「神の物理学」5:やはり世界は「愛」に包まれていた?「愛の素領域」理論完成!?   

愛の光珠→宇宙の愛の素領域を描く
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みなさん、こんにちは。


さて、いよいよ保江邦夫先生の「神の物理学」
神の物理学: 甦る素領域理論 単行本 – 2017/11/10
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も一応全部目を通すことができた。

実に知的でかつ霊的でスピリチュアルで理論物理学的形而上学的で稀有の書物であった。

その中の後半にある、京都の「上賀茂神社」に所有されているといわれる国宝級の松井守男画伯の作品「愛の光珠」の絵もあった。これである。
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保江邦夫博士の目にも止まり、これこそ「宇宙の愛に満ち満ちた素領域構造そのものだ」といわしめた絵であった。

極めて霊的に高位の絵である。

この絵の画像をネットで探したところ、こんなものが見つかった。

「神の物理学」の中にも書かれていたが、最近になって保江先生がいろいろのところでこの「宇宙の素領域理論の話」をしていると、参加者の数人から「松井画伯の絵を見に来てください」といわれるようになったというのである。

そういうグループの一つらしきサイトがこれである。
神さま と 素領域
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https://www.facebook.com/503936026464853/videos/pcb.699898636868590/699898176868636/?type=3&theater

会期中、

画伯の作品を
ぜひご覧にいれたかった、
保江邦夫先生にお越し頂くことがかない

そのことをきっかけに
様々な采配がなされ、

先月発売された先生のご著書の表紙に
松井画伯の「遺言」が掲載されるという、

とても嬉しい運びに。

このことを受けて

この度、フェイスブック「Morio Action」に掲載された、
「松井守男の芸術文化を守る会」主宰の
桝井さんの文章をこちらでもご紹介したいと思います。

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◆以下 Facebook「Morio Action」より◆

松井守男画伯の絵画に関するご案内です

このほど、

ノートルダム清心女子大学名誉教授で、
理論物理学者の「保江邦夫先生」の新著に、

松井画伯の作品が、
表紙と本文中に数点掲載されました。

掲載までの経緯は別の機会に譲りますが、

新著「蘇る素領域理論ー神の物理学」は、

日本人で初めてノーベル賞を受賞されました、
湯川秀樹博士が、
最晩年に研究されていた「素領域理論」を引き継ぐ形で、

弟子でもある保江先生が
研究されてこられた現在までの成果が、
愛や神といった形而上学的な視点も含めた
この世界の成り立ちを

理論物理学の見地から解き明かした
理論体系(形而上学的素領域理論)として
まとめられています。

保江先生が
今春、

上賀茂神社にて
守る会主催で開催しました展覧会
「祈りのグラデーション」をご覧になった後、

同神社の参籠殿のふすま絵とともに、

床の間の掛け軸「愛の光珠(ひかり)」をご覧になり、

「まさしく、この絵が素領域そのものを表している」

と話されるとともに、

「空間の成り立ちを素領域という抽象幾何学としても
(松井画伯は)直感なさっている」

と、

この著書の=謝辞=に於いて表明されています。

私は、
それ以前、この「愛の光珠(ひかり)」が、
我が家に到着したときに一目見て、
これまでの30年間のおつきあいに中で見てきたどの絵にもない、
全く新しい画調、

新たな画境のもとに描かれた絵であると直感し、

すぐに携帯電話で松井画伯に連絡を取り、
この絵を描かれたときの状況や
ご自身の心境などをお聞きしていました。

たまたま、
保江先生がこの絵をご覧になりながら話されている様子が
記録映像に残されており、
松井画伯からお聞きした内容と
全く同じような話をされておられました。


同様に、
=謝辞=の中で保江先生は、

「この世界の背後にある真理の姿をありのままに見抜いていた人物の証し」


松井画伯を評されています。

現実の世界では、
まだ松井画伯と保江先生とはご対面されていませんが、
以上のような経緯もあり、
守る会としても、
せめて著作の中でもご対面を、
ということでアレンジさせていただきました。

