山梨の英雅堂「宝石博物館」でパワーストーンを発見!?:俺の中で昔の記憶が蘇った!?
2018年 09月 27日
今回はまず個人メモである。普通の人には興味ないだろうから、スルーを。
またまた一週間ぶりのメモとなった。この間、恒例の年一回の母親の墓参りに山梨に行っていたからである。帰り際に、昇仙峡に立ち寄り、例の名古屋のテスラこと、高木利治さんのために、パワーストーンを探しに行ったのである。そして、都内で2泊し、24日の昼過ぎに
anemone(アネモネ)の編集長の西さんと会談、その夕は保江邦夫博士と門人2人といっしょに浅草の神谷バーで飲食しながら、保江先生の最新情報をゲットしたわけですナ。(この号は結構面白かった)
その間、我が国では、小惑星探査機の軟着陸、台風24号TRAMIトラミ、相撲協会vs貴乃花引退戦争勃発など、さまざまのことが起こったようだ。こういうことはまたそれぞれ後々メモすることにして、まずは、昇仙峡のパワーストーン探しのことをメモしておこう。
ところで、この昇仙峡で宝石や水晶を売るという商売は山梨甲府の宝石商の間ではずいぶん前から、土産売場として、栄えたものである。中でも、めのうや水晶のさざれを「バレル研磨」で一気に磨いて、それを「手づかみ販売」するというビジネスモデルと、そのために観光バスを引き込むというビジネスモデルは、我が家がはじめたことであったのだ。
カテゴリ:ファミリービジネス( 9 )
ファミリービジネス9:「クォーツ時計誕生秘話」、水晶の切り方を古賀逸策博士に教えた祖父!
[ 2013-11 -06 17:34 ]
ファミリービジネス8:「引き割り技術」と「ダイヤモンドカッター」
[ 2013-11 -06 16:35 ]
ファミリービジネス7:「瑪瑙(めのう)」に色をつけてカラフルにする
[ 2013-11 -06 14:41 ]
ファミリービジネス6:「貴石画」と「宝石画」の誕生
[ 2013-11 -06 13:31 ]
ファミリービジネス5:「回転ろくろ式研磨機」と「スカラベ」
[ 2013-11 -05 15:19 ]
ファミリービジネス4:「バレル研磨」の誕生、研磨業を変えた革命技術
[ 2013-11 -05 14:29 ]
ファミリービジネス3:宝石企業団地とレストラン・ダイヤモンド
[ 2013-11 -05 13:18 ]
ファミリービジネス2:昇仙峡「宝石園」「かつては東洋一の水晶宝石博物館」
[ 2013-11 -05 12:35 ]
ファミリービジネス1:山梨県立宝石美術専門学校設立
[ 2013-11 -05 11:13 ]
この中の「ファミリービジネス2」に昇仙峡

この昇仙峡で最初の宝石博物館を作ったのが私の父だった。「宝石園」というものである。
その後、我が家が廃業するさなかで人手に渡り、二転三転して今日の「宝石園」になったようである。
「トンネルをくぐり抜けると、そこは宝石博物館だった」
というキャッチフレーズのような感じの宝石博物館で、実際に宝石加工をする職人もいて、それを見ることも出来た。
いまでは、このビジネスモデルを商才のある英雅堂さんが、それぞれを別々の店として運営しているようだった。
いずれにしても私には実に馴染みのある風景で、子供の頃、少年の頃の記憶が一気に蘇った。
そう、我が家は「甲府の宝石加工業の第一人者、井口製作所」だったのである。地場産業の零細企業にすぎないが、当時は従業員30人ほどの地元の宝石加工業では最大手の一つだった。そのライバルの同業他社が、英雅堂だった。業界代表として、破竹の勢いの田中角栄に宝石画を見せに行った経緯もある。父の自慢が田中角栄とのツーショットである。
ちなみに、我が家の宝石画には、父の「実」の実の名をとり、実の宝という意味で
「実宝(じっぽう)」
の縦字の朱印が入っている。
これがのちのちライターメーカーのジッポウと係争の元になってしまったが、裁判しても拉致空かないということで、そのままにしていたため、結果的に廃業したほうが負けという道となったようだ。
そういう追憶に浸りながら、高木さんご要望の水晶を発掘しに行ったわけだった。いまのところ、そのものをここに明かす訳にはいかないが、その宝石博物館でたくさん写真を撮ったので、その中でいくつかここにメモしておこう。
双龍

水晶の展示

日本最大の紅水晶

虎目石の観音様

パワーストーン(直径50cmの水晶球)

売店


我が家の全盛期の時代には、まだスピリチュアルという言葉はなかった。ましてやパワーストーンという言葉もあまり流布していなかった。だから当時は、一部の宗教家とか占い師とか、一般人からみれば、ちょっと怪しげな世界の人の持ち場だった。
あれから、40年。
いまやパワースポット、パワーストーン、スピリチュアルというような言葉は世に溢れている。変われば変わるものである。
それでも、私の子供時代はすべて水晶の加工は甲府の職人がやっていた。しかし、いまでは、それが中国人や韓国人のものになってしまった。
今回、宝石博物館や英雅堂の社員の人たちとも立ち話したが、もともと南北朝鮮人に貴石画や宝石画が伝わったのは、私の叔父、つまり、私の父の兄が、韓国に工場を作ったからである。そこから、支那朝鮮に伝播したのである。
その時代は、ほんの40年前の1960年代から1970年代に過ぎないが、その頃はキーセン旅行といって、韓国ソウルにいけば、どこでも簡単に女が買える。床屋でも、レストランでも、ホテルでも、キーセンがやってきた。
とまあ、そういう男の事情で、日本のビジネスマンは韓国ソウルに引き寄せられてしまったわけですナ。
むろん、その時代のコリアには、従軍慰安婦問題もなければ、支那には南京大虐殺問題も話題にもならなかった。そもそもそんなものは存在しなかったからだが、それがその後1990年代以降になり、テイクイニシアティブのネタとして重宝されるようになったわけである。
要するに、自分が下手の間は、女や料理や金でたらしこんで、自分が上になりそうになると、今度は相手の弱みにつけ込んで、捏造した事件を押し付けてくる。これが、「やつら」の常套手段なんですナ。今も昔もまったく変わらない伝統芸なのである。
ちょっと話が脇にそれてしまったが、今回宝石美術館に行って非常に良かったと思うのは、世の中には本当にさまざまの鉱石があるということを知ったことである。中でも「電気石」なるものを始めた見たのだが、これについてはまたいつか。
それにしても杉田元宜先生のときもそうだったが、いまの学者の誰も自分の所属する学術学会である「生物物理学会」の創始者の杉田博士をご存じなかった。
これとにて、今ある業界の創業時、いまある宝石学校の創業時、いったいだれによって生み出されたのか、そういうことを誰も知らないのである。山梨県立宝石学校は、我が家の祖父と叔父と父とで企画し、県を動かして予算をとり、実現させたものである。山梨最大手の英雅堂の社員すらだれも知らなかった。
半世紀も経てば、既得権益者はその既得権益の創立者すら忘れてしまう。
どうも地球人にはそういう悪い意味の健忘症があるようですナ。
いやはや、世も末ですナ。

by kikidoblog2 | 2018-09-27 16:01 | 個人メモ