カテゴリ:個人メモ( 41 )   

E.B.スタリコフさんの新著発見!?:なんと彼もインデペンデントフリーランス科学者になっていた!?   

Seht, hier kann man keine Furcht mehr tragen,
selbst das Fragen haben wir verbannt,
Nur wer gläubig bleibt in solchen Tagen
hält dem gnadenlosen Schicksal stand!

See, here you can no longer bear fear
even the questions we have banished,
Only those who believe in such days
holds the merciless destiny!

見よ、
ここで君はもはや恐れることは何もない
私たちが追放した疑問さえも。
そのような恐れの日々を信じる人たちのみ
無慈悲な運命を保持するのだ!
ーーユーゲニ・B・スタリコフ
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みなさん、こんにちは。

今回はちょっと個人メモと宣伝。

なんとユージン・B・スタリコフ博士が、俺と同じような「インデペンデント科学者」になっていた!

かの博士のResearch gateを発見したら、そうなっていたのだった。今回はこれに関してメモしておこう。


私の論文から派生して海外で博士になった人という貴重な人も2,3人いるんだが、インド人とか、イラン人とか。

だから、インドの物理学者の博士論文の審査員の5人の1人に入ったという希少経験もある。


日本人はおろかほとんど付き合いなく、フリーで研究している身からすると、海外の知人も極めて乏しい。

しかし、ユージン・B・スタリコフ博士とは、10数年ほど前に知り合ってから、今日まで物理学上の親友の一人になっている。

彼はウクライナ系のユダヤ人なのだが、まあ、俺が偽ユダヤ人と呼ぶ人たちの出身に入るが、実に研究熱心な人で、真の科学者の一人である。

チェルノブイリの原子炉爆発事故のために、やむなくウクライナからドイツに逃げたという人である。

その後、スウェーデンとか、ドイツとかを転々と職場を変え、最近までドイツの自動車メーカー関連会社で勤務しながら、物理化学の研究を行っていた。

とまあ、昨年(2017年2月)に我が家に来たときには、そういう事情だったと思う。
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しかし今日たまたま彼が出版するぞと言っていた本がいつ出版されるのかと思っていたら、偶然Research gateというサイトに彼の研究所が存在したわけだ。これである。

Evgeni B. Starikov
Chalmers University of Technology · Research Area of Physical Chemistry
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10数年前までは特にDNA伝導の研究をやっていたのだが、だからその頃私も同じ問題をテーマに研究したから、彼と知り合いになったわけだ。

私がそれから足を洗って、不可逆過程の熱力学、そして、生命の熱力学、そして杉田元宜の過渡的現象の熱力学へと変遷する中、彼もまた熱力学へと研究がシフトしていたのである。

いわゆる共時性というやつですナ。


しかしユダヤ人は言語の天才である。

あっという間に日本語まで読み書きできるレベルになっていた。いつしか日本語でメールを書いてくるのである。

ロシア語、英語、ドイツ語、スウェーデン語、。。。、日本語


いやはや、言語脳は我々の想像を絶する。


そんなスタリコフ博士の最新書がこれだ。来年のこどもの日に販売予定らしい。

A Different Thermodynamics and its True Heroes
アマゾンA Different Thermodynamics and its True Heroes (英語) ハードカバー – 2019/5/5

Description

The first and foremost general purpose of publishing such a book would be to pay the due tribute to the colleagues, whose results in the field are undoubtedly seminal, but they were and still are remaining ‘widely unknown’. Therefore, first of all, the book presents in detail the life stories of the colleagues. Moreover, learning about the combination of the contributions by all of the book’s protagonists might help motivated young researchers in their work on finally building up the logically consistent field of thermodynamics. It looks like the very first thermodynamics’ book of such a kind.

Readership

Students at any imaginable level, researchers (both academic and industrial ones). The last but not the least: A general readership interested in the History and Philosophy of Scientific Research.


この本は熱力学の教科書には普通には載っていない、本流とは異なる思想で本質的な研究を行った、真の熱力学の科学者たちの歴史とその研究の集大成の本である。

私はこの本ができ始めの頃から分厚い原稿をもらっている。あまりに分厚すぎて読みこなせないほどであった。だから、積読入りだった。すまん。

しかしながら、私の影響もあってか、もしこの出版版が私が頂いた原稿と同じものだとすれば、杉田元宜博士の一節も入っているはずである。また杉田博士の研究を紹介した私の英語論文(大作5Mバイト)
Motoyosi Sugita—A “Widely Unknown” Japanese Thermodynamicist Who Explored the 4th Law of Thermodynamics for Creation of the Theory of Life
も引用されて入っているはずである。なかったら残念。


乞うご期待!

ぜひ若い学生諸君は、こういう熱力学の教科書を読んで勉強すべきである。


すべての分野で行き詰まり感のある現代科学では、やはりどこかに大きな誤謬が潜んでそうなったはずだ。

だとしたら、袋小路に入った場所から元きた場所に戻り、新たなる正しい道を発見しなければ前進できないのである。

この哲学を我々だけは共有してきたわけである。


いまある教科書的な内容だけで満足するな!


電磁気学も熱力学も力学も相対論も量子力学も。。。なんでもかんでも、見方を変える。別の行き方があるということを発見しておくべきなのだ。

電磁気なら、ファラデー、マックスウェルまで遡る。

熱力学なら、カルノー、クラウジウスまで遡る。

力学なら、ニュートン、ホイヘンスまで遡る。

相対論なら、マックスウェル、ローレンツ、ミンコフスキー、ヘビサイド、ギッブス、アインシュタインまで遡る。

量子力学なら、ケルビン、ラザフォード、ボーアまで遡る。あるいは、ハイゼンベルク、シュレーディンガーまで遡る。

保江邦夫博士は、量子力学でこれを忠実に行ったといえるだろう。

そろそろこれまでの現代科学を抜本的に刷新する時期に入ったと俺は思う。


少年よ、大志を抱け!



しかしながら、今の教育制度は、既成概念の受け売りや固定概念化に血の税金を使いまくるだけ。

いまの研究機関は、既成概念や固定概念に基づいて結果を出すだけ。

これでは本質的な進歩も進化もない。


だから、一度前に戻り、その時代背景をさぐり、どうして昔の科学者はそう結論したのかを調べなおす必要がある。そのときに何か囚われた信条のようなものや政治的事情が入り込んでいなかったかを見つめ直すべきなのだ。

そうして初めて本当の理論化のアプローチが分かるのである。とまあ、俺はそう信じているわけですナ。最近はヨ。

そしてどんな権威にも屈せずそうするのが真の科学者だと定義すれば、

そうなると、どうしても真の科学者であろうとすれば、

インデペンデント科学者にならざるを得ない

というわけなんですナ。


だから、みんな金銭的には苦労する。



いやはや、世も末ですナ。







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by kikidoblog2 | 2018-11-14 10:54 | 個人メモ

断捨離:我が青春時代が去来した!?   

断捨離
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断捨離(だんしゃり)とは、不要な物を減らし、生活に調和をもたらそうとする思想であり、やましたひでこ(山下英子)の著書において発表された。「断捨離」「クラターコンサルタント」は山下英子の登録商標である。




みなさん、こんにちは。

この2日ほど我が部屋の押入れの清掃・整理・断捨離をやっていたので、メモする時間が取れなかった。さすがに引っ越してきてから23年もの山積みを整理するのは大変な作業だった。

昔のユタ大から持って帰った大学院生時代の研究ノート、論文、メモなど、さすがに捨てるに捨てられずにいたものだったが、この際、「断捨離」。いまはやりの痛恨の投棄である。

また、98年ごろのあの有名なiMacも動くかどうか試したりしてみたが、一応電源は入るが、やはりプラスティックのボディーは劣化し、まったくハードディスクを認識できず、ウェルカムにならなかった。というわけで、これも断捨離行き。

