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アイラブジャパン:近藤亨「武士道精神でネパールの山岳貧困地を大穀倉地帯に変えた日本人」   

みなさん、こんにちは。

今年ももうちょっとになったが、私が今年テレビで知った一番すごい、すばらしいと思った人は、クリロナでもなければ、ライオネル・メッシでもなければ、ましてや白鵬でもなければ、ノーベル賞学者でもない。

ずばり、この人、近藤亨(こんどうとおる)さん。

昨年94歳でもうお亡くなりになられた。

齢94歳。ネパールで最高栄誉を受けた日本人「コンドウ」さんの偉業
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ネパール国内どこを歩いても「近藤バジェ(おじいさん)」と声をかけられ、現地の人々から愛されている日本人がいることをご存知でしょうか? 無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では、90歳をこえてもなおネパールの地で現地の人々のために生き続ける、近藤亨さんの知られざる偉大な功績が紹介されています。


知っていますか? ネパールで愛され続けている日本人伝説。


海外 感動 「平均寿命45歳」貧しい国をたった1人で救った、とある日本人のお話 大好き日本!真の国際協力とは?日本とネパールの「絆」



【神様と呼ばれた男】 ネパール・ムスタンへ赴いた近藤亨




世界最高峰の高度4000mのヒマラヤ山麓で乾燥地帯、草も生えない不毛の地。そんなネパール最大の世界最貧地帯に、ヒマラヤの雪解け水を5kmにわたってパイプで通そうとたった一人で頑張り、ついに成功させ、その地をネパール最大の農産物地帯に変えたという日本人である。

この近藤先生の言葉、それが

武士道

精神だった。

武士とは、他人のために自分の命を落とすことを厭わない。
他人のために命をかける。


そういう人間のことである。


一人の武士として、ネパールの最貧地の人々を救おうと残りの人生をかけた。


ところで、この近藤先生は、新潟大学の農学部の教官だった。

無事子育てもすべて終わり、青年海外協力隊のメンバーとしてネパールの山村に行ったところ、村民のすべてが貧困と病気に喘いでいる姿を見た。

そして、その救済のために、資金を得るために、反対する家族を説得して自宅および田畑を売りさばいて、ネパールに向かったというのである。

だれにもできることではない。

まあ、日本の国会議員のだれもできないだろう。

せいぜい他人の金を集金しただけの国費や将来の日本人に対する借金である国債とかでものを買ってくれてやる、というようなことしかしないだろう。安倍晋三の得意技である。

まあ、それでもしないよりはした方が良いという場合もあるにはあるが、近藤先生のようなことは常人にはできない。

いずれにせよ、近藤先生はそこで生活するだけでも大変な場所に何年も住み、ついにヒマラヤのてっぺんからくる雪解け水を村まで引いて、その水で農業を起こす。

こういう神の視座の事業を思い立った。

そして高齢者70歳以上にもかかわらず、一人で鉄パイプを担いでは上り、そこに穴掘って設置し、降りてはまたパイプを担いでつなぎという、単純作業だが、4000mの高地で行ったのである。

それも何年も何年も。

山岳登山家三浦雄一郎が大勢をつれてそのサポートのお陰で80台でヒマラヤ登頂したが、それはたった一回や二回の話である。しかも多くの迷惑の上になりたっている。

しかし近藤先生の場合は、自分がいつ作業中に死ぬかもしれないという状況での作業である。別にそれができたところで、世界記録になるわけではないし、頓挫すれば、それっきりになるという事業である。

実際、欧米白人の協力隊は何度も挑戦したが失敗し、地元のネパール人もほとほと困り果てていたという。

これはおそらくこんなことだろう。

白人が貧困地の支援に来るという場合、自分たちが指示する役にまわり、地元の現地人を自分たちの手足として人足にするわけである。

いわば白人の功績のために原住民が奴隷になって協力させられる。こういう形になりがちなのである。

だいたいどの分野でもどこの国でもそうだ。アフリカでも働くのは黒人で、その実入りは白人が奪う。こういう見た目の関係になる。

白人側としては、自分たちが計画してやったんだから当たり前だろうという考え方になる。

戦争でもまったく同じで、北朝鮮を攻撃するなら、北朝鮮の脅威にさらされている日本人や韓国人が戦うのが当然だろうということになる。白人が人のために自己を犠牲にする。そういうことは伝統的にも文化的にも遺伝子的にもない。

第二次世界大戦中の大東亜戦争時、最前線は黒人だったという。一番危ない場所は黒人兵を向かわせ、日本軍が撃ってくる場所をみつけて、そこに海上から艦砲射撃をする。そうやって相手がいなくなったときに、マッカーサーが上陸した。

とまあ、戦争であれ、海外協力であれ、これが欧米式というより、白人式である。

これに対して、我が国の武士道精神のやり方は、苦しいことを引き受ける。こういうやり方である。

特攻精神もたぶんそうだっただろう。一般の日本人も相手に体当りしたかっただろうが、一般人にはそういうことはできない。ならば、軍人である、武士である自分がその身代わりとなって一番たいへんなことをしてやろう。こういう気持ちだったと思う。

近藤先生のいう武士道とはそういうものである。

近藤先生は自分は何不自由なく日本人の生活を経て、無事に子供も立派に成長し独立した。

農学者としてネパールの貧困を見たら、これはなんとかせねばならん、と考えて挑戦したのである。


たぶん19世紀の啓蒙時代の欧州にはこういう人がひょっとしたらいたかもしれないが、20世紀、21世紀の今、こういうひとはまずお目にかかれない。

ユダヤ人がいつも得意になって話すユダヤ格言がある。

人に魚を与えれば一日で食べてしまうが、釣りを教えれば一生食べていける。
Give a man a fish and you feed him for a day.
Teach him how to fish and you feed him for a lifetime.


これは孔子由来ともいわれるし、いろいろあるが、まあ誰が考えてもある程度の知性があれば、分かりそうなことである。

いわゆるユダヤ人(ハザールユダヤ人=偽ユダヤ人)は理論の民である。理屈はこねるがあまり自分が汗水して働くという民族ではない。近年、最近になればなるほどそうだ。実労働は人に任せたがる。だから数学者や理論物理学者の類は偽ユダヤ人が非常に多い。

だから、こういうもっともらしい逸話や諺をたくさん知っている。

しかしながら、上の諺で言えば、一番むずかしいのは実はその簡単に「教えればいい」というその部分なのである。実はそうかんたんに「教えられない」のである。教えることが偽ユダヤ人が思うほど単純なことであれば、学校など「必要ない」。

魚釣りでもそうで、うまく釣れるようになるには大変な時間がかかる。経費もかかる。

だから、NHKの偽釣り番組では、ダイバーが海中に潜って、前に取っていた弱った魚を針にぶら下げ、そこで糸に合図(あたったかのような振動)を送り、番組出演者が獲物を上げる。

だから、大きな魚も簡単に引き上げられるし、いつも番組の終了時間内で目的の魚を釣ることができる。

だから、いつも魚は白目を向いているし、白い腹を上にして釣り上げられるわけである。

つまり、ヤラセである。さもなくば、番組時間内に魚は釣れないし、ましてや生きた魚は弱るまで何時間もかかる。大概は糸を切られて終わりである。それほど引き上げるときに暴れて大変なのである。小さなオコゼを釣るだけでも結構たいへんなのものなのである。

釣りといえどもこれほど難しいのである。

ましてや農業である。

日本のように何千年もの間に開梱されて土地が豊かになっていれば、その辺のおじいさんやおばあさんが種まけばすぐに芽が生えるかもしれないが、土地がそうなっていない外国の土地でみのりを豊かにするというのは、並大抵のことではできない。

しかし、我が国のご先祖さまの中には、米ハワイ、米カリフォルニア、カナダ、メキシコ、ブラジル、パラグアイ、ウルグアイ、チリ、フィリピンや韓国や中国や満州、ありとあらゆる国々でその荒廃地帯を開梱し、農業に成功したという人たちが実に多いのである。

海外のいまの農業地の大半が日系人が開梱した結果、その後に入植してきたという場合が多い。

ユダヤ人はその実りを貪るほうが多く、ほとんどそういう作業に無関心だった。

人間としての質が日本人とは全く違うのである。だから、日ユ同祖論はない。ありえない。


翻って、近藤亨さんの場合も農業などしたことがないし、実際にだれもできなかったわけだから、見たこともないという現地の人に農業を教えればいいといったって、教えることすらできないというのが最初の状況だったわけだ。

そうなると、結局、自分でやってみせるしかないのである。

これが武士道の精神である。



さて、話は飛ぶが、俺がいつも分からないのは、材料がその現地にはふんだんにあるにもかかわらず、その現地の人がまったくなにもしないでいて、仕事がない、ものがない、食い物がないといって何世紀も生きているというような状況である。

アフリカ人がなぜ履物、たとえば、草履とか、スリッパとか、そういうものを発明しなかったのか?

材料は身の回りにたくさんある。

アフリカ人がなぜ土釜や土器や食器を発明しなかったのか?

これまた良い土は身の回りにたくさんある。

彼らは、草履を草から作る前に裸足で適応した。

回りの赤土をこねて粘土にして土器を作り出す前に、その場まで走っていって口を水につけて飲むように適応した。

工夫する必要がない。適応すればいいのだ。

あとは誰かが助けに来るのを待つ。くれるのを待つ。

これまた一種の適応である。


適用性がある。すなわち、もともとの体が頑健である。そのために、工夫が生まれなかったのかもしれない。

一方日本人は適応性がない。免疫力も弱い。だから、いろいろ工夫したのかもしれない。

いずれにせよ、まわりに繊維質の植物が生えているのに、それをつかってわらじや草履を発明しないというのは、いかんでしょ。


草履も発明できなかったアフリカ黒人でも、白人の悪が提供するAK48は簡単に操作できるようになる。

人殺しの武器は自分で作れないのにすぐに使いこなせる。これが不思議なんですナ。



近藤亨さん、21世紀の現在にもかかわらずこういう真の聖人のような日本人が存在したというのは本当にすごいことである。

しかし、あと何年かすれば、その功績はユダヤ人のおかげになっていたり、朝鮮人や支那人がやったことにされてしまっているかもしれないですナ。

歴史戦である。



いやはや、世も末ですナ。




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by kikidoblog2 | 2017-12-25 09:42 | アイラブとてつもない日本

ジョーク一発:「今年で終了したかもしれないスポーツ選手たち」   

終了
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浅田真央選手 きょう引退の記者会見



みなさん、こんにちは。


笑いは百薬の長。
笑う門には福来る。
あまりの恐怖で笑う他はない。
笑いは本物に限る。
偽笑いは吉本におまかせ。

以下は大人の辛ジョークである。決して信じないでくださいヨ。
本気にしないことが肝心。

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年末になったが、今年は特に「残念」なニュースが多かった。

そんな中で下手をすれば、それが原因でもう選手生命が終了してしまったかもしれない有名選手をメモしておこう。

(あ)高梨沙羅選手

大分前に、この選手が顔をきれいにすることにこだわるようになれば選手としては終わりだと予想した。

まずは写真を見てみよう。

その昔の顔がこれだった。
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3年前と今
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要するに化粧の何が行けないか、女子力アップの何が行けないかというと、自分が女性だ、自分が女だという認識をすればするほど、女性ホルモンが出るようになる。

そうすると、食事制限をかけるようになる。

すると、筋力が落ちる。体重も落ちる。

結局、ジャンプ力が落ちる。

今シーズンになり、女子力が異様にアップしたと思ったら、実際の最初の試合で、体重が軽すぎて失格になった。

高梨選手が女子力アップする前に世界でぶっちぎりで強かった頃、オリンピックでまさかの4位になってしまった。
反日マスゴミ、連日ソチ五輪で大活躍:今日は沙羅を潰し、昨日は500を潰す!


これが精神的なトラウマになったのか、それから女子力にやたらとこだわるような選手になった。
ある意味で、自分のプレッシャーを顔をいじることで逃げている習慣を身に付けたのだろう。

しかし、いったいだれが高梨選手に整形を教えたんだろうか?

