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カテゴリ:個人メモ( 51 )   

「年月は人を変える!?」:大学教授も官僚と同じことをする!?   

青春時代
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みなさん、こんにちは。

今年の春の甲子園はすでにはじまり、あの夏目漱石の坊っちゃんの時代から120年目の甲子園初出場となったここ阿南の徳島県下随一の古さを誇る富岡西高校が今日第三試合に登場する。はたしてどうなか?30−0となってもそれは仕方がない。頑張れ、富西。


さて、我が国のこの時期は引っ越しシーズンでもあり、ゆく年くる年のような新年とは違う、ゆく人来る人の新年度の到来となる。

また、いつもこの今頃は、来るエイプリルフールのネタを何にしようかと迷いながら、メモするときでもあるナ。

この新年度を前にして、最近気づいたのは、こんなことである。

私の知人友人も私の世代はそろそろ定年退職やら引退やらの高齢者への道に突き進むようだ。

我々は大学院生の若き日に、持て余す時間の中で、いろいろ議論したりしながら、勢い勇んで

「日本の官僚は天下りがひどくてだめだよな。もっとアメリカのようにならなきゃな」

なんて言っていたものである。

ところが、さすがにこの年になると、そういっていた若者も定年後の先が心配になるらしい。むろん、私はフリーだからそんなものはないが。

定年を1〜2年前にして、やたらと本業の大学教授とか高専教授とかそういうものとは違ったことをやりだす人がいる。

たとえば、サイエンスカフェ。あるいは、科学博物館とか。

なんで本業の研究職として良い若者を一人でも多く輩出しないのか?

と俺は個人的に???でいたわけだが、どういうわけか、私の知り合いでもそういう人がいる。

最初は、つまり、定年の数年前ごろには、なかなかいい活動かもな、と思ってみていたわけだ。

現職だけではなく、課外活動として地域未着型の新しい科学普及の試みとかに取り組む意欲的な活動だな、と見ていたわけだ。

ところが、2,3年たち、いざその人が定年を迎えると、その本質が見えてしまったわけだ。

要するに、定年後に定年前に自分が生み出した課外活動事業でちゃっかり本職として雇ってもらう。

つまり、定年後の再就職先を子どもたちを出しにしてせっせと作り出していたわけだ。


ひょっとして、これは?

つまり、これが若い頃我々が「官僚の天下り先」といって揶揄していたやり方そのものだったんですナ。

官僚の天下り先といったって、そんなものはそれまでないわけだ。だから、自分が現職の間にせっせとある目的で活動し始めるわけだ。そして、そういうNPOとかNGOとか、官庁の下部組織の活動拠点を作っておくわけだ。

そして、自分が官僚の出世競争で破れて、肩たたきで勇退、退職となった場合に、その事業の理事だとか幹部だとか運営責任者として(高額で)再雇用されるわけだ。

実力と先見の明のあるやつほど、たくさんそういう部署を予め作っておく。そして、2,3年ごとに渡り歩き、その都度、退職金まで用意しておく。

まあ、本人は自分がいた省庁の管轄の決めの細かい国民へのサービスを提供したわけだから、良いことをしていると思っているわけだ。

こうして、いわゆる特殊会計というものができあがる。

つまり、これまでの生存するあるいは逝去された元官僚たちが、それぞれの老後のための再就職先としてつくってしまった無数の事業=言い換えれば、この国にたかっている事業を作ったために、一般国民や一般の政治家や一般の官僚が使えない予算が溜まりに溜まってしまったというわけだ。

これが、中央政府の霞が関の官僚だけではなく、法人化したあとの大学法人や行政法人などにもあり、大学や高専の先生たちも「似たようなこと」を行っているということなんですナ。

最近では、地方に大学スタッフから講演者が派遣される「サイエンスカフェ」というのが結構賑わっているのだが、そういうものもまさに数学者の定年後の再就職先だったということのようですナ。

それ以外には、最近はAO入試というのがあり、才能ある若者ややる気のある若者を発掘するという美辞麗句でスーパーサイエンス高事業なんていうものもある。

科学の素養のある若者を海外へ短期留学させるとか、あるいは、科学オリンピックに参加させるとか。こういうものもある。

しかし、そういうものが、財政的に見たら、普通の官僚の天下り先と同じだったりする訳だ。幻滅。

まあ、自分の財布から金を出して工面するというような日本人はめったにいない。

海外からは世界のATMといわれる安倍晋三こと李晋三首相でも、自腹は切らず、好き勝手に無関係の国税から金を出す約束して国益国防に反することをする始末だ。

国家の首相がそうなのだから、示しがつかない。これじゃあ、その下々がこぞって安倍晋三のマネをするわけですナ。ゴーサインを出しているようなものなのだ。


まあ、それもまた人生なんだが、結局、我々の仲間も若い頃批判してきた官僚さんたちと質的には同じことをしてしまっているということである。

これでは、官僚を批判できない。

こうして一人また一人と体制批判できない人たちが増えるというわけだ。


あの青春時代はどこへ行った?

やはり年月は人を変えるんですナ。



いやはや、世も末ですナ。




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by kikidoblog2 | 2019-03-26 13:44 | 個人メモ

Time-Lag タイムラグ:「昔と今で正反対になる謎の法則があるのでは!?」   

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タイムラグ

関連する二つの事の間に生ずる時間的なずれ


みなさん、こんにちは。

さて、この日曜日は奥さんとビッグひなまつりで有名な勝浦の風物詩、早咲きの桜の木を見に行った。しかし、かつて我が子達が小学生の頃行った時に写真をとったその大きな桜の木は2本ともに見事に伐採されてしまっていたのである。
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その子孫のまだ子供のようなあるいは少年のようなおとなになりきっていない若い桜の木々があるだけになった。しかもすでに早咲きは見事に散ってしまった後だった。
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その桜の木の道を挟んで向かい側に地元では有名な和菓子屋さんがあるのだが、そこのいちご大福とあずきのういろうが我が家の念願の目的であった。
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この2つはなんとか達成できた。

これは、我々の情報空間と現場の情報空間との間のタイムラグである。我々には現場の状況がリアルタイムでつかめていなかった。それがこういう結果を導いたわけだ。

実は最近良く思うことだが、どうも我が国や世界でも、これほどスマホのリアルタイムの時代になったにもかかわらず、逆にこういうタイムラグがいたるところに見受けられるのである。それが最近非常に気になって仕方がない。

というわけで、いくつかそんなもとをメモしておこう。


(あ)お遍路さんとその世界遺産化のタイムラグ

ここ四国ではそれほど大きな産業がないから、なんとか観光業で生き延びようという勢力があり、四国遍路を世界遺産にしようという運動グループがある。

今日たまたまここ阿南テレビでそういう活動家、特に徳島大学准教授の外人さん(米人)の講演を見たのだが、一応どんなことを話すかを聞いていたんですナ。

すると、最初は白人外人、つまり、西洋人が四国に来てお遍路さんをして国に帰ってそれが非常に良かったということを記録や本に残した人を研究しているという、その外人教授の仕事内容から始まり、最後は最近四国遍路に来た外人グループの意見やアンケートを調査して、こうした方が良いとか、ああしたほうが良いという、お決まりの結末になっていった。

要するに、他の地方ですでに世界遺産になった場所で行われたこととうり二つがまたここ徳島や四国で行われるわけだ。

が、その後、富士山がどうなったか?

というような結末はすでにもうわかっているはずなのだが、そういう富士山の世界遺産化の誘致から弊害が出るまでの時期からこれから四国遍路を世界遺産化していくというまでのタイムラグがあるわけである。

外人が四国遍路を感激してありがたがる、というのは結構だが、その先、外人が増えて富士山や京都のようになれば、みずぼらしい田舎のおじいさんやおばあさんがいくらお接待しようとしても、怖くてできなくなるし、そもそも数が多すぎれば、自分がわずかの年金つかってお接待しているつもりがそっちの方が破産してしまう。

また同じことを、英語と日本語で翻訳したとして、同じことを考えていると思うのは結構だが、それも外人の場合、宗派や国々によってもかなり意味合いが違う。

最後は、イスラム教徒がお遍路したり、欧米のヴィーガン(狂信的菜食主義者)が来たりすれば、それに対応しなければならない。

トイレがきれいだから日本が良いといったら、我が家のようにまだ汲み取り式の便所が四国のほぼ半数を占めているのに、逆に非難されかねない。つまり、地元民の大負担になるわけだ。つまり、地元民ですらまだ水洗化もできていない家庭が多い中で、どうして外人さんだけのためにわざわざ最先端の温水トイレを地元が工面しなきゃならんの?ということになるわけだ。

つまり、一部の推進側のお寺や外人教授の売名行為や利便や理想の追求のために、他の普通の大半の人が引きずられるわけだナア。

この間に、すでにそういう事が起こった京都や富士山では、もう外人が多すぎて、忙しすぎるから外人はもういらんという時期に入ってきたのに、これからそういう夢を描くというおバカな感じに見えるわけだ。

こういう変な意味のタイムラグが昨今の我が国にはいたるところに拝見できるわけですナ。

はっきり行って、四国遍路は、空海と同行二人=修験者の一人旅、であるはずのものが、外人が来れば、集団旅行や集団ハイキングになってしまうわけだ。UFJやディズニーのアトラクションの延長のようなものに変わるのだ。旅行者が少なければ、神秘体験もできるが、京都の有名な鳥居の神社のようになれば、霊験も失われる。

ましてや日本人で一人で傷心旅行をしたり、自分を見つめるために四国遍路するというようなことができなくなる。つまり、本来の四国遍路の意味がなくなるわけだ。

これもまた安っぽい観光業に落ちた京都や高野山や富士山を見れば分かるわけだ。が、その轍を踏まないようにならない。


(い)地方の市民講演会のタイムラグ

その次の講演会では、なんと阿南市民に、とはいっても高齢者がほとんどだが、そういう高齢者相手に「地球温暖化の危険性」なんていうのを講義している地方自治体職員がいた。

いったい何年遅れているんかいな?

