「生前の心持ちを忖度する」
というように使用するものであった。

一方の「詮索する」はまさにいま民進党が捏造情報やヤラセやありとあらゆる悪手と使って、「相手の立場を詮索する」というような場合に使う。

さて、この淵田大佐の終戦後は、軍事訓練の最中に燃料がなくなり、もはや基地に戻れず太平洋に墜落して死ぬしかないという時に、どこからともなく「高度を上げよ」という声が聞こえた。
その時であった。
突如、私の胸の中で誰かが「高度を上げよ、高度を上げよ」と囁くように思えるのであった。

高度を上げてどうなるものはないが、他にやりようがないからとにかくそれに従うことにした。

その結果、グライダーで滑空する時間がましたことにより、なんとかギリギリで基地に戻ることができたのだというのである。

琵琶湖の鳥人大会でもそうだが、水面ギリギリを飛行するより、元気なときには出来る限り高く富んだほうが最終飛距離を伸ばせるわけだ。

これと同じ原理をだれかが淵田大佐に囁いたのだった。

淵田大佐はその後真珠湾攻撃の成功、さらにはミッドウェー海戦の時に盲腸となって空爆に行けず、空母赤城の甲板で指揮している時、敵機の魚雷を受けてその爆風で吹っ飛び負傷した、にも関わらず生きていた。

後に終戦後、こうした度重なる奇跡的な運のよさを考えた時、
「これはイエス・キリスト様のご加護、お導きがあったからではないか」
と考えてキリスト教の洗礼を受ける。

そうして、戦後何年かの後に渡米して布教活動に行く。

ところが、その先々で先の大戦の真珠湾攻撃の総司令官だったという噂が広がり、アメリカの要人と会っていく。

そんな中で、ミッドウェー海戦の敵将、ニミッツ将軍と出会う。むろん、トルーマン、アイゼンハワーやマッカーサーとも面会した。

その時の彼らのことばが非常に興味深いので、それをメモしておきたいというわけである。

トルーマンの助言
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トルーマンは現れた。
なかなか元気そうであった。
先ずサックスが紹介されて、サックスが私を紹介した。
例によってサックスが長々とスカイ・パイロットを披露する。
15分間の会見の約束だから、私は気が気でない。
トルーマンはフム、フムと聞いてはいたが、トルーマンの興味は私にあるらしいのである。
宣教師さんたちによって、お茶が出される。
空気は和やかであった。

やがてトルーマンは私に話しかけた。
「ねえ、キャプテン、わたしは陸軍大佐だったんですよ。あなたは海軍大佐だったから、今日は軍人同志の話でいきましょう」
と前置きして、イエス・キリストさまの話は一時あずかりとばかり、サックスの口を封じた。
やがて真珠湾が話題に出た。
いろいろと当時の模様を話し合っていたとき、トルーマン前大統領は笑いながら、
「キャプテン、真珠湾はね、ボス・ギュルチイ(両者有罪)だよ」
と言った。私は
「そりゃ神の前にはボス・ギュルチイでしょうけど。。。」
といい及ぼうとしたら、トルーマンは遮って
「いいや、神の前ばかりでなく、人間の前にも、いまに史実としてボス・ギュルチイが明らかになるだろう」
と言った。
そんなことから、戦犯釈放問題にも触れ、嘆願署名簿を携えてきていることを話したら、
「キャプテン、心配せんでいい、もうまもなく戦犯問題は打ち切られるよ」と話してくれた。
あたたかい雰囲気であった。


アイゼンハワーとの面会
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どうやらこれは現職の大統領閣下だから、大忙しのさなかで、面会までには行かなかったようだが、キリスト教会で聖歌隊といっしょに大統領が聖歌を歌う機会に同席することができたらしい。

ところが、アイゼンハワー大統領は忙しいが、健康づくりにゴルフをやっている。

こういう場合には、もし淵田大佐がゴルフができれば、ごいっしょにどうかという誘いを受けた。しかし淵田はゴルフができないので断ったところ、教会のミサに参加するからその機会にどうぞということになったのだという。

このように、欧米人、特に英米人の場合にはゴルフは必須科目の一つである。これが一種の社交の場でもあるのだが、政治談義や商売談義の場ともなる。実に重要な機会なのである。

翻って、安倍首相がトランプ米大統領と同じゴルフの趣味があったということは、実は非常に大事なことなのである。
1ラウンド18ホール。何時間かいっしょの時間を取れるわけだ。
ラウンドしながら歩く最中にさまざまの話ができる。

これを民進党のような連中は、たんなる娯楽とか遊びとしたみない。実に無粋な人種である。

もし淵田大佐がゴルフをできたとしたら、おそらくアイゼンハワー大統領といっしょにラウンドして、もっといろいろなことが聞けたはずである。それはかなり残念だったのではないだろうか。

ニミッツ提督の体験談

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太平洋戦争が終わって、彼は日本から帰国して、太平洋艦隊司令官を退職した時、アメリカ国会は彼に元帥のパーマネント称号を贈った。
かくてニミッツ元帥は、請われるままに、全米各地に講演旅行をつづけていた。

一日、彼は東部のある大学に講演に赴いたとき、小さなチャーチ・ベルが廊下にぶら下げてあるのを見て、近づいてみると、日本字が刻んである。
問ねてみると、GIであった学生が、日本からスーベニアー(土産)として持ち帰ったものだという。
元帥は怒った。
「アメリカというキリスト教国民が、日本のキリスト教会のチャーチ・ベルをスーベニアーとして持ち帰るとは何事だ」

