カテゴリ:望月新一・心の「一票」( 11 )   

「新一の『心の一票』」:「認識状態歴の可能性の有限性 」→「確率論」か「推定論」か!?   

みなさん、こんにちは。

さて久しぶりに望月新一博士のブログ記事の話題で行こう。といっても相手は世紀の若き天才。私の出番も勝ち目もない。

最近はメモしている内に思いついた思いつきもメモするようにしているから、話があっちこっちに飛ぶがそれもブレインストーミングだと思っている。というより、最初からこのブログは自分のための個人メモだから、読者を念頭においていない。ご了承いただきたい。

新一の「心の一票」
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この中の最新記事がこれ。
第68回NHK紅白歌合戦の感想と、数学(あるいは一生の「認識状態歴」の可能性(!))の有限性 (18)

この中の最後の方に結構奇妙な話が書かれている。
まず、話はがらっと変わりますが、数学の研究は通常、研究論文という形で記録され、その研究論文は通常、英語で書かれたPDFファイルという形のデータとなって保存されます。そうすると、如何なる論文も、所詮は一つの複雑な文字列、あるいはコンピューター上の抽象的なデータとして考えると、「0」と「1」の列になります。そうすると、数学者のような立場で考えると、人類の寿命は有限ですし、例え(極論になりますが)生まれたときから打ち始めて、一切(食事等をせずに)150歳のときまで打ち続けたとしても、一人の人間が一生のうちに生成できるそういう

    データ(=「0」と「1」の列)の
         長さは有限

であるということになり、また、そのようなデータ(=「0」と「1」の列)には(数値的には膨大な数になるとしても)

     有限通りの可能性しかない

ということになります。このような議論のヴァリアントとして、PDFファイルの代わりに、画像ファイル(=JPGファイル)、音声ファイル(=MP3ファイル)、動画ファイル(=MP4ファイル)等を記録に用いられるデータ形式として想定した場合にも同様な考察は成り立ちます。また、一人の人間ではなく、地球上の人口には上限があるわけですから、「全ての人間」という形の考察もできますし、地球そのものの寿命も有限だという視点に立つと、「過去にも未来にも存在する全ての人間」という形の同様な考察もできます。

要約すると、

 (*)数学は上記のようなデータ(=PDF,
    JPG, MP3, MP4等)によって、如何
    なる情報の損失も生じることなく(=
    数学用語でいうと、

     数学 ↦ 上記のようなデータ

   という対応は単射になる)、完全に
    記録可能である

という仮定の下で考えると、最近流行りの「人工知能」の文脈でよく取り上げられる囲碁、将棋、チェス等のように、

    数学は完全に有限なゲームである

という結論が従ってしまいます。つまり、数値的にはとてつもなく膨大な量のデータの処理を必要とする計算になるとはいえ、

  「全ての数学」は、とある有限的な計算

に帰着可能であるということになります。

上記の議論のまた別のヴァリアントになりますが、

    (**)人間の脳に体験可能な
     「認識の状態」は有限通り
     しかない

という仮定の下で考えると、

   少なくとも「認識状態歴」のレベルで
   見ると、人類に経験可能な人生は高々
   有限通りしかない

という結論になってしまいます。

もちろん、上記のような議論では、「有限」と言っても、可能性は数値的にはとてつもなく膨大な数のもの(=数学用語でいうと「濃度の集合」)を扱っていることになります。しかし、数学者の視点に立つと、数(=「濃度」)の数値的な大小ではなく、

        有限か無限か?

という定性的な性質が一番気になる点になります。

一方、通常の人間的な感覚から言っても、

    「人類に経験可能な人生は高々
       有限通りしかない」、

つまり、言い換えれば、その有限通りしかない可能性を(例え、現在の計算機技術では不可能だとしても、いつか開発される未来の計算機技術によって)

  一度全部計算して列挙しておけば、人間
  は「わざわざ」様々な苦労に耐えながら
  生きていく意味がない

等というような結論は、普通の人間なら受け入れることに対して強い抵抗感があるはずです。

数学者も同様に、「全ての数学」は有限量しかなく、(例え、現在の計算機技術では不可能だとしても、いつか開発される未来の計算機技術によって)

    一度全部計算して列挙しておけば、
    数学者は「わざわざ」様々な苦労
    に耐えながら数学の研究を行なう
    ことに意味がない

といったような結論を受け入れることに対して並々ならぬ抵抗感を持っていると言い切ってよいかと思います。

そうすると、上記の諸々のヴァリアントの議論の出発点となった

    上記の(*)や(**)のような
    「有限性仮説」は果たして正しい
    のだろうか、

ということが気になります。

特に、例えば(*)のような「単射性仮説」、つまり、「数学は論文(=PDFファイル等のデータ)によって完全に記録可能である」という仮説は、(私の場合、まさに自分の研究(=IUTeich)関連の様々な経験を経て感じたことですが)

    どうも正しくないのではないか、 

つまり、「数学」を完全に記録し、伝達するには論文(=PDFファイル)だけでは不十分であり、どこかに

     「抜け落ちている情報」が
       あるのではないか、

と強く感じております。まさにそのことが以前から気になっているからこそ、

   その「抜け落ちている情報」が忠実に
   表現されている可能性があるように感
   じる別系統の媒体=例えば、
   ・2017-01-06付けの記事で取り
    上げた「サイマジョ」、
   ・2017-11の二つの記事で取り上げた
    「芸術」や「バベルの塔の説話」、
   ・今回の記事で取り上げた
    「インフルエンサー」

の検証に、数年前から特に強い関心を抱くようになりました。

ただし、このような検証=「一種の研究」はまだ初期の段階にあり、例えば、数学の場合、

   何故に同一のPDFファイル等のデータ
   を入手しているにも拘わらず、ある
   数学者にはそのデータに記録されて
   いることになっている数学が比較的
   容易に伝わっているのに、別の(同一
   の専門分野のはずの)数学者には同じ
   データに記録されているはずの数学
   がいつまで経っても伝わらないか

という、実務的なレベルの謎の解明には全く至っておりません。


私の受けた印象では、これは暗に
「P≠NP予想」問題
のことを言っているのではなかろうか?

ところで、この「P≠NP予想」というのは、ポアンカレ予想と同じように、ミレニアム問題の1つであり、これを解明すると1億円もらえる。

このポアンカレ予想は数年前にペレルマン博士により解決された。が、彼は金も賞も受け取らなかった。きのこ狩りで満足。というより、日本の多くの中高年ニートのように、老いた母親の生活の面倒を見ているのである。

ところで、一人っ子が多くなって一番こまることは、その両親の老後の面倒を見なければならず、それまで自分も核家族を作ろうと思い、首都圏で就職していたのに、地方に居残る老いた両親を見るために、自分の仕事を辞めて、形式上はニートのような形にならざるをえないということである。

日本のメディアは超絶反日だから、女子供の託児所だとか、幼稚園だとか、学校だとか、そういう女性中心主義だけで見ているが、世の中の一番の問題は、ちゃんとした仕事についていたのに、それを辞めてまでしなければ、両親の親の介護をできなくなるという方なのである。

在宅で仕事ができるようになれば、ちゃんとある程度の(多少は負担を減らすことになるが)仕事もしながら、親の介護も見ることができ、親がおなくなりになればそのまま仕事に戻れるというようなことができるはずのものなのである。

女性に産休(産後休暇)のようなものが有効だとすれば、男性に対して(もちろん女性に対しても)

介護休暇=介休

も必要なのである。

そうすれば、会社をやめなくてもすむはずだ。いったん会社を辞めれば、再就職は非常に難しくなるし、同じ会社も再雇用がやりにくくなるばかりである。

私は知り合いに数人そういう形で、親の介護のためにそれまでの会社をやめざるをえなかった中高年の男性を知っている。

いずれにせよ、親の介護は非常に大変なのだから、そういう時にこそそれなりの善処を元社員に対しては行なうべきだろうヨ。


さて、話が介護に飛んだが、望月新一先生の話。「P≠NP問題」の話。

これは、ウィキにはこうある。
P≠NP予想

P≠NP予想(P≠NPよそう、英: P is not NP)は、計算複雑性理論(計算量理論)におけるクラスPとクラスNPが等しくないという予想である。P対NP問題(PたいNPもんだい、英: P versus NP)と呼ばれることもある。
理論計算機科学と現代数学上の未解決問題の中でも最も重要な問題の一つであり、2000年にクレイ数学研究所のミレニアム懸賞問題の一つとして、この問題に対して100万ドルの懸賞金がかけられた。

(以下省略)


というわけで、ひょっとしたら、「ABC予想」が解決したわけだから、望月博士は今度はこの問題にチャレンジし始めたのだろうか?

そういう感じがしますナ。


さて、この問題もそうだが、ある空間があった時、その空間内をくまなく探索して解をみつける、というやり方と、なんとなく(うまく偶然を使って)解をみつけるという二つのやり方がある。

望月先生の話にあるように、例えば、自分の論文の語数と同じ情報をもつ空間、こういうものはとてつもなく広い。アルファベット26文字で考えたとしても、26を文字の数だけ掛けた可能性の空間が生まれる。

だから、望月先生の論文は、その中のたったの1つということになり、数学で言う、「ほとんど測度0」で存在することになる。なぜなら、1/その空間全体の大きさ、だからである。

これが普通の確率論の考え方である。


実はここに落とし穴がありそうだ。と、私はかなり前から思っている。


というのは、数学者にはいないが、物理学者には、特に理論物理学者の中には特殊な人間もいて、つまり、ちょっと風変わりな性向の考え方をするものがいて、なんでも疑う人間というものがいる。

そういう風変わりな人間の中で、最近一番気になるのは、

「確率は存在しない。確率という概念は現実世界では無意味だ。」

と主張しているものがいるのである。知っていたかい?


どういうことか?

というと、簡単なコインやサイコロの振りとか、だれもが可能性の空間を数えられるようなものでは意味をなすが、それが簡単に数えられないような場合、確率を考えることにメリットがないということである。

サイコロなら、1〜6の6個の可能性があり、100回サイコロをふれば、6を100回かける可能性の中の一つが生まれると考えることができる。コインの場合なら、裏表の2種類しかないから、2を100回かける可能性の中から1つの現象が起こると考えられる。

ここからガウス理論が生まれた。

しかし、文字だったり、図形だったり、可能性が有限個でも、何万の掛け算、何億の掛け算というようになると、まず有限回の操作で、その文字の羅列すら発見できない?

もし私が望月先生の論文を読まずに、それが望月先生の論文かどうかをどうやって判別したらいいのだろうか?

読めば、望月先生の論文かどうかは分かるが、字数だけから判別はできない。

こういうふうな問題で確率空間なんていうものは意味があるのかないのか?

つまり、この現実世界の中で、起こっていることと起こり得ないことをどうやって確率論的に区別できるのかどうか?

こういう問題がある。


例えば、ロト6やロト7。

1〜43までの数字の中から、6個ないし7個を選ぶ。この場合の確率空間は、43^6か43^7である。

だから、有限個であると分かる。

ロト抽選会社はあるやり方で毎回6個ないし7個の数字を選ぶ。

確率論的にそれを予想すれば、1/43^6か1/43^7ということになる。

この答えを見つけ出すために、その可能性の空間の中から無作為に探索すれば、たぶん一生(以上)かかる。

つまり、現実的には確率論的やり方は意味がない。だから、人間より何兆倍も早く探索できる機械=スーパーコンピュータを作らなければならない。それを作るのに50年かかったとしても、結果としてその方が早く探索できるわけである。

しかしながら、現実にはかならずどれかが選び出される。決して計算して選ばれたわけではない。

将棋でも同じである。人間の将棋指しは全部の可能性を探索して指すのではない。たぶんAIもそうである。

なぜなら、無駄な領域が多すぎるのである。無意味の領域を探索するにも同じだけ時間がかかるから、大きなロスになる。


つまり、確率的事象の探索にも、「偶然にかける」方がまだ可能性が高いのである。

だから、サイコロで自分で振って数字を選ぶとか、何かのひらめきで数字を選ぶとか、人間はそういうことをしているのである。

抽選者もその抽選機械の癖があり、あらゆる可能性の中から選ぶわけではない。

望月先生は数学者だから、望月先生と同じ文字数情報の論文だとしても、望月先生は絶対に物理の論文は書かない(はずである)。つまり、物理学者の論文が存在する可能性の領域とは別の領域だけを探索すべきなのである。

つまり、その著者の属性がすでにその可能性の領域を制限するのである。

つまり、これは確率論ではないのである。普通の確率論ではない。

すでに確率論の外の情報が使われているというわけだ。

望月先生の情報、数学者、プリンストン出、数論専門、ABC予想。。。。というような情報から、論文の文字情報空間の領域がかなり制限されることになる。

ロト6やロト7であれば、前々回のあたり数字、前回のあたり数字。こういうものとこれから出る数字にかなりの相関関係がある(らしい)。

つまり、勝手に出ていないのである。

なぜなら、機械にそれまでの過去の履歴が残るわけだ。どこにどの数字のボールが残っているか?こういうことが初期条件になり、次に出るあたり数字に影響しているわけである。もちろん、我々はそれは知らないだけで、それは確実に存在する。

望月先生の研究であれば、この10年どんな研究をしてたか?にこれからの研究は大きく依存してる。だから、気まぐれに情報空間を探索しても無駄になるだけだ。


実はこういう問題は、我々理論物理学者もここ数十年考えてきている問題である。

タンパク質の折れ畳問題やDNAの配列コードの問題である。

タンパク質は20種類のアミノ酸の羅列で構造が決まる。
DNAはA, G, C, Tの4種類の塩基配列で情報が決まる。

タンパク質は100〜数百の長さがあり、確率空間の大きさは、20を100〜数百回掛けた大きさになる。実際上は無限である。その中の特定の構造が現実のタンパク質を決めている。

DNAも同様である。4を何億回もかける可能性の大きさをもつ。

はたして人間の人間たるゆえんを決めるDNAはどういう配列をしているのか?

これを探すのに、わざわざ4^100000000の大きさの確率空間を考えることに意味があるのかないのか?

もちろん、意味はない。

おそらく私の知る限りでは、唯一近代的確率論の創始者だったノーバート・ウィーナーだけが、こういう奇妙な問題をまともに考えていたようなふしがある。

現実は過去に起こったことと未来予測と両方の相関で起こる。過去と未来の重なりが現実なのである。

おそらくこれに気づいたのは、物理学者では、アーサー・エディントン卿が最初。数学者では、ウィーナー理論を拡張したベルンシュタインが最初。現存では、保江邦夫博士とそのお弟子のザンブリニだけ。

「過去のすべてが今を決める。」

のであって、偶然が決めるのではない。という考え方は、アメリカのTruesdellやドイツのNollが最初だろうか。有理連続体力学の考え方である。が、これはそれほど普及していない。

つまり、現在の可能性の空間から未来が決まるという考え方が確率論だとすれば、いやそういう確率は考えても現実には起こらないのがほとんどだから意味がない。むしろ、これまでの過去情報に依存して未来が決まっていると考えたほうが良いのだという予測の仕方、「推定論」の方が現実的だ、というような考え方である。

つまり、「確率論」か?「推定論」か?