もう物理学者も地球物理学者も、あのゴアの「不都合な真実」はもう真っ赤なウソで、我が地球はこれから「大寒冷化の時代」に入るだろうといっている時代である。

ビル・クリントンとアル・ゴアの時代からだから、20年はタイムラグがある。

いまでは、まともな科学者の誰一人単純にCO2が地球温暖化の原因だと考えていない。いまは、太陽活動の方がはるかに寒暖を決める決定的要因だと考えられるようになったわけだ。

特に、太陽活動の増減により、太陽の勢いが減退すると、つまり黒点が少なくなると、地球の磁場活動も弱まり、宇宙の様々の場所から宇宙線が大気に入ってくるため、雲ができやすくなり、太陽光が遮られて地表温度が下がって、寒冷化する。逆に、太陽の勢いが増すと、つまり黒点が増える時期には、その逆のことが起こり、地球磁場が活発になり、宇宙線を反射し、晴天が増え、太陽光がそのまま地表を温めるから温暖化する。

とまあ、いまではこれがかなり現実に近いだろうと考えられている。

そしてどういうわけか最近の太陽は非常に勢いが減退しているのである。だから、冬大雪になる。

太陽光とCO2は植物にとっては栄養源だから、地球が砂漠化しないためには必須アイテムなのである。

問題はCO2ではなく、ばい煙に含まれる金属微粒子PM2・5の方である。これもまた地球の温暖化や寒冷化に寄与する。

いずれにせよ、地方市民の中高齢者だから、適当にいい加減な昔の地球温暖化の説を吹聴して公務員のバイトするというのは非常に困る。


(う)地震被害のタイムラグ

かつて同じ阿南テレビの市民講演会の番組に、かつての東日本大震災で大被害を受けた仙台市職員が講演したことがあった。たぶん、8年位前だろう。

それで特に記憶に残ったのは、彼らが目撃した自動車の火災事故だった。

何もしていないが、津波に飲み込まれて火を吹いた自動車とそうではない自動車があったのである。

それでどういう自動車が水没して火を吹いたかと調査した結果、トヨタのハイブリッド車のプリウスのような水素自動車だったのである。

が、この事実は隠蔽されたようで、その後この講演者が講演しに来たことはない。

しかし私はこれがえらく記憶に残った。

ハイブリッド車は災害に弱い。どころか、時には火を吹いて危険になるのである。

また、EV車やソーラーカーも水没すると、感電するからかなり危ないのである。ガソリン車の方がエンジンがかからなくなるだけだから、水害には良好かもしれないのである。

その講演者によると(まだ生きているか知らないが)、プリウスは爆発したというのだった。


こういう実際の現場を知るものから、これから起こるかもしれない災害に対する予防をするという人との間にも、かなりのタイムラグがある。


(え)タイムラグの大きさにより理論が正反対化する

同じことを別の場所で起こさないためには、失敗を失敗としてリアルタイムで共有していかなければいけないわけだ。

これは、科学でも同じことで、一見突飛、一見とんでもな発想でも、理論でも、実験でも、そういうものも歴史に残しておく必要があるのである。さもなくば、後世の若者がまた同じことをしでかす。

いまの標準理論は昔の異端理論である。いまや常識といわれている「プレートテクトニクス理論」は1970年代以前には異端の説の一つに過ぎなかった。

スポーツ医学でもそうで、いまのスポーツ力学の常識やトレーニング方式や水分補給の仕方は昔の異端=非常識で誰も信じなかったようなものである。

昔はピッチャーは水泳は禁止。そんなことをすれば肩をすぐ壊すという理論だった。いまは水泳が推奨されている。昔は筋肉痛は温めて治す。それが、今ではむしろピッチングの後はアイシングが有効となっている。甲子園でもそうだ。

サッカーでも同じ。昔は規定時間のハーフタイムの吸水が良いという理論で、間に飲めば、汗を書いて疲労するだけだという考え方だった。だから、しょっちゅう水飲むやつは根性なしのだめ選手とされた。それが今では、四六時中のどが渇いたら飲め。汗だくで動けなくなったのは水が足りないからだという説が流布している。

要するに、時代の空気というより、その時々の大企業のご都合により、御用学者が頑張って一般のパラダイムをシフトさせる役を務めるわけですナ。

戦前の探検映画をみれば、探検者の最初のトレーニングはいかに乏しい水事情でも生き残れるかという、ちびちび飲む訓練であった。水筒の小さなキャップで1日1杯で過ごす。そういう訓練をして、糖代謝から脂肪代謝へ変えるのである。

いまはどこでも水メーカーの水が買える(ようになってしまった)から、飲料水メーカーが飲め飲めと推奨するわけだ。本当は、人間はどっちでも耐えることができるのである。状況次第なのである。


(お)危険なタイムラグもある

とまあ、昔良いと言われたことが今悪いとなり、昔悪いと言われたことが今良いと言われるというようなことが非常に多いのである。

このタイムラグはかなり致命的である。

昔は西洋人にとり宗教は良いと言われ、自然崇拝のアニミズムで無宗教に見えた日本人は悪いやつだと考えられた。しかし、今はどういうわけか逆になり、昔悪い民族とみなされた日本人が自然崇拝自然共生の良い民族だとみられるのである。むしろ、敬虔な宗教人はテロを起こしかねない危ない奴らとみなされる。

いったいどっちが真実なのか?

いま四国遍路は素晴らしいと言っている西洋外人が、あと数十年後には正反対になっているかも知れないわけだ。

数十年前まで親日の代表国だったチャイナや韓国が、いまや正反対になったことはいまでは小学生でも知っているはずである。

世の中ではそういうことが頻繁に起こるのである。


(か)真実は無

こうなると、結局、一番真実に近いリアリティーの高いことを言っていたのは、ひょっとしたら、

無の思想

の福岡正信さんだったかもしれませんヨ。

結局、この世界にはなにもない。良い悪いはなにかにそう信じるように洗脳されただけのことで、自分が勝手にそう信じ込んだにすぎず、現実世界にはそんなものははじめから何もなかった。

いまの正論がその後また非常識な誤論になるかもしれないし、そのあたりは、素粒子論の坂田の発展理論のようなものかもしれないわけである。ぐるぐる堂々巡りしながら人間は先に進む。昔の文部省のスパイラル教育のようなものですナ。



いやはや、世も末ですナ。






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by kikidoblog2 | 2019-03-19 12:36 | 個人メモ

個人メモ:「論文数の数え方」と「日本の論文数世界ランク』→やはり統計のマジックだった!?   

みなさん、こんにちは。

今回は個人メモである。私自身の備忘録としてメモするため、一般の人には関係ないからスルーを。


(あ)論文ランキング

さて、最近私がちょっと気になったのは、いわゆる「論文ランキング」というものだ。

私が大学院生の頃のバブル全盛期の日本では、我が国の研究論文は米国の次で二位。人口も半分。

それもそのはずで、当時1980年代我が国の人口は米国の半分の1億2000万人だったが、米国の研究者人口は日本のそれのほぼ10倍だった。

なぜなら、日本の大学が総数500程度だとすると、米国は2000ほどあった。その内、日本の旧帝大レベルの国際競争力のある研究者のいる大学が20程度だとすれば、米国のいわゆるリサーチユニバーシティーと呼ばれる研究大学が200ほどあったからである。この辺は昔以下の本で議論した。

何が科学をつぶすのか?
三セクター分立の概念

あれから30年。

今や我が国の研究論文数は、科学技術基本法成立、年5兆円の科学研究補助金、特許法改正、大学法人化、大学院改革、ポスドク精度確立、。。。などのさまざまの諸政策にもかかわらず、減る一方で、いまでは世界ランク6位にまで落ちたというのである。

バブル崩壊しても不動産価値は落ちない。住宅の敷金礼金や賃貸料は落ちない。

これと似て、バブル崩壊しようが日本沈没しようが、研究費だけは増額の一途であった。

それなのに、その結果として現れるはずの論文ランキングが急落した、というのだ。

何か変だ!

と思うのが筋だろう。

我々の学生の時代と違い、今の大学では、大学生から結構良い額の奨学金が手に入る。我々の時代院生のほぼ全員が塾でアルバイトしながら生活費に当てていた。奨学金だけでは足りないからだ。

ましてやポスドクもなく、オーバードクターしかなかった。オーバードクターになると、大半がメインが塾や仕事や親からの仕送りでまかない、奨学金すら特別の奨学金が当たらない限りあり得なかった。

そんな情況で数少ない論文を公表していても、世界2位だったわけだ。

それが、いまのポスドクだらけ、大学や研究所全体に昔の地方公共事業費に相当する年5兆円が科学分野に使われ、それが各大学に分担された。

なのに論文を生まなかった???

はあ〜〜???

となるだろ。だれだって。

とまあ、この辺で実際のデータはこんな感じらしい。

(い)世界ランク6位に後退

論文数世界ランキングで日本は6位に後退

全米科学財団(National Science Foundation, NSF)が、世界の科学技術の動向をまとめた報告書Science and Engineering Indicators 2018を発表しました。2016年の論文数世界ランキングで、日本は6位。論文総数が減少傾向にある国は日本だけで、その凋落ぶりが際立ちます。

論文数ランキング1位は中国 、以下、2.アメリカ、3.インド、4.ドイツ、5.イギリス、6.日本。7.フランス、8.イタリア、9.韓国、10.ロシア、11.カナダ、12.ブラジルの順。
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(出典:Science and Engineering Indicators 2018)

中国の台頭は、総論文数だけでなく被引用数ランキングトップ1%論文のランキングで見ても、著しいものがあります。
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(出典:Science and Engineering Indicators 2018)

ちなみに前回の報告書Science and Engineering Indicators 2016では、日本は3位でした。Science and Engineering Indicators 2018のレポートでは、ドイツ、イギリス、インドに抜かれて6位に転落したということになります。
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10年前の報告書

日本が論文数2位という時代が、かつてありました。
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(以下省略)



(う)昔より今の方がネット発達で論文が出しやすい!

このように、データでは我が国の論文数は非常に少ない。

研究費も研究制度も研究第一にシフトしたのに結果が逆に出た!

これは何かがおかしい。

我々の時代では、論文をPRLとか世界最高の研究雑誌に出版するとき、

1ページ=10万円

だった。安く見積もっても、

論文1本=10万円

かかったわけだ。

これはあまり我が国の一般人は知らないが、研究は慈善事業ではない。ましてや営業でもない。だから、論文は研究所や大学や個人ベースで出版費を支払って論文を公表するのである。

論文を売っているのは雑誌社の方で、著作者ではない。

というのも、当時は論文をその雑誌の体裁にあうようにタイピストが必要で、そういった編集人の人件費がかなりかかったからである。外国の著者も米国の著者もみな等しくその経費を論文出版費とその論文の別刷りの購入費を支払ったわけだ。

私がここ阿南に来た当初はまだ別刷りも論文経費も自腹で支払った。

ところが、インターネット配信など論文作製ソフトが発達したら、そういう経費がゼロになった。もうタイピストも必要なければ、論文編集人も必要なくなってしまったのだ。

出来上がった論文はpdf化されて、その雑誌社の帰属の製品になって、ネット上で販売される。著作権も雑誌社に帰属するようにサインする。

だから、いきなり私のようなフリーの科学者もあまり経費がかからなくてすむようになったわけだ。つまり、論文が格段に出しやすくなった。

だから、30年前と比べて今の方が論文数は自然に増えなければならないのである。

なのに世界ランク6位に後退!

やはり何か変だ!


(え)論文数のカウントの仕方

そこで論文数のカウントの仕方を考えてみると、結構興味深いことがある。

それは共同論文の数え方である。

つまり、その研究論文の著者が複数人いて、日本人、米国人、中国人、韓国人とか、たくさんの著者がいる場合、その論文をどう数えるか?

4人いたら、1/4本 になるのか?それぞれ1本になるのか?