といったわけで、このベルを、日本のもとの教会へ返還することになり、日本占領軍司令部に当ってみると、そのベルに教会の名が刻んであったので、すぐに分かって、福岡市近郊の海岸にある小さな教会へ送り返された。

すると暫くして、その教会の子どもたちから、ニミッツ元帥にあてて感謝の手紙がとどいたという。
その手紙を元帥は大事に保存していて、私にそれを見せてくれた。
あどけない文字と文章との日本語で綴ってあった。

それによると、この教会の子供たちは、話に聞いている教会のベルというのがほしかった。
村に鍛冶屋のおじさんがいて、作ってやるから、福岡市内の空襲の焼け跡へ行って、銅やしんちゅうの屑を拾い集めてこいと言った。
そこで子供たちは、毎日毎日、みんなで出かけて行って、どっさりと屑拾いをやって集めたので、やがてベルが出来あがった。

みんなで喜んでいると、ある日、進駐軍の兵隊たちが海岸に遊びに来て、教会で一休みしていたが、一人がベルをみつけて、それが福岡市内に落ちていた爆弾や焼夷弾の屑を拾い集めて作って貰ったのだと子供たちが片言の英語と日本語交じりで自慢そうに語るのを聞いて、それならもとはアメリカのものだと強引に持ち帰ったのだという。

それをいまニミッツ元帥のおかげで、戻って来たのでとても嬉しいとある。
そして
「ニミッツのおじさま、どうもありがとう」
と結んであった。

私は笑いながら、その旨を通訳すると、彼も受け取った当時、知り合いの日本人に通訳してもらって分かっていたのだが、スーベニアーといえば、学生たちだけではない、私も持って帰っていると、愕然とした面持ちであった。

それは日本海軍司令長官兼連合艦隊司令官(終戦時は軍令部総長)であった豊田副竹海軍大将
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の軍刀を、ニミッツは贈られて持ち帰ったのであるが、これは自分の私すべきものではないから、これを豊田大将へお返ししたいと言った。
そして私が日本へ帰るとき持ち帰ってくれとの頼みであったが、私はまだ二ヶ月滞米の予定だからと、日本大使館に返還の手配を頼んだ。
そのようなことで、軍刀は豊田大将のもとへ戻ったはずである。
このようにニミッツ元帥も神をも慴れる人であった。


このニミッツ元帥が憧れ目標にした人物、それが我が国の東郷平八郎元帥であったという。
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若い頃はこれ。
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昔の帝国海軍士官はみないまでいうところのイケメンだったんですナ。

佐藤浩市さんの祖父、三國連太郎さんの父はだれだったのか?

秋山真之
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井上成美(しげよし)海軍大将
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ところで、当時の日本海軍の大佐は、メイド(家政婦)を雇うことが許された。ドイツ海軍の真似らしいが、帝国海軍の家の家政婦になることは、当時の女性にとっては花形の職業だったらしい。逆に言えば、当時の海軍大将は、つねに命がけだから、家に戻れば、「は〜〜いご主人様」といって待ち受けてくれるメイドさんもいたし、奥方もいたわけだ。そういう時代だったようである。

ここでこの本を読んで私個人の意見では、どうも山本五十六元帥は指揮官の器ではなかった。むしろ、戦艦とか空母とか潜水艦とか、兵器開発におけるアイデアに抜きん出いていた。

だから、兵器開発のトップになるべきで、実際の戦闘における作戦や実施には、淵田美津雄大佐の方がすぐれていたように思う。

一人の司令官が戦闘作戦立案し、現場監督し、兵器立案するというのはちと荷が重い。分業してれば、日本が勝ったのではないかと思う。

ところで、上の井上成美(しげよし)海軍大将は、この淵田美津雄総司令官同様に、戦時中にあって、大艦隊主義の誤りを指摘し、航空母艦主義を唱えた極めて優秀な大将だった。

戦争末期には、いかに有利に戦争を終えるかを研究し、良さそうなところでうまく敗戦する道を模索したという。

だから、もしこの井上成美大将のプランが実現しておれば、広島長崎もなかったはずなのである。

喧嘩して負けそうになったら、大怪我しないうちに頃合いを見て適当に負ける。

これもまた軍人の知恵である。

再起不能になれば、ご臨終に等しい。

この井上成美大将は戦後ひっそりと田舎で貧しく暮らしたという。それもそのはずで、海軍将校の年金がGHQおよび米進駐軍の指令で全額カット、ゼロとなったからである。

だから、この淵田司令官もそうだったように、実家の田舎に戻って、住む家から全部自分で建てなければならなかったのである。

淵田の本にはこうある。
そのころの井上は、妻に先立たれており、貧窮のなかにたったひとりの愛娘の葬式さえままならなかった。
肺結核を患った娘の亡骸を運ぶお棺さえも、近くの竹やぶから切り出した竹を工夫して自分でつくったという。

失意の日々、自宅で英語塾をひらき、近所のちいさな子供たちに英語を教え、テキストはコンニャク版で刷って自分でつくった。
ときには手作りのクッキーで子供たちををもてなした。
海軍式のテーブルマナーを教えながらさまざまな人間教育も行ったのである。
しかしわずかな謝礼も頑として断った。
見かねた親たちは、コメや野菜をもちよってひとり暮しの井上の日々のくらしを陰で支えていたのである。

海軍兵学校時代の教え子たちも見るに見かねていた。
井上の晩年、嫌がるのを説き伏せて、生活の援助をするかわりに彼らがその土地と屋敷を買い取って、家賃はただで住まわせることで井上との妥協をはかった。


