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光陰矢のごとし:1986年、あれから30年!やっぱりみんな老けたナア!?   

みなさん、こんにちは。

今回は私の個人的メモである。普通の人には興味ない話だから、スルーでよろしく。


最近は表の普通の科学や物理の話はある程度距離をおいているため、まったくPhys Rev Lettとかを見なくなって久しい。というより、新しいものを見なくなったという意味で古いものほどよく見ているのだがナ。

というのも、もはや大学に職をとる必要が無いから(といより年齢的に若い人のために諦めたのだが)、今流行中のテーマで論文を書く必要がなくなり、本来自分自身が子供の頃から抱き続けた謎を解決するためにだけ、自分の時間を集中できるようにしているからである。

もちろん、その謎とは、何度もここでメモしたように、「生命の物理化学的基礎」付けのことである。どうして物質であるはずの生命が他の無生命と考えられる物質と違った行動を取れるのか?こんな類の問題にどうすれば答えられるようになるか?を研究しているわけだ。

もちろん、DNAやタンパク質など生命の素材物質の研究は”物質面”からさんざん研究してきたが、それではDNAやタンパク質の電子伝導が分かるだけで、生命の中にあるDNAやタンパク質は理解できないのである。

まあ、それはそれで一生を費やすに十二分の内容があるわけで、何をやるにも時間も労力もとられる。計算も大変だ。しかしながら、それは所詮は物質物理学の延長でしかない。いや、なかった。

確かに複雑なDNA配列やタンパク質のアミノ酸配列に対してもシュレーディンガー方程式を解けるようにするという問題は面白かった。また応用面ではそれなりの需要もある。しかしながら、所詮は死んだDNAや死んだタンパク質の電子的性質でしかない。生きた細胞内のものとは異なる。

というわけで、生命というものを研究するにはそれなりの何がしかの確固たる基盤がないとだめなのだ。この「確固たる基盤」を構築するのが私のこの10年来の挑戦である。

もちろん、世界中にそれなりにそういう問題に挑戦している科学者はいるが、人は人、俺は俺だ。ゴーイングマイウェイである。

いまついにこの問題の真の突破口を摑んだ所だが、それは今書いている論文が出来あがるまでは、ここには証明のための余白もないし、乞うご期待ということにしておこう。


さて、大分前置きが長くなったが、こうして自分自身のこれまでの物理人生を振り返ると(もっともこれも永六輔、大橋巨泉などなど昭和を代表する高度成長期のマスコミ関係者がどんどんご逝去されていることが刺激となっているのだろうが)、私が昔会ったことのある人々も大分その地位や趣が変わってしまった。相変わらずいまだに大学院生のような生活レベルでいるのはこの俺ぐらいのものかも知れないですナ。

私が1986年の9月13日にアメリカユタ州ソルトレークに行った時から、ちょうど30年が経った。

当時はユタ大の理論物理を代表する学者は、
ビル・サザーランド(Bill Sutherland)
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ヨン・シー・ウー(Yong-Shi Wu)
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ダニエル・マティス(Dan Mattis)
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そして、
日本人の甲元眞人(東大卒シカゴ大学院卒)
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だった。

中でも当時の甲元先生は飛ぶ鳥を射落とす勢いであり、シカゴ大学物理学部のレオ・カダノフ(Leo P Kadanoff)教授の肝いりのお弟子さんであった。そんな日本で言えば東大に匹敵する、アメリカのシカゴ大からユタ大に職を得てバリバリに大活躍し、当時はめったに米人でも取ることの難しかったスローンフェローになったばかりだったのである。そんな甲元先生がそこにいた。

私は1986年の春だったか、甲元先生と当時六本木のアマンドストリートのすぐ近くにあった東大物性研(いまは柏にある)の客員教授室で面会して、ユタ大の物理学部の大学院生にスカウトしてもらったのだった。

