だれがディラックのδ関数を発明したか?:実はノーバート・ウィーナーだった!?
2017年 06月 09日
さて、これは実に個人的な話題だから、数学や理論物理に関心のない人はスルーして欲しい。時間のムダである。
2週間ほど前にひどい腰痛になった頃から、ノーバート・ウィーナーの自伝、そして腰痛が回復してからウィーナーの初期の論文を少しずつ読んできているのだが、いくつか実に面白い事に気づいたのである。
もちろん、この気付きは、一般の物理学の歴史や数学の歴史書には殆ど載っていない。
まず結論から言うと、
(あ)量子力学の不確定性理論の発見はウィーナーの方がハイゼンベルグより先だった!
(い)ディラックのデルタ関数の発見者はディラックではなく、ウィーナーだった!
この二点である。
まず(あ)について
情報時代の見えないヒーローによれば、ノーバート・ウィーナーは、1922年、1924年、1925年。毎年のように欧州に遠征に行った。
ノーバート・ウィーナー「情報時代の見えないヒーロー」:彼はAIの未来を見通していた!?
ウィーナーは1921年にいわゆる後にウィーナー過程と呼ばれることになる「ブラウン運動」の数学理論を公表していた。
これが欧州の英独仏で非常に評判になり、イギリスではハーディーやリトルウッドのところ、ドイツではゲッチンゲンのデービッド・ヒルベルトのところ、フランスではベノワ・マンデルブローの叔父であるショレム・マンデルブローのところへ行き、講演及び研究を行った。
だから、ウィーナーの一般調和解析の思想に基づく、複雑な運動に対する動力学理論がその頃欧州に芽生えたのである。一方、アメリカではウィーナーの思想を理解できるものはなかった。
ショレム・マンデルブローは東欧のハンガリーとかそっちの人だから、そこにいた若手に恐らく情報を提供した。その1人がバナッハである。バナッハ空間の最初の理論はノーバート・ウィーナーが定義したものであった。
1924年にウィーナーは19世紀末期の奇人変人数学者、
オリバー・ヘビサイドの直感的数学を厳密に定義することを考えた。
こうしていくうちに、力学的運動を調和解析していくという、ニュートン力学からギブズの統計力学の思想にもとづいて力学解析する方法を開発した。それがウィーナーの一般調和解析である。このレビューは1930年にまとめられたが、実際にはずっと前のウィーナーのフーリエ解析の教科書にも出ているのである。
そして、問題の1925年になって、ウィーナーは再びドイツのゲッチンゲンに渡る。当時のゲッチンゲン大学は文化、科学の世界最先端の場所であり、数学では晩年の
フェリックス・クライン中堅には
ダーフィト(デービッド)・ヒルベルトがいた。
一方、物理では
マックス・ボルンがいて、その研究室に若き天才、
ウェルナー・ハイゼンベルグと
ウォルフガング・パウリの2人がいた。
そこでノーバート・ウィーナーは、一般調和解析を用いて、音楽の楽譜のような周波数変調が時間的に生じる運動は、ある種の相補性あるいは双対性が生じるということを講演したのである。
つまり、雑音がホワイトであれば、そういう音符は一瞬の音であり、逆に長時間一定の音符はその周波数はたったひとつの周波数で記述される。この意味で、時間と周波数の間には双対性が存在するという理論を講演したのである。
そこにマックス・ボルンとそのお弟子さんたちもいた。若きウェルナー・ハイゼンベルグがそこにいたことは確認されている。
さて、私が40年前に大学で量子力学を勉強し始めた時、一番最初に読んだのが、ディラックの量子力学の英語版だった。その後、それを基にした朝永振一郎の量子力学(I)(II)を読んだが、その朝永の教科書の(I)にニールス・ボーアの前期量子論の説明からウェルナー・ハイゼンベルグの量子力学の発見の話が出ている。
しかし、どうしてそれまではニュートン力学では粒子の座標がx(t)で書かれるのに、ハイゼンベルグがそれの座標を
x(t) = ∑ x(n)exp{iw(n)t}
のようにフーリエ展開するのか理解できなかった。いったいハイゼンベルグはどこでこの発想を見つけたのか?
