真珠湾攻撃総司令官淵田美津雄、マッカーサー、アイゼンハワー、トルーマン、ニミッツと会う
2017年 06月 23日
今日は久しぶりに日光が差し込んできて、早朝から鶯も鳴く。そういう清々しい気分のさなか、例の淵田美津雄さんの本のことをまたいくつかメモしておこうと思う。
“「忖度」の正しい意味と使用法とは?:なんと死んだ人の気持ちを思うことだった!”
の中で、編者の中田繁一さんの「あとがきにかえて」の文章に、「忖度(そんたく)」を使った文章を見つけたが、この忖度するとは、詮索するとどことなく似ているが、
「生前の心持ちを忖度する」というように使用するものであった。
一方の「詮索する」はまさにいま民進党が捏造情報やヤラセやありとあらゆる悪手と使って、「相手の立場を詮索する」というような場合に使う。
さて、この淵田大佐の終戦後は、軍事訓練の最中に燃料がなくなり、もはや基地に戻れず太平洋に墜落して死ぬしかないという時に、どこからともなく「高度を上げよ」という声が聞こえた。
その時であった。
突如、私の胸の中で誰かが「高度を上げよ、高度を上げよ」と囁くように思えるのであった。
高度を上げてどうなるものはないが、他にやりようがないからとにかくそれに従うことにした。
その結果、グライダーで滑空する時間がましたことにより、なんとかギリギリで基地に戻ることができたのだというのである。
琵琶湖の鳥人大会でもそうだが、水面ギリギリを飛行するより、元気なときには出来る限り高く富んだほうが最終飛距離を伸ばせるわけだ。
これと同じ原理をだれかが淵田大佐に囁いたのだった。
淵田大佐はその後真珠湾攻撃の成功、さらにはミッドウェー海戦の時に盲腸となって空爆に行けず、空母赤城の甲板で指揮している時、敵機の魚雷を受けてその爆風で吹っ飛び負傷した、にも関わらず生きていた。
後に終戦後、こうした度重なる奇跡的な運のよさを考えた時、
「これはイエス・キリスト様のご加護、お導きがあったからではないか」と考えてキリスト教の洗礼を受ける。
そうして、戦後何年かの後に渡米して布教活動に行く。
ところが、その先々で先の大戦の真珠湾攻撃の総司令官だったという噂が広がり、アメリカの要人と会っていく。
そんな中で、ミッドウェー海戦の敵将、ニミッツ将軍と出会う。むろん、トルーマン、アイゼンハワーやマッカーサーとも面会した。
その時の彼らのことばが非常に興味深いので、それをメモしておきたいというわけである。
トルーマンの助言
トルーマンは現れた。
なかなか元気そうであった。
先ずサックスが紹介されて、サックスが私を紹介した。
例によってサックスが長々とスカイ・パイロットを披露する。
15分間の会見の約束だから、私は気が気でない。
トルーマンはフム、フムと聞いてはいたが、トルーマンの興味は私にあるらしいのである。
宣教師さんたちによって、お茶が出される。
空気は和やかであった。
やがてトルーマンは私に話しかけた。
「ねえ、キャプテン、わたしは陸軍大佐だったんですよ。あなたは海軍大佐だったから、今日は軍人同志の話でいきましょう」
と前置きして、イエス・キリストさまの話は一時あずかりとばかり、サックスの口を封じた。
やがて真珠湾が話題に出た。
いろいろと当時の模様を話し合っていたとき、トルーマン前大統領は笑いながら、
「キャプテン、真珠湾はね、ボス・ギュルチイ(両者有罪)だよ」
と言った。私は
「そりゃ神の前にはボス・ギュルチイでしょうけど。。。」
といい及ぼうとしたら、トルーマンは遮って
「いいや、神の前ばかりでなく、人間の前にも、いまに史実としてボス・ギュルチイが明らかになるだろう」
と言った。
そんなことから、戦犯釈放問題にも触れ、嘆願署名簿を携えてきていることを話したら、
「キャプテン、心配せんでいい、もうまもなく戦犯問題は打ち切られるよ」と話してくれた。
あたたかい雰囲気であった。
アイゼンハワーとの面会
どうやらこれは現職の大統領閣下だから、大忙しのさなかで、面会までには行かなかったようだが、キリスト教会で聖歌隊といっしょに大統領が聖歌を歌う機会に同席することができたらしい。
