本邦初公開:ビル・サザーランド博士のハイネマン賞受賞の言葉
2018年 12月 06日
みなさん、こんにちは。
先日、私のユタ大学時代の恩師ビル・サザーランド博士
が理論物理のノーベル賞ともいわれるダニー・ハイネマンプライズを受賞したということをメモしていた。以下のものである。
私の師匠ビル・サザーランド博士が来年のハイネマン賞受賞!:カロゲローサザーランドモデルの発見!
いや〜〜ユタ大物理は祝賀ムードだった!?:来年のノーベル賞の期待も高まっているはず!?
それでその受賞をお祝いしてメールを差し上げた次第なのだが、その折返しにその受賞の時のAIPへのインタビュー記事と思われる原稿を私に送ってくれたのだ。
それで、早速それを日本語に翻訳して私のHPやブログに掲載してもよろしいでしょうか?と聞いたところ、OKの許可が降りた。そこで、ついさっきまでそれを読みながら日本語に翻訳していたわけである。まあ、稚拙な拙訳だから、誤訳があるかもしれないが、ご勘弁を。
では、本邦初公開。(いうまでもなく、他人が勝手にサザーランド博士の許可なく転載やコピーはご法度ですヨ。彼にパーミッションもらってナ。)
ところで、以下に出てくる、PrizeとAwardの違い。日本語ではどちらも「賞」と翻訳されるが、英語ではまったく概念上異なっている。
Prizeとは五輪競技のように人々が競争したり戦ったりして優勝した人がもらう賞のことであり、Awardはアカデミー賞のように人々から称賛されて表彰される賞のことである。
ビル・サザーランド博士の言葉
原文
2018年10月21日
私はいつどんなふうにダニー・ハイネマンプライズについて聞いたか?
私が覚えているところでは、私の良き親友のシュリラム・シャストリーがインドのバンガロー(Bangalore)空港から、私がハイネマンプライズを受賞したと私に電話してきた時、ヴェロニカ(私の妻)と私は太陽の下で外に座って昼食をとっている最中でした。そのとき私は、彼が私が賞の対象者になるために必要な仕事をしてくれたことに対して非常に感謝したのです。そして私は彼が正しかったということをシュリラムのために喜んだのです―私は彼の応募が成功するとは決して期待してなかったのです。
私の研究上の関心
私は主に統計力学と量子力学とこれらの関連について興味がありました。私は2次元6−頂点模型に関するPhD論文で始まったのです。これはある統計力学の問題で、多くのそういった問題のように、一つの物理系の異なる配置を単に数えることからなるものでした。この場合では、それは強誘電体モデルだったのです。氷をも含む他の多くの場合と同様です、私はこれらの問題の非常に一般的な類を厳密に解くことができたのですが、これが私の指導教官C.N.Yang(楊)教授を非常に驚かせたのです。Yangはすでにノーベル賞を受賞しており、プリンストンの高等研究所で長年を過ごし、ちょうとStony Brookにやってきたばかりでした。私は彼の最初の大学院生でした。Yangとオハイオから訪問していた彼の弟のC. P.Yangといっしょに私たちはこれらの解を研究して拡張したのです。この研究は磁気鎖の1次元量子ハイゼンベルグモデルとの面白い関連を示したのです。実際、C. N. Yangは何年か前にこの問題を解く非常に重要な研究を成し遂げていたのです。だから「その熟練者」だったのです。
この後まもなく私は斥力の逆2乗法則ポテンシャルで相互作用するN粒子の1次元量子系に対する厳密な波動関数を与えるCalogeroの興味深い論文を発見したのです。でも、彼の解は束縛のない散乱状態であり、それで私はどのように「箱の中におく」かを明確にし、有限密度で粒子の熱力学を明確にしたのです―いわゆるCalogero-Sutherlandモデルです。続いて、私はその研究を大きく拡張でき、これらの物理の問題とランダム行列という数学の問題との間に密接な関係を見つけたのです。
私の研究過程において、私はしばしば良き親友であり研究仲間でもあるシュリラム・シャストリーと共同研究することができました。これは最初に1980年に始まりましたが、彼が家族とともにユタ大学に訪れたときです。そしてそれは今日まで続いていて、インドや日本で行われたのです。私の論文などをちょっとみれば、「S&S」の共著論文を見つけると思いますが、多くは二人だけのもので、第一著者が我々のどちらかのものです。
こんなふうにして私は研究経験を積んできたのです。もしもっと知りたいと思う場合には、拙著:Beautiful Models: 70 years of exactly solved quantum many-body systems, (World Scientific, Singapore, 2004)を御覧ください。
Beautiful Models: 70 Years of Exactly Solved Quantum Many-Body Problems(序文の謝辞に私の名前もある)
私の始まり