たぶんライバルが調子くれたんでしょうナア。目の上のたんこぶを落とすために。


(い)石川遼選手

石川遼選手は、若くしてアメリカツアーに参戦し、いつしかタイガー・ウッズばりのスウィングにフォーム改造し、だめになった典型的な選手の一人になった。

トランプの「お前は首だ!」:「Mr.サトウ、お前は首だ!」「ハリル、お前は首だ!」

これと似たことをしたがゴルフの石川遼である。いまの石川遼は昔の尾崎や幾多の日本人選手と同じ間違いを犯した。その結果、腰痛が持病になり、若い頃の力が発揮できないという悪循環に陥ったのである。

それは、幼少期から身につけて若くしてプロ入りできた時の自分のフォームや癖を、後に海外挑戦するようになって海外の白人選手やタイガー・ウッズのような黒人選手の身体能力や飛距離に圧倒されて、自己改造という無謀なフォームチェンジに取り込んで、飛距離を伸ばそうと考えるようになったからである。

その結果、自分の体型に合わない無理なフォームで打つことになり、腰に負担がかかり腰痛になる。この繰り返しでダメになる。

これが今現在の石川遼だと思う。

まあ、石川遼の場合は、腰痛手術をして、腰を完治させ、それからちゃんとリハビリして、そして昔のデビュー当時の自分のフォームに戻すべきなのである。

このように、良いコーチにつかないと石川遼のように失敗するのである。

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フォーム改造して選手生命を失ったゴルフ選手の数は知れない。なぜなら、野球などとはちがい、ゴルフは静止球を打つ競技だからである。

ごまかしが効かないのである。



(う)羽生結弦選手

軸足の負傷。それも靭帯の損傷。
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こういう怪我はスポーツ選手にはつきものの大怪我だが、この大怪我の前と後でまったくプレーの質が変わってしまう。

そういうことがある。

サッカーでは、膝の十字靭帯や側副靭帯
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の損傷が多い。

特に人工芝になり、体育館の競技のようにクツが滑らなくなったからである。膝をグキッとやってしまうのである。

それを防ぐには独特の小股で歩数を細かくして止まったり方向転換する技をみにつけないといけない。

スケートでは、めったにこういう膝の靭帯の怪我はみないが、代わりに足首の靭帯を痛める。

羽生選手がこれをやってしまった。しかもジャンプする利き足。

早く完治してほしいが、なかなか難しいかもしれないですナ。


やはり、アメリカの中国系ネイサン・チェンの登場が悪影響したのだろう。


(え)奥原希望選手

バドミントンの奥原希望選手の場合も両膝をやってしまった。
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屈伸が中心になるバドミントンで膝の負傷はつきものだが、膝を怪我すると普通は引退である。

松友・高橋ペアも松友選手が膝を怪我してしまったようだ。
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外国人選手は大柄だから、無理しなくても手が届く範囲を日本人選手は無理しなければ届かない。

そういう体格のハンデはボディーブローのように選手生命を短くする。


(お)錦織圭選手

この選手を忘れていた。

錦織選手は利き手の手首を怪我した。これは痛い。

ジョーク一発:錦織圭に忍び寄る「Kの法則」発動の危機!?:キムチの食べ過ぎか、ナス科の祟りか!?

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一説では、朝鮮系の彼女ができて以来、良いことがなく、その憤りをラケット投げ(けっして子供が真似をしてはいけない)をした時に、手首を打って痛めたのが始めというものもある。
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「Kの法則」である。

名前が悪かったナ。錦織圭だ。

因果応報。態度が悪いと、それが悪い女を引き寄せる。

態度を良くすればするほど、悪い女が居づらくなる。

とまあ、斎藤一人さんの話によればそういうことになる。

手首を気にしていると、足にも負担がかかり、足も怪我する。そして足を気にしていると体のバランスが悪くなり、腰もやる。

そういう悪循環に陥るわけだ。

この悪循環はどことなく石川遼選手と似ているような気がする。

まあ、悪い女=サゲマンとは早く別れてフリーになるべきでしょうナア。



(か)関節炎のあるときは、ナス科をやめるべきだ!

さて、関節炎や関節に違和感のある人は、ナス科を食べないようにすると効果がある。

こういう医学研究がある。

ナス科=なす、きゅうり、トマト、とうがらし、じゃがいも、ピーマン、などは、体を冷やす野菜として知られているが、その同じ成分がまた関節炎を悪化させるのである。

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奥義「無想転生」、ただアホになれ!:ついに俺も体得したか!?GKにも応用可!

「ナス科は人に食わすな!」:「若返ろうと思って食べて早く老ける!」の疑惑あり!

「ナス科は人に食わすな!」2:偉大なアスリートはみな野菜嫌いだった!

「オキシエリートプロ」で肝炎発症とか!?:ナス科が関節炎を悪化させるらしいナ!

「私の辞書にナス科の文字はない」:偉大なスポーツ選手ほど野菜嫌い!?生野菜で老化が早まるか?


まあ、正確に言えば、ナス科の野菜を生で食べるなということで、十二分に調理して食べる分には問題はないらしい。

また、高齢者には生野菜はカリウムのとりすぎになり、逆に健康に悪いのである。

消化もよくないし、衛生上も危険はあるし、生はよろしくない。だから、高齢者の入院患者にはふつう生野菜の料理は出さないのである。

むしろ、野菜は漬物にしたり、醗酵させたり、調理して食べるわけである。

パプリカやピーマンの有名産地のハンガリーでは、たいていスープに煮込んで食べるし、トマトの名産地のイタリアやスペインでも、トマトをケチャップにしたり、十分に煮込んだ料理にして食べている。

これほどまで生生と騒ぐのは我が国だけである。


というようなわけで、下手をすれば今年で最後になってしまうかもしれない若い将来有望選手たちには、来年は大復活を遂げてほしいものである。



まあ、ジョークだから、本気にしないことが肝心肝心。


いやはや、世も末ですナ。




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by kikidoblog2 | 2017-12-24 12:09 | ジョーク一発

「あのねのね」の「赤とんぼの唄」はPPAPのピコ太郎の先駆者だった!?   

みなさん、こんにちは。

昨日はここ阿南も比較的温かい快晴の日で、年末年始に合わせて髪を切りに安床屋へいった。

すると、同じようなことを考えた高齢者のオヤジばかりで、歩くのもままならないおじいさんたちといっしょになったわけだ。

そんなご高齢者であまりに混んでいたために、2時間半も待たされたのだが、その間に一本英語の論文を完読できてありがたかった。

一方、BGMがこれまた高齢者向けの1970年代の日本の音楽を有線で流し続けていた。

そんな中で久しぶりに聞いたのが、あのねのねのこれだった。
赤とんぼの唄 - あのねのね
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まさにこのYouTubeのと同じようにコンサートホールの聴衆の笑い声の聞こえるやつだった。


ところで、こんな感じで、言葉を変形=デフォルメして歌詞にするというのは、最近では、PPAPのピコ太郎のこれだろう。

ペンパイナッポーアポーペン


というわけで、ピコ太郎より何十年も前にあのねのねはピコ太郎とは逆のことをやっていたわけだ。

ピコ太郎が言葉を連結していくとすれば、あのねのねは言葉を排除していく。

「あのねのね」の「あのね」をとったら、「のね」

とやっていたわけだ。

ナンセンス・ソング

の一種だろうが、言葉遊びを歌にしたという意味では同類であろう。


あのねのね恐るべし。


とまあ、あのねのねの歌を聞きながら、こんなことを考えながら、床屋で待っていたというわけである。


俺も暇人だな。


いやはや、世も末ですナ。




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by kikidoblog2 | 2017-12-22 08:35 | マスゴミ・ダマスゴミ

「バカチョン」の「チョン」は「ちょんまげ」の「チョン」だった!:NHKは橋爪功さんに謝罪すべし!   

ちょんまげ
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これが「バカチョン」



みなさん、こんにちは。

最近のNHKはますます「韓の犬エッチK」に成り下がってしまったようだ。最近ではさらにKがキチガイのKになった感すらある。

なんと、NHKの昼のインタビュー番組で、日本人俳優の橋爪功さんが、「バカチョン」という言葉をだしたら、番組中にメインキャスターが「不適切な発言がありました」と(心にもない偽の)謝罪してみせたというのである。

こうやっていちいち在日南北朝鮮にによる、その誤った自意識過剰やその被害妄想からくる「言葉狩りテロ」に付き合わされ、日本の伝統文化破壊を目論むわけだ。

ところで、最近では、日本で和食を学んだ韓国のchosuneseが、いちいち和食についている和名を韓国語に直し、その途端にそれが韓国ルーツの料理に変化し、するとそれを海外に韓国オリジナルとして流布させる。

こんなことをしたがる朝鮮人が後を絶たない。

悪いことをするときは日本人になりすます。良いことをするときは日本のものでも韓国のものだと捏造する。

息を吐くように嘘をつき、嘘も100回言えば真実になる。

これが昨今の朝鮮人である。

NHK本社にはそういう韓国のテレビメディアが入り込み、NHK職員をマンツーマンで管理している。むろん、韓国の放送局員のふりをしたKCIAのメンバーである。

戦後ずっとそんなことをしてきたわけだが、いまや世界構造が代わりつつある。

戦後は終わったのだ。

というわけで、姑息な韓国人の手口がどんどんインターネット上で全世界に拡散してしまう。そういう時代になった。


さて、その問題の「バカチョンカメラ」の「バカチョン」とか、「バカでもチョンでも」という時の「チョン」とは、もちろん
「朝鮮人」の「チョン」ではない!


これは
「ちょんまげ」の「ちょん」
「ちょんぎる」の「ちょん」
から来ているのだ!

これは、「役に立たないつまらないやつ」という意味である。

たまたま音の響きが「チョンガー」=「(朝鮮語の)独身男子」の「チョン」と同じになっただけのことにすぎない。


「チョン」というのは前者の意味から派生して、「つまらない奴」「役に立たない者」という意味で使われていた言葉のようだ。「 西洋道中膝栗毛」の中にある「ばかだの、ちょんだの、のろまだの」は、「あほ、ばか、まぬけ」と同じ、同義語を反復する表現にすぎない。「 ばかだのちょんだの」に朝鮮人差別の意味はまったくない!


「馬鹿でもチョンでも」は差別語ではない | 新佃島・映画ジャーナル
自民党の谷垣禎一幹事長が、大阪市内での街頭演説で差別語を使ったという問題。発言内容は以下のようなものだったらしい。

「東京の自民党本部が賛成しているのに、大阪府連は都構想に反対している。(それを)ばかだチョンだというようなことを維新は言っている」(時事ドットコム)

 これのどこが差別表現なのか、僕にはさっぱり理解できない。「チョン」は朝鮮人に対する侮蔑的な表現であるという説明があるのだが、この説明はそれだけを取り上げれば事実だ。かつて日本人は中国人を「チャンコロ」と呼び、朝鮮人を「チョン」や「チョン公」と呼んでバカにしていたことがある。しかし「ばかだチョンだ」の「チョン」はそれとはまったく無関係だ。

 だいたい谷垣さんはここで、「チョン=朝鮮人」の意味で使っているのか? 違うでしょ? 朝鮮人のことを「チョン」と呼ぶのは時代錯誤の大差別だが、「ばかだチョンだ」はまるっきり問題ないよ。

 以下、僕が知るかぎりのことを簡単に解説しておく。

江戸時代末期には既にあった表現

 「ばかだチョンだ」のもともとの表現は「馬鹿だのチョンだの」だ。略して「バカチョン」と言ったりもする。辞書に載っているもっとも古い用例は、明治3年から9年に発行された仮名垣魯文の「西洋道中膝栗毛」にあるという。そこには「ばかだの、ちょんだの、のろまだの」と書かれているらしい。おそらくこの表現は江戸時代から一般的に広く使われていた罵倒語なのだろう。この時代の日本人に「チョン=朝鮮人」という発想はない。

 では「チョン」とはもともとどんな意味だったのか?