このあたりがどうなっているのか非常に気になる。かなりグレーである。

ちまたの統計では、まさに国会の統計不正のようなことがこの辺りで起こりそうだ。実際2つの計算法があった。

まず第一がこれ。

(1)第一著者だけカウントする方法

この場合の例がこれだ。

PubMed論文から見える各国の研究システム(論文紹介) 2014年12月15日| 情報提供・利用,北米・中南米

F1000 Research掲載論文"Countries' Biomedical Publications and Attraction Scores(試訳:国別の生物医学論文とアトラクションスコア)"を紹介する。この論文は、PubMed掲載論文を評価して、各国の研究システムの特徴を分析したもの。

抄録より抜粋:

調査方法:筆頭著者の国籍、年度ごとの論文数を数え、それぞれの論文について臨床試験あるいはレビューといった「研究のタイプ」、公衆衛生と薬理ゲノム学などの「研究領域」、「テーマ」を評価し、得点化(Attraction Scores)するとともに、規制政策との相関分析によって、これらAttraction Scoreの潜在的用途を調査した。スコアは人口、GDPなどの一般的指標で加重した。

2008~2012年の5年間における論文数は米国が最も多く、1人当たりの論文数で換算するとデンマークが最も多かった。GDP上位40か国のうち、GDPに対する論文数が最も多いのはイスラエルであった。人口の多い上位20か国のうち、日本はiPS細胞に対するAttraction Scoreが最も多く、イタリアはレビュー論文の比率が最も高かった。英語論文の50%は英語を母国語としない国の論文であった。


これだと、複数の著者のある場合は、第一著者だけを計算する。

こうなると、お金を出しているプロジェクトリーダーが日本人であって最後の著者になっている場合、論文数から消えるのだ。

科学世界の一般常識として、有名教授やプロジェクトリーダーは一番最後に名がつく。しかし、このカウント法ではそれが全部消えるし、その著者の指導を行った第二著者以降の著者も論文数から消える。

(2)整数カウント、分数カウントの方法

それに対して別の系統のカウントの仕方がある。これに詳しいのがこれだ。

カウント方法による分析

論文数上位国を対象に、論文数を整数カウント、分数カウント、整数カウントと分数カウントの差をデータベース別・分野別に計算したものである。 整数カウントは例えば一つの論文を複数の国で共同執筆した場合、それぞれの国に1本ずつ計上し計算する方法であるのに対し、分数カウントは、一つの論文を国の数で除して計算する方法である。 その差が大きければ、共同執筆が多いことになる。

2011年のESIにおいて、国際共同執筆が多いのはロシアで、論文数は、整数カウントで116本、分数カウントで34.26本、その差は約82本である。 全体の70.5%近くが他国との共同研究である。分野別にみると、物理学の分野が整数カウントで60本、分数カウントで11.68本、その差が約49本となっているので、全体の80.5%が国際共同執筆となっている。 宇宙科学も国際共同執筆の多い分野である。

アメリカ衆国の論文数は、整数カウントで4,367本、分数カウントで3,137.87本、その差が約1,230本で、全体の35.9%が、国際共同執筆となっている。 分野別にみると、宇宙科学の分野で圧倒的に国際共同執筆が多く、2011年には整数カウントで95本、分数カウントで45.82本、その差が約50本で、全体の51.8%が国際共同執筆である。

また、同年の日本の論文数は、整数カウントで536本、分数カウントで341.24本、その差が約195本、全体の36.3%が国際共同執筆で、アメリカ合衆国、中国に続いて、共同執筆の割合が少ない。

次にデータベースWoSでみてみると、2011年のアメリカ合衆国の論文数は、整数カウントで369,690本、分数カウントで305,476.33本、その差は約64,214本、全体の17.1%となっている。 分野別にみると、宇宙科学の分野が最も国際共同執筆が多い。 2011年の論文数整数カウント及び分数カウントにおいて、世界第2位となった中国は、整数カウントで148,657本、分数カウントで129,115.5本、その差が約19,542本、全体の13.1%が国際共同執筆である。 インドよりもその割合が少なくなっている。

WoSの国際共同研究執筆の割合とESIのそれの間で差が少ないのが、アメリカ合衆国で、2011年で11ポイントとなっている。 ロシア、イタリア、インド、スペインは30ポイント以上の差があり、高被引用論文を算出するためには、国際的な共同執筆が必要であることを物語っている。


要するに、整数カウントは著者のそれぞれが自分の国から出版したことにする計算法。分数カウントは自分の貢献度を参加人の数で割ったもの。だから、4人が著者なら自分は1/4になる。それをその国籍のカウントにする。

この整数カウントで国際比較したものがこれだ。

TOP10%論文数の国際シェア推移(分野別, 1996-2015年)
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これを見た限りでは、日本が6位になったといってもそんなに差がついているわけではなかった。

アメリカの減り方に比べたら我が国はまだずっとましである。

異常なのは中国の増え方である。


(お)なぜ中国が増え、日本が減ったか?

この問題の研究分析はいまの脚光をあびるテーマらしい。たとえばこれだ。

2F15 日本の論文数はなぜ減少したのか : その前に「なぜ論文を書くのか」(〈ホットイシュー〉第5期科学技術基本計画策定に向けた政策分析(4),一般講演)
2000 年代になって世界では日本だけが論文数を伸ばさなかった。「研究成果を論文発表することは、最も創造的な営みのひとつ」であるから、これは日本の創造性が衰退し始めた兆候と考えてよいだろう。本研究の目的は、論文数の減少がなぜ問題なのかを考えながら、日本の論文数が2000年代に伸びを失った原因を明らかにし、日本の科学研究が創造的な発展を遂げるための方策を探ることである。日本の論文数の推移を研究分野ごとに詳細に分析した結果、物理、物質科学、生化学・分子生物学などサイエンス型産業を支える基幹科学の論文数が2003年前後を境に急減し、一方、サイエンス型産業の一翼を担う化学の論文数が急減しなかったことを見出した。日本全体の論文数の停滞と、物理と化学の論文数の増減パターンの違いの原因を明らかにするために、論文数と博士課程学生数との相関性を比較検討した。日本全体の論文数と博士課程学生数とのあいだには非常に高い相関性がみられたが、物理では、学生数の変動が6年後の論文数と高い相関性があることを見出した。2000年代初頭に物理論文が急減した原因は、1990年代後半のサイエンス型産業(特に半導体)の衰退が引き金となって、物理専攻の博士課程学生数の減少を招き、数年後の若手研究者の減少という事態に至る連鎖的反応であることが分かった。


まあ、米国の衰退と日本の衰退は同じ原因なんですナ。

この著者が言わんとしたことは、半導体産業が飽和して衰退した結果、理系の学生は大学や企業の研究職ではなく、金融関係に就職することになったことが原因ということである。

思いだせば、私がアメリカに留学した30年前。すでにアメリカでは物理の学生は研究者ではなく、金融マンになる道や公認会計士(CPA)になる道を選んだ。証券会社や銀行員や保険や会計士、こういった職業につく方が大学の研究者になるよりお金が得られたのである。職もあった。

その結果が今に出ているわけだ。

アメリカがインフルにかかると10年後20年後に日本がインフルになる。と言われて来たように、李晋三首相が言ったように日米運命共同体である。だから、10年20年後にアメリカと同じ症状が出る。

これが戦後74年間の我が国の歴史である。

常にアメリカを良い方も悪い方でも模して来た。そのこころが今になって出て来ているわけだ。

実際、我が国の最近の理系の卒業生の就職先も研究職ではなく、文系や経済界やビジネス界に就職している。商社や銀行や証券会社やコンサルタント企業。。。である。こうした企業の計算部門やデータ処理部門に配属され、数学者でもAI化などのソフト製作、アプリ作製を任される。

こうなると、論文は書かない。ビジネスだから、すべてが秘密になるわけだ。

ということは、日米で科学技術が論文ではなく、特許とか、企業秘密化されている傾向があるのではないかという疑念が生まれる。

発展途上国は無知だ。論文を出すことが名誉となるが、先進国は論文出してもただでは喜べない事情がある。

論文に書けば、韓国や中国やメキシコやブラジルに真似されるわけだ。


(か)あまり深刻になる必要はないのでは?

というようなわけで、数値データを見た限りでは、我が国の論文数が世界ランク6位に後退したからといって、そう悲観する必要はないのではないかと思う。6位といっても2位3位からダンゴ状態である。

アメリカは大学数が世界一多く、研究大学数も世界一多い。研究者人口も世界一である。

だから、だんとつなのはあたり前。

そのアメリカの人口は日本の3倍に跳ね上がっている。もう3億人を超えている。日本は1億2千万人を下り、いまや1億人程度、噂では実際には日本人は8000万人を切っているとか。在日や外人が2000万人いるわけだ。

だから、研究論文が減るのは当然。大学も少子高齢化で学生数が減っている。


(き)理研が頑張っているはずなんだが?

ところで、理化学研究所(理研)にFranco Noriという理論物理学者がいるのだが、グループリーダーとして私が理研を出た数年後の2002年にアメリカのミシガン大から入所したという。

私はユタ大時代からこの人の名前は知っていた。なぜなら私とまったく同じ1次元準周期系の理論を研究していたからだ。まあ、当時としてはたくさんいる研究者の1人でごく普通の研究者だと思っていた。

その頃はその人が理研に来てから、そこのグループリーダーになり、大丈夫かとOBの私は思っていたんだが、最近まですっかり忘れていた。

ところが、最近その人の論文数が話題になっていたから調べてみると、ミシガン大と理研の2つの職を持っていて、なんと公表論文数が800本を超え、PRLの論文も130をはるかに超えているというのである。

なぜこれを知ったかというと、先日買った外村彰さんの「目で見る美しい量子力学」という本の中にこのNoriさんが紹介されていたからだ。なんと理研にNoriさんを引き抜いたのはこの外村博士だったのだ。

それから、10数年。

Noriさんは破竹の論文数の増加を遂げた。

その間、私はせいぜい数十だから、私の一桁多い数を公表していたわけだ。

日本の理研と米国のミシガン大の両方に職を持つ人の論文は、どうカウントするのか?

整数カウントだと日本と米国の論文が増えるはず。しかし、第一著者カウントだと、その著者の国だけが増える。

理研に一人でこれだけ論文を出す人がいても日本の論文数が増えない???

何か変だ。

要するに、ちまたの統計は第一著者カウントではないのだろうか?

こうなると、科学技術基本法やポスドク制度で国際化したおかげで、外人をたくさん雇用すればするほど、我が国の税金が使われるが論文数がカウントされなくなるわけだ。

研究費の無駄遣い。盗まれ損としてカウントされるのである。

日本人スタッフの手を借りて日本国民の血税で研究しただけの第一著者の中国人が中国の論文数になり、指導した方の日米の指導者の国の論文が減る。

どうも最近のデータはそういうことをいっているだけじゃね〜〜のかいな?

中国の論文が増えたのは、先進国の大学や研究所に留学した中国人が、それぞれの国の素晴らしい研究者の指導者の知恵とその国民の血税をもらって作った論文を自分の国のものだと計算できる、そういう統計のマジックではないか?

たぶん、中国人は第一著者になりたがる傾向があるのでは?

やはりインチキ統計なんでしょうナア。


この意味では、やはり日本国民の税金は日本人研究者だけに使い、財団とかそういう方の慈善事業の研究費で外人を雇うべきだろう。外人を雇えば雇うほど日本の貢献度が下がってしまうわけだヨ。

カラクリが分かってしまうと、もはや悲しさがこみ上げる。当然強い怒りもこみ上げてくる。


いやはや、世も末ですナ。





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by kikidoblog2 | 2019-02-25 19:34 | 個人メモ

久しぶりにそごう紀伊国屋に行く:なんと12才児の書いた量子力学が出ていたヨ!?   

みなさん、こんにちは。

ついでにこれも。

昨日はたまたま徳島駅まで用事があり、当直帰りの奥さんを迎えに行くまでの数時間、徳島そごうに寄って、最近の科学の本をずっとひとり立ち読みしていたんですナ。

しかしその日はドライブ用のコンタクトだから、1m以上離さないとピントが合わない。というわけで、超遠目に眺めることしかできなかった。

が、いくつか勉強になるものをひたすら眺めて読んでいたのである。やはり俺は本の虫の一種。本に囲まれているとなぜか元気が出る。

戸棚の順番に従って、科学一般、生物、物理、数学と見ていったわけだ。欧米では数学部の方が物理学部よりずっと大きいから、やはり数学書の方が新刊書が多い。

ところで、なぜそうか?なぜ欧米の大学では数学部の方が物理学部より大きくてリッチかご存知だろうか?