ところが、アイゼンハワー大統領は忙しいが、健康づくりにゴルフをやっている。
こういう場合には、もし淵田大佐がゴルフができれば、ごいっしょにどうかという誘いを受けた。しかし淵田はゴルフができないので断ったところ、教会のミサに参加するからその機会にどうぞということになったのだという。
このように、欧米人、特に英米人の場合にはゴルフは必須科目の一つである。これが一種の社交の場でもあるのだが、政治談義や商売談義の場ともなる。実に重要な機会なのである。
翻って、安倍首相がトランプ米大統領と同じゴルフの趣味があったということは、実は非常に大事なことなのである。
1ラウンド18ホール。何時間かいっしょの時間を取れるわけだ。
ラウンドしながら歩く最中にさまざまの話ができる。
これを民進党のような連中は、たんなる娯楽とか遊びとしたみない。実に無粋な人種である。
もし淵田大佐がゴルフをできたとしたら、おそらくアイゼンハワー大統領といっしょにラウンドして、もっといろいろなことが聞けたはずである。それはかなり残念だったのではないだろうか。
ニミッツ提督の体験談
太平洋戦争が終わって、彼は日本から帰国して、太平洋艦隊司令官を退職した時、アメリカ国会は彼に元帥のパーマネント称号を贈った。
かくてニミッツ元帥は、請われるままに、全米各地に講演旅行をつづけていた。
一日、彼は東部のある大学に講演に赴いたとき、小さなチャーチ・ベルが廊下にぶら下げてあるのを見て、近づいてみると、日本字が刻んである。
問ねてみると、GIであった学生が、日本からスーベニアー(土産)として持ち帰ったものだという。
元帥は怒った。
「アメリカというキリスト教国民が、日本のキリスト教会のチャーチ・ベルをスーベニアーとして持ち帰るとは何事だ」
といったわけで、このベルを、日本のもとの教会へ返還することになり、日本占領軍司令部に当ってみると、そのベルに教会の名が刻んであったので、すぐに分かって、福岡市近郊の海岸にある小さな教会へ送り返された。
すると暫くして、その教会の子どもたちから、ニミッツ元帥にあてて感謝の手紙がとどいたという。
その手紙を元帥は大事に保存していて、私にそれを見せてくれた。
あどけない文字と文章との日本語で綴ってあった。
それによると、この教会の子供たちは、話に聞いている教会のベルというのがほしかった。
村に鍛冶屋のおじさんがいて、作ってやるから、福岡市内の空襲の焼け跡へ行って、銅やしんちゅうの屑を拾い集めてこいと言った。
そこで子供たちは、毎日毎日、みんなで出かけて行って、どっさりと屑拾いをやって集めたので、やがてベルが出来あがった。
みんなで喜んでいると、ある日、進駐軍の兵隊たちが海岸に遊びに来て、教会で一休みしていたが、一人がベルをみつけて、それが福岡市内に落ちていた爆弾や焼夷弾の屑を拾い集めて作って貰ったのだと子供たちが片言の英語と日本語交じりで自慢そうに語るのを聞いて、それならもとはアメリカのものだと強引に持ち帰ったのだという。
それをいまニミッツ元帥のおかげで、戻って来たのでとても嬉しいとある。
そして
「ニミッツのおじさま、どうもありがとう」
と結んであった。
私は笑いながら、その旨を通訳すると、彼も受け取った当時、知り合いの日本人に通訳してもらって分かっていたのだが、スーベニアーといえば、学生たちだけではない、私も持って帰っていると、愕然とした面持ちであった。
それは日本海軍司令長官兼連合艦隊司令官(終戦時は軍令部総長)であった豊田副竹海軍大将
の軍刀を、ニミッツは贈られて持ち帰ったのであるが、これは自分の私すべきものではないから、これを豊田大将へお返ししたいと言った。
そして私が日本へ帰るとき持ち帰ってくれとの頼みであったが、私はまだ二ヶ月滞米の予定だからと、日本大使館に返還の手配を頼んだ。
そのようなことで、軍刀は豊田大将のもとへ戻ったはずである。
このようにニミッツ元帥も神をも慴れる人であった。
このニミッツ元帥が憧れ目標にした人物、それが我が国の東郷平八郎元帥であったという。
若い頃はこれ。
昔の帝国海軍士官はみないまでいうところのイケメンだったんですナ。
佐藤浩市さんの祖父、三國連太郎さんの父はだれだったのか?
