保江邦夫博士はどうして「保江方程式」を生み出せたのか?:俺の謎がついに解明!?   

みなさん、こんにちは。

今回は私個人の科学メモである。だから、一般の人には無意味だからスルーでよろしく。

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私は保江邦夫博士の大半の論文は読んだのだが、もちろん事細かなところまで全部理解できたわけではないが、非常に感銘を受けてきた。

また、保江邦夫師範としての合気道、愛魂道の本も得られるものはできるだけ読んできた。ほぼ9割は読み、8割は買って持っている。
保江 邦夫の著書


もちろん、その両方が書かれた
路傍の奇跡
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魂のかけら
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のような自伝ものも、またその後のリーマン面の向こうの話も読んでいる。

しかしながら、私になかなか分からなかったのは、保江先生がまさに学園紛争のドサクサの最中に東北大に入学し、そこで合気道を始め、ほとんど勉強できなかった、あるいは、勉強しなかった、そして勉強したのはせいぜい「ヒルベルト空間論」程度だったにもかかわらず、天文学科に進み、その後大学院を京大に変え、さらには京都は1年程度しかおらず、すぐに名古屋大大学院に変え、わずか2年で計8編もの素粒子基礎論から原子核および物性に至る広大の分野への応用まで含んだ確率論の大論文をものにし、わずか2年で大学院計4年でスイスの大学助手になったというのは、なぜ可能だったのか?

これがどう考えてもわからない。

岡潔の言い方を借りれば、「造化の仕業のゆえん」ということか?

ちなみに、岡潔のいう「造化」とは簡単には「神様」のこと、「創造主」の意味である。

常人の能力を持ってしてはこれほどの短期間にこれほどまでの広大莫大なる知識をかたや合気道を本格的にやりながらものにし、そればかりかその知識を知識とだけに留めるのだけではなく、よく咀嚼し自分の血肉に変え、自由自在に使えるものとする、そんなことは可能なのか?

少なくとも凡才の私の想像の域を超えている。

というようなわけで、以来ずっと私はその理由を考えてきたのである。

まあ、偶然なのだが、最近その理由が何となくわかってきた。

一言で結論から言えば、
保江邦夫先生はやはり運が良かった
ということである。
物理界の中田英寿だった
ということだ!

この意味は、「運が良かった」のは単にラッキーだったということではない。むしろ、その時代の歴史的な大きなうねり、それもこれからどんどん大きな波に変わるその波の端緒にうまく乗ってサポートされたという意味のラッキーである。

いくら波乗りサーファーでも風が弱く、大きなパイプラインの大波が来なければ、大サーフィンはできない。しかし、大風が来て目の前に美しいパイプラインを生み出す大波が来そうだとなれば、運よければその大波に乗ることが可能である。しかしそういう大波に乗るには、偶然であろうが、たまたまであろうが、狙ったものであろうが、何であろうが、その場にいなければならない。

そして、うまくその波に乗って乗り切るにはそれなりの才能も備わっていなければならない。さもなくばあえなく死ぬ。そういうものだ。

かつて、中田英寿がサッカーをやり始めた頃、幾度と無く、消えては灯され、消えてはまた灯されてきたのが日本サッカーのプロ化であった。そしてちょうど中田英寿選手が成人を迎える前にJリーグが発足。そして、ドーハの悲劇を迎えた。我が国はあと一歩何かが足らずにワールドカップ初出場を逃した。ほんの数秒の油断だった。それで英雄待望論が叫ばれ、若手育成や若手の才能に目が無くようになり、サッカー協会、サッカー選手全体で若手をサポートしようという空気が醸成されたのである。

そんなこれから起こるプロサッカーの一大ブームの起こるうねりの始めの段階で中田英寿が誕生したのである。だから、ティーンの中学生の頃にU15、U17、U20の代表、そしてU23五輪代表、そしてついに日本代表となって、ジョホールバルの歓喜の立役者になったのである。

この中田英寿の英雄伝、あるいは成功談、あるいはラッキー人生と、どことなく保江邦夫博士が重なるのではないか?

