田舎侍ジャパン敗退:アメリカ「エイズ戦法」、まるで米太平洋艦隊のグラマン戦術だった!?
2017年 03月 23日
米空母グラマン
みなさん、こんにちは。
今回はWBC準決勝に関する個人的メモである。異なる観点から書いているため、大半の人とは意見を異にする。だから、スルーでよろしく。

昨日のWBC日本対アメリカ合衆国の試合はスリリングで面白かった。が、やはり代表選考の影がつきまとった。
また、日米の野球に対する考え方の違いも出ていて興味深かった。
(あ)代表選考に関して
まず代表の選び方に関して。
大舞台、大試合
こういう舞台で活躍できる選手や監督というのは、
何がしかの理論では語ることのできない何かを持っているものであるという事実である。
ラウンド2の松田選手はそうだった。三振振り逃げ、一塁悪送球。これで勝った。
本来なら今回の日本代表はそこで負けてもおかしくはなかったわけだ。
昨日のアメリカ戦では逆に裏目が出た。
そもそも完全アウェーで、グランドも未知数。そんな場所で雨が降った。
つまり、だれか雨男がいたわけですナ。タモリのようなやつだ。表では良い顔していながら、天然の悪。こういうやつが混じっていた可能性が高い。
こうなると、実力以上に物を言うのがツキや運である。
今回の日本代表には華がなかった。地味だった。確かにいぶし銀で、職人的なスモールベースボールも結構なのだが、やはり
爽やかさや明るさや華がない。
唯一大谷翔平選手だけがそういう華があったが、怪我で不出場となった。
これがすべての敗因だっただろうと思う。
唯一のメジャーだった青木選手も最初からメジャーリーガーということを気にしすぎて固くなりっぱなしで調子を崩した。
さて、そこで「どうして華がない」のかということをメモしておくと、やはり小久保監督他、甲子園での活躍が乏しい選手ばかりだったということである。
これはサッカーと同じで、代表クラスで活躍できる選手は、一戦必勝の長いトーナメントを戦い抜いた自信を持つ選手だけだという歴然たる事実がある。特別な例外を除き、そういうものである。
やはり緊張の一瞬、緊張の打席、緊張の守りという場面はどのクラスでも現れる。そんな時、甲子園の同じような場面での活躍が自信になるのである。
翻って、小久保監督、今回大事な場面でエラーした菊池選手と松田選手、大事な場面で力んで凡打した筒香選手と中田翔選手を見てみると、やはり甲子園の優勝経験あるいは出場経験がなかった。
小久保裕紀
和歌山市立砂山小学校から和歌山市立西和中学校へ進学し、野球部に所属。中学校卒業後は和歌山県立星林高等学校に進学し、1989年に青山学院大学へ進学。東都大学リーグでは通算40試合に出場して打率.291、8本塁打、23打点を記録する。1993年には小久保が主将となり、青山学院大学史上初の大学野球日本一に貢献した。
1992年にはバルセロナオリンピック野球日本代表に大学生で唯一選出され、予選リーグで2本塁打を放つ。のちにメジャーリーグベースボールでプレーするノマー・ガルシアパーラ、ジェイソン・ジアンビを擁するアメリカ合衆国との試合で、小久保は先制打を含む2本のタイムリー二塁打で勝利に貢献し、銅メダルを獲得した。
菊池涼介
中学生時代まで東大和市で暮らした後に、野球留学で長野県塩尻市にある武蔵工業大学第二高等学校(現在:東京都市大塩尻高等学校)へ進学。在学中のポジションは三塁手だったが、春夏ともに甲子園球場の全国大会へ出場できなかった。
松田宣浩
中京高等学校では主に3番・遊撃手で出場し、高校通算61本塁打を記録した[2]。2年時に第82回全国高等学校野球選手権大会に双子の兄とともに出場(当時の校名は中京商、3年時に校名変更)も、対沖縄県立那覇高等学校戦で延長の末、自らの悪送球で決勝点を与え、1対2で初戦敗退した。
筒香嘉智
