岡潔「創造の視座」:「西洋人は第二のこころがあるのを知らない」
2016年 05月 13日
父の言葉(My father's words)
日本人が櫻が好きなのは其の散り際が潔いからである。
(The reason why the Japanese people love Sakura is the way of the great grace moment when Sakura's flowers are scatteredly falling by the wind.)
−− 数学者 岡潔(Dr. Kiyoshi Oka, a Great Japanese mathematician)
数学者 岡潔思想研究会
みなさん、こんにちは。
さて、いつものことだが朝鮮人と支那人のことをメモすると後味が悪くなる。運気も下がる。情緒が濁る。そこで、運気があがり、情緒もクリアになるようなことをメモしておこう。
もちろん、岡潔博士の話についてである。
大分前にブログ1で
岡潔「嬰児に学ぶ」:人には第二の心がある。そのふるさとは頭頂葉である。をメモした。
それから約8ヶ月経ってやっと新しいものが出てきた。以下のものである。
岡潔 「創造の視座」の解説
これは実にいい話である。と同時に「深い」。真の「深いい話」というものである。
ところで、私自身もそうだが、人間60近くになったりそれを超えると(まあ、人それぞれで人によっては20代30代でもそうなるようだが)、だんだん考え方が固くなる。つまり、固定化する。
アインシュタインのことを持ち出すまでもなく、1つのことに熱中しすぎてそればかりになると、「その中で生きる」ことになるが、自分ではそれに気づかないことになる。そういう危険があるわけだ。
かつてアインシュタインは比較的若い壮年の頃、こういう意味のことを言っていた。
仮に10年間一つのアイデアに集中していくらそれが美しいものであったとしても、実験や論理で否定されたなら、一瞬にしてそれまでの10年間の努力は無に帰す。が、それでも次の瞬間にはまた別のアイデアに挑戦すべきである。ところが、そのアインシュタインでさえも晩年になると、自分の相対性理論から一歩も踏み出す勇気がなくなったのだった。
有名な天才でもこういうことになる。同様にして我々凡人の場合もそうだ。
仮に私がここ数年ずっとHAARPモニターを観察し、釘付けになってきたからという理由で、
「俺がこの世界でHAARPに一番詳しい人間だ」とかそういうことを言い出したとすれば、俺はもう終わりである。
「俺しかHAARPを理解しているものはない」とか
いくらHAARPモニターで地震電磁波を認識する術を持ったからといって、それはみなに共有されるべき知識にすぎない。また、別に自分が作ったわけでもなし、所詮HAARPは道具の1つにすぎない。
だから、そういうことを言っても大した意味は無いのである。あくまで巨大地震の犠牲者を出したくないから私はHAARPモニターを観察し来ていたわけですナ。
ところが、人間、普通の人にありがちなことは、それを往々にしてその罠にはまる。サイトを有料化してみたり、自分が一番の専門家の振りをし始めるのだ。
いまの舛添要一都知事がそうだった。田原総一朗のテレビに出ていた頃には、こいつは自分が一番政治に詳しいと言っていた。そろそろ田原総一朗は任命責任で切腹したほうがいいんじゃないか?こんな怪物モンスターヒトモドキを世にはなった重大なる責任があるはずだ。
なぜそうなるか?
