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カテゴリ:望月新一・心の「一票」( 18 )   

望月新一博士の「心の一票」:「ノーと言えること、ノーと言える文化が学問の原点!」   

NOと言える日本
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みなさん、こんにちは。

いまさっきのジョーク一発は、「BGLTにNGを叩きつけた!」というものであるが、この「ノーと言える」ということの重要性について、かつて、石原慎太郎の「ノーといえる日本」とかいう本があった。

これに関連して、大分長い間停滞していた、京大の数学者、望月新一博士のブログが今年早々に久々の更新があり、そこで似たような主張を目にしたので一応ここにもメモしておこう。以下のものである。

新一の「心の一票」
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2019.01.02
2018年の感想と、主張やその背後にある論理構造の情報を発信し記録することの重要性


2018年を振り返ると、海外を発信源とする、出鱈目な内容の残念な雑音に振り回された年になってしまったな、というのが正直な感想です。

そのような出鱈目な内容の残念な雑音に接した場合、毅然とした姿勢で対応することの重要性を改めて認識させられる年にもなりました。

更に、そのような状況に遭遇したとき、毅然とした姿勢で対応することを可とせず、「おこがましい」とか、「僭越だ」、「傲慢だ」といったような批判を浴びせたり、何とか工夫してごまかしたり、(事実関係からして頓珍漢な)玉虫色の絵を描こうとしたりする等、いわゆる「事なかれ主義」的な対応こそを最も「潔い」対応の形態とする、実に残念な文化が国内外を問わず人類社会に深く根を下ろしているという実態を、改めてまざまざと見せ付けられたような思いをしました。

以前の記事(=2017-11-21付け)でも、「ノー」と言うべきときには、明確かつ毅然とした姿勢で「ノー」を発信することの重要性に言及しましたが、より大局的な視座から考えても、

   議論全体の健全な形での進行・発展

を図る上においても、毅然とした姿勢で対応することは議論に直接関わっている関係者全員のみならず、後世の利益にも最も適った形の対応になります。

関連した指摘になりますが、昨年(=2018年)は大航海時代の地動説や、20世紀前半の相対性理論を巡る、(それぞれの)当時の激しい議論について初めてネット等で調べ、そのような激しい議論のような状況において、

 関係者全員の主張(やその主張の背後にある
 論理構造)の詳細かつ明示的で、(特に後世
 の)一般人でもアクセス可能な

        記録を残す

ことの歴史的重要性を強く印象付けられました。このような歴史的な観点から考えても、「ノー」と言うべきときには、明確かつ毅然とした姿勢で「ノー」を発信することは至って重要なことです。

最後に、もう一つ、このような文脈で2018年に強く感じたことを記録しますと、大学の将来計画等の様々な書類において

      「世界をリードする」

という文言をよく目にしますが、(私の印象では)多くの場合には、この表現は非常に不適切な、「履き違えた」ような意味で用いられています。つまり、以前の記事(=2017-11-21付け)でも言及した通り、このような表現を用いる多くの大学関係者は、

 「世界をリードする」=即ち、欧米の主流や
  流行りを日本でもいち早く導入し(言い
  換えれば、いち早く「ダウンロードして
  インストール」し)、その欧米の主流や
  流行りに対して精一杯、究極的な「イエス」
  を発信することこそが「世界をリードする」
  ことである

というような考えの下で表現を用いているような印象を強く受けています。しかし、上で述べた通り、(欧米に限らず)時代の主流や流行りに対して、「ノー」と言うべきときには、明確かつ毅然とした姿勢で

  「ノー」を発信できる文化を育むこと
  こそ、数学を始め、学問の原点でも
  あり、また(数学を始めとする)学問
  の真の発展を実現する出発点でもある

というのが、私の理解です。



何事も平然と自分の意見を主張すること。

この重要性はいつの時代も変わらない。


自分が正しいと思うことはそれが正しいと主張する。自分が間違っていると思うことはそれが間違っていると主張する。

ただそれだけのことにすぎない。


望月新一博士は、量子力学や相対性理論や地動説などの形成過程で科学者同士の厳しい論争を学び、そこでどちらが正しいか正しくないかという問題より、そういう論争自体をそれぞれの立場で意見を述べ、それをそのまま記録して残した。こういう行為自体に非常に意義があると認識したわけだ。

まさに、御意。


アインシュタイン、シュレーディンガー、ド・ブロイ、ボーム、。。。などは、いわゆる波動関数のボルンの確率解釈=コペンハーゲン解釈を否定した。

そこには、ソルベー会議で大論争が残った。

アインシュタインの特殊相対性理論の登場のときも、当時のヘビサイド、ローレンツ(オランダ人)、ケルビンなどさまざまの当時の学者の間で論争が起きた。特に、エーテルの存在非存在に対して大論争が起こった。

それがまた記録に残った。自分で反論の立場からの本を書いて残した。

ニコラ・テスラも講演や論文で、エーテルの非存在に対してそしてアインシュタインの相対論に対して、はっきりノーを突きつけた。

マックスウェルの電磁気学の体系に対しては、ファラデーがその方程式にノーを突きつけたのである。マックスウェルの電磁気学では、現実の場(フィールド)が正確に記述できていないと否定したのである。

そのマックスウェルですら、今度は自分の20元20連立方程式を簡約したヘビサイドのいわゆる「マックスウェル方程式」の理論体系にノーを突きつけたのである。

正否は後に判明すると期待して、やはり自分の信じる所信を明確に主張する。そしてそれを記録に残す。


昨日、日産社長だったカルロス・ゴーンもはっきり日本の検察に対してノーを主張した。そして、自分の立場を明確にして記録に残した。

これはこれでアッパレな行為であろう。

なかなか日本人や東洋人でこういうことはできない。

BGLTに反対なら明確にその根拠を示してノーと言えばよろしい。

どちらが正しいかはいずれ明らかになるからだ。


大事なことは、そこでそれぞれの立場の意見を後世の人たちのために残すことなのだ。

実際、シュレーディンガーのノーは次なる科学の進歩を促した。それが、「ネルソンー保江の確率量子化」や「確率変分学」である。

ニコラ・テスラのノーが、交流発電機を生み、この世界を電化した。

アインシュタインのノーは、量子もつれを生み出し、量子通信の道を開いた。

まあ、主流に巻かれるな。本流におもねるな。標準理論に負けるな、という教訓であろう。


こういうことを望月新一博士が再認識したようだ。


そして、ご自分もまた

「世界をリードする」

ということについて、ただちにノーを主張してそこに残した。

 「世界をリードする」=即ち、欧米の主流や
  流行りを日本でもいち早く導入し(言い
  換えれば、いち早く「ダウンロードして
  インストール」し)、その欧米の主流や
  流行りに対して精一杯、究極的な「イエス」
  を発信することこそが「世界をリードする」
  ことである


というような考えは間違いであり、

(欧米に限らず)時代の主流や流行りに対して、「ノー」と言うべきときには、明確かつ毅然とした姿勢で

  「ノー」を発信できる文化を育むこと
  こそ、数学を始め、学問の原点でも
  あり、また(数学を始めとする)学問
  の真の発展を実現する出発点でもある


というのが、望月博士の理解なのである。


私も昨年暮れに生化学のアメリカの教科書を見て、衝撃を受けたが、そういう平衡熱力学から生化学へ応用するアプローチに対しては、1947年から1950年代ですでに我が国の理論物理学者たちがノーを主張していたのである。

「過渡的現象の熱力学」の杉田元宜、「理論生物学ー動的平衡」の柴谷篤弘、「生体の化学」の江上不二夫などだ。

彼らははっきり今後生物学の知識は増大するだろうが、知識量の増大を目的にした生物学では失敗し、永遠に生命とは何か?は理解出来ないに違いないとちゃんと本に書いていたのである。

それから70年。

やはり、彼らのノーが正しかったのだ。まったく本質に進歩がなかった。数多くの新薬が生まれ、儲け話が潤ったにすぎない。

そして、今年になり、いくつか「非平衡系の科学」とか「非平衡系の物理学」という主に京都大学の物理学者の書いたものを読んでこれまた衝撃を受けた。むろん、負の衝撃だが。

彼らにノーを突きつけるとすると何を突きつけるかといえば、

研究が甘い!

ということだ。

もしある人物が「非平衡系の科学」と銘打った本を書くとすれば、世界中のこれまでのすべての論文や教科書を読み、調べよ、ということになる。

いつどこでだれが最初に「非平衡」という言葉を使ったか?これまでの「非平衡の理論」とはどんなものであったか?

こういったことをただ地道に粛々と作業して知り尽くさなければならない。自分の研究はそれからだ。

ところが、いわゆる京大レベルの大学の日本で一流の研究者ですら、その時期に自分の分野で流行した研究を自分もやっていくつか論文を書き、それがたまたま「非平衡系」に類するジャンルに入ったから「非平衡系の物理学」というタイトルの教科書を書く。

しかも「この問題はまだ解けていない」とか書く。が、実は御本人が知らなかっただけで、すでにそれは何十年も前に杉田元宜博士により解かれていたということを知らないにすぎなかった。

まあ、いつも私がメモするように、人は「自分知らない事は存在しない」のである。

しかしながら、プロとして有名大学に税金で支援受けている、しかもたくさんのお弟子さんたちを抱え教育のすべき立場にあるものが、こういう学生気分の研究スタイルのレベルでまかり通るとすれば、それは大学の愚民化であろう。

やはり大学の学者というなら、そこへ行けば、なんでも知っているという感じであるべきだろう。

最近では、東大京大の「記憶王」とか、馬鹿な時間の浪費番組で時間を潰すバカな東大生や京大生が多い。

世俗の知識をひけらかすより、誰も知らないことを知っていることをひけらかせ!


それが学者ぞ、それが大学の人ぞ、それが本物ぞ(武田鉄矢風)


とまあ、「ノーと言える」ということはこんな意味ではなかろうか?とつい俺の思いを露呈することになってしまったようだ。


いやはや、世も末ですナ。





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by kikidoblog2 | 2019-01-09 11:08 | 望月新一・心の「一票」

望月新一のABC予想の解決とマイケル・アティヤーのリーマン予想の解決はどことなく似ている!?   

みなさん、こんにちは。

このところ我々地球人の数学についてメモしていたが、望月新一博士の「宇宙際幾何学」のイメージがちょっとだけ、加藤文元さんの話でわかった気になった。これであった。

加藤文元先生の神講演「ABC予想と新しい数学」:「望月新一博士は革命的な理論を生み出したんです」

この中で、普通の数学の世界がqの世界だとすると、q^N(qのN乗)の世界というものある。

講演のこの部分である。
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この話を聞いていて、俺はふと思いついたネ。

これって、理論物理学者が1970年代ごろにブームになったスピングラスという分野で使っていた

レプリカトリック

というものそのものじゃないのか?

という疑問である。

レプリコンならぬ、レプリカトリックというのは、物理学者は統計力学の分配関数Zというものを計算する必要がある。そして物理量はそのlogである、log Zを求めることで得られる。つまり、

Z→logZ

しかし、直接それが計算できない場合、言い換えると、Zが求まっても、log Zを計算できないという場合は、もっと簡単なZ^N(ZのN乗)を計算することで我慢する。

しかし、最終的にそのNをゼロに持ってく極限では、それがlog Zになる。

log Z ≒ (Z^N−1)/N

と考える。


いや〜〜、望月新一博士の思想は、あのノーベル賞のP. W. Andersonの思想圏に近い。

ところで、このアンダーソンさんは、光のランダム局在でノーベル賞をとったが、ヒッグズ粒子について最初に素粒子論ではヒッグズ機構と呼んでいるが、これを一番最初に物性論で証明した人でもある。万能の理論家である。

ちなみに、このアンダーソンさんの師匠が朝永振一郎博士と同時にノーベル賞を受賞したジュリアン・シュウィンガーだった。そしてアンダーソンの弟子が2年前に量子トポロジーでノーベル賞をとったダンカン・ハルデーン博士だった。

だから、物性論者には意外に望月博士のアイデアは受け入れやすいのかもしれないですナ。

レプリカの世界。多重世界である。

地球に一人の人間がいるとすれば、今度は、別の世界ではその人間が多重に重なり合っているものを考える。

その多重世界で幾何を考えて、問題を解き、それをまた地球の世界に翻訳し直す。

望月博士が「翻訳」というところを、加藤博士は「通信」と言っている。

まあ、翻訳、通信、解読、。。。、デコードでも呼び方はなんでもいい。

発想や思想が大事だ。


さて、そこで興味深いのは、先程の私のメモの最後につけたこれ、

おまけ:
ラマヌジャンの話もありました。

対談「ラマヌジャンを語る」
では、対談者の黒川教授と小山教授が、ラマヌジャン予想の話をしていたのだが、その話の成り行きで、リーマン予想という難問の話が出ていた。

このラマヌジャンの伝記映画鑑賞と対談の時は2016年でいまから2年前になるが、

リーマン予想はまだ未解決!

