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量子力学のアンサングヒーロー:ボルン学派に不確定性を教えた男はノーバート・ウィーナーだった!?   

みなさん、こんにちは。

さてまた再びいつもの環境が戻ってきたので、メモすることができるが、250nT程度の地震電磁波が出ている。方向としてはおそらく日本の方で、国内の場所では北海道ではないかと見ている。が、大きなものではない。

さて、早速「ハイゼンベルク不等式」の本
ハイゼンベルクの顕微鏡~不確定性原理は超えられるか
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を読み進めているが、やはり我が国は近現代においては科学の後進国だから、いくら若干のノーベル賞学者やフィールズ賞学者が出たところでメインストリームのある国ではない。また、そうではなかった。

科学に関して言えば、国民性とも言えるし、文化伝統的な背景やしきたりや習慣などもあるし、言語体系の問題からもいえる。

簡単に言えば、我々日本人は、たいはんが先生にコミットする形で教えを受けるという人が多い。

言い換えれば、先生自身を好きになる、あるいは、その先生の教えを好きになる、こういう形で学んでしまうというような傾向が強い。だから、嫌いな先人、嫌いな人の言説は受け入れない。

朝鮮人やシナ人はそれが度を越す。

特亜特有、あるいは、アジア人特有と言えるが、そういう傾向が強い。

逆に、教える側、指導する側にもこの正反対の方向で同じようなことが言える。つまり、師である自分についてこない人を邪険にしがちである。弟子とは思わない。

これは合気道でも柔道でも何でもそうで、門人と呼ばれる、先生ぞっこんの弟子しか入門させない。

とまあ、そういう色がある。

そこへ行くと、本来の欧米人は非常にドライだった。最近では、どうもそうではないようで、欧米人自身も特亜のような感じになっているように見える。

昔は、私がユタ大に留学する頃だから、30年40年前は、アメリカ人は絶対に泣かないと言われていた。

いつもメソメソするのは日本人で、交通事故や何かの問題が生じた時は、先に泣いたほうが負けだと言い聞かせられた。だから、俺は絶対に泣かない、興奮しないぞと戒めたものである。

しかしあれから40年。いまや欧米人が日本のアニメで育ったせいか、実に良く泣く民族になった。感動して泣く。
悲観して泣く。泣かない米人から良く泣く米人となった。

これは良いことか悪いことかはわからないが、時代は変化した。

昔の欧米人は、かつて朝永振一郎がハイゼンベルクのところに留学した時、ある同じ留学生のインド人が死去した。すると、研究会でそれを知ったハイゼンベルク等ドイツ人は、死んだインド人のために黙祷、しかし次の瞬間いつもの普通の状態でディスカッションに入ったという。

スーパードライ

だったわけだ。朝永はせつないおもいで、死んだインド人に自分を重ねて不憫を思っていた。

これを岡潔が言った。

西洋人には情緒がない。

つまり、情緒的に物事を見る文化も言語も感性も存在しないのだと。

この意味では、昨今の日本アニメで育った欧米人は若干日本人のいうところの情緒のかけらが芽生えてきているのかも知れない。その辺はまだよくわからない。


逆に、顔も言葉も雰囲気も日本人そっくりだが、まったくそういう情緒が理解不能の偽日本人も増えてきている。それが在日帰化人である。こういう人はことごとく、生来のKYである。国会で安倍ストーカーをしている野党議員やら、菅官房長にストーカーしているイソコとか、もはや欧米人以下である。

もっとも安倍晋三こと李晋三やその取り巻きの日本会議(清和会、統一教会(ウリスト教系))の議員たちの奏でる施策は日本人の邪魔ばかり。すでに日本人の感性が失われているわけだ。

