望月新一博士の「心の一票」:「ノーと言えること、ノーと言える文化が学問の原点!」
2019年 01月 09日
NOと言える日本
みなさん、こんにちは。
いまさっきのジョーク一発は、「BGLTにNGを叩きつけた!」というものであるが、この「ノーと言える」ということの重要性について、かつて、石原慎太郎の「ノーといえる日本」とかいう本があった。
これに関連して、大分長い間停滞していた、京大の数学者、望月新一博士のブログが今年早々に久々の更新があり、そこで似たような主張を目にしたので一応ここにもメモしておこう。以下のものである。
新一の「心の一票」
2019.01.02
2018年の感想と、主張やその背後にある論理構造の情報を発信し記録することの重要性
2018年を振り返ると、海外を発信源とする、出鱈目な内容の残念な雑音に振り回された年になってしまったな、というのが正直な感想です。
そのような出鱈目な内容の残念な雑音に接した場合、毅然とした姿勢で対応することの重要性を改めて認識させられる年にもなりました。
更に、そのような状況に遭遇したとき、毅然とした姿勢で対応することを可とせず、「おこがましい」とか、「僭越だ」、「傲慢だ」といったような批判を浴びせたり、何とか工夫してごまかしたり、(事実関係からして頓珍漢な)玉虫色の絵を描こうとしたりする等、いわゆる「事なかれ主義」的な対応こそを最も「潔い」対応の形態とする、実に残念な文化が国内外を問わず人類社会に深く根を下ろしているという実態を、改めてまざまざと見せ付けられたような思いをしました。
以前の記事(=2017-11-21付け)でも、「ノー」と言うべきときには、明確かつ毅然とした姿勢で「ノー」を発信することの重要性に言及しましたが、より大局的な視座から考えても、
議論全体の健全な形での進行・発展
を図る上においても、毅然とした姿勢で対応することは議論に直接関わっている関係者全員のみならず、後世の利益にも最も適った形の対応になります。
関連した指摘になりますが、昨年(=2018年)は大航海時代の地動説や、20世紀前半の相対性理論を巡る、(それぞれの)当時の激しい議論について初めてネット等で調べ、そのような激しい議論のような状況において、
関係者全員の主張(やその主張の背後にある
論理構造)の詳細かつ明示的で、(特に後世
の)一般人でもアクセス可能な
記録を残す
ことの歴史的重要性を強く印象付けられました。このような歴史的な観点から考えても、「ノー」と言うべきときには、明確かつ毅然とした姿勢で「ノー」を発信することは至って重要なことです。
最後に、もう一つ、このような文脈で2018年に強く感じたことを記録しますと、大学の将来計画等の様々な書類において
「世界をリードする」
という文言をよく目にしますが、(私の印象では)多くの場合には、この表現は非常に不適切な、「履き違えた」ような意味で用いられています。つまり、以前の記事(=2017-11-21付け)でも言及した通り、このような表現を用いる多くの大学関係者は、
「世界をリードする」=即ち、欧米の主流や
流行りを日本でもいち早く導入し(言い
換えれば、いち早く「ダウンロードして
インストール」し)、その欧米の主流や
流行りに対して精一杯、究極的な「イエス」
を発信することこそが「世界をリードする」
ことである
というような考えの下で表現を用いているような印象を強く受けています。しかし、上で述べた通り、(欧米に限らず)時代の主流や流行りに対して、「ノー」と言うべきときには、明確かつ毅然とした姿勢で
「ノー」を発信できる文化を育むこと
こそ、数学を始め、学問の原点でも
あり、また(数学を始めとする)学問
の真の発展を実現する出発点でもある
というのが、私の理解です。
何事も平然と自分の意見を主張すること。
この重要性はいつの時代も変わらない。
自分が正しいと思うことはそれが正しいと主張する。自分が間違っていると思うことはそれが間違っていると主張する。
ただそれだけのことにすぎない。
望月新一博士は、量子力学や相対性理論や地動説などの形成過程で科学者同士の厳しい論争を学び、そこでどちらが正しいか正しくないかという問題より、そういう論争自体をそれぞれの立場で意見を述べ、それをそのまま記録して残した。こういう行為自体に非常に意義があると認識したわけだ。
まさに、御意。
アインシュタイン、シュレーディンガー、ド・ブロイ、ボーム、。。。などは、いわゆる波動関数のボルンの確率解釈=コペンハーゲン解釈を否定した。
そこには、ソルベー会議で大論争が残った。
アインシュタインの特殊相対性理論の登場のときも、当時のヘビサイド、ローレンツ(オランダ人)、ケルビンなどさまざまの当時の学者の間で論争が起きた。特に、エーテルの存在非存在に対して大論争が起こった。
それがまた記録に残った。自分で反論の立場からの本を書いて残した。
ニコラ・テスラも講演や論文で、エーテルの非存在に対してそしてアインシュタインの相対論に対して、はっきりノーを突きつけた。
