日本の物理学者特有のメンタル:「白人様の顔色をうかがう」→俺「ワイルドでいこう」
2019年 03月 16日
ワイルドで行こう!
みなさん、こんにちは。
さて、昨日は4年ほど前にご逝去された南部陽一郎博士の本「素粒子論の発展」のことをメモした。
昔は良かった!?昔は日本の学者もワイルドだった!?:日本数物学会=数学と物理学が結婚していた時代!?
南部陽一郎 素粒子論の発展
(あ)湯川ー坂田モード:新法則→新粒子の発見=実在論(唯物論)
(い)Einsteinモード:新法則→新原理の発見=形而上学(メタフィジクス)
(う)Diracモード:新法則→新数学的美しさの発見=数学的審美性(数学)
の研究の分類の話。それと、坂田の物理理論の発展段階の話である。
坂田の発展論とはこんなもの。
(0)新現象→(1)現象論→(2)モデル構築→(3)決定的理論
↑ ↓
←←←←←←←(4)(0)に戻る←←←←←←←←
この理論発展の堂々巡りを繰り返しつつどんどんより細かい新粒子の理論を作っていく、というものらしい。
そして、歴史は坂田の言う通りの発展をしたのだった。
これが南部陽一郎博士の主張。
この本の前半の主題は、素粒子論の独特の発展形式を要領よくまとめたことにあるかもしれない。個々の理論は原著論文で数学を学ぶ他ないが、大きな見方、鳥瞰図、大局的観点で自分たちがやっていることを冷静に見るということが見事にできているというのも、南部博士の特徴かもしれない。
ところで、先程まで見ていたんだが、この南部博士の追悼論文集もフリーで見ることができた。以下のものである。
2016年
12月号 特集論文 現代物理学の予言者としての南部先生 III
7月号 特集論文 現代物理学の予言者としての南部先生 II
6月号 特集論文 現代物理学の予言者としての南部先生 I
さて、問題は何か?
というと、やはり「我が国の科学、および物理学は、欧米の顔色をうかがいながら行っている」ということに尽きる。
将棋や囲碁でも、相手の戦略がよくわからない場合、盤面を見ても予測できないから、ときどきちらっちらと相手の目線の先を見る。
すると、いま相手がどの辺を見て作戦を練っているかおおよその見当がつく。しかし相手にこちらが見ていることを気づかれてはいけないから、盤面を見ているふりをしながらちらっと見るわけだ。
我が国の科学もこれとまったく同じで、いつも欧米人やユダヤ人がやったこと、やっていること、やりそうなことなどをちら見しながら研究してきた、しているということである。
これが我が国の科学の伝統にまで昇格しているとさえいうことができるかもしれない。
この点においては、DNAにまで刻まれてしまったかも知れないほどだ。
まあ、悪い言い方をすれば、「いつも白人様の顔色をうかがっている」ということだ。
いまの日本の官僚はジャパンハンドラーズの顔色ばかりみて施策している。ジャパンハンドラーズが何様なんだ???ということにはならない。
南部とてこの例外ではない。このあたりがかなり個人的には残念な部分かもしれない。
かつて明治時代はそうではなかった。まだ侍や寺子屋や住職や神主の子孫がいて、彼らは西洋人の考える科学の考え方や見方や知識のそれぞれにクレームをつけた。そして論戦に持ち込んだ。
ずっと前のフランシスコ・ザビエルに論戦を挑んだお百姓さんのようなものである。
翻って現代に戻れば、そういう明治時代に西洋の科学者に大反対した日本の住職や神主の論説の方に現代の科学の知識が近づいてきているのである。
いまの日本の学者にはこういう部分がない。西洋の学者の言うがままだ。その手のひらで活動する。CERNしかり、カミオカンデしかり。
だから、逆に言えば、ノーベル賞がとれるのである。
ところが、やはり西洋は科学を生み出した場所であって、科学が生まれる前からその独特の伝統が残っている。
その一つが「神秘主義」というやつで、いまもオカルト的な意味の神秘主義の文化が残る。保江邦夫博士の自伝本によれば、欧州にはいまも魔女の子孫がいるし、いまもエクソシストもいるという。
