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「新一の『心の一票』」:乃木坂46や欅坂46の歌詞に数理科学の本質がある!?   

みなさん、こんにちは。

昨日から数学者の望月新一博士
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の私的ブログ
新一の「心の一票」
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を読んでいるのだが、実に興味深い。

私より年齢がずっと若いということもあるが、素直に現代的世界観を現代的数学者の観点から眺めているさまは、これまた岡潔世代とは違った意味で面白い。

今回はこれをメモしておこう。

第67回NHK紅白歌合戦 (3)

まず、2年程前の話になりますが、2014年の年末にDIGAの全録機をネットで購入して偶々12月31日に届いたのですが、箱から出して初期設定を済ませるのに少し手間取って、やっと使えるようになったときには午後10時を過ぎていたと思います。「動作確認」のつもりで付けてみたら、ちょっとびっくりするような映像が目に飛び込んできました。何と、あの(iPS細胞の)山中伸弥先生らしき人物がNHKの紅白歌合戦の観客席に座っているではありませんか!確認してみたら、山中先生はどうも実際にその年の「紅白」の審査員の一人になっていました。山中先生が度々ニュース番組等に出演されているのを知っていたのですが、まさか「紅白」の審査員のような活動までされているとは、私にとってはかなり衝撃でした。私も以前から何度かテレビ出演の依頼がありましたが、全部断っています。山中先生の「紅白」出演を批判するつもりは毛頭ございませんが、とにかく自分だったら嫌だな、とても考えられないなと思いました。

私の場合、プリンストン(の大学・大学院)にいた頃(=1985年~1992年)は、当然インターネットというものはまだ存在しませんでしたし、ケーブルテレビで見られる日本の番組は非常に限られていました。その数少ない番組の一つが「紅白」だったので(多分)毎年見ていたと思います。京大の助手になって京都に住むようになってからはあまりよく覚えていませんが、20代の半ば頃までは時々見ていたような気がしますが、その後は見ていなかったと思います。つまり、上述の「衝撃の動作確認」は私にとって恐らく約20年振りの「紅白」になったと思います。

いずれにしても、その「衝撃の動作確認」がきっかけで、それ以降(の3回)は「紅白」を見ています。(ただ、リアルタイムで見るのではなく、数時間遅れで、しかも(長いので)適当に先送りしたりしながら見ています。)つまり、純粋に「営業」的な視点に立つと、山中先生の審査員としての起用によって私という人間に対する「集客力」が働いてしまい、結果的には私も「紅白」を見るようになってしまったということになります。

前々回の「紅白」(=第65回)では多分一番印象に残った演出は、(そのときまで関心がなかった)椎名林檎さんと、(80年代初頭の「セーラー服と機関銃」の頃から好きだった)薬師丸ひろ子さんだったと思います。前回の「紅白」(=第66回)も椎名林檎さんの演出が一番印象的でした。

一方、今回(=第67回)は椎名林檎さんの演出には(なぜか、上手く説明できませんが)余り関心が持てませんでした。今回一番印象に残った演出を列挙すると次の通りになります:

 ・欅坂46の「サイレントマジョリティ」、
 ・乃木坂46の「サヨナラの意味」、
 ・ピコ太郎さんのゴジラ撃退とそれに対する
  (審査員の)新垣結衣さんの反応。

もう少し詳しく説明しますと、まず3番目の項目ですが、昨年秋のドラマ「逃げ恥」がきっかけで今回審査員を務めた新垣さんに注目していましたが、残念ながら全体的に(=星野源さんの「恋」の演出のときも含めて)新垣さんの存在感が非常に薄くてちょっとがっかりしました。ただ、ピコ太郎さんのゴジラ撃退の歌のときの新垣さんの、笑いを堪えているような呆れた表情が印象的でした。



そもそもピコ太郎さんのあの間抜けな演技が何でここまで世界的に人気を博すに至ったか、私としては以前から不思議でなりません。ピロ太郎さんのゴジラ撃退の演出の中に、ピコ太郎さんの不可思議な人気ぶりこそ日本の芸能界にとっては正に一種のゴジラのような存在だ、というようなメッセージが込められていたかもしれません。

ピコ太郎さんの例の間抜けな演技



を見てちょっと思ったのですが(といっても、念のため、 本気で思ったわけではありませんが!)、私の場合、自分の研究の解説の仕方が世界的にこんなに不評なのに、何でこのピコ太郎さんの間抜けな演技がこんなに世界的に受けるのだろう、私も、ピコ太郎さん風に