我が国のウィーナーの弟子は、北川敏男博士だった。確率推定論の創始者である。九州大学の生みの親。


いやはや、相変わらず望月先生は難しい問題にとりつかれるようですナ。

私には答えようがない。



いやはや、世も末ですナ。


おまけ:
ところで、望月新一博士の研究テーマの「Inter Universial Teichmuller space」(IU Teich)というのがあるが、IUの部分はよくわからないが、「タイヒミュラー空間」というのは、私もその昔いまだだれも引用しない論文の中で論じたことがある。

まあ、非常に簡単に言えば、有限個の穴の空いているドーナッツのような空間の表面を格子状の模様をつけて、その模様の織りなす世界の模様の付け替え、変換のようなものが作る空間のこと、とでも言っておこう。以下のものである。ご参考にどうぞ。ただしかなり長い。

Kazumoto Iguchi, "Universal Algebraic Varieties and Ideals: Field Theory on Algebraic Varieties", Int. J. Mod. Phys. B11, 2533-2592 (1997)








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by kikidoblog2 | 2018-01-25 09:29 | 望月新一・心の「一票」

「異世界から来た」論文を巡って:望月新一による「ABC予想」の証明と、数学界の戦い2   

(つづき)

異世界から来た論文をめぐって
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困惑という希望

望月教授のフロベニオイドという概念により説明されたABC予想は、驚くべきと同時に好奇心をかき立てられる発明だった。だが、それ自体によって最終的な証明がどうなるのかまで説明されているわけではない。

しかしカンファレンスに集まった数学者たちは、このケドラヤによるフロベニオイド概念の講演により、望月の手法がスピロ予想の定式化にどのようにつながるかについて、初めてその真意を理解した。ただ次のステップこそが重要である。この証明を説明するために、フロベニオイドによる転換がいかに「新しく、かつ有効な手法」なのかが示されなければならない。

論文について講義を行う望月の高弟の1人、京都大学数理解析研究所講師・山下剛。
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この手法は望月教授が発表した先の「4つの論文」に記されていて、それがカンファレンスのラスト2日間の議題となった。この論文の説明を担当したのは、パデュー大学のチャン・パン・モクと、京都大学数理解析研究所の星裕一郎と山下剛だ。3人は、IUT理論の理解に集中的に取り組む数少ない数学者である。しかしだれも、彼らの話にはついていくことができなかったという。

テキサス大学オースティン校の数論学者フェリペ・ ヴォロックは、同カンファレンスに出席し、5日間にわたる様子をGoogle+に投稿している。彼はコンラッドと同様、ブレイクスルーを期待して木曜の講話を聴講したがそうはならなかった。4日目の最後の方に、彼はこう投稿している。「午後の休憩時、参加者すべてが戸惑っていました。わたしは参加者たちとたくさん質問を交わしましたが、誰も手がかりを掴めていませんでした」。専門用語の嵐だったと、コンラッドはその心情を語った。

「そうなってしまったのは、その考え方自体に困惑したからではありません。講演という短い時間に提供された情報量があまりに多過ぎたということです。この研究に関する背景知識をもたない参加者たちとも話をしましたが、みな完全に途方に暮れていましたね」

フロベニオイドがIUT理論でいかに用いられるかを説明する最後の講演が失敗に終わったことは、予測できたと考える参加者は多い。

代数方程式について参加者と議論を交わす山下と、望月の研究室から参加したもう1人の京都大学数理解析研究所講師・星裕一郎。
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「最後まで理解できるという僅かな望みもあったとは思います。ただ、あの部分は原論がより難解になっています。だから、わたしの後に担当した発表者に責任がある訳ではないのです」とケドラヤは語った。
最後の講演が失敗に終わった背景の一部には「文化の違い」もあった、とキムは考えている。説明を担当した山下と星は、2人とも日本人だ。「日本では、数学者がプレゼンテーションを行う場合、用語の定義を絶えず続ける傾向がある。文化的違いが現れたのです」とキムは言う。「忍耐力と集中力が必要とされる、内容が濃く詰まったスライドが、日本では受け入れられるのです。一方、アメリカの場合は弁証的で双方向なスタイルが好まれます」

このカンファレンスを通して、一部の人が実際に期待していたような明白な結果が得られなかった一方で、理解への一歩という点では、前進があった。ケドラヤはカンファレンスの後により多くの知識をもつ人と連携する意欲がわき、今年7月京都大学で行われる次のカンファレンスに参加する予定だという。
「この僅かな前進でも悲観してはいないんです」とケドラヤは言う。「もっと期待はしていましたが、少なくとももう一度カンファレンスを開催し、さらに先へ進むことができるかを確認する価値があると思っています」

一方で、自身の研究について望月教授に詳しく説明する責任があると考える人もいる。ファルティングスはEメールで「個人的には、望月自身がみんなが理解できる論文を書かなければ、解決しないという印象を受けました」と書いている。

キムはその必要があるとは考えていない。カンファレンスが終わりオックスフォードを離れた後、参加者が抱いた“困惑”について彼はじっくり考えた。彼によると、それはよい困惑であり何かを学んでいる最中に訪れるものだ。

「このカンファレンスに先立ち、ほとんどの参加者が論文に書かれた望月教授の試みに関して予備知識が足りなかったようです」とキムは言う。「先週のカンファレンスではみな戸惑っていましたが、望月教授がやろうとしていることの概要はつかめたと思います。どうしたらそれを完全に理解ができるのでしょうか? それはあいまいな質問かもしれません。ただ疑問は増えましたが、1つひとつがより洗練されたことは疑いようがないのです」

【2016年7月18〜27日にわたって、京都大学数理解析研究所で、IUT理論に関する国際共同研究「IUTサミット」が行われる。望月、山下、星を含む17名が講演を行う予定。詳細はこちらから。】


本文は結構長いが、私が特に興味を持ったのは、望月新一博士の指導教官であった。

エド・ウィッテン
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ではなく、モーデル予想(今はファルティングスの定理と呼ばれる)を解いた
ゲルト・ファルティングス博士
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だったことである。

また、最後のセクション「困惑という希望」の中に、望月先生のブログの中に出てくる「複雑度の爆発」という話と可朝寝ることがあるから面白い。

この手法は望月教授が発表した先の「4つの論文」に記されていて、それがカンファレンスのラスト2日間の議題となった。この論文の説明を担当したのは、パデュー大学のチャン・パン・モクと、京都大学数理解析研究所の星裕一郎と山下剛だ。3人は、IUT理論の理解に集中的に取り組む数少ない数学者である。しかしだれも、彼らの話にはついていくことができなかったという。

テキサス大学オースティン校の数論学者フェリペ・ ヴォロックは、同カンファレンスに出席し、5日間にわたる様子をGoogle+に投稿している。彼はコンラッドと同様、ブレイクスルーを期待して木曜の講話を聴講したがそうはならなかった。4日目の最後の方に、彼はこう投稿している。「午後の休憩時、参加者すべてが戸惑っていました。わたしは参加者たちとたくさん質問を交わしましたが、誰も手がかりを掴めていませんでした」。専門用語の嵐だったと、コンラッドはその心情を語った。

「そうなってしまったのは、その考え方自体に困惑したからではありません。講演という短い時間に提供された情報量があまりに多過ぎたということです。この研究に関する背景知識をもたない参加者たちとも話をしましたが、みな完全に途方に暮れていましたね

「最後まで理解できるという僅かな望みもあったとは思います。ただ、あの部分は原論がより難解になっています。だから、わたしの後に担当した発表者に責任がある訳ではないのです」とケドラヤは語った。

最後の講演が失敗に終わった背景の一部には「文化の違い」もあった、とキムは考えている。説明を担当した山下と星は、2人とも日本人だ。「日本では、数学者がプレゼンテーションを行う場合、用語の定義を絶えず続ける傾向がある。文化的違いが現れたのです」とキムは言う。「忍耐力と集中力が必要とされる、内容が濃く詰まったスライドが、日本では受け入れられるのです。一方、アメリカの場合は弁証的で双方向なスタイルが好まれます

一方で、自身の研究について望月教授に詳しく説明する責任があると考える人もいる。ファルティングスはEメールで「個人的には、望月自身がみんなが理解できる論文を書かなければ、解決しないという印象を受けました」と書いている。

「このカンファレンスに先立ち、ほとんどの参加者が論文に書かれた望月教授の試みに関して予備知識が足りなかったようです」とキムは言う。「先週のカンファレンスではみな戸惑っていましたが、望月教授がやろうとしていることの概要はつかめたと思います。どうしたらそれを完全に理解ができるのでしょうか? それはあいまいな質問かもしれません。ただ疑問は増えましたが、1つひとつがより洗練されたことは疑いようがないのです


まさに「複雑度の爆発」のせいで、いかに現代数学者が「お前はもう死んでいる」状態に晒されたかが分かるだろう。

まあ、いつもそうで、本物の新理論が現れたときはだいたいこんな感じになる。

カルノーの熱力学理論、
ガロアの理論、
リーマンの幾何学理論、
アインシュタインの相対論、
ハイゼンベルグの行列力学、などなど。

いつも新概念の目白押しで、旧世代はついていけなくなった。

今回もまったくそれと似た現象が起きているようである。

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新しい科学的真理は、反対者たちを確信させることや真理の光を垣間見させることによって勝利するのではなく、むしろ反対者たちが最終的に死に絶え、新しい真理に親しんだ新世代が育つことによって勝利するのである。ーマックス・プランク

まさにプランクの言葉通りの展開になるものなのである。

それから1年の月日が流れ、ようやく皆さんが納得したということなのだろうか?


科学者ほど保守的である。というのは、物理だけでなく数学でもどこでもそうなんですナ。



いやはや、世も末ですナ。





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by kikidoblog2 | 2017-12-27 11:29 | 望月新一・心の「一票」

「異世界から来た」論文を巡って:望月新一による「ABC予想」の証明と、数学界の戦い1   

みなさん、こんにちは。

いよいよ今年も終わりに近づいた。

ここ阿南では冬至も過ぎたせいか、徐々に夜明けも早くなり、旭が登るのも早くなってきたようだ。

年の移り変わりは本当に早い。

さて、そんな年末にメモし始めた「望月新一先生のブログ」の話は結構人気を得たようだ。
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私的ブログ
新一の「心の一票」
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前にもメモしたが、伝統的に我が国では人しれず未踏の地に挑戦するタイプ、あるいは、非常に難しいことに挑戦する人が尊ばれる傾向がある。

だから、自分では理解できなくても数学者の研究とかその精神が好きだという人は多い。むろん、私もその1人である。

そんなわけで、数学界の超難問といわれる「ABC予想」を“解いた”というスーパーレジェンド、それも我が日本人がやり遂げた、という(すでに)伝説はとてつもなく興味深いものと映るのである。

しかもそれをやり遂げたという人が、かのノーバート・ウィーナーとか、フォン・ノイマンのような早熟の天才であり、ローティーンで全米一のエクスター高校出身で、それを2年で卒業し、これまたアインシュタインのいた全米一のプリンストン大に入学した人物であったとか、こういう数々の伝説の上に成り立つ話だから、なお一層我々凡人の関心を引くのである。

そしてその望月新一博士は、かのポアンカレ予想を意外な方法で解いたロシア人の
グレゴリー・ペレルマン
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とも相通じる感性の持ち主である。

ペレルマンは米クレイ社の出すミレニアム賞である、一億円の賞金付きのクレイ賞を無視して、ロシアできのこ狩りをしていた。母親の年金で生活。我が国にたくさんいる、いわゆる「ニート族」と同じような生活で満足しているのである。

ペレルマンはプリンストン大から幾多の有名大学からのオファーも断った。というより、ナシのつぶて。

そんなことはどうでも良いのである。

一説では、ペレルマンは欧米には幻滅以外の何者も感じなかったらしい。

この点では、望月博士の研究分野の創始者であった
グロタンディーク
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もまた、アルプスの山小屋で欧米の悪魔と戦っていたという話だから、なんとなく似ている。

フランス人のグロタンディークもフランスのCNRS(日本の理化学研究所やドイツのマックスプランク研究所などのフランス版)の運営方針(軍産複合体形式)に激しく反対し、10000ページを超える数学論文を残し、アルプスの隠遁生活に入ったのだった。

さて、そんな望月先生のことは、すでにここでも幾つかメモしたが、
望月新一・心の「一票」

今回は、そんな望月新一博士の「ABC予想の証明論文」がどのような顛末となったか?あるいはどのような感じの扱いを受けているか?という、かなり生のリアルタイムの雰囲気を醸し出しているサイトを見つけたので、それをメモしておこう。以下のものである。

異世界から来た論文をめぐって
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2012年、数学界に激震が走った。
30年近くだれも解けなかった「ABC予想」を
京都大学教授の望月新一が証明したというのだ。
ただ、その証拠である論文は「異世界からきた」と思われるほど難解で、
誰にも理解できなかった…。それから、3年の時を経て、
数学界最大の謎に立ち向かうべくイギリスでカンファレンスが昨年開かれた。
そこで一体何が起きたのか。
2016年7月下旬から、再度京都で開かれるカンファレンスに備え、レポートを緊急掲載。
[15年12月21日のQuanta Magazine掲載の記事を翻訳・転載]


突如現われた謎

2015年12月初旬、3年間にわたって注目を集めていた「ミステリー」の新たな進展を目当てに、オックスフォード大学に数学界の目が向けられた。

京都大学の著名な数学者・望月新一教授の研究に関するカンファレンスが行われたのだ。彼は2012年8月に難解かつ重要な4本の論文を発表し、それを「宇宙際タイヒミューラー理論(IUT理論)」 と称した。それらの論文には、整数論において未だ解かれていない問題の1つである「ABC予想の証明」も含まれていた。

日本の数学者望月新一が、素数間の和や積に関する問題、ABC予想を証明した。その証明には500ページも必要とした。この日本人数学者の業績は、ABC予想を証明するだけでなく、数学の新しい部門の発展に道を開くかもしれないということだ。「もし実証されれば、望月教授の技術はほかの問題の解決の鍵となりうる」という。

これらの論文において望月教授の主張する証明は、数学界に対する前例のない独特な挑戦であった。彼は20年近くの歳月をかけ単独で研究を行い、このIUT理論を構築した。実績と緻密さで評価を得ている数学者である彼の主張の影響は大きかった。だが、彼が発表した4本の論文はほぼ理解不能な上に、500ページを超える論文は全く新しい形式で書かれており、多くの新しい用語や定義がなされていたのだ。

より問題が深刻化したのは、望月教授が日本国外での講演依頼をすべて拒絶したためである。論文を読み解こうとした数学者の大半がこの新たな理論を理解できず、あきらめてしまうことになった。

それから3年もの間、この新しい理論はずっと放置されたままだったが、ついに15年12月、オックスフォード大学クレイ数学研究所に世界中から高名な数学者たちが集まった。望月教授の理論を理解するための、これまでで最大の「試み」が行われた。オックスフォード大の数学者であるキム・ミヒョンと、このカンファレンスの3人のオーガナイザーによれば、ついに“機が熟した”のだという。

「わたしや望月も含めみな、もう待ちきれないのです。数学界の誰かしらが行動を起こす責任があるように感じています」とキムは語った。「数学界にいる誰もが責任を感じていますし、わたしは彼の友人として、個人的にもその責任を感じています」

論文を読み解こうとした数学者の大半がこの新たな理論を理解できず、あきらめてしまうことになった

カンファレンスでは、3日間の予備講義と2日間のIUT理論に関する講演が行われた。そのなかには、ABC予想証明の根拠となっているといわれる4本目の論文に関する講義も含まれていた。望月教授の主張する理論の解明を期待して参加した者はほとんどおらず、望月教授の研究がどのようなものかをまず把握することを期待した人が大半だった。多くの参加者らは、望月教授の証明に今後の更なる研究対象となる新しいアイデアが含まれているかどうかを確かめたかったのである。

カンファレンスの最初の3日間は、その希望だけが高まっていった。

前人未踏の数学概念に挑め

ABC予想は、単純な等式「a + b = c」を満たす3つの自然数a, b, cに関して、3つの数の関係を説明するものである。3つの数字が互いに素である場合、a,b,cの互いに異なる素因数すべての積を1よりも大きい値(例えば、1.001)で乗じた結果は、有限個の3つの自然数の組み合わせを除いては、cより大きくならない。また、このような例外的な組み合わせの数は、素因数の積を乗ずるときの値に依存する。

自然数同士の「和」と「積」という一見無関係な値のあいだに「予想外の関係性」が見出されることをABC予想は仮定しているため、整数論を大きく進展させる可能性がある。数が3つの場合、aとbの素因数がcの素因数を制限するという明らかな理由はないのだ。

望月教授が論文を発表する12年まで、1985年に提起されたABC予想の証明はほとんどなされてこなかった。だが、このABC予想が数学における別の大きな問題とからみ合っていることを数学者たちは早くから理解していた。例えば、ABC予想が証明されることによって、整数論によって導かれた従来の結果は大幅に改善される。