いずれ、リアルな世界で
お二人がまみえる機会を作りたいと思っているところです。

海鳴社さんより、定価2000円+税)で販売中です。
最寄りの書店やアマゾンでも取り扱っています。
ご興味のある方は、ぜひご購入いただければと思います。

来年も皆様にとりましてよき年になります様、
また、
新たなプロジェクトや活動等も行っていきたいと思っています。
どうぞよろしくお願いいたします。

画像は、保江先生のご著書と
松井画伯の「愛の光珠(ひかり)」です。

守る会代表 桝井(文責も)


たぶん、松井守男画伯も、あのプレアデス船団の指揮官の1人で、古代エジプトの神官か宮廷画家のような高官の生まれ変わりなんでしょうナア。

岡潔博士によれば、現世で高度のことを行なうような一廉の人間に生まれるには、最低でも5回は生まれ変わらないと不可能だということである。

そして、現世で高度の貢献をこの地球に果たした後は、死後もっと高度な惑星の新しい住人として生まれかわれるのだとか。

大半の人は永遠にこの地球で生成消滅を繰り返す。

まさに、スピリチュアル・アウェイsporitual away神隠しとは、本当はこういう意味である。


ところで、保江邦夫博士は「愛のマリア様」のご加護を受けた、「真のキリスト者」であられる。「真のキリスト者」というのは、別に当人がキリスト教信者であるということを必ずしも意味しない。キリスト教徒でありながら、本当にはイエス様もマリア様も信じていないものがほとんどだからだ。

これに対して、別にキリスト教に帰依したわけでも、教会の信者でもないが、イエス様とマリア様の姿を見、その存在をかたく信じて生きている。こういう人を「真のキリスト者」という。

保江邦夫博士や自然農法の福岡正信さんがそういう例である。


この保江邦夫博士の場合は、「イエスの活人術」から始まった「モンセラート修道院の修行」、これが保江邦夫師範にしてはじめて我が国の植芝盛平の開祖となった「合気道」と結びついて「愛魂道」となった。

これが保江邦夫師範が伝授する「冠光寺流愛魂道」であった。「冠光寺流」という意味は、「聖母マリア様」という意味である。だから、保江師範は「修道院僧」の服を着る。

つまり、「イエスの活仁術」+「マリア様の自愛」=「冠光寺流愛魂道」なのだ。
だからして、保江邦夫先生の周りには「愛と希望」に満ち満ちている。


ところが、私個人はそういう合気道も経験ないし、「愛魂」もないし、イエスもマリア様も知らない、敵と肉弾戦を戦うサッカーマンの典型であり、生物も原子分子の複雑ネットワーク系であるにすぎないという見方の物性理論物理学者の典型にすぎなかった。

だから、「愛のない俺」と「愛につつまれた保江先生」とどこに接点があるのか?と常々思っていたわけだ。

ところが、保江先生に慧眼があった。

俺にも「愛」があったのだ!

うそこメーカーで発見:「人類愛100%」の愛の男!

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うそこメーカー「脳内メーカー
今日は俺の生誕60年:還暦祝いの「た・わ・ご・と」一発!:いかに生命体を計算するか?


まあ、「嘘こけメーカー」「うそこメーカー」だからまったく当てにできないが、一応俺の脳内は「愛につつまれていた」のであ〜〜る!

言い換えれば、俺の脳は「愛の素領域でいっぱいだった」のだ。「愛」だけでできていた。一点の曇りもない。

まあ、これ以外に俺自身が気づくものはない。


さて、保江邦夫博士の「神の物理学」に話を戻すと、この中心テーマである湯川秀樹の「素領域の理論」。これは終生保江先生の脳裏から離れなかったに違いない。

「三つ子の魂百までも」というように、我々物理学者は「一番最初に行った研究」がその人を決定づける。そういうことが非常に多い。その後いろいろやったとしても、最終的にはそれに戻っていくのである。

