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A Happy New Analog Tech!:「アナログのCDラジカセ」から「究極の3Dオンデマンド生産」まで!?   

みなさん、こんにちは。

そういえば、今春年始の大安売り出しで、前からいつか買おうかと思っていたアナログ仕様のCDラジカセを買ったのだった。

30年以上前のカセットテープを廃棄してしまうのはもったいないので、まだ聞けているうちはそれを聞くことにしよう。

また、昔の青春時代の研究テーマで論文や本を執筆するには、そういう研究を行っていた、あの青春時代、ユタソルトレーク時代を思い起こし、タイムスリップするのが一番脳をリセットできるのではないかと考えたからである。

それで、大分前からもし3000円くらいでCDラジカセが買えるなら買おうと思ったわけだ。

すると、年始早々、地元阿南のスーパーの大安売りで4000円台のものが3000円こっきりに値引きされた。それがこれだった。

そう、オーム電気のCDラジカセ。

CDラジカセ シルバー (RCD550ZS)
オーム電機 CDラジカセ シルバー RCD-550Z-S

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こういうアナログ機器を自作できるプラ模型があったら売れるのでは?


買って箱から出すと、なんと横幅20cm程度の実にミニCDラジカセだった。

このオーム電機というのは、オウム電気のように聞こえるから、かのオウム真理教時代にオウム組織と間違われて大変痛い思いをしてあやうく倒産の危機に陥ったようだ。

しかし、電気関連の周辺機器を地道に作成し残すという日本人的なやり方をやっている。

つまり、ローテクやオールドテクやアナログテクを大事に残そうとしているのである。


調べてみると、我が国でカセットやCDというアナログの記録媒体を聞けるように、再生できるようにしているメーカーは我が国のTEACとかSANSUIとかオーム電機くらいしかない。


遠い昔を思い出せば、私が米ユタ大に留学した時、私もずっとソニーのウォークマンを一つアメリカに持っていき、それを聞いていた。電卓はカシオのハンディーコンピュータ・プログラム式のものだった。

ずばり、カシオの関数電卓 CASIO FX-795Pだった。
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俺がほしいのはスマホではなく、スマート計算機である。つまり、スマコン。

当時ユタ大学でこれを持っていたのは俺ぐらいのもので、これを見たユタ大の学生たちは衝撃を受けていたものである。

しかし、当時すでにユタ大にはジョブズのマッキントッシュのパソコンが図書館のPCコーナーや研究室やいたるところに設置され始めていた。そこで米人学生たちが猛烈な勢いで文書を打ち込んでいた。

まだこの時代だった。
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私もこれを使わせてもらった。
しかし2,3年のうちにアップルIIの時代へと変わっていった。
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今年のハイネマン賞を受賞したビル・サザーランド博士もこのアップルIIを使って論文を書いていたのだった。確か甲元眞人先生が獲得した研究費で買ったものを2人で共用していたのだったと思う。

私がPh D Thesisを書いたときは、近所の生物学部のアップルIIがだれも使っていないことに目をつけ、一人独占して書かせてもらっていた。そこに非常に良い生物学教授がいて、私の論文内容に目を通したところ面白いと思ってくれたようで、自由に使っていいよと親切に許可してくれたのだった。本来なら他学部の院生は自分の学部のパソコンや図書館のパソコンを使うべきだったのだ。

なかなか我が国の教授や図書館の司書でこういう感じの人は少ない。たいていは体よくお断りされるのが常である。

一方、当時の我が国内では論文はIBMの電動タイプライターで作っていた。PCはあくまで大型計算機のための「端末」の扱いだった。たしか当時一番すぐれたPCを作っていたのは、シャープだったのではないか?

NECや富士通はいわゆるIBMのユニックス対応の「端末」を作っていただけで、ひどく使いにくいPCだった。私は一気にそれが嫌で苦痛になりPCからは疎遠になった、つまり、物理理論の電子計算が面倒になったのだが、アメリカに行ってマックと出会ってBASICを使って数値計算できたから、非常にありがたかったのである。

ちなみに、上のカシオの関数電卓はBASIC計算できるすぐれものだった。

この時代は我が国の半導体メーカーが世界を席巻していたのである。

あれから40年。

いまや我が国は、台湾、韓国、支那中国に大逆転されてしまったわけである。

が、当時私の入った寮の同室者は台湾人の工学部生だった。彼は私の持っていたカシオを見て非常にインパクトを受けたどころか、カバンの中から、まったく同じものを取り出してきて、僕も持っているよと言ってきたのだった。

この時すでに台湾人は追いつけ追い越せ日本でやっていたのかもしれないですナ。

そして、ついにシャープが台湾企業になってしまった。


ところで、いまのチャイナのハイテク産業の指南役は実は台湾である。

台湾で始まり、それをメインランドチャイナの工場で大量生産する。それを全世界に配り、世界支配する。

要するに、台湾に渡ったチャイナ人華僑が本国の発展、工業化、企業化を手助けしたのである。


かつて私が新型の折り畳み傘の特許を申請した頃、もはや我が国でその特許通りに作成できる企業は衰退してなくなっていた。すべての傘は台湾製である。たしかフータイとかいう会社だったと思う。

そこの社長に直談判したが、彼は俺にこういった。

「日本の傘メーカーを全部潰したのはこの俺だ。いま俺の会社は中国に工場を持っている。1日1人1本の傘を作ったとしても、1万人働ける。だから、日本は勝てないよ。」

我が国では、傘の布地の張替えしかできず、本体であるフレームはすべて台湾製である。

私は、かつての貧乏サムライが和傘を作ってしのぎを得たように、新型の傘フレームを発明し、しのごうとしたわけだが、かつての大阪東岸和田の傘フレームメーカーもすべて潰れたのであった。

もっともいまでは3Dプリンターが出てきたから、これからはオンデマンドで作って売ることもできるわけだ。

オリジナルのデザインさえできれば、それを3Dプリンターでフレーム製作する。

オンデマンド生産である。


我が国が生き延びる方向はこれしかないだろう。

オンデマンドでCDラジカセであろうが、PCであろうが、自動車であろうが、UFOであろうが、何でも作り出すのだ。


歩留まり勝負の大量生産大量消費の時代は古い。


インテルインサイドのCPUであろうが、オンデマンドで3Dプリンターで作り出す。ミクロのPCであろうがオンデマンドで作り出す。

きっといつかそういう時代が来るだろう。


考えてみれば、我々人間が一番オンデマンド生産物なのである。

愛する女と結婚し合体さえすれば、自然に子ができる。

まさにオンデマンドである。


だから、究極のオンデマンドとは、この自然界を真似ることなのである。自然そのものになることなのかもしれない。


かのユリ・ゲラ―は、オンデマンド生産どころか、オンデマンドで物体を取り出せるという。

金がほしいと思えば、ポンとお金が必要な分だけ、空中から飛び出すんだとか。

この意味では、オンデマンドと馬鹿にできない。


一心岩をも通す!

一念奮起してオンデマンドを念じれば、それがオンデマンドで現れ出る(かもしれない)というわけですナ。


俺なんぞ、チャイナとコリアはオンデマンドで消し去りたいがナ。



いやはや、世も末ですナ。





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by kikidoblog2 | 2019-01-11 08:48 | 個人メモ

今年最も記憶に残った出来事やお話は!?:やはりロシアW杯でしょうナア!?   

ロシアW杯
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みなさん、こんにちは。

今年もあと1日と数時間。いかがなる年だっただろうか?

今年も地震やら熱波やら台風やらさまざまなものがあった。が、幸い我が家はなんとか生き延びることができた。

(あ)まず第一は、やはりサッカーマンだった私としては、もっとも記憶に残る出来事といえば、ロシアW杯だろう。

ロシアW杯閉幕:優勝仏4−2クロアチア、3位ベルギー2−0英→ハリルホジッチは正しかった!?

あの痛恨のベルギー戦の9秒カウンターである。

ハリルホジッチ監督を追放した西野監督が自らハリルの主張した近代サッカーの定石となった瞬殺カウンター戦法で敗退するという屈辱の敗退劇であった。

ロシアW杯番外編:「真夏の夜の夢」→「良い夢をありがとう!」「君たちは永遠だ!」
ロシアW杯番外編:「柴崎と共に去りぬ」→「西野の夏は柴崎交代とともに終わった!」
ロシアW杯:決勝Tブラジル2−0メキシコ、日本2−3ベルギー→西野ジャパン、ボンヘッドで泣く!?

このロシアW杯後西野朗監督は勇退し森保監督に替わったが、選手は大半はいまだそのまま居座る形になった。日本代表の疫病神の吉田麻也はまだそのままだし、すでに最盛期を超えた長友もまだレギュラーである。やはり本来は全員新人でAFLを戦うべきだろう。

(い)第二は久しぶりに講演会で講演したことだろうか。これは8月3日に豊田市に出向いて、8月4日に講演したものだが、私とセットになったのはあの保江邦夫博士だった。

この講演では前のヒカルランドの講演のときと同じような放電実験をしたのだが、我が家でその旅に出かける前に自宅でデモしたのだが、その装置で感電し危うく感電死するところだった。幸い片方の指だけの接触で助かった。かなり心臓にダメージを食らい、当初は講演ではデモを取りやめにしたほうが良いかと思うほどだったが、味噌汁を飲んで復活したのは記憶に新しい。

というわけで、無事になんとかご要望の講演会を終了することができた。

「講演会の顛末記」:講演会お疲れ様でした!ありがとうございました!サムハラ神社のご利益か!?
保江先生「龍神を目覚させる!?」:気仙沼の龍神が台風をやっつけたのか!?


(う)第三番目は、秋の台風で我が家の光ファイバーが遮断されたことだろう。

アイムバック!:光ファイバー通信は意外に脆かった!?