 チョンとは今でも読点や傍点に使う「、」や「・」のことだ。「どらえもんえかきうた」にある「丸(◯)描いてチョン(・)」の「チョン」だ。

 江戸時代には男性がちょんまげを結っていたが、あれをちょんまげと呼ぶのは形が「、」に似ているからだという。「、」はそれ自体では意味のない小さな点なので、些細なこと、小さなこと、などの意味にも使われる。ごくわずかな量を意味する「ちょんびり」や「ちょんぼり」という言葉や、短い時間を意味する「ちょんの間」という言葉が今でも残っている。

 チョンには別の意味もある。芝居(歌舞伎)で幕切れに入れる拍子木の「チョン」という音のこと。そこで終わり。そこで打ち切りというしるし。「そこでチョンになった」などと使う。何かを切断するときに使う「ちょん切る」も同じ意味からの言葉だという。

 「チョン」というのは前者の意味から派生して、「つまらない奴」「役に立たない者」という意味で使われていた言葉のようだ。「西洋道中膝栗毛」の中にある「ばかだの、ちょんだの、のろまだの」は、「あほ、ばか、まぬけ」と同じ、同義語を反復する表現にすぎない。「ばかだのちょんだの」に朝鮮人差別の意味はまったくない!(ただしあまりお上品な言葉でないことは確かだ。)

バカチョンカメラの登場

 「ばかでもちょんでも」が朝鮮人差別だと言われるようになったのは、マスコミが「バカチョンカメラ」という言葉を自粛した頃からだと思う。昭和50年代頃からではないだろうか。今では当たり前のことだが、誰でもシャッターボタンさえ押せば失敗のない写真が取れるカメラというのは、当時は結構大変な技術だったのだ。世界初の自動焦点カメラ「ジャスピンコニカ」の発売は1977年(昭和52年)のこと。ただしそれ以前から、スナップ写真などでだいたいどこにでもピントが合うパンフォーカスのカメラは出ている。それらを総称して「誰にでも簡単に撮影できるカメラ」という意味で「バカチョンカメラ」と呼ばれていたのだ。

 しかしこの言葉は、まもなく使われなくなった。理由は「チョン」が朝鮮人差別だということではなく、おそらくはメーカー側がそれを嫌がったのだろう。自分たちが技術の粋を集めて心血を注いだカメラを「バカチョン」とはひどい……。そんなわけで、こうしたカメラは「全自動カメラ」とか「ロボットカメラ」などと呼ばれるようになった。(後者は死語ですね。)やがてあらゆるカメラにオートフォーカス機能が搭載されると、バカチョンカメラという言葉は完全に死滅した。

 しかしこれと同時進行で、「バカチョン」は朝鮮人差別だという誤った説明が広まるようになっている。今ではこれがすっかり「定説」になってしまい、今回の谷垣さんの発言を「差別用語」だと報じる新聞まである始末。困ったもんです。今回は特に朝日新聞がひどい。見出しが「谷垣氏、街頭演説で朝鮮人差別用語」だもんなぁ。毎日も「差別的表現」と見出しで書いている。日本語の番人であるべき新聞マスコミが、日本語に対する誤解を広めてどうするんだよ!

差別語の範囲は時代によって異なる

 日本のマスコミでは差別語について一時期かなり神経質になっていたことがあり、ありとあらゆる言葉が「差別語だ」という理由で使えなくなってしまったことがある。たとえば「狂う」という言葉はかつてテレビでは決して使えない言葉だった。精神障害者に対する差別だというのだ。ドラマの中で「時計が狂う」と言おうとしたらシナリオにチェックが入って使えず、「時計が遅れている」に直したら「知的障害者に対する差別だ」と言われて使えず、「時計が進んでいる」に直したという話をどこかで読んだことがある。でも今は大河ドラマの中で吉田松陰が「諸君、狂いたまえ!」なんて大見得きったりしているのだから、時代が変わって差別語が差別でなくなることもあるわけだ。

 大河ドラマでは、忠臣蔵をモチーフにした「峠の群像」(1982/昭和57年)で「片手落ち」が使えないことが話題になったことがある。松の廊下の刃傷事件で浅野家だけが処分を受けたことに対して、藩士たちが「喧嘩両成敗にならず当家だけが処分を受けるのは片手落ちでござる!」と憤るはずが、「片手落ち」は身体障害者に対する差別だということになって「片落ち」になってしまった。言葉としては「片手+落ち」ではなく「片+手落ち」であり、一方にだけ手落ちがあるという意味なんだろうけどね。これはたぶん、今でもマスコミでは使えない言葉になってしまっていると思う。NHKが「片手落ち=差別語」のレッテルを貼ったからだ。

 本来差別語でもなんでもない言葉であっても、大マスコミが音頭を取って差別語のレッテルを貼ってしまえば、そこで差別語として確定してしまう。「片手落ち」は今でも使いにくい言葉だし、「ばかでもちょんでも」も公的な場で使うことはできない。谷垣さんにはお気の毒だけど、政治家も「言葉を使って商売」をしているわけだから、そのあたりは注意深くあるべきだったと思うけどね。

 しかし今回の件で一番みっともないのは、谷垣発言の揚げ足を取って「差別だ」と触れ回っているマスコミと、言葉尻を取り上げて谷垣さんを差別主義者扱いしている人たちだ。ある言葉が差別的か否かは、その言葉が使われた文脈で決まる。谷垣さんの発言に朝鮮人差別の意図がまったくないことは、誰がどう考えたってわかることだろうに……。


というわけで、橋爪功さんを差別者扱いしたNHKは橋爪功さんに直接謝罪したほうがよろしいのではなかろうか?


我が国のテレビ業界の創始者である「日本放送協会」=NHKが、いまでは「捏造放送キチガイ」になってしまったようだ。

実に残念なことですナ。

これじゃ〜〜、アメリカのファルスニュースCNNと同格に見られるわけだ。

受信料を徴収する価値もない。




いやはや、世も末ですナ。


おまけ:
やりたい放題のNHK=日本犯罪協会。年収1800万もあるのにまだ金が欲しいのかいな?
【速報】NHK職員の37歳男性が受信料58万円着服!!

NHK職員を懲戒免職処分 37歳男性職員が受信料58万円着服「言語道断 厳しく対処」
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NHKが21日、会見を行い、職員の懲戒処分を発表した。37歳男性の名古屋放送局の中央営業センター職員が、去年10月から今年12月にかけて訪問集金により受け取った受信料58万円を着服したことが発覚し、懲戒免職とした。

中田裕之理事が経緯を報告。男性職員は愛知県内で訪問集金により受け取った受信料21件分、58万円余りを着服。収納の際、訪問先に領収証を発行したが、その後mシステムから発行履歴を消去し、協会には入金せず報告をしていなかった。男性職員は「親族の病院などの治療費で借金があった」といい事実と認め、弁済した。

NHKは「公共放送の職員として言語道断。職員としてあるまじき行為であり、厳しく対処しました。視聴者の皆さまに深くおわびするとともに、業務管理を一層徹底して参ります」とコメントした。




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by kikidoblog2 | 2017-12-22 08:05 | マスゴミ・ダマスゴミ

斎藤一人さんからのメッセージ:「コレができない人は必ず人生が狂う」「本当に強い人」   

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Life is good!   by Hitori Saito


みなさん、こんにちは。

今日たまたま見つけたんだが、斎藤一人さんという我が国で個人納税額が1位の人がいるらしい。いわゆる大富豪なんだが、その人の成功哲学が最近YouTubeで語れるようになった。

そんな中で、ぜひ白鵬や日馬富士や鶴竜、および貴ノ岩や貴乃花などにちょうど良さそうなものがあった。

そんなものをメモしておこう。


(あ)貴ノ岩と貴乃花へのメッセージ

【斎藤一人】コレができない人は必ず人生が狂う! ※私が日本一幸せになれたワケ※



(い)白鵬と日馬富士へのメッセージ

【斎藤一人】「本当に強い人」の特長



いやはや、これぞ達観。

原因と結果の話:

原因→結果

良いこと→ダルマ=達磨
悪いこと→カルマ=因果応報


曼荼羅=ピラミッドの話:

第一の門→困ったことは起こらない、他人の機嫌をとらない→自分の機嫌だけをとる→第一の門が開く

第二の門→自分の能力を出し切る、出し惜しみしない→第二の門が開く

第三の門→常に笑顔で過ごす→徳を積む→人徳が上がる→第三の門が開く

第四の門→第一第二第三の門が開くと魂力(たましいりょく)を磨かれる→第四の門が開く


いやはや、実に興味深い。


白鵬も人のせいにしていると、魂が磨かれないぞ。

まずは自分のせいだと認めて、改心しないかぎり、運は開かない。


いやはや、世も末ですナ。





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by kikidoblog2 | 2017-12-21 17:30 | スピリチュアル

「新一の『心の一票』」:「心壁論」と、論理構造の解明・組合せ論的整理術を「心の基軸」 とすること2   

(つづき)

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の私的ブログ
新一の「心の一票」
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子供の頃(=5歳~10歳=初めて米国に渡って間もない頃)の私は、上記のような「難しい言葉」では上手く表現できなくても、上記のような状況を子供なりに、「空気的」に、直観的に完全に理解していましたし、「一神教の人間ではない」、つまり学校等でよく耳にした、より素朴な表現で言うと、「お前は神を信じるのか、信じないのか」というような形で問い詰められたりして遭遇した苦しい社会的な状況もあって、言語だけでなく、

      古代ギリシャやローマの
     (「日本と同じ」)多神教

に大変強い関心を持っていました。実際には、ヨーロッパでは、古代ギリシャやローマだけでなく、ケルト民族やドイツ民族、更にはロシア民族には、キリスト教が普及する前に長らく続いた多神教の伝統があったのです。

一つの決まった「心の基軸」と言えば、戦後日本の場合、様々な分野における

  「対米(あるいは場合によっては対欧米)
  従属の文化」

という(私に言わせれば)日本のみならず、米国あるいは欧米を含めた人類全体にとって非常に残念な文化的傾向・「心の基軸」があります。またその対米従属の文化と切っても切れない関係にあるのが、在日米軍基地の問題です。在日米軍基地は本当は日本国民(特に沖縄県民)のみならず、選挙期間中のトランプ氏の様々な発言や、どんなに厳しい批判を向けられても犯罪行為(=当事者による一種の「悲鳴」ともとれる)が後を絶たない在日米軍基地の関係者の実態からも窺えるように、米国側にとっても大変に頭の痛い負担となっています。在日米軍基地の存在そのものについては、将来的には、技術の進歩や様々な工夫によって更なる整理・縮小を(一国民として)期待したいという漠然とした思いはあるものの、日本を取り巻く厳しい軍事的な状況や、自分はそもそも軍事の専門家ではないことを考えると、強い主張等は特にありません。

私の場合、子供の頃から問題にしたいと強く感じているのは、むしろ在日米軍基地関連の問題を含めた「対米従属の文化」全般、あるいは別を言い方をすれば、

    「日本人の心の中の米軍基地」

とも言える、残念な精神構造・「心の基軸」です。

この文脈でいつも思い出すものの一つは、1990年頃の日米貿易摩擦の時代に、(ソニーの会長だった)盛田昭夫氏と政治家の石原慎太郎氏によって共同執筆された「ノーと言える日本」という本です。当時プリンストン大学の大学院生だった私がこの本をどこで購入したかは覚えていませんが、何とか購入して興味深く読み、自分も「ノー」と言うべきときには

      「ノーと言える人間」

になりたいなと強く思ったことを覚えています。

ここのところの(=2017-10-19付けおよび2017-11-14付け)記事では、数学とは何か、あるいは数学と芸術等との関係について様々な考察を述べていますが、上記のような文脈で見ると、

   数学=人類の認識の仕組みの論理構造
   の解明はまさに、「ノー」と言うべき
   ときに断固たる「ノー」を突き付ける
   ための、一種の究極的な技術・手段

であるように思います。残念ながら、今日の日本の文化では、

   (過去あるいは現在の)欧米の数学界
   のエリートに対して、憧れの念を極める
   =諸手を挙げて究極的な「イエス」を
   発信することこそが「数学」である

かのような解説がなされることが多いような印象がありますが、私が強調したいのは、むしろ

  そのようなエリートのような相手に対して
  は、「ノー」と言うべきときに断固たる
  「ノー」を、数学を通して突き付けること
  こそが、数学の本来の精神であり、数学が
  果たすべき役割である

ということです。

また何度も繰り返しますが、様々な形態の「対欧米従属の文化」や「心の中の米軍基地」に対して、謙虚な姿勢で論理構造の解明・研究を遂行することによって「ノー」を突き付けることは、「拳を振り上げる」=「盾を突く」ような好戦的な姿勢として誤解されることもありますが、本当はそのようにすることは

   長期的には、日本のみならず、欧米を
   含めた人類全体にとって最も健全で
   建設的な道

になると、(様々な経験を踏まえて)強く感じています。

最後に、ここのところ報道等でよく話題に上る北朝鮮の核兵器の問題ですが、このような報道を見るといつも(改めて!)痛感しますが、

  人類にとって最も究極的な「武器」は
  やはり核兵器や化学・生物兵器等では
  なく、物事や仕組みの本質的な論理構造
  を研究し、明らかにすること、つまり、
  一種の広い意味での「数学」


ではないでしょうか。私は軍事の専門家でも、朝鮮半島情勢の専門家でもありませんが、北朝鮮の核兵器の問題を見ても、一見すると「核兵器」が問題の本質のように見えても、本当は「核兵器」も、今我々が生きている時代の様々な「非本質的な技術的な要因」によって偶々浮上した一種の「小道具」に過ぎず、「小国」の北朝鮮が世界の大国を手玉に取る「外交術大国」としての地位を固めることができたのは、「偶々浮上した小道具」の「核兵器」を利用する場面があっても、本質的には(核兵器そのものとは全くの別物である!)

