杉田元宜とカウフマンの関係は!?:俺「大学の先生はもっと現実の科学の歴史を教えろヨ!」
2018年 09月 15日
物理ガール
(妄想。そんなのいないって!)
みなさん、こんにちは。
今回はかなり私個人的な観点からのメモだから、普通の人には興味ないはずだから、スルーして欲しい。
さて、この年になるまで科学や物理を続けていると、やっと少しずつ分かってきたということも多い。
その中でも特に最近切実に思うことをメモしておこう。
いつものように、結論を忘れないうちにメモしたい。
結論からいうと、
いまの我々の科学の教育には大きな欠陥があるのではないか?
ということである。大きな欠点ともいえるし、大きな問題ともいえる。
科学を維持実現するためには、テクニカルな内容、を教えなければらない。
たとえば、物理で言えば、ふつうの必須科目というような、力学、電磁気、相対論、量子力学、熱力学、物理数学、。。。というようなもの、およびそういうものを解くための演習、こういったものをまずは学生に伝授しなければならない。
さもなくば、現状が維持できない。
この他に、もう一つは、科学の歴史、科学の発展史と教えるというものが必要である。
大方この2つが一つの教科の「中」で混在しているのが普通である。
つまり、力学の教科書には、最初の方にいかにしてニュートンがニュートン力学を構築したか、ということも最初に含まれる場合もある。大学レベルではそうだろう。あるいは、大学院レベル。
しかし、今現在では「ハウツー〜〜」的な漫画チックな教科書、あるいは、「ロリータオタク的な」女子高生が語る物理学というようなものが多い。
文章や文字より、絵や写真や漫画が多くなる、というようなものである。
アニメをみるようにして物理を学びたい
と今の若者ならごく自然に思いつくだろう。
科学の歴史や発見史や発達史についても同様である。
ここには、
物事を時間をかけてじっくり学びたい→つまり、プロセス重視
という方向から、
物事を手っ取り早く手際よく学びたい→つまり、結果重視
という方向へのシフトが感じられるのである。
教える側の先生たちすら、こういう傾向が強い。
こうなると、結果的にあまり使われないというようなテーマが全部切り取られる結果になる。そして、授業日数は1年と決まった時間があるわけだから、より少なくなったテーマを間延びさせて教えざるを得なくなる。
その結果、これまで一回の講義で終わったはずのことが、いまでは前期や後期の半年かけて教えるというようになったようだ。
単振動
我々の時代の大学の初等物理ではたった一回の授業で教えられたことである。これが昨今では、半年に分割して教えたりされているというのである。
こうなると、失うものが多すぎる。
どうもこれもまた、いわゆる日教組のような左翼思想、すなわち、損得勘定だけ、要不要だけ、オール・オア・ナッシングの思考だけの、パヨクの唯物思想の成れの果てだったのかもしれない。これはチャイナ人やコリア人の思考に近い。
まあ、科学の教育の現場がこういう感じだとすれば、新発見が我が国から生まれることはまず100%ありえない。
せいぜい自分で尻の穴にファイバーつっこんで、オナニー的に大腸観察してイグノーベル賞をとる程度のことである。そんなくだらないことしか出来ないだろう。
ところで、このイグノーベル賞の日本人の12回連続受賞。一見おめでたいのだが、これはあまりおめでたく内面も散見されるのである。
つまり、カンヌ映画祭は、フランスの偽ユダヤ人がやっているものだが、他国の崩壊や恥部を描いた作品を取り上げて表彰し、フランス以外の国々がいかにだめかを喜ぶための賞である。
同様に、ハリウッド映画のアカデミー賞もそうで、これはアメリカの偽ユダヤ人がつくったものである。その目的は、アメリカ以外の国家がいかに愚劣でだめかを描いた作品に表彰するのである。
こうした文脈の流れからすれば、イグノーベル賞は、ここ100年うちに完全にハーバード大学をWASPから乗っ取った偽ユダヤ人たちの作ったお笑い賞だから、やはりここにも他国の科学者がいかにおバカかを笑う意図が隠されていると見るべきなのである。ゆえに、そういうネタを特別に取り上げる。
このユダヤ人特有の「斜め上的」感覚というのも、非常にコリア人と似ているのである。あるいは、偽日本人のザパニーズ的感覚と似ている。
人のいいことより人の悪いことの方に目が行くのである。長所より欠点を欲しがる。
その点は、スウェーデン賞であるノーベル賞の方がまだ素直と言えば素直である。最近はかなり金目当てになってはいるがナ。
さて、もとの話に戻そう。
科学の教育が、その科学の内容とその科学の歴史だけを教えるとすると、はたしてこれでいいのか?十分か?