(え)第四番目はやはりずっと前から予定していたことが直前の状況変化でいくつかキャンセルになったことだろう。

新居浜高専で物理を教える話は去年からほぼ決まった話で、今春に予定も組んでいたことだが、行く直前の9月末になって相手側に台風による被害が出たために、私の宿泊予定地が変更された。その結果、最初の条件が変更されてしまい、結局キャンセルせざるを得ない不測の事態が起こったのである。これは非常に期待していたのでとても残念だったが、教えに行けば行くほどこちらの自腹が増え、赤字がかさむという金銭的に不利な不合理な条件では実現できなかったのである。

また別の名古屋の講演もせっかく招待されたのだが、直前に示された講演タイトルが私の構想とは全く違ったものとなって、それもキャンセルせざるを得なかった。いずれにせよ、こういう不測の事態は私の人生では初めてだった。

まあ、最近はそういう不測の事態に対しては、それはある意味で「神様の知らせ」として無理強いせずすっぱりと諦めることにしている。相手方にもご迷惑をおかけする形になったと思うが、それは「縁がなかった」ということであろうと考えることにしている。

というわけで、やはり今年も「できることはできるうちにやれ」という鉄則が生きたと言えるだろう。さもないと、偶然の出来事により、後回しにしたことはできなくなるという可能性が高い。

これはある意味では「来年のことをいうと鬼が笑う」というのと似たようなことだろう。

(お)さて最後に学術的には、かなりしんみりした年だった。特に論文も本も出版することはなかったが、私自身の進歩という意味では、かなりの進展が起こった利であると思う。杉田元宜先生の業績の中で多くのいい意味での問題点を発見しさらなる拡張すべき問題が見つかったり、生命の原理に関するもっとも大きなアイデアが見つかったりとまだ公表するには足りないけれども次への一手になるべき着眼点が見つかったことは大きいと思っている。

一方、やはり私の個人的性格上、講演などを行うと、どうしてもそこでの人との交流によってかなり大きな影響をうけてしまう、その結果としてそれの講演前までに行っていた研究が大きく停滞してしまうという事情がまた起こってしまった。

一時に一事。されど完璧に

のヒルベルト主義者である私はやはりそれを貫かないとあまりうまくいかないようだ。



いやはや、世も末ですナ。




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by kikidoblog2 | 2018-12-30 18:39 | 個人メモ

起業成功は20年、科学成功は50年:はたして企業家は科学者を理解可能か?   

みなさん、こんにちは。

さて今回は個人的メモ。あるいは、個人的妄想のたぐいである。興味ない人はスルーでお願い。


最近たまに考えることにこんなことがある。

もし社会的に起業し、企業家として成功するのに何年かかれば人はそれにチャレンジするか?

これは人の一生の寿命と密接に関係しているはずであろう。

まずは人の人生が50年だったとしてみよう。生物学的には人が大人になる年数は10数年。一応15年としておこう。

この場合、人の生育期間の15年差し引いて、35年がリミットになろう。

つまり、社会的に成功した途端にすぐ死ぬのであれば、35年かかってもよいが、多少成功の余韻の余生を送りたければ、すくなくとも20年から25年で成功しなければならない。

もし寿命が80年であれば、上の見積もりにプラス30年できる。つまり、50年から55年で成功すればいいということになる。そうすれば、うまく成功した場合、余生を満足して死ぬことができるだろう。


つまり、厳しくみると、せいぜい人は20年で自分の起業を成功させ、大企業に育成できなければなならない。そういうことになる。

もし社会的成功には100年かかるとすれば、自分の死後に自分の生前の仕事の結果が評価されることになるわけだ。

はたして、こういう場合に人は起業にチャレンジするか?

逆に起業してすぐに成功できるとすると、人はすぐにそれに挑戦するだろうか?俺なら簡単すぎて興味を失う。

だから、やはり人生のモニュメントとしての成功ということがあるとすれば、人はそれには適当な年数を必要とするのである。


さて、この観点から実際に成功した人たちを見てみよう。


(あ)まずアップルのジョブズの場合。
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1976年、スティーブ・ウォズニアックと共に初期のホームコンピュータ「Apple I」、その後「Apple II」を開発した。Apple IIは大成功を収め、自宅からスタートしたアップル社は、シリコンバレーを代表する企業としてサクセスストーリーを築いた。1980年の株式公開時に2億ドルもの巨額を手中にし、25歳でフォーブスの長者番付、27歳でタイムの表紙を飾った。

1984年に発売した「Macintosh」が搭載したグラフィカルユーザインターフェースは当時のあらゆるパソコンを凌駕する洗練されたもので、新たなコンピュータ像を創造した。しかし、本人の立ち居振舞いが社内を混乱させたとして役職を解任され閑職へ追いやられた為、1985年にアップルを辞めた[5]。

アップル退職後、ルーカスフィルムのコンピュータ・アニメーション部門を買収して、ピクサー・アニメーション・スタジオを設立。また、自ら創立したNeXT Computerで、NeXTワークステーション (NeXTcube, NeXTstation) とオペレーティングシステム (OS) NEXTSTEPを開発した。

1996年、業績不振に陥っていたアップル社にNeXTを売却すると同時に復帰、1997年には、iCEO(暫定CEO、Interim CEOの略)となる。同年には、不倶戴天のライバルとさえされていたマイクロソフトとの提携と、同社からの支援を得ることに成功し、また社内ではリストラを進めてアップル社の業績を向上させた。
WWDC07でのスティーブ・ジョブズ

2000年、正式にCEOに就任。2001年から2003年にかけてMacintoshのOSをNeXTの技術を基盤としたMac OS Xへと切り替える。その後はiPod・iPhone・iPadといった一連の製品群を軸に、アップル社の業務範囲を従来のパソコンからデジタル家電とメディア配信事業へと拡大させた。

CEOに就任して以来、基本給与として、年1米ドルしか受け取っていなかったことで有名であり[6](実質的には無給与であるが、この1ドルという額は、居住地のカルフォルニア州法により、社会保障番号を受けるために給与証明が必要なことによる)、このため「世界で最も給与の安い最高経営責任者」と呼ばれた。しかし、無報酬ではなくアップルから莫大なストックオプションやビジネスジェット機などを得ている[7]。2006年に、ピクサーをディズニーが買収したことにより、ディズニーの個人筆頭株主となり、同社の役員に就任したが、ディズニーからの役員報酬は辞退していた。


彼が起業したのは1976年。それから10年ほどでかなりの有力ベンチャーになり、一時は追放されたが、また出戻りし、2000年には世界のアップルとなった。皆の周知の事実である。

つまり、世界の大企業になるまでおよそ24年かかったのである。たったの24年だよ。


(い)さて、今度は我が国の在日韓国人の孫正義のソフトバンクの場合。
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1977年にカリフォルニア大学バークレー校経済学部の3年生に編入。さらに1979年、シャープに自動翻訳機を売り込んで得た資金1億円を元手に[7]、米国でソフトウェア開発会社の「Unison World」を設立。インベーダーゲーム機を日本から輸入。結婚。1980年にカリフォルニア大学バークレー校を卒業。学位は、経済学士。日本へ帰国後、会社を設立するために福岡市博多区雑餉隈に事務所を構えた。
実業家

1981年、福岡市博多区に事務所を移し、コンピュータ卸売事業の「ユニソン・ワールド」を、そして福岡県大野城市に「日本ソフトバンク」を設立。1983年における慢性肝炎での入院をきっかけに社長職を退き会長へ。この時、「お金じゃ無い、地位や名誉でもない、ばあちゃんがやっていたような、人に喜んでもらえることに、貢献できたら幸せだ。どこか、名前も知らない、小さな女の子に“ありがとう”と言ってもらえるような、そんな仕事がしたい」と思い、今に至る。「おばあちゃんは、いつも、人さまのお陰だ、と言っていたことから、人を恨んだりしてはいけない」とも語っている。その後、1986年をもって社長職に復帰、パソナの南部靖之、エイチ・アイ・エスの澤田秀雄とともにベンチャー三銃士と称された[8]。1990年をもって日本に帰化。

1990年、ソフトバンク株式会社に社名変更。

1994年にソフトバンク株式会社の株式を店頭公開。

1996年には米ヤフーとソフトバンクの合弁でヤフー株式会社を設立。

同年、衛星放送プラットフォームの運営会社としてジェイ・スカイ・ビー(JスカイB)をルパート・マードックのニューズ・コーポレーションと折半出資により設立、マードックが会長、自らは社長に就任。この際、旺文社より全国朝日放送(現テレビ朝日ホールディングス)の株式21%を取得するも、翌1997年3月に当時第3位株主だった朝日新聞社に全株式を譲渡して撤退。JスカイBは1997年にソニーとフジテレビジョン(現フジ・メディア・ホールディングス)がイコールパートナーとして資本参加した。

1998年にはパーフェクTV!を運営する日本デジタル放送サービス(現スカパーJSAT)と合併、スカイパーフェクTV!(スカパー!)として放送を開始した。

1999年、証券市場の開設を企図し米国のナスダック・ストック・マーケットとソフトバンク株式会社が共同出資しナスダック・ジャパンプランニング株式会社を設立。翌2000年には大阪証券取引所とナスダック・ジャパンプランニング株式会社にてナスダック・ジャパン市場を開始。

ソフトバンク株式会社が東京海上火災保険、オリックスとともに、日本債券信用銀行(現あおぞら銀行)の株式を取得。取締役に就任した。

NTTドコモの第一期アドバイザリーボードのメンバーを1年程務める[注 1]。

2001年からヤフー株式会社と共同でADSL接続サービスのYahoo! BBの提供を開始。以降、それまでのPCソフト卸、PC出版から通信に本業の軸足を移す。

2002年、ナスダック・ジャパン株式会社が業務を停止。大阪証券取引所によりヘラクレスとして改組された。

2003年にあおぞら銀行の株式をサーベラス・キャピタル・マネジメント社に売却。

2004年には日本テレコム株式会社を買収し、同社代表取締役会長に就任。2006年10月には同社の代表取締役社長に就任した。

さらに福岡ダイエーホークスと福岡ドームをダイエーから買収し、福岡ソフトバンクホークスのオーナーに就任。

続けてボーダフォン株式会社(現ソフトバンク株式会社)を買収し、同社代表執行役社長兼CEOに就任した。

2011年に東日本大震災が発生すると、義援金として個人で100億円および2011年から引退するまでソフトバンクグループ代表として受け取る報酬の全額を寄付することを表明し2011年7月14日100億円の寄付が終了した[10]。さらに福島第一原子力発電所事故を受け、自然エネルギー財団を設立[11][12]。『東日本大震災復興支援財団』を6月に設立[13]。

