今日は俺の生誕60年:還暦祝いの「た・わ・ご・と」一発!:いかに生命体を計算するか?
2017年 10月 13日
うそこメーカーで発見:「人類愛100%」の愛の男!
うそこメーカー「脳内メーカー」
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みなさん、こんにちは。
私は個人的には、
13日の金曜日が好きである。特に悪い印象を持たない。
というのは、今日が私の生誕60回目の誕生日だからである。いわゆる還暦だが、この20年というものまったく心身にあまり変化を感じない。
いまだに朝に勃起もすれば、精子も枯渇していない。
冗談はよしこさん。
そんなわけで、今日は誕生日で気分のいいので、いつもとは違ったことをメモしておきたい。
この60歳になるちょうど10年ほど前、私は一切研究テーマとして物理をしないことに決め、生物の基本原理を見つけることに挑戦してきた。
もちろん、基本的な数学や物理科学の理論は使うわけだが、つまり、使えるものはなんでも使うのだが、そういう道具立てはともかくとして、どうして非生命体と同じ物質原子を使っているのに生命体が生命現象を起こせるのか?その謎に挑戦してきたわけだ。
最初の5年はまったく手がかりがつかめなかった。
この5年は、主に、九州大学の巌佐庸博士の教科書
「生命の数理」を真面目に全問解きながら、現代生命理論の大筋を理解することに努めた。
ここで、面白いことに、そこで巌佐先生は、ポントリャーギンの最適制御理論およびベルマンの最適制御理論を生物へ応用していたことである。
このあたりのことは、拙著の
「ニコラ・テスラが本当に伝えたかった宇宙の超しくみ 上 忘れられたフリーエネルギーのシンプルな原理(超☆わくわく)」の最後に書いた。
それから、ポントリャーギンの最大原理やベルマンの最適性原理の勉強を始め、たくさんの教科書を勉強し、この工学のこの分野の大体のところを理解した。工学だからマクロ理論である。
こうして、最初の数年+2〜3年=7〜8年経って、やるべき理論の方向が少しわかってきたのである。
そんなわけで、統計力学にポントリャーギンの最大原理やベルマンの最適性原理を導入していけば、おそらく非線形非可逆過程の熱力学が作れるだろうと予想して、これに集中していたわけである。
そして、それを一応英文の論文形式に直して、私のサイトに貼り付けた。
"Theory of Non-equilibrium Thermodynamics in the Optimal Control Processes
Part I: Mathematical Formulation", ver.9 (Feb.26, 2014).
"Theory of Non-equilibrium Thermodynamics in the Optimal Control Processes
Part II: Physical Apprpoaches to the Pontryagin's Maximum Principle", ver.4 (12 Mar 2014).
だから、だれがどれほど読んでいるかはわからない。
そうして、これを化学反応系に特化した論文を書いている頃、その理論に確率論を取り入れる保江邦夫先制の理論との接点を考えていた頃、一柳正和先生(故人)の
「不可逆過程の物理」を知り、それを読んでいくうちに、杉田元宜博士(故人)の存在に気がついたのだった。そこで、この謎の杉田元宜博士の仕事を探索することにした。
ところで、この一柳先生のこの本は、先生が末期がんで入院中のベッドの上でご執筆されたといういわくつきの遺作である。
だから、どの項目、どのセクションもかなり不完全な記述が目立ち、批評された人たちからの評判はあまり良くなかったようだ。しかし、死の最後まで理論物理、および我が国の統計力学理論の歴史変遷に対して執念の執筆をなされた心意気にはとても感謝したい。
したがって、当然杉田元宜博士への記述も誤解に満ち満ちた不完全なものだった。もちろん、あとでわかったことだが。
そこで、インターネットで杉田元宜博士の業績を昨年の春頃検索すると、ほんの2,3のものしかなく、難儀を努めたのである。アマゾンでもわずかの本しか検索できなかった。
最近では、私の著作やこのブログでの話題として杉田先生の名前を頻繁に出した頃から、インターネットにもアマゾンにもおよびグーグルスカラーにも多くの杉田先生のご研究や著作が最初に出てくるようになっている。
まあ、自分でいうのもなんだが、これはひとえに私の努力のかいあってのことである。
こうして、杉田先生の論文を調べると、これまた驚くことに杉田先生は、ほとんど日本語で論文を書き残していたのである。
先生は、戦前戦中に理論物理を日本で行っていたから、また特に戦争に重なっていたために海外留学や海外渡航の難しい時代に重なってしまっていたのである。
戦前はドイツ語で我が国の数物学会誌に出版し、戦後は英語で出したのだが、我が国は戦前はドイツ語が第一外国語、戦後は英語が第一外国語と大変化した。だから、先生のドイツ語の論文(これは杉田先生に限ったことではないが)は戦後の日本の学者からはまったく読まれた形跡がない。まったく引用がないからである。
