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伊藤清「確率論と私」の「確率論と歩いた60年」:俺「俺の確率との出会いはいつだったかな?」   

みなさん、こんにちは。

さてもう一つ個人的メモ。スルーでよろしく。


伊藤清の「確率論と歩いた60年」

これは伊藤清博士が1998年に京都賞を受賞された際の受賞講演録であり、伊藤清の
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確率論と私
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伊藤清の数学と佐藤幹夫の数学:俺「いでよ、天才君!確率D加群を構築せよ!?」

の中に再録されてある。若い人は(中高年も含めて)ぜひ一読したほうが良い。

というのも、かつて同じ頃保江邦夫博士が「確率微分方程式」
確率微分方程式―入門前夜
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という本をお書きの際の序文でもこの授賞式に参加して「心洗われた」とあったからである。

ところで、どうして私は確率論に心を奪われるのだろうか?

と自問すると、どうやら私の記憶では、私が小学校の高学年、たしか6年生になったばかりの頃、文部省が教育改定を行い、新しい数学として「順列組み合わせと確率」を指導要領に加え、それをちょうどその6年生になった頃急遽わら半紙の教材を配られて、必死で問題を解かされたからである。

今は知らないが(たぶんゆとり世代以降、順列組み合わせと確率は外されていると想像するが)、小学生時代に確率論、つまり、伊藤清の言い方で言えば、「古典的な確率論」を学んだわけだ。そういえば、その時、集合論も加わった。ド・モルガンの法則とか、ベン図とか、そんな初歩的なものだが。

思えば、物性論の量子統計は順列組み合わせの問題だから、この時の新指導要領のおかげで、私はのちのち分数排他統計の理論を作り得たと言えるのかも知れない。この意味では、悪名高き文部省、いまの文科省だが、昔は結構いいことをやっていたのかもしれない。

そして、私が理科大の4年次の卒研のテーマが「ブラウン運動」であった。これは、大したものではなく、私が所属した統計物理学講座の卒論テーマが単に岩波の「統計物理学」の各章だったというだけ、私はブラウン運動の章の第5章と第6章を読んで中にある数式を全部証明しろというに過ぎなかったのである。

しかし、その影響は大きく、私が阪大基礎工の大学院に進学した時、「ブラウン運動の量子力学版を研究したい」と当時の基礎工の統計物理学講座の主、中村伝教授に言ったのである。たぶん当時はもっと生意気に

「ブラウン運動の量子力学版を作りたい」

と言ったのではないかナ。

返答は即座に「ノー」となり、私は量子力学はすでに普通の知識は持っていたから、固体物性論と場の量子論の勉強に入っていった。

しかしながら、密かにその頃ブラウン運動の量子力学版も勉強していて、NelsonやYasueの名のつく論文を読んでいた。また、場の量子論では、梅沢ー高橋の論文とかそういうものも勉強していたのである。

しかし、そのYasueの話はほとんど記憶になかったが、たしか同じ研究室の学年では3年先輩のドクターコースにいた京都大出身の蛯名氏から、保江氏の伝説をちょっと聞いた程度だったと思う。だから、その後、NelsonとYasueの名はほとんど記憶から失われたのだった。ヒカルランドの講演会が企画されるまでは。


そして、保江邦夫氏があのYasueであったことがわかり、これもなにかの縁、また「三つ子の魂百までも」の格言通り、一旦物性論に進んだ俺の魂は再び確率論の世界、ブラウン運動や量子ブラウン運動の世界に舞い降りたというわけだ。

というわけで、あのヒカルランドの講演会以来私は、保江邦夫博士の全論文、および私が手に入れられるNelsonの本や論文などを読んだというわけだ。

すると、その一番のオリジナルが伊藤清だったわけだ。だから、徐々に、その心の師であったコルモゴロフやヒンチンの確率論の本も図書館から借りてコピーしたりと、そして我が国の伊藤清以前の確率論の大家、北川敏男や伏見康治などの本も買って読んだりしたわけである。

すると、やはり量子力学の数学構造と確率論の基礎方程式である拡散方程式、この2つの永遠の類似、永遠の謎に行き当たるわけだ。

つまり、どうしてシュレーディンガー方程式と拡散方程式は似ているのか?

