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「新一の『心の一票』」:「心壁論」「ノーと言える人間」の重要性1   

みなさん、こんにちは。

(あ)
さて、先日メモした
偉業:数学者望月新一博士のABC予想の証明ついに認知される!
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およびブログ
新一の「心の一票」
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「新一の『心の一票』」:数学者望月新一先生のブログ発見!1
の内容は実に興味深い。

(い)
特に以下の
「心壁論」と、論理構造の解明・組合せ論的整理術を「心の基軸」 とすることの本質的重要性 (9)
は何度か読み返しているが、その都度何んらかの発見があるという優れものにみえる。

望月新一博士がいったい何をいわんとしているのか?

を理解するには、それなりの深い論考が必要だろう。

海外で子供の頃から生活したという経験がないとそれを追体験できないし、理解不可能だから、本当に理解するということは不可能だろう。

しかしながら、ある程度の理解は可能だろう。

(う)
望月博士のいう
「心壁論(こころ(ある)かべろん)」
は実に興味深い。

かつて養老孟司先生が
「バカの壁」
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という本を出してベストセラーになったが、私の印象では、この「心壁論」も本にすればベストセラーになるのではなかろうか?家が建つ。

養老先生の「バカの壁」の「壁」と望月先生の「心の壁論」の「壁」とはたぶん同じようなものだろうと思う。

心の中にできる「壁」である。

しかし差もありそうだ。

前者の「バカの壁」の「壁」が無意識に生み出す「壁」だとすれば、後者の「心壁論」の「壁」は意識的に生み出す「壁」である。

まあ、養老先生の本は本屋で斜め読みしただけだからよくわからないが、そんな印象を受ける。

(え)
この「心壁論」では、以下の部分が興味深い。

・逆に十分に異質な者同士の間に適切な「壁」を設定しないと、当事者の手に負えない複雑度の爆発が発生し、当事者同士の間の認識解像度が著しく低下することによって通常の人間らしい社会が破綻してしまうような状況に追い込まれてしまいます。これは政治的な問題、あるいは語学力の問題として誤解されがちですが、問題の本質は状況全体の論理構造にあり、一種の数学の問題として理解されるべき事象です。


たぶん日常生活で目撃する物事がすべて数学の問題にみえる、感じる、聞こえるというような認識スタイルはあまり数物理に親しくない一般人には理解されないかもしれないですナ。

しかし、我々数理系の人間には実によく分かる主張の一つなのである。

政治問題は、その基本は「囚人のジレンマ」的なナッシュ均衡のゲーム理論としてみることができる。

バカの壁とか、心ある壁論とか、そういうものは、情報の「複雑度の爆発」と見ると、それは一種の数学になる。

つまり、自分の処理能力を超える情報データが一度に入った場合に起こる現象であり、それでパニックを起こして何もできなくなるのを防ぐには、それなりの壁を作って防御する。それが大事だということである。

これが数学の問題として定式化できるはずだ、ということである。

情報であれ、流れであれ、物流であれ、その経路の処理能力を超えた流れが入れば、パンクする。つまり、交通渋滞が起こる。今では、西成活裕先生の
「渋滞学」
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なるものまで出ている。

ところで、この西成先生は昔はソリトンの研究者だったが、いつの間にか渋滞学の専門家になってしまった。と同時にすっかり髪の毛がなくなった。

(お)
さて、「複雑度の爆発」というのはどのように数学的に定義すべきだろうか?

