サッカー選手がいう「きりかえろ、きりかえろ」→サッカー選手にいう「きりかえろ、きりかえろ」   

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みなさん、こんにちは。

さて、今回は私的個人的なメモである。また普通の一般常識的(=外から刷り込まれた)感じ方とは異なるため、普通人には違和感があるだろうからスルーを。

今回山梨に1年ぶりで親父のお見舞いに行ったのだが、そこへ山梨県で一番最初にプロ野球選手になった人と会ったのである。

甲府商業出身でピッチャーで4番打者。甲子園出場した中澤新一さんである。甲府商業の甲子園出場としては、2回目あたりで、3回目が巨人の大エースになった堀内恒夫投手の時である。当時はここ徳島の徳島商業の板東英二投手全盛期で、この板東英二と同期だったという。

というのも、私の父の若い頃、私が生まれる前に私の両親がこの中澤さんの家の向かいに引っ越し、そこで新婚生活を始めたらしいが、その時に中澤さんが甲子園出場を決めたので、私の父がその甲子園まで応援に行ったのだった。そういう縁があったからなのである。

その後、かつて父から聞いた伝説では、その甲府商業はあと一人アウトで甲子園勝利という9回に、内野手から来たボールを一塁手の手が震えて、キャッチしたボールが手からこぼれ落ち、結果的に負けてしまったという。そういう場面を何度も私に語って聞かせたからである。

私は子供の頃中2後半まで本格的にずっと野球をやっていたので、中1で野球部に入部した時、中澤さんが週末暇があれば、我が家へ来て、私のスウィングの指導をしてくれたのである。

どういう練習をすればいいか、どういう考え方でスウィングをしたらよいか、当時の最先端の知識をくれたのである。

私は、小3から小3から中3までの混成ソフトボールの町内代表になり、市大会か県大会まで行ったので、小5から小学校の野球部に入っていたのである。

ショートで5番打者。これが中学時代の私のポジションだった。

この中学は監督がその最初の甲子園出場した(はずの)甲府商業出身の天野監督だったために、我々は非常に入部時から期待したのだが、彼はすでに腐っていたので、練習にはまったく出てこなかった。おかげで、ド素人の先輩の補欠が下級生を面倒見るスタイルになっていて、いわゆるドツボの野球部の形態を呈していた。

2年になり、我々が主力になりつつあった頃、新規に新ユニフォームを作るために、新チームの主将になった私が代表で皆から金を集めて監督に持っていったのだが、いつまでたってもユニフォームが来ない。それで私が監督に聞きに行くと、天野監督は「そんなことあったかな」とすっかり忘れていたわけである。

この一大事件が契機となり、2年生チームがすっかり様変わりしてしまった。部室でタバコを吸い出すわ、女の子とつるむわ、小学校の県大会で優勝したエースは、完全なる不良グループの番長になってしまった。

さんざんなんとかしようとしたが、不良が増える一方で、ついに俺は脱出を行った。それが、サッカー部への転部であったのだ。

私はサッカーも小学校の最初のサッカー大会のレギュラーだったので、非常に上手だった。小学校時代に見よう見まねで練習しすでにリフティングが150ほどできたのである。我々の頃には、スポーツ少年団サッカーができる前で、私が小6になり、県内に初めてそれができたのである。わが校の国母小にもそれができ、小6で私もレギュラーとして市大会に出場した。

だから、中学に入学し、1年生のサッカー大会では、誰一人サッカー部はいなかったクラスだったが、われわれ野球部3人が活躍して、相手のサッカー部のエースが3人いるチームと戦って、準優勝したのであった。私はその大会の得点王になった。

というわけで、不良チームになった野球部には未練なく、県内優勝経験のあるサッカー部へ転部したのである。

当時の南中サッカー部は、甲府クラブ(現ヴァンフォーレ甲府)の初代監督をしていた岩田監督(たしか日体大出身)が我々生徒を体育の先生として指導していたのである。むろん、当時はそんなことはおぼろげにしかしらなかったが、全日本レベルの実に良いサッカー指導を行っていたのである。

