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最近の話題:「本田圭佑、武井壮の講演会」→「小我の中の蛙、大海を知れず」   

井の中の蛙、大海を知らず
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みなさん、こんにちは。

昨日は阿南の夏祭りの最終日。花火大会の日だった。

我が家も恒例の花火大会を見に行ったが、今年は昨年より盛大だった。若干、景気が良くなったのだろうか?

夏祭り
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牛岐城跡公園のLEDモニュメント
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花火
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いまだガラケー、普通の携帯を使っているのは我が家くらいのものだから、あまり写りは良くない。いまのスマホはこの1万倍の解像度がある。

携帯の写真は数百KB程度だから、普通のプリンターのA4の範囲内に入るが、スマホの映像は1MB以上あるから、新聞紙以上の大きさの紙がないと入らない。それほどの違いがあるようだ。


さて、昨夜はJリーグの神戸にイニエスタ選手がデビューし、サガン鳥栖にフェルナンド・トーレス選手がデビューした。

トーレス選手はあまり我が国ではクリスチャン・ロナウド選手ほど知名度が高くないが、実績や戦績では、ロナウド選手を遥かに上回っている偉大な選手である。すべてのカテゴリーで優勝経験のある稀な大選手である。

イニエスタ選手と同じスペイン代表として南アW杯優勝経験者だし、欧州選手権などなど多くの大会で優勝経験している。

いわゆる、勝者のメンタリティーを持つ選手の1人である。





ところで、そのフェルナンド・トーレス選手、昨年の試合で一度死にかけた。



不死身の男フェルナンド・トーレス。


今後のこの二人の活躍を期待したい。


さて、大分前置きが長くなってしまったが、本田圭佑選手と武井壮選手の二人の一般講演が結構興味深いものだったので、一応ここにもメモしておこう。以下のものである。

【武井壮の「大人の育て方」がマジ凄い!】オトナの学校 完全版


【講演】本田圭佑選手が生きていく上で大事にしている事とは



この二人に共通しているのは、

成長

という概念。成長することことの大切さを礼賛していることである。

まあ、人生の中盤に差し掛かりまだまだ成長できる年齢にあるからそういうふうに考えるのは実に自然である。

私自身も昔はそうだった。しかしながら、いまは必ずしも彼らの思うようには思っていない。


しかし、その年代年代で自分の意見や考えを皆の前にぶつけるというのは素晴らしいことだと思う。

聞いている人は結局その人に理解できる部分しか頭に残らないし、共感しないかぎり共有できるようにはならない。

そもそもその人に受け入れられるべき芽が育っていなければ、言葉として認識できないのである。

しかし、仮に聞いた人が話の内容は全く理解できなかったとしても、その時確かに本田圭佑の話を聞いた、武井壮の顔を見たというようなことは経験として残るだろう。

そして、それがいつの日か、ふとあのときの話はこういうことだったのではないかと何年も何年も経ってからわかるというようなことが起こる。

実はこれが大事なんですナ。

この上の講演会を見ていてもわかることは、一見日本人の若者は質問したり、反論したりせずに、静かに聞いているのかどうかすらわからないくらいに静かに聞いている。

おそらく欧米の若者ならもっと反論したり質問したり反応が賑やかだろう。

実は、これが一番大事なことで、日本人の良さでもある。

西洋文明の西洋人、そしてその文明圏に支配された植民地化された国民の国々では、静かに聞くことがあまりできない。

常に、それぞれに話の腰を折るようなことをする。

よくテレビのバラエティーで人の話やストーリーを聞きながら、

「へ〜〜」とか「それやっちゃまずい」とか、横から主観を入れてそれが自分の見識かのようにひけらかして自尊しているタレントさんがいるが、これが実は一番やっちゃいけないことなのである。

こういうのを

小我

と岡潔先生は呼んだ。

人間が一番注意しなければならないこと。

己のいまのちっぽけな頭で意見すること。

これをすると成長できないのである。

自分に与えられる場面における情報はほんの一部でしかない。だから、本当はもっと深い話やそれができてやっとわかってくる段階を踏まねばわからないというようなことがあるが、いつも聞いたそばからそのときの自分の自己中な思考で分析してしまうと、自分では分析しているつもりでも本当はチャンスを逃す結果になっているのだが、それが自分では真逆に理解してしまうというようなことが起きる。

岡潔先生は、こういうことに気をつけよとおっしゃった。


しかし、白人にはこれができない。

その都度、Why?なんで?って聞いてしまうのである。

だから、これをするかぎり先に進めない。

話の途中で「なんで?」「なに?」となってしまえば、もうそこから先の話は聞かないことになる。話の途中で「そんな馬鹿な」と思い込めば、もうその話は聞く意味を失い、集中して話を聞かない。

私が知る限り、これが西洋人の致命的欠点であると思う。

まあ、これをネタに登壇した厚切りジェーソンみたいな人間もいるが、彼らには本当のことは理解不能である。

理解する前にまず把握することが大事なのである。

その場面をそっくりそのまま俯瞰的に眺め記憶すること。

これはなかなかできない。

サッカーをみるときもそうで、一試合まるまるそっくりそのままフィルム映像に残すように眺める。無心である。

こうしておいて、あとであのときはこんなプレーがあったというふうに引っ張りだす。

どこかのプレーに痛く感銘してしまえば、もうその次のプレーは忘れる。欧米のスポーツキャスターがこれである。

だから、「ゴ〜〜〜〜〜ル」と叫べば、もうそのゴールシーンしか頭に残らない。3−0の試合なら、3得点のシーンしか記憶できない。


これが小我である。

小我を捨てること=素直であること=無心であること

これができる人だけが真の成長ができるのである。


なぜ武井壮選手がいまの武井壮になったか?