米海軍が戦死者やその遺族にいわゆる退役軍人の年金を与えるのと比べて、日本海軍の場合は、マッカーサーの指令通達のせいで、ほとんど無一文で一生を過ごしたのである。

キリスト者になって教会から資金を得られた淵田はまだ幸せ者だった。

それでも、誰ひとりとして、日本の軍人さんたちは文句言わなかったのである。

ここが支那朝鮮人とはまったく人種が違うと言われる所以である。

これが、「帝国海軍、何も語らず」ということである。


パール判事の言葉

淵田は東京裁判におけるインド人のパール判事の主張も残した。

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「日本の子弟たちが、日本は犯罪を犯したのだとか、日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだとか、教えられて、ゆがめられた罪悪感を背負って、卑屈頻廃に流れていくのを、私は平然と見過ごすわけにはいかない。
あやまられた勝者の戦争宣伝の欺瞞は払拭されねばならないし、あやまられた歴史は書き換えられねばならない。
日本の子弟たちよ、満州事件から、大東亜戦争勃発に至る真実の歴史を、私の判決文を通して十分に研究して戴きたい」


これから72年。

いま、これをいわゆるその当時の子弟であった、団塊の世代、いまの中高年、この人達が疎かにしてきたツケを払わされているわけである。


マッカーサーの言葉

さて最後にマッカーサーの話。

1953年3月8日日曜日、淵田はマッカーサー元帥から夕食に招かれた。その時のマッカーサーの言葉である。

おそらく、戦後72年経ち、いままさに憲法改正が議論されているさなか、戦後憲法を1週間程度の突貫工事で作成したマッカーサー元帥はどう考えていたか。これが見事に語られていたのである。

しかし彼は依然として日本に対する関心は深かった。
以下は食事中、彼が私に語ったところを継ぎ合わせたのである。

彼は言った。

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「占領軍最高司令官としてやったことは、すべてが良かったとは思っていない。
恨まれることもあろう。が、自分は日本をよくしたい気持ちをいつも念頭において、ワシントンをふりかえりつつ占領政策の遂行に当ってきたつもりである。

昨年(1952年)のメーデー事件は、共産主義者の扇動が背景をなしていた以外に、青年たちの反米感情も働いていたとされている。
占領政策の反動として、反米的な流れが起こったとすれば、自分は非常に不本意である。
日本へ行ってなんとかしたい衝動に駆られる。

日本憲法に戦争放棄条項を付加させたことは、今にして考えれば、時期尚早であった。
当時自分は、原子爆弾の出現によって、将来の戦争は勝敗がつかないだろうと考えた。
敵も味方もともに滅亡する。
まったく人類の破滅でしかない。
そのような見地から、世界は戦争放棄の段階に近づきつつあるとの感を抱いていた。

日本を軍事的に無力化する連合国の方針もあったし、また日本をして率先、世界に戦争放棄の範を垂れさせようとの意図もあった。

ところがその後の世界の客観情勢は戦争放棄どころか、力に対するには力のバランスで、やっと平和を保っている。
かくて日本も自衛力が必要だというふうに、自分は再考を余儀なくせしめられたのであった

以上が、日本占領の最高司令官を会食せしめられて、丸腰となった往年のマッカーサーの元帥の述懐であった。


まあ、ここが、私が「バッカーサー元帥」と揶揄する所以ですナ。

まったく世界情勢どころか、まったくアジア人の何たるかを知らなかった。
特に支那朝鮮人の悪質な部分に無知だった。

そのせいで、いまアメリカが支那、朝鮮の企業の横暴ぶりでアメリカ人が疲弊しているのである。

欧米人はユダヤ人についてはよく知っていたかもしれないが、アジアのニダヤ人についてはまったく無知だったのである。

この無知のせいで、結局戦後の世界はまったく世界平和を望んでいなかったことがいまになって分かってきたわけだ。

ゆえに、

憲法改正は必須。憲法9条など論外である。

即刻、世界平和の実現には、自衛の日本海軍、空軍を立て直さなければならないというわけである。


ところで、上の井上成美大将は、山本五十六同様に、開戦反対者だった。また、いわゆる小日本構想を推奨し、大陸への進軍にも反対だったという。要するに、支那朝鮮モンゴルと関わっても何も利益はないから、自国だけを海軍を整備して、空母主義にして、母国を守ることこそ日本の本道であると説いたのである。また、今でいうところの「集団的自衛権」、これも井上は反対したらしい。なぜなら、集団的自衛権を持つと、無関係の場所まで護衛に行かなければならないからである。

簡単にいえば、

元祖、日本不沈空母構想である。

御意。私もこれに大賛成である。

他国への侵攻というような野暮なことはしない。

しかし、反日国へは国交断絶する。

もし攻撃したら倍返しにする。以下この繰り返し。

まあ、鎌倉武士と同じ発想が正解ということになる。

このためには、本当なら、憲法改正し、平和憲法から武装憲法に変え、あくまで集団的自衛権を破棄して、個別の自衛権だけ主張する。

これができるときはじめて、日本不沈空母となる。

日本列島が戦艦大和、というより、空母赤城になるわけだ。

他国へは攻め入らないが、日本を攻撃するものには反撃する。

これを念頭におく新憲法を作るべきですナ。→俺の構想

いずれにせよ、同じ本を読んでも俺と武田鉄矢は受け取る部分が異なる。それが人それぞれの感性の違いということになる。

武田鉄矢は日本が他国に迷惑をかけたと感じるが、俺は日本が他国から迷惑を受けたと感じるわけだヨ。

支那朝鮮人のために、何百万もの日本人の侍やら軍人やらが命かける価値もない。犬死だ。

とまあ、そう俺は感じるわけですナ。

いやはや、迷走中の日本政治、これもすべてバッカーサーの呪いですナ。

いやはや、世も末ですナ。



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by kikidoblog2 | 2017-06-23 12:29 | 真実の歴史

「昔は良かった」:天地真理の「水色の恋の謎」→ルーツは欧州スペインにあった!?   