理屈は簡単。

数学は学問の女王、一番古く、かつ現代の人文科学すべての分野、つまり、文系理系のすべての学問で必須だからである。

だから、数学部では、初等数学(中学の数学)、中等数学(高校大学1,2年度の数学)から、高等数学(学部の専門課程で必要な数学)や高級数学(大学院の物理数学のための数学)まで、一括して教えるからである。

その数学部の大教室に各学部の大学生が学びにやってくる。コンピュータ学部も、建築学部も、物理学部も、生物学部も、化学部も、。。。みな、初等線形代数学を学びたければ、数学部のそのコースを受講せよ。

こういうスタイルが欧米式の数学教育のスタイルである。だから、数学部が授業料をたくさん取ることができ、多くの数学者を雇うことができる。

日本で言えば、塾経営に似ている。それがアメリカ式だ。



さて、まずは、思わず衝動買いしてしまった本。

(あ)外村先生の量子力学の本。

量子力学を見る―電子線ホログラフィーの挑戦
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確か私がまだ富士通にいた頃、1991~1993年、ちょうどこの本が出るちょっと前だが、私は彼らの電子線 ホログラフィーで超伝導物質の表面を見るという実験論文を読んだことがある。そして、その奇妙な実験結果の中に左右対称のものと左右非対称のものがあることに気づいた。

そこで、左右非対称のパターンの場合は、その中心に1/2の半整数のモノポールができている、それを彼らは発見したのだという論文を書いたことがある。レフェリーから(たぶんそのグループのだれかだろうが、ひょっとしたら外村先生だったかもしれないが)、その人物から、

お前は論文出す前にどうして彼らに送らないんだ

というお叱りの意見が来て没になった。

それ以後、この論文は出版していないのだが、結構勉強になった記憶がある。

その後、私が理研に移ってから、この本が出たことは知っていたが、昨日まで一度も中を見たことがなかった。

なぜなら、おおよそその内容が想像できたわけだからだ。

じゃあ、何故買ったか?

というと、最後の最後までほぼ私の予想通りのある程度私が知っている内容の詳細だったが、その最後の最後のこの一文に惹かれたからである。

「でも、電子1個1個見るような実験をしている研究者にとって、量子力学は、電子の挙動すら予測できない情けない理論である。これで“法則”とか“理論”と言ってよいのかすら疑問になるときがある。」

この一文を座右の銘にするために買ったと言っても過言ではない。

その後の文章も実に興味深いのだが、それは買って自分で読んでもらいたい。そういう外村彰先生は8年ほど前に急逝された。ご冥福をお祈りいたします。


(い)ハインリッヒ・ヘルツの伝記

これはハインリッヒ・ヘルツの伝記である。

ハインリッヒ・ヘルツ
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この本の翻訳者、重光司さんにはぜひ「スタインメッツ自伝」も書籍化してもらいたい。明治時代にすでに翻訳があるが、私にはそれを現代日本語訳にする時間がない。まあ、一度は、書き始めたがまだ最初で頓挫。

ニコラ・テスラがもっとも尊敬した人物2人のうちの1人。一人は、ウィリアム・クルックス。そしてハインリッヒ・ヘルツ。

私もヘルツの論文は手元においてある。英語版と明治時代の翻訳版の両方持っている。

だから、いつかヘルツの話は読みたいと思っていたんですナ。それがそこにあったため、買うことにしたわけだ。


(う)天才登場!?我が国にウィーナーのような天才少年がいた!

数学にも物理にも面白そうな本があったが、やはり数物の本は値段が高すぎる。5000円以上の本では、だれも読まない。結局大学や図書館くらいしか買えないだろうが、そういう場所も予算削減であまり高い本は買えないから、一般人が目にする機会が減る。

アニメがどうして世界制覇を果たしたか?

というと、本が安い。せいぜい数百円で買えるというのもその秘訣になっている。

5000円の本を2000部刷ると、10000000円になる。500円で20000部刷る場合も同じ金額になるはずだが、書店では、その本を500円では作れない。しかし漫画ではそれができている。

このあたりに科学界の生き残りのテーマがあるのでは?

ハードカバーとペーパーバック。そしていまはそれに電子本、キンドル本が加わった。

専門書のキンドル化?

さて話をもとに戻し、天才君のことをメモしておこう。

なんと12歳で量子力学の教科書を出版した逸材が我が国に存在した。その名は

近藤龍一君

であった。ドラゴンだ。ぜひこの名前を覚えていて欲しい。その本が2014年で12歳。いまは高校生くらいだろうか?

東大、京大、名大、。。。ハーバード大など引き抜き合戦があるかもな。

12歳の少年が書いた 量子力学の教科書
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書店でみたところ、帯の解説はあの久米宏さんだった。

「自分は彼が9歳のときに会ったことがある」

というものだった。要するに、天才児の取材かなんかで彼にインタビューした経験があったようだ。

本の内容はそれほど驚くものはないが、いわゆるテレビに出てくる東大京大のクイズ王たちのように、幼少の頃から本が好きで、3歳位から本を読み始めて、9歳には量子力学や数学の勉強を始め、3000冊以上の本を読み、12歳のときには古今東西の量子力学の本を完読。そして世に出回る量子力学の教科書には不満足になったという。

それで自分で量子力学の教科書を書こうと思い立ったという。そうやってできた本がこれだという。

専門家と非専門家とをつなぐ量子力学の本。しかしながら、我々理系人とちがって、小説から文系ものまで何でも読んでいるらしいので、間に挟まれる著名人の文章の引用が素晴らしい。

まさに理系の藤井聡太君のような天才児である。


ところで、戦後70年。一世紀近く平和が続くと、我が国で次々に天才児が現れてくる。

スケートの羽生結弦選手、水泳の池江璃花子選手、将棋の藤井聡太7段、。。。

だから、万葉時代の平和の時代、江戸時代の徳川平和の300年。明治大正の65年。

日本で平和が続く時、ぞくぞくと天才が生まれてくる。

なにか秘密がありそうである。これについてはまたいつか。


(お)南部陽一郎のノーベル賞記念本。

素粒子論の発展
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南部陽一郎先生の待ちに待ったノーベル賞受賞のおかげでできた、ノーベル賞祝いの本である。

この本をつらつら眺めていると、中にエーテルの話があった。そこを読んでいたんですナ。

やはり南部先生もエーテルの存在を信じていたようだ。ただし、南部先生が考えるエーテルは昔の人が考えたエーテルとはだいぶ違うようだ。

要するに昔は電子程度の素粒子を考えていたが、いまはたくさんのタイプの素粒子も存在するようなタイプのエーテルである。

そしてちょっと見た一節には、

エーテルは乱流か?

というものがあった。

その中には、ケルビン教ことウィリアム・トムソンの「渦原子」の話があった。

原子の素としては役立たなかったが、素粒子の素としてはこのアイデアは先んじていて役に立つ。それが、ひも理論の始まりだと書いていた。

しかし、真空中で紐を生むにはそれなりの力が必要で、そのためにはエーテルが乱流になっているのかどうか?

とまあ、こんな話であった。


まあ、現代の素粒子論者のやり方は、物性論と数学の間を行ったり来たりする。そして物性理論家が超伝導理論をみつければ、それを素粒子に焼き直して、素粒子の質量のモデルにする。物性理論家が、準周期系を発見すれば、それを宇宙論のインフレーション理論のモデルにする。物性論者が、超流動の素励起を見つけたら、それをひも理論のモデルにする。

とまあ、こんなことを行ったり来たりしているわけだが、どういうわけか私はこのやり方が気に入らない。彼ら素粒子論者はこれが自己矛盾だとは考えない。

まさに別の国同士で行ったり来たりして、その差益で利潤を上げるユダヤ商人の手口にしか見えないからだ。


そもそも素粒子の時代には人間など存在しないわけだから、その世界の理屈がずっと後に誕生した人間の言葉で語れるはずがない。そもそもその必要もない。

そう思うわけだナ。

宇宙はそんなに我々人類を特別視しているはずがない。

ところが、始めに言葉ありき、最初に光あれといったで始まる宗教の民はどうもその世界観から逸脱できなわけだ。

だから、世界をどうしてもそれに合うように合わせていく。

ビッグバン。インフレーション。。。。

言い換えれば、ユダヤキリスト教の焼き直しに過ぎない。


どうも私が素粒子論に馴染めないのはそういうところにあるように思う。

彼らは自意識過剰なんですナ。その最大の自意識過剰が

人間原理

というものだろう。

南部先生はそんなユダヤ人の学者に取り巻かれた世界に住んでいた。だから、思想が日本人離れしていたわけだ。私に言わせれば、ユダヤ的化していた。あるいは、ユダヤ思想に洗脳されていたんですナ。


仏教の仏門で修行し直した数学者の岡潔のように、数学を使わない数学を構築したいとか、そういうふうなレベルには行かなかった。

しかしながら、現代までの素粒子理論のアイデアの変遷を知る学ぶ応用するという意味では、必読の本である。

南部先生のご冥福をお祈りしたい。


さて、他にも数学にも興味深いものがあったが、また今度にしておこう。

12才児が専門書を書く時代に私はまだ自分の専門書を書いていない。いやはや、これでプロの理論物理学者と言えるかっていうわけですナ。自戒しておこう。


いやはや、世も末ですナ。






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by kikidoblog2 | 2019-02-17 11:44 | 個人メモ

個人メモ:「俺の夢の話」2→「金融世界に名だたる敏腕トレーダーの引退前の独り言!?」   

ゆめ
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みなさん、こんにちは。

さて今度は個人的メモ。普通の人はスルーでよろしく。


さて来ました週末。今朝も一度数時間熟睡。一度トイレに行ってまた熟睡できた。いわゆる二度寝。

すると、この2時間でまた総天然色カラーのリアルな夢を見たのである。


俺は、なんと俊敏金融トレーダーになっていた。どこの国かはわからなかったが、たぶん日本だろうな。巨大なマーケットの取引所の中をゆうゆうと闊歩するトレーダーだった。

取引所は高層ビルにあって、巨大な中空の部屋で天井がずっと上まで吹き抜けで、そこを取り巻くような感じで別のお偉方の部屋があり、部屋のその前には中の取引所を見下ろすようなテラスがある。

俺はすでにそういう金融取引のメッカの世界を何十年もわたり歩き、ある程度成功した誰もが一目置くような存在らしい。そんなトレーダーになっていた。

そして、そろそろ年齢的に引退も近づいたのか、俺はこの取引所のずっと上の方にある部屋の前のテラスを歩き回りながら、ひとりぶつぶつと一人自分の人生を回顧するかのように、そしてこれから来るかも知れない若者たちのために、自分の経験に基づいた感想を言って歩いていた。

とまあ、こんな感じの夢だった。

もしこの夢の詳細を全部文字起こししたら、きっと黒澤明監督の「夢十夜」とか、岡潔博士の「春宵十話」のようになってしまうだろう。

まあ、俺の場合、「真冬の夜の物語」とかそんな感じですナ。寝苦しい真夏にこんな夢を見るとはちょっと想像し難い。

さて、興味深いと思ったことは、この夢の中の人物、というのも、俺の夢では、俺はその人物を中心にリアル映像を見ているが、決してそれが俺ではない!ということだ。俺は神様のように、あるいは、アバターのモニター画面でそいつの行動や頭の中を見ているような感じだった。

だから、そいつのことは手に取るようにわかるが、決して夢を見ている俺自身ではなかったのだ。

ちょうどサッカーのミッドフィールダーでかなりの能力を持ったものだけが可能になるという、あの空から全体を見るという鳥瞰能力。これに近かった感じがする。

とにかく、そのトレーダーは俺でもあるが、俺ではない。

その人物が自分で語ったことはこんなことだった。

金融世界の問題点の一番の原因は、デイトレーダーというように、だれにでも金融界に入ることができることだというのであった。

つまり、許認可制度、あるいは、免許制度、あるいは資格制度のように、一定の資格を得るまでデイトレーダーになれないようになっていない。だれでもパソコンとネットが使えれば、株やデリバティブや債権などを買うことができてしまう。こんなことは金融界だけだというのである。

たしかにそうで、もし医療界で手術室とメスなどの医療器具を買い揃えられたら、だれでも手術をして良いとなったら、大変な事態に陥るはずである。

教育界もそうだろう。他のどの専門分野でも同じようなことが言えるわけだ。

ところが、金融の世界、金の世界だけは、その点が極めてルーズになっているとそいつは言う。

そして、それは結局、一般庶民からお金を奪うことが本当の狙いなんだと教えるわけだ。

もし金融の世界が一般人のお金を狙わず、一般人の普通の生活を守りたいと考えるなら、彼らプロトレーダーはプロ同士で勝負する。ところが、もっと金を儲けたいがために、その世界のことをよく知らない一般人まで参加できるようにしたというわけだ。

結局損をするのは一般庶民。あるいは、金融の世界を知らない人たち、これには官僚も会社のトレーダーも入る。

だから、富むものは益々富み、富まざるものは益々富まなくなった。


そのあたりで俺は二度目の睡眠から冷めたんですナ。だから、その敏腕トレーダーのご意見が実にもっともでよく覚えているわけだ。だから、こうして一応個人メモの形でメモしておくことにしたんですナ。

さすがに敏腕トレーダー。おっしゃることが奥が深い。


ところで、俺自身は金融界も知らなければ、トレーディング・カンパニーも見たこともなければ、聞いたこともない。行ったこともない。

せいぜいテレビのハリウッド映画やニュース映像程度を眺めた程度にすぎない。だから、普通ではこんなことは考えつかないに違いない。つまり、俺が意識的に考えたとしてもその結果はたかが知れている。

しかしながら、この敏腕トレーダーの

「金融世界のトレーダーを資格化せよ、専門家せよ」

というご意見は、実にもっともらしく聞こえる。

が、これは俺の意見ではない。あくまで俺の夢の中の敏腕トレーダーの意見なのだ。

またまた不思議な事が起こったが、こういうのをなんというべきだろうか?