初日はこういうことですんだが、昔の手紙から最近のブログファンからのものまで整理するには昨日一日かかってしまったというわけだ。

Love letter from Japan

というわけで、私の奥さんと出会ってから1年ほどの日本からの手紙の類もでてきて、若かりし日の奥さんの爽やかな手紙が懐かしい。

さらには、バースデーカードとクリスマスカードの類。

子供が誕生する前、誕生してからのもの。そして、その子供の生まれてからの私の誕生日へのお祝いカード。

つたない字で、左右逆転しているものとか、こういう文字も徐々に形をなしていく。

しかしながら、その子の本質部分、優しい性格とか人思いやる質とか、そういう部分は文字が身につく前から、そして成人した今もほぼ不変だったということがわかった。

やはり、人は生まれながらにしてその人なのである。

こんなふうなことを感じながら、いろいろ整理整頓していたわけだ。

いくら断捨離したからといって、まだ押入れ内部に過ぎず、押し入れの外の私の周りにはまだ数百の本、何万の論文が山積みだ。

こういうものは、ここに来てからの研究テーマに関して集めたものだから、また徐々に断捨離していくことになる。

ユタ大にいたときにも、学生研究室の壁一面の論文ファイルを整理するのは大変だった。私の流儀で、一つのテーマにはその最初までできる限りすべての文献に目を通す。決して今のものだけではすませないということをいつの間にからやってきたために、論文の孫引きを続けていくと、幾何級数的に論文が増えてしまうわけである。

この習性は今に続くが、例えば、保江邦夫博士一人に限ってもほぼすべての論文、すべての著書を読む、あるいは、読みたいと思っているわけだ。実際、物理関係に関しては理解できるできないにかかわらず、だいたい全部に目を通した。

当然、その保江先生が引用した論文も同時に集めていくことになるから、保江個人が必要とした他の研究もあつめるとこになるから、論文数は膨大になる。

まあ、俺はいつもこんなことをしているから、文献が増えるわけである。

もっと効率的な方法はないかといつも探してきたが、こういうやり方をしないとどうも私個人の生まれつきの性分から気持ち悪いわけですナ。

適当な分野の教科書だけ読んで、それを適当な問題に応用して、適当に論文を書くというようなことで満足できればそれが一番効率的なのだろうがヨ。

まあ、もう一つのやり方は、特定の問題だけを解くことだけに集中するというものだが、これは比較的やりやすい。普通の研究とはこういうもので、私自身そういうものを教育されてきたからずっとそういうやり方をしてきたわけだ。

これは大学の先生向きの方法だと思う。すでにそういう業界に住んでいるからだ。しかし徐々に私はそういうやり方だけでは満足できなくなったのだった。

また、トランスペアレンシーなどの断捨離にも難儀した。外のファイルはまだ使えるから残すが、中のトランスペアレンシーを抜き取る作業が大変だ。これもすべて断捨離。不燃ごみ行きになった。


そういえば、今では、パソコンから直接モニターにつないで、自分のプレゼンテーション原稿を見せながら説明するというやり方が主流である。だから、ウィンドウーズのオフィスとか、オープンオフィスとかそういうもので作ったファイルを開いて研究発表する。

ところが、昔は、といっても、比較的最近まで、我々はトレーシングペーパーに書いた図やそれをトランスペアレンシー(透明用紙という意味)に油性や水性のペンで書いてそれをOHP(オーバーヘッドプロジェクター)でスクリーンに投影して話を見せていた。そういう時代が長らく続いたのである。

我々が学生の頃、アメリカの学者さんやアメリカ帰りの日本の学者さんが、ちょっと英語チックな訛りの入った日本語で講演するのをみては、「すげ〜〜」なんて言っていた時代があったのである。

当時は物性では、アメリカのIBMワトソン研究所(江崎玲於奈博士がいた)や、ATTのベル研究所(たしか長谷川晃博士がいた)。。。が世界最高の研究所だったのである。

いまやそのベル研もだいぶ前に廃止され、IBMも昔ほどではなくなったようだが、我が国では「東大物性研」は未だ健在のようだ。

断捨離しながらこんなことも去来していたわけだが、私の青春時代もすでに30年以上も昔の話になってしまった。


いやはや、世も末ですナ。







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by kikidoblog2 | 2018-10-19 08:07 | 個人メモ

昨日は「さつまいもの日」:俺の61回目の誕生日。県南の温泉で祝す!?   

みなさん、こんにちは。

ハッピーバースデー!

昨日は私の61回目の誕生日。昨年の還暦をついに1年過ぎてしまった。それで、奥さんといっしょに県南の温泉に久しぶりに行ってきたというわけですナ。

ちなみに、昨日は「さつまいもの日」だとナビが報告。


晴れ男。晴れ女。

我が家が行くときは実によく晴れる。

9月に東京山梨に行ったときもそうだった。天気予報では1週間雨か曇天だと予想してくれていたのだが、我々が到着した途端に山梨が晴れ、その後の東京も晴れた。

さらには、帰りの飛行機でも、徳島は雨で大荒れで飛行機が揺れるために機内サービスができないとアナウンスがあったが、徳島に近づくとすでに晴れていてまったく揺れなかった。

その前の8月の名古屋豊田行きは、最高温度41度超えとなった日であった。

というようなわけで、昨日も実に良い天気で、ウェルかめの大浜海岸はすばらしい風景となった。

そして、帰宅後、夜帰りにイルローザで買ったロールケーキと山梨で買った赤ワインでお祝い。

太く長いろうそく6本+細く短いろうそく1本。

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ささやかな誕生会でした。

本来なら大学の先生のように、大学の特別な披露宴会場で数多くの卒業生や昔の学生たちや美人秘書たちに囲まれて、盛大なる還暦記念や誕生会をしてもらわなければいけなはずだったんだがナア。

あるいは、保江邦夫師範のように、たくさんのお弟子さんに囲まれて、かんぱ〜〜いと祝してもらうはずだったんだがナア。

なんて思いながら、乾杯してケーキを食べていると、何やら外が騒々しい。

と思ってみたら、なんと季節外れの花火大会だった。

我が家が正月によくお参りする小さな神社の秋祭りの花火だった。幸いに我が家の2階からも木立の向こうによく見えた。時には木の上に飛んで巨大な花火が炸裂。


ところで、温泉の帰りに買い物したら、その店の壁に、「大相撲阿南場所」なる広告
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を発見した。

会場が我が家から300mほどのごく近所。いつも通っている場所ですナ。


いやはや、モンゴルズモウの魔の手がここ阿南にも来てしまったとは???

まあ、悪鵬はここ徳島の嫁さんもらい、モンゴルで徳島乗っ取る気まんまんらしいからヨ。


せっかくのめでて〜〜日が台無しじゃん。



いやはや、世も末ですナ。





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by kikidoblog2 | 2018-10-14 08:44 | 個人メモ

サッカー選手がいう「きりかえろ、きりかえろ」→サッカー選手にいう「きりかえろ、きりかえろ」   

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みなさん、こんにちは。

さて、今回は私的個人的なメモである。また普通の一般常識的(=外から刷り込まれた)感じ方とは異なるため、普通人には違和感があるだろうからスルーを。

今回山梨に1年ぶりで親父のお見舞いに行ったのだが、そこへ山梨県で一番最初にプロ野球選手になった人と会ったのである。

甲府商業出身でピッチャーで4番打者。甲子園出場した中澤新一さんである。甲府商業の甲子園出場としては、2回目あたりで、3回目が巨人の大エースになった堀内恒夫投手の時である。当時はここ徳島の徳島商業の板東英二投手全盛期で、この板東英二と同期だったという。

というのも、私の父の若い頃、私が生まれる前に私の両親がこの中澤さんの家の向かいに引っ越し、そこで新婚生活を始めたらしいが、その時に中澤さんが甲子園出場を決めたので、私の父がその甲子園まで応援に行ったのだった。そういう縁があったからなのである。

その後、かつて父から聞いた伝説では、その甲府商業はあと一人アウトで甲子園勝利という9回に、内野手から来たボールを一塁手の手が震えて、キャッチしたボールが手からこぼれ落ち、結果的に負けてしまったという。そういう場面を何度も私に語って聞かせたからである。

私は子供の頃中2後半まで本格的にずっと野球をやっていたので、中1で野球部に入部した時、中澤さんが週末暇があれば、我が家へ来て、私のスウィングの指導をしてくれたのである。

どういう練習をすればいいか、どういう考え方でスウィングをしたらよいか、当時の最先端の知識をくれたのである。

私は、小3から小3から中3までの混成ソフトボールの町内代表になり、市大会か県大会まで行ったので、小5から小学校の野球部に入っていたのである。

ショートで5番打者。これが中学時代の私のポジションだった。

この中学は監督がその最初の甲子園出場した(はずの)甲府商業出身の天野監督だったために、我々は非常に入部時から期待したのだが、彼はすでに腐っていたので、練習にはまったく出てこなかった。おかげで、ド素人の先輩の補欠が下級生を面倒見るスタイルになっていて、いわゆるドツボの野球部の形態を呈していた。