天地真理
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みなさん、こんにちは。

さて、昨日の暴風雨のさなかにメモした、天地真理さんの「水色の恋」の話。これが実は非常に興味深い歴史があったということを見つけたので、一応ここにもメモしておこう。

我が国内では、天地真理さんの芸能界デビュー曲が「水色の恋」ということになっている。そして、この曲に出会ったのは、ヤマハの音楽フェスタ、たぶん後につま恋音楽界とかポプコンとかいうものに発展する音楽祭の初期の大会でのことであるという。これである。

天地真理デビュー前 「水色の恋」原曲 幻の「ちいさな私」を歌う


つまり、田上(たのうえ)姉妹の作詞作曲の曲「ちいさな私」というタイトルの曲をその大会で見つけた天地真理さんがそれを歌いたいということで、新しいタイトル「水色の恋」に変えてデビューしたということらしい。これである。

「水色の恋」の作詞・作曲者

 天地真理のデビュー曲「水色の恋」の作詞・作曲者の田上えりさん、田上みどりさんについては知らない人が多いようです。プロの人ではないので当時も業界関係者にさえ謎だったようですが、『週間明星』1972年1月23日号に「天地真理のヒット曲の陰に謎の美人姉妹」というタイトルでお二人と真理さんとの対面の様子が載っています。

 周知のように「水色の恋」は1970年11月5日行なわれた第2回ヤマハ作曲コンクール(第4回から「ヤマハポピューラーソングコンテスト」と改名)の予選通過曲の中にあった「小さな私」という曲(このときは藤田とし子さんが歌った)を、このコンクールにほかの曲(OTHERWISE)を歌って参加していた真理さんがその曲集から見い出し、やがて自分のデビュー曲となったのですが、真理さん自身もこのお二人についてはまったく知らなかったようで、テレビ局で“田上えりさんの友達”という人に話しかけられて、「田上」が「タノウエ」と読むこともはじめて知ったようです。そしてそれをきっかけに(この記事によれば)週間明星の記者がお二人を探し当てて初めての対面ということになったのです。

 作詞の田上えりさんは横浜に実家がある3人姉妹の末っ子で、このとき聖心女子短大2年の20歳。高校時代から同人誌に散文詩を発表していたそうです。作曲の田上みどりさんは長女で芸大の楽理科を卒業し前年結婚したばかりの23歳。在学中からヤマハミュージックスクールの講師を務めていて、第2回ヤマハ作曲コンクールに応募する際、えりさんの詩のひとつを使って作曲したのが「小さな私」だったということです。

その創作過程について姉妹はこう語っています。(記事のまま)
「小さなわたし」は趣味的につくったものなので、その後2人でかなり手を入れました。2番はあとから書き足したものですし、“水色に残された影・・・”というところは、別れのイメージはクールな感じにしたかったから・・・。天地さんは‘白雪姫みたいな心’という言葉にひかれたとおっしゃいましたけど、あれは童話の‘白雪姫’と関係なく、ただフィーリングで可愛いムードを出したかったの。でも私たちのつくった歌がこんなにヒットするなんて、想像もしませんでした。やっぱり、真理さんの歌い方に魅力があったんじゃないでしょうか」

 「白雪姫」にあまり意味はなかったというのは、ちょっと意外かもしれませんが、実際の作者ならではの話ですね。お二人と真理さんの対面は1月9日、青山の喫茶店で行なわれたそうですが、たちまち意気投合して楽しいものになったようです。真理さんが中学、高校時代をすごしたのは横浜の隣といっていい座間ですし、音大付属高校から大学へ進学する道もあったわけですが、その場合は楽理科を考えていたとか、高校在学中から、そして卒業後ヤマハミュージックスクールで学んでいたなど、お二人と接点も多くとても身近に感じたのではないでしょうか。ちなみに3人姉妹の次女の方が偶然にも「まりさん」で、お二人と真理さんが並んで歩く姿は本当の姉妹のように見えますね。

田上姉妹と天地真理さん
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 なお、この記事の冒頭にはこの年、渡辺プロに届いた年賀状が一番多かったのは森進一でも小柳ルミ子でもなく天地真理で、全盛期のタイガースに匹敵すると書かれています。歌手デビュー後わずか3ヶ月という時期を考えると驚異的な人気沸騰だということがわかります。


ところが、世の中には結構執念深い人や曲には詳しいという人がいるようで、この田上姉妹の曲にはモデルとなった原曲があることを見つけた人がいた。以下のものである。

★ デビュー曲 『♪水色の恋 』 の原曲 『♪Gran Hotel Victoria 』 ★
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この 『♪水色の恋 』 っていう曲、
原曲は 『♪小さな私 』 っていうことは、
あまりにも有名ですよね。
作詞は田上えり さん、
作曲は田上みどり さんです。
 
YouTube にデビュー前の真理さんが、
ギター弾き語りで歌っている 『♪小さな私 』 が
ありましたので、お借りしました。
1970(昭和45)年、TBSテレビの
「 ヤング720 」 っていう番組に、
アマチュア歌手として出演して、
この 『♪小さな私 』 を歌った時のもの、
みたいです。
 