そういうことに私はつい昨日気づいたのである。

今回はこれを特にメモしておこう。

というのは、最近インターネットでOnsager-Machlup理論を調べていると、偶然何人かの昔の日本理論物理学者の研究がヒットしたのである。もちろん保江博士のOnsager-Machlup理論への確率変分学の応用の研究は周知していたからよく知っていた。

中でも以下の名の人たちが、ちょうど1970年代中頃から集中的にOnsager-Machlup理論をその一般化を目指して研究していたのである。

中野不二男博士、
豊田利幸博士、
富田和久博士、
長谷川洋博士、
中込照明博士(もちろん保江邦夫博士の盟友)
などなどそうそうたるメンバーである。

つまりこの1975年〜1976年頃にはすでにOnsager-Machlup理論の一般化の一歩手前まで行っていた。もちろん、その後未だに完成の域には到達していない。どこかでつまずいている。

この研究者たちの最もアクティブな時代と保江先生が大学院生になった時期はまさにどんぴしゃりで一致している。

その証拠も見つけた。これである。
1.No.367 確率過程論と開放系の統計力学 
Theory of Stochastic Process and Statistical Dynamics of Open Systems

2.No.405 確率過程論と開放系の統計力学2 
Theory of Stochastic Process and Statistical Dynamics of Open Systems 2

3.No.434 確率過程論と開放系の統計力学 
Theory of Stochastic Process and Statistical Dynamics of Open Systems


これは、当時新進気鋭の若手理論物理学者としてアメリカ留学から帰国された江澤洋博士が主催した「確率過程と開放系の統計力学」という当時の文部省の科研費で行われた集中的な研究プロジェクトである。1979年から1981年までの3年間行われた。

当時我が国には数人の統計物理学や確率論の大家が生まれていた。

久保亮吾博士(東大)、橋爪夏樹博士(東大)、森肇博士(九州大)、
富田和久博士(京大)、豊田利幸博士(名大)。

久保亮吾の「線形応答理論」、橋爪の「線形散逸理論」、森の「線形応答連分数理論」、富田の「非線形ゆらぎの理論」など。

そして数学の確率微分学の創始者、

「伊藤微分」の伊藤清博士。

そうした時代背景の最中にアメリカプリンストンから江澤洋博士が帰国。

一気に「確率論の理論物理学への応用」の時代が花開いた。この分野の研究者は日本全国、主に主要旧帝大系の国立大を中心に広く現れていたのである。

これが保江邦夫博士が学園紛争の最中に東北大に運良く合格したことが幸いした。

東北大にも確率微分学の研究者もいれば、京都大にも東大にも阪大にも名古屋大にも九州大にも当時はどこの大学にも「確率論」ベースの理論物理学者が存在したのである。

むしろ、当時の流行であって、
「確率論」を知らなければ日本人理論物理学者にあらず
の雰囲気すら存在したのである。そうだったはずである。

なにせかの東大の久保亮吾教授が「線形応答理論」を完成し、それが世界制覇した時代であり、飛ぶ鳥を射ん時代であった。理論物理や統計力学に古くからある「ランジュバン方程式」や「ボルツマン方程式」の基礎づけに数学の確率微分方程式の立場から再構成、再構築できる時代になったのである。

ましてや我が国にその確率微分方程式の創始者がいたのだ。

両者を合体させようとするのは当然であろう。そして、物理学のあらゆる分野にそれを拡張し、確率微分方程式の物理学帝国を作りたい。そういう時代背景があったのである。

この時代背景を理解せずして、なぜ保江邦夫博士が、東北、京都、名古屋と短期間で渡り歩いても何不自由なかったか、むしろどこに行っても皆から大歓迎のうちに研究できた理由が理解できないのである。

