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Q「英語の本を翻訳するっていう事をどう思われますか?」→俺「日本を豊かにすることだ!」   

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みなさん、こんにちは。

さて、今回は個人メモである。大半の人には無関係の興味のない話だろうからスルーでよろしくネ。


最近、とある友人から面白いメールをいただいた。それは、我々科学者がする英語の本の翻訳に対する是非を問うというものである。

それに対する私のQ&Aを一応メモしておこう。以下のものである。

ちなみに、Qは私が質問内容をまとめたもので、Aがそれに対する私のその時の即興意見である。


Q1:英語の本を翻訳するっていう事をどう思われますか?

まあ、結論から言うと、英語の本や他国の本を日本語に翻訳するということは、我が国の日本語の文化を豊かにすることだと考えていますね。逆に、日本語の本を英語や他の国語へ翻訳することは我が国の文化の紹介のような意味を持つと思いますね。

Q2:「翻訳なんかするから日本人は英語の専門書が読めないんだ」に対しては?

これはこの意見の人の誤解でしょう。英語と日本語は極西と極東というまったくかけ離れた場所の言語ですから、地球上でもっとも離れた言語なので、お互いにうまく認識できる接点が少ない言語同士。だから英語の専門書および本が読めないということだろうと思いますね。翻訳したから読めないということはないと思います。

Q3:「翻訳をする研究者に一流の人はいない」に対しては?

確かにかつてはそういう事はあったかも知れないですが、日本語でしか仕事を公表していないのに、向こう側が翻訳してくれるという場合もありますね。あくまでその人の行った仕事の価値や相手の興味や関心により、翻訳されるかどうかは決まると思います。

むしろ、ショーペンハウアーの意見では、彼の本を翻訳するなら自分と同じくらいかそれ以上の哲学者であれと言ったというものがありますから、一流の人が翻訳する必要がむしろあります。朝永振一郎はディラックの教科書を翻訳しています。

私自身の考えでは、定年退職あるいは還暦過ぎたらむしろ翻訳するべきだと最近では思うようになりました。理由は色々ありますが、中高年の脳の老化防止にもなるし、それまでの自分の専門分野が完結するあるいは円熟するのは高齢者になってからだと思うからです。

特に最近つくづく思うのは、60過ぎないと、あるいは、退職して教育から一旦離れないと、それまでに学んだことが本当に正しかったのかどうかを疑うような学問の根底に関わることに対する懐疑や疑問は回避する傾向があるということです。学生や大学のスタッフでいる以上、その大学の教程の基礎となる理論を否定することは難しいのでは?だから、ニュートン力学の成立の是非、アインシュタイン理論に対する反論や量子力学の是非などを問うような本は大学の人には書けない。

そうなると、逆に大学の人は批判者を大学の外にいる人だからと思って自分たちを納得させることができる。

Q4:藤原正彦先生の考え方については?

「祖国愛、母国語への造詣の深さが学問や文化を育てる」
「英語力が国力を表すならインドやフィリピンはもっと発展していたはずだ」
「流暢な英語をしゃべれても国際的な影響力は無い」
「英語圏以外で母国語で最先端の学問を学べるのは日本だけ」
「母国語で学問ができるということがどれだけありがたいか」
「我々は言葉で物事を考える。だから言葉のつたない者は思考も浅い」

などはまさにそのとおりだと思います。藤原先生の本は昔かなり読んだことがありますが、概ね賛成ですね。

まあ、TOEFLの世界ランクで我が国は最下位ですから、英語力が国力を表すのであれば、最下位になったはずですが、科学や文化は言語の問題ですから、我が国には欧米圏、英語圏よりはるかに豊かな文化があり、その結果我が国が科学でも成功してきたと言えるでしょう。

また文化は我々の持つ遺伝子の産物、反映でもありますから、やはり遺伝的生物的問題も無視できません。

言語能力と思考能力はまった別次元の問題だと思います。しかし言語が思考に影響を与えるのもまた事実であると思います。

もし問題があるとすれば、それは英語が世界語であるために、ユーザーが多く、あまりに英語で書かれたものが増えすぎて、日本人がそれらについていかれずに取り残される結果になるということだろうと思います。しかし、かと言って、英語だけでフォローしてもそれは人口の問題があるので、結局完全にフォローするのは不可能だろうと思いますね。