このビデオは 『♪小さな私 』 に続いて、
『♪水色の恋 』 もワン・コーラス入っていますから、
比較できますよ~
まずは聴いてネ
ビデオ制作は amhikokigumo さんです。


プレミアム・ボックスの解説から引用しますけど、
真理さんがデビューする前の、
1970(昭和45)年に、
三重県の合歓の郷(ねむのさと)で開催された、
「’70作曲コンクール」(後のポプコン)に、
真理さんは出場
しています。
そのとき、
他の出場者が歌った 『♪小さな私 』 が
すごく気に入ったみたいです。
その後、デビューすることになって、
デビュー曲を何にするか話し合ったとき、
真理さんは、この 『♪小さな私 』 を、
強く希望して実現したらしいですネ


問題はその後の話。実はこの田上姉妹の「小さな私」にさらに原曲があったのである。

さてさて~
この 『♪小さな私 』 にも原曲があるの。
知ってましたかぁ~
コアなファンでしたら、とっくにご存知ですよね。
じつは、私、不思議に思っていたことがあるんです。
それはね、作詞者と作曲者のことなの。
 
真理さんデビュー当時の、
たとえば上のシングルでは、
作詞:田上えり
作曲:田上みどり
補作曲:森岡賢一郎
ってなっていますケド、
 
2006(平成18)年10月1日発売の、
プレミアム・ボックス(CD)では、
作詞:田上えり、Carlos Pesce
作曲:田上みどり、Feliciano Latasa
ってなっているんです。
途中から作詞者さんと作曲者さん、
増えてますよね~
 
それと、日本音楽著作権協会(JASRAC)での
登録上は 「 外国作品 」 扱いなんだって。
もしかして、もともとは外国の曲を、
それなりにアレンジしちゃったのかも・・・
って思って、調べたら、やっぱりありましたぁ~
 
Feliciano Latasa(フェリシアーノ・ラタサ)
さんが作曲したタンゴの名曲、
『♪Gran Hotel Victoria 』
(グラン・ホテル・ヴィクトリア)です。
この曲に、
Carlos Pesce(カルロス・ペシェ)さんが、
歌詞をつけたんだと思います。
 
とりあえず演奏だけですけど、聴いてみてね~
Orquesta Juan D'Arienzo(ファン・ダリエンソ楽団)
の演奏で 『♪GRAN HOTEL VICTORIA 』 です。
『♪水色の恋 』 っぽいメロディが出てくるのは、
0:44 あたりからです。
その後もくりかえして出てきますよ~
ビデオ制作は DE TODO UN POCO さんです。

JUAN D ARIENZO EL GRAN HOTEL VICTORIA


これを聞くとたしかに44秒目から「水色の恋」の曲があらわれる。しかし、タンゴ化されたものであり、日本で言えば、演歌の中のワンフレーズ、ツーフレーズという感じである。

Gran Hotel Victoria -tango- (F. Latasa - C. Pesce) por Analía Rego


Gran Hotel Victoria


さてさらにこの「グランド・ホテル・ヴィクトリア」という曲は、ある旅行客がイタリアのホテル・ヴィクトリアをみてたいそうびっくりこいた結果できた曲だということがわかった。以下のものである。

Gran Hotel Victoria - “Gran Hotel Victoria”, an anonymous tango
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このヴィクトリアホテルというのはどうも欧州の老舗ホテルであり、超高級ホテルのようである。昔の作りはこんな感じだったらしい。

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今はこんな感じ。
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王族が宿泊できるような超高級ホテルのようである。

ここで演奏しに来たスペインのサンセバスチャン生まれのピアニストでバイオリニストのラタサという人が、このGran Hotel Victoriaを作ったが、この人は36歳の若さで死んだというのである。この部分である。

We shall present a short biography of the composer or, maybe rather, alleged composer of the piece. Pianist and violinist, Latasa was born in San Sebastián —Guipúzcoa, Spain— on September 25, 1870 and settled in the city of Rosario, province of Santa Fe, at the dawn of the twentieth century. At that city he led the orchestra of the Sociedad España and the Orfeón Gallego.

When in Córdoba he appeared at the Club Democrático España and at the Roma and Victoria hotels leading his orchestra lined up by José Ferreras and Cristóbal Boday (violins), José Aguilar (flute), José Guisado (clarinet), Ernesto Di Blasi (trombone) and J. Macia Granja (bass). He composed the tango “Gran Hotel Victoria” (Hotel Victoria), the chotis “Carmencita”, the zarzuelas “Risas y lágrimas” and “Celeste”, and, according to Vicente Gesualdo, numerous dancehall pieces, chotis, mazurcas, polkas, waltzes, pas de quatre, etc. He died in Córdoba on September 18, 1906 when he was nearing age 36.



そしていつしかヨーロッパにおいてはアノニマス(=作成者不明)のまま、非常に馴染みのある曲として流通していったようである。

特にスペインタンゴでは昔からある有名な民謡のように作者不明の曲として演奏されるようになった。

とまあ、そんな感じである。

さてそこで、ここからが私個人の妄想、あるいは、推測だが、この「Gran Hotel Victoria」はその後、チャーリー・チャップリンによって編曲されて、あの有名なライムライトの曲になったような気がする訳である。

Limelight / Terry's theme ライムライト / テリーのテーマ

ライムライト チャップリン「街の灯」<癒しの30弁オルゴール>


そのスペイン人の記事の後半に天地真理さんと田上姉妹のこともちゃんと出ていたからすばらしい。以下の部分である。

Much later —Bischoff told us—, the same sheet music «was copied by two Japanese composers, Midori Tagami and his niece Eri, for their song “Mizuiro No Koi” that the female singer Amachi made into a smash hit in the seventies».