2015年4月1日、ソフトバンクモバイルの代表執行役社長から代表取締役会長に異動した(ソフトバンクモバイルは、同時に、ソフトバンクBB、ソフトバンクテレコム、ワイモバイルの3社を吸収合併)[14]。

2017年には海外の大物経営者が名を連ねている中国の清華大学経済管理学院顧問委員の一人となった[15][16]。
2017年12月14日、MLS参入を目指すデビッド・ベッカムの投資家グループへの参加が承認された。


1990年にソフトバンク設立。2004年にはすでに大企業として君臨し、プロ野球を買った。だから、この場合は、14年かかったことになる。それからさらに10年後のいまは何兆円産業に変わった2015年としても、25年かかったことになる。

したがって、ソフトバンクの孫正義の場合も25年以内に世界企業に成長できたということになる。


(う)楽天の三木谷浩史の場合。
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1995年

1月17日 阪神・淡路大震災で故郷の神戸が瓦礫の山と化し、敬愛していた叔父叔母を失ったことが人生観に大きな影響を与えた。間もなく起業を決意。
11月 日本興業銀行を退職、コンサルティング会社のクリムゾングループを設立。慶大院卒の新卒者だった本城愼之介と2人だけの起業であった。

1996年

2月 株式会社クリムゾングループ代表取締役社長。

1997年

2月7日 クリムゾングループで稼いだ6000万円を元手に、株式会社エム・ディー・エム(現・楽天)を設立。

2002年

アメリカの経済誌『フォーチュン誌』の若手富豪ランキング6位に選ばれる。この当時から3000億円近い資産を有していた。
5月 株式会社ネクスト取締役
6月26日 カルチュア・コンビニエンス・クラブ取締役
8月 楽天トラベル株式会社代表取締役

2003年

「神戸に社会貢献したい」と、発足当時から赤字が続くJリーグ・ヴィッセル神戸を、クリムゾングループを通じて買収し、プロスポーツチームのオーナーとなった。
ディーエルジェイディレクト・エスエフジー証券(現楽天証券)会長。
10月 マイトリップ・ネット株式会社(後に楽天トラベルに吸収合併) 会長。

2004年 日本イノベーター大賞受賞。

1月 株式会社クリムゾンフットボールクラブ代表取締役
9月 株式会社あおぞらカード(現楽天カード株式会社)代表取締役会長。
ライブドアに続いて、プロ野球への新規参入を意思表明する。株式会社楽天野球団(球団名は東北楽天ゴールデンイーグルス)を設立し、本拠地を仙台市に置くことを決める。
11月2日 プロ野球オーナー会議の最終審査でライブドアとの競争に勝ち、楽天野球団の参入が正式承認されプロ野球球団のオーナーとなった。プロ野球とJリーグのオーナーを務めたのは三木谷社長が初である。

2005年

6月 国内信販株式会社(現KCカード株式会社)会長。
10月 経済産業省産業構造審議会商務情報政策基本問題小委員会委員[11]。
11月 東京オリンピック基本構想懇談会委員[12]。

2006年

3月 楽天ブックス会長。
4月 株式会社クリムゾンフットボールクラブ代表取締役会長。
9月 楽天証券ホールディングス株式会社 会長。

2007年

8月10日 楽天が傘下に収めることとなったフュージョン・コミュニケーションズ代表取締役社長兼執行責任者に就任した。
11月1日 フュージョン・コミュニケーションズ代表取締役会長となる。

2008年

1月1日付けで球団オーナー職を退き、株式会社楽天野球団取締役会長に就任した。ヴィッセル神戸のオーナーは継続している。
6月25日 楽天KC取締役。
9月29日 イーバンク銀行(現楽天銀行)株式会社取締役会長に就任する。
フォーブス誌の日本人富豪ランキング8位にランクイン、38億ドル(約4000億円)保有していると報じられた。

2009年

フォーブス誌の日本人富豪ランキング7位にランクイン、36億ドル(約3384億円)保有していると報じられた。
2月 厚生労働省医薬品新販売制度の円滑施行に関する検討会委員[13]。
財団法人東京フィルハーモニー交響楽団の理事に就任[14]。
10月15日 日本ソムリエ協会からソムリエ・ドヌール(名誉ソムリエ)の認定を受ける[15]。

2010年

フォーブス誌の日本人富豪ランキング6位にランクイン、47億ドル(約4277億円)保有していると報じられた。
1月21日 ビットワレット株式会社代表取締役社長就任[16]。
2月 一般社団法人eビジネス推進連合会会長。
7月 企業家大賞受賞[17]。
8月 ビットワレット株式会社代表取締役会長に就任する。

2011年

3月 東日本大震災発生時、三木谷社長自身が阪神・淡路大震災の影響を受けた経緯から推定10億円もの義援金を寄付したと報じられた。なお、東日本大震災の日(3月11日)は奇しくも三木谷社長の誕生日でもあった。
6月 日本経団連を脱退。
10月 財団法人東京フィルハーモニー交響楽団理事長。

2012年 ハーバード大学経営大学院卒業生功績賞受賞(史上最年少)[18][19]

1月 コボ社取締役に就任。
6月 一般社団法人新経済連盟代表理事。
7月 公益社団法人経済同友会教育改革による国際競争力強化プロジェクト・チーム委員長[20]。
8月1日付で東北楽天ゴールデンイーグルス球団会長から会長兼オーナーへ再就任[21]。

2013年1月 内閣日本経済再生本部産業競争力会議メンバー(第2次安倍内閣)
2014年 フォーブスでアジアの慈善事業家として日本人では3人、福武總一郎、花沢菊香とともに選ばれる[22]。

1月 フランス共和国外務省でローラン・ファビウス外務大臣よりレジオンドヌール勲章シュバリエを受けた[23]。
2月 文部科学省英語教育の在り方に関する有識者会議委員[24]。
6月 公益財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会顧問[25]。
12月 経済界大賞受賞[26]。

2015年3月 Lyft, Inc. Director。
2017年

2月 Aspyrian Therapeutics, Inc.取締役会長[27]。
11月 アンリルクセンブルク大公よりメリット勲章を受けた[28]。

2018年

6月 紺綬褒章受章[29]。


先日NHKのファミリーヒストリーがこの三木谷浩史だったが、彼は100%日本人だった。先祖代々神戸。母方の祖先が、徳川家康の家臣、本多忠勝であった。

この三木谷もインターネットが我が国に誕生した1996年にネットショップに思い切り、それから2008年には社会的に大成功してプロ野球のオーナーになった。そして、今年2018年はヴィッセル神戸にイニエスタを投入。話題をさらった。つまり、成功までに要した年数は、12年から22年というところである。


これら3人の場合だけではなく、調べればわかると思うが、終戦後の日本で新聞で成功したり、60年代のテレビの発明でテレビで成功したり、松下電器、ソニー、ホンダ、トヨタ、などなど、こういう企業の成功を調べると、その創業者が本格的に起業してだいたい20年前後で大企業になっているのである。これは他国でもだいたい同じである。

だから、起業して成功するまでに20年。これが人が成功を勝ち取るためにかかる年数だと考えられる。


もしこれが40年以上なら、成功した頃にはよぼよぼの爺婆となる。逆にこれが数年未満なら、人は簡単すぎて成功したとはみなさないだろう。

しかるに、我々の科学者の場合はどうか?

実は故和達三樹博士が生前、最後の最終レクチャーで言っていたことだが、やはり科学者の世界にも似たような事情が存在する。

非線形波動の和達三樹博士ご逝去:「独創的な生活と平凡な研究よりは独創的な研究と平凡な生活を」
私の物性基礎論・統計力学-研究者として、教育者として-(和達三樹最終講義)

研究は、

はじめはMinorityの方がよい

(ずっとMinorityではちょっとまずい)

自分の研究成果は、今はまだ認められていないが、
100年後は必ず認められて主流になっているはずだ。
というようなことを言う人がいますが、
100年後にはあなたもいないし私もいないし、
そんなこと私に言われても困ります。
自分が生きているうちに主流になれるに越したことはない。


つまり、ノーベル賞やそれに似た大きな賞や表彰をもらうことが成功の証だとすれば、それまでにどれほどかかるかの年数が存在するはずである。

つまり、研究の最初はマイノリティー=ベンチャーが良いが、生きているうちに豊かな生活を手に入れ、人様から称賛されるものがいい、ということである。さもなくば貧しく悲惨だという裏返しである。いまの俺のようなものだヨ。

研究者の場合、それは社会的気運というものもあるが、選ぶべき問題による。

いきなりリーマン予想を最初に選べば、それで人生が終わる可能性も高い。事実、そうなってしまった人々は数え切れないほどいたわけだ。

適度に難しく、適度にマイノリティーで、適度に認知される問題、こういう問題を解決し、それが自分が年取るのに合わせて世界で有名になり人々の周知の事実になっていく。

私の恩師のビル・サザーランドのカロゲロ-サザーランド・モデル(1972)の研究などがこういう事例である。それでも認知されて名がつくまで25年。賞を取るまで47年かかった。

成功までに30年40年とかかると、その人がすでにこの世にいないという場合もありえる。マックスウェルもヘルツもリーマンも40台でお亡くなりになった。ガロアは20歳である。まあ、ガロアの場合は自分は決闘で死ぬことがわかっていたから自業自得だったが、自分の研究の評価が上がるとは理解しなかったにちがいない。

精神的に不調になり、自殺でなくなった事例も多い。ボルツマン、マヨラナ、ハバード、。。。などなど、名前は教科書に残るが、だれもその人のことをよく知らないというような人も結構いるのである。


人が企業を起こし、人が研究を行う。

だとすれば、そこには自ずと成功の年数が必要になる。

こういう世間ずれした観点からすれば、100年の問題に挑戦するというのは本当に勇気がいることである。

逆の観点からすれば、昔が良かったのは、こういうことをすることを支援する教会や修道院があったからである。メンデルの法則を発見したメンデルは修道院の僧侶だった。

いまはそういうものがない。

企業家はせいぜい20年の成功者だから、こういう企業家が自分の成功体験から物言うとすれば、彼らは人にも同じことを希望するにちがいない。だから、いまの成功者が科学者に文句言う場合、かなり近視眼的にならざるを得ないはずである。

ジョブズも孫も三木谷もみな20年成功者だからだ。

しかし研究の世界はやはり世紀の発見をしたいわけだ。この世界の根本を変えたいわけである。

はたして世界の20年選手たちに100年選手、1000年選手の思いが理解可能なのか?