俺の夢の意見、俺の夢のアイデア?



それにしても、十分すぎるほど眠ると、どうしてリアルな夢を見るんだろうか?

かなり頭が整理整頓されて、その結果をリアルに再現し直しているのだろうか?

いずれにせよ、その内容は非常に明確に覚えている夢とまったく思い出せない夢がある。

すごいいい夢だったのに思い出せないというのは困りますナ。

ひょっとしたら大発見しているかも知れないしナ。


まあ、俺もそのうち夢も現実も区別できない日も近いのかも知れないですナ。



いやはや、世も末ですナ。






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by kikidoblog2 | 2019-02-17 09:16 | 個人メモ

個人メモ:「俺の夢の話」→夢にもリアルに覚えている夢とそうではない夢がある!?   

ゆめ
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みなさん、こんにちは。

さて今度は個人的メモ。普通の人はスルーでよろしく。

我が家の朝は早く夜は遅い。だから平日は普通4〜5時間睡眠である。しかし週末は奥さんが遅くまで寝るので、たまに俺もゆっくり眠る時があるが、寝すぎると腰痛が出るのでせいぜい7〜8時間でオーケー。とはいっても中高年は頻尿で数時間おきに起きるから、その間に1〜2回はトイレに起きる場合もある。

そんな中最近気づいたのは、4〜5時間睡眠では熟睡しているせいか夢をまったく思い出せない。あるいは、夢を見ていない。

ところが、7〜8時間眠った時は、きまって起きる間際に何かの夢を見ているらしいということだ。

それも天然色カラーのフル映像の映画のようなリアルな夢だった。

しかも起きてもその夢をはっきり覚えている。

どうしてなんでしょうナア?


だから、毎週末1つ夢を覚えていた。まあ、しかしそれを記録してメモしておかないと徐々に忘れてしまう。

2週間ほど前の週末の夢は、私が論文を一つ書き上げている夢だった。夢の終わる直前には、まさに私の夢であった非平衡統計力学の論文の完璧な完成版をすでに書き上げたばかりだった。

起きた途端、ああ夢だったのか?

という感じだったが、その論文の内容はいまも頭に残っている。

が、残念ながら、現実ではいまだにそれをLaTeXに打ち込んでいない。だから、現実にはまだ一向に論文になっていない。


そんな感じで先週末も夢を見た。

それは、なんと、いまの安倍晋三こと李晋三政権に物申す、少子高齢化対策の夢だった!

どうすれば若者を結婚に踏み切らせることができるか?

これに対する妙案の夢だった。

まあ、実現可能性があるわけではないが、いまもその夢の解決策をしっかり覚えている。


それは、結婚礼金を新郎新婦とその両家系にくれてやるというものであった。

これは今の俺の意見ではない。

あくまで俺の夢のなかで出てきたストーリーにおける解決策である。

こういうのはなんて言えば良いのだろうナア。

夢のお告げ。俺の夢の意見。


要するに、日本政府からのセーフティーネットの一貫として、ご結婚する新郎新婦に300万円のお祝い金兼支度金を渡す。

また、ここまで新郎新婦をお育ていただいたそれぞれのご家族にそれぞれ300万円のお祝い金をあげる。

おおよそ結婚式1つに対して、900万円国からお祝い金を出す。

すると、新郎新婦は結婚式代やハネムーン代が国から来ることになって、結婚しやすくなる。また、子供を無事結婚させることができれば、親も助かる。親は新郎新婦やいろいろな工面でお金もいる。

こうして、かなりの消費が生まれる。

結婚式代がなくて結婚できないカップルや躊躇しているカップルには格好の結婚支援になる。


同じ額を銀行に支援しても銀行は貸し渋りでお金が回らない。あるいは、日本国内に投資するのではなく、結局海外に流出するだけになる。

企業に優遇税制で金を支援しても、その分企業留保で会社に貯めるだけで外に回さない。これまた下手をすれば海外に流出するだけだ。

だから、社会の上層部に国が支援しても景気は改善しない。

それよりは、一般人に投資すればいいが、一般人にそのまま投資しても、遊びに使い、パチンコに使うだけ。宝くじはみずほ銀行を経由して韓国に流れるだけ。パチンコは創価地下銀行を通じて北朝鮮に流れるだけ。

ゆえに、まったく少子高齢化の歯止めにはつながらない。

そもそも結婚しちゃんとした男女の家庭を作ることにつながらない。


というわけで、俺の夢では、結婚する新郎新婦に300万円、そのご家族に300万円ずつ渡すというストーリーだったわけですナ。

まあ、ドリームカムトルーの「夢のアイデア」ではなく、「俺の夢」のアイデア。

結婚したら300万円くれるんだったら、俺も即座に離婚して再婚すると思うがナ。

だから、離婚にはペナルティーも必要かもナ。

何事にも穴がある。禁じ手がある。


我々日本人は禁じ手はあえて狙わないが、シナ人や朝鮮人や外人はあえてその穴を狙う。


それにしても、十分すぎるほど眠ると、どうしてリアルな夢を見るんだろうか?

かなり頭が整理整頓されて、その結果をリアルに再現し直しているのだろうか?

いずれにせよ、その内容は非常に明確に覚えている夢とまったく思い出せない夢がある。

すごいいい夢だったのに思い出せないというのは困りますナ。

ひょっとしたら大発見しているかも知れないしナ。


まあ、俺もそのうち夢も現実も区別できない日も近いのかも知れないですナ。



いやはや、世も末ですナ。








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by kikidoblog2 | 2019-02-14 16:41 | 個人メモ

物理学を学ぶ3つの道:「物理数学」、「微分幾何学」、「確率論」の三種。俺は第3の道が好き。   

"Nature controls everything, even in an atomic scale
as Buddha recognized a long long time ago."
by Kunio Yasue from " It Appears!".

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「神の物理学」4:「2つの遺言」→「神の物理学」に込められた「2つの遺言」を解き明かすものは誰か!?



みなさん、こんにちは。

さて、もう一つメモしておこう。今回は物理や数学に関する個人的メモだから、おそらく普通の人には関係ないからスルーして欲しい。


現代物理を学ぶ場合、おそらく2つの方向がある。普通のやつも含めたら3つかもしれない。

(1)現代物理数学から入る方法=普通のやり方

これは、いわゆる物理学者用の「物理数学」というものを学んで物理の教科書を学ぶというやり方。これが普通の大学、大学院の授業や講義の十八番である。

(2)現代微分幾何学から入る方法

これは、のちのち一般相対性理論を学ぼうとして、トポロジーとか微分幾何学とかを学んでいって、素粒子論や場の量子論や超ひも理論を勉強していこうというようなやり方。おそらくいま現代では花形の主流のやり方。

この分野は先日なくなったアティヤーのアティヤー・ジンガーの指数定理とか、微分形式とか、コホモロジー理論、ホモロジー理論とか、トポロジーとか、いわゆる数学の多様体論とかのテーマと結びつく。

この最先端が望月新一博士のIUT理論であると言えるかも知れない。いずれにせよ、普通の「最先端数理物理」と普通の科学者が思う分野はこれだろう。

(3)現代確率論から入る方法

これら2つの従来の学び方に対して、ある意味では「異端的」なやり方が、おそらく保江邦夫博士が見出した方法であるかも知れない。

これは、最初に確率論から出発する方法である。確率論でも順列組み合わせという古典確率論から出発するのではなく、コルモゴロフの現代確率論とその拡張である伊藤清の確率微分方程式から出発するやり方である。

まずは最初に確率空間とσ代数という抽象概念から出発し、あらゆるものを確率というもので見直すという物理の一派である。この延長線に、ネルソン・保江の確率量子化論の方法がある。

これでみると、湯川秀樹の素領域理論も手中に入るし、またアインシュタインの一般相対論もその手中に組み込むことができる。とまあ、保江邦夫博士の初期の研究とはそういうものであった。


面白いのは、ついでに加えると、(たぶん私しか知らないかも知れないが、あるいはもうだれも関心を惹かないからそうなのかも知れないが、)保江先生が東北大学部の天文学科から京都大学理学部物理へ進学した際に指導教官となった故長谷川洋教授の生涯のテーマは、非線形統計力学の確立というものだったのだが、仲違いして保江邦夫はすぐに名古屋大学物理の高林武彦のところへ移動してしまったわけだ。

だから、本来なら、京大の長谷川洋の思想圏にある非平衡統計物理の完成こそ保江邦夫の修論になるべきものだったと思うが、そこから逸脱して湯川秀樹の素領域理論をネルソンの確率量子化の手法で行うというテーマで名古屋で修士、博士の系3〜4年で8本の論文をお作りになった。

それからスイスに行って、パウリの最後の弟子となったポール・エンツ教授のもとで確率量子化の理論を極めていったのだが、そこで出会った自分と同い年の弟子ザンブリニと研究をするうちに、確率量子化とファインマンーカッツの積分公式との関係に気づいていったわけだ。そんな中、素粒子理論として自分がやっていたネルソンの確率量子化の理論が、そっくりそのままオンサーガーの不可逆過程の理論の有名なオンサーガーーマクラック公式を導くことに気づいたわけだ。

そして、ザンブリニがシュレーディンガーの無名の論文を発見し、そこで展開された思想圏がその後、コルモゴロフの後継者になったベルンシュタインにより現代確率論のベルンシュタイン過程というウィーナー過程の後継の発展形として生まれ変わっていることまでみつけ、ついにベルンシュタイン過程に基づくファインマン・カッツ理論を構成することに成功したわけだ。これを保江とザンブリニは「熱子力学過程」と呼んだ。

ところが、そうしてみると、この保江・ザンブリニの熱子力学過程の結果は、保江邦夫が最初に指導を受けた長谷川洋の生涯のテーマであった非平衡非線形統計力学の完成版にあたるものだったのである。

不思議なことは、とうの保江邦夫自身がこの事に気づいていないし、ザンブリニはもちろん知る由もない。知っているのは私だけなんだな。

というわけで、結果的に保江は自分の指導教官とは全く別の道に進んだと思っていたその最後の最後に実はその指導教官の問題を実質的に解いていた。

この1970年代当時の我が国(だけではないが欧米も)非線形の不可逆過程の理論をオンサーガー理論の拡張という意味合いで解きたいという一種のブームになっていた。流行には背を向ける保江邦夫は流行は追わなかった。

だから、まずネルソンのブラウン運動の教科書を読み、そこで伊藤清の確率論と確率微分方程式を学び、さらにネルソンのテンソル解析や超準解析の教科書を学び、最後にスイスでフレミング・リッシェルの確率制御理論の教科書を学んだ。まあその前に、東北時代に学んだヒルベルト空間論や高階複素関数論などがある。

つまり、保江の勉強歴をみると、大筋では

鶴丸孝司→伊藤清→ネルソン→フレミング
ヒルベルト空間論→確率論→確率量子化論→確率制御理論


となるわけだ。

実はこの学び方こそ、保江邦夫先生のもっとも保江邦夫らしい部分を作り出した「奇跡的」部分だったのではないか?