一般人で言えば、幼少期に年取るごとに戻っていく。

最近徘徊老人が問題になっているが、このあたりでも時々行方不明が発生とか放送が入る時があるが、実はそういう徘徊老人はどこに向かって徘徊しているのか?というと、実はその老人の子供の頃の家をさがしていたりするわけだ。

自分が生まれた場所を探している=生まれた場所に帰りたい

と本人は思って歩いているだけなのである。それを周りが「徘徊」と見る。

この俺でも、最近は自分が小学生だった頃の「国母小」はどうなっているのか?とか、園光寺幼稚園(?)や遠照寺幼稚園(?)って今もあるのか?とか、たまにふと気になる時がある。

こうなると、大分「あの世」に近づいた兆候であろう。

こういうことに似て、一般の物理学者もやはり一番最初の研究や一番最初の成功体験に強く影響を受けるのである。

「処女作」

これがやはり一番大事なのである。

女性の場合もそうで、やはり「処女」を失う時の性体験がもっとも重要なのである。良い男とセックスしないと、男性恐怖症になったりレズになったり、一生未婚でいようとしたりとまずいことになる。だから、昔の日本では、男社会がその女性に適した男を上手くあてがって、上手に性の手ほどきをした。また、この逆もあり、経験豊かなイイ女が青年の童貞をうまく捨てさせた。いまはこういうものがセクハラだ、犯罪だ、少女性愛者だとかパヨクや偽ユダヤからさんざんの悪口たてられているから、いまやまっとうなおおらかな生殖行為がご法度されてしまった。これも偽ユダヤ支配層の「人口削減計画」の一貫にすぎない。


保江先生の処女作が「素領域の理論」だったのである。湯川秀樹博士が当時まだ知らなかった現代的な確率論、この枠組で素領域理論を捉え直すことで、見事に湯川秀樹のできなかったレベルに「素領域理論」を引きあげることに成功したのである。

そしていま、この問題にさらに岡潔の「情の世界」、フォン・ノイマン、中込照明の「観測理論」、中込照明の「量子モナド理論」(簡単に言えば、モナド=霊魂)などを統合させる形で、

形而上学的素領域理論

を完成させたのである。

かなりアマチュア理論物理学者=あまり経験のない理論物理学者=理論物理学者のなりたての人は、往々にしてこういう本のような一見「お話だけのエッセイ」を見ると、そこに少しも方程式もその計算も証明もないじゃないか、だからこれは物理の本でもないし、たんなる「オカルト」の本じゃないかというように見るだろう。

そういう物事の捉え方を「小我」でしかものを見ない見方と岡潔は言っている。

大事なことは、保江先生のどれか一つの論文を見ればわかることだが、保江先生は「確率変分学」の真の創始者であり、現代確率論の大家でもある。

そのようなお方が、数式や証明をふんだんにいれた、定理、証明スタイルの普通の物理の論文を書こうと思えば書けないはずがないではないか?

しかし、もしそれをすれば、1000ページを超える大作になるし、そうなれば、「木を見て森を見ない」普通の物理学者にはまったく理解できないものになる。読むのに何年もかかるだろう。

だからこそ、必要最小限の数式と数学で、まずは「森」を見られるように書いたわけである。

とまあ、こういうふうに「察知」しなければならない。

数学者の望月新一博士の書くような論文にしたら、まず普通の人および普通の科学者にはまったく理解できない。

そこで、松井守男画伯の絵画や最小限の定義と数式で見事に説明したというわけだ。

とまあ、俺個人はそう見るのである。


ところで、この「神の物理学」へ至るにはそれなりの道順がすでにあったようだ。

昨日、私と保江先生との対談
「世紀の”謎の”対談本」ついに完成!:物理で語り尽くしたこの世とあの世のすべて!
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を読み直したら、やはり繰り返し保江先生は湯川秀樹の素領域理論の話を出していた。だから、ずっと頭のどこかにこの問題が残っていたに違いない。

それが、私との対談や岡潔の著作や湯川基礎物理学研究所やさまざまのものが刺激となって、この問題の解決に至ったのだろうと思う。

というようなわけで、私の存在もこの「神の物理学」へわずかばかりの貢献(まあ一種の触媒)にはなったのではなかろうかと1人密かにつぶやいている今日このごろなんですナ。


いやはや、世も末ですナ。






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# by kikidoblog2 | 2018-04-26 09:48 | 保江邦夫

「神の物理学」4:「2つの遺言」→「神の物理学」に込められた「2つの遺言」を解き明かすものは誰か!?   

