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「新一の『心の一票』」:「認識状態歴の可能性の有限性 」→「確率論」か「推定論」か!?   

みなさん、こんにちは。

さて久しぶりに望月新一博士のブログ記事の話題で行こう。といっても相手は世紀の若き天才。私の出番も勝ち目もない。

最近はメモしている内に思いついた思いつきもメモするようにしているから、話があっちこっちに飛ぶがそれもブレインストーミングだと思っている。というより、最初からこのブログは自分のための個人メモだから、読者を念頭においていない。ご了承いただきたい。

新一の「心の一票」
「新一の『心の一票』」:「認識状態歴の可能性の有限性 」→「確率論」か「推定論」か!?_a0348309_133895.png

この中の最新記事がこれ。
第68回NHK紅白歌合戦の感想と、数学(あるいは一生の「認識状態歴」の可能性(!))の有限性 (18)

この中の最後の方に結構奇妙な話が書かれている。
まず、話はがらっと変わりますが、数学の研究は通常、研究論文という形で記録され、その研究論文は通常、英語で書かれたPDFファイルという形のデータとなって保存されます。そうすると、如何なる論文も、所詮は一つの複雑な文字列、あるいはコンピューター上の抽象的なデータとして考えると、「0」と「1」の列になります。そうすると、数学者のような立場で考えると、人類の寿命は有限ですし、例え(極論になりますが)生まれたときから打ち始めて、一切(食事等をせずに)150歳のときまで打ち続けたとしても、一人の人間が一生のうちに生成できるそういう

    データ(=「0」と「1」の列)の
         長さは有限

であるということになり、また、そのようなデータ(=「0」と「1」の列)には(数値的には膨大な数になるとしても)

     有限通りの可能性しかない

ということになります。このような議論のヴァリアントとして、PDFファイルの代わりに、画像ファイル(=JPGファイル)、音声ファイル(=MP3ファイル)、動画ファイル(=MP4ファイル)等を記録に用いられるデータ形式として想定した場合にも同様な考察は成り立ちます。また、一人の人間ではなく、地球上の人口には上限があるわけですから、「全ての人間」という形の考察もできますし、地球そのものの寿命も有限だという視点に立つと、「過去にも未来にも存在する全ての人間」という形の同様な考察もできます。

要約すると、

 (*)数学は上記のようなデータ(=PDF,
    JPG, MP3, MP4等)によって、如何
    なる情報の損失も生じることなく(=
    数学用語でいうと、

     数学 ↦ 上記のようなデータ

   という対応は単射になる)、完全に
    記録可能である

という仮定の下で考えると、最近流行りの「人工知能」の文脈でよく取り上げられる囲碁、将棋、チェス等のように、

    数学は完全に有限なゲームである

という結論が従ってしまいます。つまり、数値的にはとてつもなく膨大な量のデータの処理を必要とする計算になるとはいえ、

  「全ての数学」は、とある有限的な計算

に帰着可能であるということになります。

上記の議論のまた別のヴァリアントになりますが、

    (**)人間の脳に体験可能な
     「認識の状態」は有限通り
     しかない

という仮定の下で考えると、

   少なくとも「認識状態歴」のレベルで
   見ると、人類に経験可能な人生は高々
   有限通りしかない

という結論になってしまいます。

もちろん、上記のような議論では、「有限」と言っても、可能性は数値的にはとてつもなく膨大な数のもの(=数学用語でいうと「濃度の集合」)を扱っていることになります。しかし、数学者の視点に立つと、数(=「濃度」)の数値的な大小ではなく、

        有限か無限か?

という定性的な性質が一番気になる点になります。

一方、通常の人間的な感覚から言っても、

    「人類に経験可能な人生は高々
       有限通りしかない」、

つまり、言い換えれば、その有限通りしかない可能性を(例え、現在の計算機技術では不可能だとしても、いつか開発される未来の計算機技術によって)

  一度全部計算して列挙しておけば、人間
  は「わざわざ」様々な苦労に耐えながら
  生きていく意味がない

等というような結論は、普通の人間なら受け入れることに対して強い抵抗感があるはずです。

数学者も同様に、「全ての数学」は有限量しかなく、(例え、現在の計算機技術では不可能だとしても、いつか開発される未来の計算機技術によって)