こういう伝統は一方で悪しきものも生むが、一方では、正統派に対する独自路線というもののありがたみというものも生むわけだ。
だから、教会側の正統派がなんと言おうが自分の信じる思想を大事にしようという精神も生まれた。
いまでは、最小作用の原理だとか、最大原理だとか言われる物理の金字塔の考え方も、そういうキリスト教的な神の根拠を探索するという精神から生み出されたものである。
ところが、こういうものがわが国の科学者には存在しなくなってしまったわけだ。
だから、西洋ではいまもニコラ・テスラの思想やファラデーやマックスウェルの思想を頑なに追求し続ける人なんていうものが存在する。
そうしているうちに、南部陽一郎博士もいっていたように、昔に死んだアイデアもまた蘇ることがあるわけだ。今風に言えば、物理のゾンビ概念が復活するわけだ。
ニコラ・テスラの信じたエーテル宇宙。これは今復活してきている。むろん、南部先生のような標準物理の表の物理の側でも、エーテル(=イーサ)概念は「場」「真空」「基底状態」とかさまざまの呼び名がついて復活している。
しかし、電磁場の相互作用がゲージ変換することにより、クーロン力と横波電磁波の世界に変換できるように、イーサの見かけは数学的変換で変換できる「架空」のものであるという見方に毒されている。
ところが、西洋の中には、いろいろ自分で実験してみると、そういうイーサも電気力線や磁力線も架空の数学的存在ではなく、量子化された実体をともなう物理量なのだ。そう考えた物理学者もかなりいたのである。
いちばん有名なのは、ニコラ・テスラと同時代に生きていたケルビン卿やスタインメッツであろう。
有名なスタインメッツの交流理論では、1電圧の定義は、金属が1秒間に1億本の磁力線を横切って生まれる電気力とある。
つまり、運動する金属が速く運動すればするほど1秒の間に切る磁力線の数が増えるから電圧が増すのである。
ケルビンは、コイルにイヤホンをつけて磁力線の中で動かしてみろ、音は連続的にジ〜〜となるのではなく、ジ、ジ、ジ、。。。と離散的に聞こえる。だから、磁力線は離散的に存在するものであると主張していたのだ。
ところで、南部先生の記述の中にも、「Diracの発想は天才的だ」だれも思いつかないことを思いつく、というような事がしばしば書かれている。量子力学が生まれた時代は、これを称して「ディラックのアクロバット」と呼んだものである。
ところが、よくいろいろな当時の文献を調べていくと、実はイギリスならではの伝統というものがやはりその背後にあるわけだ。イギリスは大英帝国だった。さらには、ニュートンがいたのである。その時代からの蓄積が大英図書館には存在する。
やはり伝統の力、特に、科学の伝統の力が働くのである。
たとえば、Diracのδ関数は、すでにN. Wienerの一般調和解析で無数に常識的使用されていた。いまでは当たり前になったが、被積分関数をδ関数で書くというようなことは、ウィーナーの論文がルベーグ積分を簡略化して書くという場合に使っていたわけだ。
また、オリバー・ヘビサイドの後継者もディラックではなくウィーナーだった。ウィーナーはアメリカ生まれだが、14歳でハーバードに入り、18歳で博士になったウルトラ早熟天才ユダヤ人だった。そして、学位を哲学でとったあとすぐにケンブリッジのバートランド・ラッセルのもとで研究生活に入った。
そこには、ホワイトヘッドやインドのラマヌジャンの師匠になったハーディとリトルウッドもいた。むろん、我が国からも留学している。ディラックがいつも図書館の薄暗い場所で本や論文を読んでいたのを目撃している。
そのウィーナーはヘビサイドを心の師匠として崇めていたという。ヘビサイドの伝記を出版しようと本まで書いたほどである。
実際、ヘビサイドの演算子法を拡張した論文を書いている。