私は2年の秋にサッカー部に転部し、3年の春には初めて試合に出場した。関東大会の予選だったが、韮崎西だったか、東だったか、どちらかと戦い、延長線で延長で初出場となった私の決勝ゴールで同点になり、PK戦で負けたのだった。我々のユニフォームは青。相手が緑だった。

いちばん大事な全国大会の県予選で今度は韮崎東だったか、西だったか、と戦い、今度は引き分け抽選で、PK戦の代わりに5−5のじゃんけんで負けた。

結局、このチームは5つあった県大会で3つほど優勝。2つがともに韮崎に同点でPKとじゃんけんで負けたという強豪チームだった。

そんな45年前から、私は野球は選手としては一度もプレーしたことがないが、大学、大学院などのソフトボール大会などでは結構活躍したものである。

30年ほど前には、ユタから帰国後に都内のバッティングセンターで弟といっしょに打ってみたが、何年ぶりかわからない状態だったが、120km,130kmとやって最後に最速140kmに挑戦して、これも普通にホームラン性の当たりを打てたから不思議だった。

ここ徳島阿南にきて、何年目かでいつもはサッカー選手ですからといって敬遠してきた小学校の父兄のソフトボール大会に出ることになり、だれもサッカー選手に期待しない中、私はセンターオーバーの大3ランをかっとばし、度肝を抜いたのだった。2打席目もレフト前のライナーで2打数2安打5打点10割で終わった。たしかこの試合も同点でじゃんけんで負けた。


こんな個人的経験を持っている私と、甲子園出場山梨初のプロ野球選手で、怪我で引退した中澤さんと、父の病院で何十年ぶりでまとまった話、たぶん初めてではなかったか、を行ったのだった。

78歳と60歳のお話、世間話に花開いたのだった。

だいぶ前置きが長くなってしまったが、要するに、昨今のスポーツ界の問題(と感じる)ものを自然と中澤さんが語ってくれたのだった。

結論から言えば、最近は「若者が中途半端な夢を追い続けすぎる」ということである。

たとえば、サッカー選手、一流プロ選手になる夢を持ち続けるのはいいが、20代後半になってもまだコンビニで働いて夜の練習を行う。しかし、どっちも中途半端に終わってしまう。

中澤さんは、プロ時代の練習中の怪我が原因で選手生命を短くしてしまったそうだが、そこで2軍で生きていく道もあったが、思い切って別の道に入った。それが「生活を固める」という意味では成功だったという。そういう話をしたのだった。

たぶん、これは私自身へ向けたメッセージだったと思うが、最近は特にそういう選手が多いという話をしてくれたのだった。

私はサッカーで同じことを考えていたから、これには全く賛成だった。

なぜなら、いまの我が国のサッカー界には、Jリーグには1部、2部、3部までのプロがあり、その下にまだいくつもセミプロ的なチームがある。草野球や草サッカーのように趣味でやる分にはいいが、気分はプロで定職にもつかず、サッカー中心の生活をすれば、自分が一流に近づくと思っている選手が多すぎるのである。

野球の場合、甲子園に出場を目指すチームは4000ほどあり、そのうちのわずかのものが、スカウトの目に止まり、ドラフト選手になる。それに入れなければ、即引退就職である。

セパに12チームあるだけだ。

だから、少数精鋭で世界ランク1位2位を維持している。

これに対して、サッカーはドイツのマネをして、
J1が18チーム, 
J2が22チーム, 
プレミアリーグが20チーム、
J3が14チーム,
JFLが16チームもある。計90チームもある。