とまあ、最近俺はよくこんなことを考えるようになったわけですナ。理由はわからないがネ。



いやはや、世も末ですナ。






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by kikidoblog2 | 2018-12-22 14:04 | 個人メモ

E.B.スタリコフさんの新著発見!?:なんと彼もインデペンデントフリーランス科学者になっていた!?   

Seht, hier kann man keine Furcht mehr tragen,
selbst das Fragen haben wir verbannt,
Nur wer gläubig bleibt in solchen Tagen
hält dem gnadenlosen Schicksal stand!

See, here you can no longer bear fear
even the questions we have banished,
Only those who believe in such days
holds the merciless destiny!

見よ、
ここで君はもはや恐れることは何もない
私たちが追放した疑問さえも。
そのような恐れの日々を信じる人たちのみ
無慈悲な運命を保持するのだ!
ーーユーゲニ・B・スタリコフ
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みなさん、こんにちは。

今回はちょっと個人メモと宣伝。

なんとユージン・B・スタリコフ博士が、俺と同じような「インデペンデント科学者」になっていた!

かの博士のResearch gateを発見したら、そうなっていたのだった。今回はこれに関してメモしておこう。


私の論文から派生して海外で博士になった人という貴重な人も2,3人いるんだが、インド人とか、イラン人とか。

だから、インドの物理学者の博士論文の審査員の5人の1人に入ったという希少経験もある。


日本人はおろかほとんど付き合いなく、フリーで研究している身からすると、海外の知人も極めて乏しい。

しかし、ユージン・B・スタリコフ博士とは、10数年ほど前に知り合ってから、今日まで物理学上の親友の一人になっている。

彼はウクライナ系のユダヤ人なのだが、まあ、俺が偽ユダヤ人と呼ぶ人たちの出身に入るが、実に研究熱心な人で、真の科学者の一人である。

チェルノブイリの原子炉爆発事故のために、やむなくウクライナからドイツに逃げたという人である。

その後、スウェーデンとか、ドイツとかを転々と職場を変え、最近までドイツの自動車メーカー関連会社で勤務しながら、物理化学の研究を行っていた。

とまあ、昨年(2017年2月)に我が家に来たときには、そういう事情だったと思う。
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しかし今日たまたま彼が出版するぞと言っていた本がいつ出版されるのかと思っていたら、偶然Research gateというサイトに彼の研究所が存在したわけだ。これである。

Evgeni B. Starikov
Chalmers University of Technology · Research Area of Physical Chemistry
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10数年前までは特にDNA伝導の研究をやっていたのだが、だからその頃私も同じ問題をテーマに研究したから、彼と知り合いになったわけだ。

私がそれから足を洗って、不可逆過程の熱力学、そして、生命の熱力学、そして杉田元宜の過渡的現象の熱力学へと変遷する中、彼もまた熱力学へと研究がシフトしていたのである。

いわゆる共時性というやつですナ。


しかしユダヤ人は言語の天才である。

あっという間に日本語まで読み書きできるレベルになっていた。いつしか日本語でメールを書いてくるのである。

ロシア語、英語、ドイツ語、スウェーデン語、。。。、日本語


いやはや、言語脳は我々の想像を絶する。


そんなスタリコフ博士の最新書がこれだ。来年のこどもの日に販売予定らしい。

A Different Thermodynamics and its True Heroes
アマゾンA Different Thermodynamics and its True Heroes (英語) ハードカバー – 2019/5/5

Description

The first and foremost general purpose of publishing such a book would be to pay the due tribute to the colleagues, whose results in the field are undoubtedly seminal, but they were and still are remaining ‘widely unknown’. Therefore, first of all, the book presents in detail the life stories of the colleagues. Moreover, learning about the combination of the contributions by all of the book’s protagonists might help motivated young researchers in their work on finally building up the logically consistent field of thermodynamics. It looks like the very first thermodynamics’ book of such a kind.

Readership

Students at any imaginable level, researchers (both academic and industrial ones). The last but not the least: A general readership interested in the History and Philosophy of Scientific Research.


この本は熱力学の教科書には普通には載っていない、本流とは異なる思想で本質的な研究を行った、真の熱力学の科学者たちの歴史とその研究の集大成の本である。

私はこの本ができ始めの頃から分厚い原稿をもらっている。あまりに分厚すぎて読みこなせないほどであった。だから、積読入りだった。すまん。

しかしながら、私の影響もあってか、もしこの出版版が私が頂いた原稿と同じものだとすれば、杉田元宜博士の一節も入っているはずである。また杉田博士の研究を紹介した私の英語論文(大作5Mバイト)
Motoyosi Sugita—A “Widely Unknown” Japanese Thermodynamicist Who Explored the 4th Law of Thermodynamics for Creation of the Theory of Life
も引用されて入っているはずである。なかったら残念。


乞うご期待!

ぜひ若い学生諸君は、こういう熱力学の教科書を読んで勉強すべきである。


すべての分野で行き詰まり感のある現代科学では、やはりどこかに大きな誤謬が潜んでそうなったはずだ。

だとしたら、袋小路に入った場所から元きた場所に戻り、新たなる正しい道を発見しなければ前進できないのである。

この哲学を我々だけは共有してきたわけである。


いまある教科書的な内容だけで満足するな!


電磁気学も熱力学も力学も相対論も量子力学も。。。なんでもかんでも、見方を変える。別の行き方があるということを発見しておくべきなのだ。

電磁気なら、ファラデー、マックスウェルまで遡る。

熱力学なら、カルノー、クラウジウスまで遡る。

力学なら、ニュートン、ホイヘンスまで遡る。

相対論なら、マックスウェル、ローレンツ、ミンコフスキー、ヘビサイド、ギッブス、アインシュタインまで遡る。

量子力学なら、ケルビン、ラザフォード、ボーアまで遡る。あるいは、ハイゼンベルク、シュレーディンガーまで遡る。

保江邦夫博士は、量子力学でこれを忠実に行ったといえるだろう。

そろそろこれまでの現代科学を抜本的に刷新する時期に入ったと俺は思う。


少年よ、大志を抱け!



しかしながら、今の教育制度は、既成概念の受け売りや固定概念化に血の税金を使いまくるだけ。

いまの研究機関は、既成概念や固定概念に基づいて結果を出すだけ。

これでは本質的な進歩も進化もない。


だから、一度前に戻り、その時代背景をさぐり、どうして昔の科学者はそう結論したのかを調べなおす必要がある。そのときに何か囚われた信条のようなものや政治的事情が入り込んでいなかったかを見つめ直すべきなのだ。

そうして初めて本当の理論化のアプローチが分かるのである。とまあ、俺はそう信じているわけですナ。最近はヨ。

そしてどんな権威にも屈せずそうするのが真の科学者だと定義すれば、

そうなると、どうしても真の科学者であろうとすれば、

インデペンデント科学者にならざるを得ない

というわけなんですナ。


だから、みんな金銭的には苦労する。



いやはや、世も末ですナ。







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by kikidoblog2 | 2018-11-14 10:54 | 個人メモ

断捨離:我が青春時代が去来した!?   

断捨離
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断捨離(だんしゃり)とは、不要な物を減らし、生活に調和をもたらそうとする思想であり、やましたひでこ(山下英子)の著書において発表された。「断捨離」「クラターコンサルタント」は山下英子の登録商標である。




みなさん、こんにちは。

この2日ほど我が部屋の押入れの清掃・整理・断捨離をやっていたので、メモする時間が取れなかった。さすがに引っ越してきてから23年もの山積みを整理するのは大変な作業だった。

昔のユタ大から持って帰った大学院生時代の研究ノート、論文、メモなど、さすがに捨てるに捨てられずにいたものだったが、この際、「断捨離」。いまはやりの痛恨の投棄である。

また、98年ごろのあの有名なiMacも動くかどうか試したりしてみたが、一応電源は入るが、やはりプラスティックのボディーは劣化し、まったくハードディスクを認識できず、ウェルカムにならなかった。というわけで、これも断捨離行き。

初日はこういうことですんだが、昔の手紙から最近のブログファンからのものまで整理するには昨日一日かかってしまったというわけだ。

Love letter from Japan

というわけで、私の奥さんと出会ってから1年ほどの日本からの手紙の類もでてきて、若かりし日の奥さんの爽やかな手紙が懐かしい。

さらには、バースデーカードとクリスマスカードの類。

子供が誕生する前、誕生してからのもの。そして、その子供の生まれてからの私の誕生日へのお祝いカード。

つたない字で、左右逆転しているものとか、こういう文字も徐々に形をなしていく。

しかしながら、その子の本質部分、優しい性格とか人思いやる質とか、そういう部分は文字が身につく前から、そして成人した今もほぼ不変だったということがわかった。

やはり、人は生まれながらにしてその人なのである。

こんなふうなことを感じながら、いろいろ整理整頓していたわけだ。

いくら断捨離したからといって、まだ押入れ内部に過ぎず、押し入れの外の私の周りにはまだ数百の本、何万の論文が山積みだ。

こういうものは、ここに来てからの研究テーマに関して集めたものだから、また徐々に断捨離していくことになる。

ユタ大にいたときにも、学生研究室の壁一面の論文ファイルを整理するのは大変だった。私の流儀で、一つのテーマにはその最初までできる限りすべての文献に目を通す。決して今のものだけではすませないということをいつの間にからやってきたために、論文の孫引きを続けていくと、幾何級数的に論文が増えてしまうわけである。

この習性は今に続くが、例えば、保江邦夫博士一人に限ってもほぼすべての論文、すべての著書を読む、あるいは、読みたいと思っているわけだ。実際、物理関係に関しては理解できるできないにかかわらず、だいたい全部に目を通した。

当然、その保江先生が引用した論文も同時に集めていくことになるから、保江個人が必要とした他の研究もあつめるとこになるから、論文数は膨大になる。

まあ、俺はいつもこんなことをしているから、文献が増えるわけである。

もっと効率的な方法はないかといつも探してきたが、こういうやり方をしないとどうも私個人の生まれつきの性分から気持ち悪いわけですナ。

適当な分野の教科書だけ読んで、それを適当な問題に応用して、適当に論文を書くというようなことで満足できればそれが一番効率的なのだろうがヨ。

まあ、もう一つのやり方は、特定の問題だけを解くことだけに集中するというものだが、これは比較的やりやすい。普通の研究とはこういうもので、私自身そういうものを教育されてきたからずっとそういうやり方をしてきたわけだ。