2年になり、我々が主力になりつつあった頃、新規に新ユニフォームを作るために、新チームの主将になった私が代表で皆から金を集めて監督に持っていったのだが、いつまでたってもユニフォームが来ない。それで私が監督に聞きに行くと、天野監督は「そんなことあったかな」とすっかり忘れていたわけである。

この一大事件が契機となり、2年生チームがすっかり様変わりしてしまった。部室でタバコを吸い出すわ、女の子とつるむわ、小学校の県大会で優勝したエースは、完全なる不良グループの番長になってしまった。

さんざんなんとかしようとしたが、不良が増える一方で、ついに俺は脱出を行った。それが、サッカー部への転部であったのだ。

私はサッカーも小学校の最初のサッカー大会のレギュラーだったので、非常に上手だった。小学校時代に見よう見まねで練習しすでにリフティングが150ほどできたのである。我々の頃には、スポーツ少年団サッカーができる前で、私が小6になり、県内に初めてそれができたのである。わが校の国母小にもそれができ、小6で私もレギュラーとして市大会に出場した。

だから、中学に入学し、1年生のサッカー大会では、誰一人サッカー部はいなかったクラスだったが、われわれ野球部3人が活躍して、相手のサッカー部のエースが3人いるチームと戦って、準優勝したのであった。私はその大会の得点王になった。

というわけで、不良チームになった野球部には未練なく、県内優勝経験のあるサッカー部へ転部したのである。

当時の南中サッカー部は、甲府クラブ(現ヴァンフォーレ甲府)の初代監督をしていた岩田監督(たしか日体大出身)が我々生徒を体育の先生として指導していたのである。むろん、当時はそんなことはおぼろげにしかしらなかったが、全日本レベルの実に良いサッカー指導を行っていたのである。

私は2年の秋にサッカー部に転部し、3年の春には初めて試合に出場した。関東大会の予選だったが、韮崎西だったか、東だったか、どちらかと戦い、延長線で延長で初出場となった私の決勝ゴールで同点になり、PK戦で負けたのだった。我々のユニフォームは青。相手が緑だった。

いちばん大事な全国大会の県予選で今度は韮崎東だったか、西だったか、と戦い、今度は引き分け抽選で、PK戦の代わりに5−5のじゃんけんで負けた。

結局、このチームは5つあった県大会で3つほど優勝。2つがともに韮崎に同点でPKとじゃんけんで負けたという強豪チームだった。

そんな45年前から、私は野球は選手としては一度もプレーしたことがないが、大学、大学院などのソフトボール大会などでは結構活躍したものである。

30年ほど前には、ユタから帰国後に都内のバッティングセンターで弟といっしょに打ってみたが、何年ぶりかわからない状態だったが、120km,130kmとやって最後に最速140kmに挑戦して、これも普通にホームラン性の当たりを打てたから不思議だった。

ここ徳島阿南にきて、何年目かでいつもはサッカー選手ですからといって敬遠してきた小学校の父兄のソフトボール大会に出ることになり、だれもサッカー選手に期待しない中、私はセンターオーバーの大3ランをかっとばし、度肝を抜いたのだった。2打席目もレフト前のライナーで2打数2安打5打点10割で終わった。たしかこの試合も同点でじゃんけんで負けた。


こんな個人的経験を持っている私と、甲子園出場山梨初のプロ野球選手で、怪我で引退した中澤さんと、父の病院で何十年ぶりでまとまった話、たぶん初めてではなかったか、を行ったのだった。

78歳と60歳のお話、世間話に花開いたのだった。

だいぶ前置きが長くなってしまったが、要するに、昨今のスポーツ界の問題(と感じる)ものを自然と中澤さんが語ってくれたのだった。

結論から言えば、最近は「若者が中途半端な夢を追い続けすぎる」ということである。

たとえば、サッカー選手、一流プロ選手になる夢を持ち続けるのはいいが、20代後半になってもまだコンビニで働いて夜の練習を行う。しかし、どっちも中途半端に終わってしまう。

中澤さんは、プロ時代の練習中の怪我が原因で選手生命を短くしてしまったそうだが、そこで2軍で生きていく道もあったが、思い切って別の道に入った。それが「生活を固める」という意味では成功だったという。そういう話をしたのだった。

たぶん、これは私自身へ向けたメッセージだったと思うが、最近は特にそういう選手が多いという話をしてくれたのだった。

私はサッカーで同じことを考えていたから、これには全く賛成だった。

なぜなら、いまの我が国のサッカー界には、Jリーグには1部、2部、3部までのプロがあり、その下にまだいくつもセミプロ的なチームがある。草野球や草サッカーのように趣味でやる分にはいいが、気分はプロで定職にもつかず、サッカー中心の生活をすれば、自分が一流に近づくと思っている選手が多すぎるのである。

野球の場合、甲子園に出場を目指すチームは4000ほどあり、そのうちのわずかのものが、スカウトの目に止まり、ドラフト選手になる。それに入れなければ、即引退就職である。

セパに12チームあるだけだ。

だから、少数精鋭で世界ランク1位2位を維持している。

これに対して、サッカーはドイツのマネをして、
J1が18チーム, 
J2が22チーム, 
プレミアリーグが20チーム、
J3が14チーム,
JFLが16チームもある。計90チームもある。

私の見た印象では、J1, J2の半数の選手はアマチュアレベルである。

いまの我が国の「人口」とレベルであれば、J1が12チーム、J2が6チームもあれば十分である。このそれぞれの2軍、3軍にプレミアとJ3の選手が入るべきである。

チーム数が多くなればなるほど、各チームのレベルが下る。日本人選手が足りなくなる。

その結果、結局、外人部隊になる。

ブラジル人、韓国人、在日朝鮮人、東欧人、タイ人、。。。。

ブラジル人や欧州人や東南アジア人は反日ではないからまだいいが、どうして超絶反日の韓国人や在日朝鮮人をJリーグに入れるのか?理解不能である。

まさに「敵に塩やる」方式である。

1チームがレギュラー23人。2軍3軍を入れて50人程度だとすると、

J1:18×50=900人
J2:22×50=1100人
J3:14×50=700人
プレミア:20×50=1000人
JFL:16×50=800人

したがって、全部で4500人ほどサッカー選手がいることになる。


さて、そこで中澤新一さんがいいたかったことは、このうちの何人が生活が成立しているのか?ということである。

嫁さんをもらい家庭を作れるほどの給料をもらっている選手は何人なのか?

言い換えれば、「プロ選手」というレベルのプロ級の給料を貰える選手が何人いるのか?

名前はプロ選手でも、もしもらっている給料が普通のサラリーマン並みであれば、それはプロと呼ぶべきものではないだろう。年収300万円のプロサッカー選手。こういう人はプロとは呼べないのではないか。実際には、もっと年収の低い選手がほとんどだという。

これなら、野球やサッカーを辞めて、別の道に進んだほうが良い。別の道で成功にかけるべきである。


だらだらといつまでもサッカーにこだわり、変な夢を追い続けて、結局、サッカーの歴史にも名を残せず、かといって仕事の分野でも何も残せず、これでは困るのではないか?

むしろ、サッカーをきっぱりと止めて、別の道で別の仕事でそれなりの仕事をする。その方が本人やその両親や親族も幸せではないか?

これに対して、例えば、元日本代表監督2回の岡田武史のように、愛媛FCを作り、それを率いて「地元の若者に夢をもたせる」というようなことをする人もいるが、それは岡田のいわゆる「道楽」であろう。つきあわさせられる方が大変である。

サッカー崩れの人の道楽に付き合って自分の固有の新たなる挑戦の邪魔になる。

これもまた困ったものなのである。

はっきりと、「君には才能がない」と現実を突きつけて、サッカーや野球を卒業させること、そして、自分がだめなら、その子供や孫で挑戦する。そういう新たなる人生に切り変えること。これが大事だというわけですナ。

サッカーでは、試合中に何度も、攻守の切り替えを行う。そのたびに、両手を「叩いて」

「切り替え、切り替え」

と絶叫するのだ。


「人生の切り替え」switching of life

これが重要になるのではないか?


残酷なことだが、適度な才能の持ち主に、

「君には才能がない。別の道に行け。」

ということは、実に悲しいことではあるが、その本人にとっては大事なことなのである。


はたして、監督が選手にそういった場合、

パワハラ

なんていうやつがいるのだろうか?その選手から恨まれるのだろうか?