という話だった。

ところが!

最近、名古屋の青本和彦博士からメールをいただいて知ったんだが、あのウィッテンの師匠であるイギリスのマイケル・アティヤー教授が、俺はリーマン予想を解いたぞという論文を出し、いま数学界で話題沸騰中ということのようだ。たとえば、これ。

Riemann hypothesis, the fine structure constant, and the Todd function

それも、ほんの10数ページの論文だから、いっそうみながチャレンジしたいという状況である。みな本当かどうか必死で追証明の最中らしい。それがこれだった。

THE RIEMANN HYPOTHESIS - MICHAEL ATIYAH
THE FINE STRUCTURE CONSTANT - MICHAEL ATIYAH

この論文をちょっと読んでみたが、その具体的な方法は望月新一博士とはまったく違うのだが、その本質的な思想があまりに似ているので非常に驚いたのである。

違いはこんな感じ。

望月新一博士は、普通の数学の世界をqで表すと、あちら(宇宙人)の世界をq^N(qのN乗)の世界と見た。N多重の世界である。そして、こっちで証明したい関係の両辺をそれぞれあっちの世界に通信し、あっちの世界で関係を証明したら、それをこっちの世界へ返信する。


これに対して、アティヤーさんは、普通の数論をあっちの世界へ通信することがTodd関数だと考えた。

この世とあの世とをつなぐ鍵がTodd関数だと。

すると、こっちの世界の1はあっちの世界でも1。こっちの世界の虚数iはあっちの世界ではw。

こっちの世界の円周率πはあっちの世界ではキリル文字のЖ。

こっちの世界オイラー数γはあっちの世界ではキリル文字のЧに対応する。

こういう奇妙な性質を定義できるTodd関数を考えれば、こっちの世界のリーマンのζ関数をあっちの世界の関数に変換できる。そして、あっちの世界で自明の関係から、ζ関数のリーマン予想が導ける。

とまあ、こんな思想の論文のようである。

数学者恐るべし。


ついにギリシャ文字からキリル文字ですか?

ちなみに、このキリルの音感の語源は、キルギスとか、クリルや契丹(きったん)とかから来たものである。

つまり、高橋良典さんのいう、クロ族、カラ族の語源、すなわち、超超古代に世界に存在した先史文明の人たちの呼び名から来たものと考えられる。すなわち、縄文人ですナ。

なんとなく、キリル文字は神代文字に似ている感じがしますナ。

まあ、西洋人はそういうことはまったく知らないだろうが。


というわけで、ここ数年で数学界はアインシュタイン革命に匹敵する、あるいは、量子力学の発見に相当する、大きなうねり、ビッグウェーブが来ているようだ。


知らぬは物理学者のみってか?

むろん、ダマスゴミ界、オマエモナー。



いやはや、世も末ですナ。






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by kikidoblog2 | 2018-11-30 15:58 | 望月新一・心の「一票」

加藤文元先生の神講演「ABC予想と新しい数学」:「望月新一博士は革命的な理論を生み出したんです」   

我々と同じ時代に住む望月新一博士は革命的な理論を生み出したんです。
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みなさん、こんにちは。

さて、また望月新一博士関連の話で失礼。

最近、グロタンディークや望月新一博士のことをメモしたのだが、どういうわけかなぞのトウィッターからリンクされていたのである。

そこで、だれがリンク張っているのかと調べた所、なんと数学者の集うトウィットサイトだった。これである。

twitter.com/math_jin

この数学トウィットを見ていくと、なんと望月博士の世界を数学者が高校生レベルに分かるようにということを触れ込みにした講演があったのである。

これが実に良いものなので、ここにもメモしておこう。以下のものである。

加藤文元先生の講演「ABC予想と新しい数学」
abc Conjecture and New Mathematics - Prof. Fumiharu Kato, Oct 7, 2017 (with English subtitles)


非常に面白いのでぜひ若者から老人まで見てほしい。

どうしてこういうレベルのテレビがないか?


いうまでもなく、TVの時代は終焉したからである。


ところで、この講演のもうひとつの面白さは、すでにツイキャスや数式キャスまでできるリアルタイムの講演会になっていたということである。

まさに、スマホ時代の講演会なのである。


いやはや、時代はかなり変わった感がありますナ。


我々の時代はOHPの時代だった。

それが、パソコンのウィンドウズのパワーポイントの時代になった。

そしていまやツイキャス時代になったのか???



いやはや、世も末ですナ。


おまけ:
ラマヌジャンの話もありました。
対談「ラマヌジャンを語る」






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by kikidoblog2 | 2018-11-30 09:59 | 望月新一・心の「一票」

グロタンディークやダイソンが言いたかったこと!?:俺「自己創造する代数多様体の研究」だろうナア!?   

自己創造する代数多様体の例
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Kazumoto Iguchi, "Exact Wave Functions of an Electron on a Quasiperiodic Lattice: Definition of an Infinite-Dimensional Riemann Theta Function", J. Math. Phys. 33, 3938-3947 (1992)より。



みなさん、こんにちは。

最近はいったん思いついたことでもメモしておかないとつぎの瞬間他のことを考えるとすぐに忘れてしまい、はて?あれはなんだったか?ということが多くなった感があるナ。アルツハイマー予備軍か?

湯川秀樹博士も、福井謙一博士もいつもノートを頭の横において寝て、夢見に出たアイデアをすかさずメモしておく習慣だったとか。さもなくば、一旦現れた良いアイデアもまさに霧散してしまうからである。

思考のゆらぎとでもいうのか、あるいは、思考の自己創造とでもいうのか、いつしかある考えが頭に現れては消えるという現象があるわけだ。

というわけで、今回もまたなぜ生物理論をやっている俺に純数学、それも現代の解析幾何学や数論幾何学のような知識が必須なのかということをメモしておこう。

普通の人はスルーを。多分興味ないはずだし、まったく金にならないからサ。

(あ)生物や生命体の理論は、非常に複雑な微分方程式の連立方程式になる!

まあいちいち式を書いて説明したら何冊もの専門書になるからそういう説明はしないが、要するに生命には無数のタンパク質や原子分子団があり、それぞれの濃度はお互いに相互作用や化学反応で変化しているのである。

これを数学的モデルとして近似すると、どうしても多変数非線形微分方程式の連立方程式になってしまう、ということである。

その時、最低でも、定常状態の情報を得たい。そうすると、時間変化=0とおくと、右辺にあるはずの非線形多変数関数(これが化学反応を記述している)=0となり、こういう方程式の山になる。

この定常状態の解を見つける作業だけでも大変なことで、1個のマイコプラズマの細胞内でも数千個の物質分子があるから、数千の変数の数千個の連立微分方程式を解かなければならないことになる。

これが複雑系と呼ばれる理由である。

しかし、この無数の代数方程式の共通解を見つけなければ、生命の定常状態すらわからないことになるわけだ。

この時の、「連立代数方程式の共通解を見つる」という作業は、まさに代数幾何そのものなのである。

ここに、数論幾何や代数幾何のイデアル論とかスキーム論が必要になるはずなのであるが、何分それが数学の様式で書かれているために、ちっとも腑に落ちないわけである。


(い)数学者には特有の癖がある

我々科学者から見ると、数学者には特有の癖がある。これが時に数学者が本当にその問題を理解してやっているのかと数学者に対して我々に疑念をもたせる原因の一つでもある。

政治の、「総論賛成、各論反対」って騒ぐミンス党と似ているといえば似ている。

要するに、数学者は道具立てを完璧にして、一つの道具を使用するにはもっと別の道具立てを必要とするというような、循環論法に似た雰囲気で道具立てをして、道具のお城を建てるような感じで理論構成するが、実際にその道具を実施するという場合には、一本の板を切るとかあまりに自明の問題に使うのである。

DIYの量販店のように定義や新語の山を作っておきながら、やることは、棒を切るだけかいな?

まさに、豆腐を牛刀で切る、というような例題が出されるのである。

あまりに自明では?

これが数学者の説明が我々には腑に落ちない一番の難所なんですナ。

いつも数学者のだす例題を見ると、そんな自明な問題ならどんな定義(=道具)だって同じでしょ?という印象を受けるのである。

だから、ABC予想にしても、リーマン予想にしても、フェルマー予想にしても、それぞれの問題のそこに記述されている情報からすれば、あまりに道具立てが多すぎないか?という印象を感じ取るわけだ。

数論のリーマン予想に数論以上の道具が必要なのか?

もし数論に代数幾何が必要だというのであれば、それは代数幾何学者の自分の仕事の領域を温存したいからそうしているにすぎないんじゃないか?

要するに、仕事のための仕事、研究のための研究としてそういっているんじゃないの?というような感じを受けるわけだ。


(う)数学者のパーキンソンの法則?

公務員が自分の職を失いたくないから、わざと面倒な仕事を作る。いわゆる社会学におけるパーキンソンの法則というやつですナ。

フラーが言っていたような、プロジェクトで仕事を行うと、そのプロジェクトが終了しそうになると、作業員はわざと仕事を遅らせる。なぜならプロジェクトが終われば、仕事がなくなるから、それを恐れるのだと。

いまオリンピックやW杯や万博のようなプロジェクトが目白押しだが、そういうプロジェクトを請け負った会社は早く建築物を終わらせたくなくなるわけだ。早く終わればそれだけ早く仕事がなくなるからだ。だから、プロジェクトの予算はいくらでも増えていくわけだ。作業を遅らせ、間延びさせればさせるほど、自分の仕事が生きながらえる。

数学者にもこれと似たような傾向があるんじゃないか?と俺は想像するわけだ。

問題が解けないから自分の職がある。

素粒子論でもそうで、もう実験もできなければ、やることがなくなっても、いまだに素粒子論で飯食うには、何でもかんでも素粒子と結びつけることさえできればよろしいからである。素粒子論と脳、素粒子論と魂、素粒子論とモナド論、、、、。

問題というものは解かれたら最後、その瞬間からもうそれを飯のタネにはできない。その分野から引退しなければならない。しかしそうなれば、自分の職がなくなる。

解決したい→だからそのために自分の職ができる
しかし、解決されたら→自分の職はなくなる(かもしれない)
だったら、永遠に研究した方が得→ゆえに問題を解決しない→永遠に考える

どうも数学者にもこういう雰囲気が見え隠れする時があるんですナ。素粒子論者同様に。

だから、どんどん牛刀を大きくする。


(え)物性論者はちょっと異質では?

しかし、我々物性論者はちょっと違う。我々は極大ではなく、極小を考える。マキシマムではなく、ミニマムを考える。つまり、必要最小限のオプティマル(最適)の状況や理論で結構だと考える。

難しい問題には、それ相応に難しい定義や基礎づけや理論化が必要だろうと考えれるが、簡単な問題には簡単な説明でOKだろっていうようなやり方や考え方である。

魂を信じる人には適当に魂論で定式化し、素粒子を信じる人には適当に相対論からはじめ、霊魂を信じる人には霊世界の定義から始め、。。。とまあ、いい加減と言えばいい加減、つねに必要最小限で良いだろうというやり方である。

アバウトな人にはアバウトな説明、細かい人には細かい説明、厳密な人には厳密に説明、そんな感じでよしとみるわけですナ。

こういういまのアバウトな段階でみるなら、ABC予想も関数で解けているから、もうそれで良いんじゃね?リーマン予想も大筋リーマンの証明で説明できているから、それで良いんじゃね?それ以上やる意味あるの?と思うわけだ。

世の中にはもっと大事な問題五万とあるとよ(武田鉄矢風)ってサ。

まったくわかっていない問題は山ほどある。0近似でもいいからそれを知りたい。

たとえば、生命の原理。なぜ物質が生命圏を作るのか?

これについては、またいつかメモすることにするつもりだが、こういう問題は山ほどある。

大事な問題が山ほどあるのに、それを無視して、できそうな、あるいは自分の仕事の網に掛かりそうなものだけを取り上げるというのは、やはり自己防衛本能の発露でしょ?

まあ、偽ユダヤ人的とでもいおうか、ゴーン社長のようなものですナ。

い〜〜いんです、人様のことはどうでも。自分さえ知的で豊かで優雅に生活できれば。

というやつですナ。


(お)グロタンディークの宇宙観は魅力的だ!

そんな代数学者でありながら、アレクサンドル・グロタンディークの反アインシュタイン論は実に魅力的である。

グロタンディークと望月新一の接点?:数論幾何学はアインシュタイン理論を超えるかどうかにある!?


