起業成功は20年、科学成功は50年:はたして企業家は科学者を理解可能か?
2018年 12月 22日
さて今回は個人的メモ。あるいは、個人的妄想のたぐいである。興味ない人はスルーでお願い。
最近たまに考えることにこんなことがある。
もし社会的に起業し、企業家として成功するのに何年かかれば人はそれにチャレンジするか?
これは人の一生の寿命と密接に関係しているはずであろう。
まずは人の人生が50年だったとしてみよう。生物学的には人が大人になる年数は10数年。一応15年としておこう。
この場合、人の生育期間の15年差し引いて、35年がリミットになろう。
つまり、社会的に成功した途端にすぐ死ぬのであれば、35年かかってもよいが、多少成功の余韻の余生を送りたければ、すくなくとも20年から25年で成功しなければならない。
もし寿命が80年であれば、上の見積もりにプラス30年できる。つまり、50年から55年で成功すればいいということになる。そうすれば、うまく成功した場合、余生を満足して死ぬことができるだろう。
つまり、厳しくみると、せいぜい人は20年で自分の起業を成功させ、大企業に育成できなければなならない。そういうことになる。
もし社会的成功には100年かかるとすれば、自分の死後に自分の生前の仕事の結果が評価されることになるわけだ。
はたして、こういう場合に人は起業にチャレンジするか?
逆に起業してすぐに成功できるとすると、人はすぐにそれに挑戦するだろうか?俺なら簡単すぎて興味を失う。
だから、やはり人生のモニュメントとしての成功ということがあるとすれば、人はそれには適当な年数を必要とするのである。
さて、この観点から実際に成功した人たちを見てみよう。
(あ)まずアップルのジョブズの場合。

1976年、スティーブ・ウォズニアックと共に初期のホームコンピュータ「Apple I」、その後「Apple II」を開発した。Apple IIは大成功を収め、自宅からスタートしたアップル社は、シリコンバレーを代表する企業としてサクセスストーリーを築いた。1980年の株式公開時に2億ドルもの巨額を手中にし、25歳でフォーブスの長者番付、27歳でタイムの表紙を飾った。
1984年に発売した「Macintosh」が搭載したグラフィカルユーザインターフェースは当時のあらゆるパソコンを凌駕する洗練されたもので、新たなコンピュータ像を創造した。しかし、本人の立ち居振舞いが社内を混乱させたとして役職を解任され閑職へ追いやられた為、1985年にアップルを辞めた[5]。
アップル退職後、ルーカスフィルムのコンピュータ・アニメーション部門を買収して、ピクサー・アニメーション・スタジオを設立。また、自ら創立したNeXT Computerで、NeXTワークステーション (NeXTcube, NeXTstation) とオペレーティングシステム (OS) NEXTSTEPを開発した。
1996年、業績不振に陥っていたアップル社にNeXTを売却すると同時に復帰、1997年には、iCEO(暫定CEO、Interim CEOの略)となる。同年には、不倶戴天のライバルとさえされていたマイクロソフトとの提携と、同社からの支援を得ることに成功し、また社内ではリストラを進めてアップル社の業績を向上させた。
WWDC07でのスティーブ・ジョブズ
2000年、正式にCEOに就任。2001年から2003年にかけてMacintoshのOSをNeXTの技術を基盤としたMac OS Xへと切り替える。その後はiPod・iPhone・iPadといった一連の製品群を軸に、アップル社の業務範囲を従来のパソコンからデジタル家電とメディア配信事業へと拡大させた。
CEOに就任して以来、基本給与として、年1米ドルしか受け取っていなかったことで有名であり[6](実質的には無給与であるが、この1ドルという額は、居住地のカルフォルニア州法により、社会保障番号を受けるために給与証明が必要なことによる)、このため「世界で最も給与の安い最高経営責任者」と呼ばれた。しかし、無報酬ではなくアップルから莫大なストックオプションやビジネスジェット機などを得ている[7]。2006年に、ピクサーをディズニーが買収したことにより、ディズニーの個人筆頭株主となり、同社の役員に就任したが、ディズニーからの役員報酬は辞退していた。