 「アイ・ハブ・ア・ログ」、
 「アイ・ハブ・ア・テータ」、
 「ログ」、「テータ」、
 「ログ・テータ」

なんて歌ったら世界的に受けるのでしょうか。

いずれにしてもこの3番目のピコ太郎さんの場合は、どちらかというと、「逆説的」な意味で印象的でしたが、2番目の乃木坂46と1番目の欅坂46の方は、普通の肯定的な意味で印象的でした。乃木坂46も欅坂46も、名称は以前から認識していましたが、曲を聴くのも、演出を見るのも、センターの橋本奈々未さんや平手友梨奈さんの存在を知ったのも、今回の「紅白」が初めてでした。昔からあった「無邪気な少年」のような気持ちで楽しむことができただけでなく、若い頃の自分とはちょっと違う気持ちも芽生えているように感じました。それは一言ではちょっと言い表しにくいのですが、元気な若いメンバーたちの「キレキレ」の踊りが、一種の宗教的な儀式というか、「弾ける若き生命力の祭典」のようにも見えました。よく考えてみれば、「アイドル」の語源は正に「崇拝する対象」という宗教的なニュアンスがあるわけですが、今回の「紅白」のこれらの演出で私の目に眩しく映った「崇拝の対象」が、年齢の所為か、(「アイドル」の本来のニュアンスと思われる「異性としての魅力」から)「若き生命力」に移行しつつあるように感じました。
 
2番目の乃木坂46の「サヨナラの意味」については、ネット検索で見付けた動画の中で「紅白」の演出に一番近いのはこの動画



です。(ただし、「紅白」の演出になかった「ブランコ」という曲も後ろにくっついていますが。)一方、1番目の欅坂46の「サイレントマジョリティ」(以下では「サイマジョ」(='才姫'ならぬ'才魔女'?)と書くことにします)については、「紅白」に一番近いのはこの動画でしたけど、その他にもこのような拡大版



も見付かりました。

今回の「紅白」全体の中でも、私にとって圧倒的に一番印象的だったのは、この「サイマジョ」(=特に拡大版)の歌詞

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でした。「前置き」が少し長くなってしまいましたが、本当はこの歌詞こそが、今回の記事の執筆に踏み切った一番のきっかけでもあり、また記事の本題でもあります。

歌詞にそこまで感動した理由ですが、今でもまだ分析でき切れていないような気もしますが、大体次のような理由になります:

メッセージの方向性が昔とだいぶ違う:私はもちろん専門家ではありませんし、ちゃんとした系統的な調査をしたわけではありませんが、私の記憶では、本来アイドルが歌うような曲に込められたメッセージ(=若い世代に向けられたメッセージ)は、

 「社会の主流='群れ'について行け、ついて
  行けばこそ歌っているアイドルさんのよう
  な素敵な恋人が待っている


というような内容ではなかったのでしょうか。それに対して、「サイマジョ」の歌詞は正におよそ正反対のメッセージ、つまり、「群れについて行くな」 ― 歌詞のレベルでいうと、

 「この世界は群れていても始まらない」、
 「夢を見ることは時には孤独にもなるよ」、
 「誰もいない道を進むんだ」、
 「人の数だけ道はある」


― という内容になっていて初めて聞いたときは(よい意味で)衝撃でした。もちろん、「サイマジョ」の方が遥かに健全な内容になっていて、そういう意味では「サイマジョ」の対象世代の若い人たちは恵まれた時代に生まれたんだなと思いました。

メッセージの内容は本ブログの様々な指摘と重なる:先ほど引用した歌詞は(本ブログ)2017-01-02付けの記事の「隔絶した異世界=一種のガラパゴス」といったような理想、もっと言うと私がこれまで自分の研究、あるいは生き方そのものに込めた気持ちを奨励しているような内容とも言えますし、また

 「選べることが大事なんだ」、
 「人に任せるな」、
 「行動しなければNoと伝わらない」

といった歌詞は、(本ブログ)2017-01-04付けの記事の『私の「心の一票」』という項目で解説している考え方(=正に本ブログの名称の由来!)と見事に(!)重なります。

メッセージの内容は宇宙際タイヒミューラー理論の内容・'筋書'に見事に対応している:一般に、個人がどの程度

 「社会の主流=群れ」について行くべき

で、どの程度

      わが道を行くべきか、

つまり、この二種類の方針の「緊張関係」や「最適なバランス」というのはある意味、人類社会の「永遠の課題」とも言えますが、宇宙際タイヒミューラー理論(=「IUTeich」)の数学的内容の重要な部分に対応しているとも言えます。「群れについて行く」ことはIUTeichでは、

     「(数論的)正則構造

と呼ばれるものに対応していて、それぞれが「わが道を行く」という状況はIUTeichでは、

       「単解的構造

と呼ばれるものに対応しています。歌詞の

 「誰かの後について行けば傷つかない」、
 「その群れが総意だと、ひとまとめにされる」

という部分は、IUTeichの中で(数論的)正則構造が有効な(=「傷つかない」!)部分、つまり、「ホッジ劇場」と呼ばれる構造の内部に対応していて、この歌詞に合わせた、メンバー全員が腕を回転させる動きは、ホッジ劇場の内部において(=「群れ」!)が働くことによって成立する対称性に対応していると見ることができます。一方、