私は家族の中で初めて大学に通う人間だったので、それが私を一種の「マイナリティー」の学生にしたと私は感じています。私の母ノラ・ホプキンスは看護師で、私に看護化学の本を与えてくれたのです。一方、父は多くの異なる専門を持っていたのですが、父が商船の航海術を教えたことから私に対数表を与えてくれたのです。私はミズーリ州のマーシャルの小さい農村社会で大半は育ったのです;私は良かれ悪しかれ多くのミズーリ人の性格の特徴を持つに至ったと思います。私の田舎の教師たちは非常に良かったのです。特に私に数学を教えてくれた「グラニー」・クラッチャ―さんが良かったのです。教科書の商人が彼女のもとを訪れた時に提供された新しい数学の教科書を評価してくれないかと私に頼んだのです。スプートニクが打ち上げられてまもなく、米科学財団(National Science Foundation, NSF)は若い科学者を採用し始めたのです。私が高校の中学部にいた頃、ミズーリのロラ(Rolla)にあるミズーリ鉱物学校で物理学の夏の学校が開催されたのです。(だれもそれが少年だけのものだったとは気づきませんでした!)私は選ばれて、その学校を非常に有意義に過ごせたのですが、高校の最高学年を飛び級して大学に通いたいと思うほど良かったのです。みんながそれに賛成してくれたので、私もそうしたのです。
私はカンサス・シティの郊外のリバティー(Liberty)にある、ウィリアム・ジュエル(William JewelL)という小さい短大で始めました;そこで1年過ごすと、先生たちが私に君はもっと大きな大学へ行きなさいとアドバイスをくれたのです。マーシャルに戻った私の高校の科学の先生が、セントルイスにあるワシントン大学における、教師のための、NSF課程に参加したのです。私にはその大学が非常によく見えたのです。それで私は転学し、それが許可されたのです。私は’Wash U’で際立った教師たちに出会ったのですが、いろんな仕方で最も影響を受けた人はT. A. ‘Alec’ Pond教授でした。彼は二年生の現代物理のコースをMax Bornの教科書で教えたのです。私が卒業になる1年前にポンド教授はStony Brookにあるニューヨーク州立大学の物理学部を開校するために雇用されたのです。翌年私はNSFの奨学制度で彼の後を追ったのです。そしてアレック・ポンド教授こそが二年後にC. N. Yangを招聘したのです。
私のユタ生活
もちろん私のユタ生活は本当には必ずしもそれだけというわけではありませんが、私は家族の一部だと思っております。私が学部生だった頃のワシントン大学に戻りましょう。私はお金が足りなくなり、T. A. ポンド教授に彼の大学院生を助けるために雇用してもらったのです。その院生の中には、クリス・ホーへネムザー(Chris Hohenemster)がおりました。クリスの妻はアンでドイツ語の教師でした。そして彼の父は工学部にいたのです。物理とドイツ語を通じて、また政治活動により、私はクリスとアンと知り合いになったのです(井口注:キング牧師の自由公民権運動の時代)。私が卒業した1963年の夏、彼らとのコロラドのキャンプに私や他の人たちを招待してくれたのです。それは私と私の弟も含んだ、家族や友人たちの一団でした。そこで私はクリスの姉の、私より2つ年上のヴェロニカ・ホーへネムザ―(veronica Hohenemster)と出会ったのです。彼女はニューヨーク、マンハッタンのアパートに住んでおりました。次の2年以上にわたり私たちはニューヨーク市とロングアイランドを行ったり来たり訪問したり、毎夏コロラドのキャンプして、お互いによく知り合うようになったのです。1965年7月30日に私たちは結婚しました;結婚証明書にはコロラドのゴシックとありますが、実際にはずっと山の方だったのです。この夏のキャンプについてはちょっと説明したほうが良いでしょう;私たちは学期中はNY市で教えていた教師たちからストーニーブルークの一軒家を借りて住んでいたのですが、夏の間は彼らがロングアイランドに建つその一軒家に住みました。だから私たちは夏の間はどこかに住まなければなりませんでした。1967年と1968年私たちは標高9500フィート(約2896m)(Brightonのように当時合法的に許可された)森林サービスの土地に手作りの丸太小屋を建てたのです。1968年10月に私たちの娘コリ(Cori)がジェファーソン港(Port Jefferson)で生まれました。私は1968年に卒業したのですが、もう一年CNYangと理論物理学研究所で過ごしました。それから2年オッペンハイマー特別研究員(Oppenhaimer Fellow)としてバークレーで過ごしたのです。私たちの息子ジェイソン(Jason)は1970年2月にカリフォルニア州オークランドのカイザー病院(Kaiser Hospital)で生まれました。こうして私たちの家族はいま全員一緒になったのです。
残念ながら当時は物理で職を得るのはそう簡単なことではありませんでした;私は西部にいたいと思いましたが、1971年の春に私は2つのオファーを得たのです。一つはパルアルトにあるスタンフォード大学、もう一つがユタ州ソルトレーク市にあるユタ大学です。選ぶのはそれほど難しいことではありませんでした;ご承知のとおり、私たちはユタを選んだのです。はっきり言っておきたいことですが、私たちは末日聖徒(モルモン教徒)ではありません。でも、何も問題は―私たちにも他のだれにもありませんでした―私たちは33年間もソルトレーク市に住んだのですから。1971年にはソルトレークに住み、大学に通い、子供を育てるさまざまの人たちがおりました。私たちはソルトレークの古い隣町である(赤い線の(red-lined))通りに住みました。そこは西へ15分の徒歩で町中に、東へ15分の徒歩で大学に行ける場所でした。私たちの子どもたちは開かれた学校(open classroom)に通いましたが、その学校は公立校システムに吸収されていきました。ヴェロニカと私は、電池&電球やクロスカントリースキーを学校の教師として共に選んだのです。私が退職する頃、私は大学で小学生の何人かを教えなければなりませんでした。
ハイネマンプライズをどのように観るか?