    一度全部計算して列挙しておけば、
    数学者は「わざわざ」様々な苦労
    に耐えながら数学の研究を行なう
    ことに意味がない

といったような結論を受け入れることに対して並々ならぬ抵抗感を持っていると言い切ってよいかと思います。

そうすると、上記の諸々のヴァリアントの議論の出発点となった

    上記の(*)や(**)のような
    「有限性仮説」は果たして正しい
    のだろうか、

ということが気になります。

特に、例えば(*)のような「単射性仮説」、つまり、「数学は論文(=PDFファイル等のデータ)によって完全に記録可能である」という仮説は、(私の場合、まさに自分の研究(=IUTeich)関連の様々な経験を経て感じたことですが)

    どうも正しくないのではないか、 

つまり、「数学」を完全に記録し、伝達するには論文(=PDFファイル)だけでは不十分であり、どこかに

     「抜け落ちている情報」が
       あるのではないか、

と強く感じております。まさにそのことが以前から気になっているからこそ、

   その「抜け落ちている情報」が忠実に
   表現されている可能性があるように感
   じる別系統の媒体=例えば、
   ・2017-01-06付けの記事で取り
    上げた「サイマジョ」、
   ・2017-11の二つの記事で取り上げた
    「芸術」や「バベルの塔の説話」、
   ・今回の記事で取り上げた
    「インフルエンサー」

の検証に、数年前から特に強い関心を抱くようになりました。

ただし、このような検証=「一種の研究」はまだ初期の段階にあり、例えば、数学の場合、

   何故に同一のPDFファイル等のデータ
   を入手しているにも拘わらず、ある
   数学者にはそのデータに記録されて
   いることになっている数学が比較的
   容易に伝わっているのに、別の(同一
   の専門分野のはずの)数学者には同じ
   データに記録されているはずの数学
   がいつまで経っても伝わらないか

という、実務的なレベルの謎の解明には全く至っておりません。


私の受けた印象では、これは暗に
「P≠NP予想」問題
のことを言っているのではなかろうか?

ところで、この「P≠NP予想」というのは、ポアンカレ予想と同じように、ミレニアム問題の1つであり、これを解明すると1億円もらえる。

このポアンカレ予想は数年前にペレルマン博士により解決された。が、彼は金も賞も受け取らなかった。きのこ狩りで満足。というより、日本の多くの中高年ニートのように、老いた母親の生活の面倒を見ているのである。

ところで、一人っ子が多くなって一番こまることは、その両親の老後の面倒を見なければならず、それまで自分も核家族を作ろうと思い、首都圏で就職していたのに、地方に居残る老いた両親を見るために、自分の仕事を辞めて、形式上はニートのような形にならざるをえないということである。

日本のメディアは超絶反日だから、女子供の託児所だとか、幼稚園だとか、学校だとか、そういう女性中心主義だけで見ているが、世の中の一番の問題は、ちゃんとした仕事についていたのに、それを辞めてまでしなければ、両親の親の介護をできなくなるという方なのである。

在宅で仕事ができるようになれば、ちゃんとある程度の(多少は負担を減らすことになるが)仕事もしながら、親の介護も見ることができ、親がおなくなりになればそのまま仕事に戻れるというようなことができるはずのものなのである。

女性に産休(産後休暇)のようなものが有効だとすれば、男性に対して(もちろん女性に対しても)

介護休暇=介休

も必要なのである。

そうすれば、会社をやめなくてもすむはずだ。いったん会社を辞めれば、再就職は非常に難しくなるし、同じ会社も再雇用がやりにくくなるばかりである。

私は知り合いに数人そういう形で、親の介護のためにそれまでの会社をやめざるをえなかった中高年の男性を知っている。

いずれにせよ、親の介護は非常に大変なのだから、そういう時にこそそれなりの善処を元社員に対しては行なうべきだろうヨ。


さて、話が介護に飛んだが、望月新一先生の話。「P≠NP問題」の話。

これは、ウィキにはこうある。
P≠NP予想

P≠NP予想(P≠NPよそう、英: P is not NP)は、計算複雑性理論(計算量理論)におけるクラスPとクラスNPが等しくないという予想である。P対NP問題(PたいNPもんだい、英: P versus NP)と呼ばれることもある。
理論計算機科学と現代数学上の未解決問題の中でも最も重要な問題の一つであり、2000年にクレイ数学研究所のミレニアム懸賞問題の一つとして、この問題に対して100万ドルの懸賞金がかけられた。

(以下省略)


というわけで、ひょっとしたら、「ABC予想」が解決したわけだから、望月博士は今度はこの問題にチャレンジし始めたのだろうか?