 「君は君らしく生きて行く自由があるんだ」、
 「大人たちに支配されるな」

という歌詞は、IUTeichの中で正則構造から決定的に離脱する部分、つまり、「Θリンク」と呼ばれる部分に対応していると見ることができます。ちょうどこの歌詞のところで、センターの平手友梨奈さんだけが拳を挙げる仕草をするわけですが、その拳を挙げる仕草の形状は(数学用語でいうと)「デルタ関数」(=一種の「デル杭」!)=「ガウス分布」によく似ていて、「ガウス分布」は正に「Θリンク」そのものといってもよいものです。また、

 「選べることが大事なんだ」、
 「人に任せるな」、
 「行動しなければNoと伝わらない」

という歌詞は、その正則構造から離脱する際、肝心な数学的構造は常識的なスキーム論(='人')任せにするのではなく、遠アーベル幾何やIUTeichで用いられるようなアルゴリズムとして明示的に記述するという'行動'を実行しないと、その肝心な数学的構造はΘリンクの向こう側には通用しない(='伝わらない')という状況に対応していると見ることができます。一方、歌詞に登場する「自由」や「夢」はIUTeichの最終的な帰結である不等式(=いわゆるABC予想やシュピロ予想の不等式)に対応していると見ることができますが、それを

 「あきらめてしまったら、
  僕らは何のために生まれたのか


という歌詞は、IUTeichを勉強する上において肝心なポイントである、

 「何でその'夢の不等式'が従うか分からなく
  なったときは、そもそも何のためにΘリンク
  を定義したのか、改めて思い出すべきで
  ある


という状況に見事に対応しているように思います。また

 「列を乱すなとルールを説くけど、
  その目は死んでいる

 「夢を見ることは時には孤独にもなるよ」、
 「誰もいない道を進むんだ」、

という歌詞は、

 「'夢の不等式'を導くには正則構造(='列')
  を('乱して')放棄し、通常のスキーム論的
  数論幾何の常識(='ルール')が通用しない
  単解的な道を進むしかない


というIUTeichの状況に(これまた見事に!)対応していると見ることができます。とにかく、歌詞が細部まで余りにも見事にIUTeichの理論の展開に対応していることに気付いたときはとても興奮・感動してしまい(かなり「特異性の高い」お正月休みの過ごし方だと思いますが)、その興奮・感動を読者の皆さんと分かち合いたくなりました!

最後に、ここまで来ると、改めて指摘するまでもないと思いますが、上記のような観察は、世界広しと言えども、私以外の人間が考え付くとはちょっと信じ難い、という状況を考慮すると、やはり(本ブログ)2016-12-18付けの記事の「特異性」の話にあったように本ブログの主の身元を隠す努力をすることには意味がないと思わざるを得ません。


御意!

こんな解説を匿名でお書きになられても、すぐに

「はは〜〜ん、この著者は望月新一博士だな」

とわかってしまうにちがいない。

この世界のどこに「宇宙際」とか、「IU Teich」とかの単語を用いることができる人がるというのか?

もし生きていればだが、せいぜい
グロタンディーク
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くらいのものだろう。が、すでにグロタンディークは何年か前にご逝去されてしまった。

ついでに最近私が勉強中の熱力学の話の中にもこういう「不等式」が現れる。

それは、

クラウジウスーデュエムの不等式(Clausius-Duhem's inequality)

というものである。

この不等式を定式化したのもまた、数学者だった。

古くはコーシーで、20世紀にはドイツ人のColemanとNollとアメリカ人のTruesdellという数学者だった。

これがエントロピー増大の法則の現代的な拡張であり、今では工学系の熱力学では必須事項になっているが、当の物理学にはいまだ常識になっていないという、どことなく望月新一博士の研究分野と似た状況に陥っている。

簡単な熱力学は、2世紀も前にカルノーによって作られた気体の熱力学エンジン理論をいまも教科書に使っている。つまり、いまだに「準静的過程」を基本にとる熱力学を使って、リアルタイムに変化する熱力学的現象に焼き直して(つまり射影して)使っているありさまである。

これが「正則構造」である。つまり、「準静的過程」が「正則構造」である。

しかし現実はどこにも正則な構造がない。

ゆえに、現実を理解するには、その正則構造をいったん崩して理解しないといけないわけだ。

というわけで、欅坂46の歌詞の構造は、私が研究中の非平衡非線形有記憶リアルタイムの熱力学理論、つまり「有理連続体熱力学」にも成り立ちそうに見える。

たぶんこんなふうになる。


「あきらめてしまったら、
  僕らは何のために生まれたのか」

という歌詞は、熱力学を勉強する上において肝心なポイントである、

何でその'夢の不等式'が従うか分からなく
  なったときは、そもそも何のためにエントロピー
  を定義したのか、改めて思い出すべきで
  ある



「列を乱すなとルールを説くけど、
  その目は死んでいる」
 「夢を見ることは時には孤独にもなるよ」、
 「誰もいない道を進むんだ」、

という歌詞は、

'夢の不等式'を導くには準静的(='列')
  を('乱して')放棄し、通常のカルノー的
  熱力学の常識(='ルール')が通用しない
  有理的な道を進むしかない



