1935年ノーバート・ウィーナーは我が国に来ていた!:ウィーナー「東大より阪大の方がいいね!」
2017年 05月 01日
いや〜〜やはり古い本あるいは古い時代の人を研究しないとだめなようである。
ここ最近少しずつ便学(=大便する間に本を読む)している例のウィーナーの伝記:
情報時代の見えないヒーローは実に興味深い。
・レジェンド:ノーバート・ウィーナーの父がハーバード大ユダヤ人教授第一号だった!
・ノーバート・ウィーナー「情報時代の見えないヒーロー」:彼はAIの未来を見通していた!?
中でも、1930年代にはすでにノーバート・ウィーナーは、
(あ)光計算機=光速で多数の微積分方程式を計算可能な装置
(い)電子計算機=電気の力で多数の微積分方程式を計算可能な装置
(う)機械的計算機=メカニカルに多数の微積分方程式を計算可能な装置
を構想していたらしい。
この中で、(う)の機械的なアナログ計算機、これから発展して電気を使った電気計算機、これをヴァンネヴァー・ブッシュ博士が開発し、後のフォン・ノイマン型の電子計算機の開発につながる。
第一次世界大戦の時にはすでに米国では電子計算機の研究が開始されていたのだという。この最初の段階から、
ヴァンネヴァー・ブッシュ博士とともに計算機開発に密かに取り組んだのが、ノーバート・ウィーナー博士だった。第二次世界大戦中にフォン・ノイマンが行うはるかに前のことであるというのだ。
(あ)の光を使った計算機については、当時はまだレーザーもできていなかったために、光計算機はアイデア倒れのまま実現はしなかった。しかしながら、ウィーナーはすでにそういう計算機を考案し設計していたらしい。
ところで、このヴァンネヴァー・ブッシュ博士、この人はその人格からすぐに米政府の科学顧問として政治家になっていく。
そして、このヴァンネヴァー・ブッシュ博士が、第二次世界大戦の米国勝利を決定づけたのだというのである。
どういうことかというと、第一次世界大戦の時代には、科学者も参戦した。つまり、科学者という身分は戦争では何の効力もなく、博士でも教授でも戦地に出ていった。だから、多くの優秀な科学者もまた戦死したのである。
このいちばん有名な例がマイケルソン=モーレーの実験のモーレーである。天才物理学者のイギリス人のモーレーは第一次世界大戦の戦場で戦死したのである。
また、第一次世界大戦の時には、学者の住むアカデミズムと政治家の住む世界とが分離し、政治家はあまり科学の力を信じていなかった。むしろ、邪魔としか考えていなかった。
この状況を一変させたのが、このヴァンネヴァー・ブッシュ博士だったようだ。
ヴァンネヴァー・ブッシュ博士は、アメリカの戦争形態をいわゆる「科学戦争」の形に変えたのである。
これからの戦争は科学兵器で勝つ。科学力で相手を打ち負かす。そのためには、科学者と政治家と軍人の協同路線および協力が必要だ。
こういう考え方を実施し、いわゆるいま陰謀論でよく出てくるところの「軍産複合体」というものを創始したのである。
これに対して、同じ仲間のノーバート・ウィーナーは孤高だった。むしろ、アカデミックな研究内容を突き詰めた。
もっともウィーナーには子供の頃のトラウマおよびそのユダヤ系独特の遺伝的性質から、躁鬱症の傾向があり、あまり安定した人格ではなかった。だから、政治家としては排除されたのかもしれない。
ウィーナーは単に数学者というだけではなく、応用数学の先駆者として幾多の発明のアイデアを提供したのである。
さて、今回知ったのは、このウィーナーには2人のアジア人の博士号取得者がいたということだ。
1人は中国人のYuk Wing Lee博士。
もう一人は、日本人の池原止戈夫博士。
ノーバート・ウィーナーの下でMITで正式の博士号を取得したのは、アジア人ではこの2人だけのようである。
私はこの池原止戈夫博士の名前は、ウィーナーのサイバネティックスを日本語訳した共著者の1人位にしか見ていなかったが、どうもそれはまったくの間違いだった。まさにウィーナーが世界に名を轟き始めた全盛期にMITで博士になったのだった。
それも、かの純粋数学の「素数定理」の別証明を与えたのである。これは「ウィーナー−池原の定理」と呼ばれているらしいですナ。
面白いのは、この2人のアジア人博士は、これほどまで優秀で、かつ歴史的研究を行ったにもかかわらず、第二次世界大戦前のアメリカ社会では、大学教授になれなかったのである。
つまり、人種差別が残り、アジア人は白人ではないから、せいぜいユダヤ人までしか大学教授になれなかったのである。ノーバート・ウィーナーの父、レオ・ウィーナーですら大学教授になるのは難しく、ハーバード大学ユダヤ人教授の第一号にすぎなかった。
ちょうどいまから100年前の1917年のことである。
だから、それから10数年程度経っただけでは、アメリカはまだまだ人種差別が残っていたのである。
ところで、ここで言うときの「人種差別」というのは、法律レベルの人種差別のことを言っている。もちろん、個人レベルの人種差別の問題もあるが、そんなものではなく、黒人や日本人やアジア人が土地所有できないとか、白人と日本人は結婚できないとか、黒人は大学に入れないとか、黒人は白人のトイレを使えないとか、そういった社会規範として法律で定められた人種差別のことを言っている。