いっとき流行った「認知的不協和」というのも、この現象と関係がありそうである。

いずれにせよ、かつてから言われていたように、人の頭は自分の理解力を超えるものが来たときには、いったん拒絶するのである。

空飛ぶ円盤を見ても、あまりに複雑度の爆発があるために、それを見なかったことにするとか、あるいは、なかったことにするとか、気のせいにするとか、こういうことも「複雑度の爆発」のせいである。

あるいは、かつて保江邦夫先生が、カソリック神父のスタニスラフ神父と面談した際、あまりに複雑度が大きすぎて、その直後には何が起こったのかさっぱり覚えていなかったという話もこれに関係しているだろう。

自分の普段取り扱う世界を遥かに桁違いに超えた情報量や経験量や歴史量などあらゆるものが超越した状況は、その当人にとっては、あまりに複雑怪奇なものとなり、処理不能となる。結果、なかったことにしてしまう。

それよりは、むしろ最初に「心ある壁」を作って、そこから通してみる。

怖いものを見るときに、手でいったん目隠しし、それから指の隙間からちょっと垣間見る。

とまあ、印象としてはこんなイメージに近いのかもしれない。

(か)
望月先生のこのエッセイの中盤の言語の話は前にメモした
「新一の『心の一票』」:「心ある壁」を構築し、維持することの重要性
「新一の『心の一票』」:「心壁論」と、論理構造の解明・組合せ論的整理術を「心の基軸」 とすること2
からはしょって、後半の以下の部分もメモしておこう。

少し話しが変わりますが、自分の学生(=修士課程や博士課程の大学院生)が英語で論文を書くときの指導の様子や方針について言及したいと思います。そのような指導をするときの「定番の話題」として、定冠詞・不定冠詞が付くか付かないか、単数形にするか複数形にするか等、英文を作文する際の「お馴染み」のテーマがありますが、私がいつも強調するのは、英語の語学的な技術的な側面等、

  無数の非論理的な慣例や不具合・「歪み」
  を抱えた自然言語に過ぎない

       「英語」を忘れて、

  数学的な内容の

        論理構造
      「組合せ論的整理術」

  (=議論や解説を細かく分割してその部分
  部分を最適な順番に並び替えたりすること)

に集中することの本質的な重要性です。

これが英語論文を書くときの真髄だというわけである。

これは英語でしゃべる場合も同じで、会話では「発音が大事だ」「rとlの区別が大事」「sとthの違いが重要」とかいう話に対して、「いや実は会話で一番大事なのは話の中身だ」という意見に似ている。

いくら母国人並みの英語の発音で英語を話してもその会話の中身の半分がジョークで残りがバッドワードだったら意味がない。まさに「意味がない」=「時間の無駄」である。

それよりは、発音には不備があろうが、何を一生懸命話そうとしているか、その熱意や内容、こういったものがあれば、いくら発音が悪かろうが相手は話に引き込まれ、自ら話を理解しようとする。だから、話の内容こそ命である。そのためには、話の中身を作るためのもともとの素養や教養が大事なのである。

そしてその場合に何が一番大事かといえば、そういう話の中身を理路整然とわかりやすく上手く順番に話すという頭脳である。

とまあ、そういうことである。

英語の論文を書くときもこれと同じだということなのである。

そういう話の中身とその組合世論的な側面が見事な英語の数学論文を書く時の決めてであって、ほとんどそれが全てだという意見である。

御意。まったく賛成である。


(き)
翻って、PPAPのピコ太郎が何故受けたか?

まあ、Pやパピプペポで始まる単語は、乳幼児期からの糞尿用語の刷り込みから特に生理学的に印象に残る発音として知られているから、PPAP、PIKOのPの連結が非常に印象に残るという面がある。

英語圏の外人には、カタカナのアップルと発音してもそれはジャパニーズイングリッシュでしかなく、アッポーとカタカナで発音したほうが英語のAppleの発音に近いのである。

100数十年前のジョン万次郎の

掘った芋いじんな〜(ほったいもいじんな〜)!

と発音したほうが、

ホワット タイム イズ イット ナウ?

と発音するより、

What time is it now?