いやはや、乃木坂46とか欅坂46なんて単なる少女趣味のちょいワルオヤジ向けのアイドルで、俺は全く関心がなかったが、こうして望月先生の意見を見ていると、なんとなく実に深いいアイドルであるのかもなという気がしてしまった。

それにしても、こういう微妙なことに気がつく感性とか、そのいい意味での物事への半端ないこだわり、これまたかのグロタンディークに似ている。

グロタンディークの自伝も、まさにそういう話のオンパレードだった。


いやはや、世も末ですナ。






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# by kikidoblog2 | 2017-12-19 10:16 | 望月新一・心の「一票」

「新一の『心の一票』」:数学者望月新一先生のブログ発見!2   

(つづき)


次のこのエッセイも面白い。

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報道の質と「研究する姿勢」の意味

日本の報道機関や政府の情報収集能力について(日本国内の)評論家のインタビュー記事等で「欧米と比べて幼稚で稚拙」といったような厳しい意見を目にすることが多いですが、(本ブログ)2017-01-04付けの記事で言及した「ビットコイン」や「ニューヨークで育つ」のような事例について少し見方を変えれば、次のような捉え方もできるのではないでしょうか:(合計で)18年間も米国国内に在住し、かつ如何なる隠蔽工作も行なわずに普通の市民生活を送っていた人間についてすら

 ・「そもそも米国のどこに住んでいたか」、

あるいは

 ・「どのような分野で活躍するのに必要な
   専門知識や資格を持っているか」

といったような、

  極めて基本的な情報を収集する能力が
  如何に米国の報道機関や知識人に本質
  的に欠如しているか、

その報道機関の関係者や知識人が自ら進んで

  「動かぬ証拠」をネット上で量産する
       「精一杯の努力」

を行なっていたことになります。

そういう意味では、トランプ氏の当選の可能性に関する報道 ― これは「現実逃避部門」においては歴史に残る一種の「不朽の傑作」だと思いますが ― と構図がかなり似ているようにも感じます。

別の言い方をすると、如何なる隠蔽工作も行なわずに(合計で)18年間、米国国内で普通の市民生活を送っていた人間に関する上記のような情報すら収集する「難易度」が高過ぎるという実態があるのであれば、米国と敵対している様々な外国政府やテロ組織(=つまり、様々な機密情報についてプロが徹底して隠蔽工作を行なっているような組織)に関する正確な情報を本当に収集できているのだろうか、甚だ疑問に感じます。
 
米国のエリートたちが世界全体にどれだけ多大な影響を及ぼす力を持っているかということを考えると、上記のような「現実逃避癖」の事例は最早「幼稚、稚拙」を通り越して、人類にとって(冗談で済まされるレベルの事象ではなく)深刻な「安全保障上の脅威」であるようにも感じます。実際、(私は決して中東問題の専門家ではありませんが、様々な報道から受けている印象では)中東での米国の様々な軍事行動の際、何らかの「善意」と「誠意」をもって実行しているつもりの作戦でも、無数の事実誤認や誤解・曲解等によって誤爆等、テロの温床を更に大幅に「温める」ような方向性の行動が多発しているのではないでしょうか。

私個人の話に戻りますと、私の研究に対する欧米の多くの数学者の非建設的と言わざるを得ない反応も上の様々な非数学的な事例と、ある意味では同じ系統の問題のようにも感じます。この問題ついては、私の2014年12月の報告書、フェセンコ氏の解説論文の最後の節辺り、それから私の解説論文の最後の節辺り等で詳しく論じています。簡単に要約すると、上の非数学的な事例と私の研究関連の事例の一つの核心的な共通項として挙げられるのは次のような状況です:

 ネットの普及が大いに影響している面がある
 と思われるが、世界中の多くの人は世の中の
 全てのことについて「満額回答がワンクリッ
 クで瞬時に手に入る」ことを要求したくなる

     「ワンクリック症候群

 のような症状を発症していて、謙虚な姿勢で、
 虚心坦懐に、よく分からない事象について時間
 を掛けて粘り強く勉強し、研究することの価値
 や重要性を見失ってしまっている。

2014年12月の報告書でも指摘しているように、このように謙虚に基礎研究をする姿勢の社会的な意義や価値は一般社会においてのみならず、数学界の中でも忘れ去られ掛けているように感じます。

以上の話について次のような纏め方もできるのではないでしょうか:中東での惨事等を受けて、世界中のイスラム教徒に対してジハードを呼び掛ける声が上がったりしますが、それに対して私は

 世界中の真実を愛する人たちに対して、(時間
 を掛けて謙虚な姿勢で粘り強く行なう)研究を

呼び掛ける存在でありたい
と思います。別の言い方をすれば、長期にわたって謙虚な姿勢で様々な個人的犠牲を強いられながらも粘り強く続行する研究こそ、「真の聖戦」ではないでしょうか。