たぶん純粋数学者にはまだあまりこういう考え方は普及していないのかも知れないが、応用数学者まではかなり馴染みつつあるのではないかと思う。

最近のネット検索のように、ネットワークの複雑ネットワークが数学的対象になると、こういうネットワークがどのようにして生まれたか?どのように成長したか?するか?そういう数学ができてきた。

それが複雑ネットワーク理論というものである。

この分野では、たった1個のノード(・やサイト)から何兆ものノードが連結した複雑なネットワークを形成する。

この意味で、今ある世界は一つ昔にはないより成長した世界なのである。時々刻々世界はより複雑なネットワーク世界に成長している。

これに対して、昔のランダム理論や格子理論は、最初にこのシステムにはノードがN個あると固定して出発した。

だから、系はN変数のN連立方程式で記述される。だから、N個の代数方程式の共通解の研究というような言い方になる。

これから派生して、N変数の代数方程式は、N−1個のジーナス(穴)をもつリーマン面上の関数で記述できる、というような代数幾何の話と結びつく。この代数多様体はアインシュタイン計量をもつとかいって、リーマン幾何学を用いる。

しかしながら、この思想圏では、代数多様体の構造は「はじめに」決まっているわけだ。N個の変数、N次元とか、ジーナスがg個とか。

つまり、熱力学で言えば、ある種の孤立系の平衡状態だけを論じることに対応する。

しかし、ネットワークの宇宙観でみれば、宇宙は時々刻々と複雑化し、変数を増やし、空間の次元を上げている。

こういう成長する代数多様体とはなにか?

自己複製し、自己創造するような代数多様体やその上の関数とは何か?

そういう自己創造する多様体の計量とはどんなものか?

こういうことをグロタンディークを言っていたものと考えられるのである。


実はリーマン予想の問題の中に、大きな素数のその先にさらに大きな素数を見つけるというようなことは、まさに数の自己創造のような再帰的なものではないか?

もしそうだとすれば、成長する代数、成長する代数多様体、成長する幾何学、辺や頂点や面の数を固定して考えないで、常に自己創造し、成長する数学を見つけ、それを研究していかないとまずい。

そのためには、すでにそういう特徴を持つ数学があるなら、それをみつけてちゃんと研究すべきだろう。こういうことになる。

これが自由人ダイソンが言いたいこと、1次元の準周期系を研究しろといったことの意味ではなかろうか?

実際、1次元の準周期系には、成長する数学の一番簡単な発露があるのである。

その一つが甲元真人先生が開発したフィボナッチ格子である。

系を記述する黄金率の精度を上げれば上げるほど、系は無限に大きく成長し、それに伴って系のエネルギースペクトルはさらに複雑になり、最終的にはカントール集合になる。(甲元先生の発見)

このカントール集合は、波動関数が無限次元の無限個のジーナスを持つテータ関数として解析関数として記述されるのである。(これが私の発見)。
Kazumoto Iguchi, "Exact Wave Functions of an Electron on a Quasiperiodic Lattice: Definition of an Infinite-Dimensional Riemann Theta Function", J. Math. Phys. 33, 3938-3947 (1992)
ちなみに、初貝の留学前に彼に渡した別刷りとはこの論文の別刷りのことだヨ。帰国後職探し中にPRBに投稿したが数学すぎるといちゃもんつけられて散々遅れさられて、最終的にJMPに出たといういわくつきの論文。まだ甲元先生の師匠の米物理学会のドン、カダノフ健在の時代のこと。

おそらくグロタンディークが最初にシーフ論とかスキーム論とかモチーフ論とかトポスとか、そういうものを考え出した時、その念頭にあったものは、こういう成長する代数多様体だったと俺は想像しているわけである。

要するに、幾何学的要素、つまり、点、辺、面、体積、。。。とか、こういうもの自体が変化し、自己想像するような幾何学的オブジェクトは確実に存在する。最初に点の数や面の数を決めないシステムである。こういうものが自己創造しながら成長する系である。

これはまさに点を細胞とみれば、生命体そのものである。

生命は点の数を増やし、その点は性質を変え、自己集合し臓器を作る。お互いに複雑なネットワークを形成している。

おそらく生命を考えるので一番楽な方法は、生命体を単なる幾何学的対象として考えることである。

しかしながら、これでも非常に複雑であり成長するオートマトンである。

すでにリンデンマイヤーシステムというようなものはあるが、これは再帰的なフラクタル構造だけを容認する系にすぎない。

むしろネットワーク幾何と見たほうが面白いだろう。


ところで、昔、およそ70年前我が国の生物物理学会の創始者だった杉田元宜博士は、すでにこういう複雑ネットワーク理論として生命の熱力学を考え、それを作ろうとしていた。おそらくこの筋の今の専門家のだれも知らないはずである。

この時、杉田博士が用いた言葉、それが「歯車」であった。今で言えば、歯車とは、ネットワークの中の重要なサブネットワークやサブモデュールのことである。

生体は時計じかけのオレンジ、時計じかけの歯車のようにお互いに密接に絡み合ってコントロールしているということを論じたのだが、それは今では、複雑ネットワークのリミットサイクルどうしの相互作用ということになる。

この観点で杉田先生の仕事を顧みると、現代の生化学の教科書がいかに退化してしまったか?70年前の生化学者の思想圏からすればいかに博覧会になってしまったか?こういうことが実によく分かるのである。これについてはまたいつかメモすることもあるだろう。


というようなわけで、グロタンディークやダイソン先生が言いたかったことは、

成長する代数多様体の研究

ということであろう。あるいは、

自己創造する代数多様体の研究。

すなわち、生命体のような幾何学を持つ数学の研究と言っても良い。


こういう観点で京大あたりの超一流の数学者の仕事を眺めても、まだまだでんな〜〜という印象を受けるんですナ、俺はサ。



いやはや、世も末ですナ。





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by kikidoblog2 | 2018-11-28 10:21 | 望月新一・心の「一票」

ダイソンの妄想と俺の妄想:リーマン予想からABC予想まで。「数学は一つ」かも!?   

みなさん、こんにちは。

ここ最近、プリンストン出の京大の数学者、望月新一博士の研究をちょっとメモしたが、前から思っていたのだが、彼の分野を理解しようとするとどうしても普通の微積分や線形代数を超えた、もっと現代的な(ブルバギ的)な代数学の本で、基本的なネーミングを理解しなければ、まず論文が読めないのである。

そこで、24年前まだ理研にいた頃買ったんだが、サージ・ラング(Serge Lang)というアメリカ人(おそらくロシア系ユダヤ人)の書いた代数学の教科書がある。

残念ながら、この四半世紀待っても一向に日本語訳が現れない。日本の数学者も物理学者同様実に「怠慢」ですナ。こういう素晴らしい本はすぐに日本語に翻訳するべきである。

しかしながら、世はグーグル翻訳の時代。まだ1冊の本をいきなり全部日本語に変換はできないようだが、少しずつならそういことも可能になった。

あとは原稿のpdfがあれば良いというだけらしい。

そんなわけで、昨日、試しにひょっとしてこのラングの代数学のpdfがあるんじゃないかと探した所、

ビンゴ!ぴんぽ〜〜ん!

あった、あった、やっぱりあったのである。

これを一応メモしておこう。以下のものである。

(あ)https://math24.files.wordpress.com/2013/02/algebra-serge-lang.pdf
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見た所、私が買った25年前のものとほんのわずかの箇所だけが違うが、99.9%は同一。もっとも出版社がAddison-WesleyからSpringer-Verlagに変わったらしい。アメリカからドイツへ渡ったのだろう。

私はスプリンガーの黄色よりは、アディソンのライトブルーの方が好みだが。


まあほとんどは理解できない純粋数学なのだが、この本は「ABC予想」にチャレンジできるように作られたとしか思えない。

つまり、望月新一博士のような「ABC予想」フリークを生み出すためにの教科書である。

ぜひ若い数学好きの皆さんはこの本を学んで俺に教えてくれ。


冗談は吉本。


ところで、この本を探す合間に偶然みつけた以下の解説文も実に興味深いものだった。

(い)Birds and Frogs ー Freeman Dyson

それとこれ。

(う)From Prime Numbers to Nuclear Physics and Beyond
By Kelly Devine Thomas · Published 2013
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望月新一博士は「ABC予想」を解こうとしているが、もうひとつの難問が「リーマン予想」である。

リーマン予想を解くと、アメリカのクレイというスパコンの会社から1億円の報奨がもらえる

へ?世紀の大問題が、たった1億円???

というわけだが、(う)はこのリーマン予想に関する論説である。

一番驚いたのが、その最後の最後にフリーマン・ダイソンが出ていたことだ。

このダイソンは、朝永振一郎、リチャード・ファインマン、ジュリアン・シュウィンガーと同レベル以上でノーベル賞に値したが、4人目の椅子に座り、結局ノーベル賞を得なかったという大損(だいそん)だったと我が国ではジョークのネタにされた数学者である。

このダイソンがその量子電気力学のあとにやり始めたのが、ランダム行列の理論というものであった。

この問題の端緒はやはり大数学者のウィグナーが、物性でいえば、ランダムポテンシャル中の電子の問題、数学でいえば、ランダムな係数をもつ微分方程式の固有値の問題、を計算していくうちに、有名な「ウィグナーの円周定理」を発見する。

これは固有値の分布(エネルギーの状態密度)が半円状に分布するという奇妙な定理である。

ウィグナーは原子核のエネルギー分布を決めるために始めた研究であったが、原子核がどろどろしてランダムに揺らいだ状態を記述するために、そういう核子の集団を扱うための固有値問題として、ランダムなゆらぎのある固有値問題を考えたのである。

ところが、ガウス型のランダムと入れるとどういうわけかいつも普遍的に円周定理が導かれる。

この問題に円熟したダイソンが取り組んだ。

そこでいくつか有名なランダム行列の理論を生み出し、後半ではインド人のメータといっしょに共同研究を行った。そして、その結果を有名な「ランダム行列」の専門書として出版した。

この中では見事にウィグナーの円周定理も導き、かつよりさまざまの場合に一般化している。

さらには物理の問題とのアナロジーも使い、統計力学の1次元気体の問題との接点などを論じたわけである。

この問題では、ウィグナーが固有値と考えたものを、1次元の粒子の座標と見直すと、固有値間の干渉が粒子間の相互作用のように見ることができるという観点が用いられた。

そして極めつけは、エネルギー分布の相関関係を導いた。

この理論はその後、私の師であるビル・サザーランド博士が1/r^2で長距離相互作用する1次元の多体粒子系の量子力学や統計力学の厳密解を導き、その時に、リバイバルすることになった。これがカロゲロ-サザーランド模型と呼ばれるものである。(ちなみに、この話は上の解説では意識的に端折られている。)

そして、その後ソリトン分野が発展していって再発見されて、いまでは多体の量子可積分系として古典とあいなった。

ところが、数学の分野ではリーマン予想の数値計算が発展し、またリーマン予想のブームが再来していた。そして、数学者のモンゴメリーがリーマン予想の問題となるリーマンのζ(ぜーた)関数のゼロ点の分布を計算したところ、そのゼロ点同士の分布の相関関数の式がダイソン-メータのランダム行列の固有値分布の相関関数の式とどんぴしゃり一致したというわけだ。

そこで、若い数学者のモンゴメリーがダイソンにその研究を聞きに行ったという。

そしたら、ダイソンが書いたものが、上のメモ。


というわけで、どういうわけか、リーマン予想の問題とランダム行列の問題が関係があるらしいということになったわけである。

それから数十年世界中で多くの研究論文が出たがいまだにリーマン予想は解決していない。(まあ、最近、解決したという論文も出たらしいが。)

こういうことを解説しているのが上の(う)の解説である。

まあ、この辺りはこの問題を知っている人には周知の事実にすぎない。だから、それほど驚くことでもない。

何が興味深いかというと、その後のダイソンが最近になって、

1次元の準周期系の問題を研究せよ!

と若い数学者に主張しているという部分である。これが書かれていたんですナ。

これって、私の博士論文のテーマじゃないですか?

1次元準周期格子の理論

これで私は博士になったのである。

そしてこの理論に基づき、それを拡張し、生物のDNAやタンパク質配列の電子状態を計算する方法を見つけるために富士通や理化学研究所に行ったのだった。

ついに俺の時代が来たのか?

世界がやっと俺に追いついてきたのか?