まあ、その本人自身がそれに気づくべきだが、本人がマジックにかかってその呪縛から逃れられない場合には、やはり誰かが

1,2,3パチン

と正気に戻してやらねばならないだろう。


いずれにせよ、プロサッカー選手の最低レベルの給料をプロレベルに保つためには、やはりチーム数や選手数を減らして、少数精鋭システムに変えるほかないのである。


この意味では、サッカーも野球のドラフト制度を取り入れるべきである。俺はそう思う。

そうすれば、入団時で契約金1億円ゲットとか可能になるはずである。そのためには、チーム数は1/4にすべきである。


若者に夢は大事だが、若者に「変な夢」は持たせるな!つまり、幻想をもたせるな!

夢をもたせて儲けるのは騙すメディアや大企業だけである。


ひょっとしたら、中にはサッカー選手よりコメディアンの方が向いている選手もいるだろうし、俳優になった方が良いほどハンサムもいるはずである。歌のうまいものもいるだろうし、ビジネスの才能のある者や、別の才能の持ち主もいるはずである。私のように、理論物理学者になれるものもいるはずだ。


夢と幻想との区別は実に大事なのである。





いやはや、世も末ですナ。






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by kikidoblog2 | 2018-10-05 09:39 | 個人メモ

山梨の英雅堂「宝石博物館」でパワーストーンを発見!?:俺の中で昔の記憶が蘇った!?   

みなさん、こんにちは。

今回はまず個人メモである。普通の人には興味ないだろうから、スルーを。


またまた一週間ぶりのメモとなった。この間、恒例の年一回の母親の墓参りに山梨に行っていたからである。帰り際に、昇仙峡に立ち寄り、例の名古屋のテスラこと、高木利治さんのために、パワーストーンを探しに行ったのである。そして、都内で2泊し、24日の昼過ぎに
anemone(アネモネ)
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(この号は結構面白かった)
の編集長の西さんと会談、その夕は保江邦夫博士と門人2人といっしょに浅草の神谷バーで飲食しながら、保江先生の最新情報をゲットしたわけですナ。

その間、我が国では、小惑星探査機の軟着陸、台風24号TRAMIトラミ、相撲協会vs貴乃花引退戦争勃発など、さまざまのことが起こったようだ。こういうことはまたそれぞれ後々メモすることにして、まずは、昇仙峡のパワーストーン探しのことをメモしておこう。

ところで、この昇仙峡で宝石や水晶を売るという商売は山梨甲府の宝石商の間ではずいぶん前から、土産売場として、栄えたものである。中でも、めのうや水晶のさざれを「バレル研磨」で一気に磨いて、それを「手づかみ販売」するというビジネスモデルと、そのために観光バスを引き込むというビジネスモデルは、我が家がはじめたことであったのだ。

カテゴリ:ファミリービジネス( 9 )

ファミリービジネス9:「クォーツ時計誕生秘話」、水晶の切り方を古賀逸策博士に教えた祖父!
[ 2013-11 -06 17:34 ]
ファミリービジネス8:「引き割り技術」と「ダイヤモンドカッター」
[ 2013-11 -06 16:35 ]
ファミリービジネス7:「瑪瑙(めのう)」に色をつけてカラフルにする
[ 2013-11 -06 14:41 ]
ファミリービジネス6:「貴石画」と「宝石画」の誕生
[ 2013-11 -06 13:31 ]
ファミリービジネス5:「回転ろくろ式研磨機」と「スカラベ」
[ 2013-11 -05 15:19 ]
ファミリービジネス4:「バレル研磨」の誕生、研磨業を変えた革命技術
[ 2013-11 -05 14:29 ]
ファミリービジネス3:宝石企業団地とレストラン・ダイヤモンド
[ 2013-11 -05 13:18 ]
ファミリービジネス2:昇仙峡「宝石園」「かつては東洋一の水晶宝石博物館」
[ 2013-11 -05 12:35 ]
ファミリービジネス1:山梨県立宝石美術専門学校設立
[ 2013-11 -05 11:13 ]


この中の「ファミリービジネス2」に昇仙峡
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のことが語られている。

この昇仙峡で最初の宝石博物館を作ったのが私の父だった。「宝石園」というものである。

その後、我が家が廃業するさなかで人手に渡り、二転三転して今日の「宝石園」になったようである。

トンネルをくぐり抜けると、そこは宝石博物館だった

というキャッチフレーズのような感じの宝石博物館で、実際に宝石加工をする職人もいて、それを見ることも出来た。

いまでは、このビジネスモデルを商才のある英雅堂さんが、それぞれを別々の店として運営しているようだった。

いずれにしても私には実に馴染みのある風景で、子供の頃、少年の頃の記憶が一気に蘇った。

そう、我が家は「甲府の宝石加工業の第一人者、井口製作所」だったのである。地場産業の零細企業にすぎないが、当時は従業員30人ほどの地元の宝石加工業では最大手の一つだった。そのライバルの同業他社が、英雅堂だった。業界代表として、破竹の勢いの田中角栄に宝石画を見せに行った経緯もある。父の自慢が田中角栄とのツーショットである。

ちなみに、我が家の宝石画には、父の「実」の実の名をとり、実の宝という意味で

実宝(じっぽう)」

の縦字の朱印が入っている。

これがのちのちライターメーカーのジッポウと係争の元になってしまったが、裁判しても拉致空かないということで、そのままにしていたため、結果的に廃業したほうが負けという道となったようだ。


そういう追憶に浸りながら、高木さんご要望の水晶を発掘しに行ったわけだった。いまのところ、そのものをここに明かす訳にはいかないが、その宝石博物館でたくさん写真を撮ったので、その中でいくつかここにメモしておこう。

双龍
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水晶の展示
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日本最大の紅水晶
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虎目石の観音様
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パワーストーン(直径50cmの水晶球)
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売店
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我が家の全盛期の時代には、まだスピリチュアルという言葉はなかった。ましてやパワーストーンという言葉もあまり流布していなかった。だから当時は、一部の宗教家とか占い師とか、一般人からみれば、ちょっと怪しげな世界の人の持ち場だった。

あれから、40年。

いまやパワースポット、パワーストーン、スピリチュアルというような言葉は世に溢れている。変われば変わるものである。

それでも、私の子供時代はすべて水晶の加工は甲府の職人がやっていた。しかし、いまでは、それが中国人や韓国人のものになってしまった。

今回、宝石博物館や英雅堂の社員の人たちとも立ち話したが、もともと南北朝鮮人に貴石画や宝石画が伝わったのは、私の叔父、つまり、私の父の兄が、韓国に工場を作ったからである。そこから、支那朝鮮に伝播したのである。

その時代は、ほんの40年前の1960年代から1970年代に過ぎないが、その頃はキーセン旅行といって、韓国ソウルにいけば、どこでも簡単に女が買える。床屋でも、レストランでも、ホテルでも、キーセンがやってきた。

とまあ、そういう男の事情で、日本のビジネスマンは韓国ソウルに引き寄せられてしまったわけですナ。

むろん、その時代のコリアには、従軍慰安婦問題もなければ、支那には南京大虐殺問題も話題にもならなかった。そもそもそんなものは存在しなかったからだが、それがその後1990年代以降になり、テイクイニシアティブのネタとして重宝されるようになったわけである。

要するに、自分が下手の間は、女や料理や金でたらしこんで、自分が上になりそうになると、今度は相手の弱みにつけ込んで、捏造した事件を押し付けてくる。これが、「やつら」の常套手段なんですナ。今も昔もまったく変わらない伝統芸なのである。


ちょっと話が脇にそれてしまったが、今回宝石美術館に行って非常に良かったと思うのは、世の中には本当にさまざまの鉱石があるということを知ったことである。中でも「電気石」なるものを始めた見たのだが、これについてはまたいつか。

それにしても杉田元宜先生のときもそうだったが、いまの学者の誰も自分の所属する学術学会である「生物物理学会」の創始者の杉田博士をご存じなかった。

これとにて、今ある業界の創業時、いまある宝石学校の創業時、いったいだれによって生み出されたのか、そういうことを誰も知らないのである。山梨県立宝石学校は、我が家の祖父と叔父と父とで企画し、県を動かして予算をとり、実現させたものである。山梨最大手の英雅堂の社員すらだれも知らなかった。

半世紀も経てば、既得権益者はその既得権益の創立者すら忘れてしまう。

どうも地球人にはそういう悪い意味の健忘症があるようですナ。


いやはや、世も末ですナ。





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by kikidoblog2 | 2018-09-27 16:01 | 個人メモ

「講演会の顛末記」:講演会お疲れ様でした!ありがとうございました!サムハラ神社のご利益か!?   