杉田元宜博士は、戦時中の太平洋戦争末期に病気になり、病床にいた。その時代に熱力学の教科書を1冊したためた。それが、私が結局1人で再販することになった
「熱力学新講 ‐杉田の熱力学」である。
この本の出版にあたり、もちろん私は当時の出版者であった地人書館にも再販の勧めをしたのだが、すでに地人書館ですら、戦時中の本に関する興味がない。当時の関係者もすでに死んでいて、何十年も昔の本を処理できるものがいない。著作権の幽霊、あるいは、著作権の迷子になっている始末で、結局再販するならご自分でご自由にというご好意で、私が小さい出版社(太陽書房)から出版したのである。
また、この本の次作であるものが、戦後に出版された
過渡的現象の熱力学 ‐生物体の熱力学の構築に向けてである。
この本は岩波書店から出版されたが、これ同様に(実際にはこちらが最初だったが)岩波の著作権の迷子になっていた。
「著作権の迷子」とは、著作権保持者およびその子孫や親族の所在が行方不明になり、だれが現時点で著作権を受け継いでいるのかわからないものをいう。
我が国では、法律改正がないため、ちょっと昔や何十年も前の著作権もしっかり生きていて、再販するにも再販できないものが多いのだ。
よく我が国の物理学専攻の学者や学生が、「この本は良いからぜひ再販して欲しい」というような希望を出版社に送れば再販できると、まるで小学生のように信じているおバカな連中がいるが、出版業はそういうものではない。
再販するには著作権ホルダーに許可を取らなければならない。これに非常に時間がかかるのである。多くの場合は著作権の迷子状態で、ほぼ不可能となる。
この困難に火に油を注ぐ結果になるのが、「個人情報保護法案」である。
この法律のために、もし著作者が死去した場合、その著作権ホルダーである遺族や親族を見つけなければならないが、その遺族探しの時点でこの法律が障害になるのである。「個人情報保護」として、出版社も大学も親族の住所や指名や連絡場所を教えてくれないのである。
その昔、我々が学生だった頃のように、出版社に電話したらすぐに著作者の家に電話できたという時代とは雲泥の差があるのである。
結局、杉田博士の親族探しがほぼ不可能となり、諦めたとき、どこからともなく救いの手が差し伸べられた。埼玉県の宝城寺の住職の奥さんだった方が、お墓の関係から寺の専属顧問弁護士を通じて住所を探してくれたのだった。これなくして著作権や再販許可が得られなかった。
ところで、一方、アメリカにも同じような問題があったはずである。そのアメリカはどうしたか?
これはネルソンの本
「ブラウン運動の動力学理論」を再販するときにその著作権者に許可してもらうために連絡したときにわかったことである。
この本のアメリカの出版社によると、全米では、
1970年以前の著作の出版権はちゃら。つまり、自動的に無効。
つまり、1970年以前(〜1969)の本の場合は、著作権ホルダーが著作権を再申請しない限り著作権は無効=フリーになる。
こういうやり方だった。実に賢いやり方だ。
この法律のお陰で、アメリカではドーバーとか、幾多の古典本が復活可能となったのである。古典を複写印刷すれば、だれでも再販できるのである。
このせいで、私はネルソンの本の翻訳はご自由にどうぞという許可がおりた。
ところで、逆に著作者がつかまらず(見つからず)に翻訳許可を得られない場合もある。私がウィリアム・リン博士の「オカルト・エーテル物理」の本をすでに日本語訳しているが、その著者の居場所がどうしてもわからないために、この本がいまだにペンディング(宙ぶらりん)状態なのである。もう2年もペンディングである。
さて、話を生命論に戻すと、こうして杉田元宜博士の生前の研究を学ぶと、私の最大原理の非平衡系への応用の研究と本質的に同じであることわかり、私は大いに勇気づけられた。私より70年以上も前に杉田元宜博士が同じ問題に挑戦していたわけだ。しかし、その当時やそれ以後の我が国の理論物理学者たちからは冷笑されっぱなしだった。
そこで、その歴史を変えるべく、特に海外の人に杉田元宜博士の思想を知って欲しいために、英語論文を書くことにした。これが昨年の初夏である。大半は阿南の海、中林海岸の小屋で海を眺めながら、涼しい風の中で書き上げたものである。
Motoyosi Sugita—A “Widely Unknown” Japanese Thermodynamicist Who Explored the 4th Law of Thermodynamics for Creation of the Theory of Life
この論文は海外から意外な反響があった。これを本にしたい。同じような解説を書け。国際学会で話せ。などさまざまなものがいくつも来た。が、私はすべてお断りしている。めんどくさい。僅かに神戸大のセミナーで話したのみ。
こうして、生命現象へ熱力学を応用していく新しい方向性は明確にわかったのだ。
そこで、私は
「今一度生命を洗濯致し候」というわけで、生命の勉強を始めた。この方向で一番よろしいものは、丸山圭蔵博士の教科書だった。
生命―永遠を志向するもの
生命とは何か
丸山圭蔵博士は京都大学の生物学者で、特に電子顕微鏡で徹底的に生命の内部を観察した研究者である。
