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朝永振一郎の「量子力学と私」:我が国の独自の物理学が誕生したのは1933年だった!?   

みなさん、こんにちは。

一昨日ここの図書館に朝永振一郎
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量子力学と私
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という本を予約し、昨日届いたので、昨日から借りてこれを少し目を通しているところである。

思い出せば、私は朝永先生がお亡くなりになられるちょっと前に、当時東京理科大学の学長になられていた小谷正雄博士のお力で開催された、「科学と私」(昭和52年7月19日〜21日)という2泊3日間の集中セミナーに参加した際、そのセミナーの二日目の大トリで来られた朝永振一郎博士の講演を聞いたことがあった。

そして、その講演会の直前にぜひ聞きたいことがあったので、先生のお越しを待ち、一人になられた時を見計らって質問をしに行ったのだった。

が、その時先生は話の準備があるから、また後でということで了解して別れたんだが、講演会の後にはもう学生たちにもみくちゃにされて二度とそういうチャンスが訪れず、またいつかと思っているうちに、先生はお亡くなりになられてしまったのだった。

今となってはどんな質問を持っていったのかまったく覚えていないが、当時私はサッカー部にまだ入っていたために、サッカーを辞めてこれから理論物理学者を目指したいが、この歳でそういうことを行っても可能だろうか?というような質問だったか、あるいは、その当時何かを考えていてそれをどう思うかとか、そんな話だったと思う。

さて、それ以後私は徐々に理論物理学者への道を進む最中、朝永先生の著作は当時出版されていたものはすべて買って持っていたと思う。

しかしながら、私がアメリカへ留学する直前に実家には入り切らなくなった蔵書のうちの一部の700冊だったか800冊だったか、まだ千葉から山梨の実家へ引っ越したあと、そのままにして積み上げていた段ボール箱20個分ほどを私の母校の甲府南高校の図書館へ寄贈したのである。

主に大学院生レベルはまだ自分で保存し、大学生くらいで読めるものはすべて小説から雑誌から物理や数学の本をあげたのであった。

だから、朝永の本はその時すべて失ってしまったので、今ここ阿南にあるものは、その後また帰国後に企業や理研にいた頃に書い直したものである。

そんなわけで、あまり深く読んだ記憶はなかったが、「量子力学と私」もほぼ間違いなく昔持っていた本だと思う。というのも、ドイツ留学時の苦しさは記憶に残っていたからである。特に印象に残っているのは、インド人が死んだという時の話だった。

さて、その「量子力学と私」という本の中にそのタイトルになった「量子力学と私」という節というか章がある。やはりこの章がこの本の中でも最も重要なものと考えられるんですナ。2つ目の章である。

この中を読むと、いかにして当時の日本の物理学者、まあそればかりか、世界の(というより欧州の)物理者たちが量子力学を構築していったかということがよく分かる。

おそらく、当時の欧州の物理学者たちは、遠く離れた極東のさらに海の東の日本人物理学者たちがこれほどまでに真剣にかたずを見守りながら量子力学の発見からその発展をつぶさにフォローしていたことは知らなかっただろう。

特に興味深いと思ったことは、我が国の物理学の世界では今では普通にある輪講(セミナーあるいはゼミナール)というものが、一番最初に取り入れたのは、原子構造の土星型モデルを提唱した

長岡半太郎
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だったということである。

ところで、輪講とは、誰か登壇者を決めて、その人にある本や論文を読ませ、それを聞いている者たちが質問を浴びせるというスタイルの読書会のことである。

中でも長岡半太郎の質問がもっとも厳しかったという。他の人の質問は単なる質問だったと。

実はこのスタイルは欧州のドイツのおそらく数学者ヤコビ(ジャコビともいう)、ハミルトン=ヤコビのヤコビが導入したものと言われているが、量子の時代の当時は、その権化がコペンハーゲンのニールス・ボーアだった。

ボーアの研究所へ留学し、そこで輪講すると、一週間病院送りになったというほどである。

ウェルナー・ハイゼンベルク、エルヴィン・シュレーディンガー、マックス・ボルン、。。。みな、あまりの精神的疲労で入院を余儀なくされたという。それほど厳しい議論が戦わされたのである。

どうやら、この事情を知っていた長岡半太郎は、東大へ戻るやいなや、我が国で本物の物理学を生み出すためには、厳しい環境が必要だと海外留学や輪講を開くことが必要だと考えて、これを東大と理化学研究所に導入したらしい。

そういう環境が徐々にできつつあった頃、湯川秀樹と朝永振一郎が育ってきた。

なんとなく、昨今の日本のサッカー界と似た感じだったようだ。本物のサッカー選手を育てるには、海外留学や厳しい練習環境が必要だ。そのためには、サッカーのプロ化が必要だ。

そういう環境が徐々にできつつあった頃、三浦知良や中田英寿が育ってきた、という感じですナ。


さて、大分前置きが長くなってしまったが、どうしてこれをメモするかというと、ちょっと前に私がメモしていたこととほぼ同じことが書かれていたからである。

昔は良かった!?昔は日本の学者もワイルドだった!?:日本数物学会=数学と物理学が結婚していた時代!?