この問題をある意味で解いたのは、Nelsonと保江邦夫だったわけだ。

しかしながら、それでは、ファインマンとカッツ(Kac)の積分形式とがまだうまくフィットしない。

シュレーディンガー方程式を導くやり方としては、数種類あるわけだが、そのそれぞれが「量子化の方法」と名がつくが、拡散は実の現象、量子力学は虚の現象。拡散方程式は実時間、シュレーディンガー方程式は虚時間。どっちを実、どっちを虚と見るかは見方次第である。

この問題の起源は、指数関数にたどり着く。指数の肩が実か虚かで、指数関数か三角関数かに分かれる。前者が減少増大現象を扱い、後者が振動現象を扱う。この違いがまさにオイラーの公式から出る。

量子力学のシュレーディンガー方程式は、波動関数という複素数表示の関数からその特徴が出る。

この問題は量子力学のシュレーディンガー方程式が発見された当初から気づかれていたが、いまだにはっきりとはわかっていない気がする。当のシュレーディンガー自身もコールラウシュと拡散方程式の論文をシュレーディンガー方程式発見以前に書いていたから、そんなことはご存知だった。

そしてシュレーディンガー自身が1931年〜1933年にどうやらその問題と解こうと相当に苦労したようだ。だが、この研究はあまり一般受けしなかった。数学者のベルンシュタインを除き。

しかし、1980年代後半に保江の同じ年の弟子のザンブリニがこれらの論文をスイスで発見し、そこからいくつか論文を書いたのである。

こうしてみた時、とてもユニークな存在は私が一番敬愛するノーバート・ウィーナーである(保江はウィンナーと呼ぶ)。

ウィーナーは正真正銘の20世紀を代表する早熟の天才で、活躍した頃20歳程度。ウィーナーの哲学「万物は不確かだ」にしたがって、ウィーナー過程の理論を生み出した。これがレヴィやヒンチンやコルモゴロフを刺激した。

ところで、ウィーナー自身に一番影響を与えたのは、ルベーグとギブズである。ギブズの統計力学の教科書からヒントを得、それにルベーグ積分の概念を重ねてウィーナー過程の理論を構築したのである。

この乱数の数学。これがゆらぎの理論の基本になった。

そして、すべてはゆらぐ、すべては不確かだの哲学は、古典力学にも転用され、その時、古典軌道をフーリエ展開するという思想を生んだ。これによって、ランダムネスにより不確かになった軌道を取る粒子、それがブラウン運動である。こういう立場の数学を構築したわけだ。

すると、乱数の特徴によって、そのフーリエスペクトルに特徴が異なって現れる。ここに相補性の原理、あるいは、双対性の原理が出てきた。完全な連続スペクトラムは複雑な軌道を表し、完全な離散スペクトラムは一定軌道を表す。また、時間局所的な摂動はホワイトスペクトラムを生み、時間偏在的な摂動は離散スペクトラムを作る。

こうして、量子力学以前の前期量子論時代の1926年の欧州でウィーナーは時間と周波数との相補性の原理の講演をマックス・ボルン率いるゲッチンゲン大学の数物学科で行った。ヒルベルトもその弟子のジョン・フォン・ノイマンもいた。ボルンもその弟子のパウリとハイゼンベルクもいた。たぶんジョルダンも。

その数カ月後にハイゼンベルクは行列力学を発見したのである。そして、ボルンは同じ年に再びアメリカのウィーナーを訪れて二人で量子力学に演算子の概念を導入した。

数学がよくわからなくなるとウィーナーに聞け!とまあ、その当時はそんな感じだったわけだ。

そのウィーナーも普通の量子力学の解釈には異を唱えたわけではなかったが、異質な違和感を感じていたようだ。そこで、かなり晩年(とはいってもまだ50台だったろうから自分の晩年になるとは思っていなかったはずだ)に、A.ジーゲルというユダヤ系の女性数学者といくつか論文を書いた。

まあ、これは大分前から読んでは跳ね返され、読んではまた跳ね返されというもので遅々としてよく理解できない論文なのだが、一番ウィーナーらしいと思う論文の一つである。量子力学のシュレーディンガー方程式と現代確率論を合体させようというようなものである。