冗談はよし幾三。


というわけで、ダイソン先生はいまは準周期系をあのポール・スタインハーツといっしょにご研究されたのだとか。

このポール・スタインハーツ教授は、私がユタ大でPhDになった直後に彼のポスドクで採ってくれる手はずだったんだが、なんとそこへ東大の同業者が物見遊山で遊びに来てしまい、見事に蹴散らされてしまったんですナ。

だから、しょうがなく帰国したわけだ。

その後、富士通時代に出した論文で、1次元準周期系の問題では、穴の開いたリーマン面上の関数として電子状態である波動関数が書けるということを発見し、東大の初貝博士が米国留学する時の手土産に私の論文別刷りを持っていけと差し上げた次第である。

というのも、1昨年ノーベル賞を取りそこねた甲元真人先生の助手をしていたからだ。私はユタに行く時とユタ大の最初の2年ほど甲元先生に非常にお世話になったからである。

その後、初貝博士はカリフォルニアのUCバークレーだったかスタンフォードだったか、そこの研究者と一緒に研究し、リーマン面の穴とエッジ状態が関係するということを発見し、非常に有名におなりになられたのであった。おろらく彼の出世作になったはず。

リーマン面となるとコホモロジーが必須。そこで代数学を勉強せねばということになり、ラングの本に行き着くわけだ。

すると、リーマン面の拡張系が望月博士のやっている現代代数学の数論幾何のテーマになるわけだ。

その頃、私の妄想を論文にしたのがこれだった。

Kazumoto Iguchi, "Universal Algebraic Varieties and Ideals: Field Theory on Algebraic Varieties", Int. J. Mod. Phys. B11, 2533-2592 (1997)(23.1M)

この論文はまったく引用がない。が、その主張は明快。
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要するに、物理のあらゆる分野の理論には普遍的に同じ構造が現れる。それは、代数多様体上の「場」の理論ということだ。物理の分野とは、採用する多様体の違いにすぎない、というのが私の結論であった。

とまあ、これが当時の若かりし日の俺の数学的妄想であった。

このときにはリーマン面には穴があってもパンクはないものだけを考えたが、むろん、パンク=パンクチャーを考えたものも考えることができるが、それには望月博士の分野の知識が必須になる。

望月博士の論文でてくる昔の数学者の名前はすべて見覚えがあり、私がユタにいた頃、いつも行っていた物理学部のすぐ隣の数学部の図書館の中で本の虫になって読んでいた、数学者と同じ名前なんですナ。

というのも、私の1次元準周期格子の理論の基本概念は「無理数の分類」という数論の問題から来たものだからである。数学者が無理数を分類する際に、さまざまの数学の手法を使うんだが、そういう数学者が準等角写像とか、上半面の双曲空間を使うとか、モデュラー変換を使うとか、いろいろのことをやるわけだ。

それがその後、高エネ理論の超ひも理論とか、ABC予想のIUタイヒミュラーとかで使われているわけですナ。

物理は一つ

という言葉があるが、これは物理学は根底において一つのもので、様々の分野は奥底で繋がっているという意味だが、ひょっとしたら

数学も一つ

なのかもしれないですナ。

俺が生きているうちに、リーマン予想が解決されてほしいものである。



いやはや、世も末ですナ。




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by kikidoblog2 | 2018-11-27 10:16 | 望月新一・心の「一票」

グロタンディークと望月新一の接点?:数論幾何学はアインシュタイン理論を超えるかどうかにある!?   

みなさん、こんにちは。

最近、京都大の望月新一博士の話をメモしたが、

望月新一博士は一人ではなかった!?:いまや宇宙連合軍になっていた!?「地球人は青かった!」
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講演する望月新一博士
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カテゴリ:望月新一・心の「一票」
すでに数学の世界ではレジェンド、伝説になっているようであった。

どうして我が国のマスメディアはこういうことをニュースにできないんでしょうナア。

もう何年か前にはイギリスのオックスフォード大学で望月博士の研究テーマの国際研究会まで開催されていたんですナ。
Oxford Workshop on IUT Theory of Shinichi Mochizuki, December 7-11 2015
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まあ、何よりもすばらしいと思うこと、ありがたいと思うことは、望月新一博士があのモーデル予想を解いたファルティングスのお弟子さんで、しかもあのグロタンディークの真正の後継者だということである。

そして、何よりも助かるのは、望月博士は、仏人のユダヤ系グロタンディークの研究テーマの「分野」で英語か日本語で書いてくれることなんですナ。グロタンディークは全部フランス語で書いているからまったく読めなかったのである。いまも積読状態。

岡潔博士はフランスに留学(そして保江邦夫博士もスイスに留学)していたから、彼らは英語のほかに仏語も読めた。だから、グロタンディークの研究なども読めた/読めるはずである。

しかしながら、我々普通の英語圏の戦後教育の世代は、仏語はかなり厳しい。ドイツ語もそうだ。戦前の杉田博士ならドイツ語は読み書き堪能だった。むろん、ドイツのハイゼンベルクのところへ留学した朝永振一郎博士もドイツ語堪能であった。

たぶん、望月博士も英仏は堪能だろう。


いずれにせよ、こうして日本語や英語でグロタンディーク界隈の数学を、現代数学を解説していただけるというのは真正のグロタンディークのファンの一人としては実にありがたいのである。これでやっとグロタンディークの自伝の内容が少しは理解できるからである。

では、なぜグロタンディークなのか?

というと、グロタンディークだけが、自分のことを

「現代数学のアインシュタインだ」

と自画自賛したからである。そしてその理由もちゃんと書いているからである。

今回はこの実に私個人的なテーマというか目標をメモしておこう。

(あ)数学者の孤独な冒険

そのテーマはグロタンディークの「数学者の孤独な冒険」という自伝第一巻の83ページ以降に書かれている。
数学者の孤独な冒険―数学と自己の発見への旅 (収穫と蒔いた種と)
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そこは実に物理学者にとって意味深で、重要な場所なのだが、なにせ本当にはグロタンディークの理論が理解できなければ、自分で発展できないのである。だから、25年前にこの本が日本語訳されたときからずっとその部分を理解したいと考えていたわけだ。

本文はぜひ本で読んでもらうとして簡単に要約すればこんな話になる。

アインシュタインの行った一般相対性理論や特殊相対性理論は、リーマン幾何やミンコフスキー幾何というものを物理に持ちこみ、それまでのニュートン力学からみれば大きな革命を行ったことになるが、自分(グロタンディーク)は現代数学者だからリーマン幾何などはありきたりの古い出来上がった数学にすぎないから驚くほどのことはない。

しかし、アインシュタインが物理で果たしや役割は本当にすばらしい。実は自分は現代数学においてアインシュタインが物理の世界で行った革命に匹敵することを行ったのだ。それは、アインシュタインが物理において空間概念を変えたように、数学者のあつかう数学における空間概念を刷新したのである。数学者の扱う座標や場や多様体の概念を変えたのだ。

そしてその革命の雰囲気を例えれば、アインシュタインの使ったリーマン幾何というより、シュレーディンガーの発見した量子力学に近い。


そしてこういう主張の合間にいくつかのコメントが加えられていて、そのコメントがまた実に不可解かつ意味深なのである。

この中でもコメント(5)が特に興味深いのであるが、何分グロタンディークの行った数学革命がなにか理解できないためにこの25年間頓挫しているというわけである。

ちょっと長いけれども、のちのちのためにそこだけ拾い出して書いてみよう。辻雄一氏の訳である。

問題にされている、さまざまな部分的な理論を「統一させ」たり、和解させたりするに至る、このような仮説的な理論のことを「統一理論」と呼んでいました。私は、企てられることが期待される基本的考察は、つぎの異なった二つのレベルにあると感じています。

1)現実の一部分に対する「数学モデル」という概念そのものについての、「哲学的」性質の考察です。ニュートン理論の成功以来、物理的現実を「乖離」することも誤ることもなく、完璧な仕方で表現するための数学モデル(さらには、唯一のモデル、あるいは「決定的な」モデル)が存在するということが、物理学者の暗黙の公理となっています。2世紀あまり前から通用しているこのコンセンサスは、「すべては数である」というピタゴラスの生き生きとしたビジョンのいわば一種の化石となった名残りのようなものです。おそらくここに、物理学者の宇宙を限界づけるために、古い形而上学的な枠に取って替えられた新しい「目に見えない枠」があるのでしょう(一方には、「自然についての哲学者」と呼ばれる人たちが完全に消滅してしまって、やすやすとコンピュータを操る人たちに取って替えられたようです。。。)ほんの一瞬でも、そこに立ち止まってみさえすれば、このコンセンサスの有効性はまったく明らかでないことは明白です。当然のようにこれを疑問に付すような、あるいは少なくともその有効性にがきわめて限られた限界があることを予測させるような、非常に根拠のある哲学的理由さえあります。ちょうど今が、この公理を緻密な批判の対象にする、おそらくは、また、あらゆる可能な疑問を超えて、それが根拠のないものであること、つまり、現在までに記録された、いわゆる「物理」現象の全体を考慮に入れた、唯一の厳密な数学モデルは存在しない...ということを「証明する」時期だと思います。

ひとたび「数学モデル」という概念そのもの、そして(なされる測定において許容されるある「誤差の範囲」の限界の中での)このようなモデルの「有効性」という概念が満足すべき仕方で輪郭をはっきりさせられるとき、「統一理論」の問題あるいは少なくとも「最適モデル」(この意味ははっきりさせねばなりませんが)の問題はついに明確に提出されることになるでしょう。そして同時に、おそらく、このようなモデルの選択の度合いについての明確な考えも生まれることでしょう。

2)以前のものよりもより満足のいく明確なモデルを引き出してくるという「技術的な」問題がそのあらゆる意味を持つと思われるのは、ただこのような考察のあとでのみでしょう。その時はまた、おそらく、これも古代にさかのぼる、空間についての私たちの知覚のあり方そのものの中に深く根付いている、物理学者の第二の暗黙の公理から解き放たれることでしょう。その公理は「物理現象」が生起している「場」の、空間と時間の(あるいは時空の)連続性という性質についてのものです。

もう15年前あるいは20年になると思いますが、リーマンの全作品からなるささやかな本をひもといていたとき、「通りすがりに」なされている彼の指摘に心を打たれました。そこで彼はつぎのような考察をしています。空間の究極的構造は「離散的」であること、私たちが空間に関して作っている「連続的」表現はおそらくより複雑な現実の(結局のところは、たぶん過度な)単純化となっていること、人間精神にとって、「連続」は「不連続」よりもずっと把握しやすいこと、したがって、それは不連続を理解するための「近似」として役立っているということがありうる、ということです。これは、物理空間のユークリッド・モデルがまだ一度も問題に付されたことがなかった時期での、一数学者の口から出た驚くほど洞察力のある指摘だと思います。厳密に論理的な意味では、伝統的に、連続へ向かっての技術上のアプローチの仕方として役立てられてきたのは、むしろ不連続の方です。

さらに、ここ数十年の数学の発展によって、今世紀の前半にはまだ想像できなかったほどの、連続構造と不連続構造との間の極めて緊密な共生関係があることが示されました。それでもやはり、それが「連続的」であろうと、「離散的」であろうと、また「混合した」性質のものであろうと、「満足すべき」モデル(あるいは、必要ならば、可能な限り満足すべき仕方で「つながり合って」いる、このようなモデルの集まり...)を見出すことーこのような仕事はたしかに大きな概念上の想像力を投入させることになるでしょうし、新しいタイプの数学構造を把握し、明るみに出すための熟達した直感力を必要とするでしょう。この種の想像力あるいは「直感力」は、物理学者の中ばかりでなく(アインシュタインやシュレーディンガーはまれなる例外だったのでしょう)、数学者の中でもまれなように思います(このことについては完全に事情を知った上で話しているのですが)。

要約すると、期待される革新(これが再びおこるものとして...)は、物理学者からよりも、むしろ物理学の大問題によく通じている、根っからの数学者からやってくるだろうと私は予測しています。だがとくに、問題の核心を把握するためには、「哲学的に開かれた心」をもっている人物が必要でしょう。この問題の核心は、技術的な性質のものではまったくなく、「自然についての哲学」の基本問題だからです。

(1986年5月3日)
私はここでアインシュタインのモデルも含めて、物理現象に対して現在までに提案されているモデルについて、哲学的起源のもうひとつの批評をしておきたいと思います。時空とその構造(特に軽量的な)は、観測者の過去と未来を含む、「現在の」、侵し得ない与件として取られているということ、また同時に、時空のこの部分はその過去と未来から逃げてしまっているということです。したがって、ここに、結局は、観察者から独立した存在と構造をもったある「絶対」があります。ところが私たちがよく知っているように、観察者は、「その過去」の影響を受けているだけでなく、自分の自由意志と自分の中にある創造性によって、「その将来」に対して影響を与えます。それは、(物理的)「自然法則」によって定められたある範囲の内部で作用を及ぼす影響です。したがって、「観察者の前にある」時空のこの部分(とくにすぐ近くにある部分)の構造自体、とくに(少なくとも部分的には)物質とエネルギーの流れによって叙述さえる構造は、あらかじめ「すべてできあがっている」ものではなく、ある程度は、「自己創造している」のです。たぶんここに、時空の構造(計量的な、物質とエネルギーの流れ)を、おのおのの「場」で(あるいはむしろ、おのおのの「場ー時点」で、つまり時空の各点で)連続的な創造としてみるばかりでなく、この構造の「土台」である、時空自体がそれらにつれて自己創造しているものとしてみるようなモデルを構想する必要がありそうです。

もちろん、私は「観察者」ということで、人間の観察者だけではなく、宇宙のおのおのの「場」で、おのおのの時点で活動しており、宇宙の息吹き、あるいは生命そのものとして存在している創造的な知性をも考えに入れています。この「息吹き」は、現在までに構想されたモデルに存在しないだけでなく、禁じられているように思われます。明らかに、この息吹きを含めるには、いままでに提出されているすべてのモデル、つまり「出来合いのモデル」に欠けている柔軟性、内的なダイナミズムを与えるために、時空という基本概念についての深い再考察が必要とされるでしょう。

この方向での第一の基本的な問題は、二人の観察者(つまり二つの異なる「場ー時点」の過去の一部分をなしている、時空の「過ぎ去った」部分に対して、この部分は、観察者、すなわち観察の場ー時点とは独立した、「絶対的な」または「客観的な」構造を有しているとみなすということは、適切なことかどうかという問題です。ここに(私の知るかぎりでは)現存するすべてのモデルのもつ暗黙の前提のもうひとつがあります。つまり、これらのモデルは、アインシュタインによって導入された大きな革新的な哲学的アイデアである、観察者に対する観察される現実の「相対性」という考えに逆らっているのです。このアイデア自体は、アインシュタイン自身が物理学者のために多少とも「使用できる」ような仕方でこれを表現するよう努力したモデルがいかにエレガントであっても、それらよりも、より深く、より豊かなもののように思われます。ところがこれらのモデルでさえ気難しい同時代人たちに受け入れさせることは容易なことではなかったことを言っておかねばなりません。


どうだろうか?

