昔は良かった!?昔は日本の学者もワイルドだった!?:日本数物学会=数学と物理学が結婚していた時代!?   

湯川論文
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みなさん、こんにちは。

さて、また物理科学に関する個人的メモ話だから、普通の人はスルーを。時間の無駄だろう。

ところで、最近例の

悲報「最近の院生はセミナーを聞かず」:久しぶりに神戸で物理の講演したんだが。。。!?

でメモした、
南部陽一郎 素粒子論の発展
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を読んでいるわけだが、実に興味深い話が出ている。

(あ)湯川ー坂田モード:新法則→新粒子の発見=実在論(唯物論)
(い)Einsteinモード:新法則→新原理の発見=形而上学(メタフィジクス)
(う)Diracモード:新法則→新数学的美しさの発見=数学的審美性(数学)


の研究の分類の話。それと、坂田の物理理論の発展段階の話である。

坂田の発展論とはこんなもの。

(0)新現象→(1)現象論→(2)モデル構築→(3)決定的理論 
   ↑                         ↓
    ←←←←←←←(4)(0)に戻る←←←←←←←←
                 

この理論発展の堂々巡りを繰り返しつつどんどんより細かい新粒子の理論を作っていく、というものらしい。

そして、歴史は坂田の言う通りの発展をしたのだった。

これが南部陽一郎博士の主張。


そこで、この時代の一番最初の起こりが、湯川秀樹の中間子論や坂田昌一のニ中間子論である。これらの論文は太平洋戦争中に書かれたために我が国の雑誌に公表されざるを得なかった。

そんなわけで、前からずっとこの時代の論文が手に入らないものか?と私は思っていたわけだ。

ところが、インターネットは1996年に開闢。それ以来日本物理学会のサイトを見ていたんだが、すべて有料。会員でない限り、あるいは、お金を払わない限りそういう論文を閲覧できない。非常に残念だなと思っていたわけだ。


一方、ここ2,3年かかりっきりになっている我が国の不可逆過程の熱力学の創始者であった杉田元宜博士の論文もちょうど同じ時代に書かれていた。だから、つい最近までそれを調べることもできなかった。だから、論文がほしい時は知人や友人に頼んでダウンロードしてもらう他なかった。

しかし、また、故一柳正和博士の
不可逆過程の物理不:日本の統計物理学史から
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(1999年日本評論社)
を読むと、1930年代から1960年代こそ、

我が国の線形応答理論に至るもっとも重要な時期だったことがわかるわけである。それも大半が日本語で書かれて公表された。多くは、物性論研究に公表された。

そんな中でも初期には、杉田元宜博士の論文や坂井卓三博士の論文のように、やはり日本の科学研究雑誌に掲載されたものがあったというわけだ。

それで、ここ最近そういう論文を見てみることにしたところ、なんと無料でダウンロードできるようになっていた。こえである。

戦前論文アーカイブ

日本の数学会と物理学会は、戦前では数物学会といって、両方一緒になっていたんですナ。だから、研究雑誌も数学者も物理学者も同じ雑誌に論文を公表したのだ。だから、実に面白い。物理の実験の論文の前に数学の論文が出ていることもある。

そこで、ものはついでと、戦前の論文集を全部最初から眺めてみることにした。まだ数が少ないからそういうことができた。今のように論文数がネット検索しないといけないほど多くなるとそういうことが不可能だ。

戦前の我が国では、数学者も物理学者も実に少数精鋭だった。

杉田元宜博士の論説文には、こうあった。

「1970年」の杉田元宜博士の予想:「物理学者の異常発生」

(い)戦前の物理学出身者の数について

物理教室も、私たちの頃は、東北大、東大、京大の3教室で全部で60人くらいだしていたのが、今日では国、公、私をあわせると3000人に近い卒業生を出している。


旧帝大に各20人。仮に4学年あったとすれば、各学年で5人。一学年だとすれば、各学年で20人程度。

こんな数だったのだ。毎年東大に物理専攻は20人しかいなかった。

そんな時代に数物学会というものがあった。


さて、ちょいと眺めてみた結果、意外な事に気がついたのである。

(あ)1930年までは研修時代

1930年くらいまでは、洋物の論文、つまり、海外の著名な物理学者の論文が、日本語に翻訳されて出ていたのである。むろん、英独堪能の杉田博士もドイツ語の論文を日本語に翻訳し、それを数物学会誌の研究論文報告として出していた。