シュレーディンガー方程式は古典力学でいう決定論の方程式である。ただ、古典力学では粒子の位置が決定されるが、量子力学では状態をあらわす波動関数が時々刻々決定されていく。

この波動関数にアンサンブルを考えて、確率論的波動関数を構成する。こう考えると、ボルンの解釈がうまくいくというようなやつだった。

まあ、物事の直感的なイメージをつかみたいという、俺個人の理解した直感的イメージでは、古典力学の軌道に当たるものが量子力学では波動関数である。だから、古典軌道に対するエルゴードの定理が量子力学に現れるとしたらそれは波動関数に対するエルゴード理論のはずだ。だから、波動関数のアンサンブルを考え、それにエルゴードの定理が成り立つと考える。さすれば、電子ビームの実験結果も個別発射の電子の繰り返し実験も同じ結果を与えるはずだということになる。そしてウィーナーとジーゲルはそれ完成させたかった。ちなみに、エルゴードの定理の最初の証明はアメリカのウィーナーの天敵といわれたユダヤ嫌いのバーコフであった。

とまあ、そんなところだが、だいぶ前置きがなくなってしまったが、要は伊藤清の「確率論と歩んだ60年」を読んで欲しいという願いである。

最後に、心の清らしい伊藤清先生の書かれた一節だけ引用しておこう(最近は名前はやはり「体」を表すと信じる。あるいは、人はその名前に影響を受けて育つ場合がある)。

どうやら1942年の戦時中、伊藤清博士は次女を病気で失ったらしい。生後4ヶ月。そのときの傷心は相当なもので、自分を見失ったという。

この話のあとにこう続く。

それから10年以上経った1950年代の日本で、外国の友人が駅などで大事なカバンを置き忘れて、数時間後に取りにいったら、ちゃんと下のところにあった、周囲にいた貧しい身なりの人々から「遺失物係に預ける、かえって厄介になるから、自分たちが交替で見ていた」と聞かされて感激しているのに対して、私は「日本では当たり前だ。八世紀の初めに書かれた本に、こういう伝説があるし、その松の木もフォークロアも、私の生まれた海辺の町に残っている」などと、誇らしげにいうことにしていたのです。

私は、神話の時代の物語の中で子供時代を過ごし、今世紀の戦争の時代の恐怖と困窮を体験した者の一人としいて、如何なる時代の、如何なる名のもとに行われる戦争にも反対しなければならないと思っています。地球の歴史上多くの戦争がそれぞれの時代の「神」の名において行われてきました。「神」は、時に「正義」や「民主主義」と名を変えて現れましたが、戦争の悲惨さは拡大し、「父と子の祈り」は無力だったと思います。しかも、戦後、1950年代のアメリカで、物質的豊かさと精神的豊かさの恵みを体験し、その後の研究の多くの友人達に負っている者の一人とひても、「核の冬」が来ないことを祈らずにはいられません。


この赤字の部分は、最近でも訪日外人がいつもいうことである。江戸時代のペリーやハリスの時代もそうだった。預かった財布はかごの上に置くだけ。

最近、三越本店の天女の前で聞いた話だったが、三越は最初呉服屋で始まり、その後両替商を始め、そのうち銀行業を始めたという。その時代、送金業者は道端にかごをたくさん並べておくだけ。そこのかごに自分の送金したい金を受取人の名前だけかいて紙に包んでいれた。すると、そのかごについている行き先の地方名だけで、ちゃんと相手に届いたというのである。だれも盗まなかったのである。

基本的にはいまもそうだ。高校総体でも選手は貴重品はカバンにいれて集団で並べておくだけ。するとだれも盗まない。ちなみに、たまに大学サッカー部のグランドとか、外人が多く住む地域では、かっこうのいいカモにされる。

本当はこの講演録をもっと書きたかったが、書いている途中であらぬ方向へ話が飛んだので、とんだままにつれずれに書いてしまった。これも即興演奏の良いところだと思ってお許しを。


いやはや、世の始まりですナ。




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by kikidoblog2 | 2019-06-06 11:36 | 個人メモ

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