1983年、現在ドイツのボンにあるマックス・プランク数学研究所の代表を務めるゲルト・ファルティングスが特定の法則をもつ代数方程式には有限個の有理解しかないことをしめす「モーデル予想」を証明し、さらにそれを発展させ、86年に数学のノーベル賞とも呼ばれる「フィールズ賞」を受賞した。これは「ファルティングスの定理」と呼ばれている。その数年後、ハーヴァード大学のノアン・エルキーズにより、ABC予想の証明によってがそれらの方程式が解けることが示された。

「ファルティングスの定理は素晴らしい定理ですが、有限解を発見する方法は提示されていないのです。そのため、ABC予想が正しいかたちで証明されれば、ファルティングスの定理の結果が拡充されることにもなるのです」とキムは言う。

23歳でプリンストン大学でPh.Dを取得、32歳で京都大学数理解析研究所教授に就任している望月新一。日本国外での講演をかたくなに拒んでおり、英国でのカンファレンス参加時も、テレビ会議経由で質問に答えた。

23歳でプリンストン大学でPh.Dを取得、32歳で京都大学数理解析研究所教授に就任している望月新一。日本国外での講演をかたくなに拒んでおり、英国でのカンファレンス参加時も、テレビ会議経由で質問に答えた。
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ABC予想は、1980年代にフランスの数学者リュシアン・スピロが提唱した「スピロ予想」と本質的にはほぼ同じものである。ABC予想は整数の関係に内在する数学的現象を説明し、スピロ予想はその楕円曲線内の関係を説明するものである。スピロ予想では、楕円曲線が特定の代数方程式がもつすべての解の集合に幾何学的体系を与えている。

整数を楕円曲線として捉えなおすことは、数学ではよく行われる。これにより予想の証明はより抽象的かつ複雑になるが、同時に数学者はその問題に関してより多くの手法を用いることができるようになる。

アンドリュー・ワイルズが1994年に「フェルマーの最終定理」を証明したとき、彼はまさにこの戦略を取った。「2より大きい整数(n)に関して等式『 a^n+b^n = c^n 』を成立させる正の整数の解はない」という問題をただシンプルな等式のまま扱うのではなく、二度の変換を通してより抽象的な定式化を行ったのだ。一度目は楕円曲線で、二度目が楕円曲線の「ガロア表現」と呼ばれる別の数学的手法である。こうして、彼はフェルマーの定理の証明に成功した。

望月教授も同様の戦略を採っている。ABC予想を直接証明するのではなく、スピロ予想の証明にまず着手した。その証明を行うためにまず、スピロ予想の関連のあるすべての情報を「フロベニオイド」と呼ばれる自らが生み出した新たなレヴェルの数学的概念へ変換した。

IUT理論に関する研究を始める前、望月教授はABC予想の証明を目指して模索しながら、新しい変換に取り組んでいた。彼はこの一連の概念を「楕円曲線のホッジ・アラケロフ理論」と呼んだ。残念ながら、これは突き詰めるとABC予想に適用できないことが判明したが、彼はその過程でこのフロベニオイドという概念を生み出した。

フロベニオイドがどんなものか理解するため、頂点がA, B, C, Dの順に並んだ正方形を考えてみよう(右下を頂点A、右上を頂点Bとする)。この正方形はその物理的な位置はそのままの状態で、さまざまに動かすことができる。例えば、反時計回りに90度回転したり(頂点が右下からD,A,B,Cとなる)。180度、270度または360度と回転させたり、ひっくり返して対角を入れ替えたりもできる。

望月教授によると、それは『数』という世界の背後にある、より根本的な事実を模索することなのです

こうして物理的な位置が保持される性質は、正方形の「対称性」と呼ばれる。すべての正方形は、このような対称性を8つ有している。さまざまな対称性をさらに追求しようとして、数学者は正方形すべての頂点にラベル(A, B, C, D)を与えそれらを集合として捉え、さらにその集合に代数構造を付加した。

この代数構造が付加された集合は「群」と呼ばれ、群が正方形という幾何学的制約から自由になると、新たな対称性が得られる。幾何学上の正方形においてはAが常にBの隣にあるため、幾何学的制約をもつ剛体運動によっては(A, C, B, D)という順番の頂点をもつ正方形はできない。だが、その群のなかのラべルだけで考えると全部で24通りのパターンが存在しうる。

このようにラべルの対称性がもつ代数的集合は、その幾何学的制約を取り払うことで3倍の情報をもつことになる。正方形より複雑な対象であれば、数学者はそれらの追加された対称性からオリジナルの図形を用いるだけでは到達できない知見を得ることができるのだ。

望月教授が生み出したフロベニオイドは、先ほどの「群」の概念ととても似ている。ただそれは正方形ではなく、特殊な楕円曲線から抽出された代数的集合である。上記の例と同様に、フロベニオイドは元の幾何学的性質より生じる対称性よりも多くの対称性を有する。望月教授は、楕円曲線に関するスピロ予想から得られるデータの多くをフロベニオイドに転換した。ワイルズがフェルマーの最終定理から楕円曲線へ、さらにガロア表現へ手法を展開したのとまったく同じように、望月教授はABC予想からスピロ予想へ、さらにフロベニオイドへ問題を展開させることで情報量を増やし、証明を試みたのである。

「望月教授によると、それは『数』という世界の背後にある、より根本的な事実を模索することなのです」とキムは言う。抽象的概念が追加されていくことで、これまで明らかでなかった関係性が表出しているというのだ。「抽象的なレヴェルにおいては、幾何学的なレヴェルよりも多くの事物の関係性が存在しているのです」

カンファレンス3日目の最後の発表と4日目の冒頭で、カリフォルニア大学サンディエゴ校の数論学者キラン・ケドラヤが望月教授がABC予想の証明にこのフロベニオイドをどのように用いようとしているかを説明した。彼のレクチャーにより、望月教授の手法において何が中核を成しているかが明らかにされ、それまでの時点で最も意義深い進展となった。望月教授の博士論文の指導教官であったファルティングスは、ケドラヤの講演が「インスパイアされるものだった」とメールに記している。

「ケドラヤの講演は、そのカンファレンスにおける重要なポイントでした」と出席したスタンフォード大学の数論学者のブライアン・コンラッドは語る。「その日たくさんの人に連絡しました。こんなテーマがケドラヤの講演で話されたから、明日とても興味深いことがわかるだろうってね」。ただ、結局は、そううまく事は運ばなかった。


(つづく)





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by kikidoblog2 | 2017-12-27 11:03 | 望月新一・心の「一票」

「新一の『心の一票』」:「心壁論」「ノーと言える人間」の重要性2   

(つづき)

新一の「心の一票」
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(け)
さて、この部分の特に、以下の部分が面白い。

 十分に古い時代まで遡りさえすれば、英語の
 ような現代のヨーロッパの言語が日本語と
 繋がっている世界
を発掘できるかもしれない


まさにこれこそゼカリア・シッチンのシュメール文明の研究につながる。

ヨーロッパ文明の源流がシュメール文明にあり、そのシュメール文明の神々が「惑星X」こと「第10番目の惑星ニビル」の宇宙人である。

ニビルはNIBIRUというように、日本語のカタカナやローマ字の発音に近い。

書く場合は、子音のみで書いたが、いつも適当に母音を補って読むらしい。

シュメール語には、rもlの区別もなく、非常に日本語に近い発音だったことがわかっているから、それにさらに文型がSOVの日本語型だとすれば、さらに日本語に近いということになる。

高橋良典さんの古代文明の研究
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からすれば、かつてこの地球上は日本文明=アトランティス+ムーの原型の文明で覆われていたらしい。

だから、12000年前の大洪水以前では、世界語が日本語だけだった可能性が高い。

その名残が西洋世界の古代語にもちゃんと残っていたということである。

西洋文明も古代に遡れば登るほど日本人に近くなる。

実際には、ヨーロッパでは、古代ギリシャやローマだけでなく、ケルト民族やドイツ民族、更にはロシア民族には、キリスト教が普及する前に長らく続いた多神教の伝統があったのです。


古代ローマ、古代ギリシャ、古代ロシアにも多神教でかつSOVの文型の古代語があった。

ドイツにはケルト民族が先住民としてあり、キリスト教のキリストという言葉にも「キリ」=「ケル」発語が残る。

つまり、kr=kl=cr=cl=chr=chlなどから、kil=krilなどの西洋の発音が出てくるわけだが、こういう現代語の発音の語源がみなたった一つのカタカナでいえば、

カラ=クル

から出ているのである。

これを高橋先生は、「カラ族」あるいは「クル族」と呼んだ。

朝鮮の古代が「カラ=加羅」であり、支那の古代が「唐=カラ」である。

モンゴルの古代が「キリル」や、キリギスタンの「キリ」。

支那にも「呉=クレ」が後の呉(ご)となった。

欧州の地中海には「クレタ島」があり、日本同様に魚食漁業が中心であり、我が国の瀬戸内海の島々と非常に似ている。

クレタ島には「線文字A,B」があり、後からできた西洋語と同じ表音文字の線文字Bは解読されたが、古い方の線文字Aは未解読だが、一部は高橋先生が日本語の神代文字を利用して解読している。

同様に超古代エジプト文字でも西洋ギリシャ語との辞書であったロゼッタストーンで理解出来る後期エジプトのヒエログリフが解読されたが、つまり言い換えれば、西洋白人種が乗っ取った後のクレオパトラの時代の文字は解読されたが、それ以前の先住民のエジプト文字のヒエログリフは「西洋人には」解読されていないのである。

しかし、それもすでに高橋先生が一部解読したのである。
坂井洋一「超古代は日本語によるワンワールドだった!」:太陽の国日本vs悪魔の国英国の戦い!?

超古代ミステリー1:超古代エジプト王はどうして日本人に似ているのか?
超古代ミステリー2:スフィンクスの鼻を壊したものはだれか?
超古代ミステリー3:スサダミコの長い旅路とティルムン=東日本国は関東日本王国か?
超古代ミステリー4:ヒエログリフの謎「神聖文字か神代文字か?」

「やすえくにお先生のごあいさつ」:国会で次元転移、愛魂道、ハトホルの秘儀を行う日が来るか?


その極めつけが、
ツタンカーメン
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(オリジナル)
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(だれがみても日本人の顔ですナ。白人でも黒人でも支那人でもない。)
の黄金前掛けにある超古代文字が、高橋良典さんによって神代文字を使って解読されたのであった。これである。ここでは何度もメモしてきた。
ツタンカーメンの首の金の前掛けの碑文
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<頭上>
日経(ひふ)る天日(あむひ)とともに出る
トゥトアンクアムン
永遠(とわ)にあれ

<翼右下>
誓ひ トゥトアンクアムン
御身愛(おんみめ)で 死したるのち
あの世でも 朝な夕べに祈る

<翼左下>
ここに主(あるじ) 天日奉(あまひまつ)りて
絵師 イシスの宮の
日経(ひふ)る札(ふだ)つくる


つまり、クレ=カラというのは、朝鮮のカラが先祖なのではなく、真逆で日本の古代の人種がクレ族=カラ族であり、その一派が超古代の東アジアにも住んでいたにすぎないのである。

たぶん、我々日本人が終戦後に縄文時代の縄文人と呼んだ系列の人々が、かつて全世界に住んでいた。すくなくとも5万年前〜10数万年前にそういう時代があったはずなのである。

この時代には、ネアンデルター人もデニソワ人もさまざまな人種が同じ人間として生活していた。そして平和主義者の日本人の祖先は彼らとも共存共栄していた。

だから、その遺伝子に日本人が一番ネアンデルタール人やデニソワ人の遺伝子を残しているのである。

世界最古の遺伝子である。

ちなみに、アフリカ起源説もあるが、最初にいたアフリカ人(たぶんそんなに色黒ではなかった)と今いるアフリカ人(非常に黒い)は別人種である。今現在のアフリカ人は長頭細身長身で、かなり西洋人に近い。

それに対して、今現存では西アフリカから南アフリカにいるピグミーやブッシュマン
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やホッテントットが一番最初のアフリカ人であることがわかっている。この人種はそんなに色が黒くない。また顔も彫りが浅く日本人のような顔に近い。

実際、私の母方の祖母はだれがどうみてもブッシュマンの女性だった。髪の毛も天然に近かった。

まあそれが、いつしか西洋人がアーリア人と呼ぶ人種が現れた。

シッチン説を拡張すれば、それが邪悪なエンキとその家来のドゥムジの子孫ということになる。つまり、堕天使の子孫なのである。これがヒマラヤの北西部のコーカサス地方源流のコーカソイドの先祖ということになる。いわゆる人間としての血も涙もない連中。ユダヤ人の祖先。

あるいは、エンリルとルカクの娘の不義の子として生まれた子孫。これが欧州の白人種の源流の先祖ということになる。つまり西洋王族の先祖。

彼らは非常にニビル人に似た色の白い堀の深い人種である。

というようなわけで、望月先生の子供の頃の思いつきは非常にいい線いっていたわけである。


(こ)
そしていよいよ最後のこの部分も実に興味深い。

この文脈でいつも思い出すものの一つは、1990年頃の日米貿易摩擦の時代に、(ソニーの会長だった)盛田昭夫氏と政治家の石原慎太郎氏によって共同執筆された「ノーと言える日本」という本です。当時プリンストン大学の大学院生だった私がこの本をどこで購入したかは覚えていませんが、何とか購入して興味深く読み、自分も「ノー」と言うべきときには

      「ノーと言える人間

になりたいなと強く思ったことを覚えています。

ここのところの(=2017-10-19付けおよび2017-11-14付け)記事では、数学とは何か、あるいは数学と芸術等との関係について様々な考察を述べていますが、上記のような文脈で見ると、

   数学=人類の認識の仕組みの論理構造
   の解明
はまさに、「ノー」と言うべき
   ときに断固たる「ノー」を突き付ける
   ための、一種の究極的な技術・手段

であるように思います。残念ながら、今日の日本の文化では、

   (過去あるいは現在の)欧米の数学界
   のエリートに対して、憧れの念を極める
   =諸手を挙げて究極的な「イエス」
   発信することこそが「数学」である

かのような解説がなされることが多いような印象がありますが、私が強調したいのは、むしろ

  そのようなエリートのような相手に対して
  は、「ノー」と言うべきときに断固たる
  「ノー」を、数学を通して突き付けること
  こそが、数学の本来の精神であり、数学が
  果たすべき役割である

ということです。

また何度も繰り返しますが、様々な形態の「対欧米従属の文化」や「心の中の米軍基地」に対して、謙虚な姿勢で論理構造の解明・研究を遂行することによって「ノー」を突き付けることは、「拳を振り上げる」=「盾を突く」ような好戦的な姿勢として誤解されることもありますが、本当はそのようにすることは

   長期的には、日本のみならず、欧米を
   含めた人類全体にとって最も健全
   建設的な道

になると、(様々な経験を踏まえて)強く感じています。

最後に、ここのところ報道等でよく話題に上る北朝鮮の核兵器の問題ですが、このような報道を見るといつも(改めて!)痛感しますが、

  人類にとって最も究極的な「武器」
  やはり核兵器や化学・生物兵器等では
  なく、物事や仕組みの本質的な論理構造
  を研究し、明らかにすること、つまり、
  一種の広い意味での「数学

ではないでしょうか。私は軍事の専門家でも、朝鮮半島情勢の専門家でもありませんが、北朝鮮の核兵器の問題を見ても、一見すると「核兵器」が問題の本質のように見えても、本当は「核兵器」も、今我々が生きている時代の様々な「非本質的な技術的な要因」によって偶々浮上した一種の「小道具」に過ぎず、「小国」の北朝鮮が世界の大国を手玉に取る「外交術大国」としての地位を固めることができたのは、「偶々浮上した小道具」の「核兵器」を利用する場面があっても、本質的には(核兵器そのものとは全くの別物である!)