これは私が答えるのは難しい問いです;私は恥ずかしがりで内気です。第一に、私はそれを「賞(prize)」といよりはハイネマンアワード(Hineman Award)と見ます;この方がずっと私の気持ちを楽にしてくれるのです。私はいつも理論物理学を’競争的’というよりはむしろ非常に協力的な努力と見てきました。私はずっと年長者の仲間たちにより指導され、同僚たちと生産的に協力しあい、今後の学生たちを喜んで教えてきたのです。もちろん、このことは過去の偉大な科学者や数学者たちによって確立された膨大な歴史的支援構造を見落としています;だれもがこれに依存しているのです。
そんなわけで、長年に渡る共同作業的な冒険において私が行った部分に対する仲間たちからの感謝としてのアワードと見るのです。さらに満足なのはそのアワードがGaudinとCalogeroと共有されたことなのです。私たち3人は異なるけれども関連する興味をもち、いつもお互いに個別のアプローチを喜んで共有したのです。私の全経歴を通じて私は確かに‘プライズ’のために研究しなかったのです。
私の経歴を通して私の動機を説明していると感じるストーリーを言わせてください。説明したように、私はミズーリの小さい農村部出身です。17歳でカレッジで出発したのですが、18歳ですべての少年は徴兵のために登録しなければなりませんでした。これは1960年のことで、ベトナム戦争が始まったのです。徴兵会議(draft board)は私に学生猶予をくれたのです。しかしながら、1967年ごろ、私は(PhD学位論文にとりかかって)まだ大学にいたのです。したがって8年後も私がまだ大学を出ないので、徴兵会議は私をIIAに再分類したのです。彼らの経験上、私は非常に遅れた学生だったのです。しかし彼らは私にさらに2年の猶予をくれたのです。しかしながら、1969年に(今度はYangの理論物理学研究所のポスドクとして)私はまだStony Brookにいたのです。彼らは非常に怒りましたが、また再分類してくれたのです。というのは、CNYang教授が親切にも私のために非常に丁寧で詳しい手紙を徴兵会議へ書いてくださったのです。それは私の研究がどのように優れたものであるのか、だから継続させるべきであり、それが国家のためにどれほど価値があるかというこをを説明するものでした。彼は私にそのコピーを1枚送ってくれました。そしてこれが私の全研究生活人生を通じた1つのインスピレーション(霊感)となったのです。(むろん、私は徴兵されなかったのです!)
いや〜〜、私の知らない話ばかりでした。いい話だナア。
彼の二番目のPhDの私がこういう賞をとる可能性はまったくのゼロだから、他の人たちに頑張ってもらおう。
頑張ろう、弟子たちヨ!