彼が起業したのは1976年。それから10年ほどでかなりの有力ベンチャーになり、一時は追放されたが、また出戻りし、2000年には世界のアップルとなった。皆の周知の事実である。
つまり、世界の大企業になるまでおよそ24年かかったのである。たったの24年だよ。
(い)さて、今度は我が国の在日韓国人の孫正義のソフトバンクの場合。

1977年にカリフォルニア大学バークレー校経済学部の3年生に編入。さらに1979年、シャープに自動翻訳機を売り込んで得た資金1億円を元手に[7]、米国でソフトウェア開発会社の「Unison World」を設立。インベーダーゲーム機を日本から輸入。結婚。1980年にカリフォルニア大学バークレー校を卒業。学位は、経済学士。日本へ帰国後、会社を設立するために福岡市博多区雑餉隈に事務所を構えた。
実業家
1981年、福岡市博多区に事務所を移し、コンピュータ卸売事業の「ユニソン・ワールド」を、そして福岡県大野城市に「日本ソフトバンク」を設立。1983年における慢性肝炎での入院をきっかけに社長職を退き会長へ。この時、「お金じゃ無い、地位や名誉でもない、ばあちゃんがやっていたような、人に喜んでもらえることに、貢献できたら幸せだ。どこか、名前も知らない、小さな女の子に“ありがとう”と言ってもらえるような、そんな仕事がしたい」と思い、今に至る。「おばあちゃんは、いつも、人さまのお陰だ、と言っていたことから、人を恨んだりしてはいけない」とも語っている。その後、1986年をもって社長職に復帰、パソナの南部靖之、エイチ・アイ・エスの澤田秀雄とともにベンチャー三銃士と称された[8]。1990年をもって日本に帰化。
1990年、ソフトバンク株式会社に社名変更。
1994年にソフトバンク株式会社の株式を店頭公開。
1996年には米ヤフーとソフトバンクの合弁でヤフー株式会社を設立。
同年、衛星放送プラットフォームの運営会社としてジェイ・スカイ・ビー(JスカイB)をルパート・マードックのニューズ・コーポレーションと折半出資により設立、マードックが会長、自らは社長に就任。この際、旺文社より全国朝日放送(現テレビ朝日ホールディングス)の株式21%を取得するも、翌1997年3月に当時第3位株主だった朝日新聞社に全株式を譲渡して撤退。JスカイBは1997年にソニーとフジテレビジョン(現フジ・メディア・ホールディングス)がイコールパートナーとして資本参加した。
1998年にはパーフェクTV!を運営する日本デジタル放送サービス(現スカパーJSAT)と合併、スカイパーフェクTV!(スカパー!)として放送を開始した。
1999年、証券市場の開設を企図し米国のナスダック・ストック・マーケットとソフトバンク株式会社が共同出資しナスダック・ジャパンプランニング株式会社を設立。翌2000年には大阪証券取引所とナスダック・ジャパンプランニング株式会社にてナスダック・ジャパン市場を開始。
ソフトバンク株式会社が東京海上火災保険、オリックスとともに、日本債券信用銀行(現あおぞら銀行)の株式を取得。取締役に就任した。
NTTドコモの第一期アドバイザリーボードのメンバーを1年程務める[注 1]。
2001年からヤフー株式会社と共同でADSL接続サービスのYahoo! BBの提供を開始。以降、それまでのPCソフト卸、PC出版から通信に本業の軸足を移す。
2002年、ナスダック・ジャパン株式会社が業務を停止。大阪証券取引所によりヘラクレスとして改組された。
2003年にあおぞら銀行の株式をサーベラス・キャピタル・マネジメント社に売却。
2004年には日本テレコム株式会社を買収し、同社代表取締役会長に就任。2006年10月には同社の代表取締役社長に就任した。
