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ついにネルソンの本が日本語になった!:「ブラウン運動の動力学理論」   

みなさん、こんにちは。

今回は私個人の回想メモのようなもの。知らない人には興味ない話だろうからスルーを。

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私が卒論を書いていたのは1980年の今頃のこと。もう35年以上も前である。

タイトルは「ブラウン運動の理論」であった。

当時、統計力学分野における「散逸揺動定理」を証明し、我が国の理論物理学界の重鎮、きっとノーベル賞を取るだろうと言われた理論物理学者がいた。それが東大の久保亮吾博士
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だった。

久保博士と橋爪博士らが編纂した「統計物理学」
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が岩波講座「現代物理学の基礎」から出たばかりだった。このシリーズはノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士の編纂である。

どうやら最近これが復刻され、新装版として再登場したようだ。
岩波講座「現代物理学の基礎」
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ちなみに、私はアメリカ留学前までこの本を持っていたが、留学直前に母校の高校に寄付したからなくなった。その後帰国後にまた理研に入った頃この本を買って持っていたが、理研を任期満了してここ阿南に来る前に理研に残る知人の生物学者になんでも持っていけと言ったら、この本と生物物理の本を見つけて持っていた。そんなわけで、以来ずっとこの本は持っていなかったのだが、昨年阿南高専の図書館で本の廃棄処分があるという時にこれを見つけてもらったのである。したがって、今では無事に3冊目としてこの本が手に入ったのである。

私がいた東京理科大学理工学部物理学科の卒業研究(卒研)室となった理論物理学の小口研究室では、卒論で何かの本を読んで、それをまとめるということを行っていた。卒研をどれで行うかのミーティングが開かれ、研究室のメンバー各人にそれぞれのテーマがアサイン(配分)された。

私が選んだのが、冒頭の統計物理学に含まれていた、久保亮吾博士の「ブラウン運動」の章だった。この章を徹底的に読んで調べ、すべての数式を導出ないしは証明すること。これが私の卒業研究だった。

ほとんど何もわからないから一から全部関係する文献を集めて読まなければならない。

ある程度読み進み、レポートにして先生に持って行くと、
ここの部分はもっとこうしたほうがいいかしら。
この式はちゃんと証明してほしいわね。
と言われて、再び「よ〜〜し」と気合を入れて頑張る。

この頃はすでにサッカーで生きるのを止めて、物理で行くという決心をした2年後であり、すでに阪大大学院入学が決まっていたから、まさしくサッカー選手の全勢力を物理のこの卒研に注いでいた。そして、すばやくこれを仕上げて、さっさと一路大阪へ行こうと考えていたのだ。

小口先生の話し言葉には極めて特徴があり、いわゆる「女言葉」をしゃべる。実にお優しい先生だった。どうしてそうなったのか知らないが、ちゃんとした男らしい風貌ながら、話す言葉は女性のように「〜〜かしら」「〜〜〜なのよね〜〜」というものだった。別に先生が今で言うゲイだったわけでもない。その頃の学生間の噂話では、先生には娘が3人。奥さんも含めて女4人の家庭。それが原因だというものだった。

実に切れ者の秀才であった。なにせ、1時間の講義をノートなしで始めるのだ。まったく何も見ずに、毎回授業時間すれすれかちょっと遅れてきて、いきなり黒板に書き始める。あとはずっと黒板に書いた式とその変形をこっちに優しい言葉で説明しながら、どんどん突き進む。そんな感じの授業であった。だから、一度受けた学生は「なんとまあ、あたまのいい人がいるものだ」とえらく感心するのである。

ゆえに、初めてこの小口先生の授業を聞いたまだ無知の学部生ごときの我々はすぐに大学院に行けば、もっと上に行けばきっとこの先生より切れるものばかりなんだろうなと錯覚してしまう。しかしながら、実際にここ何十年か見てきた経験を経た後の今では、そういう人はほんの一握り、めったにいないといまなら答えられるのだ。

こうやって無事卒論が終わると、本来ならだれもが卒業式に出るべきだったが、私は当時理論物理の学生によく見られるように、徹底的な唯物史観や左翼思想に染まっていたために、「卒業式なんてたいした意味は無い」と思って、卒業式はもはや出ないで、すぐに実家に引っ越し、大阪の下宿先の手配の方や引っ越しの準備にかかっていた。そして、卒業式の頃には、すでに大阪の阪大近辺をぶらついていたのであった。

そうして桜の咲く頃の大学院入学式を迎えた。流石に入学式はかかせなかった。というのも、オリエンテーションが必ずその後にあるからだ。まあ、当時の私は「飛ぶ鳥跡を濁さず」の精神を曲解していて、「飛ぶ鳥姿見せず」ないしは「飛ぶ鳥すぐ姿を消す」と理解していたようだ。だから、卒業式のことは卒業が決まれば次が大事で、終わったことは大した意味が無いと思っていたという有様だった。