我が国のNHKなど有名報道機関を自称する、メディアは、この情報収集能力を失い、ファルスニュースを捏造している米国報道機関の

下請け

になっている。情報の垂れ流しである。

だから、トランプ政権の側近から

NHKはフェイクニュースの日本のCNNだ

といわれるわけである。

フェイクニュース「NHKも」名指し バノン米元首席戦略官、会見で批判「日本のCNNに違いない」
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私がかつて「AERA」に出た当時、まだできたばかりのインターネットの2chで相当に書き立てられたものだった。

まだ一般人はネットなどその存在すら知らず、携帯電話もない時代だったから、書いているのは大学人だった。それも若手。

それでも誹謗中傷はひどかった。東北大学の数学科の掲示板が一番ひどかったが、さすがに望月新一さんはアメリカ生活が永く、仕事と個人の区別が明確である。公私混同はしない。

あれから20年。

いまでは猫も杓子もだれでもスマホでインターネットに書き込める時代になった。

だれしも一度、自分に対する誹謗中傷のような書き込みを読むと、だいたいその連中の取材能力のレベルが分かる。

ましてや一流の報道メディアがこれではどうしようもないわけである。

我が国のマスメディアが天の声として神様のようにして聞いている欧米メディアがもはやメディアの役をしていないわけだ。

そういうことを望月新一博士は自分への取材に関係して実感したわけである。

最後の部分も心強い。

「中東での惨事等を受けて、世界中のイスラム教徒に対してジハードを呼び掛ける声が上がったりしますが、それに対して私は

 世界中の真実を愛する人たちに対して、(時間
 を掛けて謙虚な姿勢で粘り強く行なう)研究を

呼び掛ける存在でありたい
と思います。別の言い方をすれば、長期にわたって謙虚な姿勢で様々な個人的犠牲を強いられながらも粘り強く続行する研究こそ、「真の聖戦」ではないでしょうか。」

すばらしい。


グロタンディークもそうだったが、岡潔もそうだったが、この望月新一博士もそうで、彼ら数学者という人種は権威をなんとも思わない。権力にまっこうからその頭脳で対抗する、こういう人が少なからず出てくる。

すぐに金持ちや権力者に迎合する物理学者とは違う。

長くなったので、他の記事はまた別の機会ということにして、オレ個人はかの美女由美かおるさんと数学者の秋山仁博士と結婚したように、

ぜひ望月新一博士は、新垣結衣さんと結婚してほしい。


まあ、エルディッシュ数の大数学者ポール・エルデッシュは、「結婚したら数学者として終わりだ」といって、生涯独身を貫いた。

まあ、数学者ではないスピルバーグには2回結婚して7人もの子供がいるらしい。だから、ユダヤ人の罠というわけではないだろうが、優秀な数学者の遺伝子はなかなか遺伝しないのである。


これに対して、20世紀の科学技術を作った、かのノーバート・ウィーナーは、「数学者の遺伝」をこういった。

数学者の遺伝には奇妙な傾向がある。

優秀な数学者の娘に優秀な数学者が婿入りするのである。

つまり、
「数学者が実の息子に遺伝するというのではなく、優秀な娘の配偶者として、義理の息子を得るという形で、自分の数学的才能が遺伝する」
と考えたのである。


いやはや、世も末ですナ。






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# by kikidoblog2 | 2017-12-18 14:42 | 望月新一・心の「一票」

「新一の『心の一票』」:数学者望月新一先生のブログ発見!1   

みなさん、こんにちは。

さて、先日メモした
偉業:数学者望月新一博士のABC予想の証明ついに認知される!
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は結構読まれたようで、エキサイトのその日のトップとなってしまった。
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たぶん、有料にすれば、俺は左うちわになったかもナ。

まあ、カネのことなどどうでも良いが、

どうやら当の望月新一博士は、あまりに自分に対する無知偏見がネット上で渦巻いているので、大学関係のサイトは使用できないので、自分専用の発信ツールとして私的ブログを作ることを、今年お考えになられたようである。

私も今日発見したところだ。それが以下のものである。


新一の「心の一票」
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2017.01.04
本ブログの開設に当たっての抱負と名称の由来

少し遅いかもしれませんが、本ブログを開設するに当たっての「抱負」とブログの名称の由来について、ブログ開設のきっかけとなった幾つかの具体的な出来事を振り返りながら、解説してみたいと思います:

・加藤文元さんのツイッター:数ヶ月前にこのツイッターを偶々発見して、2005年~2011年春までの間、月に数回、数時間の数学の「セミナー」をした後、一緒に食事(=多くの場合、焼肉)に行くという形で加藤さんと頻繁に交流していた頃の気分を懐かしく思い出し、何らかの形でその頃の「気分」を再現できないか検討したところ、(ツイッター等のSNSだと文字数の制限があったりして自分のように長文を書きたがる体質の人間には向かないだろうと感じたため)ブログを開設するのが一番自分のイメージに合った形態の「個人的文化発信」の装置になるであろうとの結論に達しました。