私の見た印象では、J1, J2の半数の選手はアマチュアレベルである。

いまの我が国の「人口」とレベルであれば、J1が12チーム、J2が6チームもあれば十分である。このそれぞれの2軍、3軍にプレミアとJ3の選手が入るべきである。

チーム数が多くなればなるほど、各チームのレベルが下る。日本人選手が足りなくなる。

その結果、結局、外人部隊になる。

ブラジル人、韓国人、在日朝鮮人、東欧人、タイ人、。。。。

ブラジル人や欧州人や東南アジア人は反日ではないからまだいいが、どうして超絶反日の韓国人や在日朝鮮人をJリーグに入れるのか?理解不能である。

まさに「敵に塩やる」方式である。

1チームがレギュラー23人。2軍3軍を入れて50人程度だとすると、

J1:18×50=900人
J2:22×50=1100人
J3:14×50=700人
プレミア:20×50=1000人
JFL:16×50=800人

したがって、全部で4500人ほどサッカー選手がいることになる。


さて、そこで中澤新一さんがいいたかったことは、このうちの何人が生活が成立しているのか?ということである。

嫁さんをもらい家庭を作れるほどの給料をもらっている選手は何人なのか?

言い換えれば、「プロ選手」というレベルのプロ級の給料を貰える選手が何人いるのか?

名前はプロ選手でも、もしもらっている給料が普通のサラリーマン並みであれば、それはプロと呼ぶべきものではないだろう。年収300万円のプロサッカー選手。こういう人はプロとは呼べないのではないか。実際には、もっと年収の低い選手がほとんどだという。

これなら、野球やサッカーを辞めて、別の道に進んだほうが良い。別の道で成功にかけるべきである。


だらだらといつまでもサッカーにこだわり、変な夢を追い続けて、結局、サッカーの歴史にも名を残せず、かといって仕事の分野でも何も残せず、これでは困るのではないか?

むしろ、サッカーをきっぱりと止めて、別の道で別の仕事でそれなりの仕事をする。その方が本人やその両親や親族も幸せではないか?

これに対して、例えば、元日本代表監督2回の岡田武史のように、愛媛FCを作り、それを率いて「地元の若者に夢をもたせる」というようなことをする人もいるが、それは岡田のいわゆる「道楽」であろう。つきあわさせられる方が大変である。

サッカー崩れの人の道楽に付き合って自分の固有の新たなる挑戦の邪魔になる。

これもまた困ったものなのである。

はっきりと、「君には才能がない」と現実を突きつけて、サッカーや野球を卒業させること、そして、自分がだめなら、その子供や孫で挑戦する。そういう新たなる人生に切り変えること。これが大事だというわけですナ。

サッカーでは、試合中に何度も、攻守の切り替えを行う。そのたびに、両手を「叩いて」

「切り替え、切り替え」

と絶叫するのだ。


「人生の切り替え」switching of life

これが重要になるのではないか?


残酷なことだが、適度な才能の持ち主に、

「君には才能がない。別の道に行け。」

ということは、実に悲しいことではあるが、その本人にとっては大事なことなのである。


はたして、監督が選手にそういった場合、

パワハラ

なんていうやつがいるのだろうか?その選手から恨まれるのだろうか?

まあ、その本人自身がそれに気づくべきだが、本人がマジックにかかってその呪縛から逃れられない場合には、やはり誰かが

1,2,3パチン

と正気に戻してやらねばならないだろう。


いずれにせよ、プロサッカー選手の最低レベルの給料をプロレベルに保つためには、やはりチーム数や選手数を減らして、少数精鋭システムに変えるほかないのである。


この意味では、サッカーも野球のドラフト制度を取り入れるべきである。俺はそう思う。

そうすれば、入団時で契約金1億円ゲットとか可能になるはずである。そのためには、チーム数は1/4にすべきである。


若者に夢は大事だが、若者に「変な夢」は持たせるな!つまり、幻想をもたせるな!

夢をもたせて儲けるのは騙すメディアや大企業だけである。


ひょっとしたら、中にはサッカー選手よりコメディアンの方が向いている選手もいるだろうし、俳優になった方が良いほどハンサムもいるはずである。歌のうまいものもいるだろうし、ビジネスの才能のある者や、別の才能の持ち主もいるはずである。私のように、理論物理学者になれるものもいるはずだ。


夢と幻想との区別は実に大事なのである。





いやはや、世も末ですナ。






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by kikidoblog2 | 2018-10-05 09:39 | 個人メモ

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