それよりは日本語で美しい作品を作るほうが意味があるし、英語圏の価値の高いものだけに絞って日本語に翻訳することの方が意義が高いと思います。

日本人は日本語で読む方が英語で読むより数段早いので、やはり日本語の本が大事と思います。

Q5:同時通訳ツールなんていうものが現れたら、もはや英語を積極的に学ぶ理由も無いかもしれません。

これについてはもう実質上そうなっていると思います。いわゆるコミュニケーション(会話)のツールとしては翻訳機で十分です。

著作の翻訳もグーグル翻訳などかなり正確になってきていますね。私も自分の翻訳と比べてチェックします。そのうち、自動翻訳で英語の本であろうが、どの国の本も読める時代になると思います。いずれは翻訳家は必要なくなるはずです。今現在でも、単語のチューニングとかいうものがあり、分野にチューニングするとかなり正確な自動翻訳が行われるものもあるようです。pdfも部分部分を一気に自動翻訳できつつあります。

最近ePubに移行中というか勉強中ですが、これなどネットのホームページをそのまま書籍化するところからできたもののようで、html形式の文書をpdf化するものだと思います。だから、逆に我々のLaTexとはかなり相性が悪い。

Q6:井口さんは毛色の変わった本の翻訳をしていますが、実はそれが日本の学問には重要なものの一つなんじゃないか?

そう思っていただきありがとうございます。私の翻訳の流れは一連の私個人の研究上の興味からきたもので、特にそうしようと思ってしたことではないのですが、結果的に変わった本を出すことになってしまいました。自分が英語で読みながらそれをついでに翻訳するということをしてきた結果ですね。翻訳したからせっかくだから本にしておこうということにすぎません。

私が大学の先生だったら、その翻訳までで終わりで特に本にする必要もないし、英語だけで読んでそれで論文を書けばそれでよろしいわけです。が、大学の先生ではないので、本にまでしたということになります。

しかし本来なら大学の先生こそそういうことをすべきだと思います。自分が学んだ論文や本はせっかくなので日本語に翻訳すべきです。いまではePubで出せます。

大学はシステマチックに大学の文化コンテンツとしてそれぞれの専門分野の研究者が学んだ論文や著作を日本語に翻訳して公表しておくべきだろうと思います。

最近では我が国の講義をYouTubeにアップしたりしていますが、研究論文の日本語訳もアップしたら良いと思います。

Q7:日本人が英語にどっぷりつかって、それこそ英語の専門書しかなくなったらこんなに日本人は国際的影響力は無く、白人の下に位置する一英語圏民族で終わったような気がします。

まさにそのとおりだと思います。その意見の証明がインドやシンガポールや香港やマカオでしょうね。

日本人が日本語で高度文明を築いてきたからこそ、いまのアニメやその内部のコンテンツが全世界に良い影響を与え続けているのであって、日本が英語圏だったらそういうものはすべて英国の下部社会にランクされるので、結局欧米人に影響を与えるものはなにもないはずです。

いまでは、日本星とか、惑星日本とか呼ばれるほど、日本人と日本は世界に影響を与えていますから、やはり日本語で読めるものを増やすことは実に重要なことだと思いますね。


いずれにせよ、なかなか興味深い問題意識である。

実際、大学や研究所の専門家、特に数学者や理論物理学者は日常業務である研究と教育に大変忙しい。だから、ゼミでは英語本を読ませることもあるかも知れないが、それを翻訳して日本語で出版しようというようなことは非常に稀である。

強いて言えば、物理学者より数学者の方が翻訳本が多い気がする。また、我が国で新しく出る教科書や著作の数も数学のほうが物理学より多いような気がする。が、あまり紀伊国屋や大きな本屋に行くことがないのでわからない。


最近特に思うようになったことは、我々物理学者が本当に自分の頭で物理学を考えるようになれるのは、

還暦を過ぎてから=60歳になってから

ではないか、という気がするわけだ。

というのは、学者が大学の職員でいる限り、その学者さんは自分が学校の教科書として教える内容について否定的な見解を教育することは難しくなる。

ニュートン力学を今教えながら、そしてそれで試験をしたりしながら、

「実はニュートン力学は間違っているんだ!」

とは教えづらい。まあ、実質上不可能であろう。

また、今最も完全な理論が「一般相対性理論」と「量子力学」であり、その統合を目指しているさなかにあると教育している最中に

「実はエーテルが存在して、相対論は間違いだったんだ!