"Nature controls everything, even in an atomic scale
as Buddha recognized a long long time ago."
by Kunio Yasue from " It Appears!".

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みなさん、こんにちは。

ここ最近は、保江邦夫博士のことをメモしてきた。
「神の物理学」:我らが保江邦夫博士、ついに神様の物理学を発見!
「神の物理学」2:保江邦夫博士のミラクル数理勉強法とは何か!?俺の想像では?
「神の物理学」3:「モナド」と「モナド」の間には、「神」が宿るのか?それとも「無」があるのか?

その「神の物理学」への起点は
「湯川秀樹の研究を引き継いだ異能の物理学者・保江邦夫に取材! 超常現象や奇跡はなぜ起きる? 」
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であり、それがついに
神の物理学: 甦る素領域理論 単行本 – 2017/11/10
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という本にまとめられたわけだ。

印象としては、これは海鳴社もそれ相当に「力が入った」、いわゆる「力作」なのではなかろうか?

たぶん、カバーの絵も松井守男画伯のものだろう。

いま調べたところ、このカバーの作品は以下のもので
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この題名は、なんと

遺言

だった。

ちなみに、この松井画伯の絵画はすべて壁や布のような大きなキャンパスを用いたものらしく、ピカソのゲルニカのように巨大な壁画である。
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しかしながら、我が国にわざわざ「落書きしにやってきた」馬鹿なオーストラリア人の愚劣な落書き
「渋谷は落書きしていいと思った」ビル4棟の外壁にスプレー 豪州人少年2人逮捕 警視庁
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やっぱりオーストラリア人だった!:ローマ法皇曰く「オーストコリアンは、霊的に生まれ変われ!」
のようなたわいないものではなく、一つの作品を描くのに、最高14年とか、何年もかかるものである。

それもそのはず、この松井画伯は「スプレー」のような姑息なバカ手段は使わない。和製の筆を使うからである。
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とまあ、カバーの絵が松井画伯の「遺言」だったことがわかった。


ということは、この「神の物理学」は、ひょっとしたら「分かる人にだけわかるように」「それとなく」このカバーに自身の物理学の集大成としての

遺言

であることを込めた。

というようなわけで、この著作には、

レジオン・ドヌール勲章のピカソの最後の高弟、松井画伯の「遺言」と、それに重ねて、いまやレジェンド素粒子理論物理学者となった、「確率変分学」の創始者であり、かつ、いまや湯川秀樹の最後の高弟となった、保江邦夫の「遺言」の2つが込められた作品だったと見ることができるのではなかろうか?


まあ、我々昭和20〜30年代生まれの時代も、すでにそれぞれの「遺言」を著すべき時期に来た証だろう。


これの「2つの遺言」の著書である「神の物理学」から、今の若い世代がいったい何を汲み取ることができるだろうか?

今の所日本語だけだから、日本人の若者に大きなメリット、優先権がある。

保江邦夫の「確率変分学」およびその応用例としての「量子力学と最適制御理論」のネルソンー保江の量子力学定式化、そこに湯川秀樹の「素領域の理論」と保江邦夫の畏友、天才中込照明の「量子モナド理論」、そして現代数学の異才、岡潔の「情の世界」。

こういうものがすべて渾然一体となり、それが完全調和の美しきかな、この神代の世界を理論化する。

ミクロの世界もマクロの世界も同一の理論で完全無欠にインテグリティーできる。

はて、此処から先いったに何が生まれてくるのか?