秋山真之
井上成美(しげよし)海軍大将
ところで、当時の日本海軍の大佐は、メイド(家政婦)を雇うことが許された。ドイツ海軍の真似らしいが、帝国海軍の家の家政婦になることは、当時の女性にとっては花形の職業だったらしい。逆に言えば、当時の海軍大将は、つねに命がけだから、家に戻れば、「は〜〜いご主人様」といって待ち受けてくれるメイドさんもいたし、奥方もいたわけだ。そういう時代だったようである。
ここでこの本を読んで私個人の意見では、どうも山本五十六元帥は指揮官の器ではなかった。むしろ、戦艦とか空母とか潜水艦とか、兵器開発におけるアイデアに抜きん出いていた。
だから、兵器開発のトップになるべきで、実際の戦闘における作戦や実施には、淵田美津雄大佐の方がすぐれていたように思う。
一人の司令官が戦闘作戦立案し、現場監督し、兵器立案するというのはちと荷が重い。分業してれば、日本が勝ったのではないかと思う。
ところで、上の井上成美(しげよし)海軍大将は、この淵田美津雄総司令官同様に、戦時中にあって、大艦隊主義の誤りを指摘し、航空母艦主義を唱えた極めて優秀な大将だった。
戦争末期には、いかに有利に戦争を終えるかを研究し、良さそうなところでうまく敗戦する道を模索したという。
だから、もしこの井上成美大将のプランが実現しておれば、広島長崎もなかったはずなのである。
喧嘩して負けそうになったら、大怪我しないうちに頃合いを見て適当に負ける。
これもまた軍人の知恵である。
再起不能になれば、ご臨終に等しい。
この井上成美大将は戦後ひっそりと田舎で貧しく暮らしたという。それもそのはずで、海軍将校の年金がGHQおよび米進駐軍の指令で全額カット、ゼロとなったからである。
だから、この淵田司令官もそうだったように、実家の田舎に戻って、住む家から全部自分で建てなければならなかったのである。
淵田の本にはこうある。
そのころの井上は、妻に先立たれており、貧窮のなかにたったひとりの愛娘の葬式さえままならなかった。
肺結核を患った娘の亡骸を運ぶお棺さえも、近くの竹やぶから切り出した竹を工夫して自分でつくったという。
失意の日々、自宅で英語塾をひらき、近所のちいさな子供たちに英語を教え、テキストはコンニャク版で刷って自分でつくった。
ときには手作りのクッキーで子供たちををもてなした。
海軍式のテーブルマナーを教えながらさまざまな人間教育も行ったのである。
しかしわずかな謝礼も頑として断った。
見かねた親たちは、コメや野菜をもちよってひとり暮しの井上の日々のくらしを陰で支えていたのである。
海軍兵学校時代の教え子たちも見るに見かねていた。
井上の晩年、嫌がるのを説き伏せて、生活の援助をするかわりに彼らがその土地と屋敷を買い取って、家賃はただで住まわせることで井上との妥協をはかった。
米海軍が戦死者やその遺族にいわゆる退役軍人の年金を与えるのと比べて、日本海軍の場合は、マッカーサーの指令通達のせいで、ほとんど無一文で一生を過ごしたのである。
キリスト者になって教会から資金を得られた淵田はまだ幸せ者だった。
それでも、誰ひとりとして、日本の軍人さんたちは文句言わなかったのである。
ここが支那朝鮮人とはまったく人種が違うと言われる所以である。
これが、「帝国海軍、何も語らず」ということである。
パール判事の言葉
淵田は東京裁判におけるインド人のパール判事の主張も残した。
「日本の子弟たちが、日本は犯罪を犯したのだとか、日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだとか、教えられて、ゆがめられた罪悪感を背負って、卑屈頻廃に流れていくのを、私は平然と見過ごすわけにはいかない。
あやまられた勝者の戦争宣伝の欺瞞は払拭されねばならないし、あやまられた歴史は書き換えられねばならない。
日本の子弟たちよ、満州事件から、大東亜戦争勃発に至る真実の歴史を、私の判決文を通して十分に研究して戴きたい」
これから72年。
いま、これをいわゆるその当時の子弟であった、団塊の世代、いまの中高年、この人達が疎かにしてきたツケを払わされているわけである。
マッカーサーの言葉
さて最後にマッカーサーの話。
1953年3月8日日曜日、淵田はマッカーサー元帥から夕食に招かれた。その時のマッカーサーの言葉である。