このグロタンディークのアインシュタインの一般相対性理論に対する注釈は、実に興味深いだろう。

つまり、

宇宙は離散的で自己創造するものである。そうでなければならない。

とグロタンディークは言っていたのである。

言い換えれば、この宇宙は生命のように誕生して自己複製し、自己創造していくようなモデルで記述できるはずだと考えた。

なんとなく、湯川秀樹ー保江邦夫の「素領域の理論」に近い、かつ、フォン・ノイマンのオートマトンの概念にも近いものをグロタンディークは想像していたと考えられる。

あるいは、杉田元宜の「過渡的現象の熱力学」のテーマである「一過性の宇宙」の概念にも近い。

また、保江邦夫の盟友の天才、中込照明の「唯心論物理学」の精神にも近いのではないか?

あるいは、マンデルブローのフラクタルやカオス、あるいは、ウォルフラムの「新種の科学」、オートマタの世界に近い。

俺はそう思うのである。

つまり、宇宙には内的構造として空間の素とは別のプログラム情報の世界があり、そのプログラムに応じて、空間の素をつぶつぶとして自己創造しながら成長する。

したがって、生命が自己創造し、自己複製するのであれば、それは宇宙そのものもそうしているはずであり、宇宙にも細胞構造のような機能が存在する「場」「点」として空間構造を捉えなかればならない。

その宇宙の素の中にある情報は、我々の細胞の中の染色体のように、それ自身の情報、過去と未来の両方の構造を持っている、こうした内部情報と物理情報の双方をもつ存在として宇宙の素、時空間の素を考えるべきだと俺は信じるようになったというわけである。

だが、俺にはそれを数学的にいかに表現すべきかまだわからないというわけである。

いでよ、天才君!


そんなわけで、いつもグロタンディークの残したこの記述に戻るんですナ。そして、だれか彼の数学を説明してくれるものが出てこないか待ち望んでいたわけだ。そこへ望月新一博士が現れた。

大感激、大歓迎である。

頑張れ、天才!



おれにその才能や知識があればナア。




いやはや、世も末ですナ。







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by kikidoblog2 | 2018-11-23 18:06 | 望月新一・心の「一票」

望月新一博士は一人ではなかった!?:いまや宇宙連合軍になっていた!?「地球人は青かった!」   

講演する望月新一博士
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カテゴリ:望月新一・心の「一票」



みなさん、こんにちは。

いやさか〜〜、いや〜〜、いやはや、素晴らしい!

京都大学の大天才望月新一博士の最近の動向を見ようかと久しぶりに京大のサイトを見ると、驚き桃の木山椒の木。

ちょっと前まで、望月博士の論文はだれも理解できずたった一人で研究しているというふうに思っていたら、最近では、たくさんの追随者や理解者が現れていまや連合軍になっていたのである。これだ。

望月新一の過去と現在の研究


・玉川安騎男
・山下剛
・Ivan Fesenko
・譚福成
・加藤文元
・南出新


ところで、我が国内の数学の鬼や天才君たちには、以下のものを勉強してきなさい、というのが望月先生の要望らしい。

望月新一を指導教員に志望する学生・受験生諸君へ

なお、仮に修士課程に入学し、私の学生になった場合の、少なくとも最初の一年間の「カリキュラム」は
大体次のとおりになります:
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 (a) 「松村」、「Hartshorne」の復習
 (b) 複素多様体や微分多様体の理論の復習
 (c) エタール・トポス、エタール・コホモロジー、エタール基本群
 (d) 曲線やアーベル多様体のstable reduction
 (e) log scheme の幾何
 (f) エタール基本群のweightの理論

また、これらの基本的なテーマの勉強が済んだら、

 (i) crystalやcrystalline site, crystalline cohomology
 (ii) Fontaine氏が定義した様々な「p進周期環」
 (iii) p-divisible groupsとfiltered Frobenius moduleの関係
 (iv) Faltingsのp進Hodge理論
 (v) p進遠アーベル幾何
 (vi) p進Teichmuller理論


あとは、英仏独語、およびロシア語くらいだろうか?


まあ、俺も20年以上前にグロタンディークの自伝の3巻を必死で読んだものだが、あれから25年。

ついに正真正銘のアレクサンドル・グロタンディークの後継者が出てきたということだろう。


ところで、このグロタンディーク博士は、ちょっと前の最近ついにお亡くなりになったのだが、両親がアウシュビッツ入りして殺されたそうで、本人は戦災孤児になられて、フランスの修道院で育てられたというのである。

しかし、物心つくと、自分はいつも何かを考えては発見していたのだが、後々それが人々が数学と呼ぶものだったと発見したのだという。

そして、最初の独自の発見が、なんと「ルベーグ積分論」だったというのである。

子どもの頃からだれに教わったというのではなく、自分でひらめいては気づきの行いが、すでに数学だったのである。

そして、高等教育を受け、本当の天才数学者に育った。

そして、当事の数学の水準を突破し、フィールズ賞(40歳以下のみ受賞)をもらい、10人ほどの天才の弟子を育て、その中の一人が我が国の広中平祐博士だったが、さらに時代の数学を遥かに超え、だれにも理解不能の論文を1万ページにわたって公表したというエピソードが残る。

さらに、比較的若くして数学界を引退したために、その遺産を受け継いだものたちから、多くの業績を盗まれてしまい、本来ならグロタンディークの名前を冠するべきところをドリィーニュだとかなんとか、いろんな有名人の名前がついてしまったといういわくつきの伝説まで残る。

しかしそれも1万ページのごくごく一部に過ぎず、大半は手付かずのまま、盗用盗作する連中すら結局理解できずに死に絶えてしまったという、摩訶不思議な天才数学者だった。


そしてそのグロタンディークの残したもっとも理解不能の部分の鍵をついにこの望月新一博士がみつけて、新世界をこじ開けた。

とまあ、俺は論文そのものはまったく読んでも理解不能だから数学の中身は語れないが、行ったことの雰囲気はこんなことだろうと想像しているんですナ。

問題は、そうやって望月新一博士が見つけた「新世界の道」、このときにつけたり用いた命名が実に面白いんですナ。

宇宙際
エイリアン

こんな言葉が飛び交っているわけだヨ、純粋数学の論文中に!


しかし、その解説を読んでみると、実になるほど〜〜と目からウロコ。目が点になる。


まあ、その本質的観方を俺が感じた印象でメモすれば、これまでの数学の大問題というのは、我々地球人のものの見方や大前提の上に成り立っている。

だとすれば、いったんそういう地球人的なものの捉え方の枠組みを超えて、宇宙人になったつもりで見直すことが大事だ。

宇宙人が地球の数学の問題をみたらどう考えるか?

こういう視点で数学の大問題を捉え直し、その間で、つまり、地球人(伝統的数学)と宇宙人(本来の来るべき数学)との間で翻訳を行い、宇宙人の世界で問題が簡単になってとけるのであればそこでとき、再び地球人の数学に翻訳しなおせばよろしかろう!


これが望月新一博士の思想なのである。


いや〜〜、素晴らしい!


かつて岡潔博士もそういうのをやっていたんですナ。

岡の場合は、宇宙人の視点どころか、神の視点、天国の視点にまで飛び上がった!


いったん神様になって我々の問題を考える。そして神様の視点でみたら、意外と問題が簡単になる。

そうしたら、天国(高天原と岡は言っていた)で解いた答えを地球人の普通の人の言葉に翻訳しなおせばよろしかろう。


というような観点から俺が解釈するに、望月博士は、仏カソリックのアレクサンドル・グロタンディークと仏教の岡潔の両方の特徴を兼ね添えた数学者と見ることもできそうである。


これとは違うが、ずっと簡単な問題なのだが、実にセンスとしては似ていることを俺も最近考えていたんですナ。

たとえば、二進法。0と1だけの世界というものがある。あるいは、DNAの配列はA, G, C, Tの4つの塩基配列でできている。この意味では4進法。

こういう世界で、超立体を作ることができる。

たとえば、1次元の立方体は、0−1である。

2次元の立方体は、00−01−10−11でできる正方形である。

3次元の立方体は、000−100−010−001−110−101−011−111でできる立方体である。

4次元の立方体は、0000−1000−0100−0010−0001−1100−1010−1001−0101−0011−1001−0111−1011−1101−1110−1111でできる立方体である。

以下同様。

普通2進法はこういう理解でできる。

しかし、この0と1の区分というか、名前の付け方は我々地球人が勝手にアラビア数字=インド数字をつかってそう書いたにすぎない。

だから、0が0で1が1であるかどうかはどうやって判別するのか?

本当なら、0が1で1が0かも知れないわけだ。あるいはそれ以外。

そこで、正方形の場合には、回転ができるわけだ。すると、たとえば、00−01−10−11の正方形を中心の周りに45度反時計まわりに回転させれば、01−10−11-00になる。これは、

00→01、01→10、10→11、11→00に対応させたことになる。

つまり、我々が00と見たものは実は01と見ても良いということになる。4つの置換を常に同時に行えば、何も区別できないというわけである。

正方形は4回転でもとに戻るから、まだ他に2つの可能性もある。あるいは、軸対称性もあるから反転もできる。

2次元の立方体なら、こういう対称性は0と1を入れ替えるだけである。

しかし、3次元になれば、回転は3次元的になる。だから、置換の仕方は非常に様々になる。

4次元、5次元となれば、もっと増える。

こういうふうに見方を広げると、DNAの場合は、どうなるか?

要するに、0と1のアルファベットだけでの世界でも、集合論的に見る見方というものは地球人のものの見方に過ぎず、エイリアンなら、こういうふうに別の視点で集合を見るかも知れないわけだ。彼らにとって、0と1という文字は特に意味を成さないからである。

我々地球人がギリシャ以来自分たちの数学的見方に自己中になっただけのことである。そして、ついには

人間原理=この宇宙は人間に理解できるようにできている

というまでに至った。


はたしてそれは事実かどうかはいったん我々自身が宇宙人の視点から見なければならないということである。

宇宙から地球を見たら、

地球は青かった!

ということになるが、同じように宇宙人の見方で地球人の見方を見れば、やはり

地球人は青かった!

となるのではないか?


そんな枠を広げてみるという見方が現代数学の世界でいままさに行われているというのだ。


実に興味深い。

京大、さすがに岡潔の母校。

望月新一博士とその仲間たちのご幸運と成功を祈りたい。


頑張れ、日本!





いやはや、世も末ですナ。







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by kikidoblog2 | 2018-11-20 11:17 | 望月新一・心の「一票」

「新一の『心の一票』」:「認識状態歴の可能性の有限性 」→「確率論」か「推定論」か!?   