これが私の見たところである。

つまり、物理の学び方に「一番最初にヒルベルト空間論を持ってきて、そこから確率論を学び、物理数学を組み立てる」というようなやり方もありうるということである。

というのも、ウィーナー過程を無限次元ヒルベルト空間論とみることができるからである。確率過程とヒルベルト空間論は非常に相性がいいのである。

こうして現代的な確率論を身につければ、そこから先はどの分野へ行こうがまったく容易になる。生物へ行こうが、物理の熱力学に行こうが、この世の全てにはあいまいさやゆらぎや誤差があるから確率論となる。制御理論然り。当然、いうまでもなく、微分幾何学やトポロジーですらそういうことがあり得る。

確率的アティアー・ジンガー指数定理すら存在するかも知れないわけだ。多様体が揺らいでいる場合とか、ジーナスの個数がランダムに変動する多様体の確率論とか、そういうものも当然ありえる。

というわけで、(1)は私が大学大学院で学ばされた従来の古い物理学のやり方なのだが、それが「現代的」の名のもとに(2)の微分幾何学や代数多様体論のやり方、すなわち、「物理法則の幾何学化」というのが現代的物理という方向になり、この分野のレジェンドがエド・ウィッテンなのだが、それ以外に(3)の現代確率論から進む道も有力なやり方なのである。このレジェンドが「確率変分学」「保江方程式」を生み出した保江邦夫博士だということもできるのである。

むしろ、私の理解では、この第3番目の方法こそ、これからの主流となるべき方向ではないかと最近思うのである。

「確率」とは何か?

この理解があいまいなために「量子力学の確率解釈」も本当は大分前に解決されているのにいまだそれが共有されていない。

我々の統計熱力学では、故伏見康治博士が「確率論」の中で述べていたことにすぎないが、せいぜい順列組み合わせの「延長」としての確率論しかない。まあ、それでもギブスの統計力学やオンサーガーの理論程度のものは行える。物性理論にでてくるもの、あるいは統計力学に出てくる確率というのはそんなものである。これでは本当の理解は進まないだろう。

というわけで、私個人としては、この第三の方法で理論物理を学ぶ若者がたくさん出てきてくれることを願っているというわけだ。すなわち、保江邦夫の弟子、後継者がたくさん出てきて欲しい。

むろん、私もそう信じて学んできたわけだが、やはり理論物理も将棋と同じで若くないとだめという面もある。将棋は30台が全盛。50すぎればただの人だとか。同様に数学者も20台。40すぎればただの人という面も無きにしもあらず。

集中力を要する証明や計算は若くないと正確にできなくなるのである。

俺なんか、最近は何冊読んでもなかなか頭に入らないし入り切らないし入ってもすぐ出てしまう。

確率論も20台までに身に着けないとそれが実感として自分の言葉のように、まさに陰陽師の呪文のように奏でる保江邦夫の確率論の言葉のように扱えないのである。

何度読んでもσ代数と確率空間で躓くからナ。まあ、個人的メモだから、スルーしてチョ。



いやはや、世も末ですナ。






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by kikidoblog2 | 2019-02-06 11:48 | 個人メモ

A Happy New Analog Tech!:「アナログのCDラジカセ」から「究極の3Dオンデマンド生産」まで!?   

みなさん、こんにちは。

そういえば、今春年始の大安売り出しで、前からいつか買おうかと思っていたアナログ仕様のCDラジカセを買ったのだった。

30年以上前のカセットテープを廃棄してしまうのはもったいないので、まだ聞けているうちはそれを聞くことにしよう。

また、昔の青春時代の研究テーマで論文や本を執筆するには、そういう研究を行っていた、あの青春時代、ユタソルトレーク時代を思い起こし、タイムスリップするのが一番脳をリセットできるのではないかと考えたからである。

それで、大分前からもし3000円くらいでCDラジカセが買えるなら買おうと思ったわけだ。

すると、年始早々、地元阿南のスーパーの大安売りで4000円台のものが3000円こっきりに値引きされた。それがこれだった。

そう、オーム電気のCDラジカセ。

CDラジカセ シルバー (RCD550ZS)
オーム電機 CDラジカセ シルバー RCD-550Z-S

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こういうアナログ機器を自作できるプラ模型があったら売れるのでは?


買って箱から出すと、なんと横幅20cm程度の実にミニCDラジカセだった。

このオーム電機というのは、オウム電気のように聞こえるから、かのオウム真理教時代にオウム組織と間違われて大変痛い思いをしてあやうく倒産の危機に陥ったようだ。

しかし、電気関連の周辺機器を地道に作成し残すという日本人的なやり方をやっている。

つまり、ローテクやオールドテクやアナログテクを大事に残そうとしているのである。


調べてみると、我が国でカセットやCDというアナログの記録媒体を聞けるように、再生できるようにしているメーカーは我が国のTEACとかSANSUIとかオーム電機くらいしかない。


遠い昔を思い出せば、私が米ユタ大に留学した時、私もずっとソニーのウォークマンを一つアメリカに持っていき、それを聞いていた。電卓はカシオのハンディーコンピュータ・プログラム式のものだった。

ずばり、カシオの関数電卓 CASIO FX-795Pだった。
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俺がほしいのはスマホではなく、スマート計算機である。つまり、スマコン。

当時ユタ大学でこれを持っていたのは俺ぐらいのもので、これを見たユタ大の学生たちは衝撃を受けていたものである。

しかし、当時すでにユタ大にはジョブズのマッキントッシュのパソコンが図書館のPCコーナーや研究室やいたるところに設置され始めていた。そこで米人学生たちが猛烈な勢いで文書を打ち込んでいた。

まだこの時代だった。
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私もこれを使わせてもらった。
しかし2,3年のうちにアップルIIの時代へと変わっていった。
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今年のハイネマン賞を受賞したビル・サザーランド博士もこのアップルIIを使って論文を書いていたのだった。確か甲元眞人先生が獲得した研究費で買ったものを2人で共用していたのだったと思う。

私がPh D Thesisを書いたときは、近所の生物学部のアップルIIがだれも使っていないことに目をつけ、一人独占して書かせてもらっていた。そこに非常に良い生物学教授がいて、私の論文内容に目を通したところ面白いと思ってくれたようで、自由に使っていいよと親切に許可してくれたのだった。本来なら他学部の院生は自分の学部のパソコンや図書館のパソコンを使うべきだったのだ。

なかなか我が国の教授や図書館の司書でこういう感じの人は少ない。たいていは体よくお断りされるのが常である。

一方、当時の我が国内では論文はIBMの電動タイプライターで作っていた。PCはあくまで大型計算機のための「端末」の扱いだった。たしか当時一番すぐれたPCを作っていたのは、シャープだったのではないか?

NECや富士通はいわゆるIBMのユニックス対応の「端末」を作っていただけで、ひどく使いにくいPCだった。私は一気にそれが嫌で苦痛になりPCからは疎遠になった、つまり、物理理論の電子計算が面倒になったのだが、アメリカに行ってマックと出会ってBASICを使って数値計算できたから、非常にありがたかったのである。

ちなみに、上のカシオの関数電卓はBASIC計算できるすぐれものだった。

この時代は我が国の半導体メーカーが世界を席巻していたのである。

あれから40年。

いまや我が国は、台湾、韓国、支那中国に大逆転されてしまったわけである。

が、当時私の入った寮の同室者は台湾人の工学部生だった。彼は私の持っていたカシオを見て非常にインパクトを受けたどころか、カバンの中から、まったく同じものを取り出してきて、僕も持っているよと言ってきたのだった。

この時すでに台湾人は追いつけ追い越せ日本でやっていたのかもしれないですナ。

そして、ついにシャープが台湾企業になってしまった。


ところで、いまのチャイナのハイテク産業の指南役は実は台湾である。

台湾で始まり、それをメインランドチャイナの工場で大量生産する。それを全世界に配り、世界支配する。

要するに、台湾に渡ったチャイナ人華僑が本国の発展、工業化、企業化を手助けしたのである。


かつて私が新型の折り畳み傘の特許を申請した頃、もはや我が国でその特許通りに作成できる企業は衰退してなくなっていた。すべての傘は台湾製である。たしかフータイとかいう会社だったと思う。

そこの社長に直談判したが、彼は俺にこういった。

「日本の傘メーカーを全部潰したのはこの俺だ。いま俺の会社は中国に工場を持っている。1日1人1本の傘を作ったとしても、1万人働ける。だから、日本は勝てないよ。」

我が国では、傘の布地の張替えしかできず、本体であるフレームはすべて台湾製である。

私は、かつての貧乏サムライが和傘を作ってしのぎを得たように、新型の傘フレームを発明し、しのごうとしたわけだが、かつての大阪東岸和田の傘フレームメーカーもすべて潰れたのであった。

もっともいまでは3Dプリンターが出てきたから、これからはオンデマンドで作って売ることもできるわけだ。

オリジナルのデザインさえできれば、それを3Dプリンターでフレーム製作する。

オンデマンド生産である。


我が国が生き延びる方向はこれしかないだろう。

オンデマンドでCDラジカセであろうが、PCであろうが、自動車であろうが、UFOであろうが、何でも作り出すのだ。


歩留まり勝負の大量生産大量消費の時代は古い。


インテルインサイドのCPUであろうが、オンデマンドで3Dプリンターで作り出す。ミクロのPCであろうがオンデマンドで作り出す。

きっといつかそういう時代が来るだろう。


考えてみれば、我々人間が一番オンデマンド生産物なのである。

愛する女と結婚し合体さえすれば、自然に子ができる。

まさにオンデマンドである。


だから、究極のオンデマンドとは、この自然界を真似ることなのである。自然そのものになることなのかもしれない。


かのユリ・ゲラ―は、オンデマンド生産どころか、オンデマンドで物体を取り出せるという。

金がほしいと思えば、ポンとお金が必要な分だけ、空中から飛び出すんだとか。

この意味では、オンデマンドと馬鹿にできない。


一心岩をも通す!

一念奮起してオンデマンドを念じれば、それがオンデマンドで現れ出る(かもしれない)というわけですナ。


俺なんぞ、チャイナとコリアはオンデマンドで消し去りたいがナ。



いやはや、世も末ですナ。





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by kikidoblog2 | 2019-01-11 08:48 | 個人メモ

今年最も記憶に残った出来事やお話は!?:やはりロシアW杯でしょうナア!?   

ロシアW杯
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みなさん、こんにちは。

今年もあと1日と数時間。いかがなる年だっただろうか?

今年も地震やら熱波やら台風やらさまざまなものがあった。が、幸い我が家はなんとか生き延びることができた。

(あ)まず第一は、やはりサッカーマンだった私としては、もっとも記憶に残る出来事といえば、ロシアW杯だろう。

ロシアW杯閉幕:優勝仏4−2クロアチア、3位ベルギー2−0英→ハリルホジッチは正しかった!?