これは大学の先生向きの方法だと思う。すでにそういう業界に住んでいるからだ。しかし徐々に私はそういうやり方だけでは満足できなくなったのだった。

また、トランスペアレンシーなどの断捨離にも難儀した。外のファイルはまだ使えるから残すが、中のトランスペアレンシーを抜き取る作業が大変だ。これもすべて断捨離。不燃ごみ行きになった。


そういえば、今では、パソコンから直接モニターにつないで、自分のプレゼンテーション原稿を見せながら説明するというやり方が主流である。だから、ウィンドウーズのオフィスとか、オープンオフィスとかそういうもので作ったファイルを開いて研究発表する。

ところが、昔は、といっても、比較的最近まで、我々はトレーシングペーパーに書いた図やそれをトランスペアレンシー(透明用紙という意味)に油性や水性のペンで書いてそれをOHP(オーバーヘッドプロジェクター)でスクリーンに投影して話を見せていた。そういう時代が長らく続いたのである。

我々が学生の頃、アメリカの学者さんやアメリカ帰りの日本の学者さんが、ちょっと英語チックな訛りの入った日本語で講演するのをみては、「すげ〜〜」なんて言っていた時代があったのである。

当時は物性では、アメリカのIBMワトソン研究所(江崎玲於奈博士がいた)や、ATTのベル研究所(たしか長谷川晃博士がいた)。。。が世界最高の研究所だったのである。

いまやそのベル研もだいぶ前に廃止され、IBMも昔ほどではなくなったようだが、我が国では「東大物性研」は未だ健在のようだ。

断捨離しながらこんなことも去来していたわけだが、私の青春時代もすでに30年以上も昔の話になってしまった。


いやはや、世も末ですナ。







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by kikidoblog2 | 2018-10-19 08:07 | 個人メモ

昨日は「さつまいもの日」:俺の61回目の誕生日。県南の温泉で祝す!?   

みなさん、こんにちは。

ハッピーバースデー!

昨日は私の61回目の誕生日。昨年の還暦をついに1年過ぎてしまった。それで、奥さんといっしょに県南の温泉に久しぶりに行ってきたというわけですナ。

ちなみに、昨日は「さつまいもの日」だとナビが報告。


晴れ男。晴れ女。

我が家が行くときは実によく晴れる。

9月に東京山梨に行ったときもそうだった。天気予報では1週間雨か曇天だと予想してくれていたのだが、我々が到着した途端に山梨が晴れ、その後の東京も晴れた。

さらには、帰りの飛行機でも、徳島は雨で大荒れで飛行機が揺れるために機内サービスができないとアナウンスがあったが、徳島に近づくとすでに晴れていてまったく揺れなかった。

その前の8月の名古屋豊田行きは、最高温度41度超えとなった日であった。

というようなわけで、昨日も実に良い天気で、ウェルかめの大浜海岸はすばらしい風景となった。

そして、帰宅後、夜帰りにイルローザで買ったロールケーキと山梨で買った赤ワインでお祝い。

太く長いろうそく6本+細く短いろうそく1本。

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ささやかな誕生会でした。

本来なら大学の先生のように、大学の特別な披露宴会場で数多くの卒業生や昔の学生たちや美人秘書たちに囲まれて、盛大なる還暦記念や誕生会をしてもらわなければいけなはずだったんだがナア。

あるいは、保江邦夫師範のように、たくさんのお弟子さんに囲まれて、かんぱ〜〜いと祝してもらうはずだったんだがナア。

なんて思いながら、乾杯してケーキを食べていると、何やら外が騒々しい。

と思ってみたら、なんと季節外れの花火大会だった。

我が家が正月によくお参りする小さな神社の秋祭りの花火だった。幸いに我が家の2階からも木立の向こうによく見えた。時には木の上に飛んで巨大な花火が炸裂。


ところで、温泉の帰りに買い物したら、その店の壁に、「大相撲阿南場所」なる広告
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を発見した。

会場が我が家から300mほどのごく近所。いつも通っている場所ですナ。


いやはや、モンゴルズモウの魔の手がここ阿南にも来てしまったとは???

まあ、悪鵬はここ徳島の嫁さんもらい、モンゴルで徳島乗っ取る気まんまんらしいからヨ。


せっかくのめでて〜〜日が台無しじゃん。



いやはや、世も末ですナ。





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by kikidoblog2 | 2018-10-14 08:44 | 個人メモ

サッカー選手がいう「きりかえろ、きりかえろ」→サッカー選手にいう「きりかえろ、きりかえろ」   

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みなさん、こんにちは。

さて、今回は私的個人的なメモである。また普通の一般常識的(=外から刷り込まれた)感じ方とは異なるため、普通人には違和感があるだろうからスルーを。

今回山梨に1年ぶりで親父のお見舞いに行ったのだが、そこへ山梨県で一番最初にプロ野球選手になった人と会ったのである。

甲府商業出身でピッチャーで4番打者。甲子園出場した中澤新一さんである。甲府商業の甲子園出場としては、2回目あたりで、3回目が巨人の大エースになった堀内恒夫投手の時である。当時はここ徳島の徳島商業の板東英二投手全盛期で、この板東英二と同期だったという。

というのも、私の父の若い頃、私が生まれる前に私の両親がこの中澤さんの家の向かいに引っ越し、そこで新婚生活を始めたらしいが、その時に中澤さんが甲子園出場を決めたので、私の父がその甲子園まで応援に行ったのだった。そういう縁があったからなのである。

その後、かつて父から聞いた伝説では、その甲府商業はあと一人アウトで甲子園勝利という9回に、内野手から来たボールを一塁手の手が震えて、キャッチしたボールが手からこぼれ落ち、結果的に負けてしまったという。そういう場面を何度も私に語って聞かせたからである。

私は子供の頃中2後半まで本格的にずっと野球をやっていたので、中1で野球部に入部した時、中澤さんが週末暇があれば、我が家へ来て、私のスウィングの指導をしてくれたのである。

どういう練習をすればいいか、どういう考え方でスウィングをしたらよいか、当時の最先端の知識をくれたのである。

私は、小3から小3から中3までの混成ソフトボールの町内代表になり、市大会か県大会まで行ったので、小5から小学校の野球部に入っていたのである。

ショートで5番打者。これが中学時代の私のポジションだった。

この中学は監督がその最初の甲子園出場した(はずの)甲府商業出身の天野監督だったために、我々は非常に入部時から期待したのだが、彼はすでに腐っていたので、練習にはまったく出てこなかった。おかげで、ド素人の先輩の補欠が下級生を面倒見るスタイルになっていて、いわゆるドツボの野球部の形態を呈していた。

2年になり、我々が主力になりつつあった頃、新規に新ユニフォームを作るために、新チームの主将になった私が代表で皆から金を集めて監督に持っていったのだが、いつまでたってもユニフォームが来ない。それで私が監督に聞きに行くと、天野監督は「そんなことあったかな」とすっかり忘れていたわけである。

この一大事件が契機となり、2年生チームがすっかり様変わりしてしまった。部室でタバコを吸い出すわ、女の子とつるむわ、小学校の県大会で優勝したエースは、完全なる不良グループの番長になってしまった。

さんざんなんとかしようとしたが、不良が増える一方で、ついに俺は脱出を行った。それが、サッカー部への転部であったのだ。

私はサッカーも小学校の最初のサッカー大会のレギュラーだったので、非常に上手だった。小学校時代に見よう見まねで練習しすでにリフティングが150ほどできたのである。我々の頃には、スポーツ少年団サッカーができる前で、私が小6になり、県内に初めてそれができたのである。わが校の国母小にもそれができ、小6で私もレギュラーとして市大会に出場した。

だから、中学に入学し、1年生のサッカー大会では、誰一人サッカー部はいなかったクラスだったが、われわれ野球部3人が活躍して、相手のサッカー部のエースが3人いるチームと戦って、準優勝したのであった。私はその大会の得点王になった。

というわけで、不良チームになった野球部には未練なく、県内優勝経験のあるサッカー部へ転部したのである。

当時の南中サッカー部は、甲府クラブ(現ヴァンフォーレ甲府)の初代監督をしていた岩田監督(たしか日体大出身)が我々生徒を体育の先生として指導していたのである。むろん、当時はそんなことはおぼろげにしかしらなかったが、全日本レベルの実に良いサッカー指導を行っていたのである。

私は2年の秋にサッカー部に転部し、3年の春には初めて試合に出場した。関東大会の予選だったが、韮崎西だったか、東だったか、どちらかと戦い、延長線で延長で初出場となった私の決勝ゴールで同点になり、PK戦で負けたのだった。我々のユニフォームは青。相手が緑だった。

いちばん大事な全国大会の県予選で今度は韮崎東だったか、西だったか、と戦い、今度は引き分け抽選で、PK戦の代わりに5−5のじゃんけんで負けた。

結局、このチームは5つあった県大会で3つほど優勝。2つがともに韮崎に同点でPKとじゃんけんで負けたという強豪チームだった。

そんな45年前から、私は野球は選手としては一度もプレーしたことがないが、大学、大学院などのソフトボール大会などでは結構活躍したものである。

30年ほど前には、ユタから帰国後に都内のバッティングセンターで弟といっしょに打ってみたが、何年ぶりかわからない状態だったが、120km,130kmとやって最後に最速140kmに挑戦して、これも普通にホームラン性の当たりを打てたから不思議だった。

ここ徳島阿南にきて、何年目かでいつもはサッカー選手ですからといって敬遠してきた小学校の父兄のソフトボール大会に出ることになり、だれもサッカー選手に期待しない中、私はセンターオーバーの大3ランをかっとばし、度肝を抜いたのだった。2打席目もレフト前のライナーで2打数2安打5打点10割で終わった。たしかこの試合も同点でじゃんけんで負けた。


こんな個人的経験を持っている私と、甲子園出場山梨初のプロ野球選手で、怪我で引退した中澤さんと、父の病院で何十年ぶりでまとまった話、たぶん初めてではなかったか、を行ったのだった。