朝鮮人の敵は朝鮮人。同じ血筋でどちらかが死ぬまで争う。

まあ、サル山の猿と同じ習性が残っているわけだ。上か下か。トップにつかなければ、メスが手に入らない。

猿のしきたり。


おっと失敬。だいぶ話が飛んだが、ハイゼンベルクの不等式の本の話で、やはりこの著者も日本人だった。

つまり、やはりいちばん重要な部分が抜けていたんですナ。

非常にシンプルにいうと、

20世紀第二次世界大戦後の欧米の科学技術を作った男はノーバート・ウィーナー博士だった。

科学技術と応用数学と純数学のある側面をつなぎ、壮大な一枚の絵を描いたわけだ。それが、サイバネティックス。

1940年代のことだ。

その後、
1970年代のルネ・トムのカタストロフィー旋風、
1980年代のベノワ・マンデルブローのフラクタル旋風やカオス理論旋風やAI旋風、
1990年代のスチュアート・カウフマンの複雑系旋風、
2000年代のアズロ・バラバシのスケールフリーネット旋風、。。。
などがあったが、こういうものはすべてその土台の部分でウィーナーの理論やアイデアや開発した結果の装置の上で成り立つ。

最初に電子計算機や光計算機のアイデアを言い出したのはウィーナーだったし、
それを脳理論のマカロックとピッツに教えたのもウィーナー、
確率論にウィーナー測度やウィーナー積分を持ち込んだのもウィーナー、
フーリエ展開でしかなかったフーリエ解析を一般スペクトル解析に格上げし、
一般調和解析という完璧な理論にしたのもウィーナー、
バナッハ空間のバナッハにその概念を手ほどきしたのもウィーナー、
フレシェにフレシェ微分の概念の最初を教えたのもウィーナー、
コルモゴロフに現代確率論のエッセンスを手ほどきしたのもウィーナー、
マンデルブローの叔父のSマンデルブローにウィーナー解析を伝達したのもウィーナー、
ニールス・ボーアの弟のハンス・ボーアにそれを手ほどきしたのもウィーナー、
そして、14歳から大学に入り、18歳でPhDをとってイギリスのバートランド・ラッセルのもとで教育され、20代でドイツのゲッチンゲンのデービッド・ヒルベルトに学び、幾度となく欧米を行き来し、ゲッチンゲンにも足を運び、量子力学の草創期のボーアの前期量子論の時代にゲッチンゲンのヒルベルト、クーラン、マックス・ボルンのところで講演を行い、その当時の最新数学を伝授したのもまたウィーナーであったのだ。

なぜハイゼンベルクは古典力学の粒子の軌道=電子の軌道をわざわざ周波数にフーリエ展開したのか?

いくらハイセンベルクがゾンマーフェルトから叱られるほど古典力学を知らなかったとは言え、普通の当時の物理学者であれば、粒子の軌道は時刻tで決まる空間曲線と考えるのが常識の時代だった。円軌道、円運動、放物線軌道とか、楕円軌道とかそういうアイデアで満たされていたはずだ。

ところが、ハイゼンベルクはいきなり電子の軌道をx_n(w)と周波数にフーリエ分解して書いた。

実は、このアイデアこそ、ブラウン運動の理論として知られたウィーナーの手法だったのだ!

ウィーナーは粒子の軌道がブラウン運動する場合、そのフーリエスペクトルには連続スペクトルが現れるという理論を構築していた。これがランダムノイズ、ホワイトスペクトラムというように知られることになった。

軌道がランダムのブラウン運動の場合、仮にその軌道をフーリエ変換できたとすると、その周波数分布は一様になる。

逆に軌道が定まった軌道の場合、特に周期運動の場合、その周期だけに共鳴する周波数だけが周波数分布にδ関数として現れる。

ここには、時間と周波数の間に相補性があり、一方が厳密に決まるともう一方は定かではなくなる。つまり、

⊿t・⊿ω〜1

そういう関係が成り立つのだという理論をゲッチンゲンで講演したのだ。

ところで、δ関数はいまではディラックのデルタ関数と言っているが、これを最初にちゃんとした形で使ったのもまたウィーナーだったのだ。ウィーナーとペイリーの一般調和解析の教科書ですでにそれが使われた。しかし、それはいわゆるディラックのδ関数の定義で使われているリミットをとる形の右辺のままで使っていた。