そういう感じがしますナ。


さて、この問題もそうだが、ある空間があった時、その空間内をくまなく探索して解をみつける、というやり方と、なんとなく(うまく偶然を使って)解をみつけるという二つのやり方がある。

望月先生の話にあるように、例えば、自分の論文の語数と同じ情報をもつ空間、こういうものはとてつもなく広い。アルファベット26文字で考えたとしても、26を文字の数だけ掛けた可能性の空間が生まれる。

だから、望月先生の論文は、その中のたったの1つということになり、数学で言う、「ほとんど測度0」で存在することになる。なぜなら、1/その空間全体の大きさ、だからである。

これが普通の確率論の考え方である。


実はここに落とし穴がありそうだ。と、私はかなり前から思っている。


というのは、数学者にはいないが、物理学者には、特に理論物理学者の中には特殊な人間もいて、つまり、ちょっと風変わりな性向の考え方をするものがいて、なんでも疑う人間というものがいる。

そういう風変わりな人間の中で、最近一番気になるのは、

「確率は存在しない。確率という概念は現実世界では無意味だ。」

と主張しているものがいるのである。知っていたかい?


どういうことか?

というと、簡単なコインやサイコロの振りとか、だれもが可能性の空間を数えられるようなものでは意味をなすが、それが簡単に数えられないような場合、確率を考えることにメリットがないということである。

サイコロなら、1〜6の6個の可能性があり、100回サイコロをふれば、6を100回かける可能性の中の一つが生まれると考えることができる。コインの場合なら、裏表の2種類しかないから、2を100回かける可能性の中から1つの現象が起こると考えられる。

ここからガウス理論が生まれた。

しかし、文字だったり、図形だったり、可能性が有限個でも、何万の掛け算、何億の掛け算というようになると、まず有限回の操作で、その文字の羅列すら発見できない?

もし私が望月先生の論文を読まずに、それが望月先生の論文かどうかをどうやって判別したらいいのだろうか?

読めば、望月先生の論文かどうかは分かるが、字数だけから判別はできない。

こういうふうな問題で確率空間なんていうものは意味があるのかないのか?

つまり、この現実世界の中で、起こっていることと起こり得ないことをどうやって確率論的に区別できるのかどうか?

こういう問題がある。


例えば、ロト6やロト7。

1〜43までの数字の中から、6個ないし7個を選ぶ。この場合の確率空間は、43^6か43^7である。

だから、有限個であると分かる。

ロト抽選会社はあるやり方で毎回6個ないし7個の数字を選ぶ。

確率論的にそれを予想すれば、1/43^6か1/43^7ということになる。

この答えを見つけ出すために、その可能性の空間の中から無作為に探索すれば、たぶん一生(以上)かかる。

つまり、現実的には確率論的やり方は意味がない。だから、人間より何兆倍も早く探索できる機械=スーパーコンピュータを作らなければならない。それを作るのに50年かかったとしても、結果としてその方が早く探索できるわけである。

しかしながら、現実にはかならずどれかが選び出される。決して計算して選ばれたわけではない。

将棋でも同じである。人間の将棋指しは全部の可能性を探索して指すのではない。たぶんAIもそうである。

なぜなら、無駄な領域が多すぎるのである。無意味の領域を探索するにも同じだけ時間がかかるから、大きなロスになる。


つまり、確率的事象の探索にも、「偶然にかける」方がまだ可能性が高いのである。

だから、サイコロで自分で振って数字を選ぶとか、何かのひらめきで数字を選ぶとか、人間はそういうことをしているのである。

抽選者もその抽選機械の癖があり、あらゆる可能性の中から選ぶわけではない。

望月先生は数学者だから、望月先生と同じ文字数情報の論文だとしても、望月先生は絶対に物理の論文は書かない(はずである)。つまり、物理学者の論文が存在する可能性の領域とは別の領域だけを探索すべきなのである。