生物学者にはたくさんの丸山さんがいて、丸山ワクチンの丸山さんではない。丸山工作さんでもない。
これらの本は一貫して、現実の「生命体」を内部構造から代謝、エネルギー構造などすべてをつぶさにまとめていることである。
私はこの本で何を学びたかったかというと、それは
「世界最小の生命体はなんだ?」ということである。
おもしろいのは、この私の問題意識とまったく同じ問題意識でこの本が書かれていたということである。
つまり、丸山圭蔵博士は何が最小生命かと言っているかというと、
マイコプラズマだったのだ。
マイコプラズマこそ世界最小の原形質膜を持つ、つまり、一つの系としての区分を持つ生命体なのである。
ウィルスは自己複製できないから、最小生命体ではない。寄生体である。
したがって、マイコプラズマの全活動を理論化できれば、生命原理が分かったことになる。
というわけで、最近こういうテーマで研究しているものがいないか調べたら、それがクレッグ・ヴェンターだったというわけだ。
ヴェンター博士「マイコプラズマのサイボーグを作りだす!」:俺「生命の水素原子はマイコプラズマか?」
ヴェンター一派は実験家だから、マイコプラズマの人工合成に興味がある。しかし、世界最小の生命体という観点では一致していたわけである。
彼らは、現存のマイコプラズマの遺伝子をどこまで削れば生きていられないか、自己複製できなくなるかを調べたのである。そうして、最小のマイコプラズマのタンパク質の数を見つけたのである。
約300〜480個。
面白いのが、実は、上の丸山圭蔵博士は、もしマイコプラズマの構造を生み出し、生命活動するために必要な最小の遺伝子数やタンパク質の数があるとすれば、それはいくつかであるのか、を理論的に大まかな見積もりとしてすでに出していたことである。
約280個。
これが、ヴェンターの研究とほぼ一致していたのである。
だから、タンパク質300個程度をコードし、それ以外にt-RNA, m-RNA, r-RNA, i-RNAなどをコードするするDNAを持つシステムの理論ができれば、マイコプラズマの生命活動が計算可能となるはずなのである。
生命では1個のタンパク質が1個の化学反応の触媒になる。
というわけで、1個のマイコプラズマの生命活動は、せいぜい数百次元の連立微分方程式で表されるのである。500次元は多いが、有限である。たぶん経済学の方がもっと難しい連立微分方程式を使うのではなかろうか。
こうして、マイコプラズマの1個の生命現象を表す方向性が分かったわけだ。
ところが、こうしてみると、世の中には真の天才がいる。
かれこれ70年前の杉田元宜先生の時代のアメリカに、Heinmetsというスタインメッツに似た響きの名前を持つ理論生物学者が米海軍にいた。まだコンピュータこと電子計算機のない時代である。
このハインメッツは、当時最先端のアナログコンピュータ技術を駆使して、生命の原子である細胞の活動を19個の変数の連立微分方程式として記述し、その理論計算をしていたのである。
Analysis of Normal and Abnormal Cell Growth: Model-System Formulations and Analog Computer Studies(この本のように、アメリカでは1970年以前の本の著作権は強制終了されたために、こうして現代的な再販が可能なのだ)
この70年前のハインメッツの研究において、彼は、どういう場合に細胞が癌化するかとか、そういうさまざまの状況を計算していたのである。
あまりに時代が早すぎ、杉田先生以外にあまりこの研究を評価した人はいない。
というようなわけで、1個の細胞を微分方程式化し、そこにポントリャーギンの最大原理を用い、計算できるという可能性がいよいよ出てきたわけである。
これが私のこの10年の研究の成果である。
しかしながら、俺にはこれを実現するスーパーコンピュータもなければ、金も研究室もない。
いやはや、世も末ですナ。
おまけ:
こうして10年を振り返ると、俺は物理をしない、生命の研究をするといって始めたのだったが、最近は最終的に再び生命現象のミクロの肝を探していくうちに、やはり最後の最後は物理ではないか、という気がしてきたのである。
というのは、生命現象でいくたの化学反応で物質を作り出したとしても、それが「自己複製」あるいは「自己集合」しなければ、生命体のパーツがつくれない。自己複製よりむしろ自己凝集、あるいは、自己集合の方が大事なのではないかと思う今日このごろである。
この自己集合というのは、タンパク質の折りたたみ、あるいは、ウィルスをいったんバラバラにしてもすぐに元の形に戻る、あるいは、リボソームをばらばらにしてもまた元の構造が再現できるというような現象があり、こういうものがないと、生命体が作れない。
つまり、人の手を借りずに自分で形を作り出す能力こそ生命の七不思議の最大の謎である。
これはおそらく物理現象である。
というわけで、生命は物理を超えているが、その究極はやはり物理なのである。
生命現象の「見えざる手」、これをいかに考えるかに生命を解く鍵がある。
これならスーパーコンピュータのない私でもなんとかできそうだ。

by kikidoblog2 | 2017-10-13 14:15 | 個人メモ