   世界の大国の権力構造を支えている
   論理構造を正確に解明し、その盲点を
   突く技術が非常に高度に発達している


ことにこそ、主たる要因があるのではないでしょうか。


赤字や太字は私がつけたもの。気にしないでほしい。望月先生のサイトで読んでほしい。


(い)さて、面白い内容なので、いろいろメモしたいことがあるが、これはまたにして、

最初の英語で日本のことを表現しようとすると全部へんてこな色眼鏡のかかった濁った世界に代わる、という話、実に思い当たる。

私もユタにいた最初のうち、簡単なこと単純なことほどどういえばいいのか迷ったものである。

この手の話の一番最初は、やはり

発音上のrとlの区別のことだろう。

日本人はこれができないから劣っているとみなされがちである。

しかし、私のブログ1で「シッチン」、あるいは、「rとlの区別」で検索すれば、この話が出てくるはずだが、

シッチン博士が研究したように、古代シュメール語の世界まで遡れば、rとlの区別はまったくなくなるのである。

blood(血)とbright(明るい=聡明)は現代英語ではまったく違った意味の単語にみえるが、その意味の語源のルーツまで遡れば、ほとんど同じことになるわけだ。

なぜなら、金髪碧眼だったアーリア人の祖先であるシュメールの神々=ニビルの神々の血のことやその明るさをそういうふうに表現したにすぎず、br、blともに、後のインドのブラフマンや、ブリティッシュのブラとかブリと同じ意味だからである。

要するに、アーリア人の血がブラッドであり、アーリア人の見た目と頭脳がブライトなのである。


(う)英語にはこういうふうな人種的な優先順位が音の響きに込められているが、我々日本人にはそういうことは理解できない。

たとえば、日本をJapanと書いた場合、日本人を意味するJapaneseという英語には、「人」を表すのに使われる英語の4つのやり方の1つだけが使われている。

Japan+ese =Japanese

Japan+ish= Japanish

Japan+a=Japana or Japanica

Japan+ian=Japanian or Japanan

この違いが見てくれの違いだとわかるだろうか?

Japanese→日本に住む黄色いやつら

Japanish→日本に住む俺らと同じやつら

Japana→日本に住む黒い奴ら

Japanian→日本に住む何かわからないやつら(ヒトモドキ=亜人種)

我が国にいるハーフタレントは真ん中の意識をもって過ごす。だから、非公式のハーフ会を開き、そこでいつも日本人の悪口をいったり、バカにして過ごしている。

同様に

Chinese→支那に住む黄色い奴ら

Korean→朝鮮に住む何かわからないやつら(ヒトモドキ=亜人種)

語頭と語尾でそうやってイメージを伝えるわけである。


こんなふうなことが英語には入っているために、英語で表現すると、軒並みあらゆることにバイアスがかかってしまうのである。

単に音としてみれば、一見無意味になるが、西洋白人種にだけはそのイメージが正確に伝達されるような仕組みになっている。

こういう歴史的な異物が英語世界には縦横無尽に入り込むために、こういうことに我慢ならない精密な思考をもつ人間は英語を嫌うわけである。西洋人でもそうだ。

だから、西洋人でも日本語好きもいる。


こういう流れが分からない、村上春樹とか、イシグロのような人がノーベル賞にもてはやされる。あるいは、映画では北野武がカンヌ映画祭でもてはやされるわけだ。

彼らからすれば、日本人が日本人を小馬鹿にしている様がおもしろい、痛快なわけだ。


さて、そんなわけで、

欧米の白人種が英語を子供の頃からごく普通レベルの成人として身につければ、それは

英国の1700年の歴史+その英国人子孫の人生=1700+80年=1780年

ということになる。つまり、白人が英語を話せば、英国の伝統的人間に育つ。

そこへ、日本人が英語を身につける場合は、

英国の1700年の歴史+その日本人子孫の人生=移民新参者の人生=80年

ということになる。つまり、我々日本人の子供がいつ英語を学んだとしても、その時のニューカマーとしてしかならないのである。

ところが、もし日本の子供が日本語を身につけると、それは

日本の2700年の歴史+その日本人子孫の人生=2700+80年=2780年

になる。つまり、自分では当たり前のごく普通の日本人にすぎないと思ったとしても、海外の人間には、2700年の世界最古の国の国民と見えるわけである。

英語には英語の歴史がひそんでいるように、我が国の日本語には、ここ数千年のアジアの歴史が込められている。

単に日本語は、日本だけの話ではないのである。


ところが、こういうことをまったく考えない、あるいは、考えると発狂する在日系の入った文科省の役人たちは、むりやり英語の早期教育に走ったというわけである。

我が国の教育システムは、

戦前の素読教育→戦後詰め込み教育→ゆとり教育→英語早期教育→

とますます日本語軽視に走ってきたが、この流れの意味は、

外人優遇教育=自虐史観育成

にあったわけである。


というわけで、やはり望月新一博士は厳密な思考を基盤にする数学者である。岡潔と同じで、非常に物事を精密に理解する事のできる人らしい。

実にすばらしい。

今後の活躍を期待したい。

望月先生はまだ独身で、新垣結衣さんが好きらしい。いろんなテレビ番組からも出演依頼が来ているらしいから、ぜひ新垣結衣さんが出るはずの紅白の審査員とか、そういうものは拒絶しないで御出になられた方がいいのではないだろうか?

俺個人的には、ぜひかつてのイギリスのケインズのように、新垣結衣さんにプロポーズなんていいと思うがナア。


いやはや、世も末ですナ。





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by kikidoblog2 | 2017-12-21 10:11 | 望月新一・心の「一票」

「新一の『心の一票』」:「心壁論」と、論理構造の解明・組合せ論的整理術を「心の基軸」 とすること1   

みなさん、こんにちは。

(あ)ここ毎日数学者の望月新一博士
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の私的ブログ
新一の「心の一票」
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を読んでいるのだが、実に興味深い。

今回は以下のものをメモしておこう。今年の最後のエッセイである。これはかなり長い。しかし実に興味深い観点が述べられている。

「心壁論」と、論理構造の解明・組合せ論的整理術を「心の基軸」 とすることの本質的重要性

まず、先日(=2017-11-14付け)の記事の幾つかの要点を復習したいと思います:

・異質な者同士の間に「壁」を設定することは重要ですが、一方で、その「壁」を通り抜ける力のある「心」も重要です。この考え方や関連したテーマの考察を以下では「心壁論(こころ(ある)かべろん)」と呼ぶことにします。

・逆に十分に異質な者同士の間に適切な「壁」を設定しないと、当事者の手に負えない複雑度の爆発が発生し、当事者同士の間の認識解像度が著しく低下することによって通常の人間らしい社会が破綻してしまうような状況に追い込まれてしまいます。これは政治的な問題、あるいは語学力の問題として誤解されがちですが、問題の本質は状況全体の論理構造にあり、一種の数学の問題として理解されるべき事象です。

・以前から感じていることの一つですが、古くから伝わる物語や、芸術作品等、様々な文化遺産は実は、現代数学で用いられるような定式化の技術がなかった人たちが、直観的に感じ取っていた何らかの数学的な原理を表現し、記述するために創作したものではないしょうか。例えば、「バベルの塔」の物語では、まさに異なる民族や言語圏の人たちの間に本来存在する「壁」を無理に廃止し、一つの「組織」に纏めようとしても、複雑度の爆発によってその組織が必然的に空中分解し、バラバラになる状況が描かれています。

・「バベルの塔」の物語に対応する現代数学の原理と言えば、「​ラッセルのパラドックス​」が頭に浮かびます。ラッセルという数学者は実際、様々な場面において人と人の間に本来存在する様々な種類の「壁」=「プライバシー」を取っ払うことに対して強い拘りを持っていたようです。

・一方、私の研究(=宇宙際タイヒミューラー理論=「IUTeich」)では、特定の対象(=「フロベニウス的」な対象)が通り抜けることができない「壁」を設定することも重要ですが、その「壁」を通り抜ける力のある「心」(=「エタール的」な対象)を活用することによって非自明な帰結=定理を証明することができることも重要なポイントです。この、定理を証明するという、言ってみれば、とてもめでたい「ハッピーエンド」がIUTeichにおいて実現できることは、(「空中分解・離散」や「矛盾」のような)悲しい結末が描かれるバベルの塔の物語やラッセルのパラドックスと決定的に違います。実際、IUTeichは、「壁」と「心」を適切に設定し活用することによってラッセルのパラドックスに出てくるような矛盾的な状況を、矛盾を生じることなく「シミュレート」=「仮想的に実現」しているという見方ができます。言い換えれば、IUTeichは、「壁」と「心」を適切に設定し活用することによって、バベルの塔の物語やラッセルのパラドックスで描かれている状況に対して、これまでになかった種類の「成功例」を抽象的な数学的な理論の中で初めて実現しているという見方もできます。

・先日(=2017-11-14付け)の記事の最後辺りでは「Cドライブ・Dドライブ」に関する話が出てきます。一見すると、「心壁論」とは直接関係のない話のようにも見えるかもしれませんが、OSが収容されるCドライブと、データの保管用のDドライブの間にあるものはまさに一種の「壁」であり、パソコン全体の動作に必要なCドライブとDドライブの間のデータのやりとりが適切な形で行なわれる仕組みはまさに(「心壁論」における)「心」に対応するものと見ることができます。

・以前(=2017-05-06付け)の記事との関連性について少し解説してみますと、その記事では不適切な評価基準・「物差し」によって様々な社会的な損失や貧困が、不必要かつ大量に生じてしまっている社会的状況について論じましたが、このような不適切な評価基準・「物差し」は、(上記の「バベルの塔」・「心壁論」関連の「用語」で言うと)

   まさに心ならずも発生してしまった
   複雑度の爆発を何とか抑制し、簡明
   な「線型的」な秩序を確立するため
   の(不適切かつ極めて非建設的な!)
   措置として講じられる


ことが、一つのありがちなパターンの社会的力学として、人類社会では古代から定着しています。

今回の記事では、上で復習した「心壁論」の延長線上にある、幾つかの補足的な観察や具体的な事例について考えてみたいと思います。

先日(=2017-11-14付け)の記事では、米国や英語に関連した「心壁論」も展開していますが、だいぶ前(=2017-01-04付け)の記事で言及した水村美苗さんの「私小説」でも、米国の社会についてまさにバベルの塔のように、「複雑度の爆発」によって様々な深刻な不具合が発生している状況が描かれています。後、この水村美苗さんの「私小説」の関連でもう一つ思ったことですが、水村さんは子供(=12歳)のときから(親の事情により)米国にずっと在住していて英語に関しては(一般の日本人等と比較して)語学力の問題が全くなかったわけですが、それにも拘わらず、

 (*) 言いたいことが山のようにあって、
  しかも、それを何としても日本語で表現
  しないと気が済まない


ということについては非常に強烈な熱意に燃えていた方のようです。水村さんは様々なことについては私とはだいぶ違うタイプの方だとは思いますが、少なくともこの点(=つまり、(*))については私の気持ちや精神状態とかなり重なるところがあることは実に興味深いように思いました。この点では、非常に格調の高いイギリス英語で文学活動を行なうことに対する拘りが目立つ、最近話題の日系英国人作家カズオ・イシグロ氏と比較すると、かなり根源的な人間性の違いを感じます。イシグロ氏は私と同じ5歳のときに初めて英語圏で暮らすようになったわけですが、私の場合、(一般の日本人等と比較して)語学力の問題がなくても、米国の学校での科目としての英語や米英文学の授業がいつもとても苦手で、自分にとっては「天敵」のような存在として認識していました。(ただし、誤解がないように書いておきますと、サボっていたわけではなく、いつも頑張ってよい成績をとっていました。)別の言い方をすると、自分の子供のときの様々な経験を思い出すと、(お互い、置かれていた状況が違っていたかもしれませんし、安易な比較をしてしまうと、様々な問題点を指摘されそうですが)イシグロ氏のように英文学に対して憧れの念を抱きながら育つという精神状態・精神構造に対しては非常に強い違和感を覚えますし、全く理解できません。私の感覚では