つまり、その著者の属性がすでにその可能性の領域を制限するのである。

つまり、これは確率論ではないのである。普通の確率論ではない。

すでに確率論の外の情報が使われているというわけだ。

望月先生の情報、数学者、プリンストン出、数論専門、ABC予想。。。。というような情報から、論文の文字情報空間の領域がかなり制限されることになる。

ロト6やロト7であれば、前々回のあたり数字、前回のあたり数字。こういうものとこれから出る数字にかなりの相関関係がある(らしい)。

つまり、勝手に出ていないのである。

なぜなら、機械にそれまでの過去の履歴が残るわけだ。どこにどの数字のボールが残っているか?こういうことが初期条件になり、次に出るあたり数字に影響しているわけである。もちろん、我々はそれは知らないだけで、それは確実に存在する。

望月先生の研究であれば、この10年どんな研究をしてたか?にこれからの研究は大きく依存してる。だから、気まぐれに情報空間を探索しても無駄になるだけだ。


実はこういう問題は、我々理論物理学者もここ数十年考えてきている問題である。

タンパク質の折れ畳問題やDNAの配列コードの問題である。

タンパク質は20種類のアミノ酸の羅列で構造が決まる。
DNAはA, G, C, Tの4種類の塩基配列で情報が決まる。

タンパク質は100〜数百の長さがあり、確率空間の大きさは、20を100〜数百回掛けた大きさになる。実際上は無限である。その中の特定の構造が現実のタンパク質を決めている。

DNAも同様である。4を何億回もかける可能性の大きさをもつ。

はたして人間の人間たるゆえんを決めるDNAはどういう配列をしているのか?

これを探すのに、わざわざ4^100000000の大きさの確率空間を考えることに意味があるのかないのか?

もちろん、意味はない。

おそらく私の知る限りでは、唯一近代的確率論の創始者だったノーバート・ウィーナーだけが、こういう奇妙な問題をまともに考えていたようなふしがある。

現実は過去に起こったことと未来予測と両方の相関で起こる。過去と未来の重なりが現実なのである。

おそらくこれに気づいたのは、物理学者では、アーサー・エディントン卿が最初。数学者では、ウィーナー理論を拡張したベルンシュタインが最初。現存では、保江邦夫博士とそのお弟子のザンブリニだけ。

「過去のすべてが今を決める。」

のであって、偶然が決めるのではない。という考え方は、アメリカのTruesdellやドイツのNollが最初だろうか。有理連続体力学の考え方である。が、これはそれほど普及していない。

つまり、現在の可能性の空間から未来が決まるという考え方が確率論だとすれば、いやそういう確率は考えても現実には起こらないのがほとんどだから意味がない。むしろ、これまでの過去情報に依存して未来が決まっていると考えたほうが良いのだという予測の仕方、「推定論」の方が現実的だ、というような考え方である。

つまり、「確率論」か?「推定論」か?

我が国のウィーナーの弟子は、北川敏男博士だった。確率推定論の創始者である。九州大学の生みの親。


いやはや、相変わらず望月先生は難しい問題にとりつかれるようですナ。

私には答えようがない。



いやはや、世も末ですナ。


おまけ:
ところで、望月新一博士の研究テーマの「Inter Universial Teichmuller space」(IU Teich)というのがあるが、IUの部分はよくわからないが、「タイヒミュラー空間」というのは、私もその昔いまだだれも引用しない論文の中で論じたことがある。

まあ、非常に簡単に言えば、有限個の穴の空いているドーナッツのような空間の表面を格子状の模様をつけて、その模様の織りなす世界の模様の付け替え、変換のようなものが作る空間のこと、とでも言っておこう。以下のものである。ご参考にどうぞ。ただしかなり長い。

Kazumoto Iguchi, "Universal Algebraic Varieties and Ideals: Field Theory on Algebraic Varieties", Int. J. Mod. Phys. B11, 2533-2592 (1997)








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by kikidoblog2 | 2018-01-25 09:29 | 望月新一・心の「一票」

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