あの痛恨のベルギー戦の9秒カウンターである。

ハリルホジッチ監督を追放した西野監督が自らハリルの主張した近代サッカーの定石となった瞬殺カウンター戦法で敗退するという屈辱の敗退劇であった。

ロシアW杯番外編:「真夏の夜の夢」→「良い夢をありがとう!」「君たちは永遠だ!」
ロシアW杯番外編:「柴崎と共に去りぬ」→「西野の夏は柴崎交代とともに終わった!」
ロシアW杯:決勝Tブラジル2−0メキシコ、日本2−3ベルギー→西野ジャパン、ボンヘッドで泣く!?

このロシアW杯後西野朗監督は勇退し森保監督に替わったが、選手は大半はいまだそのまま居座る形になった。日本代表の疫病神の吉田麻也はまだそのままだし、すでに最盛期を超えた長友もまだレギュラーである。やはり本来は全員新人でAFLを戦うべきだろう。

(い)第二は久しぶりに講演会で講演したことだろうか。これは8月3日に豊田市に出向いて、8月4日に講演したものだが、私とセットになったのはあの保江邦夫博士だった。

この講演では前のヒカルランドの講演のときと同じような放電実験をしたのだが、我が家でその旅に出かける前に自宅でデモしたのだが、その装置で感電し危うく感電死するところだった。幸い片方の指だけの接触で助かった。かなり心臓にダメージを食らい、当初は講演ではデモを取りやめにしたほうが良いかと思うほどだったが、味噌汁を飲んで復活したのは記憶に新しい。

というわけで、無事になんとかご要望の講演会を終了することができた。

「講演会の顛末記」:講演会お疲れ様でした!ありがとうございました!サムハラ神社のご利益か!?
保江先生「龍神を目覚させる!?」:気仙沼の龍神が台風をやっつけたのか!?


(う)第三番目は、秋の台風で我が家の光ファイバーが遮断されたことだろう。

アイムバック!:光ファイバー通信は意外に脆かった!?



(え)第四番目はやはりずっと前から予定していたことが直前の状況変化でいくつかキャンセルになったことだろう。

新居浜高専で物理を教える話は去年からほぼ決まった話で、今春に予定も組んでいたことだが、行く直前の9月末になって相手側に台風による被害が出たために、私の宿泊予定地が変更された。その結果、最初の条件が変更されてしまい、結局キャンセルせざるを得ない不測の事態が起こったのである。これは非常に期待していたのでとても残念だったが、教えに行けば行くほどこちらの自腹が増え、赤字がかさむという金銭的に不利な不合理な条件では実現できなかったのである。

また別の名古屋の講演もせっかく招待されたのだが、直前に示された講演タイトルが私の構想とは全く違ったものとなって、それもキャンセルせざるを得なかった。いずれにせよ、こういう不測の事態は私の人生では初めてだった。

まあ、最近はそういう不測の事態に対しては、それはある意味で「神様の知らせ」として無理強いせずすっぱりと諦めることにしている。相手方にもご迷惑をおかけする形になったと思うが、それは「縁がなかった」ということであろうと考えることにしている。

というわけで、やはり今年も「できることはできるうちにやれ」という鉄則が生きたと言えるだろう。さもないと、偶然の出来事により、後回しにしたことはできなくなるという可能性が高い。

これはある意味では「来年のことをいうと鬼が笑う」というのと似たようなことだろう。

(お)さて最後に学術的には、かなりしんみりした年だった。特に論文も本も出版することはなかったが、私自身の進歩という意味では、かなりの進展が起こった利であると思う。杉田元宜先生の業績の中で多くのいい意味での問題点を発見しさらなる拡張すべき問題が見つかったり、生命の原理に関するもっとも大きなアイデアが見つかったりとまだ公表するには足りないけれども次への一手になるべき着眼点が見つかったことは大きいと思っている。

一方、やはり私の個人的性格上、講演などを行うと、どうしてもそこでの人との交流によってかなり大きな影響をうけてしまう、その結果としてそれの講演前までに行っていた研究が大きく停滞してしまうという事情がまた起こってしまった。

一時に一事。されど完璧に

のヒルベルト主義者である私はやはりそれを貫かないとあまりうまくいかないようだ。



いやはや、世も末ですナ。




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by kikidoblog2 | 2018-12-30 18:39 | 個人メモ

起業成功は20年、科学成功は50年:はたして企業家は科学者を理解可能か?   

みなさん、こんにちは。

さて今回は個人的メモ。あるいは、個人的妄想のたぐいである。興味ない人はスルーでお願い。


最近たまに考えることにこんなことがある。

もし社会的に起業し、企業家として成功するのに何年かかれば人はそれにチャレンジするか?

これは人の一生の寿命と密接に関係しているはずであろう。

まずは人の人生が50年だったとしてみよう。生物学的には人が大人になる年数は10数年。一応15年としておこう。

この場合、人の生育期間の15年差し引いて、35年がリミットになろう。

つまり、社会的に成功した途端にすぐ死ぬのであれば、35年かかってもよいが、多少成功の余韻の余生を送りたければ、すくなくとも20年から25年で成功しなければならない。

もし寿命が80年であれば、上の見積もりにプラス30年できる。つまり、50年から55年で成功すればいいということになる。そうすれば、うまく成功した場合、余生を満足して死ぬことができるだろう。


つまり、厳しくみると、せいぜい人は20年で自分の起業を成功させ、大企業に育成できなければなならない。そういうことになる。

もし社会的成功には100年かかるとすれば、自分の死後に自分の生前の仕事の結果が評価されることになるわけだ。

はたして、こういう場合に人は起業にチャレンジするか?

逆に起業してすぐに成功できるとすると、人はすぐにそれに挑戦するだろうか?俺なら簡単すぎて興味を失う。

だから、やはり人生のモニュメントとしての成功ということがあるとすれば、人はそれには適当な年数を必要とするのである。


さて、この観点から実際に成功した人たちを見てみよう。


(あ)まずアップルのジョブズの場合。
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1976年、スティーブ・ウォズニアックと共に初期のホームコンピュータ「Apple I」、その後「Apple II」を開発した。Apple IIは大成功を収め、自宅からスタートしたアップル社は、シリコンバレーを代表する企業としてサクセスストーリーを築いた。1980年の株式公開時に2億ドルもの巨額を手中にし、25歳でフォーブスの長者番付、27歳でタイムの表紙を飾った。

1984年に発売した「Macintosh」が搭載したグラフィカルユーザインターフェースは当時のあらゆるパソコンを凌駕する洗練されたもので、新たなコンピュータ像を創造した。しかし、本人の立ち居振舞いが社内を混乱させたとして役職を解任され閑職へ追いやられた為、1985年にアップルを辞めた[5]。

アップル退職後、ルーカスフィルムのコンピュータ・アニメーション部門を買収して、ピクサー・アニメーション・スタジオを設立。また、自ら創立したNeXT Computerで、NeXTワークステーション (NeXTcube, NeXTstation) とオペレーティングシステム (OS) NEXTSTEPを開発した。

1996年、業績不振に陥っていたアップル社にNeXTを売却すると同時に復帰、1997年には、iCEO(暫定CEO、Interim CEOの略)となる。同年には、不倶戴天のライバルとさえされていたマイクロソフトとの提携と、同社からの支援を得ることに成功し、また社内ではリストラを進めてアップル社の業績を向上させた。
WWDC07でのスティーブ・ジョブズ

2000年、正式にCEOに就任。2001年から2003年にかけてMacintoshのOSをNeXTの技術を基盤としたMac OS Xへと切り替える。その後はiPod・iPhone・iPadといった一連の製品群を軸に、アップル社の業務範囲を従来のパソコンからデジタル家電とメディア配信事業へと拡大させた。

CEOに就任して以来、基本給与として、年1米ドルしか受け取っていなかったことで有名であり[6](実質的には無給与であるが、この1ドルという額は、居住地のカルフォルニア州法により、社会保障番号を受けるために給与証明が必要なことによる)、このため「世界で最も給与の安い最高経営責任者」と呼ばれた。しかし、無報酬ではなくアップルから莫大なストックオプションやビジネスジェット機などを得ている[7]。2006年に、ピクサーをディズニーが買収したことにより、ディズニーの個人筆頭株主となり、同社の役員に就任したが、ディズニーからの役員報酬は辞退していた。


彼が起業したのは1976年。それから10年ほどでかなりの有力ベンチャーになり、一時は追放されたが、また出戻りし、2000年には世界のアップルとなった。皆の周知の事実である。

つまり、世界の大企業になるまでおよそ24年かかったのである。たったの24年だよ。


(い)さて、今度は我が国の在日韓国人の孫正義のソフトバンクの場合。
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1977年にカリフォルニア大学バークレー校経済学部の3年生に編入。さらに1979年、シャープに自動翻訳機を売り込んで得た資金1億円を元手に[7]、米国でソフトウェア開発会社の「Unison World」を設立。インベーダーゲーム機を日本から輸入。結婚。1980年にカリフォルニア大学バークレー校を卒業。学位は、経済学士。日本へ帰国後、会社を設立するために福岡市博多区雑餉隈に事務所を構えた。
実業家

1981年、福岡市博多区に事務所を移し、コンピュータ卸売事業の「ユニソン・ワールド」を、そして福岡県大野城市に「日本ソフトバンク」を設立。1983年における慢性肝炎での入院をきっかけに社長職を退き会長へ。この時、「お金じゃ無い、地位や名誉でもない、ばあちゃんがやっていたような、人に喜んでもらえることに、貢献できたら幸せだ。どこか、名前も知らない、小さな女の子に“ありがとう”と言ってもらえるような、そんな仕事がしたい」と思い、今に至る。「おばあちゃんは、いつも、人さまのお陰だ、と言っていたことから、人を恨んだりしてはいけない」とも語っている。その後、1986年をもって社長職に復帰、パソナの南部靖之、エイチ・アイ・エスの澤田秀雄とともにベンチャー三銃士と称された[8]。1990年をもって日本に帰化。

1990年、ソフトバンク株式会社に社名変更。

1994年にソフトバンク株式会社の株式を店頭公開。

1996年には米ヤフーとソフトバンクの合弁でヤフー株式会社を設立。

同年、衛星放送プラットフォームの運営会社としてジェイ・スカイ・ビー(JスカイB)をルパート・マードックのニューズ・コーポレーションと折半出資により設立、マードックが会長、自らは社長に就任。この際、旺文社より全国朝日放送(現テレビ朝日ホールディングス)の株式21%を取得するも、翌1997年3月に当時第3位株主だった朝日新聞社に全株式を譲渡して撤退。JスカイBは1997年にソニーとフジテレビジョン(現フジ・メディア・ホールディングス)がイコールパートナーとして資本参加した。

1998年にはパーフェクTV!を運営する日本デジタル放送サービス(現スカパーJSAT)と合併、スカイパーフェクTV!(スカパー!)として放送を開始した。

1999年、証券市場の開設を企図し米国のナスダック・ストック・マーケットとソフトバンク株式会社が共同出資しナスダック・ジャパンプランニング株式会社を設立。翌2000年には大阪証券取引所とナスダック・ジャパンプランニング株式会社にてナスダック・ジャパン市場を開始。