これはまさにこれを読んで深く考え、「いま」の問題に応用し、この世界を新たに「読み解くことができる」天才だけに与えられる特権であろう。


ついに新たなる「物理学の革命」の時代の到来を告げた!


この素晴らしき、保江邦夫博士、師範、先生に幸あれ!

乾杯!



いや〜〜、物理学って良いものなんですナ。




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# by kikidoblog2 | 2018-04-25 10:42 | 保江邦夫

「神の物理学」3:「モナド」と「モナド」の間には、「神」が宿るのか?それとも「無」があるのか?   

みなさん、こんにちは。


「神の物理学」2:保江邦夫博士のミラクル数理勉強法とは何か!?俺の想像では?

神の物理学: 甦る素領域理論 単行本 – 2017/11/10
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の途中から、保江先生の数理教育法の話にそれて長くなってしまったので、もう一度こっちにメモしておこう。

私が思うに、湯川秀樹の「素領域の理論」に限らないが、一般に西洋人の頭には「空間」というと、黒板やら箱やら容器やらそういうものを想定する風習ができている。というか、デカルトとカントやニュートン以来、そういう「枠(frlame)」を必ず想定しないと「空間」を考えることができないらしい。

ここが本質的に東洋と西洋は違っていると岡潔は言っている。

これが西洋人の脳、白人種の限界なのだと。

つまり、白人種=コーカソイド族は、見えるものしか見えない。聞こえるものしか聞けない。触れるものしか触れない。味合うものしか味あえない。嗅げるものしか匂えない。意識で理解できるものしか思い浮かばない。

つまり、第6識までの動物だという結論になった。

しかし、前頭葉は発達したので、物事を分析する力は非常によく発達し、そのため、ギリシャ時代以降にいわゆる数学を発明することができた。

そうやって2000数百年の間に現代数学にまで行き着いたが、所詮その根底には同じような問題点が含まれていて、いくら現代数学になろうが、「枠」から物事を捉えるという基本思想から逸脱できない。


それは20世紀の中盤の湯川秀樹の時代もそうで、「空間」の「素」を考え、4次元に広がった「素領域」理論を作り出したとしても、「テンデハナシ二ナラナイ(点で話にならない)」という、湯川秀樹ジョークのものとなったが、この思想にも西洋白人種の思想がすでに含まれているのである。

つまり、岡潔が西洋人が宇宙を書くときは、はじめに黒板があって、その上にこれが時間でこれが空間だというようにして始まると言ったように、湯川秀樹も、素領域を書くときに、こっちが時間でこっちが空間で、ここに「素領域を◯で書く」というようにして始まったのである。

つまり、「空間」そのものを研究し、「空間」を論じるのに、そのそばからそこに「空間」を描くための「枠=黒板」の存在を仮定しているのである。

岡潔はこれがとても気に入らなかった。

もしこれがあるとすれば、「素領域」と「素領域」の「間」ができてしまい、今度はまた「素領域」を作るための「素素領域」が必要になり、この無限連鎖が必要になってしまうのである。

これを避けるには、宇宙がフラクタルのように入れ子状態を繰り返し、今のスケールで見たものが、どの尺度でも成り立っていると考えて逃げるか、あるいは、そもそもそういう「枠」の存在を否定するかのいずれかしかないのである。

つまり、「無」の存在を仮定するのである。

「真空」=「完全無欠」の「予定調和」

というようなものが、「素領域」と「素領域」の間にあるのではなく、「素領域」と「素領域」は最初から密集するか重なって存在し、ぐじゃぐじゃした世界で、その「間」には「何もない」=「無」が存在する。

いずれにせよ、黒板に絵を書くようにしてこの宇宙を描くことは「おかしい」=「不可能」なのである。


この一番の卑近な例が「ハウスドルフ空間」である。

たとえば、DNAの配列で、aという配列とbという配列があったとする。この場合、

a=AGCTAGCT......

b=TGCTAGCT.....

もっとわかりやすく、

a=AAAAAAA.....

b =TAAAAAA.....