さらに福岡ダイエーホークスと福岡ドームをダイエーから買収し、福岡ソフトバンクホークスのオーナーに就任。
続けてボーダフォン株式会社(現ソフトバンク株式会社)を買収し、同社代表執行役社長兼CEOに就任した。
2011年に東日本大震災が発生すると、義援金として個人で100億円および2011年から引退するまでソフトバンクグループ代表として受け取る報酬の全額を寄付することを表明し2011年7月14日100億円の寄付が終了した[10]。さらに福島第一原子力発電所事故を受け、自然エネルギー財団を設立[11][12]。『東日本大震災復興支援財団』を6月に設立[13]。
2015年4月1日、ソフトバンクモバイルの代表執行役社長から代表取締役会長に異動した(ソフトバンクモバイルは、同時に、ソフトバンクBB、ソフトバンクテレコム、ワイモバイルの3社を吸収合併)[14]。
2017年には海外の大物経営者が名を連ねている中国の清華大学経済管理学院顧問委員の一人となった[15][16]。
2017年12月14日、MLS参入を目指すデビッド・ベッカムの投資家グループへの参加が承認された。
1990年にソフトバンク設立。2004年にはすでに大企業として君臨し、プロ野球を買った。だから、この場合は、14年かかったことになる。それからさらに10年後のいまは何兆円産業に変わった2015年としても、25年かかったことになる。
したがって、ソフトバンクの孫正義の場合も25年以内に世界企業に成長できたということになる。
(う)楽天の三木谷浩史の場合。

1995年
1月17日 阪神・淡路大震災で故郷の神戸が瓦礫の山と化し、敬愛していた叔父叔母を失ったことが人生観に大きな影響を与えた。間もなく起業を決意。
11月 日本興業銀行を退職、コンサルティング会社のクリムゾングループを設立。慶大院卒の新卒者だった本城愼之介と2人だけの起業であった。
1996年
2月 株式会社クリムゾングループ代表取締役社長。
1997年
2月7日 クリムゾングループで稼いだ6000万円を元手に、株式会社エム・ディー・エム(現・楽天)を設立。
2002年
アメリカの経済誌『フォーチュン誌』の若手富豪ランキング6位に選ばれる。この当時から3000億円近い資産を有していた。
5月 株式会社ネクスト取締役
6月26日 カルチュア・コンビニエンス・クラブ取締役
8月 楽天トラベル株式会社代表取締役
2003年
「神戸に社会貢献したい」と、発足当時から赤字が続くJリーグ・ヴィッセル神戸を、クリムゾングループを通じて買収し、プロスポーツチームのオーナーとなった。
ディーエルジェイディレクト・エスエフジー証券(現楽天証券)会長。
10月 マイトリップ・ネット株式会社(後に楽天トラベルに吸収合併) 会長。
2004年 日本イノベーター大賞受賞。
1月 株式会社クリムゾンフットボールクラブ代表取締役
9月 株式会社あおぞらカード(現楽天カード株式会社)代表取締役会長。
ライブドアに続いて、プロ野球への新規参入を意思表明する。株式会社楽天野球団(球団名は東北楽天ゴールデンイーグルス)を設立し、本拠地を仙台市に置くことを決める。
11月2日 プロ野球オーナー会議の最終審査でライブドアとの競争に勝ち、楽天野球団の参入が正式承認されプロ野球球団のオーナーとなった。プロ野球とJリーグのオーナーを務めたのは三木谷社長が初である。
2005年
6月 国内信販株式会社(現KCカード株式会社)会長。
10月 経済産業省産業構造審議会商務情報政策基本問題小委員会委員[11]。
11月 東京オリンピック基本構想懇談会委員[12]。
2006年
3月 楽天ブックス会長。
4月 株式会社クリムゾンフットボールクラブ代表取締役会長。
9月 楽天証券ホールディングス株式会社 会長。
2007年
8月10日 楽天が傘下に収めることとなったフュージョン・コミュニケーションズ代表取締役社長兼執行責任者に就任した。
11月1日 フュージョン・コミュニケーションズ代表取締役会長となる。
2008年