おまけ:
いま気がついたのだが、BillのBeautiful Modelsのアマゾンの読者コメント欄に1つ数学者によるコメントが付いていた。どうやらDr. Lee D. Carlsonという数学者によるものだが、この人はアマゾンでなんでも読んではコメントする著名な人らしい。
Dr. Lee D Carlson, a man that reads everything
この数学者のBillの本へのコメントが非常に良く書けているので、ついでにそれもメモしておこう。以下のものである。
Gives good insights into quantum integrable models
2004年12月22日 - (Amazon.com)

グーグル翻訳
この本の主な美徳は、量子システムにおける統合性の概念に関する混乱を解消することです。第1章で正確に解けるシステムの理論の歴史的概要の後、著者は古典力学における統合性の概念を想起し、ハミルトニアンによって支配されるシステムに議論を限定している。標準的な動作角度の正準変換を使用して、ハミルトニアンシステムの可積分性は、よく知られているように、「崩壊」にある有限の量の量の存在によって示されること、すなわちそれらは運動の定数であることを示している。
この積分の概念は、有限次元の量子システムでは機能しません。これは、ハミルトニアンを含む、相互に交換する演算子の集合Lを仮定的に持つシステムを使用することによって示されているからです。彼は、2つの交換演算子が代数的に独立していないことを示し、交換演算子Dは線形独立であり、Dは演算子の固有空間の次元である。著者は量子システムのダイナミクスに関する情報を提供するという点で、それほど簡単ではない統合性の概念を提示する。
量子システムは、一般に互いに相互作用する粒子系であるため、興味のある動的事象は散乱事象である。実際に、量子システムの散乱理論は非常に発展しており、物理学と数学の両方で膨大な量の研究に影響を与えています。著者は、1次元で始まり、1つの粒子と2つの粒子を考慮して、いくつかの基本システムを考慮して、この積分可能性の概念の実行可能性を正当化する。エネルギーと運動量の保存は、散乱粒子のモーメントを単に再配列(粒子は本質的に「互いに通過する」)。
3つの粒子を考慮すると、状況はより複雑になります。エネルギーと運動量の節約はもはや、漸近的な瞬間が単に入ってくる瞬間の再編成であることを保証することはできない。有名な「Bethe ansatz」は、二体衝突の観点からの散乱の振幅比の決定を可能にします。本物の3体散乱は、3体重複領域から出現する平面波から逸脱する全漸近波動関数に含まれます。著者はこの「回折的」散乱と呼ばれ、正確に解決可能なシステムでは起こらないと指摘している。一般的な1次元システムの場合、それが発生し、これはBethe ansatzの使用を禁じます。回折散乱の存在は第3の独立した保存量の発生を妨げ、これは著者に「非可積分性」を定義するための基準を与える。この本で考慮されている量子システムは、「積分可能」であるため、回折散乱をサポートしていません。量子システムにおける回折のない散乱の結果は、古典的な積分可能なシステムで起こるものと同じくらい興味深いものであり、これらの「美しい」システムの特性を解明するためにこの本を書いている。
本書の早い段階で、著者はシステム全体の分析に使用されるさまざまなテクニックについて説明します。これらの技術は、基底状態にあり基底状態のすぐ上にあるシステム、およびそれらが有限温度にあるときのシステムの解析において生じる。研究の対象となるシステムはすべて可積分で非回折性であるため、著者が「基本方程式」と呼ぶものに従います。これらは、システムのモーメントのための連立方程式です。デルタ関数、逆平方、双曲線のポテンシャルによって支配されるシステムは、これらの技術を議論する際に考慮されるシステムです。
この本の全章は、Bethe ansatzを使って取り組まれた最初のモデルであるHeisenberg-Isingモデルに捧げられ、磁気チェーンと量子格子ガスのモデルです。このモデルは積分可能であり、Bethe ansatzが証明する応用として「無回折」であり、著者はこのansatzを用いてスペクトルの完全な方程式を得る方法を示しています。ゼロ磁束とゼロ磁場における基底状態エネルギーを計算し、この計算を非ゼロ磁場と磁束の場合に一般化する。
また、本書では、2つの粒子間の量子数の交換を可能にする可能性のある量子システムである交換モデルが考慮されている。著者は、双曲線の可能性など、本の中で考慮されている可能性のあるものを取って、交換の可能性を得るためにそれらを修正する方法を示します。特に双曲線のポテンシャルは、原点では強い反発を起こすので、2つの粒子の波動関数は、それらが会ったときに消滅し、異なるタイプの粒子の混合を禁止する。これは、2つの粒子を交換する順列演算子の組み込みによって緩和することができる。
著者は、本の最後の章で有名なハバードモデルについても議論します。このモデルは、強く相互作用する電子のモデリングシステムのための凝縮物性物理学で使用され、著者がBethe ansatzを再び使用して示すように、一次元で積分可能である。
本書の最善の章は第7章である。著者は、統合性の性質に関するより一般的な質問と、システムがいつ統合可能かどうかを証明する方法について詳しく述べている。システムが統合可能であることを示す最適な方法はないことに留意し、散乱をサポートするシステムの統合性を示すさまざまなアプローチについて説明します。この章での議論は非常に明快であり、したがって、読者は積分可能なシステムの特性、特にヤンバクスター方程式の役割とそれに続く「伝達演算子」の概念について多くの洞察を得るでしょう。テスト粒子と他のすべての粒子との散乱に対応する伝達演算子の著者の説明は、その役割を明確にし、正確に解けるシステムに関する文献にはない説明です。また、ミラーのウェッジから光線を散乱させる例を用いて、非可積分性の背後にある物理学についての非常に興味深い議論を行う。これらの例は、単純な数学的計算よりも有用な、非整数体系の振舞いについてより多くの光を当てる役目を果たします。

by kikidoblog2 | 2018-12-06 17:34 | 普通のサイエンス