   世界の大国の権力構造を支えている
   論理構造を正確に解明し、その盲点を
   突く技術が非常に高度に発達している

ことにこそ、主たる要因があるのではないでしょうか。


まあ、簡単に言えば、誰に対しても明晰な数学的論理を使ってノーというときにはノーと言えということである。

それが欧米の一流と目されるユダヤ系の学者に対しても「イエス」といって迎合し足元にひれ伏すのではなく、相手が変なことをやればきちんとした理屈をこねて「ノー」ということが大事だという意味である。

御意。

まあ、西洋白人種もハザールユダヤ人もロシア人も、朝鮮人や支那人と同じく、

嘘も100遍言えば真実になる

という民族である。

寄らば大樹の陰。強いものにまかれろ。

の人種あるいは亜人種である。

だから、権威に弱い。また権威になろうとする。

ユダヤ人の場合は、逆にそういう西洋世界を生き抜いてきたから、ユダヤ人以外の権威を否定し、自分が権威になれ、という民族となった。

これがタルムード・ユダヤ人である。

そういう人間がだれであれ、ちゃんとした論理と理屈で否定すべきものはちゃんと否定する。これが人類世界の最低限の条件だというのが望月先生の考え方のようである。


しかしながら、たぶん(俺はアカデミズムの中にいないからわからないが)、それは相当に難しいのではないか?

東大や京大や名古屋の数学者がプリンストンの数学者に迎合しないで、ノーという。「お前は間違っている」という論文書く=自殺になってしまうのではなかろうか?

プリンストンやハーバードやケンブリッジの学者やノーベル賞学者に向かって

「お前はもう死んでいる」
とノーを突きつける。

ところで、北斗の拳のアニメの時代にすでに、敵の悪党の額に「666」って書いてあったんですナ。
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「666」が世紀末のナンバーであり、イルミナティーが人間につけようとしているという話は1990年代になってデービッド・アイクとか、ジョン・コールマンが広めたから、1984年作の北斗の拳の方が早い。

作者(武論尊)はいったいいつどうやって知ったのか?


誰に対しても数学者の頭脳を持って、勇気をもって「ノーと言える」世界。この本来の数学者精神の復活を望月新一先生は望んでいるわけだ。

ソクラテスは「悪法も法だ」といって毒殺を受けた。

ガリレオは「それでも地球が動く」といって悪法の裁きを受けた。

「それでもノーはノーだ」

と言えるというのは、西洋ではソクラテスやガリレオクラスにならないとまず不可能。

しかし日本人の場合は、武士がいた。武士道の精神で、自分の腹かっさばいて、潔白を主張し、ノーを突きつけたとさ。

やはり武士道の精神がないと、これは難しいのではないか?


いやはや、そんなことやあんなことをいろいろ考えさせてもらえる見事なエッセイである。

いずれにせよ、「心壁論」、ぜひ本にしてほしいものである。


それにしても、この望月新一先生、あのエド・ウィッテンの学生になったという噂もあるから、ひょっとしてフィールズ賞のウィッテンに

「お前はもう死んでいる」

っていっちゃったんだろうか?

もしそうなら実に面白い。




いやはや、世も末ですナ。



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by kikidoblog2 | 2017-12-26 11:24 | 望月新一・心の「一票」

「新一の『心の一票』」:「心壁論」「ノーと言える人間」の重要性1   

みなさん、こんにちは。

(あ)
さて、先日メモした
偉業:数学者望月新一博士のABC予想の証明ついに認知される!
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およびブログ
新一の「心の一票」
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「新一の『心の一票』」:数学者望月新一先生のブログ発見!1
の内容は実に興味深い。

(い)
特に以下の
「心壁論」と、論理構造の解明・組合せ論的整理術を「心の基軸」 とすることの本質的重要性 (9)
は何度か読み返しているが、その都度何んらかの発見があるという優れものにみえる。

望月新一博士がいったい何をいわんとしているのか?

を理解するには、それなりの深い論考が必要だろう。

海外で子供の頃から生活したという経験がないとそれを追体験できないし、理解不可能だから、本当に理解するということは不可能だろう。

しかしながら、ある程度の理解は可能だろう。

(う)
望月博士のいう
「心壁論(こころ(ある)かべろん)」
は実に興味深い。

かつて養老孟司先生が
「バカの壁」
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という本を出してベストセラーになったが、私の印象では、この「心壁論」も本にすればベストセラーになるのではなかろうか?家が建つ。

養老先生の「バカの壁」の「壁」と望月先生の「心の壁論」の「壁」とはたぶん同じようなものだろうと思う。

心の中にできる「壁」である。

しかし差もありそうだ。

前者の「バカの壁」の「壁」が無意識に生み出す「壁」だとすれば、後者の「心壁論」の「壁」は意識的に生み出す「壁」である。

まあ、養老先生の本は本屋で斜め読みしただけだからよくわからないが、そんな印象を受ける。

(え)
この「心壁論」では、以下の部分が興味深い。

・逆に十分に異質な者同士の間に適切な「壁」を設定しないと、当事者の手に負えない複雑度の爆発が発生し、当事者同士の間の認識解像度が著しく低下することによって通常の人間らしい社会が破綻してしまうような状況に追い込まれてしまいます。これは政治的な問題、あるいは語学力の問題として誤解されがちですが、問題の本質は状況全体の論理構造にあり、一種の数学の問題として理解されるべき事象です。


たぶん日常生活で目撃する物事がすべて数学の問題にみえる、感じる、聞こえるというような認識スタイルはあまり数物理に親しくない一般人には理解されないかもしれないですナ。

しかし、我々数理系の人間には実によく分かる主張の一つなのである。

政治問題は、その基本は「囚人のジレンマ」的なナッシュ均衡のゲーム理論としてみることができる。

バカの壁とか、心ある壁論とか、そういうものは、情報の「複雑度の爆発」と見ると、それは一種の数学になる。

つまり、自分の処理能力を超える情報データが一度に入った場合に起こる現象であり、それでパニックを起こして何もできなくなるのを防ぐには、それなりの壁を作って防御する。それが大事だということである。

これが数学の問題として定式化できるはずだ、ということである。

情報であれ、流れであれ、物流であれ、その経路の処理能力を超えた流れが入れば、パンクする。つまり、交通渋滞が起こる。今では、西成活裕先生の
「渋滞学」
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なるものまで出ている。

ところで、この西成先生は昔はソリトンの研究者だったが、いつの間にか渋滞学の専門家になってしまった。と同時にすっかり髪の毛がなくなった。

(お)
さて、「複雑度の爆発」というのはどのように数学的に定義すべきだろうか?

いっとき流行った「認知的不協和」というのも、この現象と関係がありそうである。

いずれにせよ、かつてから言われていたように、人の頭は自分の理解力を超えるものが来たときには、いったん拒絶するのである。

空飛ぶ円盤を見ても、あまりに複雑度の爆発があるために、それを見なかったことにするとか、あるいは、なかったことにするとか、気のせいにするとか、こういうことも「複雑度の爆発」のせいである。

あるいは、かつて保江邦夫先生が、カソリック神父のスタニスラフ神父と面談した際、あまりに複雑度が大きすぎて、その直後には何が起こったのかさっぱり覚えていなかったという話もこれに関係しているだろう。

自分の普段取り扱う世界を遥かに桁違いに超えた情報量や経験量や歴史量などあらゆるものが超越した状況は、その当人にとっては、あまりに複雑怪奇なものとなり、処理不能となる。結果、なかったことにしてしまう。

それよりは、むしろ最初に「心ある壁」を作って、そこから通してみる。

怖いものを見るときに、手でいったん目隠しし、それから指の隙間からちょっと垣間見る。

とまあ、印象としてはこんなイメージに近いのかもしれない。

(か)
望月先生のこのエッセイの中盤の言語の話は前にメモした
「新一の『心の一票』」:「心ある壁」を構築し、維持することの重要性
「新一の『心の一票』」:「心壁論」と、論理構造の解明・組合せ論的整理術を「心の基軸」 とすること2
からはしょって、後半の以下の部分もメモしておこう。

少し話しが変わりますが、自分の学生(=修士課程や博士課程の大学院生)が英語で論文を書くときの指導の様子や方針について言及したいと思います。そのような指導をするときの「定番の話題」として、定冠詞・不定冠詞が付くか付かないか、単数形にするか複数形にするか等、英文を作文する際の「お馴染み」のテーマがありますが、私がいつも強調するのは、英語の語学的な技術的な側面等、

  無数の非論理的な慣例や不具合・「歪み」
  を抱えた自然言語に過ぎない

       「英語」を忘れて、

  数学的な内容の

        論理構造
      「組合せ論的整理術」

  (=議論や解説を細かく分割してその部分
  部分を最適な順番に並び替えたりすること)

に集中することの本質的な重要性です。

これが英語論文を書くときの真髄だというわけである。

これは英語でしゃべる場合も同じで、会話では「発音が大事だ」「rとlの区別が大事」「sとthの違いが重要」とかいう話に対して、「いや実は会話で一番大事なのは話の中身だ」という意見に似ている。

いくら母国人並みの英語の発音で英語を話してもその会話の中身の半分がジョークで残りがバッドワードだったら意味がない。まさに「意味がない」=「時間の無駄」である。

それよりは、発音には不備があろうが、何を一生懸命話そうとしているか、その熱意や内容、こういったものがあれば、いくら発音が悪かろうが相手は話に引き込まれ、自ら話を理解しようとする。だから、話の内容こそ命である。そのためには、話の中身を作るためのもともとの素養や教養が大事なのである。

そしてその場合に何が一番大事かといえば、そういう話の中身を理路整然とわかりやすく上手く順番に話すという頭脳である。

とまあ、そういうことである。

英語の論文を書くときもこれと同じだということなのである。

そういう話の中身とその組合世論的な側面が見事な英語の数学論文を書く時の決めてであって、ほとんどそれが全てだという意見である。

御意。まったく賛成である。


(き)
翻って、PPAPのピコ太郎が何故受けたか?

まあ、Pやパピプペポで始まる単語は、乳幼児期からの糞尿用語の刷り込みから特に生理学的に印象に残る発音として知られているから、PPAP、PIKOのPの連結が非常に印象に残るという面がある。

英語圏の外人には、カタカナのアップルと発音してもそれはジャパニーズイングリッシュでしかなく、アッポーとカタカナで発音したほうが英語のAppleの発音に近いのである。

100数十年前のジョン万次郎の

掘った芋いじんな〜(ほったいもいじんな〜)!

と発音したほうが、

ホワット タイム イズ イット ナウ?

と発音するより、

What time is it now?

の原音に近いのである。

私がハワイで何度も実験したが、ジョン万次郎の発音は100%時間を教えてくれた。

この意味で、ピコ太郎の発音が良かったともいえる。

パイナップルというより、パイナッポーの方が原音に近いし、アッポーペンの方がApple penに近い。

アップルマッキントッシュというより、アッポーマキンタシュの方が原音に近い。

だから、もしピコ太郎が和製発音で

ペンパイナップル アップルペン

とやったらここまで流行らなかったにちがいない。

つまり、中身がない場合のみ、発音が意味を成す。が、中身があれば発音は無関係なのである

(く)
最後の後半の以下の部分は実に興味深い。

上述のような英文添削の文脈ですと、いつも思い出すことですが、英語に出てくるような定冠詞・不定冠詞は、日本では「欧米文化を代表するような事象」として見做されがちですが、古代や東欧まで視野を広げてみますと、

ラテン語には定冠詞も不定冠詞もない、
古代ギリシャ語には不定冠詞がない、
・(現代)ロシア語には定冠詞も不定冠詞もない

等、多くの日本人の感覚とだいぶ違う実態が浮かび上がってきます。また、ラテン語の場合、標準的な語順は日本語と同じ「SOV型」(=主語 (Subject) - 目的語 (Object) - 動詞(Verb))となっていて、日本語の感覚からすると強い違和感のある英語の「SVO型語順」と違います。子供の頃(=10歳前後)の私には、このような文法的特徴を持ったラテン語やギリシャ語はとても魅力的に映り、

 十分に古い時代まで遡りさえすれば、英語の
 ような現代のヨーロッパの言語が日本語と
 繋がっている世界
を発掘できるかもしれない

といったような感覚から、15~16歳の頃(=プリンストン大学の学部1年生の頃)までラテン語とギリシャ語の他に、印欧語族の中でも最も古い言語の一つであるサンスクリット語をかなり熱心に勉強しました。

なお、この定冠詞・不定冠詞の話題をするときにいつも思い出すもう一つの重要な側面は、

      一神教・多神教との関係

です。この側面は私の研究IUTeichの中でも重要な役割を果たす数学的な概念である

         基点宇宙

あるいは、より初等的な数学でよく出てくる概念である

          座標系

というものとも密接な関係にあります。その関係を一言で説明することはなかなか難しいのですが、現代の一神教の欧米の文化では、

   「たった一つの神しか存在しない」

ことになっているのに対応するように、

  「たった一つの、がっちり決まった物事
   の考え方=座標系=基点=`心の基軸’


の下で思考する文化が徹底されています。このような全体的な文化的な状況は、定冠詞・不定冠詞が付くかどうかの基準となる、

    言語空間で許容されている表現
    のイメージの、一つのがっちり
    決まった「座標系

と符合します。一方、日本のように「多神教」(=神道の「八百万の神」)系の文化的環境ですと、そのように

   許容される表現のイメージ全体に一つ
   の固定された「座標系」を敷き、表現
   のイメージ全体を通して

      同一の「座標系」=「視点」
     =「声」=「神」=「心の基軸」


   しか認めないという姿勢を徹底する
   ことにはどうしても強い違和感を覚える

ため、定冠詞・不定冠詞が付くかどうかの判断基準となるものが見当たらず、付くかどうかさっぱり分からない、判断のしようがない、という精神状態からいつまで経っても抜け出せないでいることになってしまいます。

子供の頃(=5歳~10歳=初めて米国に渡って間もない頃)の私は、上記のような「難しい言葉」では上手く表現できなくても、上記のような状況を子供なりに、「空気的」に、直観的に完全に理解していましたし、「一神教の人間ではない」、つまり学校等でよく耳にした、より素朴な表現で言うと、「お前は神を信じるのか、信じないのか」というような形で問い詰められたりして遭遇した苦しい社会的な状況もあって、言語だけでなく、

      古代ギリシャやローマ
     (「日本と同じ」)多神教

に大変強い関心を持っていました。実際には、ヨーロッパでは、古代ギリシャやローマだけでなく、ケルト民族やドイツ民族、更にはロシア民族には、キリスト教が普及する前に長らく続いた多神教の伝統があったのです。


この部分だけでも2、3章は書けるのではなかろうか?


