グロタンディークと望月新一の接点?:数論幾何学はアインシュタイン理論を超えるかどうかにある!?
2018年 11月 23日
最近、京都大の望月新一博士の話をメモしたが、
望月新一博士は一人ではなかった!?:いまや宇宙連合軍になっていた!?「地球人は青かった!」すでに数学の世界ではレジェンド、伝説になっているようであった。
講演する望月新一博士
カテゴリ:望月新一・心の「一票」
どうして我が国のマスメディアはこういうことをニュースにできないんでしょうナア。
もう何年か前にはイギリスのオックスフォード大学で望月博士の研究テーマの国際研究会まで開催されていたんですナ。
Oxford Workshop on IUT Theory of Shinichi Mochizuki, December 7-11 2015
まあ、何よりもすばらしいと思うこと、ありがたいと思うことは、望月新一博士があのモーデル予想を解いたファルティングスのお弟子さんで、しかもあのグロタンディークの真正の後継者だということである。
そして、何よりも助かるのは、望月博士は、仏人のユダヤ系グロタンディークの研究テーマの「分野」で英語か日本語で書いてくれることなんですナ。グロタンディークは全部フランス語で書いているからまったく読めなかったのである。いまも積読状態。
岡潔博士はフランスに留学(そして保江邦夫博士もスイスに留学)していたから、彼らは英語のほかに仏語も読めた。だから、グロタンディークの研究なども読めた/読めるはずである。
しかしながら、我々普通の英語圏の戦後教育の世代は、仏語はかなり厳しい。ドイツ語もそうだ。戦前の杉田博士ならドイツ語は読み書き堪能だった。むろん、ドイツのハイゼンベルクのところへ留学した朝永振一郎博士もドイツ語堪能であった。
たぶん、望月博士も英仏は堪能だろう。
いずれにせよ、こうして日本語や英語でグロタンディーク界隈の数学を、現代数学を解説していただけるというのは真正のグロタンディークのファンの一人としては実にありがたいのである。これでやっとグロタンディークの自伝の内容が少しは理解できるからである。
では、なぜグロタンディークなのか?
というと、グロタンディークだけが、自分のことを
「現代数学のアインシュタインだ」
と自画自賛したからである。そしてその理由もちゃんと書いているからである。
今回はこの実に私個人的なテーマというか目標をメモしておこう。
(あ)数学者の孤独な冒険
そのテーマはグロタンディークの「数学者の孤独な冒険」という自伝第一巻の83ページ以降に書かれている。
数学者の孤独な冒険―数学と自己の発見への旅 (収穫と蒔いた種と)
そこは実に物理学者にとって意味深で、重要な場所なのだが、なにせ本当にはグロタンディークの理論が理解できなければ、自分で発展できないのである。だから、25年前にこの本が日本語訳されたときからずっとその部分を理解したいと考えていたわけだ。
本文はぜひ本で読んでもらうとして簡単に要約すればこんな話になる。
アインシュタインの行った一般相対性理論や特殊相対性理論は、リーマン幾何やミンコフスキー幾何というものを物理に持ちこみ、それまでのニュートン力学からみれば大きな革命を行ったことになるが、自分(グロタンディーク)は現代数学者だからリーマン幾何などはありきたりの古い出来上がった数学にすぎないから驚くほどのことはない。
しかし、アインシュタインが物理で果たしや役割は本当にすばらしい。実は自分は現代数学においてアインシュタインが物理の世界で行った革命に匹敵することを行ったのだ。それは、アインシュタインが物理において空間概念を変えたように、数学者のあつかう数学における空間概念を刷新したのである。数学者の扱う座標や場や多様体の概念を変えたのだ。
そしてその革命の雰囲気を例えれば、アインシュタインの使ったリーマン幾何というより、シュレーディンガーの発見した量子力学に近い。
そしてこういう主張の合間にいくつかのコメントが加えられていて、そのコメントがまた実に不可解かつ意味深なのである。
この中でもコメント(5)が特に興味深いのであるが、何分グロタンディークの行った数学革命がなにか理解できないためにこの25年間頓挫しているというわけである。
ちょっと長いけれども、のちのちのためにそこだけ拾い出して書いてみよう。辻雄一氏の訳である。
問題にされている、さまざまな部分的な理論を「統一させ」たり、和解させたりするに至る、このような仮説的な理論のことを「統一理論」と呼んでいました。私は、企てられることが期待される基本的考察は、つぎの異なった二つのレベルにあると感じています。