彼の話にあったとおり、その年代年代で無心で人の話を聞いたからである。

あの人はこういった。別の人はこういった。他の人はこうもいった。

こういうことを全部記憶した。

もしそこで、あああの人は偽物だ。聞く必要がない。ああ、別の人は変なやつだ。だから、無視無視。他の人も大したやつじゃね〜〜。こうやっていたら、その少年は武井壮にはならなかったはずである。たぶん、その辺の身体能力の高いヤンキーチンピラになったはずである。

成長という意味を、伸びるという言い方で捉えれば、伸びる子というのは共通して素直であるということがある。

この素直であるというのは、目上の指導者の立場から見た言い方だから、上の人から見れば素直に見えるという意味である。

つまり、変な反論したり、難癖つけたり、裏で愚痴こぼしたりしない。

上から見て素直に見えるということは、その人物からすれば、いったん「すべて受け入れてみる」ということである。

自分のその時の考えでは間違って見えることでや矛盾して見えることでも、受け入れてみるということである。

青森山田のサッカー部に入部したら、まずテストを受ける。1500m4分55秒以内で走るのである。さもなくば、ボールを蹴る練習をさせてもらえない。

普通の子、伸びない子は、これに憤慨する。「こんなテスト意味ね〜〜じゃん」とクレームをつけるだろう。

まだ自分がクリアできた子が言うならわかる。しかし、4分55秒以内で走れない子でもそういうふうにいって批判するものがかならず出る。

これが小我である。

まずはその関門なり、試験なり、課題なりを受け入れる。無心でやってみる。

最初はできなくてもできるまで頑張る。

こうやって一つ一つの階段をステップアップできるものが、本当に伸びる子、成長する人間なのである。

なぜ乾選手が伸び悩んだか?

それは乾はいつも裏で愚痴をこぼし、小我で生きてきたからである。これが乾選手の成長を遅らせた。

たまたま今度のロシア大会では、岡田前監督が乾選手の活躍を夢見で見たからバックボーンになってくれたから岡田と先輩後輩の昔のチームメートのよしみで乾選手をレギュラーにしたのである。

ハリルホジッチなら、乾選手は多分落選である。

もし乾選手が小我を持たず素直な選手であれば、もっと若くしてもっと早くもっと偉大な選手に育ったはずである。


人は自分を確立した瞬間に成長が止まるのである。

これだと思った瞬間に成長が止まる。

なんとも皮肉なものである。


言い換えれば、人は自分をこれが自分だと定義した瞬間に成長が止まるのである。

しかし、己は自分は成長の真っ只中にいると思っているわけだ。

いまの武井壮選手からみれば、直線のように突出した、昔の言い方でいえば、「片輪」の選手も、(ちなみに、「片輪」とは、片方の車輪しかない車」の意味であるが)、その本人は成長の真っ只中にいると思っているわけである。

いまの武井壮選手なら、100mの選手は直線状の才能ということになる。だから、いまの桐生選手は「それだけ」の人間ということになる。したがって、将来的には「それだけ」では困るということになると武井壮選手は考えるわけである。

しかし「一芸に秀でる」ということは、円の半径を広げたという意味もある。

だから、将来的には一芸に秀でた結果、それがのちのち別の分野において別の才能すら開花させることができるようになるということでもある。

まあ、人間の脳にはそういう意味の柔軟性や広がりがあるわけである。

一芸に秀でることは、万芸の真理につながるという面もあるわけである。


何事も根底、元はいっしょである。

武井壮選手も陸上という一芸に秀でることができたからこそ、やはりそのおかげで今があるわけであろう。

本田選手もサッカーという一芸に秀でた結果、その後の万物への応用が効くということを把握できたに違いないわけである。


実際、若者には、あるいは、人には一芸に秀でる程度しか時間がない。またてっとり早くいくにはそれしかない。

どんなことにもそれなりの普遍性が仕込まれている。すべては同じ人がすることだからである。


というようなわけで、あまり欲張らずに、まずは自分にあった、自分にできそうな範囲で、自分の好きなことで一芸に秀でる。これを目標にしたらよろしいのである。

そのためには、小我を持たず、いったんは置いておいて、素直に先人たちの声に耳を傾け、それを受け入れて励む。できるようになったら、次のステップで同じようにやってみる。

この繰り返しですナ。

これが日本人的修行のしかたである。

たとえば、こんなもの。






我が国の義務教育は、左翼思想の日教組の「小我教育」の成果で、鼻くそ坊主の小学生でも生意気に意見すべしというような教育をしてきたために、いまや日本の伝統の職人教育などについていけるものが育たなくなってしまったのである。

だから、いまや日本の職人分野は白人さんばかりになってしまったようである。

白人の方がむしろ日本人より(己の目的成就のためには)我を捨てることができるのである。


いやはや、日教組の「小我教育」の成れの果てが「ニート」である。

小我の壁を作り、自室に籠城した結果である。

知的小我の砦。小我の井戸。

小我を捨て去れば、外界を知ることができるのである。

小我の中の蛙、大海を知れず。



いやはや、世も末ですナ。








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by kikidoblog2 | 2018-07-23 11:50 | 個人メモ

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