ソフトバンク株式会社が東京海上火災保険、オリックスとともに、日本債券信用銀行(現あおぞら銀行)の株式を取得。取締役に就任した。

NTTドコモの第一期アドバイザリーボードのメンバーを1年程務める[注 1]。

2001年からヤフー株式会社と共同でADSL接続サービスのYahoo! BBの提供を開始。以降、それまでのPCソフト卸、PC出版から通信に本業の軸足を移す。

2002年、ナスダック・ジャパン株式会社が業務を停止。大阪証券取引所によりヘラクレスとして改組された。

2003年にあおぞら銀行の株式をサーベラス・キャピタル・マネジメント社に売却。

2004年には日本テレコム株式会社を買収し、同社代表取締役会長に就任。2006年10月には同社の代表取締役社長に就任した。

さらに福岡ダイエーホークスと福岡ドームをダイエーから買収し、福岡ソフトバンクホークスのオーナーに就任。

続けてボーダフォン株式会社(現ソフトバンク株式会社)を買収し、同社代表執行役社長兼CEOに就任した。

2011年に東日本大震災が発生すると、義援金として個人で100億円および2011年から引退するまでソフトバンクグループ代表として受け取る報酬の全額を寄付することを表明し2011年7月14日100億円の寄付が終了した[10]。さらに福島第一原子力発電所事故を受け、自然エネルギー財団を設立[11][12]。『東日本大震災復興支援財団』を6月に設立[13]。

2015年4月1日、ソフトバンクモバイルの代表執行役社長から代表取締役会長に異動した(ソフトバンクモバイルは、同時に、ソフトバンクBB、ソフトバンクテレコム、ワイモバイルの3社を吸収合併)[14]。

2017年には海外の大物経営者が名を連ねている中国の清華大学経済管理学院顧問委員の一人となった[15][16]。
2017年12月14日、MLS参入を目指すデビッド・ベッカムの投資家グループへの参加が承認された。


1990年にソフトバンク設立。2004年にはすでに大企業として君臨し、プロ野球を買った。だから、この場合は、14年かかったことになる。それからさらに10年後のいまは何兆円産業に変わった2015年としても、25年かかったことになる。

したがって、ソフトバンクの孫正義の場合も25年以内に世界企業に成長できたということになる。


(う)楽天の三木谷浩史の場合。
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1995年

1月17日 阪神・淡路大震災で故郷の神戸が瓦礫の山と化し、敬愛していた叔父叔母を失ったことが人生観に大きな影響を与えた。間もなく起業を決意。
11月 日本興業銀行を退職、コンサルティング会社のクリムゾングループを設立。慶大院卒の新卒者だった本城愼之介と2人だけの起業であった。

1996年

2月 株式会社クリムゾングループ代表取締役社長。

1997年

2月7日 クリムゾングループで稼いだ6000万円を元手に、株式会社エム・ディー・エム(現・楽天)を設立。

2002年

アメリカの経済誌『フォーチュン誌』の若手富豪ランキング6位に選ばれる。この当時から3000億円近い資産を有していた。
5月 株式会社ネクスト取締役
6月26日 カルチュア・コンビニエンス・クラブ取締役
8月 楽天トラベル株式会社代表取締役

2003年

「神戸に社会貢献したい」と、発足当時から赤字が続くJリーグ・ヴィッセル神戸を、クリムゾングループを通じて買収し、プロスポーツチームのオーナーとなった。
ディーエルジェイディレクト・エスエフジー証券(現楽天証券)会長。
10月 マイトリップ・ネット株式会社(後に楽天トラベルに吸収合併) 会長。

2004年 日本イノベーター大賞受賞。

1月 株式会社クリムゾンフットボールクラブ代表取締役
9月 株式会社あおぞらカード(現楽天カード株式会社)代表取締役会長。
ライブドアに続いて、プロ野球への新規参入を意思表明する。株式会社楽天野球団(球団名は東北楽天ゴールデンイーグルス)を設立し、本拠地を仙台市に置くことを決める。
11月2日 プロ野球オーナー会議の最終審査でライブドアとの競争に勝ち、楽天野球団の参入が正式承認されプロ野球球団のオーナーとなった。プロ野球とJリーグのオーナーを務めたのは三木谷社長が初である。

2005年

6月 国内信販株式会社(現KCカード株式会社)会長。
10月 経済産業省産業構造審議会商務情報政策基本問題小委員会委員[11]。
11月 東京オリンピック基本構想懇談会委員[12]。

2006年

3月 楽天ブックス会長。
4月 株式会社クリムゾンフットボールクラブ代表取締役会長。
9月 楽天証券ホールディングス株式会社 会長。

2007年

8月10日 楽天が傘下に収めることとなったフュージョン・コミュニケーションズ代表取締役社長兼執行責任者に就任した。
11月1日 フュージョン・コミュニケーションズ代表取締役会長となる。

2008年

1月1日付けで球団オーナー職を退き、株式会社楽天野球団取締役会長に就任した。ヴィッセル神戸のオーナーは継続している。
6月25日 楽天KC取締役。
9月29日 イーバンク銀行(現楽天銀行)株式会社取締役会長に就任する。
フォーブス誌の日本人富豪ランキング8位にランクイン、38億ドル(約4000億円)保有していると報じられた。

2009年

フォーブス誌の日本人富豪ランキング7位にランクイン、36億ドル(約3384億円)保有していると報じられた。
2月 厚生労働省医薬品新販売制度の円滑施行に関する検討会委員[13]。
財団法人東京フィルハーモニー交響楽団の理事に就任[14]。
10月15日 日本ソムリエ協会からソムリエ・ドヌール(名誉ソムリエ)の認定を受ける[15]。

2010年

フォーブス誌の日本人富豪ランキング6位にランクイン、47億ドル(約4277億円)保有していると報じられた。
1月21日 ビットワレット株式会社代表取締役社長就任[16]。
2月 一般社団法人eビジネス推進連合会会長。
7月 企業家大賞受賞[17]。
8月 ビットワレット株式会社代表取締役会長に就任する。

2011年

3月 東日本大震災発生時、三木谷社長自身が阪神・淡路大震災の影響を受けた経緯から推定10億円もの義援金を寄付したと報じられた。なお、東日本大震災の日(3月11日)は奇しくも三木谷社長の誕生日でもあった。
6月 日本経団連を脱退。
10月 財団法人東京フィルハーモニー交響楽団理事長。

2012年 ハーバード大学経営大学院卒業生功績賞受賞(史上最年少)[18][19]

1月 コボ社取締役に就任。
6月 一般社団法人新経済連盟代表理事。
7月 公益社団法人経済同友会教育改革による国際競争力強化プロジェクト・チーム委員長[20]。
8月1日付で東北楽天ゴールデンイーグルス球団会長から会長兼オーナーへ再就任[21]。

2013年1月 内閣日本経済再生本部産業競争力会議メンバー(第2次安倍内閣)
2014年 フォーブスでアジアの慈善事業家として日本人では3人、福武總一郎、花沢菊香とともに選ばれる[22]。

1月 フランス共和国外務省でローラン・ファビウス外務大臣よりレジオンドヌール勲章シュバリエを受けた[23]。
2月 文部科学省英語教育の在り方に関する有識者会議委員[24]。
6月 公益財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会顧問[25]。
12月 経済界大賞受賞[26]。

2015年3月 Lyft, Inc. Director。
2017年

2月 Aspyrian Therapeutics, Inc.取締役会長[27]。
11月 アンリルクセンブルク大公よりメリット勲章を受けた[28]。

2018年

6月 紺綬褒章受章[29]。


先日NHKのファミリーヒストリーがこの三木谷浩史だったが、彼は100%日本人だった。先祖代々神戸。母方の祖先が、徳川家康の家臣、本多忠勝であった。

この三木谷もインターネットが我が国に誕生した1996年にネットショップに思い切り、それから2008年には社会的に大成功してプロ野球のオーナーになった。そして、今年2018年はヴィッセル神戸にイニエスタを投入。話題をさらった。つまり、成功までに要した年数は、12年から22年というところである。


これら3人の場合だけではなく、調べればわかると思うが、終戦後の日本で新聞で成功したり、60年代のテレビの発明でテレビで成功したり、松下電器、ソニー、ホンダ、トヨタ、などなど、こういう企業の成功を調べると、その創業者が本格的に起業してだいたい20年前後で大企業になっているのである。これは他国でもだいたい同じである。

だから、起業して成功するまでに20年。これが人が成功を勝ち取るためにかかる年数だと考えられる。


もしこれが40年以上なら、成功した頃にはよぼよぼの爺婆となる。逆にこれが数年未満なら、人は簡単すぎて成功したとはみなさないだろう。

しかるに、我々の科学者の場合はどうか?

実は故和達三樹博士が生前、最後の最終レクチャーで言っていたことだが、やはり科学者の世界にも似たような事情が存在する。

非線形波動の和達三樹博士ご逝去:「独創的な生活と平凡な研究よりは独創的な研究と平凡な生活を」
私の物性基礎論・統計力学-研究者として、教育者として-(和達三樹最終講義)

研究は、

はじめはMinorityの方がよい

(ずっとMinorityではちょっとまずい)

自分の研究成果は、今はまだ認められていないが、
100年後は必ず認められて主流になっているはずだ。
というようなことを言う人がいますが、
100年後にはあなたもいないし私もいないし、
そんなこと私に言われても困ります。
自分が生きているうちに主流になれるに越したことはない。


つまり、ノーベル賞やそれに似た大きな賞や表彰をもらうことが成功の証だとすれば、それまでにどれほどかかるかの年数が存在するはずである。

つまり、研究の最初はマイノリティー=ベンチャーが良いが、生きているうちに豊かな生活を手に入れ、人様から称賛されるものがいい、ということである。さもなくば貧しく悲惨だという裏返しである。いまの俺のようなものだヨ。

研究者の場合、それは社会的気運というものもあるが、選ぶべき問題による。

いきなりリーマン予想を最初に選べば、それで人生が終わる可能性も高い。事実、そうなってしまった人々は数え切れないほどいたわけだ。

適度に難しく、適度にマイノリティーで、適度に認知される問題、こういう問題を解決し、それが自分が年取るのに合わせて世界で有名になり人々の周知の事実になっていく。

私の恩師のビル・サザーランドのカロゲロ-サザーランド・モデル(1972)の研究などがこういう事例である。それでも認知されて名がつくまで25年。賞を取るまで47年かかった。

成功までに30年40年とかかると、その人がすでにこの世にいないという場合もありえる。マックスウェルもヘルツもリーマンも40台でお亡くなりになった。ガロアは20歳である。まあ、ガロアの場合は自分は決闘で死ぬことがわかっていたから自業自得だったが、自分の研究の評価が上がるとは理解しなかったにちがいない。

精神的に不調になり、自殺でなくなった事例も多い。ボルツマン、マヨラナ、ハバード、。。。などなど、名前は教科書に残るが、だれもその人のことをよく知らないというような人も結構いるのである。


人が企業を起こし、人が研究を行う。

だとすれば、そこには自ずと成功の年数が必要になる。

こういう世間ずれした観点からすれば、100年の問題に挑戦するというのは本当に勇気がいることである。

逆の観点からすれば、昔が良かったのは、こういうことをすることを支援する教会や修道院があったからである。メンデルの法則を発見したメンデルは修道院の僧侶だった。

いまはそういうものがない。

企業家はせいぜい20年の成功者だから、こういう企業家が自分の成功体験から物言うとすれば、彼らは人にも同じことを希望するにちがいない。だから、いまの成功者が科学者に文句言う場合、かなり近視眼的にならざるを得ないはずである。

ジョブズも孫も三木谷もみな20年成功者だからだ。

しかし研究の世界はやはり世紀の発見をしたいわけだ。この世界の根本を変えたいわけである。

はたして世界の20年選手たちに100年選手、1000年選手の思いが理解可能なのか?


とまあ、最近俺はよくこんなことを考えるようになったわけですナ。理由はわからないがネ。



いやはや、世も末ですナ。






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by kikidoblog2 | 2018-12-22 14:04 | 個人メモ