「神の物理学」3:「モナド」と「モナド」の間には、「神」が宿るのか?それとも「無」があるのか?
2018年 04月 24日
「神の物理学」2:保江邦夫博士のミラクル数理勉強法とは何か!?俺の想像では?
神の物理学: 甦る素領域理論 単行本 – 2017/11/10
の途中から、保江先生の数理教育法の話にそれて長くなってしまったので、もう一度こっちにメモしておこう。
私が思うに、湯川秀樹の「素領域の理論」に限らないが、一般に西洋人の頭には「空間」というと、黒板やら箱やら容器やらそういうものを想定する風習ができている。というか、デカルトとカントやニュートン以来、そういう「枠(frlame)」を必ず想定しないと「空間」を考えることができないらしい。
ここが本質的に東洋と西洋は違っていると岡潔は言っている。
これが西洋人の脳、白人種の限界なのだと。
つまり、白人種=コーカソイド族は、見えるものしか見えない。聞こえるものしか聞けない。触れるものしか触れない。味合うものしか味あえない。嗅げるものしか匂えない。意識で理解できるものしか思い浮かばない。
つまり、第6識までの動物だという結論になった。
しかし、前頭葉は発達したので、物事を分析する力は非常によく発達し、そのため、ギリシャ時代以降にいわゆる数学を発明することができた。
そうやって2000数百年の間に現代数学にまで行き着いたが、所詮その根底には同じような問題点が含まれていて、いくら現代数学になろうが、「枠」から物事を捉えるという基本思想から逸脱できない。
それは20世紀の中盤の湯川秀樹の時代もそうで、「空間」の「素」を考え、4次元に広がった「素領域」理論を作り出したとしても、「テンデハナシ二ナラナイ(点で話にならない)」という、湯川秀樹ジョークのものとなったが、この思想にも西洋白人種の思想がすでに含まれているのである。
つまり、岡潔が西洋人が宇宙を書くときは、はじめに黒板があって、その上にこれが時間でこれが空間だというようにして始まると言ったように、湯川秀樹も、素領域を書くときに、こっちが時間でこっちが空間で、ここに「素領域を◯で書く」というようにして始まったのである。
つまり、「空間」そのものを研究し、「空間」を論じるのに、そのそばからそこに「空間」を描くための「枠=黒板」の存在を仮定しているのである。
岡潔はこれがとても気に入らなかった。
もしこれがあるとすれば、「素領域」と「素領域」の「間」ができてしまい、今度はまた「素領域」を作るための「素素領域」が必要になり、この無限連鎖が必要になってしまうのである。
これを避けるには、宇宙がフラクタルのように入れ子状態を繰り返し、今のスケールで見たものが、どの尺度でも成り立っていると考えて逃げるか、あるいは、そもそもそういう「枠」の存在を否定するかのいずれかしかないのである。
つまり、「無」の存在を仮定するのである。
「真空」=「完全無欠」の「予定調和」
というようなものが、「素領域」と「素領域」の間にあるのではなく、「素領域」と「素領域」は最初から密集するか重なって存在し、ぐじゃぐじゃした世界で、その「間」には「何もない」=「無」が存在する。
いずれにせよ、黒板に絵を書くようにしてこの宇宙を描くことは「おかしい」=「不可能」なのである。
この一番の卑近な例が「ハウスドルフ空間」である。
たとえば、DNAの配列で、aという配列とbという配列があったとする。この場合、
a=AGCTAGCT......
b=TGCTAGCT.....
もっとわかりやすく、
a=AAAAAAA.....
b =TAAAAAA.....
と一箇所だけがAからTに変化しているものとする。
この場合のハウスドルフ空間は、aとbの2つの距離を定義できる。これは単純に、違っている文字数の数である。
たとえば、平面座標の原点にaをとり、bをx=1の場所に書くこともできる。
だから、ハウスドルフ空間をデカルト座標の上に描くことはできる。
しかし、その間には何もない。「無」である。
私の思うところの「素領域」とはこういうものであろうと思うのである。
さもなくば、またその「素」と「素」の「間」の「隙間」=「サブ空間」を論じなければならない。
一般に、素粒子論や電磁気学の最大の問題点はここにある。
実はこういう問題に一番早く気づいたのはニュートンだったという説がある。近接作用を定義すると、かならず粒子である質点と質点の間を伝達する場の存在を定義しなければならなくなる。
原子を定義すれば、原子と原子の間の近接作用を定義しなければならなくなる。
ニュートンより大分後のマイケル・ファラデーもこの問題に生涯悩み続けた。近接作用説をとると、際限がなくなってしまうわけだ。
物体と物体の作用が近接作用なら、それを伝えるのは原子だということになるが、今度は原子と原子の相互作用はやはり近接作用であれば、その間には何か相互作用を伝えるものがなければいけないことになる。当時は原子は仮想的な存在だった。
したがって、原子と原子の間には「エーテル」があると考えられた。そして、近接作用はエーテルが伝達するのである。
しかしそうなれば、今度はエーテルとエーテルの間を伝達する物が必要になる。
現代物理でもそうで、核力が近接作用であれば、それを伝える物が必要になる。それをグルーオン場だとか、カラー場だとかいわなければならない。
しかし、こんどその場が量子化され、粒子説になれば、今度はグルーオンとグルーオンの隙間を何が伝達するか考えなければならなくなるというわけだ。
しかし素粒子論者は適当な偽物理学者だから、そういうものはごまかす。
というわけで、岡潔は現代物理学者を馬鹿にし、物笑いのネタにした。つまり、
「自然科学は間違っている」
岡潔講演録
岡潔講演録と解説について 横山 賢二
と一笑に付した。
私個人の理解では、中込照明の「量子モナド論」の「モナド」というのは、DNAのようなもので、何かの情報のあつまりであり、それ自体は物理的存在ではない。その内部の世界に生じる「映像」として、そこにその「モナド」が捉える「世界」が広がる。そして、この「モナド」と別の「モナド」の違いは、それぞれの内部状態の違いであって、「モナド」自体がそれぞれ空間内のどこにいるかというようなことは意味がない。あくまでそれぞれの「モナド」のそれぞれの「内部空間」でみる場所にそれぞれの位置が移るだけのことである。
保江邦夫のいう「抽象的自我」というのは、「モナド」が作る「空間」、すなわち、ある「枠」の中に「モナド」が浮いているのでは、それらの間の「隙間」を考えなければならなくなるから、そういうものにあるのではなく、「モナド」を含んだ総体の「集合」そのものなのである。
「集合」=「空間」とはならない。
たしか中込照明さんは、「モナド」を「パソコンモニターとそれを見ている人」に例えていたと思うが、お互いのモニターに見えている仮想現実が内部空間の映像であり、そこを通じて「モナド」同士の位置関係が座標化されるだけで、実際の「モナド」のいる場所の空間は定義できないというものだったと思う。
ところで、「無」の思想の発見者の、自然農法の福岡正信さんの本に、これに関係した実に興味深いことが書かれていたと思う。すでに借りた本を返却して手元にないからなんとも言えないが、すべては「無」から始まるという福岡さんの思想にかなり「モナド」論に近いものがある。
さらに、福岡さんの思想に、「時間」の話があり、これがまた興味深い発想だった。これについてはまたいずれ。
それにしても、保江先生と中込先生はすごいナア。昔の京都大学はやはりすごかった。
いやはや、世も末ですナ。
by kikidoblog2 | 2018-04-24 15:01 | 保江邦夫・素領域・愛魂





