の原音に近いのである。

私がハワイで何度も実験したが、ジョン万次郎の発音は100%時間を教えてくれた。

この意味で、ピコ太郎の発音が良かったともいえる。

パイナップルというより、パイナッポーの方が原音に近いし、アッポーペンの方がApple penに近い。

アップルマッキントッシュというより、アッポーマキンタシュの方が原音に近い。

だから、もしピコ太郎が和製発音で

ペンパイナップル アップルペン

とやったらここまで流行らなかったにちがいない。

つまり、中身がない場合のみ、発音が意味を成す。が、中身があれば発音は無関係なのである

(く)
最後の後半の以下の部分は実に興味深い。

上述のような英文添削の文脈ですと、いつも思い出すことですが、英語に出てくるような定冠詞・不定冠詞は、日本では「欧米文化を代表するような事象」として見做されがちですが、古代や東欧まで視野を広げてみますと、

ラテン語には定冠詞も不定冠詞もない、
古代ギリシャ語には不定冠詞がない、
・(現代)ロシア語には定冠詞も不定冠詞もない

等、多くの日本人の感覚とだいぶ違う実態が浮かび上がってきます。また、ラテン語の場合、標準的な語順は日本語と同じ「SOV型」(=主語 (Subject) - 目的語 (Object) - 動詞(Verb))となっていて、日本語の感覚からすると強い違和感のある英語の「SVO型語順」と違います。子供の頃(=10歳前後)の私には、このような文法的特徴を持ったラテン語やギリシャ語はとても魅力的に映り、

 十分に古い時代まで遡りさえすれば、英語の
 ような現代のヨーロッパの言語が日本語と
 繋がっている世界
を発掘できるかもしれない

といったような感覚から、15~16歳の頃(=プリンストン大学の学部1年生の頃)までラテン語とギリシャ語の他に、印欧語族の中でも最も古い言語の一つであるサンスクリット語をかなり熱心に勉強しました。

なお、この定冠詞・不定冠詞の話題をするときにいつも思い出すもう一つの重要な側面は、

      一神教・多神教との関係

です。この側面は私の研究IUTeichの中でも重要な役割を果たす数学的な概念である

         基点宇宙

あるいは、より初等的な数学でよく出てくる概念である

          座標系

というものとも密接な関係にあります。その関係を一言で説明することはなかなか難しいのですが、現代の一神教の欧米の文化では、

   「たった一つの神しか存在しない」

ことになっているのに対応するように、

  「たった一つの、がっちり決まった物事
   の考え方=座標系=基点=`心の基軸’


の下で思考する文化が徹底されています。このような全体的な文化的な状況は、定冠詞・不定冠詞が付くかどうかの基準となる、

    言語空間で許容されている表現
    のイメージの、一つのがっちり
    決まった「座標系

と符合します。一方、日本のように「多神教」(=神道の「八百万の神」)系の文化的環境ですと、そのように

   許容される表現のイメージ全体に一つ
   の固定された「座標系」を敷き、表現
   のイメージ全体を通して

      同一の「座標系」=「視点」
     =「声」=「神」=「心の基軸」


   しか認めないという姿勢を徹底する
   ことにはどうしても強い違和感を覚える

ため、定冠詞・不定冠詞が付くかどうかの判断基準となるものが見当たらず、付くかどうかさっぱり分からない、判断のしようがない、という精神状態からいつまで経っても抜け出せないでいることになってしまいます。

子供の頃(=5歳~10歳=初めて米国に渡って間もない頃)の私は、上記のような「難しい言葉」では上手く表現できなくても、上記のような状況を子供なりに、「空気的」に、直観的に完全に理解していましたし、「一神教の人間ではない」、つまり学校等でよく耳にした、より素朴な表現で言うと、「お前は神を信じるのか、信じないのか」というような形で問い詰められたりして遭遇した苦しい社会的な状況もあって、言語だけでなく、

      古代ギリシャやローマ
     (「日本と同じ」)多神教

に大変強い関心を持っていました。実際には、ヨーロッパでは、古代ギリシャやローマだけでなく、ケルト民族やドイツ民族、更にはロシア民族には、キリスト教が普及する前に長らく続いた多神教の伝統があったのです。


この部分だけでも2、3章は書けるのではなかろうか?


(つづく)





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by kikidoblog2 | 2017-12-26 11:11 | 望月新一・心の「一票」

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