ここには、3姉妹の末っ子のえりさんがみどりさんの姪となっているが、それはどうやら間違いである。作詞が末っ子の田上えりさんで、作曲が長女のみどりさんということである。

また、田上が「たがみ(Tagami)」となっているが、それも間違いで、正しくは「たのうえ(Tanoue)」である。

というわけで、欧州のスペインでも本当はだれが作曲者なのかあまり良くわからない作者不明の作品だったわけで、そういうよく知られた曲をアレンジして一曲の作品を新たに作ったわけで、田上姉妹は大手を振って「自分たちの曲だ」と言ってよろしいのである。だから、だれともわからない西洋人の名前をつける必要はない!


いずれにせよ、チャップリンもそうだが、昔の欧州のバイオリニストやピアニストや作曲家≒ユダヤ人だったわけで、チャップリンもイギリスのユダヤ人。きっとラタサという無名の作曲家もユダヤ人だったに違いない(むろん、当時は有名。だから、ヴィクトリアホテルで演奏したわけだ)。だから、欧州の演歌、欧州の民謡のようなものに、この曲の雰囲気はよく登場してきたはずなのである。

日本で言えば、演歌の曲想みたいな、ちゃちゃんちゃちゃっちゃ、ちゃ〜〜〜、ちゃちゃんちゃちゃっちゃ、ちゃ〜〜、た〜〜ららら〜ら〜〜、みたいなものと捉えたほうが良いと思う。


というわけで、これにて一件落着。めでて〜〜ナ!


おまけ:
こんな掲示板もあるようだ。
天地真理~さくら貝




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by kikidoblog2 | 2017-04-18 09:41 | 真実の歴史

真実の歴史:「白丁って何だ?」「陸軍のシンドラー樋口季一郎少将もいた!」   

みなさん、こんにちは。

今回は他人のサイトでなかなか興味深い論説を見つけたので2つほどそんなものをメモしておこう。以下のものである。というのも、そういうサイトでは日本語でしか読めないが、ここではすぐに翻訳ツールで各国の言葉に直せるからである。ここは世界中の人が読んでいるので、世界の人たちにも本当の歴史的事実とはどういうものであるかを知っていただきたいからである。


(あ)白丁(pekuchun=ペクチュン)って何だ?

まずはこれ。「中韓を知りすぎた男」こと辻本貴一氏のブログから。

在日朝鮮人の反日は白丁の出身を隠すため    10月26日(水)

「国は内部から滅びる」とよく言われます。テレビ、新聞、政治家、役人その他多くの影響力を与える部署に在日が入り込んで日本を非常におかしくしてきました。

その結果牙を抜かれ、去勢された日本国家は今、内部に多くのがん細胞を抱えながら、前門の虎と後門の狼に睨まれ、在日に支配されたメディアは日本人を覚醒させぬよう洗脳、謀略、歴史を捏造してきました。そして在日たちは戦後永く日本人の生き血を吸い続けてきました。しかし多くの日本人はネットのお陰でやっと長い眠りから目覚めました。

いまや在日韓国朝鮮人は少し古いが2005年の統計によると
•特別永住者資格を持つ在日韓国・朝鮮人515,570人
•日本国籍を取得した韓国・朝鮮人284,840人
•長期滞在の韓国・朝鮮人82,666人
•留学生18,208人

それ以外に、密入出国をしたまま登録をしていない朝鮮人がかなりいると見られているが、警視庁は約20万人~30万ともいわれ、実際どのくらいいるのか分からないそうです。

在日については、朝鮮大学校の教員だった朴慶植氏が1965年に書いた「朝鮮人強制連行の記録」などによって戦時中に日本に強制連行されてきた「被害者の子孫」という大嘘のイメージが定着してしまいました。
その結果「強制連行」という嘘が独り歩きし、在日の二世や三世は被害者というひねくれた感情に支配され、日本人を憎むようになっていきました。

しかし実際は「戦時徴用」のことで徴用は日本人も韓国人も同様です。戦後日本に残って「在日」になったのは外務省によれば245人だけでした。それ以外は白丁(ペクチョン)と言われて極端な差別から逃れてきた多くの人たちと貧しい韓国から脱出し、経済的なチャンスを求めて日本に渡ってきた少数の人たちです。

それにもかかわらず強制連行という負のイメージを利用して、外国籍を維持しながら、日本人と同等のあるいはそれ以上の権利を求める運動を展開してきました。いまや在日は日本人以上の権利と社会権を持つに至っています。

戦後日本にやってきた朝鮮人の多くは済州島の白丁(ペクチョン)と言われている人たちです。白丁(ペクチョン)とは朝鮮で最下位に位置する被差別民で 白丁は人間ではないとされていました。朝鮮では日本よりずっと身分への差別がすさまじいのです。現在でも続いています。

済州島は朝鮮における流刑地であり 最下層の地域で白丁が大量に住んでいました。 朝鮮人を指すチョンという言葉が ありますが、これも白丁からきています。

在日朝鮮人は本国の朝鮮人からも酷く呼ばれ差別されています。本国の朝鮮人は奴隷であった白丁である在日朝鮮人と一緒にされるのを嫌がります。それ故 彼らは帰ることが出来ません。 韓国の大学でも在日は白丁が移民したの だと教えられています。