この悪しき風習は残念ながらその後も続き、後に終えることになった阪大大学院、およびユタ大の卒業式にも出なかった。だから、いわゆる謝恩会というのはまったく未経験である。

そうして、ついに指導教官の中村伝教授のところで修士論文のテーマを決める段階がやってきた。そこで指定された日時と時刻にその研究室へ行って、
「君は何を研究したいのかね」
と聞かれて、
「もちろん、僕が研究したいのはブラウン運動です。ブラウン運動の量子版、もしあるとすればですが、それをやってみたいんです。古典力学から量子力学ができたわけですから、きっとブラウン運動も古典理論ですからその量子力学版もあるんじゃないかと想像し、それをやってみたいんです」
というような説明をした。

すると、教授は「ふ〜〜ん」と聞いていて、
「つまらんよ、君。そんなもんはつまらない。もうできちゃっているんじゃないかな。もっと別のテーマにしなさい。ブラウン運動はつまらんよ」
とご返答になられたのだ。

頭をガツンでハンマーで殴られた感じの私は、憤慨してカッと顔面が烈火のごとく赤らんだのを感じたのだが、その気配を察知した教授が「今度良さそうなテーマを持ってくるから今日はこれでいいから、帰りなさい」と言った。それですごすごと「偉いことになりそうだな」と考えながら、この5年が悪夢にならなければいいがという予感を感じながら大学院生の研究室に戻ったのだった。

実際、その後の阪大大学院生活はそれ自体はけっして悪いものではなく、いろんなことを学び遊び経験し、たくさんの友人や親友もでき、実にいい経験をできたすばらしい大学院生活を送れたのだった。が、こと研究に関して言えば、一番やりたかった「ブラウン運動」のことはまったく指導してもらえず、あくまで何かできるかと期待して、当時欧米ではこの分野で有名になっていた「ネルソン・保江の方程式」の論文をコピーして読んで勉強していたのである。が、あまり良くわからなかったというのが実感である。

あれから35年ほどしてその保江邦夫博士と知古になるという類まれなる経験(対談まで)して、その天才保江博士の若かりし頃の素晴らしい紫玉の名作の数々をここ2年ずっと勉強していたのだが、比較的最近までその保江博士の研究のきっかけとなったそもそものネルソン博士の講義録とは無縁だった。

ところが、最近は大昔の書籍がどんどんインターネットで見れるようになり、偶然そんなものを見つけたのである。ネルソン教授は比較的最近の2014年にご逝去された。だから、もう保江先生やそのお弟子さんのザンブリニ博士のようにエドワードと呼んでお会いすることは出来ない。

ならば、と一転して、ネルソン教授のその本をしっかり読みながら「日本語訳しちゃえ」とTeXに書き込みながら時間を掛けてゆっくりと読んだのである。

この分野の思想やオリジンはすべてこの中にある。もちろん、できていないことやまだまだこれからすべきこともはっきりと描かれていた。

もちろん、その中のいくつかをその後保江邦夫博士が完成したのである。さらにはザンブリニ博士がそれに続いた。いまも続けている。ちなみに、このザンブリニ博士はごく最近(昨年)我が国の京都の国際会議で招待講演されたようである。

あれから35年。

エドワード・ネルソン博士の講義録の名著がついに日本語となった。これである。
ブラウン運動の動力学理論
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今時、今の御時世では、物理や数学の専門書を好意的に出版しようという出版社はあまりない。大手はアニメや漫画の本などは作るが専門書はほとんど収益がないから作らない。だいたい500部から1000部あたりに採算ラインがあるようだ。だから数千部売れなければ利益がでない。しかし大学や図書館などはせいぜい500程度。これでは採算がとれずそもそも本はよほどのコネでもなければ売ってくれない。文科省から予算をとってそれを元手に大手から出版するというなら別だろう。

しかも、大学の図書館では古い本はすでに廃棄処分する時代である。大学、高専、1960年代〜1970年代以前の良書や古典がどんどん廃棄されている。そんな時代になった。

実は1960〜1970年代で実質上の科学の発展は終焉しているのだ。

ブラックホール、ヒッグズ粒子、ニュートリノを見よ。いったいこうした概念がいつ生まれたか?