これは朝永先生の本をいくら探しても分からないのである。
実はこれがノーバート・ウィーナーの思想圏に属した内容だったのである。
ブラウン運動のような複雑な運動は、ニュートン力学の古典軌道として、時刻tの解析関数として書けるものではない。だから、たくさんのモードの重なりとして複雑で非周期の運動を理解するのだ。そのためには、ある時刻における位置座標のx(t)をモードw(n)でフーリエ展開すればいい。
これがノーバート・ウィーナーの考えだした一般調和解析学である。
ハイゼンベルグはただちにこれに基づいて、当時の量子力学の問題に適用した。そこで使えるのは、ボーアの発見である、量子転移はかならず二つの準位の差だけで書ける。つまり、w(m)-w(n)で記述できる。
量子準位は定在波として一つのモードw(n)で記述される。
これを使ってx(t)^2を計算すると、ウィーナーの調和解析からずれることを発見した。
この発見が量子力学の発見に繋がったのである。
翌年1926年にウィーナーはハイゼンベルグの先生であるマックス・ボルンと量子力学の論文を書く。ここでウィーナーは初めて「演算子」という概念を持ち込む。物理量の時間微分は時間微分演算子とは交換しないのである。そして、この時間微分演算子は実質上ハミルトニアンであることを証明した。
ここにいわゆる量子力学の全体像が生み出された。
そして、1927年にハイゼンベルグの不確定性原理の論文、およびボルン、ハイゼンベルグ、ジョルダンの量子力学の完成論文が登場した。
というわけで、ウィーナーの存在は我々の量子力学の教科書にはどこにも出てこないが、実際の科学の歴史においては、ノーバート・ウィーナーこそニールス・ボーアに匹敵する量子力学の祖であったのである。
実際、ニールス・ボーアにはハンス・ボーアという兄弟がいて、ハンスは有名な数学者だった。そして、ウィーナーは英国留学して以来、ハンス・ボーアとは親密な交流があったのである。だから、ハンスがニールスにウィーナーの思想を伝えないはずがなかったのである。
次の(い)の問題については、実はこれには明確な理由および証拠がある。
上述のように、私がディラックの教科書を勉強して以来、ディラックはどうやってディラックのδ関数を見つけたのか?という点が気になってきた。
しかしながら、最近でもディラックのデルタ関数の発見を行ったとされる1926年の論文を見てもどこにもないのである。
量子力学のどの本にも、どの教科書にも、1930年のディラックの量子力学で導入されたことになっている。そしてさらにデルタ関数は1926年にディラックによって発見されたことになっている。それもヘビサイドやクロネッカーのδの連続関数への拡張だと書かれている。
結論は、ディラックは最初からデルタ関数を使ったのであって、発明したのではない。問題の関数にδ関数という名前をつけて自分の理論に適用しただけなのである。
さて、だれがそれを現代的な意味で使い始めたか?
というと、これまたノーバート・ウィーナーだったのだ。
一般調和解析の初期の論文で明確にディラックのδ関数の萌芽、というより、実質上等価の関数の存在を証明した。それもヘビサイドの関数を厳密化するという手法できちんと数学的に定義したのである。
ここに日本語で超関数とよばれる関数になぜ英語ではdistribution(分布)と書かれたかの謎が説かれるのである。
ウィーナーは最初からある種の確率分布としてこのヘビサイドの階段関数H(u)から連続関数への一般化を行ったからである。
その論文がこれだった。
N. Wiener, The Operational Calculus (1926)
この論文の565ページの上から2つ目の式
がいわゆるディラックのδ関数の定義に対応するものである。
そしてこの論文の後半では、それを使って分数微分の問題に応用していくのだ。
ヘビサイドは微分演算子の逆べきというものを最初に定義した。いまでは佐藤超関数のソリトン理論ででてきたものだが、なんとヘビサイドは最初に微分の逆べきを定義して、それが積分にあたる。だから、その指数を分数にしてもなんでもいいという論文を書いていたのである。
それがこれだった。
On Operators in Physical Mathematics. Part I(1892)
On Operators in Physical Mathematics. Part II(1893)
ヘビサイドはこういう手法を使って、エーテル中の電子運動によるウェイクの研究をしたのである。
あるいは、電子が光速を超えて運動する場合に生じる衝撃波の研究を行った。
さらに驚くべきことには、演算子法を用いてヘルムホルツの波動方程式の解を発見し、それが20世紀後半でいう湯川ポテンシャルに等価なものを見つけていたのである。ヘビサイドはpan potential(フライパンポテンシャル)と名付けた。
これをポール・ディラックが読まなかったはずがない。イギリスのケンブリッジ大学の図書館の薄暗い場所でディラックはひとり静かに読んでいたのである。事実、ディラックがいつも図書館の片隅の薄暗い場所で最新の雑誌を読んでいるのを目撃した日本人留学生もいたのである。
とまあ、こんな案配で、ノーバート・ウィーナーは、ブラウン運動の理論、ウィーナー過程、ウィーナー積分や調和解析だけではなく、バナッハ空間、分数微分、ディラックのδ関数、量子力学、不確定性、時間と周波数の相補性、制御理論、ネガティブフィードバック、確率統計、そしてサイバネティックスとほぼ科学の全分野で膨大な貢献をしたのだった。
しかし、かつて私がユタ大を卒業した時、ハーベイ・コーン教授に私のドクター論文を見せた時、
お前の研究は学際研究だから、下手をすると、数学者からは物理の理論とみなされ、物理学者からは数学の理論とみなされ、どちらの職も取れなくなる恐れがあるから注意しろと言われたのだが、まったくその通りのことが起こって今に至ったのである。
学際研究にはそういう実際的な危険があるのだが、どうやらウィーナーも各分野の老舗や有名人からはそういうふうに見られたフシがある。
数学者からはあれは理論物理だとみなされ、理論物理からはあれは数学だとみなされたり、あれは工業数学だとみなされる。
こういうことが起こったに違いない。
あるいは、2つの戦争の時代だったから、どの国の研究者からも自分が最初にやったと言われてしまったのかもしれないですナ。
いずれにせよウィーナーは世界のウィーナーだから特にその程度の理論を当時の若者に盗まれてとしてもなんとも思わなかった、屁とも思わなかったのだろう。
いやはや、科学の世界も今も昔も盗人だらけ。
いやはや、世も末ですナ。
おまけ:
やはり同じ1925年の論文:
N. Wiener, The Harmonic Analysis of Irregular Motionの105ページの最後から2つ目の式も実質上ディラックのδ関数とまったく等価な表式が使われている。これである。
by kikidoblog2 | 2017-06-09 18:59 | ウィーナー・サイバネティクス













