とは教えづらい。これまた実質上不可能だろう。大学の教程が崩壊してしまう。

同様に、いまそういういわゆる「標準的見解や標準理論に基づいて」研究論文を出して給料をもらっている学者が、それを疑うということはほぼ不可能だろう。

したがって、本当のリアルな現実理論を生み出そうとすれば、少なくとも

(あ)標準理論を教える立場にないこと
(い)標準理論で飯を食う必要のないこと


の2点が必要不可欠なことになる。

ということは、大学や研究職にいないか、やめるか、退職しているか、ということになる。

定年退職が65歳なら65歳以上、60歳なら60歳以上が必要条件になる。

ちなみに、必要条件というのは、それが満たされないとだめだが、望む結果が得られないという条件のことである。

この場合は、学者が既成の標準理論を疑うということができるための必要条件を探しているから、上の2つで十分だということだが、60歳以上の学者がみな既成理論を疑うようになるとは限らないし、期待できない。

翻って、私自身の場合を考えると、30台後半でいわゆる研究職を離れフリーの理論物理学者になったから、既存の理論フリーでいる期間が長かった。だから、大学の人達より、自由に気ままに様々な意見や理論や実験に接しても特に問題はなかったわけだ。

フリーの理論物理学者だからこそフリーエネルギー(フリエネ)を真面目に考えることもできる。もし大学にいたとすれば、フリエネは眉唾だという大学の代弁者にしかなれなかったに違いない。

相対論、およびその一般化の超ひも理論やブレーン理論で食っている人たちに、「そもそもアインシュタインが間違っているじゃん」と言ったとしてもそれを受け入れる余地はないだろう。

日本政府の東大出身の官僚たちが一度作った法律を、いくらそれが悪法だったとしても、廃止することができない。なぜなら、それにより多くの国家予算をつけて実施してしまい、既成事実化してしまったわけだからだ。

これと同じように、一度確立した標準理論は、それがいくら矛盾に満ちたものになったとしても、それを捨てることができない。なぜなら、最初に標準理論を既成事実としてノーベル賞を与えてしまった以上、それを否定することはノーベル賞を自ら否定する結果になるからである。

大学や研究所は、既成事実の上に既成事実を重ねていく組織である。だから、その職員である研究者が既成事実を否定する論文を書くことはほぼ不可能である。


昔は良かった。

というのは、昔は学者は大学にいなかった。そもそも大学自体が未発達だった。だから、自由に実験し、自由に解釈できる自由があった。パトロンは金持ちや王族貴族だった。大金持ちの余興や個人的興味から科学が発達したわけだ。

しかしながら、今のように、大衆迎合し、大衆教育が目的になった20世紀以降では、科学は教本化、教程化して、教育は就職の目的になった。こうなると、受験勉強と同様に、内容は問題ではなくなり、形式が重要視されるようになる。

その最近の兆候が、最近の医学部の不正入試を問うしかたに現れた。女子への不当差別だという問題だが、女子は生物的遺伝的に血を怖がるのが普通であり、これまでそういう性質上の経験則から、女子の医学部への適性は受験勉強の科目の成績だけでは見ることができないから、経験則として、わざわざ女子の入学を減らすようにしてきたわけだ。

なぜなら、せっかく入学させて高度な教育しても、途中で結婚していなくなったり、外科医になりたがらなかったり、楽な分野へいきたがるのであれば、せっかくの好意を仇で返す結果になるからだ。そういうリスクを避けるために、女子の入学に制限をかけてきたわけだ。