(つづく)





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by kikidoblog2 | 2017-12-26 11:11 | 望月新一・心の「一票」

「新一の『心の一票』」:「心壁論」と、論理構造の解明・組合せ論的整理術を「心の基軸」 とすること2   

(つづき)

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の私的ブログ
新一の「心の一票」
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子供の頃(=5歳~10歳=初めて米国に渡って間もない頃)の私は、上記のような「難しい言葉」では上手く表現できなくても、上記のような状況を子供なりに、「空気的」に、直観的に完全に理解していましたし、「一神教の人間ではない」、つまり学校等でよく耳にした、より素朴な表現で言うと、「お前は神を信じるのか、信じないのか」というような形で問い詰められたりして遭遇した苦しい社会的な状況もあって、言語だけでなく、

      古代ギリシャやローマの
     (「日本と同じ」)多神教

に大変強い関心を持っていました。実際には、ヨーロッパでは、古代ギリシャやローマだけでなく、ケルト民族やドイツ民族、更にはロシア民族には、キリスト教が普及する前に長らく続いた多神教の伝統があったのです。

一つの決まった「心の基軸」と言えば、戦後日本の場合、様々な分野における

  「対米(あるいは場合によっては対欧米)
  従属の文化」

という(私に言わせれば)日本のみならず、米国あるいは欧米を含めた人類全体にとって非常に残念な文化的傾向・「心の基軸」があります。またその対米従属の文化と切っても切れない関係にあるのが、在日米軍基地の問題です。在日米軍基地は本当は日本国民(特に沖縄県民)のみならず、選挙期間中のトランプ氏の様々な発言や、どんなに厳しい批判を向けられても犯罪行為(=当事者による一種の「悲鳴」ともとれる)が後を絶たない在日米軍基地の関係者の実態からも窺えるように、米国側にとっても大変に頭の痛い負担となっています。在日米軍基地の存在そのものについては、将来的には、技術の進歩や様々な工夫によって更なる整理・縮小を(一国民として)期待したいという漠然とした思いはあるものの、日本を取り巻く厳しい軍事的な状況や、自分はそもそも軍事の専門家ではないことを考えると、強い主張等は特にありません。

私の場合、子供の頃から問題にしたいと強く感じているのは、むしろ在日米軍基地関連の問題を含めた「対米従属の文化」全般、あるいは別を言い方をすれば、

    「日本人の心の中の米軍基地」

とも言える、残念な精神構造・「心の基軸」です。

この文脈でいつも思い出すものの一つは、1990年頃の日米貿易摩擦の時代に、(ソニーの会長だった)盛田昭夫氏と政治家の石原慎太郎氏によって共同執筆された「ノーと言える日本」という本です。当時プリンストン大学の大学院生だった私がこの本をどこで購入したかは覚えていませんが、何とか購入して興味深く読み、自分も「ノー」と言うべきときには

      「ノーと言える人間」

になりたいなと強く思ったことを覚えています。

ここのところの(=2017-10-19付けおよび2017-11-14付け)記事では、数学とは何か、あるいは数学と芸術等との関係について様々な考察を述べていますが、上記のような文脈で見ると、

   数学=人類の認識の仕組みの論理構造
   の解明はまさに、「ノー」と言うべき
   ときに断固たる「ノー」を突き付ける
   ための、一種の究極的な技術・手段

であるように思います。残念ながら、今日の日本の文化では、

   (過去あるいは現在の)欧米の数学界
   のエリートに対して、憧れの念を極める
   =諸手を挙げて究極的な「イエス」を
   発信することこそが「数学」である

かのような解説がなされることが多いような印象がありますが、私が強調したいのは、むしろ

  そのようなエリートのような相手に対して
  は、「ノー」と言うべきときに断固たる
  「ノー」を、数学を通して突き付けること
  こそが、数学の本来の精神であり、数学が
  果たすべき役割である

ということです。

また何度も繰り返しますが、様々な形態の「対欧米従属の文化」や「心の中の米軍基地」に対して、謙虚な姿勢で論理構造の解明・研究を遂行することによって「ノー」を突き付けることは、「拳を振り上げる」=「盾を突く」ような好戦的な姿勢として誤解されることもありますが、本当はそのようにすることは

   長期的には、日本のみならず、欧米を
   含めた人類全体にとって最も健全で
   建設的な道

になると、(様々な経験を踏まえて)強く感じています。

最後に、ここのところ報道等でよく話題に上る北朝鮮の核兵器の問題ですが、このような報道を見るといつも(改めて!)痛感しますが、

  人類にとって最も究極的な「武器」は
  やはり核兵器や化学・生物兵器等では
  なく、物事や仕組みの本質的な論理構造
  を研究し、明らかにすること、つまり、
  一種の広い意味での「数学」


ではないでしょうか。私は軍事の専門家でも、朝鮮半島情勢の専門家でもありませんが、北朝鮮の核兵器の問題を見ても、一見すると「核兵器」が問題の本質のように見えても、本当は「核兵器」も、今我々が生きている時代の様々な「非本質的な技術的な要因」によって偶々浮上した一種の「小道具」に過ぎず、「小国」の北朝鮮が世界の大国を手玉に取る「外交術大国」としての地位を固めることができたのは、「偶々浮上した小道具」の「核兵器」を利用する場面があっても、本質的には(核兵器そのものとは全くの別物である!)

   世界の大国の権力構造を支えている
   論理構造を正確に解明し、その盲点を
   突く技術が非常に高度に発達している


ことにこそ、主たる要因があるのではないでしょうか。


赤字や太字は私がつけたもの。気にしないでほしい。望月先生のサイトで読んでほしい。


(い)さて、面白い内容なので、いろいろメモしたいことがあるが、これはまたにして、

最初の英語で日本のことを表現しようとすると全部へんてこな色眼鏡のかかった濁った世界に代わる、という話、実に思い当たる。

私もユタにいた最初のうち、簡単なこと単純なことほどどういえばいいのか迷ったものである。

この手の話の一番最初は、やはり

発音上のrとlの区別のことだろう。

日本人はこれができないから劣っているとみなされがちである。

しかし、私のブログ1で「シッチン」、あるいは、「rとlの区別」で検索すれば、この話が出てくるはずだが、

シッチン博士が研究したように、古代シュメール語の世界まで遡れば、rとlの区別はまったくなくなるのである。

blood(血)とbright(明るい=聡明)は現代英語ではまったく違った意味の単語にみえるが、その意味の語源のルーツまで遡れば、ほとんど同じことになるわけだ。

なぜなら、金髪碧眼だったアーリア人の祖先であるシュメールの神々=ニビルの神々の血のことやその明るさをそういうふうに表現したにすぎず、br、blともに、後のインドのブラフマンや、ブリティッシュのブラとかブリと同じ意味だからである。

要するに、アーリア人の血がブラッドであり、アーリア人の見た目と頭脳がブライトなのである。


(う)英語にはこういうふうな人種的な優先順位が音の響きに込められているが、我々日本人にはそういうことは理解できない。

たとえば、日本をJapanと書いた場合、日本人を意味するJapaneseという英語には、「人」を表すのに使われる英語の4つのやり方の1つだけが使われている。

Japan+ese =Japanese

Japan+ish= Japanish

Japan+a=Japana or Japanica

Japan+ian=Japanian or Japanan

この違いが見てくれの違いだとわかるだろうか?

Japanese→日本に住む黄色いやつら

Japanish→日本に住む俺らと同じやつら

Japana→日本に住む黒い奴ら

Japanian→日本に住む何かわからないやつら(ヒトモドキ=亜人種)

我が国にいるハーフタレントは真ん中の意識をもって過ごす。だから、非公式のハーフ会を開き、そこでいつも日本人の悪口をいったり、バカにして過ごしている。

同様に

Chinese→支那に住む黄色い奴ら

Korean→朝鮮に住む何かわからないやつら(ヒトモドキ=亜人種)

語頭と語尾でそうやってイメージを伝えるわけである。


こんなふうなことが英語には入っているために、英語で表現すると、軒並みあらゆることにバイアスがかかってしまうのである。

単に音としてみれば、一見無意味になるが、西洋白人種にだけはそのイメージが正確に伝達されるような仕組みになっている。

こういう歴史的な異物が英語世界には縦横無尽に入り込むために、こういうことに我慢ならない精密な思考をもつ人間は英語を嫌うわけである。西洋人でもそうだ。

だから、西洋人でも日本語好きもいる。


こういう流れが分からない、村上春樹とか、イシグロのような人がノーベル賞にもてはやされる。あるいは、映画では北野武がカンヌ映画祭でもてはやされるわけだ。

彼らからすれば、日本人が日本人を小馬鹿にしている様がおもしろい、痛快なわけだ。


さて、そんなわけで、

欧米の白人種が英語を子供の頃からごく普通レベルの成人として身につければ、それは

英国の1700年の歴史+その英国人子孫の人生=1700+80年=1780年

ということになる。つまり、白人が英語を話せば、英国の伝統的人間に育つ。

そこへ、日本人が英語を身につける場合は、

英国の1700年の歴史+その日本人子孫の人生=移民新参者の人生=80年

ということになる。つまり、我々日本人の子供がいつ英語を学んだとしても、その時のニューカマーとしてしかならないのである。

ところが、もし日本の子供が日本語を身につけると、それは

日本の2700年の歴史+その日本人子孫の人生=2700+80年=2780年

になる。つまり、自分では当たり前のごく普通の日本人にすぎないと思ったとしても、海外の人間には、2700年の世界最古の国の国民と見えるわけである。

英語には英語の歴史がひそんでいるように、我が国の日本語には、ここ数千年のアジアの歴史が込められている。

単に日本語は、日本だけの話ではないのである。


ところが、こういうことをまったく考えない、あるいは、考えると発狂する在日系の入った文科省の役人たちは、むりやり英語の早期教育に走ったというわけである。

我が国の教育システムは、

戦前の素読教育→戦後詰め込み教育→ゆとり教育→英語早期教育→

とますます日本語軽視に走ってきたが、この流れの意味は、

外人優遇教育=自虐史観育成

にあったわけである。


というわけで、やはり望月新一博士は厳密な思考を基盤にする数学者である。岡潔と同じで、非常に物事を精密に理解する事のできる人らしい。

実にすばらしい。

今後の活躍を期待したい。

望月先生はまだ独身で、新垣結衣さんが好きらしい。いろんなテレビ番組からも出演依頼が来ているらしいから、ぜひ新垣結衣さんが出るはずの紅白の審査員とか、そういうものは拒絶しないで御出になられた方がいいのではないだろうか?

俺個人的には、ぜひかつてのイギリスのケインズのように、新垣結衣さんにプロポーズなんていいと思うがナア。


いやはや、世も末ですナ。





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by kikidoblog2 | 2017-12-21 10:11 | 望月新一・心の「一票」

「新一の『心の一票』」:「心壁論」と、論理構造の解明・組合せ論的整理術を「心の基軸」 とすること1   

みなさん、こんにちは。

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の私的ブログ
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を読んでいるのだが、実に興味深い。

今回は以下のものをメモしておこう。今年の最後のエッセイである。これはかなり長い。しかし実に興味深い観点が述べられている。

「心壁論」と、論理構造の解明・組合せ論的整理術を「心の基軸」 とすることの本質的重要性

まず、先日(=2017-11-14付け)の記事の幾つかの要点を復習したいと思います:

・異質な者同士の間に「壁」を設定することは重要ですが、一方で、その「壁」を通り抜ける力のある「心」も重要です。この考え方や関連したテーマの考察を以下では「心壁論(こころ(ある)かべろん)」と呼ぶことにします。

・逆に十分に異質な者同士の間に適切な「壁」を設定しないと、当事者の手に負えない複雑度の爆発が発生し、当事者同士の間の認識解像度が著しく低下することによって通常の人間らしい社会が破綻してしまうような状況に追い込まれてしまいます。これは政治的な問題、あるいは語学力の問題として誤解されがちですが、問題の本質は状況全体の論理構造にあり、一種の数学の問題として理解されるべき事象です。

・以前から感じていることの一つですが、古くから伝わる物語や、芸術作品等、様々な文化遺産は実は、現代数学で用いられるような定式化の技術がなかった人たちが、直観的に感じ取っていた何らかの数学的な原理を表現し、記述するために創作したものではないしょうか。例えば、「バベルの塔」の物語では、まさに異なる民族や言語圏の人たちの間に本来存在する「壁」を無理に廃止し、一つの「組織」に纏めようとしても、複雑度の爆発によってその組織が必然的に空中分解し、バラバラになる状況が描かれています。

・「バベルの塔」の物語に対応する現代数学の原理と言えば、「​ラッセルのパラドックス​」が頭に浮かびます。ラッセルという数学者は実際、様々な場面において人と人の間に本来存在する様々な種類の「壁」=「プライバシー」を取っ払うことに対して強い拘りを持っていたようです。

・一方、私の研究(=宇宙際タイヒミューラー理論=「IUTeich」)では、特定の対象(=「フロベニウス的」な対象)が通り抜けることができない「壁」を設定することも重要ですが、その「壁」を通り抜ける力のある「心」(=「エタール的」な対象)を活用することによって非自明な帰結=定理を証明することができることも重要なポイントです。この、定理を証明するという、言ってみれば、とてもめでたい「ハッピーエンド」がIUTeichにおいて実現できることは、(「空中分解・離散」や「矛盾」のような)悲しい結末が描かれるバベルの塔の物語やラッセルのパラドックスと決定的に違います。実際、IUTeichは、「壁」と「心」を適切に設定し活用することによってラッセルのパラドックスに出てくるような矛盾的な状況を、矛盾を生じることなく「シミュレート」=「仮想的に実現」しているという見方ができます。言い換えれば、IUTeichは、「壁」と「心」を適切に設定し活用することによって、バベルの塔の物語やラッセルのパラドックスで描かれている状況に対して、これまでになかった種類の「成功例」を抽象的な数学的な理論の中で初めて実現しているという見方もできます。

・先日(=2017-11-14付け)の記事の最後辺りでは「Cドライブ・Dドライブ」に関する話が出てきます。一見すると、「心壁論」とは直接関係のない話のようにも見えるかもしれませんが、OSが収容されるCドライブと、データの保管用のDドライブの間にあるものはまさに一種の「壁」であり、パソコン全体の動作に必要なCドライブとDドライブの間のデータのやりとりが適切な形で行なわれる仕組みはまさに(「心壁論」における)「心」に対応するものと見ることができます。

・以前(=2017-05-06付け)の記事との関連性について少し解説してみますと、その記事では不適切な評価基準・「物差し」によって様々な社会的な損失や貧困が、不必要かつ大量に生じてしまっている社会的状況について論じましたが、このような不適切な評価基準・「物差し」は、(上記の「バベルの塔」・「心壁論」関連の「用語」で言うと)

   まさに心ならずも発生してしまった
   複雑度の爆発を何とか抑制し、簡明
   な「線型的」な秩序を確立するため
   の(不適切かつ極めて非建設的な!)
   措置として講じられる


ことが、一つのありがちなパターンの社会的力学として、人類社会では古代から定着しています。

今回の記事では、上で復習した「心壁論」の延長線上にある、幾つかの補足的な観察や具体的な事例について考えてみたいと思います。

先日(=2017-11-14付け)の記事では、米国や英語に関連した「心壁論」も展開していますが、だいぶ前(=2017-01-04付け)の記事で言及した水村美苗さんの「私小説」でも、米国の社会についてまさにバベルの塔のように、「複雑度の爆発」によって様々な深刻な不具合が発生している状況が描かれています。後、この水村美苗さんの「私小説」の関連でもう一つ思ったことですが、水村さんは子供(=12歳)のときから(親の事情により)米国にずっと在住していて英語に関しては(一般の日本人等と比較して)語学力の問題が全くなかったわけですが、それにも拘わらず、

 (*) 言いたいことが山のようにあって、
  しかも、それを何としても日本語で表現
  しないと気が済まない


ということについては非常に強烈な熱意に燃えていた方のようです。水村さんは様々なことについては私とはだいぶ違うタイプの方だとは思いますが、少なくともこの点(=つまり、(*))については私の気持ちや精神状態とかなり重なるところがあることは実に興味深いように思いました。この点では、非常に格調の高いイギリス英語で文学活動を行なうことに対する拘りが目立つ、最近話題の日系英国人作家カズオ・イシグロ氏と比較すると、かなり根源的な人間性の違いを感じます。イシグロ氏は私と同じ5歳のときに初めて英語圏で暮らすようになったわけですが、私の場合、(一般の日本人等と比較して)語学力の問題がなくても、米国の学校での科目としての英語や米英文学の授業がいつもとても苦手で、自分にとっては「天敵」のような存在として認識していました。(ただし、誤解がないように書いておきますと、サボっていたわけではなく、いつも頑張ってよい成績をとっていました。)別の言い方をすると、自分の子供のときの様々な経験を思い出すと、(お互い、置かれていた状況が違っていたかもしれませんし、安易な比較をしてしまうと、様々な問題点を指摘されそうですが)イシグロ氏のように英文学に対して憧れの念を抱きながら育つという精神状態・精神構造に対しては非常に強い違和感を覚えますし、全く理解できません。私の感覚では

 英語を通して記述される世界には、「色眼鏡」
 のように、英語圏の文化や世界観を反映した、
 著しく濁っていて有害な「歪み(ゆがみ)」


が常に掛かっていて、子供の頃も今も、その歪みから解放される=その歪みと自分との間に分厚い壁(=この場合、「国境」)を確保することに対する強い意欲・「飢え」を抱えて生きてきました。