78歳と60歳のお話、世間話に花開いたのだった。

だいぶ前置きが長くなってしまったが、要するに、昨今のスポーツ界の問題(と感じる)ものを自然と中澤さんが語ってくれたのだった。

結論から言えば、最近は「若者が中途半端な夢を追い続けすぎる」ということである。

たとえば、サッカー選手、一流プロ選手になる夢を持ち続けるのはいいが、20代後半になってもまだコンビニで働いて夜の練習を行う。しかし、どっちも中途半端に終わってしまう。

中澤さんは、プロ時代の練習中の怪我が原因で選手生命を短くしてしまったそうだが、そこで2軍で生きていく道もあったが、思い切って別の道に入った。それが「生活を固める」という意味では成功だったという。そういう話をしたのだった。

たぶん、これは私自身へ向けたメッセージだったと思うが、最近は特にそういう選手が多いという話をしてくれたのだった。

私はサッカーで同じことを考えていたから、これには全く賛成だった。

なぜなら、いまの我が国のサッカー界には、Jリーグには1部、2部、3部までのプロがあり、その下にまだいくつもセミプロ的なチームがある。草野球や草サッカーのように趣味でやる分にはいいが、気分はプロで定職にもつかず、サッカー中心の生活をすれば、自分が一流に近づくと思っている選手が多すぎるのである。

野球の場合、甲子園に出場を目指すチームは4000ほどあり、そのうちのわずかのものが、スカウトの目に止まり、ドラフト選手になる。それに入れなければ、即引退就職である。

セパに12チームあるだけだ。

だから、少数精鋭で世界ランク1位2位を維持している。

これに対して、サッカーはドイツのマネをして、
J1が18チーム, 
J2が22チーム, 
プレミアリーグが20チーム、
J3が14チーム,
JFLが16チームもある。計90チームもある。

私の見た印象では、J1, J2の半数の選手はアマチュアレベルである。

いまの我が国の「人口」とレベルであれば、J1が12チーム、J2が6チームもあれば十分である。このそれぞれの2軍、3軍にプレミアとJ3の選手が入るべきである。

チーム数が多くなればなるほど、各チームのレベルが下る。日本人選手が足りなくなる。

その結果、結局、外人部隊になる。

ブラジル人、韓国人、在日朝鮮人、東欧人、タイ人、。。。。

ブラジル人や欧州人や東南アジア人は反日ではないからまだいいが、どうして超絶反日の韓国人や在日朝鮮人をJリーグに入れるのか?理解不能である。

まさに「敵に塩やる」方式である。

1チームがレギュラー23人。2軍3軍を入れて50人程度だとすると、

J1:18×50=900人
J2:22×50=1100人
J3:14×50=700人
プレミア:20×50=1000人
JFL:16×50=800人

したがって、全部で4500人ほどサッカー選手がいることになる。


さて、そこで中澤新一さんがいいたかったことは、このうちの何人が生活が成立しているのか?ということである。

嫁さんをもらい家庭を作れるほどの給料をもらっている選手は何人なのか?

言い換えれば、「プロ選手」というレベルのプロ級の給料を貰える選手が何人いるのか?

名前はプロ選手でも、もしもらっている給料が普通のサラリーマン並みであれば、それはプロと呼ぶべきものではないだろう。年収300万円のプロサッカー選手。こういう人はプロとは呼べないのではないか。実際には、もっと年収の低い選手がほとんどだという。

これなら、野球やサッカーを辞めて、別の道に進んだほうが良い。別の道で成功にかけるべきである。


だらだらといつまでもサッカーにこだわり、変な夢を追い続けて、結局、サッカーの歴史にも名を残せず、かといって仕事の分野でも何も残せず、これでは困るのではないか?

むしろ、サッカーをきっぱりと止めて、別の道で別の仕事でそれなりの仕事をする。その方が本人やその両親や親族も幸せではないか?

これに対して、例えば、元日本代表監督2回の岡田武史のように、愛媛FCを作り、それを率いて「地元の若者に夢をもたせる」というようなことをする人もいるが、それは岡田のいわゆる「道楽」であろう。つきあわさせられる方が大変である。

サッカー崩れの人の道楽に付き合って自分の固有の新たなる挑戦の邪魔になる。

これもまた困ったものなのである。

はっきりと、「君には才能がない」と現実を突きつけて、サッカーや野球を卒業させること、そして、自分がだめなら、その子供や孫で挑戦する。そういう新たなる人生に切り変えること。これが大事だというわけですナ。

サッカーでは、試合中に何度も、攻守の切り替えを行う。そのたびに、両手を「叩いて」

「切り替え、切り替え」

と絶叫するのだ。


「人生の切り替え」switching of life

これが重要になるのではないか?


残酷なことだが、適度な才能の持ち主に、

「君には才能がない。別の道に行け。」

ということは、実に悲しいことではあるが、その本人にとっては大事なことなのである。


はたして、監督が選手にそういった場合、

パワハラ

なんていうやつがいるのだろうか?その選手から恨まれるのだろうか?

まあ、その本人自身がそれに気づくべきだが、本人がマジックにかかってその呪縛から逃れられない場合には、やはり誰かが

1,2,3パチン

と正気に戻してやらねばならないだろう。


いずれにせよ、プロサッカー選手の最低レベルの給料をプロレベルに保つためには、やはりチーム数や選手数を減らして、少数精鋭システムに変えるほかないのである。


この意味では、サッカーも野球のドラフト制度を取り入れるべきである。俺はそう思う。

そうすれば、入団時で契約金1億円ゲットとか可能になるはずである。そのためには、チーム数は1/4にすべきである。


若者に夢は大事だが、若者に「変な夢」は持たせるな!つまり、幻想をもたせるな!

夢をもたせて儲けるのは騙すメディアや大企業だけである。


ひょっとしたら、中にはサッカー選手よりコメディアンの方が向いている選手もいるだろうし、俳優になった方が良いほどハンサムもいるはずである。歌のうまいものもいるだろうし、ビジネスの才能のある者や、別の才能の持ち主もいるはずである。私のように、理論物理学者になれるものもいるはずだ。


夢と幻想との区別は実に大事なのである。





いやはや、世も末ですナ。






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by kikidoblog2 | 2018-10-05 09:39 | 個人メモ

山梨の英雅堂「宝石博物館」でパワーストーンを発見!?:俺の中で昔の記憶が蘇った!?   

みなさん、こんにちは。

今回はまず個人メモである。普通の人には興味ないだろうから、スルーを。


またまた一週間ぶりのメモとなった。この間、恒例の年一回の母親の墓参りに山梨に行っていたからである。帰り際に、昇仙峡に立ち寄り、例の名古屋のテスラこと、高木利治さんのために、パワーストーンを探しに行ったのである。そして、都内で2泊し、24日の昼過ぎに
anemone(アネモネ)
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(この号は結構面白かった)
の編集長の西さんと会談、その夕は保江邦夫博士と門人2人といっしょに浅草の神谷バーで飲食しながら、保江先生の最新情報をゲットしたわけですナ。

その間、我が国では、小惑星探査機の軟着陸、台風24号TRAMIトラミ、相撲協会vs貴乃花引退戦争勃発など、さまざまのことが起こったようだ。こういうことはまたそれぞれ後々メモすることにして、まずは、昇仙峡のパワーストーン探しのことをメモしておこう。

ところで、この昇仙峡で宝石や水晶を売るという商売は山梨甲府の宝石商の間ではずいぶん前から、土産売場として、栄えたものである。中でも、めのうや水晶のさざれを「バレル研磨」で一気に磨いて、それを「手づかみ販売」するというビジネスモデルと、そのために観光バスを引き込むというビジネスモデルは、我が家がはじめたことであったのだ。

カテゴリ:ファミリービジネス( 9 )

ファミリービジネス9:「クォーツ時計誕生秘話」、水晶の切り方を古賀逸策博士に教えた祖父!
[ 2013-11 -06 17:34 ]
ファミリービジネス8:「引き割り技術」と「ダイヤモンドカッター」
[ 2013-11 -06 16:35 ]
ファミリービジネス7:「瑪瑙(めのう)」に色をつけてカラフルにする
[ 2013-11 -06 14:41 ]
ファミリービジネス6:「貴石画」と「宝石画」の誕生
[ 2013-11 -06 13:31 ]
ファミリービジネス5:「回転ろくろ式研磨機」と「スカラベ」
[ 2013-11 -05 15:19 ]
ファミリービジネス4:「バレル研磨」の誕生、研磨業を変えた革命技術
[ 2013-11 -05 14:29 ]
ファミリービジネス3:宝石企業団地とレストラン・ダイヤモンド
[ 2013-11 -05 13:18 ]
ファミリービジネス2:昇仙峡「宝石園」「かつては東洋一の水晶宝石博物館」
[ 2013-11 -05 12:35 ]
ファミリービジネス1:山梨県立宝石美術専門学校設立
[ 2013-11 -05 11:13 ]


この中の「ファミリービジネス2」に昇仙峡
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のことが語られている。

この昇仙峡で最初の宝石博物館を作ったのが私の父だった。「宝石園」というものである。

その後、我が家が廃業するさなかで人手に渡り、二転三転して今日の「宝石園」になったようである。

トンネルをくぐり抜けると、そこは宝石博物館だった

というキャッチフレーズのような感じの宝石博物館で、実際に宝石加工をする職人もいて、それを見ることも出来た。

いまでは、このビジネスモデルを商才のある英雅堂さんが、それぞれを別々の店として運営しているようだった。

いずれにしても私には実に馴染みのある風景で、子供の頃、少年の頃の記憶が一気に蘇った。

そう、我が家は「甲府の宝石加工業の第一人者、井口製作所」だったのである。地場産業の零細企業にすぎないが、当時は従業員30人ほどの地元の宝石加工業では最大手の一つだった。そのライバルの同業他社が、英雅堂だった。業界代表として、破竹の勢いの田中角栄に宝石画を見せに行った経緯もある。父の自慢が田中角栄とのツーショットである。

ちなみに、我が家の宝石画には、父の「実」の実の名をとり、実の宝という意味で

実宝(じっぽう)」

の縦字の朱印が入っている。

これがのちのちライターメーカーのジッポウと係争の元になってしまったが、裁判しても拉致空かないということで、そのままにしていたため、結果的に廃業したほうが負けという道となったようだ。