だから、古典力学を演算子的に見直すというのもまた特にディラックが専売特許ではなく、イギリスのヘビサイド、ウィーナーの演算子法の伝統がそこにあったわけだ。
行列もそうだし、なにより、ディラック方程式の形式は、イギリスの大数学者ハミルトンの四元数の形式そのものだから、これもイギリスの数物界の伝統をくんでいるのである。イギリス人の数理科学者ならだれでもハミルトンの四元数は知っているはずなのである。
トポロジーの概念から生まれたモノポールは今の公式にはディラックが生んだようにいっているが、ヘビサイドの電磁気学の3部作には、マックスウェル方程式は電荷と磁荷に最初から対称的にかかれている。むしろ、他の物理学者から、最近の実験では、電荷だけ見つかって、磁荷はないそうだよと意見されている。
だから、ヘビサイドはしぶしぶ磁荷を消すために、Div B=0を置いている。
だから、これもあくまでイギリスの伝統に乗っていただけで、ディラックのオリジナルではないし、古くはファラデー、マックスウェルにも遡る。彼らもまたイギリス人だ。
というわけで、「ディラックの天才はどうして生まれたか?」わからない、なんていうのは嘘。それはイギリスの歴史を知らなかったからに過ぎないのだ。
だから、というわけではないが、ノーバート・ウィーナーはシュレーディンガーとハイゼンベルクに対して非常に評価したが、ディラックについてはまったく無視したという歴史が残っている。
それはそうだろう。イギリスが誇る天才、ハミルトンもヘビサイドも引用せず、全部自分ひとりでやったかのように書いていたからだ。ましてや、ウィーナーの業績をことごとく無視したか盗み取ったわけだ。
ウィーナーからすれば、ディラックは盗人にすぎなかった。と俺は思うヨ。
だから、だれもディラックがどうしてそれを発見したのかわからなかったのである。
誰かのものを参考に盗んだから、突如として生まれたかのように見えたのである。
ところで、そのヘビサイドの時代、イーサはまだ存在するものとして理論が建てられていた。
一説では、つまり、巷の本では、マックスウェルの理論を簡略化したのがヘビサイドかのようにあるが、俺の本にもそう書いているが、実際には、ヘビサイドをさらに簡略化したのがギッブズであった。いまの大学の電磁気学、南部先生のいうゲージ場理論の元祖のマックスウェル方程式はギッブズのものだったのだ。
ヘビサイドは、イーサを現実的に様々の条件で考えて計算していた。
例えば、イーサの中の電子の運動では、イーサが生み出す音波がいまの光だから、電子が光速度より速く動く場合と遅く動く場合とをわけて計算している。
おもしろいのは、今の電磁気学では、ファラデーの電磁誘導の法則には二種類あった、ということが無視され、ファラデーの電磁誘導の第二法則だけがファラデーの電磁誘導の法則と書かれている。
第一法則は、電場は、運動物体の電荷に関係なく、v✕B、すなわち、E=v✕Bの法則のことで、マックスウェル以来この項が、curl Eの中に入っていたのである。つまり、curl (E -v✕B)=-∂B/∂tとなっている。同様に、curl (B - D✕w)=∂D/∂t+Jとなっている。DはD=εEである。
これを普通に計算すると、おもしろいことに、c^2=(V-v)(V-w)となって、この解のVはイーサの波の速度となる。cが運動物体とイーサの運動がないときのイーサの速度=光速度(真空)である。
すぐにわかることは、この場合、光速度より早い波と遅い波の2つが存在するのだ。
これと似たことがドイツのS. Giemensの論文にもあり、この場合、電気力線と磁力線の速度をv_e、v_mとすると、磁力線の速度は光速度を超えることになる。こんな計算を1930年代に行っている。
何を言いたいかというと、イギリスや欧州には、こういったその当時の著名人のお蔵入りになったご託宣や計算の数々がちゃんと書籍になって出版され、それが大学の図書館の中にきちんと管理されているということなのだ。だから、後のディラックでもこっそりヘビサイドの怪しげな本を読むことができる。図書館の暗闇に紛れて。