この中で、私はいつ頃から我が国の物理学が欧米の研究のコピーから完全に独立した独自の研究を生み出せるようになったか?ということをこうメモしていた。

(あ)1930年までは研修時代

1930年くらいまでは、洋物の論文、つまり、海外の著名な物理学者の論文が、日本語に翻訳されて出ていたのである。むろん、英独堪能の杉田博士もドイツ語の論文を日本語に翻訳し、それを数物学会誌の研究論文報告として出していた。

この時期、物理では海外特に、英米の英語論文、ドイツの独語論文などが日本語訳されている。その中には、アインシュタイン、シュレーディンガー、ディラック、ハイゼンベルク、ボルンから、アメリカの半導体の父ウィルソンの論文もある。

上にメモしたように、同時に数学の論文もある。数学では仏語も翻訳されたわけだ。ファツー、ジュリア、ヴェイユ、。。。などの論文も翻訳されている。

おそらく岡潔もこの論文誌を読んでいたことだろう。

(い)1930年から日本人のオリジナル論文がで始めた。

そして、1930年頃を境に、徐々に日本人の数学や物理のオリジナル論文が出るようになる。

そして、しばらくすると湯川と朝永と坂田の時代に入っていく。それが1930年代後半から1940年代である。大東亜戦争の真っ只中に入る。

つまり、大正の時代までは、我が国の数学や物理学はまだ一種の見習い研修期間のようなものだった。それが、昭和初期に入って、徐々に日本人自らの手でオリジナルの論文が出せるまでに発展したということのようである。

大正デモクラシーの成果なのかもしれない。「科学のための自由な楽園」こと理化学研究所と「天才のための極秘の研究所」と言われた小林理学研究所の時代に入ったからかもしれない。

いずれにせよ、1930年が分水嶺だった感がある。


これは特に統計熱力学や物性論の分野で見たことだったが、これとほぼ同じことを朝永振一郎が自分で調べて書いていたわけだ。こうある。

数学物理学会の状況

湯川中間子論の端緒(1933年)

ついでですから数学物理学会誌をもっとみていきますと、1933年頃から日本の物理学もようやく新しい段階にはいったなと感じられ、いろいろおもしろいことがみつかります。この1933年4月に東北大学で開かれた年会では、いくつか量子力学分野での研究報告がでています。まずそのめぼしいものを挙げてみますと、

湯川秀樹「核内電子の問題に対する1考察」
藤岡由夫「金属の分散理論」
落合麒一郎、鳩山道夫、伏見康治「電子散乱に関する簡単な例題」
仁科芳雄、朝永振一郎「中性子の陽子による散乱」

これらの研究のひとつひとつに注目する前に、考えてみて面白いと思いますのは、こうした量子力学の研究が、この年、1933年から始まっていることです。といいますのは、すでにのべたように1932年にいろんな新しい発見がありまして、量子力学を使う分野が急にひろがっています。原子核の問題とか、宇宙線という問題です。私たちの年代や、私たちよりも少し前の方々が、ちょうどこの物理学の変革期にぶつかったわけです。

明治の頃から日本は外国の連中に追いつくのに、非常に骨を折っていたのですが、なかなかうまくいかなかった。それが新しい量子力学ができて、やっと追いつく機会をつかんだわけですね。さて追いつくことができても、それからがまた難しいんで、どういうことを研究したらいいか、皆さんたいへん迷っていたと思うんです。そこに1932年のいろんな発見があったということです。これで、ある程度ヨーロッパの人たちとおなじ出発点に並べたということでもあったわけです。亜らしい出発点がポッとでてきたのですから、そこから駆け出すのはみんな一緒で、ヨーロッパやアメリカの連中とおなじように、日本でも1933年頃から、新しい問題の量子力学的な研究に手がけられるようになったわけです。


明治時代から1930年頃までは、ヨーロッパの有名な論文を日本語に翻訳したりしている段階で、それでもみんなでそういう論文や本を読んでいろいろな議論をしてなんとか理解しようというような感じだった。

それが、いよいよ1933年頃から独自に自分なりの研究を公表するようになったというわけである。

しかしちょうどその頃から、極東で通州事件が起きたり、盧溝橋事件が起きたりして、我が国は徐々に大東亜戦争、そして太平洋戦争に引きずり込まれていったわけである。

1942年にはほぼドイツを除く欧州国と断絶し、独自に研究することになる。

そして、1945年に終戦を迎え、それまでは英独仏に留学に行ってた方向がアメリカへと方向転換する。

そして世は原子力と半導体物性論の時代になっていったわけだ。


ところで、この「量子力学と私」の章を読み、同時に朝永の「量子力学I、II」を読むと、未完で終わったとされるIII巻目がどんなものになるはずだったか、なんとなく分かるような気がする。

たぶん、「スピンはめぐる」のスピンに加えて、湯川中間子論、朝永の超多時間理論、くりこみ理論とか、1933年以降に我が国で作られた理論を論じるつもりだったのではないか?

さもなくば、IとIIは「量子力学と私」の中で量子力学で苦労した話だけに終わっているからである。つまり、1933年以前の話。

きっと1933年以降の量子力学の発展を書こうとしていたんだと俺は推測する。

しかしながら、それは未完に終わった。


ところで、ある研究者が、自分でそれまでの自分の集大成として自分の教科書を作り上げようとするということがあるが、どういうわけかともすると、1巻目、2巻目と順調に進むが、3巻目になる頃に体調を崩して死去し、未完に終わるということがある。

私が知る中でも、この量子力学の朝永振一郎博士、流体力学の柘植俊一博士、有理力学の徳岡辰雄博士。

危なかったのは、我らが保江邦夫博士。数理物理学方法序説を書き終わった途端に末期の大腸がんになられた。幸い臨死体験後に復活し、今もますます元気であられる。

こういうのを知ると、俺も自分の教科書を書く気が失せるんですナ。



いやはや、世も末ですナ。





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by kikidoblog2 | 2019-08-02 18:26 | 普通のサイエンス

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