 英語を通して記述される世界には、「色眼鏡」
 のように、英語圏の文化や世界観を反映した、
 著しく濁っていて有害な「歪み(ゆがみ)」


が常に掛かっていて、子供の頃も今も、その歪みから解放される=その歪みと自分との間に分厚い壁(=この場合、「国境」)を確保することに対する強い意欲・「飢え」を抱えて生きてきました。

子供の頃から認識していた、無数の具体例から一つ分かりやすいのを挙げてみますと、例えば、日本人の日常生活では当たり前な風景である「海苔ご飯を箸で食べる」ということを英語で表現するとなると、「海苔」を「シーウィード=つまり、海の雑草」、「箸」を「チョップスティック=ものをつついたり刺したりするための木の棒のようなイメージ」というふうに表現するしかなくて、全体としては「未開人どもが、木の棒を使って、そこいらへんの海に浮かんでいた雑草のようなゴミをライスとともに、未開人っぽい原始的な仕草でもくもく食べている」といったようなイメージに必然的になってしまいます。これは単なる一例に過ぎませんが、全体的な傾向としては、日本・日本語では大変な品格があったり、溢れる愛情や親しみの対象だったりする事物が、英語で表現した途端に、「どうしようもない原始的な未開人どもが、やはり原始的な未開人どもらしく、世にも頓珍漢で荒唐無稽なことをやっているぜ」というような印象を与える表現に化けてしまいます。過敏と言われるかもしれませんが、私は子供のときから英語のこのような空気に対しては非常に強烈なアレルギー体質で、自分たちがどれだけ根源的にコケにされているか全く自覚できずに英語や英語的な空気を浴びせられることに対して憧れのような感情を抱くタイプの日本人の精神構造が全く理解できません。

少し話しが変わりますが、自分の学生(=修士課程や博士課程の大学院生)が英語で論文を書くときの指導の様子や方針について言及したいと思います。そのような指導をするときの「定番の話題」として、定冠詞・不定冠詞が付くか付かないか、単数形にするか複数形にするか等、英文を作文する際の「お馴染み」のテーマがありますが、私がいつも強調するのは、英語の語学的な技術的な側面等、

  無数の非論理的な慣例や不具合・「歪み」
  を抱えた自然言語に過ぎない

       「英語」を忘れて、

  数学的な内容の

        論理構造や
      「組合せ論的整理術」

  (=議論や解説を細かく分割してその部分
  部分を最適な順番に並び替えたりすること)

に集中することの本質的な重要性
です。つまり、このような作業の指導をする際のありがちなパターンですが、複雑な議論を上手く表現できなくて可笑しな意味不明な文章を書いたとき、学生は自分の語学力が不十分であることに原因があると訴えて、悲鳴を上げたりしますけれども、意外に思われるかもしれませんが、意味が通じる論理的な議論を書く上での本当の勝負どころは、語学力にあるのではなく、むしろ、英語を完全に忘れた精神状態で、表現しようとしている論理構造を適切に分析して分割し、議論の論理構造が追いやすい順番に並べて最適な仕組みで整理することにあるのです。その(英語とは本質的に無関係な!)作業さえきちんとできていれば、(数学の場合)数学記号や、比較的簡単な、決まったパターンの英語の表現を使うだけで、立派な文章を作文することが十分に可能なのです。しかも、論理構造が透明な、理路整然とした議論さえ書けていれば、偶に定冠詞・不定冠詞、あるいは単数形・複数形のミスがあったりしても、英語圏の読者から見てもそれほど理解の障害にはならないのです。先日(=2017-11-14付け)の記事の最後辺りで展開した「Cドライブ・Dドライブ」の観点で説明すると、学生だけでなく、多くの日本人は

 英語を勢いよく自分の脳の「Cドライブ」に
 詰め込むことこそが「幸せへの究極的な近道」
 と誤解しがち

ですが、私の無数の経験から言わせてもらいますと、

 英語を自分の脳の「Cドライブ」に詰め込む
 ことは実際にはむしろ、大変に危険であり、
 むしろ「不幸への暴走特急」

にしかなりません。つまり、

 脳の「Cドライブ」に最優先で搭載すべきOS
 はむしろ、ことの論理構造を見極め、その論理
 構造を上手く分割したり整理したりするための
 「組合せ論的整理術」を効率よく実行する仕様
 のOS

なんです。
  
上述のような英文添削の文脈ですと、いつも思い出すことですが、英語に出てくるような定冠詞・不定冠詞は、日本では「欧米文化を代表するような事象」として見做されがちですが、古代や東欧まで視野を広げてみますと、

・ラテン語には定冠詞も不定冠詞もない、
・古代ギリシャ語には不定冠詞がない、
・(現代)ロシア語には定冠詞も不定冠詞もない


等、多くの日本人の感覚とだいぶ違う実態が浮かび上がってきます。また、ラテン語の場合、標準的な語順は日本語と同じ「SOV型」(=主語 (Subject) - 目的語 (Object) - 動詞(Verb))となっていて、日本語の感覚からすると強い違和感のある英語の「SVO型語順」と違います。子供の頃(=10歳前後)の私には、このような文法的特徴を持ったラテン語やギリシャ語はとても魅力的に映り、

 十分に古い時代まで遡りさえすれば、英語の
 ような現代のヨーロッパの言語が日本語と
 繋がっている世界を発掘できるかもしれない


といったような感覚から、15~16歳の頃(=プリンストン大学の学部1年生の頃)までラテン語とギリシャ語の他に、印欧語族の中でも最も古い言語の一つであるサンスクリット語をかなり熱心に勉強しました。

なお、この定冠詞・不定冠詞の話題をするときにいつも思い出すもう一つの重要な側面は、

      一神教・多神教との関係

です。この側面は私の研究IUTeichの中でも重要な役割を果たす数学的な概念である

         基点や宇宙、

あるいは、より初等的な数学でよく出てくる概念である

          座標系

というものとも密接な関係
にあります。その関係を一言で説明することはなかなか難しいのですが、現代の一神教の欧米の文化では、

   「たった一つの神しか存在しない」

ことになっているのに対応するように、

  「たった一つの、がっちり決まった物事
   の考え方=座標系=基点=`心の基軸’」

の下で思考する文化が徹底されています。このような全体的な文化的な状況は、定冠詞・不定冠詞が付くかどうかの基準となる、

    言語空間で許容されている表現
    のイメージの、一つのがっちり
    決まった「座標系」

と符合します。一方、日本のように「多神教」(=神道の「八百万の神」)系の文化的環境ですと、そのように

   許容される表現のイメージ全体に一つ
   の固定された「座標系」を敷き、表現
   のイメージ全体を通して

      同一の「座標系」=「視点」
     =「声」=「神」=「心の基軸」

   しか認めないという姿勢を徹底する
   ことにはどうしても強い違和感を覚える

ため、定冠詞・不定冠詞が付くかどうかの判断基準となるものが見当たらず、付くかどうかさっぱり分からない、判断のしようがない、という精神状態からいつまで経っても抜け出せないでいることになってしまいます。


(つづく)







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by kikidoblog2 | 2017-12-21 10:08 | 望月新一・心の「一票」

「新一の『心の一票』」:「心ある壁」を構築し、維持することの重要性   

みなさん、こんにちは。

(あ)ここ毎日数学者の望月新一博士
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の私的ブログ
新一の「心の一票」
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を読んでいるのだが、実に興味深い。

今回は以下のものをメモしておこう。
「心ある壁」を構築し、維持することの重要性

先日(=2017-10-19付け)の記事の最後辺りの「友好的な姿勢を保ちつつ、一定の距離を置く」という話ですが、そのような考え方の背後にある様々な考察についてもう少し詳しく解説してみたいと思います。

私は旅行や国際交流がとても苦手で、何十年にもわたり、基本的には自宅や研究室に閉じこもって数学の研究に打ち込む生活を送ってきた人間ですが、

    何で旅行や国際交流が苦手か?

と、様々な場面で交流のある方からときどき聞かれます。

先日、ネットで偶々目に留まった、(日本語ができる外国の方と思われる方による)「つぶやき(ツイート)」

 『どうも日本の人は「自分がアジア人で
  ある」ことがピンとこないらしいのね。
  不思議』

に、私が感じている非常に本質的な問題性が集約されているように思います。

私の場合、アメリカに在住していた頃、世界中のいろいろな国の方=欧米露中韓印等々、と交流がありましたが、双方がどんなに流暢な英語を喋ることができてかつ、いわゆる「悪意・差別意識」がなくても、お互い住んでいる

        「精神世界

が違いすぎて、私としては、無理のない範囲内における友好的な関係を築くこと自体は結構だとしても、最終的には、

  「国境・国籍を放棄する
    =その人を自分と同じ国の人に思う」

あるいは、別のもう少し具体的な言い方をすると、

   「その人を(自分から見て)‘外国人
    =異邦人’と呼ぶ(=として扱う)
    権利・権限を放棄する」

ことだけはどうしても承服できず、それだけは少なくとも自分としては、

    「どうしても譲れない一線

であるように非常に強く感じました。上記のツイートの外国人のように、多くの欧米人は、日中韓、あるいは場合によっては南アジアや東南アジアの人まで一緒くたにして「みんなどうせ同じアジア人だ!同じ有色人種だ!」というような思考回路で考えたがるところがあって、私の場合、そういう空気はどうしても生理的に受け付けられない=非常に強烈なアレルギー反応を起こしてしまいます

また、関連した現象ですが、私の場合、アメリカの高校や大学で(直接的な意味で)よく経験しましたし、(インド人等の知り合いを通して)第三者としても目撃したことがありますが、

   「ザ東洋人男性」(=例えば
         「チン」という名前の)

というような形で、別々の個人を別々の個人として認識できずに、「同一の生命体」としてしか認識できない欧米人が意外と多いです。

つまり、もっと具体的にいうと、例えば、高校では同じ寮の中に、韓国系やタイ系の人がいたりしましたが、私たちが別々の個人であり、同一人物ではないということを何度説明しても間違えられたり、大学ではよく知らない人からまるで親しい知り合いかのように(誤認されて)話しかけられたりしました。

少し話が変わりますが、よく旅行や国際交流に対して積極的な姿勢をとりがちな方を観察していると、自分との対比で、双方の活動(あるいは生き方全般にも言えるかもしれませんが)の一つの基本的な違いとして、次のようなことが挙げられるように感じることがあります:

  そのような方は人類の様々な既存の文化を
  堪能し、満喫する(あるいは仕事等では、
  整理し、演出する)

ことを目的とした活動をされている(ように、少なくとも私には見受けられる)のに対して、私はむしろ

 既存の文化の流れを(「邪魔」、「障害物」
 として認識し)なるべく自らの個人的な世界
 から排除し、自力で新しい文化の流れを自ら
 の手で創作する

ことに対して非常に強い拘りを持っている人間です。この人間性の違いはそのまま、「旅行」や「国際交流」、「新しい生活環境を体験する」ことに対する、双方の(それぞれ、肯定的な、否定的な)捉え方に反映されているようにも感じます。

再び

    何で旅行や国際交流が苦手か?