翻って、我が国では、1960年代でも1970年代の良書や教科書でもどんどん大学や高専が廃棄処分で売っぱらった。これでは、次世代の大発明も大発見も生まれないのだ。
ゾンビ、お蔵入り、こうなった昔の知識の中にも、非常にいい線いっていたが、その当時の技術ではどうにもならなかったというようなものも多く存在するのだ。バベージの計算機なんていうのはそういうものである。だから、イギリス人の中にたまにチューリングのような人物が出てくるわけだ。
フェルマーの最終定理を証明したA. Wilesは図書館でこの問題を子供の頃に読んでいつかこれを証明しようと決心したというし、やはりワイルズもイギリス人である。そこにはさまざまの間違った試みだった本もあるはずである。
間違うことは恥ずかしいことではない。すくなくとも、通説とは違う方向が良かったのか、悪かったのかの実証としての意味がある。後輩たちが同じ過ちをしないようにすむ意味では意義があるわけだ。
そして一度は滅び、死んだかに思われたアイデアがゾンビのように生き返る。そういうことは、南部がいうように、正統派の表の科学にもある。
だからこそ、裏の科学、オカルト科学であれ、それはそれとして、作品や論文や本は歴史に残していかねばならないのである。ひょっとしたら、だれかがそういうものの中から真理を発見する日が来るかも知れないからだ。
これをショーペンハウエルは言った。
真理は間違ったことからも生まれるが、間違いは真理から生まれることはない、と。
御意。まさに正論である。
だから、間違った行為でも何でもかんでも禁止する、妨害する。こういうことはタチが悪い。
南部の理論を読んですぐ分かることは、現代の素粒子論は、物性論である。超伝導理論の焼き直しにすぎない。超電導は固体物理である。しかし、世界には生命が存在するのだ。
だから、普通に考えれば、もし生命の理論ができれば、素粒子論者は他にいいアイデアがなければ、当然生命体の理論を使うようになるはずである。
すでにラビオレッテ博士は、複雑系や開放系の理論を素粒子理論に用いているわけだ。
かつて南部が「乱流するエーテル」を考えて、超ひも理論をイメージしたように。
エーテルが固体のようなものや液体のようなものであるとは限らない。いくつかの成分があり、それらの反応で変化するかもしれないわけだ。そして生命体のように真空も動的平衡を維持しているのかもしれないわけだ。
いまでは、邪道、異端、無意味と思われる理論やアイデアも昔の死んだ概念と重なってゾンビとなる可能性もあるわけだ。
こういうワイルドなやり方は白人様の顔色をうかがっていてはできないのである。
欧米人に特有の面白い特色は、NWOやCIAに殺害されようがお構いなしでどんどん真実を追求する強い魂を持つ研究者がいるということである。この点だけは日本人はあまり芳しくない。なかなか真似ができない。
もうすでに数百人が殺されたのではなかろうか?
それでも、地球は回転するのだ。
イーサは存在し、光速度より速く動く波も存在する。物性論ではそれがスピンと電荷の分離という現象で起こるスピノン波である。スピノンは電子の半分の性質を持つ。
モノポールがもし光速度以上の速度しか取れない粒子だとすれば、それは我々が見ることはできないだろう。つまり観測にかからないのである。1個モノポールが生まれると、それは光速度以上だから、あっという間に我々が過去に発した光の先まで突っ走る。つまり、過去を見ることも可能だろう。過去に行く。
いずれにせよ、いまは次なる革命の前夜である。
テスラ二世は出てくるか?
まさにワイルドで行こうである。
いやはや、世も末ですナ。
おまけ:
ところで、最近こんな話題が脚光を浴びているとか。これについてはまたいつか。
「時間の逆転」を量子コンピュータで実現!「マクスウェルの悪魔マシン」が誕生か?

by kikidoblog2 | 2019-03-16 14:26 | 普通のサイエンス