子供の頃から認識していた、無数の具体例から一つ分かりやすいのを挙げてみますと、例えば、日本人の日常生活では当たり前な風景である「海苔ご飯を箸で食べる」ということを英語で表現するとなると、「海苔」を「シーウィード=つまり、海の雑草」、「箸」を「チョップスティック=ものをつついたり刺したりするための木の棒のようなイメージ」というふうに表現するしかなくて、全体としては「未開人どもが、木の棒を使って、そこいらへんの海に浮かんでいた雑草のようなゴミをライスとともに、未開人っぽい原始的な仕草でもくもく食べている」といったようなイメージに必然的になってしまいます。これは単なる一例に過ぎませんが、全体的な傾向としては、日本・日本語では大変な品格があったり、溢れる愛情や親しみの対象だったりする事物が、英語で表現した途端に、「どうしようもない原始的な未開人どもが、やはり原始的な未開人どもらしく、世にも頓珍漢で荒唐無稽なことをやっているぜ」というような印象を与える表現に化けてしまいます。過敏と言われるかもしれませんが、私は子供のときから英語のこのような空気に対しては非常に強烈なアレルギー体質で、自分たちがどれだけ根源的にコケにされているか全く自覚できずに英語や英語的な空気を浴びせられることに対して憧れのような感情を抱くタイプの日本人の精神構造が全く理解できません。

少し話しが変わりますが、自分の学生(=修士課程や博士課程の大学院生)が英語で論文を書くときの指導の様子や方針について言及したいと思います。そのような指導をするときの「定番の話題」として、定冠詞・不定冠詞が付くか付かないか、単数形にするか複数形にするか等、英文を作文する際の「お馴染み」のテーマがありますが、私がいつも強調するのは、英語の語学的な技術的な側面等、

  無数の非論理的な慣例や不具合・「歪み」
  を抱えた自然言語に過ぎない

       「英語」を忘れて、

  数学的な内容の

        論理構造や
      「組合せ論的整理術」

  (=議論や解説を細かく分割してその部分
  部分を最適な順番に並び替えたりすること)

に集中することの本質的な重要性
です。つまり、このような作業の指導をする際のありがちなパターンですが、複雑な議論を上手く表現できなくて可笑しな意味不明な文章を書いたとき、学生は自分の語学力が不十分であることに原因があると訴えて、悲鳴を上げたりしますけれども、意外に思われるかもしれませんが、意味が通じる論理的な議論を書く上での本当の勝負どころは、語学力にあるのではなく、むしろ、英語を完全に忘れた精神状態で、表現しようとしている論理構造を適切に分析して分割し、議論の論理構造が追いやすい順番に並べて最適な仕組みで整理することにあるのです。その(英語とは本質的に無関係な!)作業さえきちんとできていれば、(数学の場合)数学記号や、比較的簡単な、決まったパターンの英語の表現を使うだけで、立派な文章を作文することが十分に可能なのです。しかも、論理構造が透明な、理路整然とした議論さえ書けていれば、偶に定冠詞・不定冠詞、あるいは単数形・複数形のミスがあったりしても、英語圏の読者から見てもそれほど理解の障害にはならないのです。先日(=2017-11-14付け)の記事の最後辺りで展開した「Cドライブ・Dドライブ」の観点で説明すると、学生だけでなく、多くの日本人は

 英語を勢いよく自分の脳の「Cドライブ」に
 詰め込むことこそが「幸せへの究極的な近道」
 と誤解しがち

ですが、私の無数の経験から言わせてもらいますと、

 英語を自分の脳の「Cドライブ」に詰め込む
 ことは実際にはむしろ、大変に危険であり、
 むしろ「不幸への暴走特急」

にしかなりません。つまり、

 脳の「Cドライブ」に最優先で搭載すべきOS
 はむしろ、ことの論理構造を見極め、その論理
 構造を上手く分割したり整理したりするための
 「組合せ論的整理術」を効率よく実行する仕様
 のOS

なんです。
  
上述のような英文添削の文脈ですと、いつも思い出すことですが、英語に出てくるような定冠詞・不定冠詞は、日本では「欧米文化を代表するような事象」として見做されがちですが、古代や東欧まで視野を広げてみますと、

・ラテン語には定冠詞も不定冠詞もない、
・古代ギリシャ語には不定冠詞がない、
・(現代)ロシア語には定冠詞も不定冠詞もない


等、多くの日本人の感覚とだいぶ違う実態が浮かび上がってきます。また、ラテン語の場合、標準的な語順は日本語と同じ「SOV型」(=主語 (Subject) - 目的語 (Object) - 動詞(Verb))となっていて、日本語の感覚からすると強い違和感のある英語の「SVO型語順」と違います。子供の頃(=10歳前後)の私には、このような文法的特徴を持ったラテン語やギリシャ語はとても魅力的に映り、

 十分に古い時代まで遡りさえすれば、英語の
 ような現代のヨーロッパの言語が日本語と
 繋がっている世界を発掘できるかもしれない


といったような感覚から、15~16歳の頃(=プリンストン大学の学部1年生の頃)までラテン語とギリシャ語の他に、印欧語族の中でも最も古い言語の一つであるサンスクリット語をかなり熱心に勉強しました。

なお、この定冠詞・不定冠詞の話題をするときにいつも思い出すもう一つの重要な側面は、

      一神教・多神教との関係

です。この側面は私の研究IUTeichの中でも重要な役割を果たす数学的な概念である

         基点や宇宙、

あるいは、より初等的な数学でよく出てくる概念である

          座標系

というものとも密接な関係
にあります。その関係を一言で説明することはなかなか難しいのですが、現代の一神教の欧米の文化では、

   「たった一つの神しか存在しない」

ことになっているのに対応するように、

  「たった一つの、がっちり決まった物事
   の考え方=座標系=基点=`心の基軸’」

の下で思考する文化が徹底されています。このような全体的な文化的な状況は、定冠詞・不定冠詞が付くかどうかの基準となる、

    言語空間で許容されている表現
    のイメージの、一つのがっちり
    決まった「座標系」

と符合します。一方、日本のように「多神教」(=神道の「八百万の神」)系の文化的環境ですと、そのように

   許容される表現のイメージ全体に一つ
   の固定された「座標系」を敷き、表現
   のイメージ全体を通して

      同一の「座標系」=「視点」
     =「声」=「神」=「心の基軸」

   しか認めないという姿勢を徹底する
   ことにはどうしても強い違和感を覚える

ため、定冠詞・不定冠詞が付くかどうかの判断基準となるものが見当たらず、付くかどうかさっぱり分からない、判断のしようがない、という精神状態からいつまで経っても抜け出せないでいることになってしまいます。


(つづく)







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by kikidoblog2 | 2017-12-21 10:08 | 望月新一・心の「一票」

「新一の『心の一票』」:「心ある壁」を構築し、維持することの重要性   

みなさん、こんにちは。

(あ)ここ毎日数学者の望月新一博士
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の私的ブログ
新一の「心の一票」
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を読んでいるのだが、実に興味深い。

今回は以下のものをメモしておこう。
「心ある壁」を構築し、維持することの重要性

先日(=2017-10-19付け)の記事の最後辺りの「友好的な姿勢を保ちつつ、一定の距離を置く」という話ですが、そのような考え方の背後にある様々な考察についてもう少し詳しく解説してみたいと思います。

私は旅行や国際交流がとても苦手で、何十年にもわたり、基本的には自宅や研究室に閉じこもって数学の研究に打ち込む生活を送ってきた人間ですが、

    何で旅行や国際交流が苦手か?

と、様々な場面で交流のある方からときどき聞かれます。

先日、ネットで偶々目に留まった、(日本語ができる外国の方と思われる方による)「つぶやき(ツイート)」

 『どうも日本の人は「自分がアジア人で
  ある」ことがピンとこないらしいのね。
  不思議』

に、私が感じている非常に本質的な問題性が集約されているように思います。

私の場合、アメリカに在住していた頃、世界中のいろいろな国の方=欧米露中韓印等々、と交流がありましたが、双方がどんなに流暢な英語を喋ることができてかつ、いわゆる「悪意・差別意識」がなくても、お互い住んでいる

        「精神世界

が違いすぎて、私としては、無理のない範囲内における友好的な関係を築くこと自体は結構だとしても、最終的には、

  「国境・国籍を放棄する
    =その人を自分と同じ国の人に思う」

あるいは、別のもう少し具体的な言い方をすると、

   「その人を(自分から見て)‘外国人
    =異邦人’と呼ぶ(=として扱う)
    権利・権限を放棄する」

ことだけはどうしても承服できず、それだけは少なくとも自分としては、

    「どうしても譲れない一線

であるように非常に強く感じました。上記のツイートの外国人のように、多くの欧米人は、日中韓、あるいは場合によっては南アジアや東南アジアの人まで一緒くたにして「みんなどうせ同じアジア人だ!同じ有色人種だ!」というような思考回路で考えたがるところがあって、私の場合、そういう空気はどうしても生理的に受け付けられない=非常に強烈なアレルギー反応を起こしてしまいます

また、関連した現象ですが、私の場合、アメリカの高校や大学で(直接的な意味で)よく経験しましたし、(インド人等の知り合いを通して)第三者としても目撃したことがありますが、

   「ザ東洋人男性」(=例えば
         「チン」という名前の)

というような形で、別々の個人を別々の個人として認識できずに、「同一の生命体」としてしか認識できない欧米人が意外と多いです。

つまり、もっと具体的にいうと、例えば、高校では同じ寮の中に、韓国系やタイ系の人がいたりしましたが、私たちが別々の個人であり、同一人物ではないということを何度説明しても間違えられたり、大学ではよく知らない人からまるで親しい知り合いかのように(誤認されて)話しかけられたりしました。

少し話が変わりますが、よく旅行や国際交流に対して積極的な姿勢をとりがちな方を観察していると、自分との対比で、双方の活動(あるいは生き方全般にも言えるかもしれませんが)の一つの基本的な違いとして、次のようなことが挙げられるように感じることがあります:

  そのような方は人類の様々な既存の文化を
  堪能し、満喫する(あるいは仕事等では、
  整理し、演出する)

ことを目的とした活動をされている(ように、少なくとも私には見受けられる)のに対して、私はむしろ

 既存の文化の流れを(「邪魔」、「障害物」
 として認識し)なるべく自らの個人的な世界
 から排除し、自力で新しい文化の流れを自ら
 の手で創作する

ことに対して非常に強い拘りを持っている人間です。この人間性の違いはそのまま、「旅行」や「国際交流」、「新しい生活環境を体験する」ことに対する、双方の(それぞれ、肯定的な、否定的な)捉え方に反映されているようにも感じます。

再び

    何で旅行や国際交流が苦手か?

という質問の話に戻りますが、一言で説明するのはなかなか難しいですが、先ほどの人間性の違いによって、そのような活動の

       「費用対効果」

(=「コスパ」)は、私の場合、非常に悪い
(=苦しいこと、強い不快感を覚えることが多すぎる割りに、プラス面・見込める収穫等が貧弱すぎる)というのは、一つの「端的な」説明の仕方だと思います。

例えば、多くの旅行好きな方から見ても、恐らく北朝鮮や、中東の戦闘地域は、「費用対効果」が悪すぎるのではないでしょうか。あるいは、多くの外国人(特に例えば、欧米の数学者!)から見て、日本に旅行することの「コスパ」が悪すぎて殆どしないのではないでしょうか。

一方、旅行好きの多くの方が旅行をする際に体験する(好感を伴う、よい意味での)刺激よりも

  遥かに凄い(=壮絶な!)景色の世界を、
    私は自分の心の中で旅している


(=例え、物理的な意味ではずっと同じ場所に留まっていても)ように、子供の頃から強く感じています。

更にもう少し分析を進めさせていただきますと、私の場合、旅行や国際的な状況が非常に苦手である基本的な理由の一つでもあり、またこれまでの様々な経験(=上記の「別々の個人を識別できない」という話もその最たる一例ということになりますが)を経て感じたことですが、お互いに語学力の問題が全くなく、かつ悪意(=差別意識等)が全くなくても、

  異国の人間を取り巻く状況や精神世界は
  単純な「データ」・「抽象的な論理体系」
  として扱うという立場で考えても、複雑
  度の「爆発」が圧倒的すぎて

      人類の脳の処理能力

  を遥かに超過してしまっているため、相手
  のことを、

       極めて低い解像度

  でしか認識・理解することができません。

一方、相手に対する

        「認識解像度」

が著しく低下してしまう(=つまり、画質の粗悪なパソコン画像のように)と、相手の「人間性」や「個性」が全く見えなくなってしまい、

 人間らしい社会生活が本質的に成り立たなく

なってしまいます。

つまり、言い換えると、ずっと長い間、様々な極めて残念な経験を経て感じたことですが、実質的な異邦人同士の交流の問題性・不具合等の本質は、(多くの米国人が主張したがる=誤解しているように)政治的な問題ではなく、また(多くの日本人が主張したがる=誤解しているように)語学力(=例えば、「英語力・英会話能力」)の問題でもなく、圧倒的な、爆発的な複雑度を擁する「データ」・「抽象的な論理体系」に対する

     人類の脳の処理能力の限界

にあるように強く感じます。別の言い方をすれば、本質的には

   一種の数学の問題

であるように思います。(因みに、「(多くの米国人が主張したがるように)政治的な問題ではなく、一種の数学の問題である」と書きましたが、このような文脈ですと、19世紀に米国のどこかの地方政府が「円周率(’π’)は3である」という趣旨の法律を制定しようとしたという有名な話を連想させられます。)

更にもう一つ、このような文脈でよく連想させられるのは、旧約聖書等に出てくる

       バベルの塔

の物語です。バベルの塔と言えば、最近、日本でもオランダの画家ブリューゲルの作品「​バベルの塔」​の展覧会が開かれたりして話題になっています。​百科事典​等で引くと、「バベルの塔」の物語は次のように要約されたりします:

 「この物語は,民族と言語の多様性を説明する
  と同時に、神と等しくなろうとする人間の罪
  を描いている。」

誤解がないように書いておきますと、私は別にキリスト教等、特定の宗教の教徒ではありません。しかし、昔から強く受けている印象の一つですが、

  多くの芸術作品や文学にしても、古代から
  伝わる神話や物語にしても、人間が直観的
  なレベルにおいて実質的に感じ取った

      一種の数学的な原理

  を(現代数学で用いられるような定式化の
  技術がなかったために)何とか後世に伝達
  できるように表現し、記述するための手段
  として創り出されたものが多いのではない
  でしょうか。

つまり、そのような様々な文化遺産は、

    一種の「数学的な予想」の宝庫

として捉えることが出来るのではないしょうか。

例えば、「バベルの塔」の場合ですと、

 全ての民族・言語の間の「壁」を取っ払い、
 一つの「塔」の中で「一本化」しようとして
 も、それは本質的に数学的に不可能であり
 (=つまり、「神」はそれを絶対に許容し
 ない)、どんなに努力して回避しようとして
 も民族・言語の多様性は必然的に発生する
 ものである

という、一種の「数学的原理」(=つまり、上で述べた「認識解像度」、「圧倒的な、爆発的な複雑度に対する処理能力の限界」に対応)を、古代人が表現しようとしていたのではないかと推測されます。

この「バベルの塔」がある意味、予想しようとしている=記述を試みている数学的原理に対応するものを現代数学の中に求めようとすると、「​ラッセルのパラドックス​」、つまり、

 「自分自身を元として含むような集合、例え
  ば、全ての集合をその元として含むような
  集合、は存在し得ない=即ち存在し得ると
  仮定すると矛盾が生じる」

で有名な、20世紀初頭の数学者ラッセルを思い出します。ラッセルと言えば、有名な著書「​結婚論​」で「裸を非とするタブー」を疑問視する(この点では、1960年代に流行したいわゆる「ヒッピー」の運動に通じるものがあるようですが)等、人と人の間にある様々な「壁」(=言い換えれば、「プライバシー」(!))を究極的な形で取っ払うことに対する強い拘り、趣向があったようです。

一方、私の研究(=宇宙際タイヒミューラー理論=IUTeich)では、「Θリンク」等、別々の舞台=「宇宙」の間に、通常扱う数学的な対象たち(=「フロベニウス的」な対象たちと呼ぶ)が「向こう側」に通り抜けることができない