関西の強豪校からの誘いもあったが、横浜高等学校へ進学。横浜高校でも長打力を買われ1年春から4番に抜擢ばってきされる。1年生での4番は紀田彰一(元横浜)以来。2年夏に第90回全国高等学校野球選手権大会に出場。初戦の浦和学院高等学校戦では先制本塁打。準々決勝の聖光学院高等学校戦では満塁弾を含む2打席連続本塁打を放ち、1試合個人最多タイとなる8打点を挙げる。準決勝で大阪桐蔭高等学校に敗れた。この大会では打率.526・3本塁打・14打点の活躍で4強入りに貢献。
中田翔
中学時代に大阪桐蔭高校の西谷浩一監督に入学を誘われ[6]、同校に進学。1年夏には5番・一塁手でレギュラーとなり、2005年の夏の甲子園ベスト4に貢献、また投手としても最速147km/hを計測[3]。秋からはエースで4番を任され、岡田雅利とバッテリーを組んだ。2年春には151km/hまで球速が伸びた。肩の故障で投手としては活躍が出来なかったが、4番・右翼手として出場し、打者として大阪大会新記録となる4試合連続本塁打、甲子園では推定飛距離140メートル弾、更に秋季近畿大会準決勝の市川高校戦 (和歌山県営紀三井寺野球場)で推定飛距離170メートルの本塁打を打つ[2][3]。この頃から「平成の怪物」と呼ばれるようになる。3年生時の7月6日、全国高校野球大阪大会直前の練習試合・生野工業高校戦にて当時の高校通算本塁打の新記録となる87本目の本塁打を記録[3]。大阪大会の決勝ではエースの植松優友を擁する金光大阪高校と対戦し、投手としては初回に3失点、打撃でも厳しいマークに遭い5打数無安打で、チームは敗戦して甲子園出場を逃した。
ついでに小久保監督の愛する華のある大谷翔平選手もまた甲子園覇者ではない。
大谷翔平
菊池雄星に憧れ、彼の出身校の花巻東高校へ進学。「日本一になる」「日本人最速となる163km/hを記録する」「ドラフトで菊池雄星を越える8球団から1位指名を受ける選手になる」ことを目標に掲げた[6]。入部後は監督の佐々木洋の「まだ骨が成長段階にある。1年夏までは野手として起用して、ゆっくり成長の階段を昇らせる」という方針により[7]、1年春は「4番・右翼手」で公式戦に出場。秋からエースを務め、最速147km/hを記録し、2年春には最速151km/hを記録し、“みちのくのダルビッシュ”と呼ばれ注目される。第93回全国高等学校野球選手権大会初戦の帝京高校戦では骨端線損傷により右翼手として先発出場するが、4回途中から登板し、田中将大(駒澤大学附属苫小牧高等学校)に並ぶ甲子園での高校2年生最速タイ記録(当時)となる150km/hを記録。その後は治療に専念し、試合には打者限定で出場した。3年の第84回選抜高等学校野球大会では初戦の大阪桐蔭高校戦で藤浪晋太郎から本塁打を打つも、11四死球で9失点と敗れた。3年夏の岩手大会の準決勝・一関学院高校戦ではアマチュア野球史上初となる最速160km/hを記録した[8]。しかし決勝の盛岡大学附属高校戦では5失点を喫し、高校最後の全国選手権大会出場はならなかった。
まあ、監督が出場する選手を決める。だから、選ばれた選手は目的に向かってただ頑張るのみだが、やはり監督の色が出る。
小久保監督の場合、どうしても自分がかつてそうであったように、陰ながら努力して頑張ってきた叩き上げのような選手にその価値を見出す。こういう傾向がある。
つまり、簡単に言えば、
華のある長嶋茂雄と同じ力量を持つ叩き上げの苦労人の野村克也を比べたら、小久保監督なら野村をとる。そういうことである。
しかしながら、大試合に強いのは長島タイプなのだ。
ゴン中山より上手い選手は無数にいた。しかし、だれもゴン中山のようには活躍できなかった。
ゴン中山は大事な試合で何も考えずに思い切り蹴ったボールがなぜかゴールに決まる。しかし、大事な試合で本田圭佑や香川真司や清武の蹴ったボールがなぜかポストに弾かれる。
この差がなにか?をもっと研究すべきなのである。
侍ジャパンの日本代表を選ぶ場合、甲子園までに松田のように痛恨のエラーで敗退したというような昔の記憶のトラウマを持った選手は外すべきなのだ。かならず同じことを大事な場面で起こす可能性が高いからである。
そして今回、まったく同じことをして敗退したのである。