みな1970年代以前である。いまは素粒子論者などやることがなくて困っている。やることがないから「超ひも理論」をやって数学者のような振りをしてなんとか食いつなぐ、あるいは、そんな実体のない荒唐無稽な理論が嫌いな連中が「量子脳理論」「量子場脳理論」をおっぱじめたのである。

かたや凝縮体理論や物性理論もみな1950年代以前に基礎は完成している。やっているのは応用でしかない。理論応用物理なのだ。あるいは、応用理論工学。もはや数理物理というよりは数理工学。こういう時代になった。

だから、そのオリジナルの時代の良書や古典をどんどん大学が廃棄している様は、スーサイド(自殺)にしかみえない。「大学の自死」である。いまは大学自体が自らアポトーシスしている最中なのだ。

だから、こうして1970年代前、1960年代の古典を出版する、ましてや日本語にする。こういう風潮は時代に逆行している。おそらくだれも読まないし、だれも読もうとしないし、だれも見向きもしないに違いない。

ならば、顔写真だけでもということで表紙は作者の写真入りにしてもらっている。

プリンストン大学のエドワード・ネルソン教授のふかすパイプの香りが伝わってきそうだ。その香りとともに、ネルソン教授の数学や物理学の香りもこの本には見事に伝えられている。

若き日に保江邦夫博士は、この本に巡りあった。これが保江の人生を決めたという。逆に、私は35年後にこの本に巡りあった。これもまた私の人生を決めた。良い本というものはこのように人の一生すら作用しかねないものなのだ。

さて、最後にもうひとつ。

かつて1905年(実際には1902,1903年頃から)にアルベルト・アインシュタインは「ブラウン運動」の理論を論文にした。当時はまだ原子論があったてもだれもその原子を見たものはなかった。あくまで理論上の仮説にすぎなった。

そこで26歳のアインシュタインは、
ブラウン運動の揺動(=ゆらぎ運動)を調べたら、周りにいる無数の原子の存在を理論的に証明できるのではなかろうか?
と考えた。そこで、ブラウン運動を通じて、周りにいる原子のアボガドロ数を数学的に導くことによって、間接的に原子論を擁護したのである。

このアイデアは当時の欧州の大御所たちに衝撃を与えたのである。もちろん、上のネルソン本にもこのアインシュタインのための一章が設けられている。

ネルソンの本の最終章は、ネルソンはそのアインシュタインの発想を1個の電子に応用し、量子といえども真空中で揺らぐことからそれを数学的に厳密化して現代確率論を用いれば、ブラウン運動する量子はシュレーディンガー方程式に従うことが厳密に証明できるということを行ったのである。

むろん、この場合に1電子に揺動を与えるものはエーテルである。この場合のエーテルは真空にあるとされる電子の場の揺らぎである。

つまり、エーテル中の1電子のブラウン運動と量子力学が等価であることを見事にシュレーディンガー方程式を導くことで証明したのである。

ということは?

もしいまアインシュタインの生まれ変わりがいたとして、その人がネルソンの理論を見たとしたら?どうなるか?

おそらくその若者には、ネルソンの電子が、アインシュタインの花粉からでる微粒子(=ブラウン粒子)に相当して見えるはずである。そして、アインシュタインにとっての未知なる粒子であった原子が、ネルソンにとってのエーテルの未知なる亜粒子となるはずであろう。

ということは?

仮にエーテルがエーテルを作る粒子のようなものがあったとして、そのエーテルの構成粒子(これにはまだ名がない。オムニトロンと名付けた人もいる)の存在を知るには、アインシュタインがブラウン粒子に対して行ったのと同じアイデアを用いればいいだろう。つまり、エーテル内の1ccあたりにどれだけのエーテルの構成粒子がいるかをシュレーディンガー方程式と等価であるはずのネルソン理論を用いて推定できるにちがいない。

はたして、こんなことを考えて実現する次なるアインシュタインは出てくるだろうか?


そういう日を期待して、ネルソン博士に乾杯。ご冥福をお祈りいたします。


おまけ:
実はお恥ずかしながらきわめてごく最近になって知ったのだが、その時代に我が国でこの「ブラウン運動」の物理学への応用をおこなっていたのが、保江邦夫博士が東北から移ったその先の京都大学だった。長谷川洋教授の研究室だった。今から思えば、むしろ保江博士より私のほうがその研究室でやっていることと私が当時やりたかったことが一致していたのである。保江博士はその後名古屋の高林教授の研究室に移動した。私も京都大学の大学院は受験したのだが、1問大きな間違いをしてあえなく不合格になったのだった。符号の間違いだった。その頃、こういう研究者間の事情を知っていれば、もっと注意深く京都受験をしたはずだったが、当時はすでに阪大が合格していたために、京大を安易に見ていた。今思えば、京都の長谷川研を目指すべきだった。ちなみに、私が今やっている研究がこの時代にそこでやっていた研究である。それをネルソン・保江流にやり直すことだ。ほぼ完成中。人生とは実に不可解なものである。



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by kikidoblog2 | 2016-03-03 11:17 | 個人メモ

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