     「壁」を設定する

ことが理論の重要なポイントであり、一種の出発点とも言えます。一方、壁を設定することが重要であっても、その

     壁の向こう側に通用する=
       通り抜けることができる

特別な対象たち(=「エタール的」な対象たちと呼ぶ)を扱うことも、理論の展開、特に最終的な定理を示す上においては必要不可欠です。

このIUTeichの枠組の根幹を形作っている数学的な状況は、「バベルの塔」やラッセルのパラドックスだけでなく、私の旅行や国際的な状況に対する消極的な姿勢や、米国での様々な経験に対する考え方とも密接に関係しているように思います。簡単に言ってしまいますと、私がこれまで経験してきた多くの場面では、

 国や民族、言語等の間に本来存在する「壁」
 =「プライバシー」が破綻しすぎていたため、
 そのようなものの間の

      「壁」に飢えている

 体質の生き物として育ってしまいました。

私の場合、米国や英語に対する壁にも飢えているわけです(=別の言い方をすれば、私にとっては、

 米国や英語こそ、一種の巨大な「バベルの塔」

ということになる)が、米国では、まさに自分から見て「異人」と感じる人たちに対する「壁」に飢えている人が非常に多いように思います。(もちろん、自分から見ての「異人」の定義は人それぞれですが。)まさにそのように「壁」に飢えている人たちが非常に多い(=圧倒的な多数派に迫る勢い?)からこそ、トランプ氏のような大統領がついに誕生したのではないでしょうか。また、先般のフランスの大統領選挙の際の右翼政党の集会で用いられた「我々は我々の国にいる」というスローガンを見ても、移民の多いフランス等、西ヨーロッパの国々の社会においても、類似の現象=「壁への飢え」が如何に「猛威を振るっている」かが窺えます。(因みに、誤解がないように書いておきますと、これら外国の政治家、政治運動については、私は批判するつもりも、賛同するつもりもなく、単に現象の分析を行なっているだけです。)

ただし、2017-10-19付けの記事の最後辺りにも書かせていただいた通り、(IUTeichの「フロベニウス的・エタール的」もそうですが!)「壁」=「距離」=「プライバシー」の設定も本質的に重要ですが、その壁の向こう側(にいる人たち)にも通用するもの=

  長期的な、安定的な平和を大切にする、
   全体的に友好的で開かれた姿勢、

あるいは別の(より「日本的な」)言い方をすれば、

 「お互い様」、「お世話様」といったような
 視点を忘れない、(壁を通り抜ける力のある)
 豊かな感情移入力に支えられた博愛と敬意の
 下で運用される壁を目指す姿勢

も本質的に重要であることを見失ってはいけません。

最後に、もう一つの重要なポイントですが、成人して、人間としての様々な基本的な感覚や行動パターンが完全に固まって=確定してから、上述のような(=「壁」の破綻から生じるような)厳しい状況に遭遇するのと、未成年としてそのような状況に遭遇するのとでは、決定的な違いがあるということです。上の「認識解像度」の話のように、IT関連の現象との類似で説明を試みると、パソコンの動作を本質的に狂わせる危険性のある悪質なウィルスが、

   (多くのウィンドーズパソコンでは
   「ただのデータ」の保管用に用意され
   ている)Dドライブ

に、まさに「ただの、とある抽象的なデータ」として取り込まれる(=「成人として遭遇」に対応)のと、

   (多くのウィンドーズパソコンでは
   オペレーティングシステム(OS)が
   収容されている)Cドライブ

に取り込まれる(=「未成年として遭遇」に対応)のが全然違うのと似たような現象であるように思います。

つまり、どんなに悪質で強烈な破壊力のあるウィルスであろうと、「ただのデータ」としてDドライブに取り込まれても、パソコンにとっては「痛くも痒くもない」、あくまでも「ただの、とある抽象的なデータ」に過ぎないわけですが、Cドライブに取り込まれて「やりたい放題」な状況でOSに直接作用し得るような事態が発生すると、パソコンの動作は非常に不安定な状態に陥ったり、場合によっては、パソコンそのものが簡単に、呆気なく破壊されてしまいます。

旅行等に対する私の拒絶反応のある側面も、まさにこの「Cドライブ・Dドライブ」の類似を通して理解することが可能であるように思います。


(い)いや〜〜、実に興味深い。実に面白い。

最初の方にある「精神世界が違いすぎる」という話は、まさに岡潔先生が1960年代、1970年代にさんざん言ったり書いたりしたことである。

岡潔先生の場合は、その「精神世界の違い」を

「情緒の有無の違い」

だと看過した。西洋人には「情緒がない」と。


ところで、この我々日本人が「情緒」と感じるものは、「日本語」の性質に深く結びついている

これを最初に見つけた人が、東京医科歯科大学の教授だった角田忠信博士で「日本人の脳」という本で初めて議論した。

要するに、「リン、リン、リン。。。」と鳴く虫の音を風流と感じるのは、日本人の脳をもつものだけなのだという研究である。

日本語をインストールして育った人と西洋語をインストールして育った人では、まったく物事に含まれる音の感じ方からして違うのである。

今のように英語の発音や聞き取りを良くしようとして、幼少期から(つまり、脳の臨界期12歳前から)英語の早期教育を始めた子供は、もう日本人の風流を感じなくなってしまうのである。

英語では虫の音は雑音にすぎない。なぜなら言語を意味する、シラブルがないからである。西洋語の場合は文字か雑音かはシラブルの有無だけで脳が認識する。

だから、一度英語の聞き取りがよくなってしまうこと=日本人の感性がなくなること、となるわけだ。

こういうことを角田忠信博士が科学的に証明したのである。そしてこれは大分前に英語圏の脳科学の教科書にも載っている。

これは岡潔先生がお亡くなりになられた後の1970年代後半の研究だから、たぶん岡潔は知らなかっただろう。

しかしながら、岡潔先生は角田忠信博士の研究が出るずっと前から、日本人と西洋人は言語から言語脳から脳みその使い方までまったく違うということを研究していたのである。

そして、極めつけは、世界認識の深さのレベルにおいて、世界中の人種を見事に分類していたというわけだ。

これについては、横山賢二先生のサイトを見ればいいだろう。
数学者 岡潔思想研究会
岡潔の生涯と思想(2)
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岡潔・数学・情緒( 13 )

岡潔は、人間の認識を、認識の「識」をとって、15段階に分けて考えた。

1〜5識=五感=視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚
6識=意識=思考
7識=自我=自我=無意識、潜在意識、第六感
ここまでが西洋人

8識=顕在識=アラヤ識
9識=真如=潜在識=悟り識=アンマラ識=仏教=支那の哲人
ここまでが支那人

10識=真情=日本人の心
ここまでが一般の日本人

11識=「時」への到達
12識=主宰性=天照大神と天月読尊の見神
13識=造化=神の視座
14識=帰趣=道元=時空を超越した神の視座
15識=内外=松尾芭蕉=時空を超越した神の視座と一体化
ここに到達したのは松尾芭蕉のみ


つまり、望月新一さんが「住んでいる精神世界がまったく違う」という意味は、岡潔の言葉で言えばこういうふうなことになる。

岡潔は晩年にこういうふうなところへ到達したから、まだ若い望月博士がこれから到達する可能性は高い。

ところで、私はこれを物理学者的に物質世界の話へ「射影して(→)」考えた。つまり、時空を超えた話を時空間の中に落として考えるのである。

つまり、精神世界の話を精神年齢の話にすり替えてみるのである。それでも多少はその陰の形がつかめる。
精神世界の高次元から4次元への射影である。

1〜3識→動物の精神年齢=3歳未満=無意識
4〜5識→人の精神年齢6歳未満=意識と感情
6識→人の精神年齢12歳未満=理屈→韓国人はここで止まる
7識→人の精神年齢18歳未満=理性→西洋人はここで止まる
8識→人の精神年齢30歳未満=親心
9識→人の精神年齢60歳未満=達観=長老→支那人は最大ここで止まる

ここから日本人のみ
10識=真情=日本人の心→一般の日本人はここで止まる
11識=「時」への到達
12識=主宰性=天照大神と天月読尊の見神
13識=造化=神の視座
14識=帰趣=道元=時空を超越した神の視座
15識=内外=松尾芭蕉=時空を超越した神の視座と一体化

とまあ、だいたいこんな感じだろうか。


(う)岡潔博士も数学者である。それも多変数解析論という分野を創始した。簡単に言えば、多次元空間構造の理論である。この意味で、数学的空間を考える望月新一博士と非常に近い。似ている。

空間を考える場合はそれをいったん超えなくてはならない。だから空間の専門家は空間をいろいろ作り直したりその内外から見たりということを経験する。

だから、こういうふうなことを考える傾向にあるのかもしれない。


さて長くなったので、一応ここままで。


いやはや、言語により考え方が違ってしまう=脳の使い方が違う、というのは、まあパソコンを考えれば分かるだろう。入れるOSのレベルに応じてできることが違うのである。

だから、むやみに英語OSを日本人の脳に入れると、東芝のパソコンにMacOSXを入れたような感じになる。

フリーズしすぎるんですナ。

ハーフタレントがしばしば黙る=黙り込む、返答が遅い、こういうのは、脳内で西洋人の脳みそ(ハード)を持ちながら日本語OSを使うとか、日本人の脳みそ(ハード)を持ちながら英語OSを使うとか、そういうところで、フリクション(摩擦)やコンフリクション(矛盾)を起こすからですナ。

だから、ローラ系のタレントのように、唐突におかしなことを言い出すわけだ。

彼らを見たら、言語の問題がどれだけ深いかよく分かるだろう。


しかしながら、在日朝鮮人系に乗っ取られたいまの芸能界では、そういうことを良いことだと真逆に理解するわけだ。これが朝鮮脳というものである。


いやはや、世も末ですナ。




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by kikidoblog2 | 2017-12-20 08:47 | 望月新一・心の「一票」

「新一の『心の一票』」:乃木坂46や欅坂46の歌詞に数理科学の本質がある!?   

みなさん、こんにちは。

昨日から数学者の望月新一博士
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の私的ブログ
新一の「心の一票」
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を読んでいるのだが、実に興味深い。

私より年齢がずっと若いということもあるが、素直に現代的世界観を現代的数学者の観点から眺めているさまは、これまた岡潔世代とは違った意味で面白い。

今回はこれをメモしておこう。

第67回NHK紅白歌合戦 (3)

まず、2年程前の話になりますが、2014年の年末にDIGAの全録機をネットで購入して偶々12月31日に届いたのですが、箱から出して初期設定を済ませるのに少し手間取って、やっと使えるようになったときには午後10時を過ぎていたと思います。「動作確認」のつもりで付けてみたら、ちょっとびっくりするような映像が目に飛び込んできました。何と、あの(iPS細胞の)山中伸弥先生らしき人物がNHKの紅白歌合戦の観客席に座っているではありませんか!確認してみたら、山中先生はどうも実際にその年の「紅白」の審査員の一人になっていました。山中先生が度々ニュース番組等に出演されているのを知っていたのですが、まさか「紅白」の審査員のような活動までされているとは、私にとってはかなり衝撃でした。私も以前から何度かテレビ出演の依頼がありましたが、全部断っています。山中先生の「紅白」出演を批判するつもりは毛頭ございませんが、とにかく自分だったら嫌だな、とても考えられないなと思いました。

私の場合、プリンストン(の大学・大学院)にいた頃(=1985年~1992年)は、当然インターネットというものはまだ存在しませんでしたし、ケーブルテレビで見られる日本の番組は非常に限られていました。その数少ない番組の一つが「紅白」だったので(多分)毎年見ていたと思います。京大の助手になって京都に住むようになってからはあまりよく覚えていませんが、20代の半ば頃までは時々見ていたような気がしますが、その後は見ていなかったと思います。つまり、上述の「衝撃の動作確認」は私にとって恐らく約20年振りの「紅白」になったと思います。

いずれにしても、その「衝撃の動作確認」がきっかけで、それ以降(の3回)は「紅白」を見ています。(ただ、リアルタイムで見るのではなく、数時間遅れで、しかも(長いので)適当に先送りしたりしながら見ています。)つまり、純粋に「営業」的な視点に立つと、山中先生の審査員としての起用によって私という人間に対する「集客力」が働いてしまい、結果的には私も「紅白」を見るようになってしまったということになります。

前々回の「紅白」(=第65回)では多分一番印象に残った演出は、(そのときまで関心がなかった)椎名林檎さんと、(80年代初頭の「セーラー服と機関銃」の頃から好きだった)薬師丸ひろ子さんだったと思います。前回の「紅白」(=第66回)も椎名林檎さんの演出が一番印象的でした。

一方、今回(=第67回)は椎名林檎さんの演出には(なぜか、上手く説明できませんが)余り関心が持てませんでした。今回一番印象に残った演出を列挙すると次の通りになります:

 ・欅坂46の「サイレントマジョリティ」、
 ・乃木坂46の「サヨナラの意味」、
 ・ピコ太郎さんのゴジラ撃退とそれに対する
  (審査員の)新垣結衣さんの反応。

もう少し詳しく説明しますと、まず3番目の項目ですが、昨年秋のドラマ「逃げ恥」がきっかけで今回審査員を務めた新垣さんに注目していましたが、残念ながら全体的に(=星野源さんの「恋」の演出のときも含めて)新垣さんの存在感が非常に薄くてちょっとがっかりしました。ただ、ピコ太郎さんのゴジラ撃退の歌のときの新垣さんの、笑いを堪えているような呆れた表情が印象的でした。



そもそもピコ太郎さんのあの間抜けな演技が何でここまで世界的に人気を博すに至ったか、私としては以前から不思議でなりません。ピロ太郎さんのゴジラ撃退の演出の中に、ピコ太郎さんの不可思議な人気ぶりこそ日本の芸能界にとっては正に一種のゴジラのような存在だ、というようなメッセージが込められていたかもしれません。

ピコ太郎さんの例の間抜けな演技



を見てちょっと思ったのですが(といっても、念のため、 本気で思ったわけではありませんが!)、私の場合、自分の研究の解説の仕方が世界的にこんなに不評なのに、何でこのピコ太郎さんの間抜けな演技がこんなに世界的に受けるのだろう、私も、ピコ太郎さん風に

 「アイ・ハブ・ア・ログ」、
 「アイ・ハブ・ア・テータ」、
 「ログ」、「テータ」、
 「ログ・テータ」

なんて歌ったら世界的に受けるのでしょうか。

いずれにしてもこの3番目のピコ太郎さんの場合は、どちらかというと、「逆説的」な意味で印象的でしたが、2番目の乃木坂46と1番目の欅坂46の方は、普通の肯定的な意味で印象的でした。乃木坂46も欅坂46も、名称は以前から認識していましたが、曲を聴くのも、演出を見るのも、センターの橋本奈々未さんや平手友梨奈さんの存在を知ったのも、今回の「紅白」が初めてでした。昔からあった「無邪気な少年」のような気持ちで楽しむことができただけでなく、若い頃の自分とはちょっと違う気持ちも芽生えているように感じました。それは一言ではちょっと言い表しにくいのですが、元気な若いメンバーたちの「キレキレ」の踊りが、一種の宗教的な儀式というか、「弾ける若き生命力の祭典」のようにも見えました。よく考えてみれば、「アイドル」の語源は正に「崇拝する対象」という宗教的なニュアンスがあるわけですが、今回の「紅白」のこれらの演出で私の目に眩しく映った「崇拝の対象」が、年齢の所為か、(「アイドル」の本来のニュアンスと思われる「異性としての魅力」から)「若き生命力」に移行しつつあるように感じました。
 
2番目の乃木坂46の「サヨナラの意味」については、ネット検索で見付けた動画の中で「紅白」の演出に一番近いのはこの動画



です。(ただし、「紅白」の演出になかった「ブランコ」という曲も後ろにくっついていますが。)一方、1番目の欅坂46の「サイレントマジョリティ」(以下では「サイマジョ」(='才姫'ならぬ'才魔女'?)と書くことにします)については、「紅白」に一番近いのはこの動画でしたけど、その他にもこのような拡大版



も見付かりました。

今回の「紅白」全体の中でも、私にとって圧倒的に一番印象的だったのは、この「サイマジョ」(=特に拡大版)の歌詞

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でした。「前置き」が少し長くなってしまいましたが、本当はこの歌詞こそが、今回の記事の執筆に踏み切った一番のきっかけでもあり、また記事の本題でもあります。