みなさん、こんにちは。

さて久しぶりに望月新一博士のブログ記事の話題で行こう。といっても相手は世紀の若き天才。私の出番も勝ち目もない。

最近はメモしている内に思いついた思いつきもメモするようにしているから、話があっちこっちに飛ぶがそれもブレインストーミングだと思っている。というより、最初からこのブログは自分のための個人メモだから、読者を念頭においていない。ご了承いただきたい。

新一の「心の一票」
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この中の最新記事がこれ。
第68回NHK紅白歌合戦の感想と、数学(あるいは一生の「認識状態歴」の可能性(!))の有限性 (18)

この中の最後の方に結構奇妙な話が書かれている。
まず、話はがらっと変わりますが、数学の研究は通常、研究論文という形で記録され、その研究論文は通常、英語で書かれたPDFファイルという形のデータとなって保存されます。そうすると、如何なる論文も、所詮は一つの複雑な文字列、あるいはコンピューター上の抽象的なデータとして考えると、「0」と「1」の列になります。そうすると、数学者のような立場で考えると、人類の寿命は有限ですし、例え(極論になりますが)生まれたときから打ち始めて、一切(食事等をせずに)150歳のときまで打ち続けたとしても、一人の人間が一生のうちに生成できるそういう

    データ(=「0」と「1」の列)の
         長さは有限

であるということになり、また、そのようなデータ(=「0」と「1」の列)には(数値的には膨大な数になるとしても)

     有限通りの可能性しかない

ということになります。このような議論のヴァリアントとして、PDFファイルの代わりに、画像ファイル(=JPGファイル)、音声ファイル(=MP3ファイル)、動画ファイル(=MP4ファイル)等を記録に用いられるデータ形式として想定した場合にも同様な考察は成り立ちます。また、一人の人間ではなく、地球上の人口には上限があるわけですから、「全ての人間」という形の考察もできますし、地球そのものの寿命も有限だという視点に立つと、「過去にも未来にも存在する全ての人間」という形の同様な考察もできます。

要約すると、

 (*)数学は上記のようなデータ(=PDF,
    JPG, MP3, MP4等)によって、如何
    なる情報の損失も生じることなく(=
    数学用語でいうと、

     数学 ↦ 上記のようなデータ

   という対応は単射になる)、完全に
    記録可能である

という仮定の下で考えると、最近流行りの「人工知能」の文脈でよく取り上げられる囲碁、将棋、チェス等のように、

    数学は完全に有限なゲームである

という結論が従ってしまいます。つまり、数値的にはとてつもなく膨大な量のデータの処理を必要とする計算になるとはいえ、

  「全ての数学」は、とある有限的な計算

に帰着可能であるということになります。

上記の議論のまた別のヴァリアントになりますが、

    (**)人間の脳に体験可能な
     「認識の状態」は有限通り
     しかない

という仮定の下で考えると、

   少なくとも「認識状態歴」のレベルで
   見ると、人類に経験可能な人生は高々
   有限通りしかない

という結論になってしまいます。

もちろん、上記のような議論では、「有限」と言っても、可能性は数値的にはとてつもなく膨大な数のもの(=数学用語でいうと「濃度の集合」)を扱っていることになります。しかし、数学者の視点に立つと、数(=「濃度」)の数値的な大小ではなく、

        有限か無限か?

という定性的な性質が一番気になる点になります。

一方、通常の人間的な感覚から言っても、

    「人類に経験可能な人生は高々
       有限通りしかない」、

つまり、言い換えれば、その有限通りしかない可能性を(例え、現在の計算機技術では不可能だとしても、いつか開発される未来の計算機技術によって)

  一度全部計算して列挙しておけば、人間
  は「わざわざ」様々な苦労に耐えながら
  生きていく意味がない

等というような結論は、普通の人間なら受け入れることに対して強い抵抗感があるはずです。

数学者も同様に、「全ての数学」は有限量しかなく、(例え、現在の計算機技術では不可能だとしても、いつか開発される未来の計算機技術によって)

    一度全部計算して列挙しておけば、
    数学者は「わざわざ」様々な苦労
    に耐えながら数学の研究を行なう
    ことに意味がない

といったような結論を受け入れることに対して並々ならぬ抵抗感を持っていると言い切ってよいかと思います。

そうすると、上記の諸々のヴァリアントの議論の出発点となった

    上記の(*)や(**)のような
    「有限性仮説」は果たして正しい
    のだろうか、

ということが気になります。

特に、例えば(*)のような「単射性仮説」、つまり、「数学は論文(=PDFファイル等のデータ)によって完全に記録可能である」という仮説は、(私の場合、まさに自分の研究(=IUTeich)関連の様々な経験を経て感じたことですが)

    どうも正しくないのではないか、 

つまり、「数学」を完全に記録し、伝達するには論文(=PDFファイル)だけでは不十分であり、どこかに

     「抜け落ちている情報」が
       あるのではないか、

と強く感じております。まさにそのことが以前から気になっているからこそ、

   その「抜け落ちている情報」が忠実に
   表現されている可能性があるように感
   じる別系統の媒体=例えば、
   ・2017-01-06付けの記事で取り
    上げた「サイマジョ」、
   ・2017-11の二つの記事で取り上げた
    「芸術」や「バベルの塔の説話」、
   ・今回の記事で取り上げた
    「インフルエンサー」

の検証に、数年前から特に強い関心を抱くようになりました。

ただし、このような検証=「一種の研究」はまだ初期の段階にあり、例えば、数学の場合、

   何故に同一のPDFファイル等のデータ
   を入手しているにも拘わらず、ある
   数学者にはそのデータに記録されて
   いることになっている数学が比較的
   容易に伝わっているのに、別の(同一
   の専門分野のはずの)数学者には同じ
   データに記録されているはずの数学
   がいつまで経っても伝わらないか

という、実務的なレベルの謎の解明には全く至っておりません。


私の受けた印象では、これは暗に
「P≠NP予想」問題
のことを言っているのではなかろうか?

ところで、この「P≠NP予想」というのは、ポアンカレ予想と同じように、ミレニアム問題の1つであり、これを解明すると1億円もらえる。

このポアンカレ予想は数年前にペレルマン博士により解決された。が、彼は金も賞も受け取らなかった。きのこ狩りで満足。というより、日本の多くの中高年ニートのように、老いた母親の生活の面倒を見ているのである。

ところで、一人っ子が多くなって一番こまることは、その両親の老後の面倒を見なければならず、それまで自分も核家族を作ろうと思い、首都圏で就職していたのに、地方に居残る老いた両親を見るために、自分の仕事を辞めて、形式上はニートのような形にならざるをえないということである。

日本のメディアは超絶反日だから、女子供の託児所だとか、幼稚園だとか、学校だとか、そういう女性中心主義だけで見ているが、世の中の一番の問題は、ちゃんとした仕事についていたのに、それを辞めてまでしなければ、両親の親の介護をできなくなるという方なのである。

在宅で仕事ができるようになれば、ちゃんとある程度の(多少は負担を減らすことになるが)仕事もしながら、親の介護も見ることができ、親がおなくなりになればそのまま仕事に戻れるというようなことができるはずのものなのである。

女性に産休(産後休暇)のようなものが有効だとすれば、男性に対して(もちろん女性に対しても)

介護休暇=介休

も必要なのである。

そうすれば、会社をやめなくてもすむはずだ。いったん会社を辞めれば、再就職は非常に難しくなるし、同じ会社も再雇用がやりにくくなるばかりである。

私は知り合いに数人そういう形で、親の介護のためにそれまでの会社をやめざるをえなかった中高年の男性を知っている。

いずれにせよ、親の介護は非常に大変なのだから、そういう時にこそそれなりの善処を元社員に対しては行なうべきだろうヨ。


さて、話が介護に飛んだが、望月新一先生の話。「P≠NP問題」の話。

これは、ウィキにはこうある。
P≠NP予想

P≠NP予想(P≠NPよそう、英: P is not NP)は、計算複雑性理論(計算量理論)におけるクラスPとクラスNPが等しくないという予想である。P対NP問題(PたいNPもんだい、英: P versus NP)と呼ばれることもある。
理論計算機科学と現代数学上の未解決問題の中でも最も重要な問題の一つであり、2000年にクレイ数学研究所のミレニアム懸賞問題の一つとして、この問題に対して100万ドルの懸賞金がかけられた。

(以下省略)


というわけで、ひょっとしたら、「ABC予想」が解決したわけだから、望月博士は今度はこの問題にチャレンジし始めたのだろうか?

そういう感じがしますナ。


さて、この問題もそうだが、ある空間があった時、その空間内をくまなく探索して解をみつける、というやり方と、なんとなく(うまく偶然を使って)解をみつけるという二つのやり方がある。

望月先生の話にあるように、例えば、自分の論文の語数と同じ情報をもつ空間、こういうものはとてつもなく広い。アルファベット26文字で考えたとしても、26を文字の数だけ掛けた可能性の空間が生まれる。

だから、望月先生の論文は、その中のたったの1つということになり、数学で言う、「ほとんど測度0」で存在することになる。なぜなら、1/その空間全体の大きさ、だからである。

これが普通の確率論の考え方である。


実はここに落とし穴がありそうだ。と、私はかなり前から思っている。


というのは、数学者にはいないが、物理学者には、特に理論物理学者の中には特殊な人間もいて、つまり、ちょっと風変わりな性向の考え方をするものがいて、なんでも疑う人間というものがいる。

そういう風変わりな人間の中で、最近一番気になるのは、

「確率は存在しない。確率という概念は現実世界では無意味だ。」

と主張しているものがいるのである。知っていたかい?


どういうことか?

というと、簡単なコインやサイコロの振りとか、だれもが可能性の空間を数えられるようなものでは意味をなすが、それが簡単に数えられないような場合、確率を考えることにメリットがないということである。

サイコロなら、1〜6の6個の可能性があり、100回サイコロをふれば、6を100回かける可能性の中の一つが生まれると考えることができる。コインの場合なら、裏表の2種類しかないから、2を100回かける可能性の中から1つの現象が起こると考えられる。

ここからガウス理論が生まれた。

しかし、文字だったり、図形だったり、可能性が有限個でも、何万の掛け算、何億の掛け算というようになると、まず有限回の操作で、その文字の羅列すら発見できない?

もし私が望月先生の論文を読まずに、それが望月先生の論文かどうかをどうやって判別したらいいのだろうか?

読めば、望月先生の論文かどうかは分かるが、字数だけから判別はできない。

こういうふうな問題で確率空間なんていうものは意味があるのかないのか?

つまり、この現実世界の中で、起こっていることと起こり得ないことをどうやって確率論的に区別できるのかどうか?

こういう問題がある。


例えば、ロト6やロト7。

1〜43までの数字の中から、6個ないし7個を選ぶ。この場合の確率空間は、43^6か43^7である。

だから、有限個であると分かる。

ロト抽選会社はあるやり方で毎回6個ないし7個の数字を選ぶ。

確率論的にそれを予想すれば、1/43^6か1/43^7ということになる。

この答えを見つけ出すために、その可能性の空間の中から無作為に探索すれば、たぶん一生(以上)かかる。

つまり、現実的には確率論的やり方は意味がない。だから、人間より何兆倍も早く探索できる機械=スーパーコンピュータを作らなければならない。それを作るのに50年かかったとしても、結果としてその方が早く探索できるわけである。

しかしながら、現実にはかならずどれかが選び出される。決して計算して選ばれたわけではない。

将棋でも同じである。人間の将棋指しは全部の可能性を探索して指すのではない。たぶんAIもそうである。

なぜなら、無駄な領域が多すぎるのである。無意味の領域を探索するにも同じだけ時間がかかるから、大きなロスになる。


つまり、確率的事象の探索にも、「偶然にかける」方がまだ可能性が高いのである。

だから、サイコロで自分で振って数字を選ぶとか、何かのひらめきで数字を選ぶとか、人間はそういうことをしているのである。

抽選者もその抽選機械の癖があり、あらゆる可能性の中から選ぶわけではない。

望月先生は数学者だから、望月先生と同じ文字数情報の論文だとしても、望月先生は絶対に物理の論文は書かない(はずである)。つまり、物理学者の論文が存在する可能性の領域とは別の領域だけを探索すべきなのである。

つまり、その著者の属性がすでにその可能性の領域を制限するのである。

つまり、これは確率論ではないのである。普通の確率論ではない。

すでに確率論の外の情報が使われているというわけだ。

望月先生の情報、数学者、プリンストン出、数論専門、ABC予想。。。。というような情報から、論文の文字情報空間の領域がかなり制限されることになる。

ロト6やロト7であれば、前々回のあたり数字、前回のあたり数字。こういうものとこれから出る数字にかなりの相関関係がある(らしい)。

つまり、勝手に出ていないのである。

なぜなら、機械にそれまでの過去の履歴が残るわけだ。どこにどの数字のボールが残っているか?こういうことが初期条件になり、次に出るあたり数字に影響しているわけである。もちろん、我々はそれは知らないだけで、それは確実に存在する。

望月先生の研究であれば、この10年どんな研究をしてたか?にこれからの研究は大きく依存してる。だから、気まぐれに情報空間を探索しても無駄になるだけだ。


実はこういう問題は、我々理論物理学者もここ数十年考えてきている問題である。

タンパク質の折れ畳問題やDNAの配列コードの問題である。

タンパク質は20種類のアミノ酸の羅列で構造が決まる。
DNAはA, G, C, Tの4種類の塩基配列で情報が決まる。

タンパク質は100〜数百の長さがあり、確率空間の大きさは、20を100〜数百回掛けた大きさになる。実際上は無限である。その中の特定の構造が現実のタンパク質を決めている。

DNAも同様である。4を何億回もかける可能性の大きさをもつ。

はたして人間の人間たるゆえんを決めるDNAはどういう配列をしているのか?