それが、単にお勉強の出来不出来の問題に矮小化され、逆にこれまでの教育経験上の配慮としての制限の問題がミスリードされたわけである。

これには相当に一理あって、かつて第2次世界大戦時にロシアで青年はみな戦争に駆り出され、医学部に女子学生だけが入った結果、女子は数学や機械いじりが苦手、血を見るのが苦手で、高度医療者や外科医がほぼゼロになり、その結果、戦後のロシアの医療が崩壊に瀕してしまったという歴史が残ったのである。

女子には女子としての社会的役割があるから、その分どうしても専門職では数がすくなるのが自然であるが、それを差別だというのは、自分が母親になるのは差別だというに匹敵する自己矛盾に満ちたおバカな感性と言えるだろう。

こういう人は、韓国人と同様に、お日様を見ればそれが旭日旗の戦犯旗だと批判すようなものだ。事実は逆なのだ。この場合なら、太陽の日の出を模したものが旭日旗であってそれ以上でもそれ以外でもない。

同様に、女性だからこそ理系や医系の入学者が減るのであって、減るのは差別の結果ではない。

つまり、女性の能力の問題ではなく、女性の好みの問題なのである。女性が医学部を好まないというだけの問題なのである。


だいぶ話がそれてしまったが、最近はそうなってもできる限り止めずに、流れに任せて思いつきをメモするようにしている、「口からでまかせ」の観点であるが、これもまた大学人にはこういう意見を出すことが不可能だという例としてメモしたまでだ。

大学には限界がある。


さて、こうしてみると、いま昨今のクラウドファンディングなどの新しいスポンサーや投資のあり方が出てきた時代では、クラウドファンド的なやり方で、大学や国家機関ではできないことややりそうもないことに支援するという芽もありそうだ。

クラウドファンドがフリエネの研究を支援する。かつての王族貴族のやり方を真似ることができそうだ。

しかしながら、既成事実化した世界がいまではあまりに業界として大きく成長しすぎて、それをなし崩し的に崩壊させるかも知れないものへは相当の妨害や障害になる時代になった。

ある人が偶然ガンを消す方法を発見したとしても、既成の医学界がそれをフェイクだと言うに違いないし、同様に、ある人がフリエネ発電を発見したとしても、既存の物理学会がそれをトンデモだというフェイクニュースを流すに違いない。


この意味では、やはり他の惑星から再出発する他ないのかも知れない。

この地球上が化石燃料時代とその栄華で反映している人型生命体で溢れているとすれば、新文明が誕生するには、その人型生命体が滅びるか、あるいはそれがいない場所で発達する他ないわけだ。

海洋内が最強生物となったサメから逃れるには、陸上に逃げ延びなければならなかったように、この地球上で最強生物となった白人種や偽ユダヤ人種から逃れるためには、他の星へ逃げ延びなければならないに違いない。おそらく共生はありえないだろう。


さて、いずれにせよ、学者がこれまで自分が学んだことをいったん忘れて、また自分で自分なりに再解釈したり、再構成したりするようにできるにはかなりの時間が必要であることは確かだ。

力学の専門家は力学しか知らないから、それを超えるメタ力学を考えることは不可能だろう。

数学者は数学しか知らないから、それを超えるメタ数学を考えることはかなり難しいだろう。

物理学者は物理しか知らないから、やはりそれを超えるメタ物理学を考えることは難しいだろう。

自分が学んだ専門を超えてすべてを再構築するには、長い年月ですべての分野に目を通す必要がある。実に地道な作業だ。英語でそれを行うにしてもほぼ不可能なくらいの作業であろう。我々は日本語で生きている。したがってそういうことを行うのは更に時間と労力がかかる。

だとすれば、やはり英語の名著は日本語になっていなければ、相当に不便であろう。英語で読むより日本語で読むほうが遥かに理解しやすいし速い。

もし、定年退職した学者が、それまでに自分が学んだ中で最も有用だったとか重要だったという英語等の専門書を日本語へ翻訳したとすれば、かなりの数の本が日本語で出版されるだろう。そうなれば、かなり後々の人たちが得をするだろう。


こういう意味の翻訳文化が広がることを心より期待して、この辺でやめておこう。


いやはや、世の始まりですナ。





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by kikidoblog2 | 2019-08-20 09:32 | 個人メモ

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