1)現実の一部分に対する「数学モデル」という概念そのものについての、「哲学的」性質の考察です。ニュートン理論の成功以来、物理的現実を「乖離」することも誤ることもなく、完璧な仕方で表現するための数学モデル(さらには、唯一のモデル、あるいは「決定的な」モデル)が存在するということが、物理学者の暗黙の公理となっています。2世紀あまり前から通用しているこのコンセンサスは、「すべては数である」というピタゴラスの生き生きとしたビジョンのいわば一種の化石となった名残りのようなものです。おそらくここに、物理学者の宇宙を限界づけるために、古い形而上学的な枠に取って替えられた新しい「目に見えない枠」があるのでしょう(一方には、「自然についての哲学者」と呼ばれる人たちが完全に消滅してしまって、やすやすとコンピュータを操る人たちに取って替えられたようです。。。)ほんの一瞬でも、そこに立ち止まってみさえすれば、このコンセンサスの有効性はまったく明らかでないことは明白です。当然のようにこれを疑問に付すような、あるいは少なくともその有効性にがきわめて限られた限界があることを予測させるような、非常に根拠のある哲学的理由さえあります。ちょうど今が、この公理を緻密な批判の対象にする、おそらくは、また、あらゆる可能な疑問を超えて、それが根拠のないものであること、つまり、現在までに記録された、いわゆる「物理」現象の全体を考慮に入れた、唯一の厳密な数学モデルは存在しない...ということを「証明する」時期だと思います。
ひとたび「数学モデル」という概念そのもの、そして(なされる測定において許容されるある「誤差の範囲」の限界の中での)このようなモデルの「有効性」という概念が満足すべき仕方で輪郭をはっきりさせられるとき、「統一理論」の問題あるいは少なくとも「最適モデル」(この意味ははっきりさせねばなりませんが)の問題はついに明確に提出されることになるでしょう。そして同時に、おそらく、このようなモデルの選択の度合いについての明確な考えも生まれることでしょう。
2)以前のものよりもより満足のいく明確なモデルを引き出してくるという「技術的な」問題がそのあらゆる意味を持つと思われるのは、ただこのような考察のあとでのみでしょう。その時はまた、おそらく、これも古代にさかのぼる、空間についての私たちの知覚のあり方そのものの中に深く根付いている、物理学者の第二の暗黙の公理から解き放たれることでしょう。その公理は「物理現象」が生起している「場」の、空間と時間の(あるいは時空の)連続性という性質についてのものです。
もう15年前あるいは20年になると思いますが、リーマンの全作品からなるささやかな本をひもといていたとき、「通りすがりに」なされている彼の指摘に心を打たれました。そこで彼はつぎのような考察をしています。空間の究極的構造は「離散的」であること、私たちが空間に関して作っている「連続的」表現はおそらくより複雑な現実の(結局のところは、たぶん過度な)単純化となっていること、人間精神にとって、「連続」は「不連続」よりもずっと把握しやすいこと、したがって、それは不連続を理解するための「近似」として役立っているということがありうる、ということです。これは、物理空間のユークリッド・モデルがまだ一度も問題に付されたことがなかった時期での、一数学者の口から出た驚くほど洞察力のある指摘だと思います。厳密に論理的な意味では、伝統的に、連続へ向かっての技術上のアプローチの仕方として役立てられてきたのは、むしろ不連続の方です。
さらに、ここ数十年の数学の発展によって、今世紀の前半にはまだ想像できなかったほどの、連続構造と不連続構造との間の極めて緊密な共生関係があることが示されました。それでもやはり、それが「連続的」であろうと、「離散的」であろうと、また「混合した」性質のものであろうと、「満足すべき」モデル(あるいは、必要ならば、可能な限り満足すべき仕方で「つながり合って」いる、このようなモデルの集まり...)を見出すことーこのような仕事はたしかに大きな概念上の想像力を投入させることになるでしょうし、新しいタイプの数学構造を把握し、明るみに出すための熟達した直感力を必要とするでしょう。この種の想像力あるいは「直感力」は、物理学者の中ばかりでなく(アインシュタインやシュレーディンガーはまれなる例外だったのでしょう)、数学者の中でもまれなように思います(このことについては完全に事情を知った上で話しているのですが)。
要約すると、期待される革新(これが再びおこるものとして...)は、物理学者からよりも、むしろ物理学の大問題によく通じている、根っからの数学者からやってくるだろうと私は予測しています。だがとくに、問題の核心を把握するためには、「哲学的に開かれた心」をもっている人物が必要でしょう。この問題の核心は、技術的な性質のものではまったくなく、「自然についての哲学」の基本問題だからです。
(1986年5月3日)