そしてこの雰囲気は我が国国内だけではなかった。

アメリカにはプリンストン大、高等研究所(アインシュタインのために出来た場所)にも数学分野でそういう空気があり、ヨーロッパはフランスやスイスを中心にそうした確率論、確率微分学の少なからず研究者がいたのである。

これが保江邦夫博士が短期間のうちにたくさんの知識をまるで息を吸うようにして吸収できた理由だろう。俺はそう確信したのである。

そういう時代背景があったればこそ、そのエキスパートたちでもできない問題が明確化した。それが「確率変分学」(と後に呼ばれることになる)の問題である。これを保江博士がスイスにいた頃、ドイツで講演をしに行く最中に額の裏に浮かび上がった「謎の方程式」
保江方程式
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の話に繋がったのである。

つまり、意識か、無意識かを問わず、保江先生の時代には、世の中の大半の理論物理学者たちが暮れても明けても寝ても覚めても「確率論」「確率微分方程式」と取り組んでいたのである。

いわば昔の1940年代の「イジング病」のように、当時1970年代は「確率論病」に侵されていたのである。

そういう大きな歴史的うねりと見事に合致し、大望を抱いた1人の若者がその地に入った。

それが保江邦夫博士だった。


それに反して、私が入った阪大の研究室では、金属水素の理論研究を行っていた。いくら重要な研究といっても主流ではない。だから、せいぜい国内にも海外にも数人程度の研究グループしかないというような分野だった。別にこういう研究はいつやってもいいのである。競争がないからだ。私はそこにたまたま入ったのである。

サッカーで言えば、これからプロ化を目指すと宣言した日本のサッカー界に、これから世界のトップを目指すという中田英寿が入ったというようなものであり、いくら同じサッカーチームでもアイスランドではだめなのである。

つまり、保江邦夫博士はある意味その時代の象徴の1人であり、時代の寵児だった。そういうふうに理解しないといけないのである。

だから、やっぱり保江先生はそのお返しをしないといけないのだろうと俺は思う。

しかしながら、その確率論のブームは突然にどこかに吹っ飛ぶ。病気が治る。確率論バブル崩壊である。

保江先生の留学中およびその帰国後の1980年代は世の中は半導体ブームに入る。物性理論のブームに変わっていくのである。なぜなら、1973年に江崎玲於奈博士のノーベル賞が決まり、その江崎玲於奈博士は当時のIBMワトソン研究所で年収1億をもらい豪邸に住んでいたのだが、さらに分子線エピタキシー技術を確立して2個目のノーベル賞の呼び声が高まった時代に変わったからである。

この分子線エピタキシー技術(MBE tech)がIC、LSI、マイクロチップの誕生を生み出し、アップルマッキントッシュのパソコン時代に変えたのである。

この結果、それまで手回し計算機の時代からパソコン計算の時代に変わり、だれでも微分方程式を解析的に解くのではなく、パソコンで図画できる時代、描画時代へと変貌を遂げ、その結果、マンデルブローのフラクタル理論、ファイゲンバウムのカオス理論、カウフマンの複雑系理論、そしてバラバシのネットワーク理論の時代に変わってしまったのである。

そんな中、経済活性にわく経済界では、株式市場が大きくなり、変動相場制に変わり、リアルタイムの取引の時代になり、理論物理学者も経済学者に転向する時代になった(アメリカの場合)。そして、かの70年代に花開いた「確率微分方程式」の手腕が、いつしかアメリカの経済学者の手により「株式市場を記述する確率微分方程式」「ブラック・ショールズ方程式」へと変貌を遂げ、大復活するのである。

おまけに、なんと伊藤清博士がノーベル賞ではなく、応用者にすぎなかったブラック・ショールズがノーベル賞を根こそぎしたのである。

そして、その後は再び今度は理論物理学者が経済学理論を研究する。


まあ、一言で総括すれば、やっぱり
昔はよかった
んですナ。





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by kikidoblog2 | 2016-02-18 09:45 | 個人メモ

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