ディラックがやったのは、このウィーナーの関数をδ関数と呼び直しただけなのだ。

上の本では、その辺もその後作られた通説が書かれているだけで、ヘビサイドが最初にやったのをディラックがそのまま真似たなんて嘘が書いてあるが、まあ、普通の日本の教科書にもたいていの欧米の物理の本にもそういう感じで書かれているが、実際はそうではなかった。

ウィーナーの師匠はバートランド・ラッセルとジョン・ハーディーとリトルウッドである。ディラックはイギリス人。ヘビサイドもイギリス人。当然、イギリスで論文を出したウィーナーの研究はイギリスの数物界では知られていた。だから、ヘビサイドの記号を連続化したものだという認識は周知の事実としてあったわけだ。

しかし、それをちゃんとした数学にしたのは若いウィーナーであった。

そして、1925年当時、すでに30歳になっていた天才少年は、当時の欧州の中心地だったヒルベルトのいたゲッチンゲン大でも知れ渡っていた。

そこで、当時ドイツ人の天才児ハイゼンベルクとパウリを要していた物理学部のマックス・ボルンは数学部のヒルベルトやクーランといっしょに、アメリカの天才数学者ノーバート・ウィーナーの現代数学的な観点で量子論をどうみるかのヒントを得ようとして知恵を求めたのである。

そしてアメリカから結婚前のウィーナーが呼ばれ、ドイツの数物の天才たちの前で、一般調和解析を講義したのだった。

だから、最初から粒子軌道をフーリエ展開し、その運動変化の微小時間とその運動のスペクトル分布の微小スペクトルとの間には相補的な関係が存在するという講演を行ったのである。

この講義には聴衆に若きハイゼンベルクとパウリもいた。むろんボルンは司会者だ。

ヒルベルトもクーランもゾンマーフェルトも錚々たるメンバーも世界中の留学生もそこにいたはずだ。

そしてその年の夏、スギ花粉症で避暑にいったハイゼンベルクは、物理実験結果と粒子の軌道変化の問題を考察し始めた。

だから、ハイゼンベルクはいきなり

電子の軌道は、x_n(t)= ∑x_nn'(ω)exp{in'ωt}と周波数展開する。

という思想が生まれたわけだ。そしてよく知られているように、このx_nn'(ω)の間に量子転移の実験事実と持ち込むと、軌道は行列演算を満たさなければならないという大発見、つまり、行列力学の発見を行ったわけである。

だから、それが一段落した後、ボルンはまたウィーナーの助言を求めた。それがボルンとウィーナーの共著論文となったわけだ。すると、行列を「演算子」と呼ぶという思想を生み出した。座標も運動量も演算子なのだ。

そして、ウィーナーがいった周波数分布と時間分布には相補律が成り立つという主張が、いつしか、運動量と座標の不確定性原理になり、エネルギーと時間の不確定性原理へと物理理論化したわけだ。


が、アンサングヒーロー。

当時のアメリカはまだ欧州から見れば科学世界ではど田舎だった。ギブスくらいしかしられていなかった。あるいは、ギブスとバーコフくらいのものだった。だから、ウィーナーは孤軍奮闘したが世界から無視されてしまったわけだ。

欧州人はやはり同じことは自分の弟子がしたことにしたい。生粋のアメリカ白人は欧州ユダヤ移民の息子のウィーナーの手柄にだけはしたくない。

板挟みになったウィーナーはことごとく現代物理学と現代数学の貢献を他の人達に横取りされた。

だから、俺の個人的見解では、人と協力してもごまかされるだけだ。だったら、機械を作ろう。機械なら自分を騙したりはしない。

というわけで、機械づくりに精を出した。

そのアイデアが電算機=電子計算機だった。脳波計。サイバネティックスである。

その基礎がラッセルとホワイトヘッドの数学原論の論理原理。それから論理回路へと向かった。

ところが、今度はアメリカのATTの若いシャノンがウィーナーを騙してかなりの業績を盗み取った。いまやシャノンの理論になってしまった。

そうして、ついにウィーナーは第二次世界大戦で敵機追尾迎撃システムを開発。そこでできたのが、確率的予測の理論。つまり、過去のデータから未来を予測するという理論。

これを戦時中誕生したばかりの軍産複合体の科学部門のボスになったMITのヴァネバー・ブッシュに論文を送ったばかりに、それが当時マンハッタン計画の最中にあった原爆理論のボス、フォン・ノイマンの手にも渡った。そこには、リチャード・ファインマンやハンス・ベーテもいた。おそらくどこかにジュリアン・シュウィンガーもいたはず。