歌詞にそこまで感動した理由ですが、今でもまだ分析でき切れていないような気もしますが、大体次のような理由になります:

メッセージの方向性が昔とだいぶ違う:私はもちろん専門家ではありませんし、ちゃんとした系統的な調査をしたわけではありませんが、私の記憶では、本来アイドルが歌うような曲に込められたメッセージ(=若い世代に向けられたメッセージ)は、

 「社会の主流='群れ'について行け、ついて
  行けばこそ歌っているアイドルさんのよう
  な素敵な恋人が待っている


というような内容ではなかったのでしょうか。それに対して、「サイマジョ」の歌詞は正におよそ正反対のメッセージ、つまり、「群れについて行くな」 ― 歌詞のレベルでいうと、

 「この世界は群れていても始まらない」、
 「夢を見ることは時には孤独にもなるよ」、
 「誰もいない道を進むんだ」、
 「人の数だけ道はある」


― という内容になっていて初めて聞いたときは(よい意味で)衝撃でした。もちろん、「サイマジョ」の方が遥かに健全な内容になっていて、そういう意味では「サイマジョ」の対象世代の若い人たちは恵まれた時代に生まれたんだなと思いました。

メッセージの内容は本ブログの様々な指摘と重なる:先ほど引用した歌詞は(本ブログ)2017-01-02付けの記事の「隔絶した異世界=一種のガラパゴス」といったような理想、もっと言うと私がこれまで自分の研究、あるいは生き方そのものに込めた気持ちを奨励しているような内容とも言えますし、また

 「選べることが大事なんだ」、
 「人に任せるな」、
 「行動しなければNoと伝わらない」

といった歌詞は、(本ブログ)2017-01-04付けの記事の『私の「心の一票」』という項目で解説している考え方(=正に本ブログの名称の由来!)と見事に(!)重なります。

メッセージの内容は宇宙際タイヒミューラー理論の内容・'筋書'に見事に対応している:一般に、個人がどの程度

 「社会の主流=群れ」について行くべき

で、どの程度

      わが道を行くべきか、

つまり、この二種類の方針の「緊張関係」や「最適なバランス」というのはある意味、人類社会の「永遠の課題」とも言えますが、宇宙際タイヒミューラー理論(=「IUTeich」)の数学的内容の重要な部分に対応しているとも言えます。「群れについて行く」ことはIUTeichでは、

     「(数論的)正則構造

と呼ばれるものに対応していて、それぞれが「わが道を行く」という状況はIUTeichでは、

       「単解的構造

と呼ばれるものに対応しています。歌詞の

 「誰かの後について行けば傷つかない」、
 「その群れが総意だと、ひとまとめにされる」

という部分は、IUTeichの中で(数論的)正則構造が有効な(=「傷つかない」!)部分、つまり、「ホッジ劇場」と呼ばれる構造の内部に対応していて、この歌詞に合わせた、メンバー全員が腕を回転させる動きは、ホッジ劇場の内部において(=「群れ」!)が働くことによって成立する対称性に対応していると見ることができます。一方、

 「君は君らしく生きて行く自由があるんだ」、
 「大人たちに支配されるな」

という歌詞は、IUTeichの中で正則構造から決定的に離脱する部分、つまり、「Θリンク」と呼ばれる部分に対応していると見ることができます。ちょうどこの歌詞のところで、センターの平手友梨奈さんだけが拳を挙げる仕草をするわけですが、その拳を挙げる仕草の形状は(数学用語でいうと)「デルタ関数」(=一種の「デル杭」!)=「ガウス分布」によく似ていて、「ガウス分布」は正に「Θリンク」そのものといってもよいものです。また、

 「選べることが大事なんだ」、
 「人に任せるな」、
 「行動しなければNoと伝わらない」

という歌詞は、その正則構造から離脱する際、肝心な数学的構造は常識的なスキーム論(='人')任せにするのではなく、遠アーベル幾何やIUTeichで用いられるようなアルゴリズムとして明示的に記述するという'行動'を実行しないと、その肝心な数学的構造はΘリンクの向こう側には通用しない(='伝わらない')という状況に対応していると見ることができます。一方、歌詞に登場する「自由」や「夢」はIUTeichの最終的な帰結である不等式(=いわゆるABC予想やシュピロ予想の不等式)に対応していると見ることができますが、それを

 「あきらめてしまったら、
  僕らは何のために生まれたのか


という歌詞は、IUTeichを勉強する上において肝心なポイントである、

 「何でその'夢の不等式'が従うか分からなく
  なったときは、そもそも何のためにΘリンク
  を定義したのか、改めて思い出すべきで
  ある


という状況に見事に対応しているように思います。また

 「列を乱すなとルールを説くけど、
  その目は死んでいる

 「夢を見ることは時には孤独にもなるよ」、
 「誰もいない道を進むんだ」、

という歌詞は、

 「'夢の不等式'を導くには正則構造(='列')
  を('乱して')放棄し、通常のスキーム論的
  数論幾何の常識(='ルール')が通用しない
  単解的な道を進むしかない


というIUTeichの状況に(これまた見事に!)対応していると見ることができます。とにかく、歌詞が細部まで余りにも見事にIUTeichの理論の展開に対応していることに気付いたときはとても興奮・感動してしまい(かなり「特異性の高い」お正月休みの過ごし方だと思いますが)、その興奮・感動を読者の皆さんと分かち合いたくなりました!

最後に、ここまで来ると、改めて指摘するまでもないと思いますが、上記のような観察は、世界広しと言えども、私以外の人間が考え付くとはちょっと信じ難い、という状況を考慮すると、やはり(本ブログ)2016-12-18付けの記事の「特異性」の話にあったように本ブログの主の身元を隠す努力をすることには意味がないと思わざるを得ません。


御意!

こんな解説を匿名でお書きになられても、すぐに

「はは〜〜ん、この著者は望月新一博士だな」

とわかってしまうにちがいない。

この世界のどこに「宇宙際」とか、「IU Teich」とかの単語を用いることができる人がるというのか?

もし生きていればだが、せいぜい
グロタンディーク
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くらいのものだろう。が、すでにグロタンディークは何年か前にご逝去されてしまった。

ついでに最近私が勉強中の熱力学の話の中にもこういう「不等式」が現れる。

それは、

クラウジウスーデュエムの不等式(Clausius-Duhem's inequality)

というものである。

この不等式を定式化したのもまた、数学者だった。

古くはコーシーで、20世紀にはドイツ人のColemanとNollとアメリカ人のTruesdellという数学者だった。

これがエントロピー増大の法則の現代的な拡張であり、今では工学系の熱力学では必須事項になっているが、当の物理学にはいまだ常識になっていないという、どことなく望月新一博士の研究分野と似た状況に陥っている。

簡単な熱力学は、2世紀も前にカルノーによって作られた気体の熱力学エンジン理論をいまも教科書に使っている。つまり、いまだに「準静的過程」を基本にとる熱力学を使って、リアルタイムに変化する熱力学的現象に焼き直して(つまり射影して)使っているありさまである。

これが「正則構造」である。つまり、「準静的過程」が「正則構造」である。

しかし現実はどこにも正則な構造がない。

ゆえに、現実を理解するには、その正則構造をいったん崩して理解しないといけないわけだ。

というわけで、欅坂46の歌詞の構造は、私が研究中の非平衡非線形有記憶リアルタイムの熱力学理論、つまり「有理連続体熱力学」にも成り立ちそうに見える。

たぶんこんなふうになる。


「あきらめてしまったら、
  僕らは何のために生まれたのか」

という歌詞は、熱力学を勉強する上において肝心なポイントである、

何でその'夢の不等式'が従うか分からなく
  なったときは、そもそも何のためにエントロピー
  を定義したのか、改めて思い出すべきで
  ある



「列を乱すなとルールを説くけど、
  その目は死んでいる」
 「夢を見ることは時には孤独にもなるよ」、
 「誰もいない道を進むんだ」、

という歌詞は、

'夢の不等式'を導くには準静的(='列')
  を('乱して')放棄し、通常のカルノー的
  熱力学の常識(='ルール')が通用しない
  有理的な道を進むしかない



いやはや、乃木坂46とか欅坂46なんて単なる少女趣味のちょいワルオヤジ向けのアイドルで、俺は全く関心がなかったが、こうして望月先生の意見を見ていると、なんとなく実に深いいアイドルであるのかもなという気がしてしまった。

それにしても、こういう微妙なことに気がつく感性とか、そのいい意味での物事への半端ないこだわり、これまたかのグロタンディークに似ている。

グロタンディークの自伝も、まさにそういう話のオンパレードだった。


いやはや、世も末ですナ。






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by kikidoblog2 | 2017-12-19 10:16 | 望月新一・心の「一票」

「新一の『心の一票』」:数学者望月新一先生のブログ発見!2   

(つづき)


次のこのエッセイも面白い。

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報道の質と「研究する姿勢」の意味

日本の報道機関や政府の情報収集能力について(日本国内の)評論家のインタビュー記事等で「欧米と比べて幼稚で稚拙」といったような厳しい意見を目にすることが多いですが、(本ブログ)2017-01-04付けの記事で言及した「ビットコイン」や「ニューヨークで育つ」のような事例について少し見方を変えれば、次のような捉え方もできるのではないでしょうか:(合計で)18年間も米国国内に在住し、かつ如何なる隠蔽工作も行なわずに普通の市民生活を送っていた人間についてすら

 ・「そもそも米国のどこに住んでいたか」、

あるいは

 ・「どのような分野で活躍するのに必要な
   専門知識や資格を持っているか」

といったような、

  極めて基本的な情報を収集する能力が
  如何に米国の報道機関や知識人に本質
  的に欠如しているか、

その報道機関の関係者や知識人が自ら進んで

  「動かぬ証拠」をネット上で量産する
       「精一杯の努力」

を行なっていたことになります。

そういう意味では、トランプ氏の当選の可能性に関する報道 ― これは「現実逃避部門」においては歴史に残る一種の「不朽の傑作」だと思いますが ― と構図がかなり似ているようにも感じます。

別の言い方をすると、如何なる隠蔽工作も行なわずに(合計で)18年間、米国国内で普通の市民生活を送っていた人間に関する上記のような情報すら収集する「難易度」が高過ぎるという実態があるのであれば、米国と敵対している様々な外国政府やテロ組織(=つまり、様々な機密情報についてプロが徹底して隠蔽工作を行なっているような組織)に関する正確な情報を本当に収集できているのだろうか、甚だ疑問に感じます。
 
米国のエリートたちが世界全体にどれだけ多大な影響を及ぼす力を持っているかということを考えると、上記のような「現実逃避癖」の事例は最早「幼稚、稚拙」を通り越して、人類にとって(冗談で済まされるレベルの事象ではなく)深刻な「安全保障上の脅威」であるようにも感じます。実際、(私は決して中東問題の専門家ではありませんが、様々な報道から受けている印象では)中東での米国の様々な軍事行動の際、何らかの「善意」と「誠意」をもって実行しているつもりの作戦でも、無数の事実誤認や誤解・曲解等によって誤爆等、テロの温床を更に大幅に「温める」ような方向性の行動が多発しているのではないでしょうか。

私個人の話に戻りますと、私の研究に対する欧米の多くの数学者の非建設的と言わざるを得ない反応も上の様々な非数学的な事例と、ある意味では同じ系統の問題のようにも感じます。この問題ついては、私の2014年12月の報告書、フェセンコ氏の解説論文の最後の節辺り、それから私の解説論文の最後の節辺り等で詳しく論じています。簡単に要約すると、上の非数学的な事例と私の研究関連の事例の一つの核心的な共通項として挙げられるのは次のような状況です:

 ネットの普及が大いに影響している面がある
 と思われるが、世界中の多くの人は世の中の
 全てのことについて「満額回答がワンクリッ
 クで瞬時に手に入る」ことを要求したくなる

     「ワンクリック症候群

 のような症状を発症していて、謙虚な姿勢で、
 虚心坦懐に、よく分からない事象について時間
 を掛けて粘り強く勉強し、研究することの価値
 や重要性を見失ってしまっている。

2014年12月の報告書でも指摘しているように、このように謙虚に基礎研究をする姿勢の社会的な意義や価値は一般社会においてのみならず、数学界の中でも忘れ去られ掛けているように感じます。

以上の話について次のような纏め方もできるのではないでしょうか:中東での惨事等を受けて、世界中のイスラム教徒に対してジハードを呼び掛ける声が上がったりしますが、それに対して私は

 世界中の真実を愛する人たちに対して、(時間
 を掛けて謙虚な姿勢で粘り強く行なう)研究を

呼び掛ける存在でありたい
と思います。別の言い方をすれば、長期にわたって謙虚な姿勢で様々な個人的犠牲を強いられながらも粘り強く続行する研究こそ、「真の聖戦」ではないでしょうか。


我が国のNHKなど有名報道機関を自称する、メディアは、この情報収集能力を失い、ファルスニュースを捏造している米国報道機関の

下請け

になっている。情報の垂れ流しである。

だから、トランプ政権の側近から

NHKはフェイクニュースの日本のCNNだ

といわれるわけである。

フェイクニュース「NHKも」名指し バノン米元首席戦略官、会見で批判「日本のCNNに違いない」
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私がかつて「AERA」に出た当時、まだできたばかりのインターネットの2chで相当に書き立てられたものだった。

まだ一般人はネットなどその存在すら知らず、携帯電話もない時代だったから、書いているのは大学人だった。それも若手。

それでも誹謗中傷はひどかった。東北大学の数学科の掲示板が一番ひどかったが、さすがに望月新一さんはアメリカ生活が永く、仕事と個人の区別が明確である。公私混同はしない。

あれから20年。

いまでは猫も杓子もだれでもスマホでインターネットに書き込める時代になった。

だれしも一度、自分に対する誹謗中傷のような書き込みを読むと、だいたいその連中の取材能力のレベルが分かる。

ましてや一流の報道メディアがこれではどうしようもないわけである。

我が国のマスメディアが天の声として神様のようにして聞いている欧米メディアがもはやメディアの役をしていないわけだ。

そういうことを望月新一博士は自分への取材に関係して実感したわけである。

最後の部分も心強い。

「中東での惨事等を受けて、世界中のイスラム教徒に対してジハードを呼び掛ける声が上がったりしますが、それに対して私は

 世界中の真実を愛する人たちに対して、(時間
 を掛けて謙虚な姿勢で粘り強く行なう)研究を

呼び掛ける存在でありたい
と思います。別の言い方をすれば、長期にわたって謙虚な姿勢で様々な個人的犠牲を強いられながらも粘り強く続行する研究こそ、「真の聖戦」ではないでしょうか。」

すばらしい。


グロタンディークもそうだったが、岡潔もそうだったが、この望月新一博士もそうで、彼ら数学者という人種は権威をなんとも思わない。権力にまっこうからその頭脳で対抗する、こういう人が少なからず出てくる。

すぐに金持ちや権力者に迎合する物理学者とは違う。

長くなったので、他の記事はまた別の機会ということにして、オレ個人はかの美女由美かおるさんと数学者の秋山仁博士と結婚したように、

ぜひ望月新一博士は、新垣結衣さんと結婚してほしい。


まあ、エルディッシュ数の大数学者ポール・エルデッシュは、「結婚したら数学者として終わりだ」といって、生涯独身を貫いた。

まあ、数学者ではないスピルバーグには2回結婚して7人もの子供がいるらしい。だから、ユダヤ人の罠というわけではないだろうが、優秀な数学者の遺伝子はなかなか遺伝しないのである。


これに対して、20世紀の科学技術を作った、かのノーバート・ウィーナーは、「数学者の遺伝」をこういった。

数学者の遺伝には奇妙な傾向がある。

優秀な数学者の娘に優秀な数学者が婿入りするのである。

つまり、
「数学者が実の息子に遺伝するというのではなく、優秀な娘の配偶者として、義理の息子を得るという形で、自分の数学的才能が遺伝する」
と考えたのである。


いやはや、世も末ですナ。






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by kikidoblog2 | 2017-12-18 14:42 | 望月新一・心の「一票」