白丁階級制度が廃止されたのは1950年代なので 在日1世は朝鮮で奴隷を経験した人が多い。 だから差別の少ない日本に移住したのです。 彼らが在日特権を持ち、さらに日本という国で恩恵を受けながら 反日活動を行うなどとても許されるものではありません。

朝鮮半島で白丁が受けた身分差別は、以下のようなものです。
1.族譜を持つことの禁止。
2.屠畜、食肉商、皮革業、骨細工、柳細工(編笠、行李など)以外の職業に
 就くことの禁止。
3.常民との通婚の禁止。
4.日当たりのいい場所や高地に住むことの禁止。
5.瓦屋根を持つ家に住むことの禁止。
6.文字を知ること、学校へ行くことの禁止。
7.他の身分の者に敬語以外の言葉を使うことの禁止。
8.名前に仁、義、禮、智、信、忠、君の字を使うことの禁止。
9.姓を持つことの禁止。
10.公共の場に出入りすることの禁止。
11.葬式で棺桶を使うことの禁止。
12.結婚式で桶を使うことの禁止。
13.墓を常民より高い場所や日当たりの良い場所に作ることの禁止。
14.墓碑を建てることの禁止。
15.一般民の前で胸を張って歩くことの禁止。

(Wikipediaより抜粋)

1948年〜1954年、朝鮮半島の済州島では、朝鮮人による朝鮮人の虐殺が横行した(済州島四・三事件) 島民の6万人が殺害され、村々の70%が焼き尽くされた。このとき虐殺を逃れて日本に密航した難民つまり白丁(ペクチョン)が在日となったのです。

日本に逃れてきた白丁は、二世たちに最下層の身分である白丁を隠すために、日本に「強制連行」されたと言わないことには何故自分たちが日本に居る正当な理由がない。そこで二世たちに「日本人は朝鮮で多くの人を虐殺した」という作り話を繰り返し聞かして育てました。

そして自分たちは強制連行を受け、戦後は日本国籍からほり出された被害者であり、平等な権利を求めるのは当たり前だと主張して、被害者としての特権意識を持ち、外国籍でありながら日本人と同等、あるいはそれ以上の権利を求める運動をしてきました。

結果在日は日本人と全く変わらない社会権を持っているにもかかわらずさらなる権利を主張するのは、日本社会の破壊にさえつながる運動です。

おそらく在日の二世や三世たちは自分の親が韓国では人間扱いされなかった最下層の白丁の出身だとは知らされていないと思います。また在日は二世に白丁の出身を隠すために、あるいは韓国での奴隷状態で人間扱いされなかった怨念を晴らすために、より以上の反日活動をして、プライドをとりもどしていったのではないかと思われます。

現在でも韓国内では在日は白丁とみなされ白い目で見られています。それなのに在日は 同胞からも見捨てられているにもかかわらず、韓国政府の代弁者のごとく反日姿勢を取り続けるのは、自分は本国の反日韓国人と同等だと二世や三世に見せつけるためだと思われます。

つまり在日朝鮮人は朝鮮半島の同胞から、同胞だとはみなされず、すさましい差別から逃れるために日本にきた。それが何年たっても彼らが帰国しなかった本当の理由です。



(い)日本のシンドラーは杉原千畝だけではなかった。陸軍の樋口季一郎少将もいた!

次はねずさんこと小名木善行さんの記事。

オトポール事件
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昭和13(1938)年3月、ナチスの迫害から逃れてきたユダヤ人、満洲に入国できずにソ連のオトポール駅で立ち往生となっていました。
駅舎からあふれた人々は、吹雪の中で野宿同然の状況となっていました。
身の回りの物だけを持ってようやくたどりついた難民たちです。
オトポールの3月の気温は、夜にはマイナス30度の極寒になります。
食糧もすでに尽きており、飢えと寒さで凍死者が出はじめていました。

満洲国は、日本の同盟国でした。
その日本はドイツと同盟関係にありました。
「もしユダヤ難民を受け入れれば、ドイツ側から抗議を受ることになる」
満洲の役人たちは、そのことを心配してユダヤ難民の受け入れを拒否していたのです。

オトポール駅は、ヨーロッパとつながるシベリア鉄道のアジア側の終点です。
次々とやってくるユダヤ難民たちは、ついにその数、2万人に達するものとなっていました。

満州のハルビン市で特務機関長をしていた陸軍の樋口季一郎(ひぐちきいちろう)少将のもとにハルビンユダヤ人協会会長で医師のカウフマン博士がやってきました。
そして樋口少将に、ユダヤ難民の救出を依頼してきました。
しばらく考えていた樋口少将は答えました。
「わかりました。
 すべての責任は私が負います。
 博士は難民の受け入れ準備に取りかかってください」
この言葉を聞いたとき、カウフマン博士は滂沱の涙を抑えることができなかったそうです。

樋口少将は、すぐ満鉄の松岡洋右(ようすけ)総裁に特別列車の手配を依頼しました。
オトポールのユダヤ人たちは、すでに多くが満足に歩けない状態となっていました。
駅から満洲の国境までは、わずか数百メートルです。
そこには満鉄の日本人職員が待ち構えていました。
けれど、ユダヤ人たちはすでに息も絶え絶えの状況でした。
待ち構える日本の職員たちは、
「頑張れ、もう一息だ!」と叫びました。
ようやく国境にたどり着いたユダヤ人たちを、職員たちが背負って列車まで連れて行きました。
こうして、すべてのユダヤ人が救出されました。