というと、自分が一番詳しいという気持ちがそうさせてしまうのである。これが我々が一番陥る危険なのである。要するに、いわゆる「専門家」になってしまうのである。
私がこのブログを「個人メモ」と言っているのはこの危険性を排除することが目的である。いつも自分自身が初心者だとして自分にメモする感じでメモする。
まあ、皮肉やジョークで偽の自意識過剰を演じることもあるが、例えば、
俺が一番この世の悪に詳しいとかナ、そういうのは余興にすぎない。
多くのブロガー、それもある程度有名ブロガーになるとこういう傾向が目立ってくる。だれとは言うまでもないが。そしてたいていは有料化する。
ここでも一回1円でも人は見るに違いないが、そうすれば1日1〜5万円の収入にはなるだろう。つまり、月30万〜150万円にはなるだろう。そうすれば、税金が来て国に貢献するだろうが、そうしようがしまいがやっていることは何も変わらない。つまり、グループ会社内で見せかけの売買して経常収支を増すというようなものにすぎない。むしろ、税務署の仕事も増えたり、お互いに面倒な時間と労働が増すだけになるわけだ。つまり、消費するだけ。
変な自意識が無駄金を要するわけだ。だから、金貸しは人の自意識をくすぐる。これが経済の原理。
さて、大分前置きが長くなり、しかも横道にそれてしまったが、今回の岡潔博士の話は非常に興味深い。これを公開してくれた横山さんに心から感謝したい。ありがとうございました。
そこで、全部は自分で読んでもらうことにして、ここでは私の特に面白いと感じたものだけいくつかピックアップしておこう。俺も自意識過剰気味だナ。
【4】 万葉の歌
日本は、明治以前と以後とでたいへん変わっているのです。明治以後の日本は、西洋の思想をとり入れ、その中に住んでいると申しました。日本語も、実質的には西洋の言葉になってしまっている。
終戦前、それもだいぶん前、物理の寺田先生がまだ理研をやっておられた頃の話ですが、その頃ドイツにオットー・ラボルテという理論物理学者がいた。まだ30前だけれども、スベクトル分析でたいへんよい仕事をした。それで理研はこれを招聘しょうへいした。ラボルテ氏は寺田先生の教室へ入った。
ところで、ここは俳句が盛んでした。みんな寄って俳句というものを教えた。そうして鎌倉へ旅行した。そうすると、ラボルテ氏は帰ってきて、みんなに俳句をよんだといって示した。その俳句が
「鎌倉に鶴がたくさんおりました」。
これではどうにも仕方がない。まるで俳句にならない。そう思うでしょう。これは欧米語ですね。
ところが、箱根の大涌谷に斎藤茂吉の歌碑が立っている。そこに刻んである歌は
「おのずから さびしくもあるか 夕暮れて 雲は大きく 谷に沈みぬ」
こういうのです。使ってある言葉は一見万葉の言葉です。ところが、その調子は非常に弱々しくて、万葉とは似てもつかない。
万葉は、こんな調子です。
「たまきはる 宇智(うち)の大野(おおぬ)に 馬並(な)めて 朝ふますらむ その草深野」
これは舒明(じょめい)天皇が宇智郡の野で狩をなさったとき、その皇后か皇女かが天皇の狩を思うておよみになった歌で「たまきはる」は宇智の枕ことばです。この草深い野の朝露のたまっているところを馬が並んでパッと走っている、いかにも馬が走っているという感じがする。
この強い調子に比べて斎藤茂吉の歌はなぜ弱々しいのだろうかと思ってみますと、斎藤茂吉の歌の骨格は「雲は谷に沈みぬ」と、それだけですね。自他対立している。自分はここに立っている。向こうで雲が谷に沈んだ。それに「大きく」という形容詞をつけ、「さびしくもあるか」と自画自讃しただけ。
骨格は「雲が谷に沈んだ」だけです。「鎌倉に鶴がたくさんおりました」と同じなんです。そう思ってもう一度中皇女命なかちすめらひめみこの歌を見ますと「たまきはる 宇智の大野に 馬並めて 朝ふますらむ その草深野」には主格というものがないんですね。これほど明治以前の日本語と明治以後の日本語とは違っている。
これは物理学者の
寺田寅彦博士の話である。
1878年(明治11年)11月28日 - 1935年(昭和10年)12月31日)
我が国では戦前の文筆家として有名になると、やたらと昔の人のような感じがするが、寺田先生は1935年まで生きていた。アインシュタインが1955年死去だから、そのちょっと前まで生きていたわけである。