これを探すのに、わざわざ4^100000000の大きさの確率空間を考えることに意味があるのかないのか?

もちろん、意味はない。

おそらく私の知る限りでは、唯一近代的確率論の創始者だったノーバート・ウィーナーだけが、こういう奇妙な問題をまともに考えていたようなふしがある。

現実は過去に起こったことと未来予測と両方の相関で起こる。過去と未来の重なりが現実なのである。

おそらくこれに気づいたのは、物理学者では、アーサー・エディントン卿が最初。数学者では、ウィーナー理論を拡張したベルンシュタインが最初。現存では、保江邦夫博士とそのお弟子のザンブリニだけ。

「過去のすべてが今を決める。」

のであって、偶然が決めるのではない。という考え方は、アメリカのTruesdellやドイツのNollが最初だろうか。有理連続体力学の考え方である。が、これはそれほど普及していない。

つまり、現在の可能性の空間から未来が決まるという考え方が確率論だとすれば、いやそういう確率は考えても現実には起こらないのがほとんどだから意味がない。むしろ、これまでの過去情報に依存して未来が決まっていると考えたほうが良いのだという予測の仕方、「推定論」の方が現実的だ、というような考え方である。

つまり、「確率論」か?「推定論」か?

我が国のウィーナーの弟子は、北川敏男博士だった。確率推定論の創始者である。九州大学の生みの親。


いやはや、相変わらず望月先生は難しい問題にとりつかれるようですナ。

私には答えようがない。



いやはや、世も末ですナ。


おまけ:
ところで、望月新一博士の研究テーマの「Inter Universial Teichmuller space」(IU Teich)というのがあるが、IUの部分はよくわからないが、「タイヒミュラー空間」というのは、私もその昔いまだだれも引用しない論文の中で論じたことがある。

まあ、非常に簡単に言えば、有限個の穴の空いているドーナッツのような空間の表面を格子状の模様をつけて、その模様の織りなす世界の模様の付け替え、変換のようなものが作る空間のこと、とでも言っておこう。以下のものである。ご参考にどうぞ。ただしかなり長い。

Kazumoto Iguchi, "Universal Algebraic Varieties and Ideals: Field Theory on Algebraic Varieties", Int. J. Mod. Phys. B11, 2533-2592 (1997)








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by kikidoblog2 | 2018-01-25 09:29 | 望月新一・心の「一票」

「異世界から来た」論文を巡って:望月新一による「ABC予想」の証明と、数学界の戦い2   

(つづき)

異世界から来た論文をめぐって
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困惑という希望

望月教授のフロベニオイドという概念により説明されたABC予想は、驚くべきと同時に好奇心をかき立てられる発明だった。だが、それ自体によって最終的な証明がどうなるのかまで説明されているわけではない。

しかしカンファレンスに集まった数学者たちは、このケドラヤによるフロベニオイド概念の講演により、望月の手法がスピロ予想の定式化にどのようにつながるかについて、初めてその真意を理解した。ただ次のステップこそが重要である。この証明を説明するために、フロベニオイドによる転換がいかに「新しく、かつ有効な手法」なのかが示されなければならない。

論文について講義を行う望月の高弟の1人、京都大学数理解析研究所講師・山下剛。
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この手法は望月教授が発表した先の「4つの論文」に記されていて、それがカンファレンスのラスト2日間の議題となった。この論文の説明を担当したのは、パデュー大学のチャン・パン・モクと、京都大学数理解析研究所の星裕一郎と山下剛だ。3人は、IUT理論の理解に集中的に取り組む数少ない数学者である。しかしだれも、彼らの話にはついていくことができなかったという。

テキサス大学オースティン校の数論学者フェリペ・ ヴォロックは、同カンファレンスに出席し、5日間にわたる様子をGoogle+に投稿している。彼はコンラッドと同様、ブレイクスルーを期待して木曜の講話を聴講したがそうはならなかった。4日目の最後の方に、彼はこう投稿している。「午後の休憩時、参加者すべてが戸惑っていました。わたしは参加者たちとたくさん質問を交わしましたが、誰も手がかりを掴めていませんでした」。専門用語の嵐だったと、コンラッドはその心情を語った。

「そうなってしまったのは、その考え方自体に困惑したからではありません。講演という短い時間に提供された情報量があまりに多過ぎたということです。この研究に関する背景知識をもたない参加者たちとも話をしましたが、みな完全に途方に暮れていましたね」

フロベニオイドがIUT理論でいかに用いられるかを説明する最後の講演が失敗に終わったことは、予測できたと考える参加者は多い。

代数方程式について参加者と議論を交わす山下と、望月の研究室から参加したもう1人の京都大学数理解析研究所講師・星裕一郎。
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「最後まで理解できるという僅かな望みもあったとは思います。ただ、あの部分は原論がより難解になっています。だから、わたしの後に担当した発表者に責任がある訳ではないのです」とケドラヤは語った。
最後の講演が失敗に終わった背景の一部には「文化の違い」もあった、とキムは考えている。説明を担当した山下と星は、2人とも日本人だ。「日本では、数学者がプレゼンテーションを行う場合、用語の定義を絶えず続ける傾向がある。文化的違いが現れたのです」とキムは言う。「忍耐力と集中力が必要とされる、内容が濃く詰まったスライドが、日本では受け入れられるのです。一方、アメリカの場合は弁証的で双方向なスタイルが好まれます」

このカンファレンスを通して、一部の人が実際に期待していたような明白な結果が得られなかった一方で、理解への一歩という点では、前進があった。ケドラヤはカンファレンスの後により多くの知識をもつ人と連携する意欲がわき、今年7月京都大学で行われる次のカンファレンスに参加する予定だという。
「この僅かな前進でも悲観してはいないんです」とケドラヤは言う。「もっと期待はしていましたが、少なくとももう一度カンファレンスを開催し、さらに先へ進むことができるかを確認する価値があると思っています」

一方で、自身の研究について望月教授に詳しく説明する責任があると考える人もいる。ファルティングスはEメールで「個人的には、望月自身がみんなが理解できる論文を書かなければ、解決しないという印象を受けました」と書いている。

キムはその必要があるとは考えていない。カンファレンスが終わりオックスフォードを離れた後、参加者が抱いた“困惑”について彼はじっくり考えた。彼によると、それはよい困惑であり何かを学んでいる最中に訪れるものだ。

「このカンファレンスに先立ち、ほとんどの参加者が論文に書かれた望月教授の試みに関して予備知識が足りなかったようです」とキムは言う。「先週のカンファレンスではみな戸惑っていましたが、望月教授がやろうとしていることの概要はつかめたと思います。どうしたらそれを完全に理解ができるのでしょうか? それはあいまいな質問かもしれません。ただ疑問は増えましたが、1つひとつがより洗練されたことは疑いようがないのです」

【2016年7月18〜27日にわたって、京都大学数理解析研究所で、IUT理論に関する国際共同研究「IUTサミット」が行われる。望月、山下、星を含む17名が講演を行う予定。詳細はこちらから。】


本文は結構長いが、私が特に興味を持ったのは、望月新一博士の指導教官であった。

エド・ウィッテン
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ではなく、モーデル予想(今はファルティングスの定理と呼ばれる)を解いた
ゲルト・ファルティングス博士
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だったことである。

また、最後のセクション「困惑という希望」の中に、望月先生のブログの中に出てくる「複雑度の爆発」という話と可朝寝ることがあるから面白い。

この手法は望月教授が発表した先の「4つの論文」に記されていて、それがカンファレンスのラスト2日間の議題となった。この論文の説明を担当したのは、パデュー大学のチャン・パン・モクと、京都大学数理解析研究所の星裕一郎と山下剛だ。3人は、IUT理論の理解に集中的に取り組む数少ない数学者である。しかしだれも、彼らの話にはついていくことができなかったという。

テキサス大学オースティン校の数論学者フェリペ・ ヴォロックは、同カンファレンスに出席し、5日間にわたる様子をGoogle+に投稿している。彼はコンラッドと同様、ブレイクスルーを期待して木曜の講話を聴講したがそうはならなかった。4日目の最後の方に、彼はこう投稿している。「午後の休憩時、参加者すべてが戸惑っていました。わたしは参加者たちとたくさん質問を交わしましたが、誰も手がかりを掴めていませんでした」。専門用語の嵐だったと、コンラッドはその心情を語った。

「そうなってしまったのは、その考え方自体に困惑したからではありません。講演という短い時間に提供された情報量があまりに多過ぎたということです。この研究に関する背景知識をもたない参加者たちとも話をしましたが、みな完全に途方に暮れていましたね

「最後まで理解できるという僅かな望みもあったとは思います。ただ、あの部分は原論がより難解になっています。だから、わたしの後に担当した発表者に責任がある訳ではないのです」とケドラヤは語った。

最後の講演が失敗に終わった背景の一部には「文化の違い」もあった、とキムは考えている。説明を担当した山下と星は、2人とも日本人だ。「日本では、数学者がプレゼンテーションを行う場合、用語の定義を絶えず続ける傾向がある。文化的違いが現れたのです」とキムは言う。「忍耐力と集中力が必要とされる、内容が濃く詰まったスライドが、日本では受け入れられるのです。一方、アメリカの場合は弁証的で双方向なスタイルが好まれます

一方で、自身の研究について望月教授に詳しく説明する責任があると考える人もいる。ファルティングスはEメールで「個人的には、望月自身がみんなが理解できる論文を書かなければ、解決しないという印象を受けました」と書いている。

「このカンファレンスに先立ち、ほとんどの参加者が論文に書かれた望月教授の試みに関して予備知識が足りなかったようです」とキムは言う。「先週のカンファレンスではみな戸惑っていましたが、望月教授がやろうとしていることの概要はつかめたと思います。どうしたらそれを完全に理解ができるのでしょうか? それはあいまいな質問かもしれません。ただ疑問は増えましたが、1つひとつがより洗練されたことは疑いようがないのです


まさに「複雑度の爆発」のせいで、いかに現代数学者が「お前はもう死んでいる」状態に晒されたかが分かるだろう。

まあ、いつもそうで、本物の新理論が現れたときはだいたいこんな感じになる。

カルノーの熱力学理論、
ガロアの理論、
リーマンの幾何学理論、
アインシュタインの相対論、
ハイゼンベルグの行列力学、などなど。

いつも新概念の目白押しで、旧世代はついていけなくなった。

今回もまったくそれと似た現象が起きているようである。

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新しい科学的真理は、反対者たちを確信させることや真理の光を垣間見させることによって勝利するのではなく、むしろ反対者たちが最終的に死に絶え、新しい真理に親しんだ新世代が育つことによって勝利するのである。ーマックス・プランク

まさにプランクの言葉通りの展開になるものなのである。

それから1年の月日が流れ、ようやく皆さんが納得したということなのだろうか?