ということである。
我々の時代60年前から、40年前の教育ではおそらくこれで十分だった。しかし、いま現代では私個人の印象としてはこれでは不十分だという気がしてならない。そうなってしまったわけである。
しかしながら、現行の社会制度や法体制や教育体制ではそれしかない。それしかできないようになっているわけである。
カリキュラムやプログラムはどの国でも州や政府で決められて固定している。
それを補うものとしては、補助教材や論文を用いるしかない。
がしかし、いまやそういうものを読んだり読めと勧めるものも少ないのではなかろうか?
私が2年ほど前に杉田元宜博士の研究をサーベイする論文を作ったとき、
杉田元宜博士私の知人や知り合いの誰一人としてこの名前を知るものがいなかった。生物物理学の研究者、生物学の理論を研究している仲間でもそうだし、教授、准教授、院生、大学生と聞く人だれも知らなかったのである。
前にもここにメモしたように、この杉田元宜博士が我が国に数物学会から独立する形で生物理論および生物研究を物理の一環として研究する部門を作るべきだといい出した人物である。そして、ついに戦後になって、わが国初の生物物理学会を立ち上げたのである。
はたしてこの現実の歴史をだれが教えているか?
フリー物理学者の俺しか教えていないんちゃうか?
私が最近とみに思うこととはこういうことなのである。
1600年代のニュートンがどうしたこうしたということも重要だが、1800年代のファラデー、マックスウェル、ギブス、テスラがどうしたこうしたということも重要だが、そして、1900年代のアインシュタインやボーアがどうしたこうしたということも重要には違いない。
が、現実に我々は日本にいるわけだから、日本国内の歴史をちゃんと体系化してきちんと大学や高校で教えるべきだろう。
そう思うわけですナ。
もちろん、そういうのは別にだれかが本を書いて売ればいいという考え方もある。この場合は、
じゃあ、だれが書くの?
大学の先生以外にそういうの研究する奇特な人がいるのかいな?
ということになる。
杉田先生の研究のことを研究しないと、実はどうやってこの世界にネットワーク理論が誕生したか?の真実の歴史もわからないのである。
いまでは、ネットワーク理論はネットの普及とともに、そして、ネット検索の高度化とともに必須アイテムになっているが、この物理の世界、特に生物物理の世界にネットワーク理論を導入し始めたかなり最初の人物がこの杉田元宜博士だったのである。
そこにミクロサイバネティックスという新たな概念まで持ち込んだ。知ってる?
ノーバート・ウィーナーが1940年代後半から1950年代に持ち込んだサイバネティックスの概念思想をそっくりそのままウィーナーができなかったことを生命科学に持ち込んで、そこにさらにかの天才ラルス・オンサーガーすらできなかった生命の過渡的現象の熱力学にサイバネティックスを融合させることに成功した。
それが杉田元宜という日本人の博士だったのである。
いまみなが天才だと知っている、あの巨人スチュアート・カウフマン

はどこ?っていうことになる。かのサンタフェ研究所の創始者でそこの大スターとなった一人。
カウフマンが最初の論文を博士論文として作り上げたのは1969年のことにすぎない。その20年前の1940年代後半の1948年から1950年にすでに杉田元宜博士は細胞の化学反応ネットワーク理論の本質的な部分を完成させている。
実はカウフマン。アメリカ人だが、イギリスの奨学制度ローズ賞を受賞している。これが、カウフマンがイギリスに留学してオックスフォード大で博士号を取得した理由である。
ローズ賞というのは、イギリス人のローズという大富豪が、アメリカ人の天才的ユダヤ人だけに与えらて、イギリスで洗脳するために作り上げた学術奨学制度である。
我が国では、アメリカのフルブライトが有名だが、そのモデルであると考えられる。
問題は、この時若き天才カウフマンはだれについたか?