そしてこの寺田先生こそ、朝永振一郎博士が「科学者のための自由な楽園」と例えた戦前の理化学研究所の研究者だった。つまり、私や小保方さんのいた理研である。午前中東大物理で講義をして、午後には理研で研究をする。こういう生活だったのである。
この東大で講義をする時の学生が、伏見康治博士であり、渡邉慧博士であり、高橋秀俊博士であり、戦後の我が国の基礎科学の土台を作った人々である。高橋秀俊博士が我が国で最初の電子計算機を設計して完成したスーパー天才だったのである。そのお弟子さんが富士通を生み出したのだ。知ってるか?(おっと失敬)
一方、最近私が釘付けになっている方の杉田元宜博士もまたその時代の人だった。だから寺田先生の講義を受けた1人である。旧東京帝大物理学科卒である。が、この杉田博士のいた場所は理研(理化学研究所)ではなく、小林理研(小林理学研究所)という戦前の謎の研究機関である。
ここは純粋数学と理論物理の天才だけがリクルートされた海外にはあまり知られていない民間財団の研究機関だった。戦後のアメリカでいえば、おそらくプリンストン大学の高等研究所のような場所だったと考えられる。残念ながら、戦後改変され単なる音響メーカーになった。
この寺田寅彦先生の研究室にドイツ人の
ラポルテ博士(Otto Laporte)がやってきた。ちなみに、岡潔はラボルテと書いてあるが、ラポルテが正しい。分光学(スペクトロスコピー)の「ラポルテの法則」を見出した人である。
ラポルテ先生が寺田研究室で俳句を教わったというのだ。
そしてこの偉大なるドイツ人、ヒットラーの第三帝国の教授が生み出した俳句がこれだった。
「鎌倉に 鶴がたくさん おりました」
はあ、見たまんまかよ!というわけだ。
これが西洋人だと岡潔は言う。
実はこれとまったく同じことが、今年の花見でもそこらじゅうで起こった。我が国の桜の花見が有名になってたくさんの諸外国人がやってきた時の印象がこれだった。
公園の ピンクの桜が うつくしい
【海外の反応】「日本の桜は見事!」井の頭公園のゴージャスな桜に 外国人 大感激~
この西洋人の「第一の心」=「前頭葉の心」=「いわゆる意識」に対して、我が国の斎藤茂吉は、箱根の大涌谷で
おのずからさびしくもあるか 夕暮れて 雲は大きく谷に沈みぬこう詠んだという。
徳川家の子孫である、俳句や万葉に詳しい、ねずさんこと小名木善行さんではないが、岡潔がいう万葉の句とはこういうものだと。
「たまきはる 宇智(うち)の大野(おおぬ)に馬並(な)めて 朝ふますらむ その草深野」
舒明(じょめい)天皇
驚くべきことは、岡潔博士の言っていることが、小名木善行さんが言っていることとまったく同じだったことである。
これが日本人の「情緒」というものである。
自意識に従って見たまんま、体験したまんまを文章にすることが芸術だと思っているのが西洋人。見たまんまに描くのが絵画だと思っていたのが西洋人。
だから、ジャポニズムでゴッホやゴーギャンやピカソが日本の浮世絵に衝撃を受けたわけだ。
さて、その次の節がこれ。
【5】 自然は映像
仏教は明治以前の言葉で述べてある。それで明治以後の人にはわからんのですね。ところが山崎弁栄(べんねい)上人は大正9年になくなった。それで明治以後の日本語でいわれた。あなた方きっと意外にお思いになるだろうと思うのですが、仏教は昔からそういってたんです。
弁栄上人、どういっておられるかといいますと、
自然は映像である。映像といえばテレビのようなもの、この映像は第2の心の世界の深部—深いところから映写されているのである。自然には阻害性というものがある。つまり自然はテレビと違って、堅さとか、抵抗とかいう阻害性がある。
だから映像とは受け取れない。そういう人があるかもしれないが、人に知と意志との2つの属性があるように、第2の心の世界にも知と意志との2属性がある。その知があらわれて、色、形、音、匂い、味、そういうものになる。意志があらわれて阻害性となる。で、やはり阻害性はあっても、それは映像である。
そんなふうに注釈しておられます。
で、こういう西洋の言葉で述べてもらって、仏教はそんなことをいっていたのかと思って、それまでのものを聞き直してみますと禅では五蘊皆空唯有識心(ごうんかいくうゆいうしきしん)こういうことをいっております。