・「仮想的な仲間」の創出:上の加藤さんのツイッターの話の延長線上にあるような指摘になりますが、そもそも歴史的には、文学、特に日記というものは

   「こういう話が気軽に出来て理解して
    もらえる仲間が欲しいけど、普通の
    物理的な意味では周りにはそういう
    人は見当たらない」

といったような状況に(作者が)遭遇したときに発生しがちなものであり、偶々今の時代だと、「ネット上のブログ」という「仮想的な仲間」を創るのに役立つ便利が技術があるだけで、「ブログ=日記を通して仮想的な仲間を創る」という行為自体は、上のような状況に置かれている人間にとってはごく自然な流れであるようにも思います。昔テレビのドキュメンタリか何かの番組で知った話で、うろ覚えなので詳しい内容については余り自信がありませんが、「サザエさん」の作者の長谷川町子さんも、実際に「サザエさん」の設定から想像されるような豊かな社会的状況の下で暮らしていたわけではなく、寧ろそのような状況を「仮想的に実現」するために「サザエさん」を創るに至ったそうです。後、この文脈においてもう一つ頭に浮かぶ(少なくとも私にとっては)重要な「文学の例」は、2005年頃に読んだ水村美苗さんの「私小説」です。12歳のときに米国に渡った著者の滞在20年目の米国での生活が詳しく書かれていて、すべてとは言えないまでも、(私としては想定外に)多くの点で私の経験と符合するものがあり、読んだ当時はとても感動しました。また同様な事例として、森永卓郎さんの(だいぶ前にどこかの雑誌か何かに載った)インタビュー記事で子供のときに米国で過ごした時期の体験談を読んで自分の経験と符合する部分があって感動した記憶があります。水村さんにしても森永さんにしても、そういう話を(私を含む)不特定多数の人間(=「仮想的な仲間」)に公開いただいたことで大変お世話になったように感じました。

・自己紹介機能の「名刺代わり」:私の場合、日本語と英語のネットしか読めませんが、私=「望月新一」という人物を巡って私の想像を超えたような=目を覆いたくなるような=開いた口が塞がらないような、とんでもない出鱈目なネット上の書き込みが氾濫しています。この手の書き込みをしている人たちの中に恐らく悪意かそれに近い感情の持ち主もいるかと(書き込みの全体的な雰囲気から)推測しますが、一方で、そうではなく、単純に知らない、ネット上の適切な情報源が見付からないといったような原因によって発生する書き込みもあるかと思います。可笑しな書き込みの件数が余りにも多過ぎるので一々反論することに大量の時間とエネルギーを費やす気にはなれませんが、少なくともブログを開設することによって私の(数学者としての研究・教育活動とは直接関係ない)「個人的文化」に接する「窓口」をネット上で設けることに意味があると感じました。因みに、ネットに溢れている出鱈目情報の教科書的な、代表的な例として次のようなものが挙げられます:

 ・私は「ビットコイン」という文字列を、偶々
  報道で目にするまで知りませんでしたし、
  ニュース番組の数分程度の簡単な解説を見て
  も今でも何なのかよく分かりません。理解
  するための努力をするつもりもありません。
  にもかかわらず、その「ビットコイン」の
  「創設者」に、いつの間にかされてしまい、
  その関連で報道関係者から取材依頼が殺到した
  時期がありました。取り合うには及ばない話と
  判断し、その関連のメールは全部無視しました
  が。

 ・私はもう少しで48歳になりますが、今まで生き
  てきた48年のうち、約30年は日本で過ごし、
  約18年(=連続してではないが、合計で)は米
  国で過ごしています。生まれは東京で、(最も
  肝心なことですが!)物心がついたときはまだ
  東京にいましたが、子供の時から父の仕事(=
  新日鉄(=旧八幡製鉄)、後には、日新製鋼)
  の関係で日米間で頻繁に引越しをしながら育ち
  ました。大学(=アメリカのプリンストン大
  学)に入るまでは、平均で約1年半に一回程度
  引っ越すという、私にとってはかなり辛い育ち
  方でした。「故郷の風景」と言われれば、真っ
  先に頭に浮かぶ光景の一つはうず高く積まれた
  日通の段ボール箱でしょうか。(つまり、常に
  越してきたばかりか、次の引越しをするための
  準備をしていたということです。)最初にアメ
  リカに住んだときは結局8年間住みましたが、
  最初から8年間在住するつもりでアメリカに渡っ
  たのではなく、最初は寧ろ約半年の滞在の予定
  で、それがいつの間にか、(会社の方針等に
  よって)少しずつ1年に延び、2年に延び、最終
  的には偶々8年で終止符を打つという形になり
  ました。私はこれまで日本では、

          東京と京都、

  米国では

   マサチューセッツ州のベルモント・ケンブ
    リッジ・ボストン、
   テキサス州のヒューストン、
   ニュー・ハンプシャー州のエクセター、
   ニュー・ジャージー州のプリンストン

  でしか暮らしたことがありません。つまり、

    ニューヨーク(市・州)には(短期の
    滞在をしたことがあっても)在住した
    ことがありません!