こうしてウィーナーの未来予測の理論の骨組みは、汎関数論として、ファインマンの奥底に刻まれたはずだ(これは俺の推測)。そうして、いつしかウィーナー積分の発想がファインマン積分へと受け継がれたわけだ。

これでも、ウィーナーの量子力学への貢献を無視するんかい???

冗談は吉本。

ちなみに、その時にフォン・ノイマンがやっていたのが電子計算機、それも汎用電子計算機の開発。

実はウィーナー、イギリス時代あるいはイギリスに行くたびに、あのチューリングと会って議論していたのである。

電子計算機のアイデアの前に、ウィーナーは最初に光子計算機を考えた。そしてアナログ計算機。そして電子計算機。電子計算機は当時の技術では一番できそうにないものだったからだ。まだ半導体がなかった。

しかしすべて計算機の概念は、脳を計算機と解釈したMITのマカロックとピッツ理論でできていた。いかにマカロックーピッツの理論を機械で実現するかの問題だった。

この天才児ピッツを発掘し、そのピッツを同じ早熟の天才児としてメンターの役割で教育したのもまたウィーナーだった。だから、ウィーナーあってのピッツだったが、ウィーナーがさまざまの政治状況でうつ病になった時期に、ウィーナーはピッツを冷たくし疎遠になり、落胆したピッツもうつ病を発し自殺してしまったのだった。

このウィーナーーマカロックーピッツの脳理論がなければ、いくらフォン・ノイマンが天才だったにせよ、そのやり方そのものがなかったのだ。いくらフォン・ノイマンが量子力学の基礎づけを行おうが、そもそも一般フーリエ解析と現代確率論がなければ、量子力学を書くことすらできなかったわけだ。

いつしか晩年のフォン・ノイマンは、

奴は火星人の俺より上だったのかもしれん

と言ったとか言わなかったとか。

そして若くして死んだ。

そういうウィーナーは、あとはストックホルムで講演会をして、その年のノーベル賞を受賞するだけになったが、その講演会の会場にいくその階段で脳溢血で倒れて即死した。


罪深きノーベル賞委員会。

俺の見方では、おそらくウィーナーが心臓が悪いのを知っていてわざわざ呼んだのだろうと思う。旅の最中で死んで欲しい。

そうすれば、ウィーナー独特の科学世界の関与は考えないですむ。

さもなくば、毎年アメリカのウィーナーがノーベル賞をかっさらっていく。


とまあ、量子力学を学ぶ時、いつも不自然な飛躍が存在する。

へ〜〜、なんで突如こんなことを考えるの?

そういうときは決まってその背後にウィーナーがいる。

ウィーナーの世界では量子力学もブラウン運動も確率論も汎関数積分もすべてつながっていた。

これに最初に気づいたのが、エドワード・ネルソン。このネルソンの研究を見抜いたのが日本の保江邦夫だったんだよ。

これが、ネルソンー保江の確率量子化の手法である。


すべては不確かだ。

これがウィーナーの子供の頃の哲学であった。それを天才児の宿命として一生をかけて世界に貢献した。

この天才児ウィーナーが2人だけ心底尊敬した研究者がいた。

それが、ニコラ・テスラとオリバー・ヘビサイドだった。


情報時代の見えないヒーロー

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いまは昔の物語である。




いやはや、世も末ですナ。





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by kikidoblog2 | 2019-03-08 10:30 | ウィーナー・サイバネティクス

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