みなさん、こんにちは。

昨日無事にここ阿南に7時半に帰宅できました。

講演会の皆様に心からの感謝の言葉を妻ともどもお送りしたいと思います。

どうもありがとうございました。


ちょうど20年ほど前の1998年。私はフリーの理論物理学者としては史上初。

三菱財団の研究助成をうけることができたのだが、その時、

分数排他統計を持つ準粒子の研究

でもらったのだった。

それで、当時私が閃いたアイデアが厳密数学的に正しいかどうかを聞くために、名古屋大学の多元数理の青本和彦教授のところへしばしば出かけたのである。

その頃、徳島空港から名古屋小牧空港直通の中日本エアラインというのがあり、小型の双発旅客機で約1時間で徳島から名古屋に行けたのだった。

そして、近鉄の東山線に乗って、すぐに名古屋大学に行けた。と思う。そういう記憶がある。

この中日本エアラインは低気圧が近かったり、雨が降ったりすると、まさに富士急ハイランドの富士山のように、垂直落下や急上昇を繰り返し、数百メートルのヒヤリハット体験しながら、本当に歯を食いしばって耐える時間があった。

名古屋に着陸したときには、いや〜〜、これぞ本当の飛行機だといつも思ったものである。特に帰りがひどかった。

美人スチュワーデスさんといっしょに墜落してミンチになるなら良いかとも思ったが、あまり美人ではなかった。というより、昔は美人だったかもなという中年のスチュワーデスが乗っていたものである。

ところが、その後何年して、あえなく経営難で閉鎖。

それから、名古屋へ行くには、神戸、大阪経由のなんば行きの高速バスしかなくなったのである。

これがまた難儀するもので、運転手によっては、なんば到着後に乗り換えるはずの予約した近鉄の出発時間のたった5分前になんば到着。

だから、運転手に文句言う時間もなく、即ダッシュで近鉄特急に飛び乗る。

何度かこういう経験を積んだものである。

また徳島の高速バスの運転手の中に「安全運転」第一厳守の人物がいて高速でも時速60kmの法定速度を守るやつがいた。

「あの〜〜、運転手さん、このままだと俺の近鉄の出発時間すぎるんだけど」
「もうちょっとスピードなんとかならん?」

「きみ〜〜、もう一時間たったけどまだ徳島にもついていないぞ。遅れるぞ!」

「きみ〜〜、まだ神戸だぞ。もう出発まで1時間半しかないぞ!」

とまあ、こんな案配で、運転手の横に張り付いて催促して、近鉄出立前5分に到着。猛然とダッシュ。

汗びっしょりで近鉄特急の中に入れた。間一髪セーフ。

いや〜〜、スリル満載。


だから、高木先生の講演会が、名古屋の先の豊田市にあると聞いて、真っ先にこの悲惨な経験が甦ったというわけですナ。


しかし、今回は奥さんといっしょに前日の我々の結婚記念日を兼ねて前日に豊田市に入る予定にした。

奥さんは夜勤明けで午前中に帰宅。そして、いっしょに阿南11時50分発の高速バスでなんばへ出発した。

今回はかなり余裕を持って、近鉄の予約はせず、適時乗るスタイル。

そこで、なんばにつくと、まずはサムハラ神社で色あせてしまった私の指輪を買い換えようと思ったわけだ。

まずはサムハラ神社で参拝。

そして社務所で指輪を買おうとするが、宮司さんが

「もうありません。来られるのが遅かった。それにもう来週まで指輪は入りません」

ということで、なくなく絵馬だけ1個買って、記念撮影のみ。

サムハラ神社の石碑前
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ところで、帰り際に俺は気づいた。

何やら巨大な足跡が一つだけ残されていることに。これである。

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私の靴が27cmだから、ゆうに30cmは超える足跡。

はたしてだれがこんな巨大な足跡を残していったのだろうか?

謎である。


この頃、私は

「どうもサムハラ神社にはもうご利益はないな」

と感じ始めていたので、奥さんに

「もうサムハラ神社の宮司があんな調子では商業化しすぎてもうナマグサ宮司だ。これじゃあ〜、サムハラのご利益はないと思うよ」

と言ったのである。

そうして近鉄に無事に乗り、今度はなんばから名古屋に到着。

そこで、奥さんは名鉄と近鉄を勘違いして、というより、いっしょくたにしていたので、もうホテルが有ると思っていたら、豊田市はもっと先だったことを知る。

今度は名鉄で名古屋から豊田へ行かなければならない。


だから、当初の予定より1時間も遅れて、夜9時過ぎに会場となる名鉄豊田ホテルに到着。

奥さんは朝から何も食べていなかったからとにかく早くチェックインして何か食べに出よう。特に、「味噌煮込みうどん」とかいうやつが食べたいというので、私は何事もブラジルW杯の経験上、先にできることは先に済ませたほうが良いよということで、私は名古屋で目的のものを食ってからホテルへ行こうと言っていただのだが、名鉄と近鉄をごちゃ混ぜにしていたので、豊田駅で食べることにしたのだった。

そしてチェックインに行くと、なんと部屋がない。

予約した部屋がない!

なんといま高校総体が名古屋で開かれていて、名古屋から近郊の全ホテルが満杯。しかも前日に岡崎の大花火大会もあったという。

申し訳なさそうに、ホテルのフロントの係員の人が、一応部屋はとってあるのですが、ちょっと変わった部屋ですがよろしいですか?

と聞く。こっちは何でも良いから早く部屋に荷物をおいて食事に行きたかった。

それで「もちろん」問題ないです。どこでも良いですとOKというと、キーナンバー801をくれたのだった。


そして荷物を滑らせながら801に行くと、そのフロアは結婚式場だった。

そして結婚式場の一番となりの部屋だった。

部屋の中に、大きな色直し用の鏡台があり、バスルーム前には男女別々に同時に化粧できるように左右対称に2つずつ鏡と洗面台がある洗面台。

さらには、ダブルベッドが2つ。

さらには、応接室と寝室に分かれているような感じのスウィートルームだったのである。

なんと、その部屋は昨日帰宅後に調べたら「ブライドルーム」というやつだった。

これから翌日に結婚式を控えた新郎新婦が神妙な面持ちで前日を過ごすという特殊な部屋だった。


いや〜〜、破産!

これが最初に我々によぎった言葉だった。

こんなスウィートルームに2日も泊まったら我が家は破産である。

どうしようか?

と思ったのだが、ともかく夕飯を食いに行った。


ところが、豊田の夜は早い。どんどん9時以降は飯屋が店じまい。飲み屋もみな帰り支度を始める。

味噌カツや味噌煮込みうどんどころではない。

もう食い物にありつけるかどうかのせとぎわになった。

いろいろ探し回っていると、松坂屋の近くに手羽先専門の看板をみつけ、そこの近くに、串カツの文字を発見。というわけで、この居酒屋に入ることにした。

すると大正解。

焼き鳥も1本140円でそれほど高くはなく、普通に生ビール中を一杯ずつで、結婚27年目をお祝いして、土手煮とかいう一物やいくつか食して、最後に焼きそばとお茶漬けを食べてなんとか無事夕飯を取ることが出来た。

そして、その晩は、27年ぶりの結婚式のマネごとができた。

実は我が家は結婚式をしないままいままできたので、結婚式がどういうものかまったく知らなかったのである。結婚式の前日にこんなスウィートルームに泊まるということも知らなかった。

というわけで、とにかく、熟睡して当日になった。


翌日の当日。

朝食が出たので、ホテルの朝食を取り、そしてゆっくりして、まずは会場をチェックに行こうと、フロントにいくと、そこで一人の青年に出会った。どうやらファンの一人で、講演会を聞きに来て、一応早めに場所をチェックに来たら、
私がいたので勇気を出して話しかけたという青年だった。

とにかく今いる部屋が広い。そこで部屋で話そうと誘って我々の801にいって、12時前までいろいろ話す。

そして、実は地元の名古屋近郊の大学にいる同業者の友だちがいるので、その彼と講演会で会ってその前にいっしょに食事でもしながら久しぶりに話しましょうということで、待ち合わせをしていたのである。

それで12時ジャストにまたフロントに行くと、2分遅れでその友人がやってきた。

実はその前に一応会場を見に行くとすでに保江博士が歓談中で、これからみんなで昼食会をするというので、私はその友人もいっしょにどうということで迎えに行ったのだ。


というようなわけで、まずは講演会の主催者の高木先生とその関係者といっしょに保江先生と私と奥さんと友人とで昼食会ができたのである。

その時、私が保江先生にいつ来られたのか聞くと、昨日の夜8時だという。本当は今日来るはずだったが、やはり当日は時間的にも厳しそうだとわかって、前日に来ることにしたら、無事一部屋空いているということで、そこでここに宿泊することになったというのである。

いや〜〜、これで理由がわかった。

我々は当初8時にホテルに到着するはずだったが、サムハラ神社によったために、1時間遅くなってしまった。

そしたら、普通のツウィンではなくて、スウィートルームしかないということになったんですよ。

だから、きっと後から来るといい出した出版社のだれかか、あるいは、保江先生が急遽お泊りになったんじゃないかと想像してたんですよ。

やっぱりそうだったんですね。

というような会話になった。

そして実は俺はサムハラ神社は効用が切れたと言っていたんだ。

そう保江先生に言ったら、「これだ。これがサムハラのお導きだよ」って。

もし我々が先に着いたら、きっと保江先生がお一人でスウィートルームになったはず。


いや〜〜、サムハラ神社恐るべし!


