朝永振一郎と寺田寅彦、伊藤清とコルモゴロフ:天才コルモゴロフの天才育成法!?
2019年 05月 23日
さて、最近量子力学の基礎に立ち戻っていろいろ復習しているのだが、朝永振一郎博士

の「量子力学I」

「量子力学II]

Quantum Mechanics: New Quantum Theory v. 2
S. Tomonaga

そしてこれの第三巻は未完のままに終わったのだが、実質上の第三巻にあたるのが
「スピンはめぐる」


だろう。
その第三巻を読んでいたら、ちょっとおもしろい「表現」を見つけたので、それをメモしておこう。
私が持っているのは、古い方の本であるが、その157ページにこんな文章がある。
「われわれがNnやAnやHnをq-数とみなしたディラックの第二量子化の前で戸惑いを感じたのは、じつにこういう点なのです。きみたちのなかには、第二量子化をすらすら受け入れる人もいるかもしれない。もしそういう人がいるなら、その人はディラックと同じくらいえらい人か、あるいはまた、つきつめて物事を考えないで、あやふやのままで何でもわかったような気になってしまう。ノンキ坊主かのどちらかでしょう。」
これはディラックのアクロバットと言われた量子力学の「第二量子化」の定式化でディラックが発明した、あるいは、導入した、奇妙奇天烈なやり方に対するコメントである。
この後に結構重要な興味深い話に関わっていくのだが、私はこのフレーズはどこか馴染みがあった。それで、思い出すと、その昔に寺田寅彦

が似たような言い方をしたことがあったのである。
これを私はdoblog時代にメモしていた。これである。
寺田寅彦の時代から80年:時代が変わると人も変わる!?
「科学者とあたま」(昭和8年10月、鉄塔)
「私に親しいある老科学者がある日私に次のようなことを語って聞かせた。
「科学者になるためには『あたま』がよくなくてはいけない」これは普通世人の口にする一つの命題である。これはある意味ではほんとうだと思われる。しかし、一方でまた「科学者はあたまが悪くなくてはならない」という命題も、ある意味ではやはりほんとうである。そうしてこの後のほうの命題は、それを指摘し解説する人が比較的に小数である。
この一見相反する二つの命題は実は一つのものの互いに対立し共存する二つの半面を表現するものである。この見かけ上のパラドックスは、実は「あたま」という言葉の内容に関する定義の曖昧不鮮明から生まれることはもちろんである。
論理の連鎖のたった一つの輪も取り失わないように、また混乱の中に部分と全体との関係を見失わないようにするためには、正確でかつ緻密な頭脳を要する。紛糾した可能性と岐路に立ったときに、取るべき道を誤らないためには前途を見透す内察と直観の力を持たねばならない。すなわちこの意味ではたしかに科学者は「あたま」がよくなくてはならないのである。
しかしまた、普通にいわゆる常識的にわかりきったと思われることで、そうして、普通の意味でいわゆるあたまの悪い人でも容易にわかったと思われるような尋常茶飯事の中に、何かしら不可解な疑点を認めそうしてその闡明に苦吟するということが、単なる科学教育者にはとにかく、科学研究に従事する者にはさらにいっそう重要必須なことである。この点で科学者は、普通の頭の悪い人よりも、もっともっと物わかりの悪い飲み込みの悪い田舎者であり朴念仁(ぼくねんじん)でなければならない。」
「頭のいい人には恋ができない。恋は盲目である。科学者になるには自然を恋人としなくてはならない。自然はやはりその恋人にのみ真心を打ち明けるものである。科学者の歴史は。。。偉大なる迂愚者の頭の悪い能率の悪い仕事である。」
「この老科学者の世迷い言を読んで不快に感ずる人はきっとうらやむべきすぐれた頭のいい学者であろう。またこれを読んで会心の笑みをもらす人は、またきっとうらやむべく頭の悪い立派な科学者であろう。これを読んで何事も考えない人はおそらく科学の世界に縁のない科学教育者か科学商人の類であろうと思われる。」
ところで、その朴念仁とは、次の意味である。
ぼくねんじん
【朴念仁】 1.無口で愛想がない人。 2.物の道理が分からない人。分からず屋。
要するに、朝永振一郎も寺田寅彦も言いたかったことは、本当に良い学者とは、いい意味での分からず屋、簡単には人の理屈に同意しない人でなければいけなよ、ということである。
他人が作った論理にすぐに迎合するようじゃだめだ。そのすべてを疑ってかかる。いくらそれが有名な理論であろうがそれを鵜呑みにせず、自分なりにいろいろ工夫して理解する努力が大事だという戒めである。
おそらく、この精神構造は、京大の数学者望月新一博士の「ノーと言えること、ノーと言える文化が学問の原点!」というものに近いだろう。
2018年の感想と、主張やその背後にある論理構造の情報を発信し記録することの重要性
望月新一博士の「心の一票」:「ノーと言えること、ノーと言える文化が学問の原点!」
講演する望月新一博士
最近では、我が国のサイエンスのプレゼンスも経済指標同様に、相対的に順位が落ちてきたようだ。
むかしのお家芸と言われた日本男子体操のようなものであろう。
しかしながら、あれほど復活は困難だろうと思われた体操競技も、少数精鋭で、徐々に順位を上げ、ついに内村航平選手の時代に世界トップに躍り出た。
同様に、あれほど世界一は不可能だろうといわれた男女卓球も、少数精鋭のエリートプログラムの始動で、ついに10台で世界チャンピオンになるものまで現れた。
ということは、遺伝的、人種的、文化的、経済的、地理的に我が国の科学技術がだめだということではないだろう。
要するに、幼少期にその才能を開花し始めた子どもたちを、いかに世界のトップレベルと競わせるかという、育成プログラムが必要だということである。
我が国の場合、すでに少子高齢化で、どの分野でも昔のような一家の三男坊や四男に頼ることはできず、少数精鋭方式しかないのである。
科学に才能ある若者をいかに育てるか?
最近読んだ、伊藤清博士