そういう時期にまったく何も知らない若者が、ソルトレークの地に降り立った。ろくに英語もしゃべれない。特に私は耳が良くなかった。聞こえが悪いというのではないが、なかなか英語が聞き取れなかった。まあ、これもしょうがない。28歳後半で初めての海外旅行、初めてのアメリカユタだったわけだから。ほんの数カ月前までアメリカ留学なんて考えもしなかったわけだ。

2年ほどして、当時すでに若くして有名になっていた中国人ショー・チェン・ザン(Shou Cheng Zhang)という若者が講演にやってきた。年頃はほぼ私と同程度だったが、その先生がなんとノーベル物理学賞受賞者のシュリーファー(J. R. Schrieffer)だった。超電導理論の解明者の一人である。

ザンは当時1987年に発見されたばかりの高温超伝導現象のその理論化を試みていた。それをユタ大の物理セミナーで話したのである。

このザンをユタに招待したのが甲元先生だった。というのも、甲元先生もMITのシャピア(Shapir)や欧州のフリーデル(Friedel)と高温超伝導の理論化に挑戦していたからである。

セミナーが終わった頃、唯一の日本人大学院生であり、英語が聞き取れないために甲元先生の子分のようにしていた私も夕食を共にすることが出来た。当時ソルトレークには日本食レストランが2件ほど、寿司屋が市内と郊外の2件ほどしかなかったのだが、その郊外のかなり高級な寿司屋に行くことになったのである。

今のように和食がブームという時代ではなかったから、なかなか私のような大学院生が簡単に寿司を食べられる時代ではなかった。

ザンを真ん中にして甲元先生と奥さん、そして甲元先生の隣にザン、その端っこに私が座って歓談しながら、物理の近況報告をさかなにして寿司を食べたのである。ずっとザンは甲元先生と話していたのだが、おもむろにこっちを振り返って、「ところで君はいま何を研究しているんですか?」と聞いてきた。

そこで、私は当時「1次元準周期格子モデル」を研究していたのだが、その基本にある種のブレークスルーをしたばかりの段階で、その理論は「無理数の分類理論」という純粋数学の数学でしかなかったのだが、それをやっていると答えたわけだった。ザンは「ふ〜〜ん」という感じだったが、また話は甲元先生の方に戻っていた。

私はサッカーから物理に転向した変わり種で、いわゆる秀才でも俊優でもないから、東大出身者や中国の北京大出身者というようないわゆるエリートとはいつも肌が会わず、距離をとっていたのだが、やはりこのザンにもなんとなくそういうところを感じながら話をしていたのである。

これが多分記憶違いでなければ、1988年の初夏だったと思うから、これから28年は経ったわけだ。


昨日、たまたまこのザン博士はいま何をしているのかな?とインターネットで調べてみると、なんとなんとかのフランクリンメダルを受賞していたではないか?これである。
SHOUCHENG ZHANG
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この解説を読むと、Charles Kane, Eugene Mele, and Shoucheng Zhangの三人が「トポロジカル絶縁体」の発見者としての受賞ということになっていますナ。

この分野は我が国の物性理論の研究者も相当に貢献しているはずだから、非常に残念な思いに駆られている人も多いのではなかろうか?このままノーベル賞も持って行かれそうだ。

すでにこの現象の発見神話を作り上げてしまっているわけですナ。

私の記憶では、この「トポロジカル絶縁体」というのは、高温超伝導現象の理論化を行っていく中で、二次元平面内の電子論が重要になり、酸化物超電導体の場合には、どういうわけか超電導になる直前まで絶縁体(電気が流れない物質)のままであるというようなことから、その理由を探っていくうちに、それはトポロジカル絶縁体だというような概念が登場したのではなかったかと覚えているのだが。

そして、この2次元電子系のトポロジーの重要性を一番最初に見事に理論化したのが、甲元先生だった。その論文はグーグル・スカラーですでに2000を超える引用がある。ノーベル賞クラスですナ。