  特に、ニューヨークの街も言葉(=「ニュー
  ヨーク訛り」)も全然知りません。にもかか
  わらず、「ニューヨークで育つ」などという
  不思議で頓珍漢な記述をネット上で時々目に
  します。例えるなら、関西弁も知らない、京都
  の大通りの名前も知らないという人間を「京都
  育ち」として紹介するようなものです。

 ・私は未婚ではありますが、いわゆる(「ゲイ」
  等)「性的少数者」ではありません。

・自分という人間の記録:上の「名刺代わり」の話と重なる部分がありますが、この年になると、後どの位生きられるか分かりませんし、死ぬ前に何らかの明示的な形で、自分という人間の「足跡」(=数学者としての研究・教育活動以外の側面)の記録を(無性に!)作りたくなりました。

・私の「心の一票」:「選挙」という仕組みは民主主義の基本ですが、現代社会は民主主義の仕組みが考案された時代と比べて余りにも激しい、桁違いの複雑度を擁してしまっているため、国民一人一人の運命にかかわる大きな決断は、多くの場合、通常の選挙で争われるような争点とは全く関係ありません。つまり、「選挙」という仕組みを考案した人たちの「心」に最も近い行為は、多くの場合、現代社会では、自分の人生とは直接的には余り関係がない、そもそも特に強い意見を持っているわけでもない選挙において投票することではなく、寧ろ

 自分にとって緊急性があったり、自分の人生に
 とって本当に「一大事」だったり、大変な熱意
 をもって何としても表明したくて仕方がない考
 え・意思を、様々な社会的な縛りやタブーに萎
 縮することなく堂々と表明したり、その考え・
 意思を実現するための具体的な行動をとる

ことであるように思います。もう少し具体的な話をしますと、私の場合、京都大学の教員になった20代半ば位のときから、ちゃんとした社会人になろうと思って、(必ず毎回というわけではありませんが、多くの選挙では)投票していますが、本当の意味での熱意をもって投票したことは一度もありません。アメリカに住んでいた頃、時々、大統領選で盛り上がっていたとき等、民主党と共和党とどちらを支持するか聞かれたりしましたが、(アメリカ人に対して直接表明する勇気は中々出ませんでしたが)究極的な「本音」は大体次のような内容のものでした:

 民主党でも共和党でも、結局同じアメリカ人、
 同じ英語的な世界の話ではないか。私はアメリ
 カには住みたくない、英語はもう聞きたくない。
 つまり、

  「日本」、「日本語」に投票したい。

でも、(当たり前ですが)そのような「明確な意思」を米国の民主党や共和党への支持によって表明することは明らかにも技術的に本質的に不可能です。具体的なレベルでいうと、博士課程を修了したら日本の大学に就職できるように様々な努力をすること以外に、上記の「本音」を実現する方法がなかったように思いますし、実際、そのような努力をすることによって目出度く(というか、運よく)その「本音の実現」に(京大の助手のポストという形で)漕ぎ着けることができました。一方、日本の選挙での争点と私の個人的な「本音・声」とのズレはもっと遥かに複雑な内容を含んでいます。数学者としての活動を通して自分の「本音」のある重要な部分については納得できる水準の「実現」が出来ていますが、以前からある程度感じていて、最近になって益々強く感じていることは、数学者としての活動だけでは実現が本質的に不可能な「本音」が多過ぎるということです。こちらの方の

     「本音=声=心の一票」

の表明は、まだ元気に活躍できるうちに、本ブログを通して何とか実現に漕ぎ着けたいと考えたことが、本ブログ開設の最も重要かつ「本命級」の動機でもあり、また本ブログの名称の由来でもあります。

・ドラマ「逃げ恥」:老若男女を問わず、意外と小さい子供まで多くの国民に感動を与えた昨年(=2016年)秋の人気ドラマ「逃げ恥」ですが、私は(感動した人間の一人として)個人的なレベルでもいろいろなことについて考えさせられ、また無数の新聞記事や一般人によるネットの書き込み、YouTubeの関連動画等を閲覧することによって接した多種多様な意見にも刺激を受け、自分なりの

  「逃げ恥論・ガッキー(新垣結衣)論」

を書きたくなったのも、本ブログ開設の動機の一つになりました。ただ、書きたいことが有り過ぎて、自分の考えをきちんと整理して記述するのに少し時間が掛かりそうなので、本ブログへの掲載はまだ暫く先になりそうです。


私の場合は、アメリカに行ったときは28歳後半で、もう日本人としては完成していて、これからなんとかアメリカに永住できればいいな、という感じで行ったが、終生のタイミングの悪さからポスドクゲットでつまづき(というより、東大生に先取りされてしまったのだが)、帰国し富士通に入った。