おみそれいたしました。礼。

後はすべてうまく行き、例年は50人参加のところが、今回は会場溢れんばかりの大賑わい。140人超えとなってしまったという。主催者の皆様には想像以上のご迷惑をおかけし大変申し訳ありませんでした。

この度はどうもいろいろお世話になりありがとうございました。

では、みなさんお元気で、またいつかお会いしましょう。





いやはや、世も末ですナ。




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by kikidoblog2 | 2018-08-06 11:49 | 個人メモ

「変な話」:どうして昔と今とで話が逆転したか?「水飲むな」→「水を飲め」   

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みなさん、こんにちは。

今回は私個人への個人メモである。興味ない人はスルーを。



さて、確かにまだまだ暑いがいっときよりは暑さがマシなった気がするが、相変わらず暑いことは暑い。

熱中症という新語のために、かえって死んだ人が多くいるような錯覚がでるが、昔も今も同じように高齢者になれば、暑さで卒倒する人はたくさんいたはずである。

それが熱中症という概念で当てはめればなんとなくそれに当てはまるから「熱中症死」したという呼び方をするから、さも熱中症死が増えたかのような印象を持つわけだ。

単に昔はわざわざ熱中症に当てはめなかっただけで、そんなに大差はないだろうというのが俺の個人的想像である。

私の父親も50半ばで群馬に出張中に脳梗塞で倒れたことがある。幸い同乗者に事情を知っていた人がいてすぐに病院に行ったために助かり、その後ずっとリハビリ生活したが、今91歳になっても健在である。もっとも施設に入院しているのだが。

当時はエコノミー症候群という言葉もなければ、熱中症という言葉もなかった。

どちらも水分不足、塩分不足が原因だ。

我々が子供の頃、野球部に入ると、入った瞬間から「水泳禁止」。練習中の飲食、特に水飲み禁止だった。

喉がカラカラでも水道ダッシュは厳禁。

そういう時代だった。

水泳禁止は肩を冷やすと肩が壊れるからだという理屈だった。

一方、水飲み禁止は、水を飲むと汗をかくから、汗をかくだけ体力消耗するからだという理屈だった。

この時期、名映画「アラビアのロレンス」とか、英米の映画の探検隊は、水を一日たったのコップいっぱいだった。

遠征中の水不足を減らすことと、汗かきを減らすことだった。

たしか、有名な「地底探検」とか、そんなやつでも、水筒の小さな口コップにたった1杯を飲んで終わりとか、それを回し飲みするだけとか、それが当時の最先端の技術だったと思う。

だから、ではないかもしれないが、我が国でも部活でも水は制限された。

しかし、そこは成長期の子供や少年たち、15分休憩になると、学校の水道にみんなで猛ダッシュし、水道の蛇口に口をあててごくごくごくごく腹が満杯になるまで飲み続けた。

休憩が終われば、胃袋がチャップチャップいいながらも練習再開したものである。

今思えば、ここでやっていたことは、今の常識からすれば、すべてダメ、NG、違法行為だった。

しかし、奇妙なことに、だれも死ななかった!

私がサッカー部に移った後も、当時は野球部同様、水は休憩時間に飲むだけ。

だから、1時間練習したら休憩10分。そういうときに水道に猛ダッシュした。

試合では、ベンチに猛ダッシュして帰り、水を飲む。当時はポカリスウェットとか、そういうものはないから、蜂蜜レモン水とか、レモン水を応援の父兄からもらって飲んだものである。あるいは、梅干しと蜂蜜レモンを食べる。

不調になってもそれでも誰も死ななかった!

いまでは大谷投手のように、野球選手は水泳もすれば、試合後にはかならず肩をアイシングする。昔では巨人軍のプロ選手でも、肩を馬肉で冷やした。それをあとで馬刺しにして食った。

サッカー選手でも、試合後は筋肉をアイシングする。だから、アイスパッドでラップして足回りを冷やす。

水は試合中いつでもグランド周囲においたビンで飲む。女子マネはそれをいつも冷たいやつに入れ替えるのが仕事の一分になっている。

昔はそんなことすれば、先輩から鉄拳がとんだ。

弛んでるぞ!

それでもだれも死ななかった!

試合中でも誰も死ななかった。


ところが、いまはピッチの上で選手が死ぬこともある。

これだけ水分補給しているのに、大勢の高齢者が病院に入る。ジョギングの猛者も不調になって入院する。

何かが間違っているんじゃね〜〜の???


これが俺の疑問である。

今の風潮で儲かるのは、大塚とかペプシとかコカコーラとかキリンとかそういう水商売の大企業である。

そもそもキリンは俺ら昔のサッカー選手や野球部が自家製「蜂蜜レモン水」を飲んでいたやつを真似しただけだ。

ちょうやは、田舎の一般家庭どこでも作っている梅酒をマネしただけだ。

コカ・コーラやペプシは、昔アメリカの一般家庭のどこでもレモネードとして出していた飲み物を真似ただけだ。

レモネードにコカの実で茶色くしただけで、中身はレモネード。だから、逆にいまや昔のオリジナルに戻って、「透明のコーラ」で売り出す。

馬鹿か?

無知は犯罪でござる。


まあ、いずれにしても、どうも最近の医療知識は、大企業ベースの何か間違ったバイアスがかかっている。

水飲みすぎるから、尿に大量に出て、ミネラルがどんどん尿に出て、体力消耗する。

だから、今度はどんどんサプリをとれということになる。

大量に飲むには、カロリーは落とさないとまずいから、アスパルテームだの、人工甘味料のカロリーゼロにしなければならなくなる。

が、これらは大量摂取すればするほど発がんし、金玉や卵巣をやられる。

馬鹿か?

無知は犯罪でござる。


ところで、がん細胞は熱に弱い。ある医学博士の話では、体温が36度台程度の熱になっていると、体のがんはできないという。

癌になりやすい人は体温が低く、35度台の人が大半だと。

それでもそういう人が体温を36度以上に高めれば、3ヶ月以内の末期のがんも消滅するというのである。

だから、結核の人は癌にならない。結核患者は微熱がある。夕方になるとかならず熱が出る。だから、がん細胞が死に絶える。


ということは、インフルエンザにかかれば体温は41度にもなる。しかも3日は寝込む。

ということは、タミフルやワクチン使って体温を35度台に保つよりは、へたをすれば長生きになるかもしれないわけだ。

つまり、たまにインフルで高熱にうなされたほうが体内のがん細胞除去できて良いかもしれないわけである。

この観点でいえば、今年の夏の暑さは、知らず知らずのうちに体内にがんが出来始めていた人には幸いだったかもしれないわけである。

これだけ暑ければ、体温もいつもより高温になる。つまり、がん細胞が死ぬ。

熱中症でがんが消えた!

こういう人もいるのではなかろうか?


何事にも一長一短ある。


せっかく体内の発がん阻止にはもっともいい条件の暑い夏。その暑い夏に冷えすぎたところばかりにいるよりは、多少汗びっしょりになり、適度に水分やミネラルを取りながら、しかもがん細胞の好物であるらしいブドウ糖を取らないようにすれば、がんを撲滅できるかもしれないわけである。

厚生労働省はこの統計をとれ!

熱中症と発がんとの負の関係である。


私がここ阿南にきた22年前、私の記憶ではいまよりずっと暑かったと思う。あるいは暖かかった。

3月末には半袖半パンで活動していた。

しかし、今年は7月まで半袖半パンになれなかった。

なぜだ?