このままでは、また我が国の甲元先生もまた41番目の席につかされてしまう可能性もあるかもしれない。


さて、その甲元先生の先生であったレオ・カダノフ先生は、確か1987年頃だったか、一度ユタを訪れたことがある。たまたま私は甲元先生に用事があって研究室に行くと、そこに小柄の見るからにユダヤ人風の学者が座って議論していたのである。私はすぐに「ああ〜、これがカダノフ先生だな」と分かったから、話のコシを折るのもまずいかなと思って話が一段落するまで待っていたのである。そして話が途切れた時に、甲元先生に話をした所、甲元先生が、私にカダノフ先生を紹介してくれたのである。

まあ、あっちからすれば、「こいつは何もんだ」というような怪訝な顔をして「やあ」と挨拶しただけだったが、すでにノーベル賞級の歴史的物理学者の威厳というものを垣間見たのだった。

そこでついでにこのカダノフ先生も今何をしているのかなと調べると、なんとカダノフ先生は2015年にご逝去されてしまっていたのである。享年78歳。これである。
Leo Kadanoff
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Leo Philip Kadanoff (January 14, 1937 – October 26, 2015) was an American physicist.


ついでにメモしておくと、私が大阪大学の大学院生時代、あるジーンズを履いた禿の若いアメリカ人が、我が国の朝永振一郎博士の名前のつくモデル「朝永・ラッティンジャーモデル」の研究について講演しに来ていた。ダンカン・ハルデーンという我が国では無名の若者だった。

私はたぶん大阪大学に入学して一番最初に聞いた海外研究者の物理講演だったと思う。当時始まった大学院生用の物理講演セミナーであった。司会は今はなき吉森明夫先生だった。

なぜこのハルデーン博士が講演に来たかと言えば、このハルデーンの師匠がノーベル賞を取ったフィリップ・アンダーソンであり、そのアンダーソンの凝縮体物理学の教科書を吉森研究室で輪講していたからである。

このおそらく今となってみれば歴史的講演はまったく我々修士の大学院生には理解できなかった。が、これが後に「ハルデーン流体」という概念につながったものである。実際、公演終了後の質疑応答では誰一人院生やスタッフからの質問が出ず、しょうがなく吉森先生が質問して、「まあ、そういう1次元数理モデルも面白いですよね。ですがその研究する意義は何ですかね」みたいなたわいない質問だったために、ハルデーンが非常に憤慨した顔で超絶なる早口でまくし立てたのであった。

その後ハルデーンはいまや全世界の物性理論を代表する、そしてアメリカを代表する偉大なる理論物理学者になっていったというわけだ。

この若禿のハルデーン先生も今どうしているかと見てみたら、こちらはまだまだご顕在であった。これである。
F. Duncan M. Haldane
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私もアメリカ留学から帰ってここ阿南に来てから、つまり1981年頃ハルデーンの講演を聞いてからだから、16年後にハルデーン流体やハルデーン統計について後にさんざん研究することになったから、あの大学院生時代にもしハルデーンの研究に首を突っ込んでいればと思うのだが、後の祭りである。まあ、当時の我々はあまりに無知だった。

それにしてもハルデーンはまだ65歳だから、それにしてはルックスが老けすぎていないか?

早熟の天才だから仮に早世したとしても十二分にありあまりすぎるほどの業績を残したから別に問題はないのだろうが。

ところで、このハルデーンは祖父の時代から学者一家で、昔の生物学者のハルデーン(ホールデンと言う場合もある)が祖父か粗祖父にいるらしいから、西洋社会の中では超一流の学者家系の一人ということらしい。


いずれにせよ、
少年老いやすく学成り難し
光陰矢のごとし
を痛感する今日このごろですナ。


レオ・カダノフ博士のご冥福をお祈りいたします。RIP.





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by kikidoblog2 | 2016-07-22 09:05 | 個人メモ

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