マックスウェルの電磁気学の体系に対しては、ファラデーがその方程式にノーを突きつけたのである。マックスウェルの電磁気学では、現実の場(フィールド)が正確に記述できていないと否定したのである。
そのマックスウェルですら、今度は自分の20元20連立方程式を簡約したヘビサイドのいわゆる「マックスウェル方程式」の理論体系にノーを突きつけたのである。
正否は後に判明すると期待して、やはり自分の信じる所信を明確に主張する。そしてそれを記録に残す。
昨日、日産社長だったカルロス・ゴーンもはっきり日本の検察に対してノーを主張した。そして、自分の立場を明確にして記録に残した。
これはこれでアッパレな行為であろう。
なかなか日本人や東洋人でこういうことはできない。
BGLTに反対なら明確にその根拠を示してノーと言えばよろしい。
どちらが正しいかはいずれ明らかになるからだ。
大事なことは、そこでそれぞれの立場の意見を後世の人たちのために残すことなのだ。
実際、シュレーディンガーのノーは次なる科学の進歩を促した。それが、「ネルソンー保江の確率量子化」や「確率変分学」である。
ニコラ・テスラのノーが、交流発電機を生み、この世界を電化した。
アインシュタインのノーは、量子もつれを生み出し、量子通信の道を開いた。
まあ、主流に巻かれるな。本流におもねるな。標準理論に負けるな、という教訓であろう。
こういうことを望月新一博士が再認識したようだ。
そして、ご自分もまた
「世界をリードする」
ということについて、ただちにノーを主張してそこに残した。
「世界をリードする」=即ち、欧米の主流や
流行りを日本でもいち早く導入し(言い
換えれば、いち早く「ダウンロードして
インストール」し)、その欧米の主流や
流行りに対して精一杯、究極的な「イエス」
を発信することこそが「世界をリードする」
ことである
というような考えは間違いであり、
(欧米に限らず)時代の主流や流行りに対して、「ノー」と言うべきときには、明確かつ毅然とした姿勢で
「ノー」を発信できる文化を育むこと
こそ、数学を始め、学問の原点でも
あり、また(数学を始めとする)学問
の真の発展を実現する出発点でもある
というのが、望月博士の理解なのである。
私も昨年暮れに生化学のアメリカの教科書を見て、衝撃を受けたが、そういう平衡熱力学から生化学へ応用するアプローチに対しては、1947年から1950年代ですでに我が国の理論物理学者たちがノーを主張していたのである。
「過渡的現象の熱力学」の杉田元宜、「理論生物学ー動的平衡」の柴谷篤弘、「生体の化学」の江上不二夫などだ。
彼らははっきり今後生物学の知識は増大するだろうが、知識量の増大を目的にした生物学では失敗し、永遠に生命とは何か?は理解出来ないに違いないとちゃんと本に書いていたのである。
それから70年。
やはり、彼らのノーが正しかったのだ。まったく本質に進歩がなかった。数多くの新薬が生まれ、儲け話が潤ったにすぎない。
そして、今年になり、いくつか「非平衡系の科学」とか「非平衡系の物理学」という主に京都大学の物理学者の書いたものを読んでこれまた衝撃を受けた。むろん、負の衝撃だが。
彼らにノーを突きつけるとすると何を突きつけるかといえば、
研究が甘い!
ということだ。
もしある人物が「非平衡系の科学」と銘打った本を書くとすれば、世界中のこれまでのすべての論文や教科書を読み、調べよ、ということになる。
いつどこでだれが最初に「非平衡」という言葉を使ったか?これまでの「非平衡の理論」とはどんなものであったか?
こういったことをただ地道に粛々と作業して知り尽くさなければならない。自分の研究はそれからだ。
ところが、いわゆる京大レベルの大学の日本で一流の研究者ですら、その時期に自分の分野で流行した研究を自分もやっていくつか論文を書き、それがたまたま「非平衡系」に類するジャンルに入ったから「非平衡系の物理学」というタイトルの教科書を書く。
しかも「この問題はまだ解けていない」とか書く。が、実は御本人が知らなかっただけで、すでにそれは何十年も前に杉田元宜博士により解かれていたということを知らないにすぎなかった。
まあ、いつも私がメモするように、人は「自分知らない事は存在しない」のである。
しかしながら、プロとして有名大学に税金で支援受けている、しかもたくさんのお弟子さんたちを抱え教育のすべき立場にあるものが、こういう学生気分の研究スタイルのレベルでまかり通るとすれば、それは大学の愚民化であろう。
やはり大学の学者というなら、そこへ行けば、なんでも知っているという感じであるべきだろう。
最近では、東大京大の「記憶王」とか、馬鹿な時間の浪費番組で時間を潰すバカな東大生や京大生が多い。
世俗の知識をひけらかすより、誰も知らないことを知っていることをひけらかせ!
それが学者ぞ、それが大学の人ぞ、それが本物ぞ(武田鉄矢風)
とまあ、「ノーと言える」ということはこんな意味ではなかろうか?とつい俺の思いを露呈することになってしまったようだ。
いやはや、世も末ですナ。

by kikidoblog2 | 2019-01-09 11:08 | 望月新一・心の「一票」