地球温暖化?

馬鹿か?


無知は犯罪ですナ!


最近はあらゆることが、科学も含めて、すべての情報がだれかによりマニュピレートされている印象のある今日このごろである。

あるいは、単に我々が馬鹿になっただけか?




いやはや、世も末ですナ。






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by kikidoblog2 | 2018-08-01 15:58 | 個人メモ

最近の話題:「本田圭佑、武井壮の講演会」→「小我の中の蛙、大海を知れず」   

井の中の蛙、大海を知らず
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みなさん、こんにちは。

昨日は阿南の夏祭りの最終日。花火大会の日だった。

我が家も恒例の花火大会を見に行ったが、今年は昨年より盛大だった。若干、景気が良くなったのだろうか?

夏祭り
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牛岐城跡公園のLEDモニュメント
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花火
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いまだガラケー、普通の携帯を使っているのは我が家くらいのものだから、あまり写りは良くない。いまのスマホはこの1万倍の解像度がある。

携帯の写真は数百KB程度だから、普通のプリンターのA4の範囲内に入るが、スマホの映像は1MB以上あるから、新聞紙以上の大きさの紙がないと入らない。それほどの違いがあるようだ。


さて、昨夜はJリーグの神戸にイニエスタ選手がデビューし、サガン鳥栖にフェルナンド・トーレス選手がデビューした。

トーレス選手はあまり我が国ではクリスチャン・ロナウド選手ほど知名度が高くないが、実績や戦績では、ロナウド選手を遥かに上回っている偉大な選手である。すべてのカテゴリーで優勝経験のある稀な大選手である。

イニエスタ選手と同じスペイン代表として南アW杯優勝経験者だし、欧州選手権などなど多くの大会で優勝経験している。

いわゆる、勝者のメンタリティーを持つ選手の1人である。





ところで、そのフェルナンド・トーレス選手、昨年の試合で一度死にかけた。



不死身の男フェルナンド・トーレス。


今後のこの二人の活躍を期待したい。


さて、大分前置きが長くなってしまったが、本田圭佑選手と武井壮選手の二人の一般講演が結構興味深いものだったので、一応ここにもメモしておこう。以下のものである。

【武井壮の「大人の育て方」がマジ凄い!】オトナの学校 完全版


【講演】本田圭佑選手が生きていく上で大事にしている事とは



この二人に共通しているのは、

成長

という概念。成長することことの大切さを礼賛していることである。

まあ、人生の中盤に差し掛かりまだまだ成長できる年齢にあるからそういうふうに考えるのは実に自然である。

私自身も昔はそうだった。しかしながら、いまは必ずしも彼らの思うようには思っていない。


しかし、その年代年代で自分の意見や考えを皆の前にぶつけるというのは素晴らしいことだと思う。

聞いている人は結局その人に理解できる部分しか頭に残らないし、共感しないかぎり共有できるようにはならない。

そもそもその人に受け入れられるべき芽が育っていなければ、言葉として認識できないのである。

しかし、仮に聞いた人が話の内容は全く理解できなかったとしても、その時確かに本田圭佑の話を聞いた、武井壮の顔を見たというようなことは経験として残るだろう。

そして、それがいつの日か、ふとあのときの話はこういうことだったのではないかと何年も何年も経ってからわかるというようなことが起こる。

実はこれが大事なんですナ。

この上の講演会を見ていてもわかることは、一見日本人の若者は質問したり、反論したりせずに、静かに聞いているのかどうかすらわからないくらいに静かに聞いている。

おそらく欧米の若者ならもっと反論したり質問したり反応が賑やかだろう。

実は、これが一番大事なことで、日本人の良さでもある。

西洋文明の西洋人、そしてその文明圏に支配された植民地化された国民の国々では、静かに聞くことがあまりできない。

常に、それぞれに話の腰を折るようなことをする。

よくテレビのバラエティーで人の話やストーリーを聞きながら、

「へ〜〜」とか「それやっちゃまずい」とか、横から主観を入れてそれが自分の見識かのようにひけらかして自尊しているタレントさんがいるが、これが実は一番やっちゃいけないことなのである。

こういうのを

小我

と岡潔先生は呼んだ。

人間が一番注意しなければならないこと。

己のいまのちっぽけな頭で意見すること。

これをすると成長できないのである。

自分に与えられる場面における情報はほんの一部でしかない。だから、本当はもっと深い話やそれができてやっとわかってくる段階を踏まねばわからないというようなことがあるが、いつも聞いたそばからそのときの自分の自己中な思考で分析してしまうと、自分では分析しているつもりでも本当はチャンスを逃す結果になっているのだが、それが自分では真逆に理解してしまうというようなことが起きる。

岡潔先生は、こういうことに気をつけよとおっしゃった。


しかし、白人にはこれができない。

その都度、Why?なんで?って聞いてしまうのである。

だから、これをするかぎり先に進めない。

話の途中で「なんで?」「なに?」となってしまえば、もうそこから先の話は聞かないことになる。話の途中で「そんな馬鹿な」と思い込めば、もうその話は聞く意味を失い、集中して話を聞かない。

私が知る限り、これが西洋人の致命的欠点であると思う。

まあ、これをネタに登壇した厚切りジェーソンみたいな人間もいるが、彼らには本当のことは理解不能である。

理解する前にまず把握することが大事なのである。

その場面をそっくりそのまま俯瞰的に眺め記憶すること。

これはなかなかできない。

サッカーをみるときもそうで、一試合まるまるそっくりそのままフィルム映像に残すように眺める。無心である。

こうしておいて、あとであのときはこんなプレーがあったというふうに引っ張りだす。

どこかのプレーに痛く感銘してしまえば、もうその次のプレーは忘れる。欧米のスポーツキャスターがこれである。

だから、「ゴ〜〜〜〜〜ル」と叫べば、もうそのゴールシーンしか頭に残らない。3−0の試合なら、3得点のシーンしか記憶できない。


これが小我である。

小我を捨てること=素直であること=無心であること

これができる人だけが真の成長ができるのである。


なぜ武井壮選手がいまの武井壮になったか?

彼の話にあったとおり、その年代年代で無心で人の話を聞いたからである。

あの人はこういった。別の人はこういった。他の人はこうもいった。

こういうことを全部記憶した。

もしそこで、あああの人は偽物だ。聞く必要がない。ああ、別の人は変なやつだ。だから、無視無視。他の人も大したやつじゃね〜〜。こうやっていたら、その少年は武井壮にはならなかったはずである。たぶん、その辺の身体能力の高いヤンキーチンピラになったはずである。

成長という意味を、伸びるという言い方で捉えれば、伸びる子というのは共通して素直であるということがある。

この素直であるというのは、目上の指導者の立場から見た言い方だから、上の人から見れば素直に見えるという意味である。

つまり、変な反論したり、難癖つけたり、裏で愚痴こぼしたりしない。

上から見て素直に見えるということは、その人物からすれば、いったん「すべて受け入れてみる」ということである。

自分のその時の考えでは間違って見えることでや矛盾して見えることでも、受け入れてみるということである。

青森山田のサッカー部に入部したら、まずテストを受ける。1500m4分55秒以内で走るのである。さもなくば、ボールを蹴る練習をさせてもらえない。

普通の子、伸びない子は、これに憤慨する。「こんなテスト意味ね〜〜じゃん」とクレームをつけるだろう。

まだ自分がクリアできた子が言うならわかる。しかし、4分55秒以内で走れない子でもそういうふうにいって批判するものがかならず出る。

これが小我である。

まずはその関門なり、試験なり、課題なりを受け入れる。無心でやってみる。

最初はできなくてもできるまで頑張る。

こうやって一つ一つの階段をステップアップできるものが、本当に伸びる子、成長する人間なのである。

なぜ乾選手が伸び悩んだか?