おそらく、戦後72年経ち、いままさに憲法改正が議論されているさなか、戦後憲法を1週間程度の突貫工事で作成したマッカーサー元帥はどう考えていたか。これが見事に語られていたのである。
しかし彼は依然として日本に対する関心は深かった。
以下は食事中、彼が私に語ったところを継ぎ合わせたのである。
彼は言った。
「占領軍最高司令官としてやったことは、すべてが良かったとは思っていない。
恨まれることもあろう。が、自分は日本をよくしたい気持ちをいつも念頭において、ワシントンをふりかえりつつ占領政策の遂行に当ってきたつもりである。
昨年(1952年)のメーデー事件は、共産主義者の扇動が背景をなしていた以外に、青年たちの反米感情も働いていたとされている。
占領政策の反動として、反米的な流れが起こったとすれば、自分は非常に不本意である。
日本へ行ってなんとかしたい衝動に駆られる。
日本憲法に戦争放棄条項を付加させたことは、今にして考えれば、時期尚早であった。
当時自分は、原子爆弾の出現によって、将来の戦争は勝敗がつかないだろうと考えた。
敵も味方もともに滅亡する。
まったく人類の破滅でしかない。
そのような見地から、世界は戦争放棄の段階に近づきつつあるとの感を抱いていた。
日本を軍事的に無力化する連合国の方針もあったし、また日本をして率先、世界に戦争放棄の範を垂れさせようとの意図もあった。
ところがその後の世界の客観情勢は戦争放棄どころか、力に対するには力のバランスで、やっと平和を保っている。
かくて日本も自衛力が必要だというふうに、自分は再考を余儀なくせしめられたのであった」
以上が、日本占領の最高司令官を会食せしめられて、丸腰となった往年のマッカーサーの元帥の述懐であった。
まあ、ここが、私が「バッカーサー元帥」と揶揄する所以ですナ。
まったく世界情勢どころか、まったくアジア人の何たるかを知らなかった。
特に支那朝鮮人の悪質な部分に無知だった。
そのせいで、いまアメリカが支那、朝鮮の企業の横暴ぶりでアメリカ人が疲弊しているのである。
欧米人はユダヤ人についてはよく知っていたかもしれないが、アジアのニダヤ人についてはまったく無知だったのである。
この無知のせいで、結局戦後の世界はまったく世界平和を望んでいなかったことがいまになって分かってきたわけだ。
ゆえに、
憲法改正は必須。憲法9条など論外である。
即刻、世界平和の実現には、自衛の日本海軍、空軍を立て直さなければならないというわけである。
ところで、上の井上成美大将は、山本五十六同様に、開戦反対者だった。また、いわゆる小日本構想を推奨し、大陸への進軍にも反対だったという。要するに、支那朝鮮モンゴルと関わっても何も利益はないから、自国だけを海軍を整備して、空母主義にして、母国を守ることこそ日本の本道であると説いたのである。また、今でいうところの「集団的自衛権」、これも井上は反対したらしい。なぜなら、集団的自衛権を持つと、無関係の場所まで護衛に行かなければならないからである。
簡単にいえば、
元祖、日本不沈空母構想である。
御意。私もこれに大賛成である。
他国への侵攻というような野暮なことはしない。
しかし、反日国へは国交断絶する。
もし攻撃したら倍返しにする。以下この繰り返し。
まあ、鎌倉武士と同じ発想が正解ということになる。
このためには、本当なら、憲法改正し、平和憲法から武装憲法に変え、あくまで集団的自衛権を破棄して、個別の自衛権だけ主張する。
これができるときはじめて、日本不沈空母となる。
日本列島が戦艦大和、というより、空母赤城になるわけだ。
他国へは攻め入らないが、日本を攻撃するものには反撃する。
これを念頭におく新憲法を作るべきですナ。→俺の構想
いずれにせよ、同じ本を読んでも俺と武田鉄矢は受け取る部分が異なる。それが人それぞれの感性の違いということになる。
武田鉄矢は日本が他国に迷惑をかけたと感じるが、俺は日本が他国から迷惑を受けたと感じるわけだヨ。
支那朝鮮人のために、何百万もの日本人の侍やら軍人やらが命かける価値もない。犬死だ。
とまあ、そう俺は感じるわけですナ。
いやはや、迷走中の日本政治、これもすべてバッカーサーの呪いですナ。
いやはや、世も末ですナ。

by kikidoblog2 | 2017-06-23 12:29 | 真実の歴史