まあ、おそらくあまり知らないだろう。
Brian Goodwin

という理論生物学者である。むろん、なにもなしペディアこと、ウィキペディアにはこういうことは書かれていない。ウィキは匿名の編集人の頭以上のことはなにもないからだ。
このグッドウィンは、おそらくイギリス人のユダヤ系だと思うが、アメリカのユダヤ系の学者である、MITのMcCullogh(マッカロックorマッカロー)という真っ赤の左翼の理論生物学者やかなり中立のノーバート・ウィーナーとも親しかった。さらには、ウィーナーつながりの情報理論のシャノンとか、マッカローの学生の異才ピッツ、さらには欧州から移民したばかりのNicolas Rashevsky(ラシェフスキー)とも親しかった。
当時神童から天才になったウィーナーのいたMITは世界最高の最先端の研究の場になっていた。
そこで、カウフマンはイギリスのローズ賞をもらってイギリスの大学に所属しながら、アメリカにもどってアメリカのMITのマッカローとピッツの元で研究したのである。あるいは、アイデアを得たのである。
特に、マッカローはこのカウフマンを息子のようにかわいがって理論生物学を手取り足取り教えたのである。なぜなら、カウフマンは最初は医者、医学の分野の研究者だったからである。
ちなみに「理論生物学」という日本語を作ったのは、戦後左翼の騎手になってしまった、柴谷篤弘である。1946年のことである。
一方、西洋では、ベルタランフィというドイツのユダヤ系の学者が、1930年代にすでに理論生物学を発展させた。もっと前にはイタリアのロトカとボルテラが1920年代にはすでに理論生物学を立ち上げていたのである。
そしてもう一つ「動的平衡」ということばもまたこの柴谷篤弘が命名というか、最初に定義したのである。これはほぼ西洋と同時であるといっても良い。まだ世界的にも動的平衡という概念はまったく馴染みのない時代であった。
だから、これは我が国ではいったん滅んだ。そして、最近になって福岡伸一氏が「動的平衡1,2,3」という本のタイトルとしてかなり歴史的無知を露呈しながら使用して復活を遂げた。この一連の本は、この意味では、あまりよろしくない間違いだらけの本である。
動的平衡も理論生物学も我が国では1940年代の戦前には起こりつつあり、終戦直後に雨後の竹の子のように花開いたのである。
当然、柴谷と盟友であった杉田元宜も知っていた。それともうひとり、水納谷民太郎である。
そして、1940年代後半には杉田元宜は、オンサーガーの不可逆過程の理論を超えていた。そして、それを生命科学の理論に持ち込み、細胞の熱力学を構築したのである。
そして、少なからずの英論文として出版を行った。残念ながら大半が日本語かつ国内誌に公表された。それも物理学科のない一橋大学の紀要に出版されてしまったのである。だから、ごく最近のネットが実現するまで一般の目に触れられるチャンスがなかった。
その損失は数十年に及ぶ。
杉田が1950年代から1960年代前半に英論文としてほぼ完成した形で細胞や生命の化学反応ネットワーク理論、そしてマイクロサイバネティックスの概念を持ち込んだところ、まっさきに噛みついてきたのが、なんとそのイギリスのグッドウィンだった。そしてアメリカのラシェフスキーである。
ラシェフスキーはまだ好意的だったようだが、イギリスのグッドウィンは執拗だった。
生命活動にはディジタルのスウィッチングはありえない
とまあ、こういう反論を繰り返したのである。
これに対して、あまり外国に出向くチャンスのなかった杉田は海外にも3度ほどいって招待講演と討論を行ったのである。その度に、英語で負けて、論戦にも負けたのだろう。
いまほど当時の日本人の英語は「うまくはなかった」。まあ、いまも永遠にうまくはないが、慣れはしている。
しかし、ちゃんと国際学会のプロシーディングスには論文としてきれいな英語論文を書いている。それがこれである。
Kinetic theory and mathematical model of cell metabolism
この論文も最近までネットで見れなかったせいでまだ引用はまったくない。ちなみに、杉田の論文で最大引用数122のものは、
Functional analysis of chemical systems in vivo using a logical circuit equivalent. II. The idea of a molecular automaton
であり、これがカウフマンの教科書のThe Origin of Orderにたった一つだけお情け程度に引用されたものである。実際には、この論文までに杉田は10ほど国内外誌に英語論文を書いている。
はたしてグッドウィンはなぜ杉田に噛み付いたか?
これは欧米の偽ユダヤ人が非常によくやる手法である。
自分の弟子が似たようなことをやり始めた時、似たようなことを先行している海外組に対しては、それを否定するのである。執拗に否定して、やる気を失わせる。
その裏で実は自分の弟子がそれを拡張するような方法を研究させるのである。
グッドウィンの場合、自分の弟子カウフマンがいた。カウフマンはMITのマッカローのところで、ディジタルスウィッチングのネットワークへの応用の研究をしていた。
だから、日本人の杉田には、「そんなんじゃだめだよ」といって否定し、やる気を削ぎながら、その裏ではMITにカウフマンとマッカローにさかんに声援を送っていたのであった。
ちょうどこの典型の戦争版が原爆開発である。
日独には原爆開発は人道に反すると否定的意見を送って、気を削ぎながら、実際には自分の弟子たちを世界中からロスアラモスの秘密基地に集めて、そこで原爆開発させていたのである。
とまあ、こういう科学の歴史をもっとシステマチックにちゃんと教えるべきではなかろうか?
というのが、最近の俺の感じるところなんですナ。
もっとちゃんとした歴史を教えろヨ!大学の先生はヨ!
いやはや、世も末ですナ。

by kikidoblog2 | 2018-09-15 12:28 | 真実の歴史