どういう意味であるかというと、
このからだも空である、第1の心も空である、
そういっているのです。「空」というのは仮象-仮の姿である、ないものである、あると思うだけである。映像といっても同じことですね。ただ第2の心だけがあるのだ。こういっているのです。
最近ちょっとだけ西洋人がこの世界のことがわかってきたと見えて、最近の理論物理学者が得意になってこう言い始めた。知っている人もいるだろう。
宇宙はホログラムである。
「ホログラフィック宇宙論」というやつだ。
しかしながら、山崎上人や我が国仏教徒の言っているのとは大分趣が異なる。意味も違う。あくまで西洋人の見たまんまの説である。この時空内のホログラムである。
これをまさに紐解いたのがこれだ。
【7】 西洋は時間、空間
それでは西洋は一体どんなふうだろう、西洋は自然をどう思っているか。かように西洋というものを基礎から見直そうと思う。これが自主的に事をするということですね。西洋というものをすっかり見直してみよう。こう思うだけでも、東洋を思い出したという利益はあるわけです。
ところで西洋を見てみますと、西洋の学問、思想の全体は時間、空間という枠の中にはまっている。西洋の学問、思想で時間、空間の枠の外に出たものは1つもありません。つまり時間、空間といういわば箱の中に閉じ込められているようなものです。
カントは時間、空間を先験観念といって、自分はこれらなしには考えられない
といっています。こんなにはっきりいったのはカントだけです。しかし、他の人はいわないで、そのとおりしています。
宗教、キリスト教なんかでも
その天地創造は、神が天地を創造するよりも前に時間、空間というものがあった
と思っています。これはそんなものあたりまえだ、必ずそれがあるはずだというのです。言葉に出してはいっていないんだけど、キリスト教の天地創造というものは、時間、空間の枠の中における天地創造です。こんなふうに西洋というものの全体を見ることができる。東洋というものを思い出す、こういうことができる。またしようと思えば、わけなしにできるのです。
岡潔博士は、多変数解析論で「層の理論」(不定域イデアルの概念)というものをゼロから創始した純粋数学者である。その岡潔が、実は
実数全体が現実に存在しているか証明したものはいない。とおっしゃる。
つまり、実数の存在定理が存在しない
それがこれだ。
【8】 実数の全体
そうすると、時間、空間というものは存在するのかという問題が出てきます。この問題は実数の全体というものが存在するのかという問題に帰着します。ところで、その実数の全体というものが存在するということを証明できると思っている真の数学者は、もはや1人もいない。こういうことを聞くと、不思議にお思いになるでしょう。実数の全体というものが存在するということがいえなければ数学というものが存在するとはいえない。
そうすると、今日の数学者は、数学というものの存在が未来永劫証明できないと思いながら数学しているのだということになります。どうすれば、そういう不思議なことができるのだろう、こういう疑問が派生します。この疑問を解明するには、今日大学で実数をどんなふうに教えているかを見ればよろしい。
黒板に横に1線を引く、そしてこれは直線ですという。そのまん中に点を1つ打つ。そしてこれはゼロの表現ですという。その右側に第2の点を打つ。そうしてこれは1の表現ですという。次にその左右に等間隔に無制限に点を打つ。そうして右側のものが2,3等の表現である。左側のものがマイナス1,マイナス2等の表現ですという。
次にその各区間を10等分する。次にその各小区間をさらに10等分する。これを重ねる。分点の数はだんだんふえていく。そうしてこれが小数というものの表現ですという。最後にその極限を考える。そうしてこれが実数の全体というものの表現です。こういう。
それで学生は実数の全体というものは表現できるとしか思えない。それで実数の全体というものは存在しているとしか思えない。こんなふうなわけです。これが実数の全体というものが存在していると思われている理由です。
数学や物理では実数の集合をRなんてかっこつけて書いているが、実は空虚なもので、その実体はわかっていないのである。素数ですらまだ良くわからないのに、実数なんて夢のまた夢なのである。