1月1日付けで球団オーナー職を退き、株式会社楽天野球団取締役会長に就任した。ヴィッセル神戸のオーナーは継続している。
6月25日 楽天KC取締役。
9月29日 イーバンク銀行(現楽天銀行)株式会社取締役会長に就任する。
フォーブス誌の日本人富豪ランキング8位にランクイン、38億ドル(約4000億円)保有していると報じられた。
2009年
フォーブス誌の日本人富豪ランキング7位にランクイン、36億ドル(約3384億円)保有していると報じられた。
2月 厚生労働省医薬品新販売制度の円滑施行に関する検討会委員[13]。
財団法人東京フィルハーモニー交響楽団の理事に就任[14]。
10月15日 日本ソムリエ協会からソムリエ・ドヌール(名誉ソムリエ)の認定を受ける[15]。
2010年
フォーブス誌の日本人富豪ランキング6位にランクイン、47億ドル(約4277億円)保有していると報じられた。
1月21日 ビットワレット株式会社代表取締役社長就任[16]。
2月 一般社団法人eビジネス推進連合会会長。
7月 企業家大賞受賞[17]。
8月 ビットワレット株式会社代表取締役会長に就任する。
2011年
3月 東日本大震災発生時、三木谷社長自身が阪神・淡路大震災の影響を受けた経緯から推定10億円もの義援金を寄付したと報じられた。なお、東日本大震災の日(3月11日)は奇しくも三木谷社長の誕生日でもあった。
6月 日本経団連を脱退。
10月 財団法人東京フィルハーモニー交響楽団理事長。
2012年 ハーバード大学経営大学院卒業生功績賞受賞(史上最年少)[18][19]
1月 コボ社取締役に就任。
6月 一般社団法人新経済連盟代表理事。
7月 公益社団法人経済同友会教育改革による国際競争力強化プロジェクト・チーム委員長[20]。
8月1日付で東北楽天ゴールデンイーグルス球団会長から会長兼オーナーへ再就任[21]。
2013年1月 内閣日本経済再生本部産業競争力会議メンバー(第2次安倍内閣)
2014年 フォーブスでアジアの慈善事業家として日本人では3人、福武總一郎、花沢菊香とともに選ばれる[22]。
1月 フランス共和国外務省でローラン・ファビウス外務大臣よりレジオンドヌール勲章シュバリエを受けた[23]。
2月 文部科学省英語教育の在り方に関する有識者会議委員[24]。
6月 公益財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会顧問[25]。
12月 経済界大賞受賞[26]。
2015年3月 Lyft, Inc. Director。
2017年
2月 Aspyrian Therapeutics, Inc.取締役会長[27]。
11月 アンリルクセンブルク大公よりメリット勲章を受けた[28]。
2018年
6月 紺綬褒章受章[29]。
先日NHKのファミリーヒストリーがこの三木谷浩史だったが、彼は100%日本人だった。先祖代々神戸。母方の祖先が、徳川家康の家臣、本多忠勝であった。
この三木谷もインターネットが我が国に誕生した1996年にネットショップに思い切り、それから2008年には社会的に大成功してプロ野球のオーナーになった。そして、今年2018年はヴィッセル神戸にイニエスタを投入。話題をさらった。つまり、成功までに要した年数は、12年から22年というところである。
これら3人の場合だけではなく、調べればわかると思うが、終戦後の日本で新聞で成功したり、60年代のテレビの発明でテレビで成功したり、松下電器、ソニー、ホンダ、トヨタ、などなど、こういう企業の成功を調べると、その創業者が本格的に起業してだいたい20年前後で大企業になっているのである。これは他国でもだいたい同じである。
だから、起業して成功するまでに20年。これが人が成功を勝ち取るためにかかる年数だと考えられる。
もしこれが40年以上なら、成功した頃にはよぼよぼの爺婆となる。逆にこれが数年未満なら、人は簡単すぎて成功したとはみなさないだろう。
しかるに、我々の科学者の場合はどうか?