の「確率論と私」

の中にある、「天才コルモゴロフの教育法」というものが実に参考になる。
一部引用しておこう。
コルモゴロフによれば、10〜12才くらいの生徒から、数学の才能のある者を探そうとする親や教師がいるが、これは生徒をダメにする危険がある。
しかし14〜16才になると事情は一変して、数学・物理に対する興味がはっきり現れてくる。
コルモゴロフが高校で数学・物理を教えた経験によると、約半数の生徒は、数学・物理は自分にとってはほんの少ししか役に立たないと考えるようになる。
このような生徒のためには、やさしい内容のカリキュラムを考えたほうが良い。それによって、他の半分の生徒(これは全部が数学・物理を専攻するようになわるわけではないが)の数学教育をより効果的にすることができる。
高校レベルで数学・物理系、工学系、生物・農学・医学系、社会・経済系の諸専門に分けたほうが良い。
(以下中略)
数学における適性とは何か?コルモゴロフは次の3点であるという。
1.アルゴリズムの能力。複雑な式の上手な変形、標準的な方法では解けない方程式を巧妙に解くことの能力をさす(たくさんの定理や公式を記憶していてもだめである)。
2.幾何学的直感。抽象的なことでも、頭の中で、目に見えるように描いて考えられること。
3.一歩、一歩論理的に推論する能力。たとえば数学的帰納法を正しく適用することができること。
これらの能力があっても、研究題目に対する強い関心と日々の絶えざる研究活動がなければ、何の役にも立たないだろう。
大学の数学教育でよい教師とはいかなるものか?
(i)講義がうまい。他の科学分野の例をひいたりして、うまく学生をひきつける。
(ii) 秩序だった説明と広い数学の知識で学生をひきつける。
(iii) 個人教授にすぐれている。個々の学生の能力をよく見極めて、その能力の範囲で仕事をさせ、学生に自身をつけさせる。
このいずれも価値があるが、理想的な教師は(iii)の型の教師である。
数学・物理学部の学生教育について、コルモゴロフは、正規のコースをとらせるほかに、特に次の二点を強調している。
(i) 関数解析を、日常の道具として自由に使えるように教育すること。
(ii) practical workを重視すること。
この意味は私にはわかりかねたが、かつてモスコウ大学でコルモゴロフから習ったという方に最近会って聞いたところ、微分方程式でも係数や境界条件を具体的に数値(これは学生ごとに異なる)を与えて、その解の性質を学生に調べさせるという意味のようである。
(以下省略)
この話をおおまかにみれば、我が国の高校における理系文系の区別は結構いい線いっているということかもしれない。理数に興味のない生徒にいたずらに時間つぶしさせるよりは、そういう生徒には簡単なプログラムにして、それでできた時間を理系の学生に当てろということになる。
また、これから我が国の文科省が押し付ける予定になっている、英語必修とか、小学校からアルゴリズム必修というようなプログラムは、愚の骨頂だということになる。頭を混乱させるだけで、不調和の人格形成の日本人が大量に生まれることになる可能性が高い。
要は、将来的にみて、その子自身が外国生活したいとか、英米圏と関わる仕事をしたいとか、そういう家庭事情のある子だけで十分だということになる。家を継ぐとか、和の職人とか、日本ベースで生活設計する子どもたちには不必要で、邪魔なだけだということになろう。
将棋や囲碁も数学的アルゴリズムだから、将棋や囲碁に適性のあるものがその道に進むことからも自明なように、すべての子供達にそういうことを強いるのは悪影響もあり得る。
それよりは、その適性のあるこどもをどんどん指導していった方が早いということになる。
アルゴリズムはだめでも、運動能力のあるもの、言語能力のあるもの、才能はさまざまである。それを伸ばしてやればいいのである。おしつけは、新手のいじめを生むだけに終わるだろう。
囲碁や将棋の盤面を頭の中に描いて囲碁や将棋ができるというのは相当な才能である。
同じように、複雑な数式をあたまの中だけで描いて計算できるというのも相当なものである。
文筆家も50歳過ぎてやっと頭の中の原稿用紙に自由自在に書いたり消したりできるようになるといわれているほどである。
とまあ、そんなこんなで、天才コルモゴロフや朝永や寺田や伊藤清の意見を考慮してから育成プログラムを考えても遅くはないだろう。
それにしても、かつて民主党の菅直人が福島第一原発爆破のときにやったように、自分で考えること、なすこと、すべてがいつも最悪の一手になるというのは、やはり半島人の特徴が出ているんですナ。
いまの文科省や財務省もこの傾向が見て取れる。やはり朝鮮系に乗っ取られているんですナ。
いやはや、世も末ですナ。

by kikidoblog2 | 2019-05-23 14:51 | 普通のサイエンス