特別列車は、二日かけて、ハルビン駅に到着しました。
列車が停車すると、救護班の医者がまっさきに車内にとびこみました。
病人や凍傷で歩けなくなった人たちがつぎつぎにタンカで運び出されました。
やつれた幼い子供たちには、暖かなミルクが振る舞われました。
子供も大人も、そのそのビンを見ただけで泣き出しました。

数時間後、樋ロ少将はオトポールの難民すべてが収容されたという報告をうけました。
十数名の凍死者、および病人と凍傷患者二十数名を除き、すべてのユダヤ人が無事に保護されました。
もし救援があと一日遅れていたら、この程度の犠牲者ではすまなかっただろうと医師たちは言いました。

ユダヤ難民たちは、日本やアメリカへ渡り、残りの人たちはこのハルピンの開拓農民として生活していくことになりました。
日本に着いたユダヤ人たちは、在日ユダヤ人会と協力して、神戸に受け入れ施設を作られました。
日本の警察も、乏しい食糧事情の中で、トラック何台ものジャガイモをユダヤ人に贈りました。

こうして事件が落着した2週間後、日本国政府に対してドイツ政府から強硬な抗議文が送られてきました。
関東軍の司令部の東条英機参謀長は、樋口少将を呼び出しました。
樋口少将は、東条英機参謀長に答えました。
「ドイツは日本の同盟国です。
 しかしドイツのやり方が
 ユダヤ人を死に追いやるものであるならば、
 それは人道上の敵です。
 私は日本とドイツの友好を希望します。
 しかし日本はドイツの属国ではありません。」
そして参謀長の顔を正面から見据えて言いました。
「参謀長!
 ヒトラーのお先棒をかついで、
 弱い者いじめをすることを、
 正しいとお思いになりますか」

東条は天井を仰いで言いました。  
「樋口君、よく言ってくれた。
 君の主張は筋が通っている。
 私からも中央に、
 この問題は不問に付すように伝えておこう」

そして日本国政府は、ドイツの抗議を、
「当然なる人道上の配慮」
として一蹴しました。

数年後、転勤で樋口少将がハルピンを去る日、駅には二千人近い群衆が集まりました。
遠く数十キロの奥地から馬車をとばして駆けつけたユダヤ人もいました。
それは樋口少将が土地や住居を世話したユダヤ難民たちでした。
樋口少将の乗った列車が動き出すと、群衆はホームになだれ込み、
「ヒグチ!」「ヒグチ!」「ヒグチ! バンザイ!」の声がいつまでも響きました。

オトポール事件から約七年後、大東亜戦争の末期に突如侵攻してきたソ連軍を撃退した樋口少将は、ソ連に恨まれて、終戦後に戦争犯罪人として裁判にかけられそうになりました。
このとき樋口少将を救ったのはユダヤ人たちでした。
「命の恩人ヒグチを救え!」
「ヒグチに恩を返すのは今しかない!」
世界ユダヤ協会は、世界中のユダヤ人に連絡してアメリカ政府に働きかけ、樋口を救いました。

かつての満洲は、いまは中共の東北省と、ロシア領に分断統治されています。
そこには、かつてのロシア帝国の元貴族たちや、こうして樋口季一郎に助けられた多くのユダヤ人たちも平和に暮らしていました。
日本が戦争に敗れたとき、満洲には、支那共産党軍とソ連軍がなだれ込み、満洲国はなくなりました。
そして、そこにいたロシア帝国の元貴族やユダヤ人たちは、いまでは誰も残っていません。

運の良いものは、難を逃れてアメリカやヨーロッパに亡命することができました。
けれど、それをすることができたのは、1000人にひとりもいなかったといわれています。
国を失うということが、そこに住む人々に何をもたらすのか。
そして責任ある将官と、その将官に率いられた軍の存在こそ、人々の安全を護るものであるということを、私たちはいまいちど考えてみる必要があると思うのです。

日本における軍は、上古の昔の神倭伊波礼毘古命に率いられた御軍の時代から現代の自衛隊に至るまで、常に公正無私、人々の生活の安全と安心を護る軍でした。
ですから日本人にとって、軍人といえば、それはいまの自衛官や機動隊員と同様、常に正義の味方です。

ところがこのことは、日本人の常識であっても、諸外国の常識ではありません。
大陸や半島においては、自国の軍は常に暴徒であったしヤクザ者であったし、ギャングの手先で有り続けました。
西洋においては、軍といえば傭兵で、傭兵は常に食いはぐれた愚連隊の集合体でした。
そしてその軍を動かすものが支配者でした。
ですから支配者=収奪者であったし、だからこそ、そこからの自由のために民衆が軍と戦ったという歴史を持つのが西洋釈迦であり、その収奪者から逃れて、自由のために新大陸を目指したのがアメリカです。
日本とは国の成り立ちが違うのです。

その、国の成り立ちが違う人達が、日本の軍のあまりの強さを見て恐怖して、戦後70年間、必死になって行ったことが、「日本の軍は怖い存在」というイメージです。
ところが、70年もかけながら、現実には、「日本の軍は怖い存在」というイメージは、ただの言葉遊びにしかならず、これを政争の道具にすればするほど、それをする野党は、日本の世間から見放されてきました。
また、これを教育よって日本人に刷り込もうとすればするほど、自衛隊への入隊希望者が増えています。

日本には日本の歴史があります。
私たちは、戦後に教わってきたことが、本当に、正しい歴史であったのか。
いまいちど、冷静に考え直してみるべきときにきていると思います。

お読みいただき、ありがとうございました。

◆参考文献
服部剛著『教室の感動を実況中継! 先生、日本ってすごいね』
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by kikidoblog2 | 2016-10-27 09:11 | 真実の歴史