それは乾はいつも裏で愚痴をこぼし、小我で生きてきたからである。これが乾選手の成長を遅らせた。

たまたま今度のロシア大会では、岡田前監督が乾選手の活躍を夢見で見たからバックボーンになってくれたから岡田と先輩後輩の昔のチームメートのよしみで乾選手をレギュラーにしたのである。

ハリルホジッチなら、乾選手は多分落選である。

もし乾選手が小我を持たず素直な選手であれば、もっと若くしてもっと早くもっと偉大な選手に育ったはずである。


人は自分を確立した瞬間に成長が止まるのである。

これだと思った瞬間に成長が止まる。

なんとも皮肉なものである。


言い換えれば、人は自分をこれが自分だと定義した瞬間に成長が止まるのである。

しかし、己は自分は成長の真っ只中にいると思っているわけだ。

いまの武井壮選手からみれば、直線のように突出した、昔の言い方でいえば、「片輪」の選手も、(ちなみに、「片輪」とは、片方の車輪しかない車」の意味であるが)、その本人は成長の真っ只中にいると思っているわけである。

いまの武井壮選手なら、100mの選手は直線状の才能ということになる。だから、いまの桐生選手は「それだけ」の人間ということになる。したがって、将来的には「それだけ」では困るということになると武井壮選手は考えるわけである。

しかし「一芸に秀でる」ということは、円の半径を広げたという意味もある。

だから、将来的には一芸に秀でた結果、それがのちのち別の分野において別の才能すら開花させることができるようになるということでもある。

まあ、人間の脳にはそういう意味の柔軟性や広がりがあるわけである。

一芸に秀でることは、万芸の真理につながるという面もあるわけである。


何事も根底、元はいっしょである。

武井壮選手も陸上という一芸に秀でることができたからこそ、やはりそのおかげで今があるわけであろう。

本田選手もサッカーという一芸に秀でた結果、その後の万物への応用が効くということを把握できたに違いないわけである。


実際、若者には、あるいは、人には一芸に秀でる程度しか時間がない。またてっとり早くいくにはそれしかない。

どんなことにもそれなりの普遍性が仕込まれている。すべては同じ人がすることだからである。


というようなわけで、あまり欲張らずに、まずは自分にあった、自分にできそうな範囲で、自分の好きなことで一芸に秀でる。これを目標にしたらよろしいのである。

そのためには、小我を持たず、いったんは置いておいて、素直に先人たちの声に耳を傾け、それを受け入れて励む。できるようになったら、次のステップで同じようにやってみる。

この繰り返しですナ。

これが日本人的修行のしかたである。

たとえば、こんなもの。






我が国の義務教育は、左翼思想の日教組の「小我教育」の成果で、鼻くそ坊主の小学生でも生意気に意見すべしというような教育をしてきたために、いまや日本の伝統の職人教育などについていけるものが育たなくなってしまったのである。

だから、いまや日本の職人分野は白人さんばかりになってしまったようである。

白人の方がむしろ日本人より(己の目的成就のためには)我を捨てることができるのである。


いやはや、日教組の「小我教育」の成れの果てが「ニート」である。

小我の壁を作り、自室に籠城した結果である。

知的小我の砦。小我の井戸。

小我を捨て去れば、外界を知ることができるのである。

小我の中の蛙、大海を知れず。



いやはや、世も末ですナ。








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by kikidoblog2 | 2018-07-23 11:50 | 個人メモ

昨日発掘救済した自転車は、Briller old classic type cruiserだった!?   

みなさん、こんにちは。

今回は個人メモに過ぎない。だから、スルーでよろしく。

さて、昨日もらった廃棄自転車のメモ。

さよなら宮脇書店阿南店!:アマゾンまた一つ阿南の本屋を潰す!

ロングハンドル、5段変速、太めのタイヤ
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この中で、ロングハンドルと書いた部分、どうやら自転車用語があり、

超アップハンドル
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と呼ぶらしい。

また、同じような自転車はあるのか?そもそもこの自転車はどこのなんていう自転車か、ネットでみると、どうもわからない。

そういう意味では、かなりレアものだったかもしれませんナ。

たしかにいままで見たことがない自転車だった。

ボディーにBrillerとあり、Old style Cruiserとあった。

そこで、ネットでこのワードや超アップハンドルを入れて検索すると、いや〜〜自転車っていろいろあるんですナ。みなさん、結構良い自転車乗っていますナア。

そんなものをいくつかメモしてこう。

まず「Brisller」の検索で出てきたもの。
Briller bicycles

(これが俺のものに一番近いナ)
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次に、「長いハンドルの自転車」で出てきたもの。
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あまりこの辺ではお見かけしないが、実に面白い自転車を乗っていますナア。感心感心。

今日から俺もその仲間入りだ。


ブリラーの超アップハンドルミディアムファットタイヤ5段変速自転車。

こんなものが、廃棄処分されて、スクラップになってしまうところだった。


最近の大学の貴重な文献の除籍処分の嵐も寒気がするが、大変な時代になったものですナ。

ところで、それは、やはり後ろから前から助平の元文科省事務次官が仕組んだんだろうか?




いやはや、世も末ですナ。




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by kikidoblog2 | 2018-04-13 09:14 | 個人メモ

ボブスレーのマネックス、コインチェックを買収!:絶対マネできないナア!?   

みなさん、こんにちは。

いや〜〜、これは何か面白い。そんなニュースを忘れないうちにメモしておこう。

だいぶ昔の拙ブログ1にこんなものをメモしていた。

「マネックス」と聞いたらボブスレー!?:ボブ戦友の松本大さん美女と結婚!?おめでとうございます!


ボブスレー日本代表のパイロット、エアレースで言えば、あの室屋義秀さんに匹敵するのが、鈴木寛選手。

この鈴木選手の所属会社が、マネックスなのである。


その社長さんがご結婚。

とまあ、そういうメモだった。


ところが、なんと今日のニュースが実に興味深い。これである。

マネックス、コインチェックの買収を正式発表。36億円で完全子会社化
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マネックスは、コインチェックの買収を発表した。36億円でコインチェックの全株式を取得し、完全子会社化する。

当社は、下記の通り、コインチェック株式会社(本社:東京都渋谷区、代表取締役社長:和田晃一良 以下、「コインチェック」)の全株式を取得することを本日決定いたしましたので、お知らせいたします。

1.背景および目的
当社は、MONEY の Y を一歩進めて X とした「MONEX」という社名が表す通り、一足先の未来におけるお金(MONEY)との付き合い方をデザインし、個人の投資・経済活動をサポートすることを企業理念として、オンライン証券業を中心に、最新技術を用いた金融サービスをグローバルに提供してまいりました。

当社では、個人とお金の付き合い方を大きく変える可能性がある次世代の技術・プラットフォームとして、ブロックチェーンや仮想通貨を認識しており、昨年 10 月からは、これらの技術を中心に当社グループを飛躍的に成長させるべく、「第二の創業」を掲げて、仮想通貨交換業への参入準備や仮想通貨研究所の設立など、この分野における取組みを進めてまいりました。

中でも、仮想通貨交換業は「第二の創業」において大きな役割を担う事業であることから、今般、当社は仮想通貨取引所の先駆者でもあるコインチェックの完全子会社化を決定したものです。
http://www.monexgroup.jp/jp/index.html


経営体制
代表取締役:勝屋敏彦
取締役:上田雅貴
取締役:松本大
社外取締役:久保利英明
社外取締役:玉木武至
監査役:長坂一可
監査役:郷原淳良
監査役:佐々木雅一

執行体制
社長執行役員:勝屋敏彦
執行役員:上田雅貴
執行役員:後藤浩
執行役員:三根公博
執行役員:和田晃一良
執行役員:大塚雄介

執行役員:木村幸夫



実はこの社長さんがまだかなり若手の頃、私といっしょに日本で最初にボブスレーに乗った人だったのである。

私の前の人。

私は最後尾でこの人の背中と尻にくっついた。

というより、社長が俺の股間に入ってきた。

俺の後ろは何もない。

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(最後尾が俺、その前がマネックス社長、その前がアウディ専門千葉自動車社長、一番前がパイロットの鈴木さん)


俺と接触した人は出世し幸せになる(らしい)伝説。


また一つ誕生したようですナ。


ところで、キンタマンこと、元ゴールドマン・サックスの人、金玉蔵氏。


この人の行くところ行くところ災害に見舞われるわ、潰れるわ。らしいヨ。


あの巨大証券、ゴールドマンサックスはサブプライムで倒産。

日本支社は東日本大震災でおじゃん。

御嶽山は大噴火で犠牲者多数。

かの偽学者スミルノフ学者に詐欺に合う。

ビットコインの本出せば、コインチェックでビットコイン盗まれる。


いわゆる持っていない人。というより、何か変なものを持っている人らしい。

自分で言っているらしいから、間違いなだろう。

要注意ですナ。


近づかないのが一番。

ヒカルランドは大丈夫だろうか?




しかし、そういう偽物こそ本物らしく見えるのがこの世界。



いやはや、世も末ですナ。





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by kikidoblog2 | 2018-04-06 16:14 | 個人メモ