という質問の話に戻りますが、一言で説明するのはなかなか難しいですが、先ほどの人間性の違いによって、そのような活動の

       「費用対効果」

(=「コスパ」)は、私の場合、非常に悪い
(=苦しいこと、強い不快感を覚えることが多すぎる割りに、プラス面・見込める収穫等が貧弱すぎる)というのは、一つの「端的な」説明の仕方だと思います。

例えば、多くの旅行好きな方から見ても、恐らく北朝鮮や、中東の戦闘地域は、「費用対効果」が悪すぎるのではないでしょうか。あるいは、多くの外国人(特に例えば、欧米の数学者!)から見て、日本に旅行することの「コスパ」が悪すぎて殆どしないのではないでしょうか。

一方、旅行好きの多くの方が旅行をする際に体験する(好感を伴う、よい意味での)刺激よりも

  遥かに凄い(=壮絶な!)景色の世界を、
    私は自分の心の中で旅している


(=例え、物理的な意味ではずっと同じ場所に留まっていても)ように、子供の頃から強く感じています。

更にもう少し分析を進めさせていただきますと、私の場合、旅行や国際的な状況が非常に苦手である基本的な理由の一つでもあり、またこれまでの様々な経験(=上記の「別々の個人を識別できない」という話もその最たる一例ということになりますが)を経て感じたことですが、お互いに語学力の問題が全くなく、かつ悪意(=差別意識等)が全くなくても、

  異国の人間を取り巻く状況や精神世界は
  単純な「データ」・「抽象的な論理体系」
  として扱うという立場で考えても、複雑
  度の「爆発」が圧倒的すぎて

      人類の脳の処理能力

  を遥かに超過してしまっているため、相手
  のことを、

       極めて低い解像度

  でしか認識・理解することができません。

一方、相手に対する

        「認識解像度」

が著しく低下してしまう(=つまり、画質の粗悪なパソコン画像のように)と、相手の「人間性」や「個性」が全く見えなくなってしまい、

 人間らしい社会生活が本質的に成り立たなく

なってしまいます。

つまり、言い換えると、ずっと長い間、様々な極めて残念な経験を経て感じたことですが、実質的な異邦人同士の交流の問題性・不具合等の本質は、(多くの米国人が主張したがる=誤解しているように)政治的な問題ではなく、また(多くの日本人が主張したがる=誤解しているように)語学力(=例えば、「英語力・英会話能力」)の問題でもなく、圧倒的な、爆発的な複雑度を擁する「データ」・「抽象的な論理体系」に対する

     人類の脳の処理能力の限界

にあるように強く感じます。別の言い方をすれば、本質的には

   一種の数学の問題

であるように思います。(因みに、「(多くの米国人が主張したがるように)政治的な問題ではなく、一種の数学の問題である」と書きましたが、このような文脈ですと、19世紀に米国のどこかの地方政府が「円周率(’π’)は3である」という趣旨の法律を制定しようとしたという有名な話を連想させられます。)

更にもう一つ、このような文脈でよく連想させられるのは、旧約聖書等に出てくる

       バベルの塔

の物語です。バベルの塔と言えば、最近、日本でもオランダの画家ブリューゲルの作品「​バベルの塔」​の展覧会が開かれたりして話題になっています。​百科事典​等で引くと、「バベルの塔」の物語は次のように要約されたりします:

 「この物語は,民族と言語の多様性を説明する
  と同時に、神と等しくなろうとする人間の罪
  を描いている。」

誤解がないように書いておきますと、私は別にキリスト教等、特定の宗教の教徒ではありません。しかし、昔から強く受けている印象の一つですが、

  多くの芸術作品や文学にしても、古代から
  伝わる神話や物語にしても、人間が直観的
  なレベルにおいて実質的に感じ取った

      一種の数学的な原理

  を(現代数学で用いられるような定式化の
  技術がなかったために)何とか後世に伝達
  できるように表現し、記述するための手段
  として創り出されたものが多いのではない
  でしょうか。

つまり、そのような様々な文化遺産は、

    一種の「数学的な予想」の宝庫

として捉えることが出来るのではないしょうか。

例えば、「バベルの塔」の場合ですと、

 全ての民族・言語の間の「壁」を取っ払い、
 一つの「塔」の中で「一本化」しようとして
 も、それは本質的に数学的に不可能であり
 (=つまり、「神」はそれを絶対に許容し
 ない)、どんなに努力して回避しようとして
 も民族・言語の多様性は必然的に発生する
 ものである

という、一種の「数学的原理」(=つまり、上で述べた「認識解像度」、「圧倒的な、爆発的な複雑度に対する処理能力の限界」に対応)を、古代人が表現しようとしていたのではないかと推測されます。

この「バベルの塔」がある意味、予想しようとしている=記述を試みている数学的原理に対応するものを現代数学の中に求めようとすると、「​ラッセルのパラドックス​」、つまり、

 「自分自身を元として含むような集合、例え
  ば、全ての集合をその元として含むような
  集合、は存在し得ない=即ち存在し得ると
  仮定すると矛盾が生じる」

で有名な、20世紀初頭の数学者ラッセルを思い出します。ラッセルと言えば、有名な著書「​結婚論​」で「裸を非とするタブー」を疑問視する(この点では、1960年代に流行したいわゆる「ヒッピー」の運動に通じるものがあるようですが)等、人と人の間にある様々な「壁」(=言い換えれば、「プライバシー」(!))を究極的な形で取っ払うことに対する強い拘り、趣向があったようです。

一方、私の研究(=宇宙際タイヒミューラー理論=IUTeich)では、「Θリンク」等、別々の舞台=「宇宙」の間に、通常扱う数学的な対象たち(=「フロベニウス的」な対象たちと呼ぶ)が「向こう側」に通り抜けることができない

     「壁」を設定する

ことが理論の重要なポイントであり、一種の出発点とも言えます。一方、壁を設定することが重要であっても、その

     壁の向こう側に通用する=
       通り抜けることができる

特別な対象たち(=「エタール的」な対象たちと呼ぶ)を扱うことも、理論の展開、特に最終的な定理を示す上においては必要不可欠です。

このIUTeichの枠組の根幹を形作っている数学的な状況は、「バベルの塔」やラッセルのパラドックスだけでなく、私の旅行や国際的な状況に対する消極的な姿勢や、米国での様々な経験に対する考え方とも密接に関係しているように思います。簡単に言ってしまいますと、私がこれまで経験してきた多くの場面では、

 国や民族、言語等の間に本来存在する「壁」
 =「プライバシー」が破綻しすぎていたため、
 そのようなものの間の

      「壁」に飢えている

 体質の生き物として育ってしまいました。

私の場合、米国や英語に対する壁にも飢えているわけです(=別の言い方をすれば、私にとっては、

 米国や英語こそ、一種の巨大な「バベルの塔」

ということになる)が、米国では、まさに自分から見て「異人」と感じる人たちに対する「壁」に飢えている人が非常に多いように思います。(もちろん、自分から見ての「異人」の定義は人それぞれですが。)まさにそのように「壁」に飢えている人たちが非常に多い(=圧倒的な多数派に迫る勢い?)からこそ、トランプ氏のような大統領がついに誕生したのではないでしょうか。また、先般のフランスの大統領選挙の際の右翼政党の集会で用いられた「我々は我々の国にいる」というスローガンを見ても、移民の多いフランス等、西ヨーロッパの国々の社会においても、類似の現象=「壁への飢え」が如何に「猛威を振るっている」かが窺えます。(因みに、誤解がないように書いておきますと、これら外国の政治家、政治運動については、私は批判するつもりも、賛同するつもりもなく、単に現象の分析を行なっているだけです。)

ただし、2017-10-19付けの記事の最後辺りにも書かせていただいた通り、(IUTeichの「フロベニウス的・エタール的」もそうですが!)「壁」=「距離」=「プライバシー」の設定も本質的に重要ですが、その壁の向こう側(にいる人たち)にも通用するもの=

  長期的な、安定的な平和を大切にする、
   全体的に友好的で開かれた姿勢、

あるいは別の(より「日本的な」)言い方をすれば、

 「お互い様」、「お世話様」といったような
 視点を忘れない、(壁を通り抜ける力のある)
 豊かな感情移入力に支えられた博愛と敬意の
 下で運用される壁を目指す姿勢

も本質的に重要であることを見失ってはいけません。

最後に、もう一つの重要なポイントですが、成人して、人間としての様々な基本的な感覚や行動パターンが完全に固まって=確定してから、上述のような(=「壁」の破綻から生じるような)厳しい状況に遭遇するのと、未成年としてそのような状況に遭遇するのとでは、決定的な違いがあるということです。上の「認識解像度」の話のように、IT関連の現象との類似で説明を試みると、パソコンの動作を本質的に狂わせる危険性のある悪質なウィルスが、

   (多くのウィンドーズパソコンでは
   「ただのデータ」の保管用に用意され
   ている)Dドライブ

に、まさに「ただの、とある抽象的なデータ」として取り込まれる(=「成人として遭遇」に対応)のと、

   (多くのウィンドーズパソコンでは
   オペレーティングシステム(OS)が
   収容されている)Cドライブ

に取り込まれる(=「未成年として遭遇」に対応)のが全然違うのと似たような現象であるように思います。

つまり、どんなに悪質で強烈な破壊力のあるウィルスであろうと、「ただのデータ」としてDドライブに取り込まれても、パソコンにとっては「痛くも痒くもない」、あくまでも「ただの、とある抽象的なデータ」に過ぎないわけですが、Cドライブに取り込まれて「やりたい放題」な状況でOSに直接作用し得るような事態が発生すると、パソコンの動作は非常に不安定な状態に陥ったり、場合によっては、パソコンそのものが簡単に、呆気なく破壊されてしまいます。

旅行等に対する私の拒絶反応のある側面も、まさにこの「Cドライブ・Dドライブ」の類似を通して理解することが可能であるように思います。


(い)いや〜〜、実に興味深い。実に面白い。

最初の方にある「精神世界が違いすぎる」という話は、まさに岡潔先生が1960年代、1970年代にさんざん言ったり書いたりしたことである。

岡潔先生の場合は、その「精神世界の違い」を

「情緒の有無の違い」

だと看過した。西洋人には「情緒がない」と。


ところで、この我々日本人が「情緒」と感じるものは、「日本語」の性質に深く結びついている

これを最初に見つけた人が、東京医科歯科大学の教授だった角田忠信博士で「日本人の脳」という本で初めて議論した。

要するに、「リン、リン、リン。。。」と鳴く虫の音を風流と感じるのは、日本人の脳をもつものだけなのだという研究である。

日本語をインストールして育った人と西洋語をインストールして育った人では、まったく物事に含まれる音の感じ方からして違うのである。

今のように英語の発音や聞き取りを良くしようとして、幼少期から(つまり、脳の臨界期12歳前から)英語の早期教育を始めた子供は、もう日本人の風流を感じなくなってしまうのである。

英語では虫の音は雑音にすぎない。なぜなら言語を意味する、シラブルがないからである。西洋語の場合は文字か雑音かはシラブルの有無だけで脳が認識する。

だから、一度英語の聞き取りがよくなってしまうこと=日本人の感性がなくなること、となるわけだ。

こういうことを角田忠信博士が科学的に証明したのである。そしてこれは大分前に英語圏の脳科学の教科書にも載っている。

これは岡潔先生がお亡くなりになられた後の1970年代後半の研究だから、たぶん岡潔は知らなかっただろう。

しかしながら、岡潔先生は角田忠信博士の研究が出るずっと前から、日本人と西洋人は言語から言語脳から脳みその使い方までまったく違うということを研究していたのである。

そして、極めつけは、世界認識の深さのレベルにおいて、世界中の人種を見事に分類していたというわけだ。

これについては、横山賢二先生のサイトを見ればいいだろう。
数学者 岡潔思想研究会
岡潔の生涯と思想(2)
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岡潔・数学・情緒( 13 )

岡潔は、人間の認識を、認識の「識」をとって、15段階に分けて考えた。

1〜5識=五感=視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚
6識=意識=思考
7識=自我=自我=無意識、潜在意識、第六感
ここまでが西洋人

8識=顕在識=アラヤ識
9識=真如=潜在識=悟り識=アンマラ識=仏教=支那の哲人
ここまでが支那人

10識=真情=日本人の心
ここまでが一般の日本人

11識=「時」への到達
12識=主宰性=天照大神と天月読尊の見神
13識=造化=神の視座
14識=帰趣=道元=時空を超越した神の視座
15識=内外=松尾芭蕉=時空を超越した神の視座と一体化
ここに到達したのは松尾芭蕉のみ


つまり、望月新一さんが「住んでいる精神世界がまったく違う」という意味は、岡潔の言葉で言えばこういうふうなことになる。

岡潔は晩年にこういうふうなところへ到達したから、まだ若い望月博士がこれから到達する可能性は高い。

ところで、私はこれを物理学者的に物質世界の話へ「射影して(→)」考えた。つまり、時空を超えた話を時空間の中に落として考えるのである。

つまり、精神世界の話を精神年齢の話にすり替えてみるのである。それでも多少はその陰の形がつかめる。
精神世界の高次元から4次元への射影である。

1〜3識→動物の精神年齢=3歳未満=無意識
4〜5識→人の精神年齢6歳未満=意識と感情
6識→人の精神年齢12歳未満=理屈→韓国人はここで止まる
7識→人の精神年齢18歳未満=理性→西洋人はここで止まる
8識→人の精神年齢30歳未満=親心
9識→人の精神年齢60歳未満=達観=長老→支那人は最大ここで止まる