ところで、自称ロシアスミルノフ学派の佐野千遥先生が、数論の大定理を証明したと言っているようだが、それは真っ赤なウソ。まだ双子の素数の定理を証明したものはいない。残念ながら、博士でもなかった。なかなかの変人だナ。俺よりはマシだが。
そして岡潔博士ついに時空の謎にせまる。
【9】 時空の枠
この実数の全体というものを内容として、時間というものがあると思っている。またこれによって組み上げて空間というものがあると思っている。だから、結局西洋の学問、思想における時間、空間とは、空間とは見えるからあるとしか思えないものである。時間とは、その空間によって表現できるから、あるとしか思えないもの、つまりひっきょう時間、空間は見えるからあると思っている。
西洋の学問、思想はすべて時間、空間の枠の中にある。だから、西洋の学問、思想の全体は見えるからあると思っているものである。つまりあるように見えるのである。あるということが言えているのではない。だから、見えているという範囲では、自然科学なんかかなりそのとおりになるのです。月へ着陸するなどということもできる。これは順々に見えますから。そういう浅いところは、そんなふうなんです。
この第2の心ですが、仏教は第2の心の中には時間も空間もないといっている。時間、空間を越えている。だから、あらゆる時、あらゆる所に遍満するのだ、そういっています。それで西洋は時間、空間の枠の中を得、東洋は時間、空間の枠の外を得る。東洋の本質は時間、空間を越えている。西洋の学問、思想はすべて時間、空間の枠の中にある。だから東洋の思想と西洋の思想と2つの別なものである。矛盾するおそれはない。こんなふうになるんです。
【10】 天と地
で、そんなふうに東洋の仏教の高僧、大先達は、特別な智力によって宇宙の真相をいろいろ述べている。それが大体いえば、さっきいったとおり自然は空で、第2の心だけがあるのです。第2の心は常に存在するといわれています。それがほんとうの人だというのだから、人は不死だといっているわけです。
時間、空間という枠の外はいくら述べられても十分にはわからない。しかし、時間、空間の枠の内というのは、調べれば調べるほど形に残る。時間、空間の枠の内を西洋がどれくらい調べてくれてあるか、自然科学はガリレオからかぞえて500年近く時間、空間の枠の内を調べている。どこまでわかっているだろうか、この時間、空間の枠の内というのは、地のようなものである。
形を刻もうと思えば地にしか刻めない。時間、空間のの枠の外は、天のようなものである。しかし、天がなければ息することもできない。かように東洋は天、西洋は地と、こう分かれているわけですが、自然科学という地の彫刻がどこまで進んでいるか、それを一度見てみましょう。
矢作先生や保江博士やエベン・アレキサンダー博士が体験した死後の世界の話。
それより50〜60年も前に岡潔博士はそういうことを主張していたのである。ましてや山崎弁栄上人はもっと前から言っていた。さらには、曹洞宗の開祖、道元はその時代にそういうことを言ってた。
かつてのインドの釈迦、仏教の高僧はみんなそういっていたという。
どの仏教の宗派でも般若心経の「五蘊皆空唯有識心(ごうんかいくうゆいうしきしん)」と唱えるのは、もちろん、四国お遍路さんでもこれを唱えるらしいが、その理由が、
心を無にせよ、さもなくばこの世界の真実が見えない
この世の真実を知りたければ、すべてを無にせよ、空にせよ
言い換えれば、
第一のこころを空にして初めて第二のこころがあることが分かるということだからである。
この無の境地、空の境地が逆に神の視点、この宇宙の開祖の視点からものを見ることに繋がるというわけだ。
どうやら岡潔博士はそういってたんですナ。
実に興味深い。
ちなみに、これを合気道でおやりになったのが、植芝盛平師範、塩田剛三師範、保江邦夫師範である。
まだまだ世も捨てたもんじゃないではないか?
しかしながら、普通の大半の人や西洋人や特ア人やアジア人など諸外国人にはこれはまったく意味不明だろう。
見たまんま、感じたまんまに本能で生きる。単に意識は本能の発露だからナ。
まあ、すべての認識が逆なのである。
いやはや、世も末ですナ。

by kikidoblog2 | 2016-05-13 17:27 | 岡潔・数学・情緒