私はここでアインシュタインのモデルも含めて、物理現象に対して現在までに提案されているモデルについて、哲学的起源のもうひとつの批評をしておきたいと思います。時空とその構造(特に軽量的な)は、観測者の過去と未来を含む、「現在の」、侵し得ない与件として取られているということ、また同時に、時空のこの部分はその過去と未来から逃げてしまっているということです。したがって、ここに、結局は、観察者から独立した存在と構造をもったある「絶対」があります。ところが私たちがよく知っているように、観察者は、「その過去」の影響を受けているだけでなく、自分の自由意志と自分の中にある創造性によって、「その将来」に対して影響を与えます。それは、(物理的)「自然法則」によって定められたある範囲の内部で作用を及ぼす影響です。したがって、「観察者の前にある」時空のこの部分(とくにすぐ近くにある部分)の構造自体、とくに(少なくとも部分的には)物質とエネルギーの流れによって叙述さえる構造は、あらかじめ「すべてできあがっている」ものではなく、ある程度は、「自己創造している」のです。たぶんここに、時空の構造(計量的な、物質とエネルギーの流れ)を、おのおのの「場」で(あるいはむしろ、おのおのの「場ー時点」で、つまり時空の各点で)連続的な創造としてみるばかりでなく、この構造の「土台」である、時空自体がそれらにつれて自己創造しているものとしてみるようなモデルを構想する必要がありそうです。
もちろん、私は「観察者」ということで、人間の観察者だけではなく、宇宙のおのおのの「場」で、おのおのの時点で活動しており、宇宙の息吹き、あるいは生命そのものとして存在している創造的な知性をも考えに入れています。この「息吹き」は、現在までに構想されたモデルに存在しないだけでなく、禁じられているように思われます。明らかに、この息吹きを含めるには、いままでに提出されているすべてのモデル、つまり「出来合いのモデル」に欠けている柔軟性、内的なダイナミズムを与えるために、時空という基本概念についての深い再考察が必要とされるでしょう。
この方向での第一の基本的な問題は、二人の観察者(つまり二つの異なる「場ー時点」の過去の一部分をなしている、時空の「過ぎ去った」部分に対して、この部分は、観察者、すなわち観察の場ー時点とは独立した、「絶対的な」または「客観的な」構造を有しているとみなすということは、適切なことかどうかという問題です。ここに(私の知るかぎりでは)現存するすべてのモデルのもつ暗黙の前提のもうひとつがあります。つまり、これらのモデルは、アインシュタインによって導入された大きな革新的な哲学的アイデアである、観察者に対する観察される現実の「相対性」という考えに逆らっているのです。このアイデア自体は、アインシュタイン自身が物理学者のために多少とも「使用できる」ような仕方でこれを表現するよう努力したモデルがいかにエレガントであっても、それらよりも、より深く、より豊かなもののように思われます。ところがこれらのモデルでさえ気難しい同時代人たちに受け入れさせることは容易なことではなかったことを言っておかねばなりません。
どうだろうか?
このグロタンディークのアインシュタインの一般相対性理論に対する注釈は、実に興味深いだろう。
つまり、
宇宙は離散的で自己創造するものである。そうでなければならない。
とグロタンディークは言っていたのである。
言い換えれば、この宇宙は生命のように誕生して自己複製し、自己創造していくようなモデルで記述できるはずだと考えた。
なんとなく、湯川秀樹ー保江邦夫の「素領域の理論」に近い、かつ、フォン・ノイマンのオートマトンの概念にも近いものをグロタンディークは想像していたと考えられる。
あるいは、杉田元宜の「過渡的現象の熱力学」のテーマである「一過性の宇宙」の概念にも近い。
また、保江邦夫の盟友の天才、中込照明の「唯心論物理学」の精神にも近いのではないか?
あるいは、マンデルブローのフラクタルやカオス、あるいは、ウォルフラムの「新種の科学」、オートマタの世界に近い。
俺はそう思うのである。
つまり、宇宙には内的構造として空間の素とは別のプログラム情報の世界があり、そのプログラムに応じて、空間の素をつぶつぶとして自己創造しながら成長する。
したがって、生命が自己創造し、自己複製するのであれば、それは宇宙そのものもそうしているはずであり、宇宙にも細胞構造のような機能が存在する「場」「点」として空間構造を捉えなかればならない。
その宇宙の素の中にある情報は、我々の細胞の中の染色体のように、それ自身の情報、過去と未来の両方の構造を持っている、こうした内部情報と物理情報の双方をもつ存在として宇宙の素、時空間の素を考えるべきだと俺は信じるようになったというわけである。
だが、俺にはそれを数学的にいかに表現すべきかまだわからないというわけである。
いでよ、天才君!
そんなわけで、いつもグロタンディークの残したこの記述に戻るんですナ。そして、だれか彼の数学を説明してくれるものが出てこないか待ち望んでいたわけだ。そこへ望月新一博士が現れた。
大感激、大歓迎である。
頑張れ、天才!
おれにその才能や知識があればナア。
いやはや、世も末ですナ。

by kikidoblog2 | 2018-11-23 18:06 | 望月新一・心の「一票」