この意味でいえば、今の我が国には何の人種差別も存在しない。→むしろ「在日朝鮮人特権」や「治外法権」という日本に対する逆差別が存在する。
さて、さらに面白いのは、1935年にノーバート・ウィーナーが、比較的精神的に安定した時期に、アジア旅行をしたのだが、そのときにこの2人はウィーナーをそれぞれの母国である日本と中国に招いたのである。
つまり、1935年(=第二次世界大戦前)の日本に、ウィーナーが来ていたのである。
流石に知らなかった。
ウィーナーは池原の招きで、東京と大阪に来て、東大と阪大で講演したらしい。
ウィーナーは権威主義的な東大の雰囲気を嫌い、阪大の自由闊達な雰囲気が好きだったようだ。
また、当時我が国は日中戦争、大東亜戦争に入る前で、かなり緊張した空気が張り詰め、外国人であるウィーナーにはその監視の目を光らす官憲が張り付いたという感じで、あまり我が国の雰囲気は好きではなかったらしい。
むしろ、中国のほうが自由闊達でよかったという。
残念ながら、今のところ、この池原止戈夫博士の写真が見つからない。
ところで、ついでにメモしておくと、14歳でハーバード大に入り、18歳でハーバード大哲学のPh. D.を取り、18歳でイギリスのケンブリッジ大学のバートランド・ラッセルの下で研究者(ポスドク)になり、その翌年にはドイツのデービッド・ヒルベルトのポスドクになったのだが、人文哲学の博士がどうして数年のうちに、どころか2年のうちに純粋数学者になったのか?
というと、どうもバートランド・ラッセルの力ではなく、それを行ったのが、かのラマヌジャンと共同研究した、
ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディーだったようだ。つまり、数論の大家のハーディー教授自ら天才児ノーバート・ウィーナーに数学の手ほどきをしたのである。
つまり、ハーディーはラマヌジャンとウィーナーの2人の天才を育成したのである。この意味では、やはりハーディーは偉大な人物だったと言えるだろう。
さらにおもしろいのは、この1935年に日本から中国と行って、印度経由でポーランドへ行き、そしてドイツ、イギリスというように、西周りでアメリカに戻るわけだが、その東欧のポーランドであるユダヤ系数学者に合う。
それが、ショレム・マンデルブロー博士である。
この人こそ、ベノワ・マンデルブローの叔父にあたり、彼に数学者への道を進ませるきっかけになった人物である。
もしポーランドでウィーナーがショレム・マンデルブローに会わなかったらどうなったか?
フラクタルも分数次元もカオスもまだなかったかもしれないというわけだ。
その取っ掛かりが日本だった。もし池原とLeeがウィーナーを世界ツアーに誘い出さなかったとしたら、果たして今の科学や数学はかなり違ったのかもしれない。
そしてこの世界旅行から帰って、というより、この世界ツアーの間に、どうやらノーバート・ウィーナ−は
サイバネティックス
という概念を確信する。(サイバネティックスがサイバー空間の語源)
そして、帰国後から本格的にサイバネティックス的な研究を開始するのである。
しかしまだそれを記述する言葉はない。
1935年。
我が国が日中戦争に入る1937年の2年前。第二次世界大戦終了の1945年のちょうど10年前。
この年こそ、世界の数学および科学技術の転換点だったのである。
さて、そこからヴァンネヴァー・ブッシュ博士は政治家になっていって、結局我が国に原爆を落とすことになる。
まあ、私の個人的意見としては、やはり西洋の方が、一回戦争を余分に経験した結果、第2次世界大戦の時には、第一次世界大戦の経験が生きた分、結果的には有利に働いていたということだろうと思う。
つまり、我が国が大東亜戦争、太平洋戦争に進んだときの我が国の科学技術と軍事とのあり方と比べると、欧米、特にアメリカの方が一歩先を行っていたわけである。
我が国では、欧米の第一次世界大戦のときの状況のままの姿で第二次世界大戦も戦った。だから、学徒動員で科学者の卵も戦地に送られたし、軍人は科学者の力や科学を信じていなかった。
そして、敗戦という形になったが、その状況はいまだに同じで、いまもって科学者と政治家および軍人との間に分断が残るのである。
我が国の学術会議は、自国の政府も自国の自衛隊もまったくもって敵対視し、非協力的である。欧米の第一次世界大戦前、あるいは第二次世界大戦前の形態のままなのである。
電子計算機は軍事研究の成果として生まれてきたものである。
その小型化したものが、パソコンであり、その最新バージョンがスマートフォンである。
同様に、欧米ではAIは軍事研究の産物である。
軍事を特別視し、冷遇する、学術会議を持つ我が国に未来はあるか?
たぶん、あんまりないんちゃうか?
いずれにせよ、これほどまでに世界に影響与えたノーバート・ウィーナーのような人物でも、ちょうど人の一生ほどの年月が経てば、世界から忘れ去られるという事実である。
やはり地球人には何か大きな問題があるようである。
いやはや、世も末ですナ。

by kikidoblog2 | 2017-05-01 08:45 | ウィーナー・サイバネティクス