そういう追憶に浸りながら、高木さんご要望の水晶を発掘しに行ったわけだった。いまのところ、そのものをここに明かす訳にはいかないが、その宝石博物館でたくさん写真を撮ったので、その中でいくつかここにメモしておこう。

双龍
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水晶の展示
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日本最大の紅水晶
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虎目石の観音様
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パワーストーン(直径50cmの水晶球)
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売店
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我が家の全盛期の時代には、まだスピリチュアルという言葉はなかった。ましてやパワーストーンという言葉もあまり流布していなかった。だから当時は、一部の宗教家とか占い師とか、一般人からみれば、ちょっと怪しげな世界の人の持ち場だった。

あれから、40年。

いまやパワースポット、パワーストーン、スピリチュアルというような言葉は世に溢れている。変われば変わるものである。

それでも、私の子供時代はすべて水晶の加工は甲府の職人がやっていた。しかし、いまでは、それが中国人や韓国人のものになってしまった。

今回、宝石博物館や英雅堂の社員の人たちとも立ち話したが、もともと南北朝鮮人に貴石画や宝石画が伝わったのは、私の叔父、つまり、私の父の兄が、韓国に工場を作ったからである。そこから、支那朝鮮に伝播したのである。

その時代は、ほんの40年前の1960年代から1970年代に過ぎないが、その頃はキーセン旅行といって、韓国ソウルにいけば、どこでも簡単に女が買える。床屋でも、レストランでも、ホテルでも、キーセンがやってきた。

とまあ、そういう男の事情で、日本のビジネスマンは韓国ソウルに引き寄せられてしまったわけですナ。

むろん、その時代のコリアには、従軍慰安婦問題もなければ、支那には南京大虐殺問題も話題にもならなかった。そもそもそんなものは存在しなかったからだが、それがその後1990年代以降になり、テイクイニシアティブのネタとして重宝されるようになったわけである。

要するに、自分が下手の間は、女や料理や金でたらしこんで、自分が上になりそうになると、今度は相手の弱みにつけ込んで、捏造した事件を押し付けてくる。これが、「やつら」の常套手段なんですナ。今も昔もまったく変わらない伝統芸なのである。


ちょっと話が脇にそれてしまったが、今回宝石美術館に行って非常に良かったと思うのは、世の中には本当にさまざまの鉱石があるということを知ったことである。中でも「電気石」なるものを始めた見たのだが、これについてはまたいつか。

それにしても杉田元宜先生のときもそうだったが、いまの学者の誰も自分の所属する学術学会である「生物物理学会」の創始者の杉田博士をご存じなかった。

これとにて、今ある業界の創業時、いまある宝石学校の創業時、いったいだれによって生み出されたのか、そういうことを誰も知らないのである。山梨県立宝石学校は、我が家の祖父と叔父と父とで企画し、県を動かして予算をとり、実現させたものである。山梨最大手の英雅堂の社員すらだれも知らなかった。

半世紀も経てば、既得権益者はその既得権益の創立者すら忘れてしまう。

どうも地球人にはそういう悪い意味の健忘症があるようですナ。


いやはや、世も末ですナ。





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by kikidoblog2 | 2018-09-27 16:01 | 個人メモ

「講演会の顛末記」:講演会お疲れ様でした!ありがとうございました!サムハラ神社のご利益か!?   

みなさん、こんにちは。

昨日無事にここ阿南に7時半に帰宅できました。

講演会の皆様に心からの感謝の言葉を妻ともどもお送りしたいと思います。

どうもありがとうございました。


ちょうど20年ほど前の1998年。私はフリーの理論物理学者としては史上初。

三菱財団の研究助成をうけることができたのだが、その時、

分数排他統計を持つ準粒子の研究

でもらったのだった。

それで、当時私が閃いたアイデアが厳密数学的に正しいかどうかを聞くために、名古屋大学の多元数理の青本和彦教授のところへしばしば出かけたのである。

その頃、徳島空港から名古屋小牧空港直通の中日本エアラインというのがあり、小型の双発旅客機で約1時間で徳島から名古屋に行けたのだった。

そして、近鉄の東山線に乗って、すぐに名古屋大学に行けた。と思う。そういう記憶がある。

この中日本エアラインは低気圧が近かったり、雨が降ったりすると、まさに富士急ハイランドの富士山のように、垂直落下や急上昇を繰り返し、数百メートルのヒヤリハット体験しながら、本当に歯を食いしばって耐える時間があった。

名古屋に着陸したときには、いや〜〜、これぞ本当の飛行機だといつも思ったものである。特に帰りがひどかった。

美人スチュワーデスさんといっしょに墜落してミンチになるなら良いかとも思ったが、あまり美人ではなかった。というより、昔は美人だったかもなという中年のスチュワーデスが乗っていたものである。

ところが、その後何年して、あえなく経営難で閉鎖。

それから、名古屋へ行くには、神戸、大阪経由のなんば行きの高速バスしかなくなったのである。

これがまた難儀するもので、運転手によっては、なんば到着後に乗り換えるはずの予約した近鉄の出発時間のたった5分前になんば到着。

だから、運転手に文句言う時間もなく、即ダッシュで近鉄特急に飛び乗る。

何度かこういう経験を積んだものである。

また徳島の高速バスの運転手の中に「安全運転」第一厳守の人物がいて高速でも時速60kmの法定速度を守るやつがいた。

「あの〜〜、運転手さん、このままだと俺の近鉄の出発時間すぎるんだけど」
「もうちょっとスピードなんとかならん?」

「きみ〜〜、もう一時間たったけどまだ徳島にもついていないぞ。遅れるぞ!」

「きみ〜〜、まだ神戸だぞ。もう出発まで1時間半しかないぞ!」

とまあ、こんな案配で、運転手の横に張り付いて催促して、近鉄出立前5分に到着。猛然とダッシュ。

汗びっしょりで近鉄特急の中に入れた。間一髪セーフ。

いや〜〜、スリル満載。


だから、高木先生の講演会が、名古屋の先の豊田市にあると聞いて、真っ先にこの悲惨な経験が甦ったというわけですナ。


しかし、今回は奥さんといっしょに前日の我々の結婚記念日を兼ねて前日に豊田市に入る予定にした。

奥さんは夜勤明けで午前中に帰宅。そして、いっしょに阿南11時50分発の高速バスでなんばへ出発した。

今回はかなり余裕を持って、近鉄の予約はせず、適時乗るスタイル。

そこで、なんばにつくと、まずはサムハラ神社で色あせてしまった私の指輪を買い換えようと思ったわけだ。

まずはサムハラ神社で参拝。

そして社務所で指輪を買おうとするが、宮司さんが

「もうありません。来られるのが遅かった。それにもう来週まで指輪は入りません」

ということで、なくなく絵馬だけ1個買って、記念撮影のみ。

サムハラ神社の石碑前
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ところで、帰り際に俺は気づいた。

何やら巨大な足跡が一つだけ残されていることに。これである。

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私の靴が27cmだから、ゆうに30cmは超える足跡。

はたしてだれがこんな巨大な足跡を残していったのだろうか?

謎である。


この頃、私は

「どうもサムハラ神社にはもうご利益はないな」

と感じ始めていたので、奥さんに

「もうサムハラ神社の宮司があんな調子では商業化しすぎてもうナマグサ宮司だ。これじゃあ〜、サムハラのご利益はないと思うよ」

と言ったのである。

そうして近鉄に無事に乗り、今度はなんばから名古屋に到着。

そこで、奥さんは名鉄と近鉄を勘違いして、というより、いっしょくたにしていたので、もうホテルが有ると思っていたら、豊田市はもっと先だったことを知る。

今度は名鉄で名古屋から豊田へ行かなければならない。


だから、当初の予定より1時間も遅れて、夜9時過ぎに会場となる名鉄豊田ホテルに到着。

奥さんは朝から何も食べていなかったからとにかく早くチェックインして何か食べに出よう。特に、「味噌煮込みうどん」とかいうやつが食べたいというので、私は何事もブラジルW杯の経験上、先にできることは先に済ませたほうが良いよということで、私は名古屋で目的のものを食ってからホテルへ行こうと言っていただのだが、名鉄と近鉄をごちゃ混ぜにしていたので、豊田駅で食べることにしたのだった。

そしてチェックインに行くと、なんと部屋がない。

予約した部屋がない!

なんといま高校総体が名古屋で開かれていて、名古屋から近郊の全ホテルが満杯。しかも前日に岡崎の大花火大会もあったという。

申し訳なさそうに、ホテルのフロントの係員の人が、一応部屋はとってあるのですが、ちょっと変わった部屋ですがよろしいですか?

と聞く。こっちは何でも良いから早く部屋に荷物をおいて食事に行きたかった。

それで「もちろん」問題ないです。どこでも良いですとOKというと、キーナンバー801をくれたのだった。


そして荷物を滑らせながら801に行くと、そのフロアは結婚式場だった。

そして結婚式場の一番となりの部屋だった。

部屋の中に、大きな色直し用の鏡台があり、バスルーム前には男女別々に同時に化粧できるように左右対称に2つずつ鏡と洗面台がある洗面台。

さらには、ダブルベッドが2つ。

さらには、応接室と寝室に分かれているような感じのスウィートルームだったのである。

なんと、その部屋は昨日帰宅後に調べたら「ブライドルーム」というやつだった。

これから翌日に結婚式を控えた新郎新婦が神妙な面持ちで前日を過ごすという特殊な部屋だった。


いや〜〜、破産!

これが最初に我々によぎった言葉だった。

こんなスウィートルームに2日も泊まったら我が家は破産である。

どうしようか?