この時期、物理では海外特に、英米の英語論文、ドイツの独語論文などが日本語訳されている。その中には、アインシュタイン、シュレーディンガー、ディラック、ハイゼンベルク、ボルンから、アメリカの半導体の父ウィルソンの論文もある。

上にメモしたように、同時に数学の論文もある。数学では仏語も翻訳されたわけだ。ファツー、ジュリア、ヴェイユ、。。。などの論文も翻訳されている。

おそらく岡潔もこの論文誌を読んでいたことだろう。

(い)1930年から日本人のオリジナル論文がで始めた。

そして、1930年頃を境に、徐々に日本人の数学や物理のオリジナル論文が出るようになる。

そして、しばらくすると湯川と朝永と坂田の時代に入っていく。それが1930年代後半から1940年代である。大東亜戦争の真っ只中に入る。

つまり、大正の時代までは、我が国の数学や物理学はまだ一種の見習い研修期間のようなものだった。それが、昭和初期に入って、徐々に日本人自らの手でオリジナルの論文が出せるまでに発展したということのようである。

大正デモクラシーの成果なのかもしれない。「科学のための自由な楽園」こと理化学研究所と「天才のための極秘の研究所」と言われた小林理学研究所の時代に入ったからかもしれない。

いずれにせよ、1930年が分水嶺だった感がある。

(う)論文形式が古典的で読みやすい。

もう一つ興味深いのは。まだその時代は。欧州の数学グループのブルバギができていなかったのか、数学の論文もオイラーやワイエルシュトラスの論文のように、古典的な記述が中心の書き方がなされ、我々でも実に馴染みやすいのである。要するに、アローマティマティックスこと、→だらけの記述がない、ということである。

同様に理論物理学の論文も、実に古典物理学的で読みやすい。アインシュタインの論文のように、あまり現代数学を使わない感じの記述の論文だが、内容が実にユニークである。

この時代の日本人は、今と違って、あまり物理や数学の様式美にとらわれていなかったわけだ。

つまり、まだ湯川ー坂田モードかEinsteinモードの段階で、Diracモードのものはあまりなかったからかもしれない。

(え)発想が大胆だった。

しかしながら、Diracの論文が出た直後に東大の坂井卓三博士はDirac方程式の論文を書いている。

柿下彦太郎博士の「空間の量子化」という論文まで存在した。

私は昨日まで知らなかったが、柿沼という博士がいて、その人は電子の構造の論文を一般相対論から作ろうとしていたようだ。実に斬新な発想である。

藤原咲平博士のように「2つの渦の衝突実験」なんていうものまであった。これは戦後だいぶ経って高橋秀俊博士が独立に似たような実験を行った。

数学では、E. Landauの素数定理の証明の論文も翻訳されていた。萩原雄祐博士によるポアンカレの再帰定理の論文もあった。

中には寺田寅彦といっしょに研究していた人の論文もあった。

なんとなくあの帝都物語の雰囲気が残っているところが面白い。


それが、1945年すぎると、この時代に活躍していた欧州の科学者や数学者が、ユダヤ系はヒトラーの迫害から逃げ、ドイツ系はブッシュシニアの親父のプレスコット・ブッシュのペーパークリップ作戦やオデッサ・ファイルでアメリカに流れ、秘密のデープステートの研究員、つまり、ジェーソンファミリーになっていく。

こうして、朝永と同時受賞となる、シュウィンガーとファインマンにより、やっと米国産の物理学者がノーベル賞を取る時代へ入っていったわけだ。

そんな時代に若き南部陽一郎博士が、湯川坂田朝永の薫陶とともに、米国へ移住する。まあ、軍事であれば、一種の二重スパイのようなものだろう。が、戦後はアメリカは日本には寛大だった。いまの米中なら南部先生もザン教授のような結末だったかも知れない。

そしてついに南部先生はノーベル賞もお取りになられて幸せのうちにご逝去された。要するに南部先生は運が良かったわけだ。


とまあ、我が国の物理の発展、数学の発展もすべては、戦前の数物学会の努力の賜物だったのだ。当時はみな独学で論文を読んで研究した。ろくにまだ量子力学の教科書とか量子統計力学の教科書というようなものはなかったからである。

まあそれが良かったという面もある。

いずれにせよ、彼らが戦後の日本の学者のための教師になっていった。

この意味では、やはりそういう先人の努力には感謝する他ないのでは?


はたして今の我々の努力は、後の人たちにより感謝されるのだろうか?




いやはや、世も末ですナ。





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by kikidoblog2 | 2019-03-15 17:31 | 普通のサイエンス

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