だから、帰国の理由は特に日本人であること、日本語に愛着があったというわけではなかった。単に日本人でアメリカに職が得られなかったから日本に戻ったにすぎない。

もっとも今もそういう意味では非職だから、似たようなものだが。

本来学者というのは経済的な意味では、どこにも所属しようがないものなのである。

別に自分の学問上の関心は文科省の思惑などまったく無関係だし、大学運営など邪道も邪道。科学にはどうでも良いからだ。

一方、保江邦夫博士の場合は、大学を定年退職するまで見事に勤務されたが、その在職中に一連の自分の科学教科書シリーズを書いたばかりに、末期の大腸がんになってしまった。

幸いそれが奇跡的に、というより、マリア様の奇跡により、完治した。

だからその後は、還元主義論的、物質主義的な現代物理学より、もっと心理的、心霊的、スピリチュアルな世界の探索に進んでいったわけである。

だから、物理の世界へ後戻りすることはないだろう。


方やこの望月新一博士の場合は、帰国理由が実に痛快だった。

「日本」、「日本語」に投票したい。


さて、この新一さんのブログは記事数は少ないが、やはり第一級の数学者だけあって他にも興味深い観点や論点のものがあるようだ。
富士山の初日の出

ちょっと話が変わりますが、一昨年(=2015年!)の10~11月、静岡の親戚を訪問した際に、静岡県の「望月」と長野県の「望月」の関係や違いがちょっとだけ話題になりました。私も、(ちょっと意外なことに)先方も、このようなテーマについては深い専門的な知識があるわけではありませんが、長野県は「望月町」という場所が(少なくとも昔は)ありましたし、長野県の方が古いという話をしました。一方、長野県での苗字別の人口分布をネットで調べると、「望月」は何と92位(!)であるのに対し、静岡県でも山梨県でも(静岡県の場合は、「鈴木」、「渡辺」、山梨県の場合は「渡辺」、「小林」に次いで)堂々の3位であるだけでなく、(私の親戚が代々暮らしている)静岡市では、(ダントツ!)1位なんですね。実際、現地へ行ってみると、初めての人は驚くと思いますが、すごい「望月王国」なんです。

何でこのような状況になったのか、あるいはこの状況にはどのような意味があるか、ということについて昔から(歴史的な専門知識が全くない)素人の立場から気になっています。とにかく専門家ではないので、自説を書くのも恐縮ですが、次のような「仮説」を立ててみたくなりました:

 日本には様々な「都」、つまり政治の「都」の
 東京、商売の「都」の大阪、文化・芸術・学問
 の「都」の京都等、がありますが、静岡市と
 いうべきなのか、富士山というべきなのか、は
 日本の

       「地形学的な都」

 であるという見方ができます。正確な地図やGPS
 等がなかった戦国時代の乱世の状況、つまり、
 戦乱によって自分の故郷が滅ぼされたり、いき
 なり遠いところに簡単に流されたりすることが多
 かった状況に置かれていると、(少なくとも本州
 の)どこにいても、「自分はあそこに見える、
 あの富士山辺りの出身の人間だ」と胸を張って
 言える身分というのは結構魅力だったのではない
 でしょうか。別の言い方をすると、静岡市に
 おける望月姓の「類を見ない一極集中」的な状況
 は、他の「都」のように人類社会の荒波に左右
 されることのない、つまり時の権力者ではなく、
 人類社会を超越した'自然界'が常に絶対的に保障
 してくれる

  究極的に中心的な、核心的なところ=富士山!

 にどんと構えていたいという強い欲求・志向から
 生まれた状況ではないでしょうか。

このような状況に対して批判的なネットの書き込みもあるようですが、私は昔からこの状況に対して(自分自身は静岡に在住したことがありませんが)何とも言えない「ロマン」を感じています。

後、もう一つ以前から強く感じていることを書きますと、自分の数学の研究(=遠アーベル幾何や宇宙際タイヒミューラー理論等)を巡る社会的な状況、つまり、国内外の多くの数学、あるいは数論幾何の研究者から見て、

   数名の協力者で固めて築き上げた
  「隔絶した異世界=一種のガラパゴス

を私が数十年掛けて創り上げたことも、上記の静岡県の「望月」を巡る状況を生じさせたのと、同系統の遺伝的傾向・志向の現れではないでしょうか。


私は山梨甲府出身なので、甲府に「望月」が多いことは知っていた。小学校時代の親友にも望月はいたし、だいたい各クラスに1人くらいは望月がいた。

どうやらこの望月は
「富士山の上に出る月を望む」
「新一の『心の一票』」:数学者望月新一先生のブログ発見!1_a0348309_1423641.jpg
でたと考えられるというのが、望月新一博士の意見である。

あるいは、きれいな月が望める場所という意味で出たのかもしれないが、静岡、山梨、長野だけにこの望月が一極集中しているらしい。実に興味深い。


(つづく)





「新一の『心の一票』」:数学者望月新一先生のブログ発見!1_e0171614_11282166.gif

# by kikidoblog2 | 2017-12-18 14:41 | 望月新一・心の「一票」