どうでもいい試合でかっ飛ばす選手より、ここぞ、この大事な一場面で打つ選手、あるいは抑える選手、そういう選手を選ぶべきなのである。
キャッチャーの指示するところとは逆に行ったがそれが幸いして三振。なぜか、アウトにできるピッチャー。
凡打がちょうどいいところに落ちる選手。
なんだか華やいでいる選手。こういう選手を選ぶべきだろう。
サッカーで言えば、元鹿島の中田選手やGK川口選手、女子バレーで言えば、昨日引退した木村沙織選手のような華のある選手。こういった選手を代表に集めるべきなのである。
そういう意味で言えば、今回のサムライ・ジャパンは、かなり田舎侍ジャパンだった感が否めない。しかしながら、その分、ヒヤヒヤドキドキのスリリングな薄氷を踏む試合ばかりで面白かったという面もある。
(い)日米の野球の考え方の違い
やはり今回の敗戦の一つの要因として日米の野球のシステムや伝統から来る野球の考え方の違いが大きいように見える。
日本は一人の投手ができるだけ長く投げる。甲子園でもそういうシステムである。たくさんのピッチャーが出てくるのは卑怯だ。こういう考え方がある。
一方、アメリカでは投手は専門家であって、左打者専門、右打者専門、強打者専門、抑え専門、先発専門というような考え方である。
だから、アメリカの場合、打者一人ひとりでピッチャーを変えるということもあり得る。つまり、3×9=27人のピッチャーを使って打者一人ずつ苦手なピッチャーをあてがって勝つ。あるいは、一級ごとにピッチャーを変える。この場合は81人。ベンチメンバーを超えるからこれは不可能だが、これに近い発想を持っているわけである。
今回の試合では、投手7人。つまり、ほぼ1回に1人別の投手を使って日本打線を撹乱したわけである。
これを打てというのはかなり至難の業である。日本の打者が米投手のピッチングに慣れる前に投手を変える。エイズ戦法である。エイズウィルスのようにどんどん抗体の追撃を避けて性質を変えるのである。
日本の学習能力の高さを破るにはこれしかないわけですナ。
たしかにツーシームのボールばかりで打ちにくいということはあるが、これは昔から日本でもあるシンカーとまったく同じことである。だから言い訳にはならない。
はたしてアメリカのエイズウィルス戦術に勝てる方法はあるのだろうか?
短期決戦では分が悪い。
おそらく日本も同じ戦法で食い下がって相手の自滅を待つ他ないのではなかろうか?あとは我慢。忍耐である。
こういう場合にやはり華のある選手が活躍するはずである。
いや〜〜アメリカの米太平洋艦隊戦術はあなどれませんナ。まるで米空母から次々と物量に物を言わせて艦載機のグラマンを進軍させてきたようなイメージの試合展開だった。
こうなると捨て身の特攻戦術
しかなかったかもしれませんナア。ピッチャー返し。ピッチャーの顔面を狙って打つ。まあ、中田翔や筒香が一発狙いという色気さえ出さなければ、充分勝ったんだが、あそこで色気が出るのが、甲子園で優勝できなかった選手なんだよナア。
いずれにせよ、お疲れ様でした。ご苦労様でした。3位をねぎらって今後の糧にしてください。
どうもありがとうございました。
それにしても日本不利の雨の中でも試合強行するとは、アメリカはいつも罠にはめますナ。
いやはや、世も末ですナ。
おまけ:
甲子園では一塁にヘッドダイビングする。
一時、一塁を走り抜けるほうが早いという説がまかり通り、大股で走り抜けることが推進された。しかしながら、やはり最後は横になったほうが身長の分前に出るのである。あまり遠くからダイブすると空中時間が長くなるから遅くなるが、適度な位置からは前横に身体を倒した方が距離が縮まるのである。これはリオ五輪の400mで証明されたのである。偶然最後につまずいて転んだほうが胸が先に出て勝利したのである。これだ。
というわけで、日本代表は甲子園のように一塁にヘッドダイブしてほしかった。

by kikidoblog2 | 2017-03-23 11:25 | サッカー&スポーツ