科学者ほど保守的である。というのは、物理だけでなく数学でもどこでもそうなんですナ。



いやはや、世も末ですナ。





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by kikidoblog2 | 2017-12-27 11:29 | 望月新一・心の「一票」

「異世界から来た」論文を巡って:望月新一による「ABC予想」の証明と、数学界の戦い1   

みなさん、こんにちは。

いよいよ今年も終わりに近づいた。

ここ阿南では冬至も過ぎたせいか、徐々に夜明けも早くなり、旭が登るのも早くなってきたようだ。

年の移り変わりは本当に早い。

さて、そんな年末にメモし始めた「望月新一先生のブログ」の話は結構人気を得たようだ。
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私的ブログ
新一の「心の一票」
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前にもメモしたが、伝統的に我が国では人しれず未踏の地に挑戦するタイプ、あるいは、非常に難しいことに挑戦する人が尊ばれる傾向がある。

だから、自分では理解できなくても数学者の研究とかその精神が好きだという人は多い。むろん、私もその1人である。

そんなわけで、数学界の超難問といわれる「ABC予想」を“解いた”というスーパーレジェンド、それも我が日本人がやり遂げた、という(すでに)伝説はとてつもなく興味深いものと映るのである。

しかもそれをやり遂げたという人が、かのノーバート・ウィーナーとか、フォン・ノイマンのような早熟の天才であり、ローティーンで全米一のエクスター高校出身で、それを2年で卒業し、これまたアインシュタインのいた全米一のプリンストン大に入学した人物であったとか、こういう数々の伝説の上に成り立つ話だから、なお一層我々凡人の関心を引くのである。

そしてその望月新一博士は、かのポアンカレ予想を意外な方法で解いたロシア人の
グレゴリー・ペレルマン
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とも相通じる感性の持ち主である。

ペレルマンは米クレイ社の出すミレニアム賞である、一億円の賞金付きのクレイ賞を無視して、ロシアできのこ狩りをしていた。母親の年金で生活。我が国にたくさんいる、いわゆる「ニート族」と同じような生活で満足しているのである。

ペレルマンはプリンストン大から幾多の有名大学からのオファーも断った。というより、ナシのつぶて。

そんなことはどうでも良いのである。

一説では、ペレルマンは欧米には幻滅以外の何者も感じなかったらしい。

この点では、望月博士の研究分野の創始者であった
グロタンディーク
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もまた、アルプスの山小屋で欧米の悪魔と戦っていたという話だから、なんとなく似ている。

フランス人のグロタンディークもフランスのCNRS(日本の理化学研究所やドイツのマックスプランク研究所などのフランス版)の運営方針(軍産複合体形式)に激しく反対し、10000ページを超える数学論文を残し、アルプスの隠遁生活に入ったのだった。

さて、そんな望月先生のことは、すでにここでも幾つかメモしたが、
望月新一・心の「一票」

今回は、そんな望月新一博士の「ABC予想の証明論文」がどのような顛末となったか?あるいはどのような感じの扱いを受けているか?という、かなり生のリアルタイムの雰囲気を醸し出しているサイトを見つけたので、それをメモしておこう。以下のものである。

異世界から来た論文をめぐって
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2012年、数学界に激震が走った。
30年近くだれも解けなかった「ABC予想」を
京都大学教授の望月新一が証明したというのだ。
ただ、その証拠である論文は「異世界からきた」と思われるほど難解で、
誰にも理解できなかった…。それから、3年の時を経て、
数学界最大の謎に立ち向かうべくイギリスでカンファレンスが昨年開かれた。
そこで一体何が起きたのか。
2016年7月下旬から、再度京都で開かれるカンファレンスに備え、レポートを緊急掲載。
[15年12月21日のQuanta Magazine掲載の記事を翻訳・転載]


突如現われた謎

2015年12月初旬、3年間にわたって注目を集めていた「ミステリー」の新たな進展を目当てに、オックスフォード大学に数学界の目が向けられた。

京都大学の著名な数学者・望月新一教授の研究に関するカンファレンスが行われたのだ。彼は2012年8月に難解かつ重要な4本の論文を発表し、それを「宇宙際タイヒミューラー理論(IUT理論)」 と称した。それらの論文には、整数論において未だ解かれていない問題の1つである「ABC予想の証明」も含まれていた。

日本の数学者望月新一が、素数間の和や積に関する問題、ABC予想を証明した。その証明には500ページも必要とした。この日本人数学者の業績は、ABC予想を証明するだけでなく、数学の新しい部門の発展に道を開くかもしれないということだ。「もし実証されれば、望月教授の技術はほかの問題の解決の鍵となりうる」という。

これらの論文において望月教授の主張する証明は、数学界に対する前例のない独特な挑戦であった。彼は20年近くの歳月をかけ単独で研究を行い、このIUT理論を構築した。実績と緻密さで評価を得ている数学者である彼の主張の影響は大きかった。だが、彼が発表した4本の論文はほぼ理解不能な上に、500ページを超える論文は全く新しい形式で書かれており、多くの新しい用語や定義がなされていたのだ。

より問題が深刻化したのは、望月教授が日本国外での講演依頼をすべて拒絶したためである。論文を読み解こうとした数学者の大半がこの新たな理論を理解できず、あきらめてしまうことになった。

それから3年もの間、この新しい理論はずっと放置されたままだったが、ついに15年12月、オックスフォード大学クレイ数学研究所に世界中から高名な数学者たちが集まった。望月教授の理論を理解するための、これまでで最大の「試み」が行われた。オックスフォード大の数学者であるキム・ミヒョンと、このカンファレンスの3人のオーガナイザーによれば、ついに“機が熟した”のだという。

「わたしや望月も含めみな、もう待ちきれないのです。数学界の誰かしらが行動を起こす責任があるように感じています」とキムは語った。「数学界にいる誰もが責任を感じていますし、わたしは彼の友人として、個人的にもその責任を感じています」

論文を読み解こうとした数学者の大半がこの新たな理論を理解できず、あきらめてしまうことになった

カンファレンスでは、3日間の予備講義と2日間のIUT理論に関する講演が行われた。そのなかには、ABC予想証明の根拠となっているといわれる4本目の論文に関する講義も含まれていた。望月教授の主張する理論の解明を期待して参加した者はほとんどおらず、望月教授の研究がどのようなものかをまず把握することを期待した人が大半だった。多くの参加者らは、望月教授の証明に今後の更なる研究対象となる新しいアイデアが含まれているかどうかを確かめたかったのである。

カンファレンスの最初の3日間は、その希望だけが高まっていった。

前人未踏の数学概念に挑め

ABC予想は、単純な等式「a + b = c」を満たす3つの自然数a, b, cに関して、3つの数の関係を説明するものである。3つの数字が互いに素である場合、a,b,cの互いに異なる素因数すべての積を1よりも大きい値(例えば、1.001)で乗じた結果は、有限個の3つの自然数の組み合わせを除いては、cより大きくならない。また、このような例外的な組み合わせの数は、素因数の積を乗ずるときの値に依存する。

自然数同士の「和」と「積」という一見無関係な値のあいだに「予想外の関係性」が見出されることをABC予想は仮定しているため、整数論を大きく進展させる可能性がある。数が3つの場合、aとbの素因数がcの素因数を制限するという明らかな理由はないのだ。

望月教授が論文を発表する12年まで、1985年に提起されたABC予想の証明はほとんどなされてこなかった。だが、このABC予想が数学における別の大きな問題とからみ合っていることを数学者たちは早くから理解していた。例えば、ABC予想が証明されることによって、整数論によって導かれた従来の結果は大幅に改善される。

1983年、現在ドイツのボンにあるマックス・プランク数学研究所の代表を務めるゲルト・ファルティングスが特定の法則をもつ代数方程式には有限個の有理解しかないことをしめす「モーデル予想」を証明し、さらにそれを発展させ、86年に数学のノーベル賞とも呼ばれる「フィールズ賞」を受賞した。これは「ファルティングスの定理」と呼ばれている。その数年後、ハーヴァード大学のノアン・エルキーズにより、ABC予想の証明によってがそれらの方程式が解けることが示された。

「ファルティングスの定理は素晴らしい定理ですが、有限解を発見する方法は提示されていないのです。そのため、ABC予想が正しいかたちで証明されれば、ファルティングスの定理の結果が拡充されることにもなるのです」とキムは言う。

23歳でプリンストン大学でPh.Dを取得、32歳で京都大学数理解析研究所教授に就任している望月新一。日本国外での講演をかたくなに拒んでおり、英国でのカンファレンス参加時も、テレビ会議経由で質問に答えた。

23歳でプリンストン大学でPh.Dを取得、32歳で京都大学数理解析研究所教授に就任している望月新一。日本国外での講演をかたくなに拒んでおり、英国でのカンファレンス参加時も、テレビ会議経由で質問に答えた。
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ABC予想は、1980年代にフランスの数学者リュシアン・スピロが提唱した「スピロ予想」と本質的にはほぼ同じものである。ABC予想は整数の関係に内在する数学的現象を説明し、スピロ予想はその楕円曲線内の関係を説明するものである。スピロ予想では、楕円曲線が特定の代数方程式がもつすべての解の集合に幾何学的体系を与えている。

整数を楕円曲線として捉えなおすことは、数学ではよく行われる。これにより予想の証明はより抽象的かつ複雑になるが、同時に数学者はその問題に関してより多くの手法を用いることができるようになる。

アンドリュー・ワイルズが1994年に「フェルマーの最終定理」を証明したとき、彼はまさにこの戦略を取った。「2より大きい整数(n)に関して等式『 a^n+b^n = c^n 』を成立させる正の整数の解はない」という問題をただシンプルな等式のまま扱うのではなく、二度の変換を通してより抽象的な定式化を行ったのだ。一度目は楕円曲線で、二度目が楕円曲線の「ガロア表現」と呼ばれる別の数学的手法である。こうして、彼はフェルマーの定理の証明に成功した。

望月教授も同様の戦略を採っている。ABC予想を直接証明するのではなく、スピロ予想の証明にまず着手した。その証明を行うためにまず、スピロ予想の関連のあるすべての情報を「フロベニオイド」と呼ばれる自らが生み出した新たなレヴェルの数学的概念へ変換した。

IUT理論に関する研究を始める前、望月教授はABC予想の証明を目指して模索しながら、新しい変換に取り組んでいた。彼はこの一連の概念を「楕円曲線のホッジ・アラケロフ理論」と呼んだ。残念ながら、これは突き詰めるとABC予想に適用できないことが判明したが、彼はその過程でこのフロベニオイドという概念を生み出した。

フロベニオイドがどんなものか理解するため、頂点がA, B, C, Dの順に並んだ正方形を考えてみよう(右下を頂点A、右上を頂点Bとする)。この正方形はその物理的な位置はそのままの状態で、さまざまに動かすことができる。例えば、反時計回りに90度回転したり(頂点が右下からD,A,B,Cとなる)。180度、270度または360度と回転させたり、ひっくり返して対角を入れ替えたりもできる。

望月教授によると、それは『数』という世界の背後にある、より根本的な事実を模索することなのです

こうして物理的な位置が保持される性質は、正方形の「対称性」と呼ばれる。すべての正方形は、このような対称性を8つ有している。さまざまな対称性をさらに追求しようとして、数学者は正方形すべての頂点にラベル(A, B, C, D)を与えそれらを集合として捉え、さらにその集合に代数構造を付加した。

この代数構造が付加された集合は「群」と呼ばれ、群が正方形という幾何学的制約から自由になると、新たな対称性が得られる。幾何学上の正方形においてはAが常にBの隣にあるため、幾何学的制約をもつ剛体運動によっては(A, C, B, D)という順番の頂点をもつ正方形はできない。だが、その群のなかのラべルだけで考えると全部で24通りのパターンが存在しうる。

このようにラべルの対称性がもつ代数的集合は、その幾何学的制約を取り払うことで3倍の情報をもつことになる。正方形より複雑な対象であれば、数学者はそれらの追加された対称性からオリジナルの図形を用いるだけでは到達できない知見を得ることができるのだ。

望月教授が生み出したフロベニオイドは、先ほどの「群」の概念ととても似ている。ただそれは正方形ではなく、特殊な楕円曲線から抽出された代数的集合である。上記の例と同様に、フロベニオイドは元の幾何学的性質より生じる対称性よりも多くの対称性を有する。望月教授は、楕円曲線に関するスピロ予想から得られるデータの多くをフロベニオイドに転換した。ワイルズがフェルマーの最終定理から楕円曲線へ、さらにガロア表現へ手法を展開したのとまったく同じように、望月教授はABC予想からスピロ予想へ、さらにフロベニオイドへ問題を展開させることで情報量を増やし、証明を試みたのである。

「望月教授によると、それは『数』という世界の背後にある、より根本的な事実を模索することなのです」とキムは言う。抽象的概念が追加されていくことで、これまで明らかでなかった関係性が表出しているというのだ。「抽象的なレヴェルにおいては、幾何学的なレヴェルよりも多くの事物の関係性が存在しているのです」

カンファレンス3日目の最後の発表と4日目の冒頭で、カリフォルニア大学サンディエゴ校の数論学者キラン・ケドラヤが望月教授がABC予想の証明にこのフロベニオイドをどのように用いようとしているかを説明した。彼のレクチャーにより、望月教授の手法において何が中核を成しているかが明らかにされ、それまでの時点で最も意義深い進展となった。望月教授の博士論文の指導教官であったファルティングスは、ケドラヤの講演が「インスパイアされるものだった」とメールに記している。

「ケドラヤの講演は、そのカンファレンスにおける重要なポイントでした」と出席したスタンフォード大学の数論学者のブライアン・コンラッドは語る。「その日たくさんの人に連絡しました。こんなテーマがケドラヤの講演で話されたから、明日とても興味深いことがわかるだろうってね」。ただ、結局は、そううまく事は運ばなかった。


(つづく)





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by kikidoblog2 | 2017-12-27 11:03 | 望月新一・心の「一票」