ここから日本人のみ
10識=真情=日本人の心→一般の日本人はここで止まる
11識=「時」への到達
12識=主宰性=天照大神と天月読尊の見神
13識=造化=神の視座
14識=帰趣=道元=時空を超越した神の視座
15識=内外=松尾芭蕉=時空を超越した神の視座と一体化

とまあ、だいたいこんな感じだろうか。


(う)岡潔博士も数学者である。それも多変数解析論という分野を創始した。簡単に言えば、多次元空間構造の理論である。この意味で、数学的空間を考える望月新一博士と非常に近い。似ている。

空間を考える場合はそれをいったん超えなくてはならない。だから空間の専門家は空間をいろいろ作り直したりその内外から見たりということを経験する。

だから、こういうふうなことを考える傾向にあるのかもしれない。


さて長くなったので、一応ここままで。


いやはや、言語により考え方が違ってしまう=脳の使い方が違う、というのは、まあパソコンを考えれば分かるだろう。入れるOSのレベルに応じてできることが違うのである。

だから、むやみに英語OSを日本人の脳に入れると、東芝のパソコンにMacOSXを入れたような感じになる。

フリーズしすぎるんですナ。

ハーフタレントがしばしば黙る=黙り込む、返答が遅い、こういうのは、脳内で西洋人の脳みそ(ハード)を持ちながら日本語OSを使うとか、日本人の脳みそ(ハード)を持ちながら英語OSを使うとか、そういうところで、フリクション(摩擦)やコンフリクション(矛盾)を起こすからですナ。

だから、ローラ系のタレントのように、唐突におかしなことを言い出すわけだ。

彼らを見たら、言語の問題がどれだけ深いかよく分かるだろう。


しかしながら、在日朝鮮人系に乗っ取られたいまの芸能界では、そういうことを良いことだと真逆に理解するわけだ。これが朝鮮脳というものである。


いやはや、世も末ですナ。




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by kikidoblog2 | 2017-12-20 08:47 | 望月新一・心の「一票」

「新一の『心の一票』」:乃木坂46や欅坂46の歌詞に数理科学の本質がある!?   

みなさん、こんにちは。

昨日から数学者の望月新一博士
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の私的ブログ
新一の「心の一票」
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を読んでいるのだが、実に興味深い。

私より年齢がずっと若いということもあるが、素直に現代的世界観を現代的数学者の観点から眺めているさまは、これまた岡潔世代とは違った意味で面白い。

今回はこれをメモしておこう。

第67回NHK紅白歌合戦 (3)

まず、2年程前の話になりますが、2014年の年末にDIGAの全録機をネットで購入して偶々12月31日に届いたのですが、箱から出して初期設定を済ませるのに少し手間取って、やっと使えるようになったときには午後10時を過ぎていたと思います。「動作確認」のつもりで付けてみたら、ちょっとびっくりするような映像が目に飛び込んできました。何と、あの(iPS細胞の)山中伸弥先生らしき人物がNHKの紅白歌合戦の観客席に座っているではありませんか!確認してみたら、山中先生はどうも実際にその年の「紅白」の審査員の一人になっていました。山中先生が度々ニュース番組等に出演されているのを知っていたのですが、まさか「紅白」の審査員のような活動までされているとは、私にとってはかなり衝撃でした。私も以前から何度かテレビ出演の依頼がありましたが、全部断っています。山中先生の「紅白」出演を批判するつもりは毛頭ございませんが、とにかく自分だったら嫌だな、とても考えられないなと思いました。

私の場合、プリンストン(の大学・大学院)にいた頃(=1985年~1992年)は、当然インターネットというものはまだ存在しませんでしたし、ケーブルテレビで見られる日本の番組は非常に限られていました。その数少ない番組の一つが「紅白」だったので(多分)毎年見ていたと思います。京大の助手になって京都に住むようになってからはあまりよく覚えていませんが、20代の半ば頃までは時々見ていたような気がしますが、その後は見ていなかったと思います。つまり、上述の「衝撃の動作確認」は私にとって恐らく約20年振りの「紅白」になったと思います。

いずれにしても、その「衝撃の動作確認」がきっかけで、それ以降(の3回)は「紅白」を見ています。(ただ、リアルタイムで見るのではなく、数時間遅れで、しかも(長いので)適当に先送りしたりしながら見ています。)つまり、純粋に「営業」的な視点に立つと、山中先生の審査員としての起用によって私という人間に対する「集客力」が働いてしまい、結果的には私も「紅白」を見るようになってしまったということになります。

前々回の「紅白」(=第65回)では多分一番印象に残った演出は、(そのときまで関心がなかった)椎名林檎さんと、(80年代初頭の「セーラー服と機関銃」の頃から好きだった)薬師丸ひろ子さんだったと思います。前回の「紅白」(=第66回)も椎名林檎さんの演出が一番印象的でした。

一方、今回(=第67回)は椎名林檎さんの演出には(なぜか、上手く説明できませんが)余り関心が持てませんでした。今回一番印象に残った演出を列挙すると次の通りになります:

 ・欅坂46の「サイレントマジョリティ」、
 ・乃木坂46の「サヨナラの意味」、
 ・ピコ太郎さんのゴジラ撃退とそれに対する
  (審査員の)新垣結衣さんの反応。

もう少し詳しく説明しますと、まず3番目の項目ですが、昨年秋のドラマ「逃げ恥」がきっかけで今回審査員を務めた新垣さんに注目していましたが、残念ながら全体的に(=星野源さんの「恋」の演出のときも含めて)新垣さんの存在感が非常に薄くてちょっとがっかりしました。ただ、ピコ太郎さんのゴジラ撃退の歌のときの新垣さんの、笑いを堪えているような呆れた表情が印象的でした。



そもそもピコ太郎さんのあの間抜けな演技が何でここまで世界的に人気を博すに至ったか、私としては以前から不思議でなりません。ピロ太郎さんのゴジラ撃退の演出の中に、ピコ太郎さんの不可思議な人気ぶりこそ日本の芸能界にとっては正に一種のゴジラのような存在だ、というようなメッセージが込められていたかもしれません。

ピコ太郎さんの例の間抜けな演技



を見てちょっと思ったのですが(といっても、念のため、 本気で思ったわけではありませんが!)、私の場合、自分の研究の解説の仕方が世界的にこんなに不評なのに、何でこのピコ太郎さんの間抜けな演技がこんなに世界的に受けるのだろう、私も、ピコ太郎さん風に

 「アイ・ハブ・ア・ログ」、
 「アイ・ハブ・ア・テータ」、
 「ログ」、「テータ」、
 「ログ・テータ」

なんて歌ったら世界的に受けるのでしょうか。

いずれにしてもこの3番目のピコ太郎さんの場合は、どちらかというと、「逆説的」な意味で印象的でしたが、2番目の乃木坂46と1番目の欅坂46の方は、普通の肯定的な意味で印象的でした。乃木坂46も欅坂46も、名称は以前から認識していましたが、曲を聴くのも、演出を見るのも、センターの橋本奈々未さんや平手友梨奈さんの存在を知ったのも、今回の「紅白」が初めてでした。昔からあった「無邪気な少年」のような気持ちで楽しむことができただけでなく、若い頃の自分とはちょっと違う気持ちも芽生えているように感じました。それは一言ではちょっと言い表しにくいのですが、元気な若いメンバーたちの「キレキレ」の踊りが、一種の宗教的な儀式というか、「弾ける若き生命力の祭典」のようにも見えました。よく考えてみれば、「アイドル」の語源は正に「崇拝する対象」という宗教的なニュアンスがあるわけですが、今回の「紅白」のこれらの演出で私の目に眩しく映った「崇拝の対象」が、年齢の所為か、(「アイドル」の本来のニュアンスと思われる「異性としての魅力」から)「若き生命力」に移行しつつあるように感じました。
 
2番目の乃木坂46の「サヨナラの意味」については、ネット検索で見付けた動画の中で「紅白」の演出に一番近いのはこの動画



です。(ただし、「紅白」の演出になかった「ブランコ」という曲も後ろにくっついていますが。)一方、1番目の欅坂46の「サイレントマジョリティ」(以下では「サイマジョ」(='才姫'ならぬ'才魔女'?)と書くことにします)については、「紅白」に一番近いのはこの動画でしたけど、その他にもこのような拡大版



も見付かりました。

今回の「紅白」全体の中でも、私にとって圧倒的に一番印象的だったのは、この「サイマジョ」(=特に拡大版)の歌詞

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でした。「前置き」が少し長くなってしまいましたが、本当はこの歌詞こそが、今回の記事の執筆に踏み切った一番のきっかけでもあり、また記事の本題でもあります。

歌詞にそこまで感動した理由ですが、今でもまだ分析でき切れていないような気もしますが、大体次のような理由になります:

メッセージの方向性が昔とだいぶ違う:私はもちろん専門家ではありませんし、ちゃんとした系統的な調査をしたわけではありませんが、私の記憶では、本来アイドルが歌うような曲に込められたメッセージ(=若い世代に向けられたメッセージ)は、

 「社会の主流='群れ'について行け、ついて
  行けばこそ歌っているアイドルさんのよう
  な素敵な恋人が待っている


というような内容ではなかったのでしょうか。それに対して、「サイマジョ」の歌詞は正におよそ正反対のメッセージ、つまり、「群れについて行くな」 ― 歌詞のレベルでいうと、

 「この世界は群れていても始まらない」、
 「夢を見ることは時には孤独にもなるよ」、
 「誰もいない道を進むんだ」、
 「人の数だけ道はある」


― という内容になっていて初めて聞いたときは(よい意味で)衝撃でした。もちろん、「サイマジョ」の方が遥かに健全な内容になっていて、そういう意味では「サイマジョ」の対象世代の若い人たちは恵まれた時代に生まれたんだなと思いました。

メッセージの内容は本ブログの様々な指摘と重なる:先ほど引用した歌詞は(本ブログ)2017-01-02付けの記事の「隔絶した異世界=一種のガラパゴス」といったような理想、もっと言うと私がこれまで自分の研究、あるいは生き方そのものに込めた気持ちを奨励しているような内容とも言えますし、また

 「選べることが大事なんだ」、
 「人に任せるな」、
 「行動しなければNoと伝わらない」

といった歌詞は、(本ブログ)2017-01-04付けの記事の『私の「心の一票」』という項目で解説している考え方(=正に本ブログの名称の由来!)と見事に(!)重なります。

メッセージの内容は宇宙際タイヒミューラー理論の内容・'筋書'に見事に対応している:一般に、個人がどの程度

 「社会の主流=群れ」について行くべき

で、どの程度

      わが道を行くべきか、

つまり、この二種類の方針の「緊張関係」や「最適なバランス」というのはある意味、人類社会の「永遠の課題」とも言えますが、宇宙際タイヒミューラー理論(=「IUTeich」)の数学的内容の重要な部分に対応しているとも言えます。「群れについて行く」ことはIUTeichでは、

     「(数論的)正則構造

と呼ばれるものに対応していて、それぞれが「わが道を行く」という状況はIUTeichでは、

       「単解的構造

と呼ばれるものに対応しています。歌詞の

 「誰かの後について行けば傷つかない」、
 「その群れが総意だと、ひとまとめにされる」

という部分は、IUTeichの中で(数論的)正則構造が有効な(=「傷つかない」!)部分、つまり、「ホッジ劇場」と呼ばれる構造の内部に対応していて、この歌詞に合わせた、メンバー全員が腕を回転させる動きは、ホッジ劇場の内部において(=「群れ」!)が働くことによって成立する対称性に対応していると見ることができます。一方、

 「君は君らしく生きて行く自由があるんだ」、
 「大人たちに支配されるな」

という歌詞は、IUTeichの中で正則構造から決定的に離脱する部分、つまり、「Θリンク」と呼ばれる部分に対応していると見ることができます。ちょうどこの歌詞のところで、センターの平手友梨奈さんだけが拳を挙げる仕草をするわけですが、その拳を挙げる仕草の形状は(数学用語でいうと)「デルタ関数」(=一種の「デル杭」!)=「ガウス分布」によく似ていて、「ガウス分布」は正に「Θリンク」そのものといってもよいものです。また、

 「選べることが大事なんだ」、
 「人に任せるな」、
 「行動しなければNoと伝わらない」

という歌詞は、その正則構造から離脱する際、肝心な数学的構造は常識的なスキーム論(='人')任せにするのではなく、遠アーベル幾何やIUTeichで用いられるようなアルゴリズムとして明示的に記述するという'行動'を実行しないと、その肝心な数学的構造はΘリンクの向こう側には通用しない(='伝わらない')という状況に対応していると見ることができます。一方、歌詞に登場する「自由」や「夢」はIUTeichの最終的な帰結である不等式(=いわゆるABC予想やシュピロ予想の不等式)に対応していると見ることができますが、それを

 「あきらめてしまったら、
  僕らは何のために生まれたのか


という歌詞は、IUTeichを勉強する上において肝心なポイントである、

 「何でその'夢の不等式'が従うか分からなく
  なったときは、そもそも何のためにΘリンク
  を定義したのか、改めて思い出すべきで
  ある


という状況に見事に対応しているように思います。また

 「列を乱すなとルールを説くけど、
  その目は死んでいる

 「夢を見ることは時には孤独にもなるよ」、
 「誰もいない道を進むんだ」、

という歌詞は、

 「'夢の不等式'を導くには正則構造(='列')
  を('乱して')放棄し、通常のスキーム論的
  数論幾何の常識(='ルール')が通用しない
  単解的な道を進むしかない


というIUTeichの状況に(これまた見事に!)対応していると見ることができます。とにかく、歌詞が細部まで余りにも見事にIUTeichの理論の展開に対応していることに気付いたときはとても興奮・感動してしまい(かなり「特異性の高い」お正月休みの過ごし方だと思いますが)、その興奮・感動を読者の皆さんと分かち合いたくなりました!