と一箇所だけがAからTに変化しているものとする。

この場合のハウスドルフ空間は、aとbの2つの距離を定義できる。これは単純に、違っている文字数の数である。

たとえば、平面座標の原点にaをとり、bをx=1の場所に書くこともできる。

だから、ハウスドルフ空間をデカルト座標の上に描くことはできる。

しかし、その間には何もない。「無」である。

私の思うところの「素領域」とはこういうものであろうと思うのである。

さもなくば、またその「素」と「素」の「間」の「隙間」=「サブ空間」を論じなければならない。

一般に、素粒子論や電磁気学の最大の問題点はここにある。

実はこういう問題に一番早く気づいたのはニュートンだったという説がある。近接作用を定義すると、かならず粒子である質点と質点の間を伝達する場の存在を定義しなければならなくなる。

原子を定義すれば、原子と原子の間の近接作用を定義しなければならなくなる。

ニュートンより大分後のマイケル・ファラデーもこの問題に生涯悩み続けた。近接作用説をとると、際限がなくなってしまうわけだ。

物体と物体の作用が近接作用なら、それを伝えるのは原子だということになるが、今度は原子と原子の相互作用はやはり近接作用であれば、その間には何か相互作用を伝えるものがなければいけないことになる。当時は原子は仮想的な存在だった。

したがって、原子と原子の間には「エーテル」があると考えられた。そして、近接作用はエーテルが伝達するのである。

しかしそうなれば、今度はエーテルとエーテルの間を伝達する物が必要になる。

現代物理でもそうで、核力が近接作用であれば、それを伝える物が必要になる。それをグルーオン場だとか、カラー場だとかいわなければならない。

しかし、こんどその場が量子化され、粒子説になれば、今度はグルーオンとグルーオンの隙間を何が伝達するか考えなければならなくなるというわけだ。

しかし素粒子論者は適当な偽物理学者だから、そういうものはごまかす。


というわけで、岡潔は現代物理学者を馬鹿にし、物笑いのネタにした。つまり、

自然科学は間違っている
岡潔講演録
岡潔講演録と解説について
 横山 賢二

と一笑に付した。


私個人の理解では、中込照明の「量子モナド論」の「モナド」というのは、DNAのようなもので、何かの情報のあつまりであり、それ自体は物理的存在ではない。その内部の世界に生じる「映像」として、そこにその「モナド」が捉える「世界」が広がる。そして、この「モナド」と別の「モナド」の違いは、それぞれの内部状態の違いであって、「モナド」自体がそれぞれ空間内のどこにいるかというようなことは意味がない。あくまでそれぞれの「モナド」のそれぞれの「内部空間」でみる場所にそれぞれの位置が移るだけのことである。

保江邦夫のいう「抽象的自我」というのは、「モナド」が作る「空間」、すなわち、ある「枠」の中に「モナド」が浮いているのでは、それらの間の「隙間」を考えなければならなくなるから、そういうものにあるのではなく、「モナド」を含んだ総体の「集合」そのものなのである。

「集合」=「空間」とはならない。

たしか中込照明さんは、「モナド」を「パソコンモニターとそれを見ている人」に例えていたと思うが、お互いのモニターに見えている仮想現実が内部空間の映像であり、そこを通じて「モナド」同士の位置関係が座標化されるだけで、実際の「モナド」のいる場所の空間は定義できないというものだったと思う。


ところで、「無」の思想の発見者の、自然農法の福岡正信さんの本に、これに関係した実に興味深いことが書かれていたと思う。すでに借りた本を返却して手元にないからなんとも言えないが、すべては「無」から始まるという福岡さんの思想にかなり「モナド」論に近いものがある。

さらに、福岡さんの思想に、「時間」の話があり、これがまた興味深い発想だった。これについてはまたいずれ。


それにしても、保江先生と中込先生はすごいナア。昔の京都大学はやはりすごかった。



いやはや、世も末ですナ。




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# by kikidoblog2 | 2018-04-24 15:01 | 保江邦夫