実は故和達三樹博士が生前、最後の最終レクチャーで言っていたことだが、やはり科学者の世界にも似たような事情が存在する。
非線形波動の和達三樹博士ご逝去:「独創的な生活と平凡な研究よりは独創的な研究と平凡な生活を」
私の物性基礎論・統計力学-研究者として、教育者として-(和達三樹最終講義)
研究は、
はじめはMinorityの方がよい
(ずっとMinorityではちょっとまずい)
自分の研究成果は、今はまだ認められていないが、
100年後は必ず認められて主流になっているはずだ。
というようなことを言う人がいますが、
100年後にはあなたもいないし私もいないし、
そんなこと私に言われても困ります。
自分が生きているうちに主流になれるに越したことはない。
つまり、ノーベル賞やそれに似た大きな賞や表彰をもらうことが成功の証だとすれば、それまでにどれほどかかるかの年数が存在するはずである。
つまり、研究の最初はマイノリティー=ベンチャーが良いが、生きているうちに豊かな生活を手に入れ、人様から称賛されるものがいい、ということである。さもなくば貧しく悲惨だという裏返しである。いまの俺のようなものだヨ。
研究者の場合、それは社会的気運というものもあるが、選ぶべき問題による。
いきなりリーマン予想を最初に選べば、それで人生が終わる可能性も高い。事実、そうなってしまった人々は数え切れないほどいたわけだ。
適度に難しく、適度にマイノリティーで、適度に認知される問題、こういう問題を解決し、それが自分が年取るのに合わせて世界で有名になり人々の周知の事実になっていく。
私の恩師のビル・サザーランドのカロゲロ-サザーランド・モデル(1972)の研究などがこういう事例である。それでも認知されて名がつくまで25年。賞を取るまで47年かかった。
成功までに30年40年とかかると、その人がすでにこの世にいないという場合もありえる。マックスウェルもヘルツもリーマンも40台でお亡くなりになった。ガロアは20歳である。まあ、ガロアの場合は自分は決闘で死ぬことがわかっていたから自業自得だったが、自分の研究の評価が上がるとは理解しなかったにちがいない。
精神的に不調になり、自殺でなくなった事例も多い。ボルツマン、マヨラナ、ハバード、。。。などなど、名前は教科書に残るが、だれもその人のことをよく知らないというような人も結構いるのである。
人が企業を起こし、人が研究を行う。
だとすれば、そこには自ずと成功の年数が必要になる。
こういう世間ずれした観点からすれば、100年の問題に挑戦するというのは本当に勇気がいることである。
逆の観点からすれば、昔が良かったのは、こういうことをすることを支援する教会や修道院があったからである。メンデルの法則を発見したメンデルは修道院の僧侶だった。
いまはそういうものがない。
企業家はせいぜい20年の成功者だから、こういう企業家が自分の成功体験から物言うとすれば、彼らは人にも同じことを希望するにちがいない。だから、いまの成功者が科学者に文句言う場合、かなり近視眼的にならざるを得ないはずである。
ジョブズも孫も三木谷もみな20年成功者だからだ。
しかし研究の世界はやはり世紀の発見をしたいわけだ。この世界の根本を変えたいわけである。
はたして世界の20年選手たちに100年選手、1000年選手の思いが理解可能なのか?
とまあ、最近俺はよくこんなことを考えるようになったわけですナ。理由はわからないがネ。
いやはや、世も末ですナ。

by kikidoblog2 | 2018-12-22 14:04 | 個人メモ