最後に、ここまで来ると、改めて指摘するまでもないと思いますが、上記のような観察は、世界広しと言えども、私以外の人間が考え付くとはちょっと信じ難い、という状況を考慮すると、やはり(本ブログ)2016-12-18付けの記事の「特異性」の話にあったように本ブログの主の身元を隠す努力をすることには意味がないと思わざるを得ません。


御意!

こんな解説を匿名でお書きになられても、すぐに

「はは〜〜ん、この著者は望月新一博士だな」

とわかってしまうにちがいない。

この世界のどこに「宇宙際」とか、「IU Teich」とかの単語を用いることができる人がるというのか?

もし生きていればだが、せいぜい
グロタンディーク
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くらいのものだろう。が、すでにグロタンディークは何年か前にご逝去されてしまった。

ついでに最近私が勉強中の熱力学の話の中にもこういう「不等式」が現れる。

それは、

クラウジウスーデュエムの不等式(Clausius-Duhem's inequality)

というものである。

この不等式を定式化したのもまた、数学者だった。

古くはコーシーで、20世紀にはドイツ人のColemanとNollとアメリカ人のTruesdellという数学者だった。

これがエントロピー増大の法則の現代的な拡張であり、今では工学系の熱力学では必須事項になっているが、当の物理学にはいまだ常識になっていないという、どことなく望月新一博士の研究分野と似た状況に陥っている。

簡単な熱力学は、2世紀も前にカルノーによって作られた気体の熱力学エンジン理論をいまも教科書に使っている。つまり、いまだに「準静的過程」を基本にとる熱力学を使って、リアルタイムに変化する熱力学的現象に焼き直して(つまり射影して)使っているありさまである。

これが「正則構造」である。つまり、「準静的過程」が「正則構造」である。

しかし現実はどこにも正則な構造がない。

ゆえに、現実を理解するには、その正則構造をいったん崩して理解しないといけないわけだ。

というわけで、欅坂46の歌詞の構造は、私が研究中の非平衡非線形有記憶リアルタイムの熱力学理論、つまり「有理連続体熱力学」にも成り立ちそうに見える。

たぶんこんなふうになる。


「あきらめてしまったら、
  僕らは何のために生まれたのか」

という歌詞は、熱力学を勉強する上において肝心なポイントである、

何でその'夢の不等式'が従うか分からなく
  なったときは、そもそも何のためにエントロピー
  を定義したのか、改めて思い出すべきで
  ある



「列を乱すなとルールを説くけど、
  その目は死んでいる」
 「夢を見ることは時には孤独にもなるよ」、
 「誰もいない道を進むんだ」、

という歌詞は、

'夢の不等式'を導くには準静的(='列')
  を('乱して')放棄し、通常のカルノー的
  熱力学の常識(='ルール')が通用しない
  有理的な道を進むしかない



いやはや、乃木坂46とか欅坂46なんて単なる少女趣味のちょいワルオヤジ向けのアイドルで、俺は全く関心がなかったが、こうして望月先生の意見を見ていると、なんとなく実に深いいアイドルであるのかもなという気がしてしまった。

それにしても、こういう微妙なことに気がつく感性とか、そのいい意味での物事への半端ないこだわり、これまたかのグロタンディークに似ている。

グロタンディークの自伝も、まさにそういう話のオンパレードだった。


いやはや、世も末ですナ。






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by kikidoblog2 | 2017-12-19 10:16 | 望月新一・心の「一票」

「新一の『心の一票』」:数学者望月新一先生のブログ発見!2   

(つづき)


次のこのエッセイも面白い。

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報道の質と「研究する姿勢」の意味

日本の報道機関や政府の情報収集能力について(日本国内の)評論家のインタビュー記事等で「欧米と比べて幼稚で稚拙」といったような厳しい意見を目にすることが多いですが、(本ブログ)2017-01-04付けの記事で言及した「ビットコイン」や「ニューヨークで育つ」のような事例について少し見方を変えれば、次のような捉え方もできるのではないでしょうか:(合計で)18年間も米国国内に在住し、かつ如何なる隠蔽工作も行なわずに普通の市民生活を送っていた人間についてすら

 ・「そもそも米国のどこに住んでいたか」、

あるいは

 ・「どのような分野で活躍するのに必要な
   専門知識や資格を持っているか」

といったような、

  極めて基本的な情報を収集する能力が
  如何に米国の報道機関や知識人に本質
  的に欠如しているか、

その報道機関の関係者や知識人が自ら進んで

  「動かぬ証拠」をネット上で量産する
       「精一杯の努力」

を行なっていたことになります。

そういう意味では、トランプ氏の当選の可能性に関する報道 ― これは「現実逃避部門」においては歴史に残る一種の「不朽の傑作」だと思いますが ― と構図がかなり似ているようにも感じます。

別の言い方をすると、如何なる隠蔽工作も行なわずに(合計で)18年間、米国国内で普通の市民生活を送っていた人間に関する上記のような情報すら収集する「難易度」が高過ぎるという実態があるのであれば、米国と敵対している様々な外国政府やテロ組織(=つまり、様々な機密情報についてプロが徹底して隠蔽工作を行なっているような組織)に関する正確な情報を本当に収集できているのだろうか、甚だ疑問に感じます。
 
米国のエリートたちが世界全体にどれだけ多大な影響を及ぼす力を持っているかということを考えると、上記のような「現実逃避癖」の事例は最早「幼稚、稚拙」を通り越して、人類にとって(冗談で済まされるレベルの事象ではなく)深刻な「安全保障上の脅威」であるようにも感じます。実際、(私は決して中東問題の専門家ではありませんが、様々な報道から受けている印象では)中東での米国の様々な軍事行動の際、何らかの「善意」と「誠意」をもって実行しているつもりの作戦でも、無数の事実誤認や誤解・曲解等によって誤爆等、テロの温床を更に大幅に「温める」ような方向性の行動が多発しているのではないでしょうか。

私個人の話に戻りますと、私の研究に対する欧米の多くの数学者の非建設的と言わざるを得ない反応も上の様々な非数学的な事例と、ある意味では同じ系統の問題のようにも感じます。この問題ついては、私の2014年12月の報告書、フェセンコ氏の解説論文の最後の節辺り、それから私の解説論文の最後の節辺り等で詳しく論じています。簡単に要約すると、上の非数学的な事例と私の研究関連の事例の一つの核心的な共通項として挙げられるのは次のような状況です:

 ネットの普及が大いに影響している面がある
 と思われるが、世界中の多くの人は世の中の
 全てのことについて「満額回答がワンクリッ
 クで瞬時に手に入る」ことを要求したくなる

     「ワンクリック症候群

 のような症状を発症していて、謙虚な姿勢で、
 虚心坦懐に、よく分からない事象について時間
 を掛けて粘り強く勉強し、研究することの価値
 や重要性を見失ってしまっている。

2014年12月の報告書でも指摘しているように、このように謙虚に基礎研究をする姿勢の社会的な意義や価値は一般社会においてのみならず、数学界の中でも忘れ去られ掛けているように感じます。

以上の話について次のような纏め方もできるのではないでしょうか:中東での惨事等を受けて、世界中のイスラム教徒に対してジハードを呼び掛ける声が上がったりしますが、それに対して私は

 世界中の真実を愛する人たちに対して、(時間
 を掛けて謙虚な姿勢で粘り強く行なう)研究を

呼び掛ける存在でありたい
と思います。別の言い方をすれば、長期にわたって謙虚な姿勢で様々な個人的犠牲を強いられながらも粘り強く続行する研究こそ、「真の聖戦」ではないでしょうか。


我が国のNHKなど有名報道機関を自称する、メディアは、この情報収集能力を失い、ファルスニュースを捏造している米国報道機関の

下請け

になっている。情報の垂れ流しである。

だから、トランプ政権の側近から

NHKはフェイクニュースの日本のCNNだ

といわれるわけである。

フェイクニュース「NHKも」名指し バノン米元首席戦略官、会見で批判「日本のCNNに違いない」
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私がかつて「AERA」に出た当時、まだできたばかりのインターネットの2chで相当に書き立てられたものだった。

まだ一般人はネットなどその存在すら知らず、携帯電話もない時代だったから、書いているのは大学人だった。それも若手。

それでも誹謗中傷はひどかった。東北大学の数学科の掲示板が一番ひどかったが、さすがに望月新一さんはアメリカ生活が永く、仕事と個人の区別が明確である。公私混同はしない。

あれから20年。

いまでは猫も杓子もだれでもスマホでインターネットに書き込める時代になった。

だれしも一度、自分に対する誹謗中傷のような書き込みを読むと、だいたいその連中の取材能力のレベルが分かる。

ましてや一流の報道メディアがこれではどうしようもないわけである。

我が国のマスメディアが天の声として神様のようにして聞いている欧米メディアがもはやメディアの役をしていないわけだ。

そういうことを望月新一博士は自分への取材に関係して実感したわけである。

最後の部分も心強い。

「中東での惨事等を受けて、世界中のイスラム教徒に対してジハードを呼び掛ける声が上がったりしますが、それに対して私は

 世界中の真実を愛する人たちに対して、(時間
 を掛けて謙虚な姿勢で粘り強く行なう)研究を

呼び掛ける存在でありたい
と思います。別の言い方をすれば、長期にわたって謙虚な姿勢で様々な個人的犠牲を強いられながらも粘り強く続行する研究こそ、「真の聖戦」ではないでしょうか。」

すばらしい。


グロタンディークもそうだったが、岡潔もそうだったが、この望月新一博士もそうで、彼ら数学者という人種は権威をなんとも思わない。権力にまっこうからその頭脳で対抗する、こういう人が少なからず出てくる。

すぐに金持ちや権力者に迎合する物理学者とは違う。

長くなったので、他の記事はまた別の機会ということにして、オレ個人はかの美女由美かおるさんと数学者の秋山仁博士と結婚したように、

ぜひ望月新一博士は、新垣結衣さんと結婚してほしい。


まあ、エルディッシュ数の大数学者ポール・エルデッシュは、「結婚したら数学者として終わりだ」といって、生涯独身を貫いた。

まあ、数学者ではないスピルバーグには2回結婚して7人もの子供がいるらしい。だから、ユダヤ人の罠というわけではないだろうが、優秀な数学者の遺伝子はなかなか遺伝しないのである。


これに対して、20世紀の科学技術を作った、かのノーバート・ウィーナーは、「数学者の遺伝」をこういった。

数学者の遺伝には奇妙な傾向がある。

優秀な数学者の娘に優秀な数学者が婿入りするのである。

つまり、
「数学者が実の息子に遺伝するというのではなく、優秀な娘の配偶者として、義理の息子を得るという形で、自分の数学的才能が遺伝する」
と考えたのである。


いやはや、世も末ですナ。






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by kikidoblog2 | 2017-12-18 14:42 | 望月新一・心の「一票」