と思ったのだが、ともかく夕飯を食いに行った。


ところが、豊田の夜は早い。どんどん9時以降は飯屋が店じまい。飲み屋もみな帰り支度を始める。

味噌カツや味噌煮込みうどんどころではない。

もう食い物にありつけるかどうかのせとぎわになった。

いろいろ探し回っていると、松坂屋の近くに手羽先専門の看板をみつけ、そこの近くに、串カツの文字を発見。というわけで、この居酒屋に入ることにした。

すると大正解。

焼き鳥も1本140円でそれほど高くはなく、普通に生ビール中を一杯ずつで、結婚27年目をお祝いして、土手煮とかいう一物やいくつか食して、最後に焼きそばとお茶漬けを食べてなんとか無事夕飯を取ることが出来た。

そして、その晩は、27年ぶりの結婚式のマネごとができた。

実は我が家は結婚式をしないままいままできたので、結婚式がどういうものかまったく知らなかったのである。結婚式の前日にこんなスウィートルームに泊まるということも知らなかった。

というわけで、とにかく、熟睡して当日になった。


翌日の当日。

朝食が出たので、ホテルの朝食を取り、そしてゆっくりして、まずは会場をチェックに行こうと、フロントにいくと、そこで一人の青年に出会った。どうやらファンの一人で、講演会を聞きに来て、一応早めに場所をチェックに来たら、
私がいたので勇気を出して話しかけたという青年だった。

とにかく今いる部屋が広い。そこで部屋で話そうと誘って我々の801にいって、12時前までいろいろ話す。

そして、実は地元の名古屋近郊の大学にいる同業者の友だちがいるので、その彼と講演会で会ってその前にいっしょに食事でもしながら久しぶりに話しましょうということで、待ち合わせをしていたのである。

それで12時ジャストにまたフロントに行くと、2分遅れでその友人がやってきた。

実はその前に一応会場を見に行くとすでに保江博士が歓談中で、これからみんなで昼食会をするというので、私はその友人もいっしょにどうということで迎えに行ったのだ。


というようなわけで、まずは講演会の主催者の高木先生とその関係者といっしょに保江先生と私と奥さんと友人とで昼食会ができたのである。

その時、私が保江先生にいつ来られたのか聞くと、昨日の夜8時だという。本当は今日来るはずだったが、やはり当日は時間的にも厳しそうだとわかって、前日に来ることにしたら、無事一部屋空いているということで、そこでここに宿泊することになったというのである。

いや〜〜、これで理由がわかった。

我々は当初8時にホテルに到着するはずだったが、サムハラ神社によったために、1時間遅くなってしまった。

そしたら、普通のツウィンではなくて、スウィートルームしかないということになったんですよ。

だから、きっと後から来るといい出した出版社のだれかか、あるいは、保江先生が急遽お泊りになったんじゃないかと想像してたんですよ。

やっぱりそうだったんですね。

というような会話になった。

そして実は俺はサムハラ神社は効用が切れたと言っていたんだ。

そう保江先生に言ったら、「これだ。これがサムハラのお導きだよ」って。

もし我々が先に着いたら、きっと保江先生がお一人でスウィートルームになったはず。


いや〜〜、サムハラ神社恐るべし!


おみそれいたしました。礼。

後はすべてうまく行き、例年は50人参加のところが、今回は会場溢れんばかりの大賑わい。140人超えとなってしまったという。主催者の皆様には想像以上のご迷惑をおかけし大変申し訳ありませんでした。

この度はどうもいろいろお世話になりありがとうございました。

では、みなさんお元気で、またいつかお会いしましょう。





いやはや、世も末ですナ。




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by kikidoblog2 | 2018-08-06 11:49 | 個人メモ

「変な話」:どうして昔と今とで話が逆転したか?「水飲むな」→「水を飲め」   

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みなさん、こんにちは。

今回は私個人への個人メモである。興味ない人はスルーを。



さて、確かにまだまだ暑いがいっときよりは暑さがマシなった気がするが、相変わらず暑いことは暑い。

熱中症という新語のために、かえって死んだ人が多くいるような錯覚がでるが、昔も今も同じように高齢者になれば、暑さで卒倒する人はたくさんいたはずである。

それが熱中症という概念で当てはめればなんとなくそれに当てはまるから「熱中症死」したという呼び方をするから、さも熱中症死が増えたかのような印象を持つわけだ。

単に昔はわざわざ熱中症に当てはめなかっただけで、そんなに大差はないだろうというのが俺の個人的想像である。

私の父親も50半ばで群馬に出張中に脳梗塞で倒れたことがある。幸い同乗者に事情を知っていた人がいてすぐに病院に行ったために助かり、その後ずっとリハビリ生活したが、今91歳になっても健在である。もっとも施設に入院しているのだが。

当時はエコノミー症候群という言葉もなければ、熱中症という言葉もなかった。

どちらも水分不足、塩分不足が原因だ。

我々が子供の頃、野球部に入ると、入った瞬間から「水泳禁止」。練習中の飲食、特に水飲み禁止だった。

喉がカラカラでも水道ダッシュは厳禁。

そういう時代だった。

水泳禁止は肩を冷やすと肩が壊れるからだという理屈だった。

一方、水飲み禁止は、水を飲むと汗をかくから、汗をかくだけ体力消耗するからだという理屈だった。

この時期、名映画「アラビアのロレンス」とか、英米の映画の探検隊は、水を一日たったのコップいっぱいだった。

遠征中の水不足を減らすことと、汗かきを減らすことだった。

たしか、有名な「地底探検」とか、そんなやつでも、水筒の小さな口コップにたった1杯を飲んで終わりとか、それを回し飲みするだけとか、それが当時の最先端の技術だったと思う。

だから、ではないかもしれないが、我が国でも部活でも水は制限された。

しかし、そこは成長期の子供や少年たち、15分休憩になると、学校の水道にみんなで猛ダッシュし、水道の蛇口に口をあててごくごくごくごく腹が満杯になるまで飲み続けた。

休憩が終われば、胃袋がチャップチャップいいながらも練習再開したものである。

今思えば、ここでやっていたことは、今の常識からすれば、すべてダメ、NG、違法行為だった。

しかし、奇妙なことに、だれも死ななかった!

私がサッカー部に移った後も、当時は野球部同様、水は休憩時間に飲むだけ。

だから、1時間練習したら休憩10分。そういうときに水道に猛ダッシュした。

試合では、ベンチに猛ダッシュして帰り、水を飲む。当時はポカリスウェットとか、そういうものはないから、蜂蜜レモン水とか、レモン水を応援の父兄からもらって飲んだものである。あるいは、梅干しと蜂蜜レモンを食べる。

不調になってもそれでも誰も死ななかった!

いまでは大谷投手のように、野球選手は水泳もすれば、試合後にはかならず肩をアイシングする。昔では巨人軍のプロ選手でも、肩を馬肉で冷やした。それをあとで馬刺しにして食った。

サッカー選手でも、試合後は筋肉をアイシングする。だから、アイスパッドでラップして足回りを冷やす。

水は試合中いつでもグランド周囲においたビンで飲む。女子マネはそれをいつも冷たいやつに入れ替えるのが仕事の一分になっている。

昔はそんなことすれば、先輩から鉄拳がとんだ。

弛んでるぞ!

それでもだれも死ななかった!

試合中でも誰も死ななかった。


ところが、いまはピッチの上で選手が死ぬこともある。

これだけ水分補給しているのに、大勢の高齢者が病院に入る。ジョギングの猛者も不調になって入院する。

何かが間違っているんじゃね〜〜の???


これが俺の疑問である。

今の風潮で儲かるのは、大塚とかペプシとかコカコーラとかキリンとかそういう水商売の大企業である。

そもそもキリンは俺ら昔のサッカー選手や野球部が自家製「蜂蜜レモン水」を飲んでいたやつを真似しただけだ。

ちょうやは、田舎の一般家庭どこでも作っている梅酒をマネしただけだ。

コカ・コーラやペプシは、昔アメリカの一般家庭のどこでもレモネードとして出していた飲み物を真似ただけだ。

レモネードにコカの実で茶色くしただけで、中身はレモネード。だから、逆にいまや昔のオリジナルに戻って、「透明のコーラ」で売り出す。

馬鹿か?

無知は犯罪でござる。


まあ、いずれにしても、どうも最近の医療知識は、大企業ベースの何か間違ったバイアスがかかっている。

水飲みすぎるから、尿に大量に出て、ミネラルがどんどん尿に出て、体力消耗する。

だから、今度はどんどんサプリをとれということになる。

大量に飲むには、カロリーは落とさないとまずいから、アスパルテームだの、人工甘味料のカロリーゼロにしなければならなくなる。

が、これらは大量摂取すればするほど発がんし、金玉や卵巣をやられる。

馬鹿か?

無知は犯罪でござる。


ところで、がん細胞は熱に弱い。ある医学博士の話では、体温が36度台程度の熱になっていると、体のがんはできないという。

癌になりやすい人は体温が低く、35度台の人が大半だと。

それでもそういう人が体温を36度以上に高めれば、3ヶ月以内の末期のがんも消滅するというのである。

だから、結核の人は癌にならない。結核患者は微熱がある。夕方になるとかならず熱が出る。だから、がん細胞が死に絶える。


ということは、インフルエンザにかかれば体温は41度にもなる。しかも3日は寝込む。

ということは、タミフルやワクチン使って体温を35度台に保つよりは、へたをすれば長生きになるかもしれないわけだ。

つまり、たまにインフルで高熱にうなされたほうが体内のがん細胞除去できて良いかもしれないわけである。

この観点でいえば、今年の夏の暑さは、知らず知らずのうちに体内にがんが出来始めていた人には幸いだったかもしれないわけである。

これだけ暑ければ、体温もいつもより高温になる。つまり、がん細胞が死ぬ。

熱中症でがんが消えた!

こういう人もいるのではなかろうか?


何事にも一長一短ある。


せっかく体内の発がん阻止にはもっともいい条件の暑い夏。その暑い夏に冷えすぎたところばかりにいるよりは、多少汗びっしょりになり、適度に水分やミネラルを取りながら、しかもがん細胞の好物であるらしいブドウ糖を取らないようにすれば、がんを撲滅できるかもしれないわけである。

厚生労働省はこの統計をとれ!

熱中症と発がんとの負の関係である。


私がここ阿南にきた22年前、私の記憶ではいまよりずっと暑かったと思う。あるいは暖かかった。

3月末には半袖半パンで活動していた。

しかし、今年は7月まで半袖半パンになれなかった。

なぜだ?

地球温暖化?

馬鹿か?


無知は犯罪ですナ!


最近はあらゆることが、科学も含めて、すべての情報がだれかによりマニュピレートされている印象のある今日このごろである。

あるいは、単に我々が馬鹿になっただけか?




いやはや、世も末ですナ。






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by kikidoblog2 | 2018-08-01 15:58 | 個人メモ